トーク:中学校社会 歴史/三大宗教の始まり
話題追加八正道とかは範囲外でしょう
[編集]八正道とか、中2に教えるには、細かすぎます。おそらく検定教科書では、そこまで書いてないだろうと思います。
また、「旧約聖書はヘブル語で」とかは、明らかに中学の範囲外でしょう。中学生は英語すら 習いたて なんですよ。また、必ずしも中2で歴史を習うとは限らず、学校によっては中1で歴史を習う場合もあります。
いちおう、私は検定教科書を、このページの見本に過去の版を書きました。参考書などには八正道も書いてあるのかもしれんませんが、それならば、ウィキブックス参考書で書くべきです。仮に検定教科書に八正道などが書いてあったとしても、おそらく欄外などでしょう。 付録などで書くならまだしも、本文中で八正道などの紹介は、高校の社会科に回すべきです。
過去に参考書を調べたところ、印象として「一般に中学の社会科の参考書は、かなり検定教科書の範囲を超えている」という印象を持ちました。
この記事の対象相手の学年は中学2年生です。(一般に、中2の社会科は、歴史科目の場合が多いため。)
三大宗教の単元を教える時期は、歴史科目の始めのほうで教えるわけですから、まだ中学2年生は大航海時代とか産業革命とかも習ってない段階なわけです。また、まだ公民(中3で習うのが普通)も習ってない中学生に、あまり細かな宗教思想とかを教えても効果が少ないと思います。
思うに、中学の段階での三大宗教の教育レベルは、中1の世界地理とか、中2の歴史の四代文明とか、小6社会科の公民分野とか、あるいは小中の国語の古文とか、そういう単元とのつながりを意識して書くべきです。 --すじにくシチュー (トーク) 2015年7月16日 (木) 13:41 (UTC)
- (コメント)たしかに大半の教科書から考えれば,範囲外が多いです(来年度のことを考えると一社だけ曲者が出ます)。一応,内容を書かれた西瓜提灯さんのトークページには私が連絡していますが,こちらにレスポンスが来るかどうかはちょっとわかりません。一応,私もバッサリ簡潔化する方向には強く同意しておきます。こちらに西瓜提灯さんからのレスポンスが一定期間(原則一週間以上)なかった場合は,簡潔化の同意が得られたとみなして,バッサリ簡潔化してくださって結構です。--かげろん (トーク) 2015年7月19日 (日) 07:49 (UTC)
- (コメント)簡潔化の編集自体に異論はないんですが,いくらなんでも手を入れる時期が早過ぎです。西瓜提灯さんのレスポンスはないですし,原則の一週間も経過していないわけ(まだ4日)ですから。--かげろん (トーク) 2015年7月20日 (月) 21:49 (UTC)
(すじにくシチュー、意見。)例えば、国会の法案の場合、審議中の法案には強制力はありません。法案の場合、改正案が国会で可決されるまでは、既存の法律こそが有効でしょう。西瓜提灯さんの版は、議論中に過ぎず、ウィキブックス編集者たちに賛成多数をされていないので、ウィキプロジェクトでの強制力を持たないと思います。私のウィキペディアでの活動でも(ウィキブックスではなく)、議論中の記事で公開するべき版についての考え方は、私はこのようなスタンスです。「合意されていない審議中の話題には、他者への強制力・拘束力を、私は認めない」というスタンスです。編集合戦などの議論中に公開する版は、その編集合戦などよりも直前の版にするべきでしょう。この記事(中学社会 三大宗教)の場合、その方法を適用すると、結果的に私の執筆した版になりますが。
私は、ウィキペディア記事『 w:ナタリア・ポクロンスカヤ 』に関する議論でも、私はこのようなスタンスを取りました。(「審議中の話題に、拘束力を私は認めない」というスタンス。また、議論提示の直前に書かれた編集者の記事を優先公開するべきとするのは、議論提示より前に執筆した他編集者への「自主規制の強制であり、不当。」というスタンス。)議論中記事についての、私の、差し戻しの実例として、挙げています。ナタリアの記事の履歴ページの要約欄で、このような私の主張が、2014年3月29日頃に書かれているのを確認できるでしょう。
さて、この中学社会 三大宗教の話題に戻ります。国会の比喩では、仮に法案の改正案が出されたからって、その法案がまだ審議中なのに強制力を持たせれば、法体系が容易に破壊されるでしょう。ウィキプロジェクトでも、審議中の版に、一般公開の強制力が発生すれば、ウィキ記事の破壊に悪用されかねません。西瓜提灯さん自体には荒らしの意図は無いでしょうが、他のいたずら投稿者が、今後、このような手法を荒らしに悪用して、改正案を乱発し公開を強要しかねまねせん。
それに西瓜提灯さんの版は、査読的な審査を経ていません。そのような版を、議論ページでの合意が形成されてないからといって、現状維持として公開することには反対です。合意が形成されるまでは、一連の編集の直前の版で維持するべきでしょう。査読のある他のウィキプロジェクトでは、査読を減るまでは、公開されません。この査読システムから類推して、同様に処理するべきでしょう。とりあえず、一連の編集の直前の版は、1年間ちかくの、そこそこ長い期間の公開がされており、その間は特に大きな異論が出ていません。結果的に、私の執筆した版ですが。--すじにくシチュー (トーク) 2015年7月21日 (火) 00:03 (UTC)
ごあいさつが遅れました、西瓜提灯です。長きにわたりほったらかしにして申し訳ありません! また、査読制度についても理解が不足しており、大変ご迷惑をおかけいたしました。当方の意図を要約いたしますと、
- 簡素であるべきとの方針に反対するわけではない。
- 一方で、誤解を招く記述や不正確な記述が気になる部分もある。(左右の十字架につけられたのは信者でなく強盗であるし、教義などの描写も正確である方がのちのちの倫理などの学習に混乱なくつなげられる。繰り返しますが長くしたいわけではありません)
- 技術的な問題に対応したい。(強調は2つとか3つ、5つのアポストロフィの連続で表現し、font要素や行内スタイルは避ける)
などです。なにとぞよろしくご検討ください。--西瓜提灯 (トーク) 2015年7月23日 (木) 13:56 (UTC)
- (コメント)ちょっと補足しときますと,Wikibooksの日本語版ではまだ査読制度は導入されていませんので,その点はお気になさらないようお願いいたします。簡素でなければならないのは,中1~2向けの内容ですので,西瓜提灯さんの書かれた内容だと,内容が濃すぎるあまり,この教科書の項目を読む中学生が逆に消化不良を起こすことになるでしょう。内容の正確さはもちろん大切ですが,中学生が無理なく学習できるよう,程よく肉抜きをした記述を心がけなければいけません。今の教科書であれば,ここは2~4ページ(ある程度の写真・図版・コラム・特集ページ込み)あたりの分量です。--かげろん (トーク) 2015年7月23日 (木) 14:52 (UTC)
(コメント)とりあえず、 高等学校倫理/三大宗教の始まり なるページを作成しときました。どっちかというと高校の『倫理』のページとかで、西瓜提灯さんはテキストを書いたほうがイイと思います。
この中学歴史のウィキブックスの記述では、簡素ではなく、平易に書いて欲しいです。短く書くことは、目的ではありません。専門用語を使えば短く書けるでしょうが、そんな風に書いても、中学生が理解できず、差し戻しされるだけでしょう。
おそらく、授業の教師の口頭での説明なども含めれてると解釈すれば(もっとも口頭説明と言いつつ、実際は教師用の指導書などに「こう解説するとよい」などと書かれてるんでしょうけど・・・)、多少は記述が長くなることもあるでしょうし。短くて難しい記述よりも、長くなっても分かりやすい記述が欲しいです。
あと、「ジャーヒリーヤ」とかの用語を書かないべき。なぜなら、そこまで教える時間が、ありません。高校の『倫理』ですら、そこまで扱いきれません。高校の世界史で、やっと説明できるレベルです。中学の授業中に説明しきれない単語は、削除するべきです。
中学生にとっては、いわゆる「お釈迦さま」と「ブッダ」と「ゴーダマ=シッダールタ」という人物が同一人物だと言うことすら、たぶん中学で、教科書では初めて制式に習うわけです。もし小学校の日本史の学習だけなら、中国から仏教が日本には伝来したわけですから、「ブッダ」という用語すら小学日本史には不要だからです。小学生の段階では、せいぜい教師の雑談などから「仏教はインド発祥の宗教」「中国伝来の昔話に出て来る『天竺』(てんじく)とはインドのこと。たとえば西遊記とかで『天竺』を目指した一行は、つまりインドを目指してた」とか、そんくらいしか、習ってないはずだと思います。
中学新入生はそんな程度の状態なのに、中学教育で、高校での『八正道』へのつながりにコダワル理由が、さっぱり分かりません。
仏教の八正道の「正しい道」という表現も、「じゃあ『道』とは何か?」と中学生に聞かれたら、返事は「正しい行い」とか「修業の正しい方法」とか言って、中学生に説明する手間がありますし。さらに「何が『正しい』修業だとブッダは考えたの?」と聞かれたら、高校世界史などの範囲になり、中学の範囲外です。
「道」と聞いて、「人道」「道理」などの用語から、「道」から「修業」を連想するのは、国語教育の成果であって、歴史教育の手段ではないでしょう。
あと、ユダヤ教が偽善とか、そういうことを書かないべき。ユダヤ人への民族差別へと受け取られる恐れがあります。まだしも、「キリストは、ユダヤ教が偽善的であると批判した」とか書くなら分かりますが。検定教科書でも、中立性の観点から、そのようなユダヤを批判する記述ではなかったと思います。キリストが何を言ったところで、キリスト教信者以外にとっては、キリストの価値観は、単なる仮説です。
もしウィキペディア(ウィキブックスではなく)で「ユダヤは偽善的」などと書いたら、中立性の観点から、きっと修正されてるところです。
あと、小学校の社会科では、まだユダヤ教を習ってません。中1〜中2で、ユダヤ教の存在を、人生で初めて、学校では習う生徒が多いわけです。たとえば小6の公民の国際社会の単元で、初めて、サウジアラビアとかエジプトとかの位置と、地理の概略(砂漠が多いとか、雨が少ないとか、イスラム教がどうこうとか)を習うわけです。
あと、中学生の語彙力の問題があって、中学1年生には、「偽善」とかの用語が、ちょっと難しいです。歴史教科書では、他にも沢山の歴史知識を紹介しないといけないので、あまり国語教育にまでは、手が回りません。大人には回りくどい言い方になっても、「偽善」という表現ではなく「ユダヤ教の掟(おきて)が厳しく、そのせいで人々を苦しめている、とキリストがユダヤ教を批判した」などと噛み砕いて書いてほしいです。--すじにくシチュー (トーク) 2015年12月14日 (月) 05:48 (UTC)