高等学校日本史B/立憲体制の確立
自由民権運動
[編集]征韓論にやぶれて政府を去っていた者のうち、板垣退助(いたがき たいすけ)・後藤象二郎・江藤新平は、1874年1月に民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつ の けんぱくしょ)を政府に提出した。
そして板垣退助は1874年4月には故郷の土佐に帰って片岡健吉(かたおか けんきち)とともに立志社(りっししゃ)を創設した。 そして翌1875年には、板垣のよびかけで各地の民権派士族が大阪にあつまり、民権派士族の全国組織である愛国社(あいこくしゃ)が結成された。
いっぽう、政府側の大久保利通は、板垣退助と、台湾出兵に反対して参議を辞職していた木戸孝允(きど たかよし)と大阪で会談し(大阪会議)、板垣・木戸の両名に参議に復帰するように大久保は頼み、また、復帰の条件として立憲制のための政治改革を約束した。
同1875年4月に 漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじ ~ みことのり)が出され、この結果、
- 左院・右院が廃止されて元老院が設置され、
- 最高裁判所として大審院(だいしんいん)が設置され、
- 地方官会議が設置された。
いっぽう、政府は同1875年、讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例を制定し、反政府的な言論を取り締まった。
士族反乱
[編集]征韓論争でやぶれた江藤新平は、故郷の佐賀に帰っていた。士族反乱は、西南戦争よりも「佐賀の乱」や「神風連の乱」(じんぷうれんのらん)が先。
1876年に熊本で「神風連の乱」が起きた。翌1877年に西南戦争が起きた。
経緯は以下のとおり。
1874年、江藤新平が 佐賀の乱(さがのらん) を起こした。 その後も、1876年に廃刀令が出され、それに不満をもつ士族の敬神党(神風連)が同1876年に熊本で反乱を起こした(神風連の乱)。
これに呼応して、福岡では秋月の乱(あきづきのらん)が起き、山口県では前原一誠(まえばら いっせい)らによる萩の乱(はぎのらん)が起きた。
このように、西日本で反乱があいついだ。
そして翌1877年、西郷隆盛が鹿児島の不平士族を中心に反乱を起こし、西南戦争に発展した。この西南戦争は今までに起きた士族反乱のなかで、最大の規模のものであった。
政府軍は約7ヵ月で西郷軍を鎮圧した。やぶれた西郷は自害した。
松方財政
[編集]西南戦争後、1876年ごろから、激しいインフレが起きた。
原因として考えられているのは、不換紙幣(ふかんしへい)の大量発行である。不換紙幣というのは、金や銀と交換しなくてよい紙幣のこと。
なぜ、そのような紙幣を大量発行したかというと、西南戦争の戦費や、明治維新の諸改革などで、出費が かさんだ からである。
ともかく、インフレが激しくなったので、政府は財政改革の必要にせまられた。
そして松方正義(まつかた まさよし)が大蔵卿(おおくらきょう)に就任し、増税および歳出削減を行った。
1882年には日本銀行が設立され、1885年には兌換銀行券(だかんぎんこうけん)を発行した。兌換銀行券とは、銀や金と交換できる紙幣のこと。
兌換紙幣の交換先の金属を、金(Au)を中心とした場合の制度を金本位制といい、銀(Ag)を中心とした場合の制度を銀本位制という。
当時の日本銀行券は、銀本位制である。
このようにしてインフレはおさまっていくが、今度は日本がデフレによる不況が起きた(松方デフレ)。
米、繭(まゆ)などの農産物価値が下落し、地租改正などの増税の負担も加わったので(しかも地租は定額金納であった)農民の生活は苦しくなり、土地を手放して小作人になる農民も急増した。
いっぽう、富める地主たちは、没落した農民が手放した土地を買ったりしたので、土地は地主に集中した。
土地を失った農民たちのなかには、都市に貧民として流入することもあった。
大隈重信の追放
[編集]じつは松方正義が大蔵卿になる前は、大隈重信が大蔵卿だった。
西南戦争の最中の1877年、立志社の片岡健吉らは政府の国会開設などをもとめる建白書を天皇に提出しようとしたが(立志社建白)、このときは政府によって拒否された。
1880年(明治13年)に、各地の自由民権運動の代表が大阪に集まり、国会期成同盟(こっかい きせい どうめい)をつくり、署名を集めて、政府に対して国会開設を要求した。いっぽう、大隈重信(おおくま しげのぶ)は、イギリスにならった憲法をつくるべきと主張し、ただちに国会を開こうとして、岩倉や伊藤らと対立した。
1881年に政府が北海道開拓使の施設を安く、商社に払い下げようとして問題になった(開拓使官有物払い下げ事件)。
このため、民間からの政府への批判が高まり、政府への国会開設の要求が、さらに高まった。政府は払い下げを中止した。 また、政府はこの世論に大隈重信が関係しているとして、大隈を罷免した。
また、政府は国会開設の勅諭(ちょくゆ)を出して、10年後の1890年に国会開設とすると約束した。(数え年での10年後なので、1881年の10年後が1890年になる。)
しかし、1881年のときには、まだ、国会をひらくために必要になる、憲法(けんぽう)などの法律がなかった。国会の決まり事をきめた法律すら、まだ出来てないので、まだ民撰議院をひらくことも出来ない。
国会の開設の時期や憲法の方針をめぐって、政府では意見がわかれた。岩倉は、ドイツにならった憲法を時間をかけて作ろうとした。
板垣退助は1881年にフランス流の急進的な政策を主張する自由党を結成した。いっぽう、政府から追放されていた大隈重信は1882年に、イギリス流の政策を主張する立憲改進党(りっけん かいしんとう)を結成した。
このような理由もあり、政府は、すぐには民撰議院を開かず、10年以内に国会(こっかい)を開くことを国民に約束した 国会設立の詔(こっかいせつりつ の みことのり) を1881年にだしました。実際に、10年後の1890年に国会が開かれます。
私議憲法草案
[編集]1881年以前からも、民間人による私擬憲法案(しぎけんぽうあん)は、いろいろな人物により、さまざまな草案が出されていた。
1881年、いよいよ将来的に憲法制定が本格化しそうだと話題になると、1881年に福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)が「私擬憲法案」を出したのがきっかけに、他社や民間人も憲法案を出した。
植木枝盛(うえき えもり)による憲法草案は『東洋大日本国国憲按』(とうよう だいにっぽんこく こっけんあん)は、それより後。
植木の草案は有名だが、べつに、こいつが最初ではない。単に、植木の草案の『東洋大日本国国憲按』は内容が急進的だったので、有名なだけ。(「国憲按」は「こっけんあん」と読む。)
- (※ 参考: )なお、植木枝盛は、大日本帝国憲法が公布された際、その大日本帝国憲法を賛美している[1]。植木以外の民権運動家も、おおむね、大日本帝国憲法の内容には賛同的だったようだ。(つまり、べつに民権運動家が大日本帝国憲法の内容に反対だったわけではない。2014年の東京大学がそういう入試問題を出している。)
- ※ 東京大学がこういう入試問題を出すのは、世間には、「私擬憲法が民主的」という知識から、誤った論理展開によって「大日本帝国憲法は非・民主的」だという勘違いをする人が(世間に)多いので、そういう勘違いを正す側面もあって、こういう入試問題を出していると思われる[2]。行間を読むなら、つまり、「大日本帝国憲法は民主的な憲法だったのに、なぜ第二次世界大戦のような無謀な軍国主義の戦争に日本は突き進んでしまったんだろうか?」という事まで考えられる思考力が、受験生には求められているという事(実際の入試制度がそれに対応してるかどうかは、ともかく)。
千葉卓三郎(ちば たくさぶろう)が書いたと思われる「五日市憲法」(いつかいち けんぽう)という私擬憲法案もある。「五日市憲法」は人権規定が詳細という特徴がある(※ そのため、歴史学的には、のちの日本国憲法との関係などの観点でも「五日市憲法」が注目されている)。
このほか、自由党系(つまり板垣退助系)の立志社の『日本憲法見込案』(~みこみあん)という私擬憲法案もある。
政争のあれこれ
[編集]1882年に政府は、自由党の板垣退助にも欧米視察をさせようとして、政府は板垣の洋行を援助した。
だが、それを立憲改心党が問題視した。
改進党の批判によると、板垣は三井財閥から洋行を支援してもらっていたが、それは実は政府がひそかに三井を支援していたというのである。
いっぽう、批判された側の自由党も、改進党と三菱財閥との関係をあばいた。
反乱事件
[編集]いっぽう、増税などによる不満により、1882年には、福島で県令の三島通庸(みちつね)による道路建設工事に対する運動が起き、三島に反対をした河野広中ら自由党員が反乱をくわだてたとして逮捕された(福島事件)。ついで関東でも反乱が起きた。
1884年には、関東の秩父で、約3000人の農民による武装蜂起が起き、高利貸・警察・郡役所などを襲撃したので、政府は鎮圧のために軍隊を出動する結果になった(秩父事件)。そして秩父での農民反乱は鎮圧された。
こうした事件への不安から、自由党は支持を失っていき、やがて自由党は解散した。
いっぽう、立憲改進党では大隈重信が離党した。
このように、民権運動家の活動は停滞していった。
なお、1884年に朝鮮で、日本の明治維新にみならった改革を強行的に進めようとする金玉均ら(※ 範囲外: 「開化党」・「独立党などという」)一部の青年官僚によるクーデタ未遂事件(※ 範囲外: 『甲申政変』(こうしんせいへん)という)が起きたが、清国がクーデター鎮圧の援軍を挑戦に送ったのでクーデターは失敗したので(※ 範囲外: )金玉均は日本に亡命し、その金玉均を福沢諭吉らが支援した(※ 1882年『時事新報』、福沢諭吉『金玉均の全貌』[3])。板垣も金玉均を支援した。(なお、クーデターの直前、清国はベトナム領有をめぐってフランスと争った清仏戦争(初期)を1883年に終わらせており、清国はフランスに敗北している。)
甲申政変(こうしんせいへん)をうけてか、1885年、日本にいる自由党の大井憲太郎(おおい けんたろう)が朝鮮でクーデタ(保守政権を倒す)を起こそうとして朝鮮に渡ろうとしたが、未然に日本の大坂で検挙された(「大阪事件」)。
民権運動の再結集
[編集]民権運動はいったん停滞したが、しかし、国会開設が近づくにつれ民権運動はもりあがり、1886年に民権派は再結集をしようとして、後藤象二郎が中心人物になり、大同団結(だいどうだんけつ)をとなえた。
翌1887年、井上馨(いのうえ かおる)外相の条約改正交渉が失敗すると、民権派は、地租軽減・ 言論と集会の自由 ・ 外交の挽回(対等条約の締結) をとなえる三大事件建白運動を展開した。
すると、政府は保安条例を発し、民権派を都内から追放した(正確には皇居から約12km(三里)よりも外に追放)。追放された民権運動家のなかには中江兆民(なかえ ちょうみん)や星享(ほし とおる)などが含まれ、合計で約570名が都内から追放された。
立憲制の準備
[編集]政府は1882年に軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)を出し、軍人勅諭では軍人は天皇に忠誠をちかうべきあるとし、また、政治に関与すべきではないとされた。
憲法の制定へ
[編集]伊藤の留学
[編集]明治政府は、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らを、ヨーロッパの憲法を調べさせるためヨーロッパに送った。そして伊藤は、イギリスの法学者スペンサーやドイツの法学者グナイストから学び、またオーストリアの法学者シュタインから憲法学のほか軍事学・教育学・統計学・衛生学などなど様々な学問を学んだ。
- ※ かつて昭和のころ、「伊藤博文はドイツ人の法学者を手本にした」という学説が主流だったが、どうも、その学説は、やや事実と違うらしい。最新の歴史研究によると、伊藤が学んだスペンサー(イギリスの法学者)が、伊藤に「日本が憲法をつくるなら、日本の伝統にもとづいたものにするのがよい」という内容のアドバイスをしており、べつに伊藤はドイツ人法学者だけを参考にしたのではない事が、現代では分かってる。(※ 参考文献: 山川出版社『大学の日本史 教養から考える日本史へ 4近代』 、2016年第1版)
スペンサー(イギリスの法学者のひとり)などは、もし日本が憲法をつくるなら、欧米の憲法の文章をまねるだけではダメであり、日本の国の歴史や文化にあっている憲法を考えて作るべき必要があるということを教えた。
- ※ 平成30年度(西暦2018年)のセンター試験の日本史で、ビゴーの風刺画(伊藤が神棚でビスマルクを崇拝している)をもとに、伊藤がどのような国を作ろうとしたかを答えさせる問題が出た[4]。おかしくないですかね?それはビゴーの想像する、あくまで想像上のノンフィクションの伊藤にすぎず、現実の伊藤博文の心理なんて伊藤本人以外には不明だと思うが。美術評論を歴史学に持ちこまないでほしい。迷惑。しかも、上述の山川の『大学の日本史』など近年の研究成果も反映されておらず、2018年のセンターは愚問としか言いようが無い。日本の歴史教育のダメさの証拠としてwikiに残しておく。
伊藤の帰国後
[編集]また、伊藤の帰国後の1884年に華族令が出され、華族の構成範囲が拡大し、華族には従来の公家や藩主に加え、さらに国家の功労者が華族になれるようになった。また、華族は侯爵・公爵・伯爵・子爵・男爵に5分類された。(華族はのちに貴族院の構成員になる。) (※ おそらく、将来的な二院制を見越しての改革だろう。)
1885年(明治18年)に、立憲制の開始にそなえて内閣制度がつくられ、伊藤は初代の内閣総理大臣に就任した。内閣制度の制定にともない、太政官制(だじょうかんせい)は廃止された。
地方制度については、ドイツ人顧問モッセの助言により、山県有朋が中心になって改正作業をすすめ、1888年に市制・町村制が、(憲法発布後の)1890年に府県制・郡制が公布され、政府の統制のもとであるが地方自治が制度的には確立した。
憲法の制定
[編集]憲法の草案作成では、ドイツ人の法学者ロエスレルの助言のもと、憲法草案を、伊藤を中心に井上毅(こわし)・伊藤巳代治(みよじ)・金子堅太郎らによって憲法草案が作成された。
そして、この憲法草案が宮中にある枢密院(すうみついん)で天皇臨席のもとで議論され、1889年に大日本帝国憲法(明治憲法)として公布された。
帝国議員は、衆議院と華族院の二院制で構成された。
憲法の公布と同日に皇室典範と衆議院議員選挙法と貴族院令も制定された。
- ※ なお、大日本帝国憲法は、アジア最初の憲法ではなく、アジア2番目の憲法である。アジア初の近代憲法はトルコのミドハト憲法である。(高等学校世界史B/アジアの民族運動)しかしミドハト憲法は発布の翌年、戦争で停止し、トルコはすぐに専制国家に転落した。実質的に、大日本帝国憲法およびそれにともなう改革がアジアにおける最初のまともな近代化の実例であろう。
憲法の内容
[編集]- ※ 中学の復習。
大日本帝国憲法(抜粋)
- 第1条 大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治ス
- 第3条 天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵ス(おかす)ヘカラス(べからず)
- 第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛(きょうさん)ヲ以テ(もって)立法権ヲ行フ
- 第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス
- 第20条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ(したがい)兵役(へいえき)ノ義務ヲ有ス
- 第29条 日本臣民ハ法律ノ範囲(はんい)内ニ於テ言論著作(げんろんちょさく)印行集会及(および)結社(けっしゃ)ノ自由ヲ有ス(ゆうす)
現在(21世紀)の日本と比べると、大日本帝国憲法は国民にとっては制限の有る項目が多いものの、大日本帝国憲法は、アジアの国では初めての憲法となった。当時の明治の日本としては、江戸時代から比べると、大日本帝国憲法は民主的に進歩した憲法だった。
そして、明治の日本は憲法を持ち憲法にもとづいた議会政治を行う、アジアでは初めての立憲国家(りっけんこっか)となった。
新憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。
イギリスのある新聞では新憲法は高く評価され、「東洋の地で、周到な準備の末に議会制の憲法が成立したのは何か夢のような話だ。これは偉大な試みだ」と報じられた。
- ※ (範囲外: ) そして「夢のような話だ」と評価した、その新聞では、さらに、日本の新憲法の内容を分析しており、君主については「ドイツを手本にしており」、「内閣が国会から独立している点はアメリカ合衆国を手本にしている」などと、分析をしております。さらに、議院については、「下院(かいん)が、1832年に成立したイギリス議会に似ている」などと分析しています。
- ※ このように、日本の(明治につくられた)憲法は、天皇制についてはドイツを手本に、その他の部分については欧米のさまざまな憲法を取り入れたという、折衷(せっちゅう)的な憲法であろう、という分析が、欧米の新聞や学者などによって、なされました。
大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。 つまり、日本を統治するのは、藩閥ではなく、華族でもなく、天皇である、ということである。ただし天皇の独裁ではなく、議会の助言をもとに天皇が政治を行うとした。大日本帝国憲法では、予算や法案の成立には、議会の同意が必要だった。(表向きには天皇が日本を統治すると定められているが、じつは議会の承認がないと天皇は法律も予算も成立できないので、天皇だけでは国政を動かせず、じつは明治の日本の政治は表向きとは違い、天皇による親政ではなく)事実上の立憲君主制(りっけん くんしゅせい)である。
司法・立法・行政などの最終的な決定権は、天皇が持つ事になった。
外交や軍事の、最終的な決定権は天皇がにぎる事とされた。憲法では、軍隊は天皇(てんのう)が統率(とうそつ)するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。
つまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。 このように軍隊を統率する権限を 統帥権(とうすいけん) と言います。天皇が統帥権(とうすいけん)を持っています。
外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。
国民は、天皇の「臣民」(しんみん)とされた。 国民の権利は、法律の範囲内という条件つきで、言論の自由や結社・集会の自由、心境の自由などの権利が保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利とくらべたら、当時の権利は国民にとっては制限の多いものであった。
国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。
なお、右の図中にもある「枢密院」(すうみついん)とは、有力な政治家をあつめて、天皇の相談にこたえる機関である。
帝国議会
[編集]憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための総選挙が行われた。つづいて国会である帝国議会(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。(第1回帝国議会)
帝国議会の議院は対等の権限をもつ衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)とからなる二院制であった。
この1890年のときの選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。いっぽうの貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。
衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税(年間15円以上。)が必要で、満25才以上の男子に選挙権が限られた。実際に選挙が出来たのは全人口の約1.1%ほど(約45万人)に過ぎなかった。
- ※ 現在(西暦2014年に記述)の日本のような20才以上の日本人なら誰でも選挙権のある普通選挙(ふつうせんきょ)とはちがい、この明治時代の選挙のような制限事項の多い選挙のしかたを「制限選挙」(せいげんせんきょ)と言います。
法典の整備
[編集]教育勅語
[編集]憲法発布の翌年の1890年には教育勅語(きょういく ちょくご)が出された。教育勅語では、「忠君愛国」(ちゅうくんあいこく)の道徳が示され、また、親孝行などを中心とする道徳も示された。
法律の整備
[編集]憲法の交付に続いて、刑法(けいほう)・民法(みんぽう)・商法(しょうほう)などの法律も整備する必要があった。公布されていった。
日本政府はフランス人の法学者ボアソナードをまねいて、1880年に刑法と治罪法(刑事訴訟法)を制定してもらった。
つづいて1889年までにボアソナードの協力のもと、民法・商法・民事訴訟法も制定された。そして1890年に民法も公布されるが、しかし日本の法学者から反対意見が出て(家族制度を破壊するものであると)論争となった(民法典論争)。
帝国大学(東京大学)の法学者の穂積八束(ほづみ やつか)は「民法いでて、忠孝ほろぶ」(民法出デテ、忠孝亡ブ)と題した論文を書き、ボアソナードの民法を批判した。
結果的に議会で民法は修正されて、家族制度について家長(父親)や男性の権限が強いものに変わった。(一夫一妻制が制度化されたことにより、女性の地位は安定し、江戸時代よりかは少しはマシになったものの、あいかわらず女性の地位は低かった。)
初期議会
[編集]議会開会前の、憲法発布の翌日に黒田清隆(くろだ きよたか)首相は、政府は政党の意向に左右されてはならないという超然主義(ちょうぜん しゅぎ)の立場を表明していた。
しかし1890年の第1回帝国議会(第一議会)の衆議院総選挙では、立憲改進党や立憲自由党など民権派政党(民党)が大勝し、衆議院の過半数の議席を獲得した。(いっぽう、政府師事の派閥は「吏党」(りとう)と呼ばれた。)
第1回帝国議会が開かれると、山県有朋内閣は軍備の拡張を主張し、いっぽう民党は「政費削減」(意味: 行政費の削減)と「民力休養」(意味: 地租の軽減、地価の修正)を主張し、対立した。最終的に山県内閣は予算を成立させた。
つづく第2回議会では、松方正義内閣が、民党と対立し、衆議院を解散した。
つづく第2回総選挙では、内務大臣である品川弥二郎(しながわ やじろう)が選挙干渉をおこなったが、しかし選挙では民党が圧勝した。
そして松方内閣は選挙干渉の責任を問われて辞職したので、つぎは第2次伊藤博文内閣が成立した。
伊藤内閣では海軍予算について、民党と対立したが、最終的に予算を成立させた。
- 歴史用語で、明治時代の第1回議会から日清戦争直前までの第6回議会までのことを「初期議会」という。
条約改正
[編集]旧幕府が欧米と結んだ不平等条約の改正は、新政府の外交の重要課題のひとつであった。特に、領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復が、重要課題であった。
1887年、井上馨(いのうえ かおる)外務卿(がいむきょう)は、列国と外国人を居留地でなく内地雑居(内地の開放)を認める条件と、外国人を被告とする裁判では判事を半数以上は外国人判事とするという条件のもと、領事裁判権を廃止するという案で、合意した。
しかし政府内では、外国人判事の義務化は、日本の主権の侵害であるとして、政府内での反対意見が強かった。また、井上が改正交渉を有利にしようとして進めた欧化政策が民権派などから批判された。結局、列国との改正交渉は中止になり、井上馨は外相を辞任した。
なお、東京日比谷に鹿鳴館(ろくめいかん)が、欧化政策のために建設されており、そこでは西欧風の舞踏会がよく開かれた。
ついで外相となった大隈重信(おおくま しげのぶ)は、条約改正に好意的な国から個別に交渉を始めていた。そして、アメリカ・ロシア・ドイツとの改正調印にした。しかし、大審院の裁判官にかぎり外国人判事を任用するという条件つきであるという事が外部にもれると、政府内外に強い反対運動が起きた。
そして大隈重信は、対外硬派団体の玄洋社(げんようしゃ)の青年に爆弾で襲われるというテロ事件で負傷したが、しかし大隈重信は一命を取りとめた。そして改正交渉は中止になった。
条約改正に消極的だったイギリスは、ロシアが南下政策をすすめようとシベリア鉄道の建設を始めると、イギリスはロシアの南下政策を警戒し、日本との条約改正の交渉に好意的になった。
そして大隈のあとの青木周蔵(あおき しゅうぞう)外相が条約改正をめざして交渉に入ったが、1891年の大津事件で外相を辞任した。
その後、第2次伊藤内閣の陸奥宗光(むつ むねみつ)外相は、青木周蔵をイギリスに派遣して交渉させ、日清戦争直前の1894年に、領事裁判権の撤廃および関税の引き上げ、および相互対等の最恵国待遇の内容である日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく)が結ばれた。(まだ日本の関税自主権は取り戻せていない。関税は引き上がったほうが日本経済に有利なので、イギリスが日本に譲歩してくれた。)
ついで、他の欧米諸国とも同様の改正条約を調印し、1899年から施行された。
関税自主権の回復は、日露戦争後の1911年に小村寿太郎(こむら じゅたろう)外相による条約改正で実現した。こうして日本は、条約の上では欧米列国と対等な国家になった。