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高等学校歴史総合/もっと知りたい リンゲルブルム・アーカイヴと『アンネの日記』

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一般大衆が残した記録 リンゲルブルム・アーカイブ

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 ナチス・ドイツは、ユダヤ人を強制的に隔離された地域(ゲットー)に住むように強要しました。以後、ユダヤ人が次々と各地の強制収容所に送られ、ガス室などで殺されました。しかし、人々はただじっとその時を待っていたわけではありません。

文章保存に使われた牛乳缶

 ポーランドの首都ワルシャワに、ユダヤ歴史研究所があります。リンゲルブルム・アーカイブ(別名:ワルシャワ・ゲットー地下史料)は、ユダヤ歴史研究所に保管されています。リンゲルブルム・アーカイブは、1939年から1943年にかけてワルシャワのゲットーへ住むように強制された人達が書いた文書記録です。歴史家エマヌエル・リンゲルブルムらによって収集されました。ゲットーには頭のいい人がたくさんいて、エマヌエル・リンゲルブルムもその一人でした。エマヌエル・リンゲルブルムらは、人々に話しかけ、ナチス党が毎日行った残酷な行為を全て書き留めるように言いました。記録によると、そこに住んでいた人達の中には、収容所に送られた時に自分達がどうなるかを知っていた人もいました。そして、ゲットーの内外で見聞きした内容や後世に伝えたい内容を、自分達の視点で書き残しました。作家の中には知識人ばかりでなく、木工職人のような一般人も結構いました。1942年、多くの人が強制送還されると思われた時、膨大で複雑な書類を牛乳缶に入れ、地下に埋めました。本文章は、戦後、その容器が発見され、調べられ、そこにあった書類と、埋蔵場所を知っている数少ない生存者の話を参考に書かれました。

アーカイブを埋め隠した少年のメッセージ(グラーベル 19歳 1942年8月3日頃)
 私達は、全世界に向けて叫んだり出来ないような内容を埋めました。この大きな宝がよみがえり、世界にその真実を叫ぶ時、私はどんなに生きていたいと思うでしょう。そうすれば、世界中の誰もがその内容を知って、それを経験する必要のなかった人達は幸せになれるでしょう。  しかし、私達はそれを見られません。だから、この最後の願いを書いています。この宝物が良い人の手に渡り、より良い時代まで続くように、そして20世紀に起こった出来事を世界が知り、それに警告を与えられるように。私達は今、穏やかに死ねません。私たちは何をしなければならないか、実行します。歴史が我々に何をしたらよいかを教えてくれますように。

歴史史料としての『アンネの日記』

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アンネ・フランク

 ナチス・ドイツに占領されていたオランダで、アンネ・フランクの日記も他の戦争文学とは少し違っています。日記に「キティ」の声を与え、アンネ・フランクの文体で書かれているので、ほとんどの人はこの作品を日記文学、戦争文学と考えます。しかし、目の前で起こった出来事を伝えているので、歴史的な資料といえます。実際、1944年3月28日、アンネ・フランクはオランダ亡命政府閣僚からの無線連絡に応じて、「戦争中の個人的な記録や手紙を残しておくように」と言われました。

1944年3月29日 深町眞理子訳
 しかし、本当に戦後10年間、私達ユダヤ人がここでどのように暮らし、何を食べ、どんな話をしたかを話しても、とても不思議に思われるだろうし、おそらく何も思い出せないでしょう。いろいろ話しても、まだ私達の生活のほんの一部を知っているに過ぎません。

 その場にいない人には「可笑しい」と思える内容でも、戦争に行かなかった人にとっては重要な史料になります。何より、当時の事実を残そうとした人達の姿を実感出来るでしょう。戦争が終わると、アンネ・フランクは『隠れ家』という小説を書きたいと思い、1944年5月11日、日記にその決心を次のように記しました。

1944年3月29日 深町眞理子訳
 私は文章を書くのが苦手なのですが、この日記はとても役に立ちそうです。

 こうして、最初は他の人に読まれるつもりのなかったアンネ・フランクの日記が、他の人に読んでもらえると思って、戦後も出版されるようになりました。