トーク:学習方法/高校倫理

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出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

「利用者:椎楽」は、私の編集を「演説」とか言って差し戻ししましたが、 しかし、彼には残念ながら、この記事の初版を書いたのは私です。

私は最初の版から、思いつきを書いているだけです。

椎楽は、気にいらない内容は「演説」とか「エッセイ」とか見える、便利な目ん玉の持ち主ですね。

要するに椎楽は、記事の内容ではなく、私の態度が気にくわないのです。

椎楽は、もし記事に、文部科学省や大学など教育体制に批判的な内容があれば、それを「演説」とか「エッセイ」と認定する思考回路なのです。

要するに椎楽は、文部省のファンまたは大学のファンまたは受験産業のファンであり、自分の信望している人が批判されたから、気に入らないのです。--すじにくシチュー (トーク) 2018年2月20日 (火) 00:31 (UTC)[返信]


高校の『倫理』科目の教育内容なんて、大学では学問として信用されてないのが現実でしょう。

よく教育評論などで、「受験生は高校『世界史』や高校『政治経済』を学ぶべきだ」などと主張されてたりしますが、裏を返すと、その他の『倫理』など社会科の科目の教育価値が世間から疑われてるわけです。

特に哲学系の学問なんて、高校で要求される暗記と、大学で要求される文献の大量の読書などが、大幅に違っており、高校『倫理』が、まったく信用されてないのが現実でしょう。

『現代社会』も、似たようなもので、大学で信用されてないでしょう。 現代社会の参考書などに書いてある用語なんて、ひとむかし前の社会学や心理学の用語なんて、ひとむかし前に大学で流行った用語を書いてるだけで、『現代社会』は学問体系として信用されてないでしょう。

このように高校の『倫理』と『現代社会』は、他の科目より信用が低いのです。

そして、大学の哲学系や社会学の学問すら、就活などでは信用されてないのが現実ですよ。--すじにくシチュー (トーク) 2018年2月20日 (火) 00:42 (UTC)[返信]


Wikibooksにいる、品質管理かのようなフリをしている偽善者の特徴として、記事の内容に不満があると差し戻しをするのだが、しかし、どこをどう書き直すべきかは、一行に述べない。

なぜなら彼らは具体例を書くと、責任が生じるからです。でも、本来は、その代案を述べるのが、マトモな企業の品質管理なんですよ。

彼ら偽善者は、他人に負担を押し付けるしか、能のない人です。

彼らの脳内では、「なぜか他人は、自分の意向を忖度して編集してくれる」と思ってる、変な人たちです。自分は他人の編集を差し戻しして当然だと考えながら、他人が自分の編集を差し戻しすると抵抗する、変な人たちです。

そのくせ、まるで記事の品質管理をしてるかのように、高圧的に振るまおうとする。何様のつもりでしょうか?

他人に文句をいうだけで、自分では何も著作物を作ろうとしない、偽善者たち。

最低限、記事の差し戻しをする際は、下記の点を検討すべきでしょう。

1. 記事内容が虚偽であるか?
2. 訴訟リスクや著作権侵害など、法的リスクの有無はどうか?
3. 記事内容がサイトの目的に合っているか? wikibooksの場合なら、教育目的に合っているか?
4. それは、差し戻しではなく、上書きでは対応困難か?
5. 差し戻される先の編集のほうが、差し戻された編集よりも上質だと、コミュニティの大多数を説得できるか?


どう考えても、ここまで考えちゃあ、いないですよね。

単に、文体が謙虚かどうかとか、自分ごのみの執筆スタイルかどうかで、差し戻しを判断してるだけですよね。

要するに、好みを押し付けてるだけの差し戻し編集者が、wikibooksにいますよね。

wikibooksは文体模索の趣味サイトじゃないんですよ。小説サイトじゃないんですよ。--すじにくシチュー (トーク) 2018年2月20日 (火) 01:05 (UTC)[返信]


少なくとも、高校『倫理』が、「倫理」という科目名に反して、哲学史の科目であることは、説明すべきでしょう。しかし椎楽は、この説明ごと差し戻しをしましたが。本居宣長とかパスカルとか、どう考えても、倫理のありかたを考えた人ではないですし。参考書などに書かれてる「ラプラスの宇宙論」なんて、もはや宇宙についての考察ですし、どこが倫理なのかは不明です。

しかし、「高校『倫理』は、倫理学ではなく、哲学史の科目である」と考えれば、ツジツマが合います。また、旧制高校などからの哲学書を高校生が読む昔の伝統などとも、整合性があります。

そういった事まで記事の個々の主張の是非を考えるのが面倒くさいのかもしれませんが、しかしそもそも著作活動とは、そういう面倒くさいものなんですけどね。

本来、こういう説明は、差し戻しをされる側である私が説明すべきことじゃなくて、差し戻しをしたい側がこんくらい考えてから、差し戻し後に、自身の考える、より高度な内容で上書きをするもんだと思うんですけどねえ。

ハッキリいって、椎楽は、記事を書くだけの思考能力に到達してないように感じます。--すじにくシチュー (トーク) 2018年2月20日 (火) 01:21 (UTC)[返信]

演説お疲れ様です。相変わらずコミュニケーションを取ろうとするのではなく、誰に向けているのか分からない(もしかして、すじにくさんのファン宛のアピールですか?)罵倒のオンパレードに笑うしかありません。これだけ個人攻撃をしてもBANも警告もされないのですから、wikiプロジェクトっていいところですね。さて。斯様に言われた以上、私も黙っているわけには参りますまい。すじにくさんの加筆をなぜ差し戻したのか説明しましょう。なお、これまでの会話(私が関与しているか否かに関係なく)から、すじにくさんの読解力にはいささか問題があると判断せざるを得ないため、分かりやすくする措置をとっています(具体的には太字や色付けなどをしています)。
結論からいえば、雑な考察と何の根拠もなく妄想を垂れ流している加筆は害悪だからです。『倫理』を学ぶ(ぼうとしている)高校生に何の得にもなりません。仮に、こんなのをレポートとして提出されたら、どんな先生だって不可にするでしょう。まだ、差し戻し前の方が毒にも薬にもならない分、マシだったためそのまま差し戻しました。これだけだとすじにくさんの罵倒と大差なくなってしまうので、逐次、先日の加筆のどこがまずいのかを指摘していきます。なお、矢印の後は私の指摘です。

  • 「フランス革命ごろの思想家ルソーは「女に自由権はいらない」みたいな言説を著書『エミール』で言ってますが、そういうのは高校倫理では紹介されません。」「なぜなら日本の文部省にとって、男女同権に反する言説であり、都合が悪い言説だです。」
→すじにくさんは文科省の職員だったのでしょうか。ぜひ、その根拠となる個所があればご発表下さいな。こんなところで管を巻くよりも遥かに名声が上がりますよ。まぁ、冗談はさておき、単純に教える時間がないからでしょう。ここで言うようなことを扱うとすれば、「女性の権利についての歴史」という感じでしょうが、こんなのを教えられる方はそう多くないでしょう。
→で、「フランス革命ごろの思想家ルソーは「女に自由権はいらない」みたいな言説」を紹介することでどういう知見が得られるのでしょう? 現状としては「オレ、ルソーの問題点も知っているんだぜぇ(ドヤッ」という自己紹介以上のものではない
  • 「日本だけでなく、海外の大学にとっても不都合なので、エミールのような言説が隠されています。」
→海外の大学、それも分野違いの哲学の事情までよく御存じなんですねぇ。ところで、私は大学で『エミール』の演習に参加しましたが? 随分前なのでもう覚えていませんが、もちろん、『エミール』第五編も議論になったはずです。フランス思想系や教育学の講座では演習で『エミール』を扱うことは珍しくないでしょう。それに、フェミニズムの研究者やルソー研究者からすれば常識となっていることをわざわざ隠す必要がどこにあるんでしょうか? はっきり言ってすじにく氏の妄想にすぎない
  • 1.「つまり、そもそも大学などで教えられる『哲学史』が、哲学の歴史ですらないのです。」2.「古代中国の思想家である荀子や韓非子など、儒学者でない中国思想家は、旧来(当時)の儒教道徳を否定しており、「親が死んだ時に、親のために作る墓の大きさとかで、孝行な息子かどうかを決めるのは、変だろ。」とか言ってたりしますが、そういうのも、高校『倫理』では紹介されません。」
→1と2に論理的なつながりがみられない。ついでにいうと、すじにくさんがここでおっしゃるようなことを書くことで、高校生に何のメリットがあるのでしょう?
  • 「なぜなら日本人や韓国・中華人民共和国などにも、儒教道徳的な葬式を支持する人は多く、日本国民を偽善者だと批判するような言説は、文部省にとって不都合だからです。」
→妄想乙。そう言われたくないなら、根拠を示してください。根拠のない妄想が多すぎます
  • 「哲学史は思想史ですらない」
哲学史と思想史って何が違うんですか? というよりも哲学史も学んだことがなさそうなのに、よくもまぁ、言えたもんだなと感心します。
  • 「第二次大戦期にガンジーが『非暴力』によるイギリスへの抵抗を主張しても、実際のインドの独立は、政治運動家チャンドラ・ボースの主導する武装闘争による軍事力によって獲得されたものです。」「しかし哲学史では、ガンジーは紹介されても、ボースは紹介されません。ボースの軍事行動のような史実は、哲学史では隠されています。」「なぜなら、欧米の哲学分野の大学教授にとって、ボースのような軍事力によって訴える行動は、不都合なのです。」「哲学者にとっては、「行動よりも言論こそが最強」というのが好都合だからです。ボースは、言論人である大学教員の哲学教授どもにとっては、不都合だからです。」
→インド独立云々のくだりは保守を名乗る破落戸のトンデモ本がソースなのでしょうか。それはさておき、言っていることが意味不明です。
→「軍事力に訴える行動を認めるのは欧米の哲学者にとって不都合」? なるほど。それでは、レーニンや毛沢東はすじにくさんにとってもっとも理想的な「哲学者」なんですねぇ。自ら力に訴えた国づくりをしたし、哲学の著作もありますし。それはさておき、これも根拠をお願いします。
  • 「つまり、大学教員たちは、自分たちの都合のよいように、思想史を塗り替えています。そもそもの哲学史じたいが、こういうゴミのような学問です。」
→思想家でもなんでもない活動家(さらに自分のお気に入りの人物なのでしょう。自称保守にボースは人気があるようですし)を扱わないからといって、「思想史を塗り替えています」とは恐れ入りました。ぜひ、すじにくさんご自身でボースの思想とやらを紹介して下さい。ボースの、どこに画期的で斬新で後世に大きな影響を与えた思想があるのか。期待しないで待っています。(先にくぎを刺しておきますが「インド独立の事実こそが偉大な思想だぁ」などという誤魔化しは無しで)
  • 「また、哲学史に紹介されるような人たちも、その時代の『哲学』とされる学問そのものを研究してきたわけではなく、文学や数学や歴史学などを研究してきた人たちです。」「たとえば江戸時代の国学者の本居宣長(もとおり のりなが)は、もちろん哲学者などではなく、日本の古代の古文や古代史を研究してきた人です。」「西洋の中世の哲学者として紹介されるような、デカルトやパスカルは数学者です。」
→これに関しては間違ってはいません。数少ないまともな箇所です。確かに、近代までの人文・社会・自然科学者は「哲学」を研究していたわけではありませんので。しかし、こういう記述は少々おかしい。なぜなら、近代以降に様々な学術分野が独立するまでは「学問=哲学」だったわけです。例えば、ホッブズの『リヴァイアサン』「第九章」では学問体系そのものを哲学とよんでいますし、欧米の博士号の多くが直訳すれば「哲学博士」であるPh.Dなのも、そのためです。いわば、前近代の哲学者たちは学問体系ないし、そのための基礎的な思考の枠組み作りをしていたわけです。また、「ギリシャ古典哲学の流れとは異なる思想を哲学と言っていいのか」という議論もあります……こういうことを踏まえたうえで言うならばいいのですが、どうも近代以降の学問分野の枠組みにとらわれすぎじゃないですかね?
  • 「なお、現代の数学や物理学において、デカルトやパスカルの書いた哲学的な随筆は、相手にされてません。」「数学や物理学を勉強するには、哲学史は不要です。」
→まぁ、そうでしょうね。で、だから何? 何が言いたいの? こんなことを言うことで「倫理」学習者にとってどんなメリットがあるの?としか言えません。巷にあふれる「数学(or古文or漢文……etc)なんて役に立たない」という、成績の悪い中高生の言い訳と大差ないレベルの記述です。
  • 「単に、今の科学者だって余暇にはマンガを読んだりするように、パスカルなど中世の科学者が余暇に当時の流行の文化であった哲学をしてみただけの事です。」
→それは、あなたの専門とも関係する、自然科学の先人たちに対しても非常に失礼な発言でしょう。先ほども述べたように、前近代のヨーロッパにおいて学問・思考の枠組みを哲学とよんだわけですから。彼らが必死に新しい学問体系を作ろうとしたことをバッサリと「当時の流行の文化であった哲学をしてみただけ」と言い切ってしまう、その根性に恐れ入ります。というか、すじにくさん、アンタ、学問や先人に対する敬意ないでしょ?とも言いたくなります。
  • なお、「倫理」が事実上「哲学史」ないし「思想史」になっているという点については私も同意します。というか、それくらいしか同意できる点がない

以上です。差し戻したければ、これらの点に応えてからにしてください。
なお、すじにくさんの被害妄想と1ビット思考にもとづく、私に対する暴言の数々については建設的な議論になりそうにないので、とりあえずは触れません。あしからず。
--椎楽 (トーク) 2018年2月20日 (火) 15:22 (UTC)[返信]