トーク:大学生活ガイド/理系

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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試験難度と第三者評価の関係について[編集]

大学の試験問題が難問を出題されるかについて

教官はたびたび「試験問題は簡単にはできない。 第3者評価があるので。」っとおしゃっています。 なので、あまり簡単な問題は作れないと。 しかし、wikibooksによると、教官の言うことは嘘ですよね。 どちらが正しいか判断して下さい。

それと別件で、大学の単位の外部認定のページを作って下さい。—以上の署名の無いコメントは、Mieroperuoxidase会話履歴)さんが 2015年3月11日 (水) 02:49‎ (UTC) に投稿したものです(かげろん (トーク)による附記)。

(返答)まずトークページでの投稿には署名を書いてください。あなたの投稿時の編集ぺージでは「トークページに投稿するときは、文末に署名をお願いします。」というようなメッセージが表示されていないのでしょうか。今回は私が代わりに、あなたの記事の末尾に、あなたの投稿者名を追加しておきました。トークページでは複数の人が会話をするので、よって発言者ごとに署名が必要なのです。あなたの投稿日時については、履歴から判断して追加しておきました。また、話題にタイトルをつけてください。ひとまず仮のタイトルを私がつけました。トークページは、これからも他の話題で他の人々が利用する可能性があるので、話題ごとにタイトルをつける必要があるのです。ひとまず、先にこの署名およびタイトルの件を、このトークページにてアナタに連絡しておきます。--すじにくシチュー (トーク) 2015年3月11日 (水) 03:20 (UTC)
【返答:命題を明示してください】 まず、具体的に記事内のドコの文を間違った記述であると思ってるのかを明示してください。そして、どう書き換えるべき、と思ってるのかを例文で書いてください。
もし「定期試験では難問が、たびたび出る」というような内容の命題が間違いだとしたら、つまり反対の命題「定期試験では難問が出ない」という命題が正解になってしまいます。おそらく、あなたの意見とは、この反対命題「定期試験では難問が出ない」とは違うでしょうです。--すじにくシチュー (トーク) 2015年3月11日 (水) 04:07 (UTC)
(すじにくシチューさんへ)署名の補記は,テンプレート:Unsigned2を使うと楽ですよ(今回はUnsigned2で手直ししておきました)。それと,Mieroperuoxidaseさんはアカウント作成からまだ1日と少しほどしか経っていませんので,丁寧な対応をお願いする次第です。初心者さんには,Wikibooksの作法・マナーとかはまだまだ分からないことだらけだと思いますので。--かげろん (トーク) 2015年3月11日 (水) 04:17 (UTC)
(Mieroperuoxidaseさんへ)署名は編集している時に左上部の方に鉛筆とサインのマークがあると思います。それをクリックしていただければ,署名ができますので,次から署名を行うようにお願いいたします。--かげろん (トーク) 2015年3月11日 (水) 04:17 (UTC)

段落 「必修科目の定期テストで難問・奇問ばかりを出す教員に遭遇したら」 この1文が間違っているってのはないが、段落全体が間違っています。 難問・奇問ばかりを出す教員は第3者評価で淘汰されているはずです。 —以上の署名の無いコメントは、Mieroperuoxidase会話履歴)さんが 2015年3月11日 (水) 04:30 (UTC) に投稿したものです(かげろん (トーク)による附記)。

(すじにくシチューの返答)個人的に該当の記述は残しても削除しても、私には、どっちでも構いませんが、第三者が今後も似たような記述を書いて再度の議論になる可能性もあるかもしれませんので、今、議論しておこうと思います。私が思いつく反論は、以下のような反論です。勘違いしてもらいたくないですが、別に以下の自説にもとづき当記事を書きたいわけではありません。単に、こういう反論が、今後も予想されるので、今ここで反論を例示して、今後の執筆者に役立ててもらいたいだけです。だから、以下の反論を検証するつもりは、ありません。
  • 【市場「淘汰」があっても失業もあれば不景気もある】 さて、「淘汰されているはず」からと言って、不適切な難度のテストが出現しない事にはならないと思います。たとえば経済学の市場淘汰やら生物学の自然淘汰などを考えても、劣った参加者が将来的に淘汰されるからといって、けっして生まれてこない事にはなりません。資本主義では市場淘汰があるから、不景気も出現しなければ、失業も出現しない、なんて理屈は、けっして成立しないでしょう。
ただし、大学の第三者評価で淘汰されるはずだから、そんなに不適切出題が多くはならないだろう、という意見なら、私は議論が可能だと思います。
  • 【安全神話】 また、第三者が審査して対策を取ってるからといって、失敗が起きないことにもなりません。たとえば2011年の福島県での原発事故では、事前に原発の安全対策が第三者機関も交えて取られていましたが、しかし放射能漏れの事故が起こりました。「安全神話」とか「多重防護」などの用語もメディアに出てきました。
  • 【第三者が実際には、自分でテストを解くという検証をしてないと思われる】 個人的には、あまり大学の第三者評価(おそらく学内の他科目教員による評価)が機能してないと思います。偏見ですが。まず、教員は皆、自分の担当する科目で忙しいでしょう。あまり他教員の科目の内容やテスト問題を精査してないだろうと思います。せいぜい、出題範囲を確認するとか、そんなぐらいだと思います。おそらくテスト問題を解く時の時間の見積もりすら、まともに精査・検証してないと思います。教員は、自分の担当科目のテスト作成だけでも忙しいのに、さらに他科目の教員のテスト問題を解くのに要する時間を、たとえばストップウォッチなどを使って測定してる時間があるのでしょうかね? そんな「大学教員のストップウォッチ測定」の話を、まったく聞いたことがありません。さらに出題する教員によっては、テスト問題を内容を毎年、コロコロと変える人もいますよね。テストが大幅に変わるたびごとに、毎回、第三者がストップウォッチを使って実際に測りながらテスト問題を解いてみて検証してるのでしょうかね?
  • 【第三者評価自体への不信】 また、第三者自体の検証の質すらも怪しいと思います。入学試験などとは違って、定期テストは一般に外部公開はされていません。第三者の評価が適切どうかを、外部が知る機会がありません。
また、タテマエ上は大学の成績評価方法は絶対評価ですが、それも実態が怪しいと思います。おそらく実態は、教員がとりあえず、ほぼ例年どおりにテストを出題してみて(ときどき出題問題を変えたり、問題数を増減したりするので、落第者が増減する)、あまりにも落第者が多かったら、追試を行って調節して、追試成績上位者は救済するとか、そういう実質的には相対評価じゃないですかね。つまり、ロクな評価能力が教員に無いと思います。
  • 【大学教員はカリキュラムをまともに検証してないと思われる】 さらに例年通りに教員がテスト出題しようとしても、その「例年」自体が無い場合もあります。大学改革やら何やらで、カリキュラムがコロコロと変わります。カリキュラムを変更する前に事前に検証をした、などと言う話も、あまり聞きません。偏見ですが、企業での製造業などの検証実験などの水準と比べたら、大学の教育の第三者評価(←自称)は、すさまじく低レベルな状態だと思います。
80年代の教養部の解体でカリキュラムが大幅に変わりましたが、解体に関して事前の十分な検証を行ったという話もまったく聞きませんし、教養部の解体による数学などの基礎学力の低下などが議論になっても、事後に各大学が教養課程の基礎科目を重視するような解体前にちかいカリキュラムに戻したという話も、東京大学など一部の大学を除いて、あまり聞きません。
  • 【あまり難しくするのも基準違反】 あまり簡単にすると基準違反になる、などと教授が言ったとアナタは言いましたが、あまり難しくしすぎるのも基準違反です。文部省の定める単位設定の基準があります。それより大幅に簡単でも、あるいは大幅に難しくても、基準違反です。
  • 【文部省の単位基準自体が過労死の水準でオカシイ】 もっとも、この文部省の定める基準の、たしか「授業時間の2倍程度の予習復習で単位を修得できるレベル」自体が、オカシイとも思いますが。実際に計算すると、大学の授業は朝9時から晩4時くらいまでありますから、さしひき7時間。昼休みを1時間ぶん引いても6時間。この2倍の予習復習だと6×2=12時間。合計で6+12=18時間になり、サラリーマンの1日の労働時間8時間を大幅に超えている水準です。寝ている時間以外はひたすら勉強するということになり、過労死の恐れがあります。おそらく、この基準は守られていませんし、また、過労死を防ぐという安全面からも守れません。このような過労死に相当する水準が撤回されず放置されている事自体、各大学の第三者評価がデタラメだという事の厳然たる証拠だと思います。
最期に再度に言いますが、べつに当記事の議論部分を残したいわけではありません。以上の反論を検証するつもりは、ありません。議論の結果によっては、議論部分を消しても良いと思います。今後の議論に、私が参加するかどうかも分かりません。反論として思いつく事を、このトークページで書いただけです。--すじにくシチュー (トーク) 2015年3月12日 (木) 03:49 (UTC)
議論に該当の段落の記述を消します。議論をするのが私はメンドウです。議論の時間があったら、べつの事をしたいのです。--すじにくシチュー (トーク) 2015年3月12日 (木) 09:18 (UTC)
(報告)疑義に該当の節を、節ごと消しました。--すじにくシチュー (トーク) 2015年3月12日 (木) 09:23 (UTC)

(コメント)Mieroperuoxidaseさんのご自身の発言を白紙化された編集については差し戻しておきました。議論が終わったからといって自分の発言を白紙化することはやってはいけません。明らかな暴言を除去するなどの誰から見ても適切な理由があるのであれば別です。どのような議論があって合意が形成されたのか,されなかったのかを記録しておくことも議論ページの大切な役割です(時期が古くなれば,いずれ過去ログページに送られることになるでしょう)。--かげろん (トーク) 2015年3月15日 (日) 04:55 (UTC)

単位互換制度について[編集]

—以上の署名の無いコメントは、Mieroperuoxidase会話履歴)さんが 2015年3月20日 (金) 05:03 に投稿したものです(すじにくシチュー (トーク)による附記)。

Mieroperuoxidaseさん、もし議論ページで新規の話題を立てるなら、けっして立てっぱなしで放置するのではなく、きちんと責任を持って持論を展開してください。ウィキブックスは、けっして、あなた一人の個人サイトではないのですから、責任を持って行動してください。--すじにくシチュー (トーク) 2015年4月29日 (水) 19:15 (UTC)

IPユーザー 60.132.33.186 の問題行動[編集]

IPユーザー 60.132.33.186 がたびたび、「整理」などの名目で、私の投稿を消す編集をします。異論があるなら、その異論を議論で提示するべきです。この人 60.132.33.186 は、根拠をろくに示さずに、「整理」の一言で、他人の編集を、掲載の価値がないと判定して消す編集を、たびたびしてるわけですから、実質的な「対話の拒否」です。

私の記事で不要だと思う部分があるなら、不要であると証明できる論拠を、議論ページなどで提示して、第三者に賛同を得れば済むだけです。

また、この人は、他の記事で議論が提起されても、最低限の発言だけをして、まともに論拠を示しません。そのため、読み手に負担を与えます。形式的には返答をしてますが、実質的な「対話の拒否」です。

しかも、この人は、記事も議論でも、具体例などをなかなか示さず、そのため検証可能性に大きな負担を与え、読み手に負担を与えます。

この人の態度は、すべて、自己中心です。

管理者への提言ですが、この人の行動に改善が見られない場合、ブロックするべきです。この人にも教科の専門知識があるようですが、しかしwikibooksは学校の試験ではありません。共同作業によってコンテンツを作り上げていく場所です。対話の拒否と、検証可能性の乏しさと、それを指摘されても改善しない態度は、ブロックに値するでしょう。--すじにくシチュー (トーク) 2017年9月23日 (土) 22:55 (UTC)

そもそも要約欄に「整理」としか書かないのは、実質的に、要約欄に何も書いてないのと同じです。そのため、読み手は、編集内容のすべてを読まなければならず、読み手に多大な負担を与えます。他人の編集を消して「整理」としか書かないのは、マナー違反でしょう。異論があるなら、要約欄に、論拠を書くべきでしょう。--すじにくシチュー (トーク) 2017年9月23日 (土) 23:25 (UTC)

図書館とかで大学教育についての本を得た人の場合、その本の知識が、教養部解体の前だったりする場合もありますからね。教養部解体前と後とで、カリキュラムがだいぶ違う事は、優先的に教えておくべきだと思うんですがね。親御さんが高卒だと、90年代以降の大学教育の変遷を知らない場合もありますし。教養部解体以降について書かれた書籍を読んでても、文科系の大学のことばかり書かれている書籍が大半ですし。--すじにくシチュー (トーク) 2017年9月23日 (土) 23:41 (UTC)


「整理」「整理」などと、ひとつ覚えに言う IPユーザー 60.132.33.186 がいますが、どんな人も、「自分こそが他人よりも論理的であり、だから、自分の主張に合わせた論理展開こそが『整理』された論理だ」って思ってるんですよね。子供じゃないんだから、具体的に論拠を言ってほしいものです。この人のいう『整理』は、単に「私は正しい」を言い換えただけです。「私は正しい、よって、私の編集内容は正しい。よって、私の意見と違うものは削除すべき。」という言葉が、この人のいう整理の意味です。なんの証明にもなってません。単なる循環論法です。具体的に、彼の主張のどこが、どういう客観根拠にもとづいて正しいのか、具体的に言ってほしいものです。--すじにくシチュー (トーク) 2017年9月24日 (日) 00:11 (UTC)

また変なことを言われると困るので、わかりやすいように先にはっきりと言っておきます。私のこのコメントでは、私の版の方がよりよいという主張は一切しません。そのような反論めいた主張をする必要があるような批判がまだなされていないからです。したがってただちに再リバートしてもルール上は問題ないわけですが、せっかくなのでまずはお付き合いします。
すじにくシチューさんのいつもの悪い癖なのですが、今日もまた、自分でも何を主張したいかわからなくなっていらっしゃいます。私の行動が問題だと言いたいのであれば、主張すべき場所はここではありません。私の編集した結果の版が問題だと言いたいならば、私の行動様式のようなどうでもいいことには触れず、版の内容について批判していただくべきです。版の内容に対する批判があり、その批判が正当なものだと確認できれば、記事は編集されて違う内容になることでしょう。しかし、その判断をする際に、私の行動様式がどうであるか、あなたの行動様式がどうであるかは、判断の根拠にはなりません。そのあたりの問題の切り分けができないのであれば、議論は不可能です。まずは、私の版が具体的にどう悪いのか、ちゃんと批判してください。あなたが私の編集内容をまったく批判してくださらないので、私はいつも大変困っています。お願いですから、私の編集した記事の内容を、ちゃんと批判してください。--60.132.33.186 2017年9月24日 (日) 00:42 (UTC)

そもそも他人の編集を「繰り言」と公開するのは、マナー的に、問題行為でしょう。記事は、60.132.33.186個人のスペースではないですよ。私の編集内容に不満があるなら、議論ページで、私に「あなたの編集は繰り言だ。なぜならば〜〜」とか言えばいいのであって、記事本文で他編集者を批判するべきではないでしょう。--すじにくシチュー (トーク) 2017年9月24日 (日) 03:02 (UTC)

他人の編集を単に「繰り言」とするのも、実質的な対話の拒否ですよね。たとえ繰り言で動機が私怨や愚痴でも、少なくとも内容が正しければ、それは単純に記事内容を公開すべきだし、もし内容が正しくなければ、単に公開すべきではないだけです。結局、このIP氏の編集は、自分の趣味であるウィキペディアスタイルの最低限の記述で簡潔な(しかし欠点として初心者には分かりづらいという難点もある)編集をして、他編集者から異論が出ても、「整理」などと表面的に対話をよそおって、対話の拒否を取り繕ってるだけなんですよね。--すじにくシチュー (トーク) 2017年9月24日 (日) 03:09 (UTC)

「私の投稿を消す編集」も「他人の編集を「繰り言」と公開する」のもダメと言うのは、つまりあなたが書いたものは一切触れるなという主張ですか?そのようなことをご希望ならwikibooksをはじめとするウィキメディアプロジェクトへ参加されることはおやめになることをお勧めします。そうでないのならば、あなたのご希望をもう少し正確に書いてください。結局私に何をしてほしいのですか?--60.132.33.186 2017年9月24日 (日) 06:16 (UTC)

すじにくシチューさんの意図不明瞭な発言に返答するだけでは埒が明きませんので、私の版と比べて現在の最新版が具体的にどのように劣っているか、以下に書き連ねておきます。以下に指摘する事項が誤りであるという(私とあなたのではなく)コミュニティの合意が得られるか、しかるべき編集により指摘事項が改善された場合は現状維持に賛同します。そうでなければ私は絶対に賛同しません。

まず、最も酷いのは節構成です。これを直したいのが編集の主目的だったために、「節構成の整理」として編集しました。具体的には、記述の粒度が同じ節どうしの節の深さが揃っておらず、かつ重複もあり、読者にとっては何がどこに書いてあるのかわからないのです。「2 履修科目の選択」と「3 科目の履修は、なるべく簡単な科目を履修しよう」は同じ内容についての節であり、分ける必要がありません。かつ、「6.2 履修の順序」という(深さの一段階違う)節と内容が重複します。これらはひとまとめにして「1 履修科目の選択」という節にしたのが私の版です。他にも「4 大学のテスト対策は、「学問」と思うよりも「受験勉強」のようなものと思ったほうが良いです。」という謎に長いタイトルの節は多くは学習の方法を説明しているわけですから「6 学習の仕方」に統合されるわけですが、読んでみると「履修科目の選択」に関する記述もあるのでそちらにも振り分けました。他にも「5 教科書は買おう」と「6.5 教科書」とは深さが違いかつ重複、「9 課外活動について」と「14 部活に打ち込めるだけの時間がない」は完全に重複、「11 研究室選び」と「12 大学院への進学について」に関連する話題なのに「15 就活」は微妙に離れたところにあり、間に挟まっている「13 出席を重視する学科も多い」はなんとずーっと前の「6 学習の仕方」と重複。コロコロ話が変わるわ同じ内容が何回も出てくるわ、こんなの飲み会でくだを巻く老人の発言じゃないですかまさに。申し訳ないですが、こんなに酷い記事と比較して私の版を「欠点として初心者には分かりづらい」とか、片腹痛し、寝言は寝て言えという話です。

「老いの繰り言」節に送った内容は、内容として不適切な内容と、節構成としてはめ込みようがない内容と、両方を含みます。いちいち指摘してもいいのですが、どの節も不適切なポイントはたいてい共通しているのでまとめて指摘しておきます。まず一つは、だいたいの主張が個人的体験に基づくと思われる思い込みなことです。もう一つは、それをもとに、学生に勉強するな勉強するなと吹き込んでいることです。全体的に、私は単位を落とした、つまり日本の大学の授業は難しすぎる、という類の主張しか見当たりません。直接は書いてませんけど行間ににじみ出てます。あなたの話は聞いてませんよ。今の学生はあなたよりよっぽど優秀です。ついでに言うと昔の大学改革のせいで今の学生は大変だとか、それ自体が思い込みですし、仮に正しかったとしてもそんなこと言われて今の学生はどうしたらいいんですか。今の学生のハウツーには何の役にも立ちません。そのような記述がただ一つ役に立つ可能性があるとするならば、昔の傷跡をなめたい老人の自慰行為のためになら役に立つでしょうけど、そんな記述はこの記事には不要です。また、せっかく向学心と志を持って大学に入学してくる学生に、難しい科目の勉強はやめとけ、しか言わない記述は極めて不適切です。あなたにとっては難しすぎた、あなたはその科目を履修すべきではなかった、それは確かにそうかもしれない。でもね、今の平均的な理系学生、昔のあなたより優秀ですよ。あなたがとったら難しすぎた科目をちゃんと勉強して、ちゃんと優を取っていく学生、間違いなくいます。そのような優秀な学生が読んだら足を引っ張られる記述ばかりじゃないですか。そんな記事は極めて有害です。--60.132.33.186 2017年9月24日 (日) 07:08 (UTC)

(すじにくシチューの意見)本文でも書いたように、理系の大学でいう「教養」とは、教養課程の自然科学科目の「教養」については、主に基礎学力というような意味です。
なので、幅広く雑学的にいろんな事を知るのが、理系大学レベルの「教養」だと思ってるような人の書いた編集は、信用できません。私はIP氏の文章を読んで、雑学的に「教養」の意味を捉えてると感じました。カルチャーセンターの講演じゃないんだから、理系大学では教養課程ですら、そんな簡単に単位取得レベルに習熟できません。 --すじにくシチュー (トーク) 2017年9月27日 (水) 21:40 (UTC)
Wikiのページに関する編集は, 議論ページでしっかりと内容を複数人で見直しながら進めていくやり方が適切であり, それに関してはすじにくしちゅー様に同意します。ただし, このページの章構成の重複が目に余ること, このページの内容が大学新入生に向けたガイドとしては全く不適切であることに関して, 60.132.33.186様に同意します。 別の議題スレッドを立ち上げましたが, このページは現行の大学教育に携わる人の意見を積極的に取り入れて, 全体的に改定する必要があるように思います。--Tiovitalarge (トーク) 2017年9月28日 (木) 12:21 (UTC)
すじにくシチューさんのコメントに対して。まず、このコメントが私のコメントに対する反駁にはなっていないことを宣言しておきます。私がこのスレッドの中で「教養」の概念について触れたことが一度もないことは、ページ内検索をかけていただければ明白かと思います。そのうえで親切心でコメントしますと、「幅広く雑学的にいろんな事を知るのが、理系大学レベルの「教養」だと思ってるような人の書いた編集は、信用できません。私はIP氏の文章を読んで、雑学的に「教養」の意味を捉えてると感じました。」とのことですが、私はそんな風に考えていないのですが、どこからそのように感じたのでしょうか。私が編集した本文を見ても、「教養」という単語を使っているのは「この現状は広く教養を身につけるという観点では不適切なのですが、修士までのわずか6年間で高度な専門教育をしなければいけない中ではしかたないのかもしれません。」という一文のみなのですが。教養を身につけるにはそれ相応の勉強が必要であるというのは当然のことで、その点についてなんら対立はありません(まぁ単位取得ごときを目指すだけの低いレベルでの学習では教養は身につかないと思いますのでそこは一致してませんけど)。そこで「教養を身につけるのはあきらめろ」と言っているのがあなたが書いた本文で、「勉強しろ」と言っているのが私の書いた本文であると認識しています。まずはこの認識は正しいですか?間違っていますか?そして、この意見対立があるとして、落としどころはどのあたりにあるでしょうか?それではまずはこの一点に絞って議論しましょうか。無駄な演説は論点が発散して迷惑ですから不要です。まずはこの一点のみについてコメントください。
Tiovitalargeさんのコメントに対して。概ね同感です。ただ、現状のwikibooksの人材不足に鑑みて、「現行の大学教育に携わる人の意見を積極的に取り入れて」は現実的でないと思います。「現行の大学教育に携わる人」はおそらく現時点では誰一人参加していないと思います。残念ながら私ももちろん対象外です。ですので、素人が雁首揃えてあーでもないこーでもないと言いながら、少しでもまともな方向性を目指す、ということしかないのかな、と思います。--60.132.33.186 2017年10月1日 (日) 07:13 (UTC)

志の低く視野の狭い学生に向けた大学生活ガイド/理系[編集]

自分の興味のある分野を広く模索し, かつ己の専門分野を大学に入るまでは考えつかなかった視点で見ることができるようになること。 これが大学での教養科目の存在意義だと考えています。 テストで点数が取れればいい, よい成績が取れればいいというような考え方で書かれた文章は, 知識欲を持った大学生に対しては非常に有害な文章です。

また, 大学での勉強は暗記での知識の詰め込みのみが目的なのではありません。 柔軟な思考能力とそれをアウトプットできる表現力を養うことが, これから科学者やその他の道に進むための大きな礎となります。

確かに幅広く裾野を広げすぎて単位を落とすのは論外ですが, 私の通っていた旧帝大のシステムには以下のシステムがありました。 「教養の選択科目に関しては成績確定前に必須単位数を超えるものに関しては任意に履修していないものとしてGPAを計算できる。」 このシステムにより, 私は教養分野で多くの科目を履修することができ, 成績に関しても教養科目を含めてGPA3.65で卒業しています。

すじにくしちゅー様はいつ大学をご卒業されましたか? 大学のシステムは刻一刻と変化し, 学生の意見を取り入れた新しい仕組みができています。 一体どれほどの大学新入生が見るのかはわかりませんが, このようなページは相当前に卒業した志の低い一学生が書くのでは意味がありません。 現在も大学での教育に携わっている教員の目線で書いたガイドこそが新入生が必要としているものです。

ここはあなたのブログではありません。このような凝り固まった視点で記事を書くなら, 今ではいろいろな媒体があります。 Yahooブログなどが良いでしょう。このような記事をWikibooksに書かれるすじにくしちゅー様にはおすすめの媒体です。--Tiovitalarge (トーク) 2017年9月28日 (木) 12:07 (UTC)


「テストで点数が取れればいい, よい成績が取れればいいというような考え方で書かれた文章は, 知識欲を持った大学生に対しては非常に有害な文章です。」ですか。私から言わせれば、日本の大学の教育内容が、そうせざるを得ないほどにデタラメってことですよ。
筆記試験の難度の調節も大学ではデタラメであり、推測ですが、きっと、いくつもの理系大学で、授業を教室の最前列で聞いてるような学生達が、大量に不合格になる科目も、数年ごとに、どこかの大学で、よく発生しているでしょう。
たとえ入試では、優秀な成績で入学したような学生ですら、定期試験で大量に不合格になる試験を出題したりします。大学教員たちはよく、「高校の教育と、大学の教育は違う! 高校ほど、甘くは無い!! 大学の勉強こそが、真の勉強だ!!」と主張しますが、私から言えば、事実は逆ですよ、理系では、大学のほうがデタラメなんですよ。日本国民がバカだから、まるで戦前に財閥への嫉妬のために対抗馬として軍部をかつぎあげて軍部の横暴を支持したバカ国民のように、現代のバカ国民も官庁・大企業の文系エリートへの嫉妬のために理系をかつぎあげてるだけのバカ国民ばかりで、いまは大学の理系教育のデタラメを無視して理系を支持してるだけのバカ国民なんですよ。
そもそも日本の理系大学は、筆記試験では、実務からはズレた難問・奇問ばかりを出題しています。工学部では教員自体が、企業などで労働した景観が無かったりします。企業の実務で、微分方程式は使いません。大学の筆記試験によくある、試験時間内に微分方程式を立たせて解かせる問題は、実務では不要です。
たいていの実務では、よく使う公式は、高校の数学2Bレベルの学力で計算できるように、公式集などが整備されています。たとえ微分方程式を使ったとしても、せいぜい、高校生もで解けるような、二回線系微分方程式までです。クレーローの方程式を短時間にといたりするのは、実務では不要です。また、マクスウェルの方程式など物理の微分方程式を知ってる事は望ましいですが、しかし電磁気の教科書に書いてあるような、電磁場を微分方程式で求めるような計算問題は、実務では実験によって求めるべきものであり、不要でしょう。
電磁場や流体場などの分布は、実務では、実験によって求めます。コンピュータの精度不足などの問題もあり、実験のほうが正確だからです。これらの分野では、数式の使い道は、最小二乗法などで実験値を近似して実験式を入手するような場合でしか、使いません。
だから本来なら、大学では、公式の計算スピードよりも考え方の理解を重視すべきなのですが、しかし困った事に日本の理系大学では、大学教育なのに、まるで受験問題の早解きマニア育成のような教育が横行しています。学科によっては、そのような早解き教育が伝統化しており、その学科の学会の中枢に、そういう人物が多くいます。
日本の理系大学では、この程度の実務(実験値を最小二乗法で近似して、設計に必要な実験式を得る)も知らないバカ教員が「高校の教育と、大学の教育は違う! 高校ほど、甘くは無い!! 大学の勉強こそが、真の勉強だ!!」とか、学者ヅラしてホザいてやがるワケですよ。
だいたいマクスウェル方程式なんて、実務で使おうとしても、符号のプラスマイナスを間違えやすく、あまり役立たないと思いますが、しかし大学の定期試験では、知ったか振りの教員にはマクスウェル方程式を使った計算問題はウケが良い。私には、日本の物理教育の将来が不安です。
また、理系の大学では、授業はそもそも、研究をする場所ではないのです。理系大では文系大の『ゼミ』科目のような、最新のテーマについて話しあうような科目は、存在しません。理系では、学部段階では、研究活動は卒業研究の科目でしか、行われません (ごく一部の天才的で「飛び級」などをできる学生を除けば)。
そもそも理系信仰をしてるバカ国民の本音は、文系エリートへの嫉妬ですから、バカ国民の大半は、具体的な理系の教育内容にも興味ないんですよ。バカ国民には、(表面的に見て)「まじめそう」っていう雰囲気が大切なのよ。戦前の庶民の目からは、軍人も「まじめそう」でしょ? 軍部の学校は入学も難しく、庶民の目からは軍人は勉強家っぽさそうでしょ? たとえ、軍大学の研究レベルが低くても、そういうのに、バカ国民は興味は無いんですよ。
第二次大戦後は文系エリート批判に天皇をかつぎ挙げることが出来無いから、いまや代わりに科学の権威を担ぎ上げてるだけの、バカ国民なんですよ、日本の大衆は。
現代の日本の理系信仰も戦前の軍部信仰と同じで、教育内容が実務からズレてても、バカ国民は興味ないんですよ。--すじにくシチュー (トーク) 2018年3月14日 (水) 10:41 (UTC)
トークページは無駄話をする場ではありません。記事をどのようにするか話し合う場です。で結局あなたはこの記事をどうしたいのですか?--115.36.234.15 2018年3月14日 (水) 12:55 (UTC)