小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代

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この章の概要

★時代区分:明治時代後期、大正時代
★取り扱う年代:1889年(大日本帝国憲法の発布)から1925年(昭和改元)まで

大日本帝国憲法の制定
明治維新の改革は、五箇条の御誓文の方針によりなされましたが、改革が進み近代文明国としての形がひととおり整ってきたところ、さらに政治の形を確かなものとし、人々の権利を明らかにするため、憲法の制定と選挙によって選ばれた議員による議会を開くことが求められました。板垣退助大隈重信は国会の開設を求めて、政党をつくりました。伊藤博文を中心とした明治政府は欧米諸国の憲法を研究し、1885年に内閣制度が創設され、1889年に大日本帝国憲法が発布されました。翌年憲法の精神に基づいて、初めて総選挙が行われ帝国議会(国会)が召集されました。
日清戦争と日露戦争
急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします。朝鮮は中国の帝国(しん)の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに日清戦争が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌年、陸奥宗光外務大臣と清の提督である李鴻章が交渉し、清の日本への賠償や台湾・遼東半島の割譲などを定めた下関条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
遼東半島はロシア、ドイツ、フランスが反対したので割譲は取りやめとなりましたが(三国干渉)、そこにロシアが進出し、それを警戒する日本と対立しました。1904年日本とロシアは開戦し(日露戦争)、日本とロシアは、ロシアが植民地としていた遼東半島や中国東北部(満州)で戦いました。日本は多くの犠牲者を出しましたが、東郷平八郎がロシアのバルチク艦隊をやぶるなどして有利な位置となり、翌年、小村寿太郎外務大臣とロシアのウィッテが交渉し、ロシアの中国からの撤退、南満州鉄道の譲渡、南樺太の割譲などを定めたポーツマス条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
条約改正と国際社会での地位の向上
幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。まず、政府は、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを示し、日清戦争終結後の1899年治外法権を撤廃しました。そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、1911年関税自主権も回復しました。
1912年大正天皇が即位し、元号が「大正」となりました。
1914年にヨーロッパの国々を二分した第一次世界大戦が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する連合国に参加し、敵対する同盟国の一つであるドイツが租借する中国の青島(チンタオ)や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は連合国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための国際連盟が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。
このころになると、日本の科学技術の水準も世界的なものになり、野口英世のように国際的な研究者がでてくるようになりました。

世界の変化2 - 市民革命[編集]

日本が鎖国をしている間、ヨーロッパやそれを受けたアメリカ大陸では、産業革命ともうひとつの大きな社会変革が起こっていました。
市民革命以前のヨーロッパ
ヨーロッパの国々も長い間、生まれながら身分によって職業などが決められ、多くの人々は農民や職人として土地(荘園)の領主(「封建(ほうけん)領主」といいます)や都市の貴族などに服従する社会でした。また、この時代は、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会が、強い影響力や荘園を持っていたというのは、前にお話しした通りです。この時代を封建(ほうけん)[1]の時代と言います。
14世紀くらいになると、都市を中心に商業が発展してきて、豊かな財産を持って、荘園領主よりも強い影響力を持つようになる者もでてきました。15世紀「大航海時代」になると、さらに、貿易や植民地からの収益で都市の商人などは勢力を強くしました。また、繊維工業などを中心に、人を集めて工場などを経営する人たちもあらわれました。これらの、封建領主や貴族ではない階層の人たちを、「市民(しみん)階級」といいます。これらの、市民階級の経済力を背景に、ヨーロッパの各地で強い力を持った国王が誕生し、伝統的な荘園領主などを圧倒しました。これを、絶対王政(ぜったいおうせい)の時代といいます。絶対王政の王国は、政治を行う政府は専門の役人をおき、戦争に備えて軍隊を平時から常設するようになりました[2]
市民革命と近代国家
市民階級が台頭してくると、封建制度以来の身分制度に対して、生まれながらの身分にかかわらず人間は平等であり、自由に発言や経済活動をする権利人権)を持っているという考え方が広がってきました。また、封建制の時代はおさめている荘園の収穫から政治を行っていましたが、絶対王政の政府は、市民階級からの税金で成り立つようになりました。そうすると、税金を取られる市民たちは、外国との戦争など国王の都合だけで徴税されることに不満を持ち始めました。こうして、17世紀以降、市民階級は絶対王政と対立するようになります。市民階級は代表を出して、政治に参加するようになります。議会国会)の始まりです。さらには、国王の圧政に対しては、市民階級が集まって武力をもって王政を倒したりしました。これを「市民革命(しみんかくめい)」と言います。
市民革命は、17世紀のイギリスに始まりました (清教徒革命など)。ひきつづいて、北アメリカ大陸のイギリス植民地が、独立を求めて戦争を起こしアメリカ合衆国が成立しました (アメリカ独立戦争)。そして、1789年代表的市民革命であるフランス革命が起こります。市民革命は、フランスのナポレオンが、フランスの革命政府を打ち倒そうとする周辺の国々を逆にせめた戦争によってヨーロッパ各地に広がります。
市民革命自体は、各国の状況によって様々な結果を生みました。革命後に王政が復活した国もあります。しかし、市民革命で国の政治に身分によらない一般の市民が参加できるようになって、広く国全体から資金を集める仕組みができたこと、また、兵隊に国民が動員されるようになったこと(徴兵制)から、数が多く強力な軍隊を持つようになり、それまでの、封建的な国や絶対王政の国を圧倒するようになりました。これらの古い体制の国々も、市民階級を国の政治に参加させるように、国の仕組みを変えるようになりました。まず、国民の権利を保障し、国民の代表が参加する議会を設置して国の政治に参加できるようにしました。そして、そのことを憲法という、強い力を持った法律に定めるようになりました。
国が、国王などの所有物ではなく、そこに住む国民によって成立するという近代国家(国民国家)の誕生です。

大日本帝国憲法の制定[編集]

板垣退助
大隈重信
伊藤博文
明治になって、身分制度がなくなり[3]、人々は才覚や努力によって、どのような職業に就くこともできるようになりました。人々は、学業をはじめとしたさまざまな努力をして、いろいろな分野で活躍するようになりました。
明治政府は、さまざまな改革を強引に進めたため民衆と対立することも少なくありませんでした。このような民衆の不満は、士族の反乱の後は、こうした近代思想を取り入れて政治参加を求める自由民権(じゆうみんけん)運動につながります。自由民権運動は、憲法の制定と、民衆が政治に参加できる選挙を通じた国会の開設をもとめるようになります。自由民権運動は、征韓論で下野した板垣退助(いたがきたいすけ)と1881年(明治14年)に伊藤博文(いとうひろぶみ)らと対立して政府を離れた大隈重信(おおくましげのぶ)らに主導されました。
大隈や板垣が主導する自由民権運動の主張は、国民の自由と権利を保障する憲法の制定とそれに基づく国民の選挙による議会(民選議会)の開設及び議会による政府の統制でした。伊藤博文ら明治政府を主導する人たちは、自由民権運動の考えをそのまま受け入れると、政策を政府が思うとおりに進めることができず、富国強兵などの改革政策に差しさわりがあると考え、この運動を弾圧しました。一方で各地の有力者や、新たな産業の成功者が登場してきており、明治政府はこれらの人々の支持を受けたいと思っていました。また、欧米諸国から見ると、民選議会が政治を進めない国は遅れているとの意識があり、不平等条約改正にあたっても説得させることができない理由の一つとなっていました。
1881年(明治14年)明治政府は、明治天皇名で「国会開設の勅諭」を下し、1889年(明治22年)に国会を開設することを国民に約束しました。これを受けて、自由民権運動の活動家は政党を結成し、同年には自由党が板垣退助を中心として、翌1882年(明治15年)立憲改進党が大隈重信らによって結成されました。
一方、伊藤は、1882年(明治15年)、憲法制定・国会開設の模範を研究するためためにヨーロッパを視察しました。そこで、伊藤は議会が発達したイギリスや、人権思想が進んでいたフランスではなく、ドイツ帝国の憲法を模範にすることとしました[4]。帰国した伊藤は憲法制定の準備をはじめ、1885年(明治18年)に内閣総理大臣を長とする内閣制度が創設され、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されました。翌1890年(明治23年)7月1日憲法の精神に基づいて[5]、初めて総選挙が行われ、11月25日帝国議会(国会)が召集されました。
明治憲法は以下のことを定めています。
  1. 天皇は、日本の統治者とされます。
  2. 国会は、天皇に「協賛」して法律や予算を定める機関とされます。
    • 法律や予算を決めるのは天皇であって、国会は、その補助をしているに過ぎないという考えを表しています。
    • 緊急と認められる時には、天皇[6]は国会の議決によらず、法律に代わる勅令を出すことができました。
  3. 国会は、貴族院と衆議院により成り立ち、衆議院は選挙によって選ばれた議員により構成され、貴族院は皇族・華族[3]及び勅命[7]で任名された議員により構成されます[8]
    • 衆議院の優位などの定めはなく、各議院で議決されなければ法律などは成立しませんでした。
    • 衆議院議員の選挙権は、憲法を定めた当時は、一定以上の税金を納めた者にのみ認められていました。
  4. 国務大臣は天皇を輔弼(ほひつ)(助言し助ける)すると定められます。また、内閣総理大臣についての定めはありません。
    • 内閣総理大臣は、天皇が指名する建前でしたが、実際には、元老といわれる人達[9]が協議したり、後には首相経験者などで構成する重臣会議で決議して天皇に推薦(すいせん)して決まるものでした。
  5. 軍隊(陸海軍)は天皇が直接まとめひきいるとされました。また、国民には徴兵に応じる義務がありました。
    • 軍隊は、国会や内閣の命令を聞く必要がないと解釈されるようになります。
  6. 欧米諸国にならって様々な国民(憲法においては「臣民(しんみん)」と表されました)の権利が認められましたが、それは、法律の範囲内で認められるものとされました。
    • 女性には選挙権・被選挙権(国会議員や地方議員になる権利)は認められることはありませんでした。また、民法で家族や相続は家制度によったため、女性は不利な取り扱いを受けました。
    • 後に制定される治安維持法は、政治思想(特に社会主義思想・共産主義思想)を取り締まる法律でした。
    • 信教の自由は認められていましたが、神社については、政府が管理し一部の大規模な神社は政府が営んでいました(国家神道)。

日清戦争と日露戦争[編集]

日清戦争[編集]

下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権
急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします[10]。朝鮮は中国の帝国(しん)の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年(明治27年)朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに日清戦争が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、黄海沿岸の軍事拠点を攻撃し、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌1895年(明治28年)、陸奥宗光(むつむねみつ)外務大臣と清の提督である李鴻章(りこうしょう)が交渉し、以下の事項などを定めた下関条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
  1. 清は、朝鮮の独立を認める。
  2. 清は、日本へ台湾と遼東(りょうとう/リャオトン)半島[11]を割譲する。
  3. 清は、日本へ賠償金2億両[12]を支払う。
    • 日本は、この賠償金を資金として大規模な製鉄所を福岡県に作りました(八幡(やはた)製鉄所)。
清はそれまでも、イギリスやフランスと争って負けてはいましたが、欧米諸国は、それでも清国は世界最大の人口をかかえる巨大な国[13]であって、実力を発揮すれば欧米諸国であっても勝てるものではないと思われていた[14]ので中国本土への進出はおさえられていましたが、近代化後間もない日本に敗れたため、欧米諸国は清国への進出を強め、中国大陸の多くの地域で欧米諸国の半植民地と言ってよい状態になりました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話&考えてみましょう】日本は、どうして清国に勝てたのでしょう
戦争の勝敗の原因は、様々な要素があって、簡単に決めることができるものではありませんが、その時代の当事国の違いを比較することで、国の体制などの特徴を理解することができます。ここでは、なぜ、清国はやぶれ、日本は勝つことができたのかを考えてみましょう。
戦争の勝敗を決める要素の第一は双方の国の規模です。大きな国の方が当然有利です。このころ、日本の人口はようやく4千万人程度のところ、清国の人口は3億人を超えていました。農業に適した広大な国土を有しており、近代化が遅れていたとは言え、税収などは日本よりもはるかに大きかったと考えられます。日清戦争の前も、世界最大級の軍艦をドイツから購入していたりします。相手の政権を倒すまでの全面戦争と言われる戦争であれば、日本は、勝つことは難しかったでしょう。
一方で、清国は皇帝の軍隊は八旗(はっき)緑営(りょくえい)と言われる17世紀の軍隊のままで、これは、日本の武士同様将兵が生まれながらの家柄で決まっている軍隊でしたが、アヘン戦争以後の近代的戦争や民衆の反乱[15]では対応できなくなっていました。そこで、地方に派遣された高官は地元の有力者に呼びかけ、その地方の税を流用するなどして、地元の若者を集め、私的に軍隊を組織していました。一種の義勇兵ですが、実際は金を払って集めた傭兵(ようへい)も少なくなかった言われています。
また、清国は皇帝が独裁する事が建前であったため、外交と軍事がばらばらの動きをし、軍事も統一的な動きはできていませんでした。
日本の場合、中央政府が全国民から国の制度として兵を集め、政府の予算で設備をそろえ、組織だった訓練を実施した軍隊を有していました。また、「天皇の軍隊」「日本国の軍隊」としての『国民』意識も高く、これが、士気につながりました。
このような違いから、黄海およびその沿岸での戦闘という局地的な戦争では、国の規模の違いにかかわらず勝つことができたということです。

日露戦争[編集]

遼東半島
1904年当時、日本人がロシアにもったイメージを伝える風刺地図。
下関条約で、日本は、台湾などとともに中国本土の遼東半島の割譲を受けましたが、ロシア、ドイツ、フランスが反対し(三国干渉(さんごくかんしょう)[16])、遼東半島の割譲は取りやめとなりました。ところが、その遼東半島にはロシアが進出し、大連(だいれん)旅順(りょじゅん)[11]といった都市を建設し始めました。
ロシアは、ユーラシア大陸を横断する鉄道(シベリア鉄道)を建築し、ヨーロッパとアジアの間の物流をおさえようとしていました[17]。シベリア鉄道は、もともと、ロシア領内をウラジオストックまでのものですが、ロシアは遼東半島支配に伴って、大連まで東清(とうしん)鉄道を建設し、その途中である満州(まんしゅう)地域[18]を実質的に植民地とするなど支配を強めます。そして、満州に接する朝鮮(日清戦争後、大韓帝国(だいかんていこく))の政治にも介入するなどしはじめました[19]
日本は、ロシアの動きに対して警戒しました。ロシアが満州地域でやっていることは、他のヨーロッパ諸国がアジアやアフリカでやっていて、日清戦争後に中国本土で進められている植民地化であって、そのままでは、満州地域だけでなく、朝鮮半島も、さらには日本までもが、植民地となってしまうのではないかと考えました[20]
日本政府では、伊藤博文に代表される日露の衝突を外交努力などで避けるべきとするグループがあった一方で、陸軍に対して大きな影響を持った山県(やまがた)(山縣)有朋(ありとも)や首相の桂太郎(かつらたろう)、外交官出身の外務大臣小村寿太郎(こむらじゅたろう)らは、戦争は避けられないので、それに向けての準備をするという態度に出ました。日本国内では、戦争に向け軍艦を整備したり新たな兵器の開発を行う一方で、ロシアの中央アジアからインドへの南下などを警戒するイギリスと同盟を結び、ロシアとの戦争に備えました。
日露戦争の経過
1904年(明治37年)日本とロシアは開戦し(日露戦争)、日本とロシアは、ロシアが植民地としていた遼東半島や満州で戦いました。ロシアは、モスクワなどから遠い極東に兵や兵器・軍馬・食料などを送るには、シベリア鉄道に頼るしかないので、すぐに戦場で攻撃の体制を作ることはできません。一方で、日本も、兵などを送るには日本海を渡らなければならないので、この地域の制海(せいかい)[21]を握る必要がありました。海軍はロシアの太平洋側の主力艦隊である旅順艦隊をせめ有利な立場になりますが、旅順艦隊は、援軍である世界最大級の艦隊バルチック艦隊[22]が到着するまで、旅順港に待機することになりました。日本陸軍は遼東半島南端から東進鉄道沿いに北上、朝鮮国境からの軍とあわせ、ロシア軍を満州地域北部までおしもどしました。また、旅順に引き込んだ艦隊がバルチック艦隊と合流すると制海権が危うくなるので、乃木希典(のぎまれすけ)[23]が率いる陸軍の軍団が、要塞となった旅順を攻撃します。この旅順を囲む戦いは、日露戦争の中でも多くの日本兵の犠牲を出しましたが1905年(明治38年)1月に降伏し、バルチック艦隊のみを迎えうつことになりました。そうして、5月に東郷平八郎(とうごうへいはちろう)がひきいる日本海軍は日本海海戦でバルチック艦隊をやぶり、日本海の制海権を安定したものにしました。
日本は、戦争を有利に進めたとことで、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトに講和の仲介を依頼し、日本からは小村寿太郎が、ロシアからはウィッテ(前蔵相、のちに初代首相)が、米国のポーツマスに出向き、講和会議が開かれました。1905年9月5日、以下の事項を決めた条約(ポーツマス条約)が結ばれ、ロシアは中国から撤退し、日露戦争は日本の勝利で終わりました。
  1. ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認める。
  2. 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
  3. ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
  4. ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借(そしゃく)[24]権を日本へ譲渡する。
    • この路線は、「南満州鉄道」と改称され、日本の満洲進出の基礎となります。
  5. ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
  6. ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
ポーツマス条約では下関条約と異なり賠償金の支払いはありませんでした。一部の日本国民はこれを不満に思って、暴動をおこすものもありました。しかし、国民には知らされていませんでしたが、戦争を有利に進めていたとはいえ、これ以上は財政上ほとんど無理な状態になっていて、すぐにでも戦争をやめなければならない状態になっていました。ロシアはそれを見越して、敗戦国でありながら、比較的有利な条件で講和条約を結んだといえます。
しかし、この結果、満州や朝鮮半島に対するロシアの脅威は去りましたので、日本は、この地域への進出を高めます。特に、満州は石炭や鉄鉱石の地下資源が豊かな地域であったため鉱山開発を盛んに行いました。
韓国については、政治的な不安定を理由に日本の属国化が進められ、1905年12月には統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任しました。
1909年 (明治42年)、伊藤博文はロシアとの外交交渉のため満州のハルビンに出向きましたが、そこで、朝鮮民族主義者に暗殺されます。それまで、韓国に対しては朝鮮民族に対し強硬的に望む人たちと、穏健に進めるべきという人たち(伊藤博文もその意見でした)が対立していたのですが、伊藤博文が暗殺されたことで、強硬派の勢いを増し、1910年(明治43年)8月に、日本は大韓帝国を併合しました(韓国併合(かんこくへいごう))。
日露戦争は、日本とロシアの戦争でしたが、その戦いは清国の領土でなされました。清国は、もはやそれを止める力を失っていました。中国の人々は、外国に国土を侵される不安が高まり、中国の人々が政治参加をする国をつくるため、1911年孫文(そんぶん)が主導者となって革命を起こしました(辛亥革命(しんがいかくめい))。翌1912年清王朝は滅ぼされ、アジアにおいて史上初の独立した共和制国家である中華民国(ちゅうかみんこく)が誕生しました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】ロシアの南下政策
ロシアは、ヨーロッパの国の中では最も東にあって、17世紀にシベリアを征服し太平洋に達する領土を持つ大きな国ではあったのですが、ヨーロッパ中心部から離れていたので産業革命などはおくれてつたわりました。また、国土の多くが北にあったため、冬にほとんどの港が凍結するなどして、通商などにも支障が出るため、南へ勢力を伸ばす政策をとっていました。これを、「『不凍港(ふとうこう)』を求めての南下」と言ったりします。19世紀、黒海(こっかい)を勢力におさめようと、1853年トルコ(オスマン帝国)の領土であったバルカン半島などで戦争(クリミヤ戦争[25])を起こしましたが、トルコをイギリスやフランスが支援し、この戦争ではロシアは敗北します[26]。その後のバルカン半島の各民族の独立運動に合わせ、1877年オスマン帝国と戦争(露土戦争)をし、これに勝利しバルカン半島を経由したロシアの南下路が開けます。しかし、軍事的な勝利を収めたロシアの勢力拡大に対して欧州各国が警戒感が広がったため、ドイツ帝国の首相ビスマルクが主導し、1878年ベルリン会議を開き、ロシアの南下政策を止め、ロシアはバルカン半島方面の南下を一旦断念します。
そこで、ロシアは、ヨーロッパ方面から世界へ出ることをあきらめ、東側のシベリアを経由して中央アジアや太平洋への進出をもくろみます。その結果のひとつが、三国干渉及びそれに続く遼東半島への進出です。
しかし、日露戦争に敗れたため、ロシアは、ふたたび西へ目を向けます。そこで、バルカン半島から東に勢力を伸ばそうとしていたドイツとぶつかります。これが、第一次世界大戦の原因の一つとなります。

【脱線 - 覚えなくてもいい話&考えてみましょう】日本は、どうしてロシアに勝てたのでしょう
ここでは、なぜ、ロシアはやぶれ、日本は勝つことができたのかを考えてみましょう。
双方の国の規模ですが、日本とロシアでは、人口で3倍、国家予算で10倍、常備軍で5倍という、大きな差がありました。また、清国と違い、ロシアの軍隊はロシア皇帝の下に組織された近代的な軍隊でした。実際、戦没者はロシアが81千人程度のところ、日本は88千人と日本の方が被害が大きかったりしています[27]
このように、日本に大きな被害が出た戦争であっても、ロシアが強気に出られなかったのは、サンクトペテルブルクやモスクワなどがある本拠地であるヨーロッパから、鉄道で10日以上かかる遠隔の地で兵隊を送ろうとしても、1日に数千人程度が限界だったからでしょう[28]。ロシアにとっては、バルチック艦隊が日本海の制海権をにぎって、日本が大陸に兵隊や物資を送れなくすることで逆転をもくろんだのですが、日本海海戦でその希望もなくなり、ロシアは戦争の継続をあきらめたのだと思われます。
バルチック艦隊は強力な艦隊でしたが、日英同盟により、インドなどイギリス植民地への寄港[29]が拒否されたため、大西洋から、アフリカの南を回ってインド洋経由で7ヶ月もの航海ののちの到着でした。また、ロシアは身分制が残っており、士官は貴族階級など上流階級の出身者が多く、それに対して、水兵などは農民出身の者や都市の労働者などが多く、航海での待遇の差もあり、航海中から対立も生じていました。
この上流階級と庶民階級の対立は、海軍だけでなく、陸軍でも見られました。なにより、ロシア国内の一般的な生活でも見られたのです。いくら国の規模が大きいとはいえ、戦争は国民生活に商品不足・インフレーションの影響を与えます。もともと、民衆からの不満がみられ、革命運動もあったところ、日露戦争によるインフレーションと数々の戦いで敗戦したとの知らせで民衆の間に暴動が頻発し、1905年には革命と言っていい状態になっていました。このような国内の不安定さから、ロシア政府は講和を急ぐようになり、日本の勝利につながったといえます。

条約改正と国際社会での地位の向上[編集]

鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵

国際社会と日本[編集]

不平等条約改正の歩み
幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。
明治政府は、文明開化が進んで欧米並みの文明国になったことを示すため、さまざまなアピールをします。たとえば、1883年(明治16年)に外務卿井上馨(いのうえかおる)は、鹿鳴館(ろくめいかん)という、外国からの重要な来訪者や外交官を接待するための社交場を建設し、舞踏会を開いたりしていました。鹿鳴館での舞踏会などには、政府高官の夫人や娘なども参加しましたが、当時はドレスなどの洋装、欧米風の応対のマナーやエチケット、また、ダンスなどは全く一般的ではなく、必死の訓練などがあったと言われています。しかし、このような取り組みは、欧米人には「滑稽(こっけい)」と感じられたと言う記録も残っており、あまりうまくいきませんでした。
一方で、政府は、まず治外法権(領事裁判権)の撤廃のため、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを諸外国に示そうとしました。領事裁判権の裁判は犯罪に関するものなので、法律に関するフランス人のお雇い外国人ボアソナードが指導してフランスの法律をもとにして、1880年(明治13年)に犯罪とその刑罰に関する刑法と刑事手続と裁判を定めた治罪法[30]が制定され、1882年(明治15年)施行されました。1889年(明治22年)には、明治憲法が発布され法制度が欧米並みに整理されたことが、国際的に示されました。外務大臣陸奥宗光は、各国と粘り強く交渉し、まず、1897年(明治30年)イギリスとの間で治外法権を撤廃する条約を結び、日清戦争終結後の1899年(明治32年)すべての国との間で治外法権を撤廃しました。
そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、外務大臣小村寿太郎が主導し、1911年(明治44年)関税自主権も回復しました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】大津事件
1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の警察官に突然サーベルで切りつけられケガを負うと言う事件がありました。
驚いた日本政府は、すぐに明治天皇自身が見舞いに駆けつけるよう手配し、日本を離れる際も自身で見送りました。大国ロシアの皇太子に対して小国日本の国民しかも警察官が暗殺未遂(みすい)[31]をおかしたということで、ロシアが攻めてくるかもしれない、そして、当時の日本ではロシアに勝てるはずがないということで、日本国内は、大騒ぎになりました。
明治政府は、犯人を死刑に処してロシア政府に対して謝罪の意も示そうとしました。
ところが、当時の刑法では、殺人未遂の最高刑は無期徒刑(とけい)[32]で、死刑とすることはできません。そこで、政府は、天皇や皇室に暴行などを加え死傷させた場合に適用される大逆(たいぎゃく)罪を適用するよう裁判所に要請しました。しかし、これは「法律に定められていること以外を罪としてはならない」という近代法の原則「罪刑(ざいけい)法定(ほうてい)主義」に反します。大審院院長[33]児島惟謙(こじまいけん)は、事件の裁判所に、法律に従って判決を下すよう指示し、その結果、死刑ではなく無期徒刑の判決となりました。
このことは、ロシアとの外交関係を難しくさせるおそれがありましたが、欧米諸国に対しては、「日本は、法律を厳格に守る国である」ということが印象付けられ、条約改正に向けても信用を得ることができました。

国際社会での地位の向上
1912年(明治45年・大正元年)大正天皇が即位し、元号が「大正」となりました。
1914年(大正3年)にヨーロッパの国々を二分した第一次世界大戦が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する協商国に参加し、敵対する同盟国の一つであるドイツが租借する中国の青島(チンタオ)[11]や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は協商国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための国際連盟が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。
国際連盟の規約(加盟国が守るルール)をつくるための会議の時に、日本は世界で初めて人種差別の撤廃を盛り込むことを提案しました(人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん))。この提案は黒人をはじめとする人種差別に苦しんできた多くの人々を勇気づけました。しかし、欧米諸国の反対により、賛成多数にも関わらず、「全会一致でない」との理由で、この提案は否決されました。議長として会議に参加していたアメリカの大統領がこの判断をしたので、アメリカで人種差別に苦しんできた人々は自国政府の決定に反発しました。
第一次世界大戦は、今までに見られなかったほどの大規模な戦争で、戦場が全国土に広がり多くの工場設備なども失われ、工業生産が止まってしまったりしました。しかし、主な戦場はヨーロッパで、日本への被害はほとんどなかったため、日本は、ヨーロッパの工業生産に代わって、綿糸や綿布といった繊維製品や化学肥料など、さまざまな工業製品を輸出しました。また、日本へのヨーロッパからの輸入が止まったため、それにかわる重工業などが起こるきっかけにもなり、国際取引においても機械など高度な工業製品を輸出できる国となりました。第一次世界大戦の影響で日本の経済は急速に成長しました。

明治後期から大正にかけての人々の生活や文化と学問[編集]

民主主義を求める動き - 大正デモクラシー
明治維新後、さまざまな殖産興業の取り組みによって、経済的余裕ができ、国民生活は向上し、さまざまな近代文化の進展が見られました。また、欧米から伝わった工業的な製紙法と活版印刷は安価で大量の印刷を可能として、新聞や雑誌が広く普及します。これら新聞や出版業の発達したことと、学校制度が定着し教育水準が上がったことで、国民の政治参加の意識も高まりました。
1918年(大正7年)、当時、コメの価格[34]が上がりつつあって、コメ業者などが買いしめ・売りおしみをする様子がありました。これをに不満を持った庶民の暴動が富山県で起こったりしていました。このような中、ロシア革命で共産主義の国が誕生したことに対抗して政府はロシアのアジア地域(シベリア)に出兵することを決めました(シベリア出兵)。大規模な軍隊を出兵させることは、大量の食糧が必要となることを意味しますから、一部のコメ業者が、ますます買いしめ・売りおしみをすすめたため、コメの価格が急激に上がりました。この、コメの値上がりと富山県での暴動の新聞による暴動を受け、コメの値上がりに対する暴動は日本国中に広がりました(コメ騒動)。コメ騒動を、解決できなかった軍人出身の寺内正毅(てらうちまさたけ)首相は辞職し、代わりに華族ではなく、また幕末に賊軍とされた岩手県盛岡出身[35]原敬(はらたかし)が首相となりました。人々は原首相に『平民宰相』とあだ名をつけて歓迎しました。
さらに、日清戦争・日露戦争といった戦争で、納税額が多いかどうか、つまり財産が多いかどうかにかかわらず、国民として平等に生命を犠牲にするということが意識され、納税額による選挙権の制限(制限選挙)をやめて、成人であれば誰にでも選挙権が与えられる「普通選挙」を求めた社会運動(普選運動)がおこり、1925年(大正14年)すべての男性が選挙権を有する普通選挙法が成立しました。
このような、民主化の動きを「大正デモクラシー」と言います。しかし、まだ女性には選挙権は認められていませんでした。
このように、国民の政治への関心が高まると、選挙で選ばれた国会議員による衆議院の発言力が強まり、内閣総理大臣なども衆議院の意向を受けて選び出されることもありました。しかし、一方で議会での議論においては、政党同士の争いもあって、無駄な議論がなされるように見えることもありました。また、政策に関しての、議員の汚職(おしょく)なども発生するようになりました。
国際化する文化と学問
文明開化を受けて、日本には西洋風の文化が広く普及し、明治20年(1887年)代以降になると、それを受けた独自の文化が育ってきました。
新聞や出版業の発達は上で述べたとおり人々の政治への意識を高めたところですが、そこには、政治的な考えなどだけではなく、人々の娯楽としての小説なども掲載されるようになりました。明治も初めのうちは、歌舞伎の演目などを題材としたものが多かったのですが、1885年(明治18年)、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)は、『小説神髄(しょうせつしんずい)』をあらわし、人々の普段の生活に近い題材をとりあげる、いわゆる近代文学を提唱しました。またその中で、話し言葉と書き言葉の間の大きな違いから、もっと平易で話し言葉に近い言葉を使うよう進められました。これを言文一致(げんぶんいっち)運動といいます[36]。このような動きのなかで、多くの近代文学というものが生まれました。その中には、1895年(明治28年)に『たけくらべ』を書いた樋口一葉(ひぐちいちよう)のような女性もいました。その後、森鴎外(もりおうがい)夏目漱石(なつめそうせき)があらわれ、近代文学が確立します。特に、夏目漱石が1905年(明治38年)に初めて書いた小説『吾輩(わがはい)は猫である』はユーモアに富んだ内容と落語にヒントを得たとされる平易な語り口調で広く普及し、日本語の書き言葉の元になったとも言われています。
美術の分野では、写実的な西洋絵画や彫刻が日本でも制作されるようになりました。政府は1887年(明治20年)、「東京美術学校[37]」を設立し、西洋絵画の製作者や指導者を育てました。
また、音楽の分野でも西洋音楽の受け入れが進み、1890年(明治23年)、演奏家・作曲家や指導者を育てる「東京音楽学校[37]」が開校しました。
学問の分野では、大学教育が定着し、日本の科学技術の水準も世界的なものになってきました。物理学では原子のモデルを提唱した長岡半太郎(ながおかはんたろう)、数学の分野では高木貞治(たかぎていじ)といった世界的に評価される研究者も登場するようになりました。
特に、人々の生活に密着した医学の分野では、世界的に進みつつあった細菌学の分野で多くの成果が見られ、破傷風の治療法の研究やペスト菌の発見をおこなった北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)赤痢(せきり)菌を発見した志賀潔(しがきよし)、黄熱病や梅毒の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補ともなった野口英世(のぐちひでよ)のように国際的な研究者がでてくるようになりました。

【脱線 - 覚えなくてもいい話】野口英世

本文に書いたとおり、野口英世は、国際的に活躍した細菌学者で、現在、その肖像が1000円札に使われている人です。子供の頃から大変苦労して勉強して、多くの業績を残した人で、皆さんの中で、野口英世の伝記を読んだことのある人も少なくないでしょう。ここでは、野口英世の生涯について簡単に紹介して、なぜ彼が偉人とされているかをお話ししたいと思います。
1876年(明治9年)、英世[38]は福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)に生まれます。貧しいというほどではありませんが、決して余裕のある家の生まれではありませんでした。英世は1歳の時に囲炉裏(いろり)に落ち、左手に大火傷(やけど)を負います。ただれた皮膚で指がくっついて開かなくなるというひどいものでした。英世は、学校に上がるようになると、このことでいじめられました。しかし、英世の学校の成績はとても素晴らしいものでした。英世の家計では、上級の学校に出すのは難しく、普通は小学校を出て働きに出るところだったのですが、これをおしんだ教師や地域の人がお金を出し合って、上の学校へ進ませました。また、火傷あとが不便であろうと、やはりお金を出し合って、まだ珍しかった西洋医術による手術を受けさせ、左手を使えるようにしました。英世はこの手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指すこととなりました。
1896年(明治29年)英世は上京し、医学を学びます。1900年(明治33年)米国に渡り、研究を始めます。そして、アメリカを拠点として基礎医学の分野で数々の業績をあげ世界的な名声を得て、何回かノーベル生理学・医学賞の候補者ともなりました。
1918年(大正7年)以降は黄熱(おうねつ)病の研究に打ち込み、黄熱病の流行地域である南アメリカ各国やアフリカに渡って研究を続けます。しかし、黄熱病の研究中に自身もその病にかかり、1928年(昭和3年)アフリカのイギリス植民地ゴールド・コースト(現:ガーナ共和国) アクラで亡くなります。
野口英世が偉人とされるのは、
  • 庶民の出身であるにもかかわらず、高い能力で医者・研究者の地位についた[39]
  • 体に受けたハンディキャップにも負けず、努力して勉強した[40]
  • 能力を世に出そうと、周囲の人が協力した。
  • 日本ではなく、国外の研究所を拠点として国際的な活躍をした。
というところにあると思います。野口英世の業績自体は、その後の医学の発展によって否定されたものも少なくはありませんが、目標に向けて努力する姿には見習うものがあると思います。

日本の経済力が大きくなることにともなって、人々の暮らしもだんだん豊かなものになっていきましたが、この時期に、大きな災害に見舞われてもいます。
まず、1918年(大正7年)から1920年(大正9年)にかけて世界中で流行したスペインかぜといわれるインフルエンザの大流行です。当時は第一次世界大戦の交戦中であったため、軍人を中心に広く行き来し世界中で流行しました。全世界で30%にあたる5億人が感染し、少なくとも1700万人の死者がでたものと推定されています。日本においてもこの3年間で約40万人程度の死者が出ました[41]
もう一つは、1923年(大正12年)9月1日、南関東一円を襲った関東大震災です。マグニチュード7.9〜8.3と推定される大地震[42]で、約1万人が倒れた建物の下敷きになって亡くなり、約9万人が、地震ののちに発生した火災で亡くなりました。

世界の変化3[編集]

この節は、小学校で学習する範囲を超えていますが、昭和以後の日本の歴史に大きく関わる第二次世界大戦がなぜ起きたのか、その後、「世界」はどうなったのかということを理解できていないと、昭和以降の日本の歴史を深く理解することはできません。
この節では、「ナショナリズム」「社会主義・共産主義」「資本主義」とはなにかということについては理解しておいてください。ここでは細かいところを覚えるのではなく、大きな流れを頭のかたすみに置けるようにし、次の章を読み進めてください。

ナショナリズムと社会主義・共産主義[編集]

20世紀初めの世界[編集]

1898年の世界
国旗は上から、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、オランダ、ドイツ、トルコ、ベルギー、ロシア、日本、清、オーストリア、デンマーク、スウェーデン、アメリカ、イタリアの順です。
18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパや北アメリカを中心に産業革命が起こって経済を工業が大きく動かす社会になりました。また、欧米の市民革命をきっかけに経済力を持った市民が国の政治に参加するようになり、国民全員が国の活動に参加する国民国家が誕生しました。日本も、明治維新で一つの国民国家になり、富国強兵・殖産興業をスローガンとして、国内経済の近代工業化を進めました
一方、国民国家をつくりあげ、産業革命で大きな経済力を得た欧米の各国(ここでは、先進国(せんしんこく)』と呼んでおきましょう。)は、各国の工業製品の材料と市場(しじょう)を求め、アフリカやアジアの、まだ、国民国家としてまとまっていない国や地域に進出し、ほとんどの地域を植民地にしていました

ナショナリズム(民族運動)[編集]

近代的な工業は、先進国を中心に進みましたが、やがて、製品を各地に売るため、また、原材料を輸送するため鉄道が各地に伸びて、近代社会は世界各地に広がり人々の生活を変えていきました。植民地となった地域でも近代的な教育が行われ、自由や平等といった人権の考え方が普及します。また、新聞などの出版物により人々のさまざまな考えが、広く伝わるようになります。
植民地となっている地域で、このような知識の高まりが広がると、人々の中に、「どうして、私たちは、言葉や生活習慣の違う人たちに支配されなければならないのか」「私たちの作ったものは、安く買われて、先進国のものを高く買わないといけないのか」という考えが起こってきて、「独立して、自分たちの国を作ろう」という主張が芽生えます。この考えやこの考えに基づく運動を「ナショナリズム(民族主義・民族運動[43])」といいます。
ナショナリズムは、最初、西ヨーロッパに隣接するオーストリア=ハンガリー帝国(「オーストリア帝国」と略します)やオスマン帝国の領土[44]であった中部ヨーロッパや東ヨーロッパ(バルカン半島と呼ばれる地域を含みます)で盛んとなり、これが、第一次世界大戦の大きな原因となります。
第一次世界大戦終結後は、アジア・アフリカの各地に広がり、世界各地で独立運動が展開されます。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】バルカン半島
太線でかこまれた地域がバルカン半島です。色の濃い地域が民族や宗教が入り混じっている地域になります。
バルカン半島は、ヨーロッパ中部、ドナウ川より南のアドリア海と黒海にはさまれた地域で、南は狭い海峡を隔ててアナトリア半島に面しています。歴史的には、古代ギリシア文明が栄えた地域であり、それに引き続いて古代ローマの文化が栄え、アナトリア半島との海峡のそばには、中世まで栄えた東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(ビザンティウム)が建設され、後にオスマン帝国の首都イスタンブールとなります。
バルカン半島は、このように西にドイツやイタリアなどの西ヨーロッパ社会、東にロシアなどのスラブ社会、南にトルコなどのイスラム社会にかこまれ、東西ヨーロッパと西アジアを結ぶ交通の重要な地域であったため、それらの大きな勢力が波のように寄せたり引いたりする地域でした。また、この地域は山がちで、盆地が多く、各盆地ごとに生活する社会ができあがり、大変複雑な状態になっていました。スラブ系民族が多かったのですが、それに、ラテン系民族や、ギリシア系民族が混ざり、一部にはアジア系の民族もいました。また宗教もカトリックとギリシア正教にイスラム教の三大勢力が入り組んでいました。
19世紀以降、人々がナショナリズムをとなえはじめ、各地で独立運動が起こります。この独立運動も運動の中での対立もあって、まとまることがなく、過激な行動も見られるようになりました。こうして、バルカン半島は『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれるようになりました。

社会主義と共産主義[編集]

カール・マルクス
先進国国内にあっては、工業が発展するにつれて多くの労働者(ろうどうしゃ)が生まれました。工場では工場労働者、石炭の炭鉱や鉄鉱石の鉱山では鉱山労働者、港で貨物の積み下ろしをする港湾労働者などです。産業革命前は、たとえば職人などは技術を長年にわたって習得する必要がある反面、技術を習得した職人は、代わりになる人を探すのが難しいという特徴がありましたが、産業革命以降の労働者の多くは単純な作業が多く、それができる人は数多いので経営者の都合で雇うこともクビにすることも簡単にできるようになりました。そのため、経営者など(労働者に対して資本家(しほんか)という言い方をします)に比べて、多くの労働者は非常に貧しい生活となることが一般的でした。労働者は、自分たちの待遇(安定して雇われること、十分な賃金をもらえることや安全な労働環境など)を改善するために労働組合(ろうどうくみあい)を結成し、集団で経営者と交渉したり、場合によってはストライキを起こすなどして資本家に対抗したりしました(労働運動(ろうどううんどう))。そのように、社会が変わっていくのを受けて、自由な経済活動を制限してでも、人々の平等な生活が送れる社会をめざすべきであるという社会主義(しゃかいしゅぎ)の考えが生まれます。市民革命は、国王や世襲の貴族といった身分社会から「自由」に活動できる権利を求める社会の変化でしたが、この自由には、工場を作ったり、物を取引する経済的な自由を含みます。自由な経済活動の結果、貧富の差が生じることについて、これをしかたがないことと認める考え方を、社会主義者は批判して、資本主義(しほんしゅぎ)と名づけました。さらに、社会主義の中から、19世紀の半ばドイツ生まれの経済学者カール・マルクスは『資本論(しほんろん)』を書いて、一層過激な共産主義(きょうさんしゅぎ)をとなえました。
共産主義とは、簡単にいうと、農地や工場といった経済的な価値を生み出すものは、人々の共有にしてしまって、全ての人たちが働くことからのみ収入を得る[45]平等な社会を目指すという考え方です。それを実現するためには、資本家が持っている財産をうばって、分けあたえるということが必要になります。これは、革命であって、共産主義は、目指す社会を実現させるためには、革命が必要だと主張しました。この考え方は、世界中の多くの労働者の支持を得た一方で、ほとんどの資本家や、資本家が強く関わっている当時の各国の政府を強く警戒させました。また、社会主義や共産主義は、全ての人民が平等という考えが根本にありますから、君主制や民族主義とはあいいれないもので、王国や天皇制に親しみのある人たちや同じ民族だけで助け合おうとする人たちと敵対しましたし、また、平等な社会を作るためには、各個人の自由は多少制限されても仕方がないという考えであるため、人としての自由な行動を大事に思う人たちとも対立しました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】新たな科学・技術の発展
人々のくらしが「産業革命」で大きく変わったことは、前にお話ししたとおりですが、1860年頃から1910年くらいまでの間に、「産業革命」と同じくらい、またはそれ以上の科学技術上の大きな発展が見られ、さらに人々の生活を大きく変えます[46]
  1. 新たな動力の発明 - 「産業革命」において、中心となった動力は、主に石炭を使用した蒸気機関でしたが、19世紀半ば以降、これに、新たな動力源が加わります。
    内燃機関(ないねんきかん)
    内燃機関とは、ガスまたは霧状にした燃料を爆発させ、それによって急激にふくらむ力を動力にする装置です。皆さんがよく知っているところでは、自動車のガソリンエンジンやディーゼルエンジンが代表的なものです。
    蒸気機関の発明は主にイギリスでなされましたが、内燃機関はドイツで発展しました。1880年代、ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツは各々で実用的なガソリンエンジンを発明し、それに少し遅れて、ルドルフ・ディーゼルがディーゼルエンジンを発明します。内燃機関は、蒸気機関に比べて小型化が容易なので、これを動力とした自動車が誕生しました[47]。蒸気機関は石炭に加え水が必要でしたが、内燃機関は燃料だけで足りるため、船舶などの動力は早期に内燃機関に切り替わりました。
    また、小型で高出力という特徴を活かして、1903年アメリカでライト兄弟がガソリンエンジンを動力とした飛行機を飛ばすことに成功しました。
    このように、内燃機関は小型にでき利用できる範囲も広いということで蒸気機関に取って代わっていきました。そのため、石油が資源としての重要性を大きく増すことになりました。
    電動機(でんどうき)(モーター)・発電機
    電気が長い間研究されていたことは、前章に書いたとおりです
    電気を研究しているうちに、電気を通すことで磁石の力(磁力)が生じることが発見されました。すなわち、「電流」を通すと、「磁力」が発生し、鉄などが電磁石にくっつく(=「運動」する)ということです。1831年ファラデーは、これをまとめた、電気と磁気と運動の関係を発見します。この発見をもとに工夫して、電流を流して連続した回転運動を得る電動機(モーター)が発明されました。
    逆に磁力のあるところで電線を運動させると、電線に電流が生じます。これを、応用して発電機が発明されました[48]。電力は、それまで、化学反応を使った電池によって得ていましたが、大量に得ることは困難でした。発電機の発明によって、大量の電力を連続で安定的に得ることができるようになり、次に述べる「電気の実用化」が可能になります。
  2. 電気の実用化
    こうして、大量の電気が供給されるようになると、産業や生活に大きな変化がもたらされます。
    産業の面では、電気を使うことでメッキや化学産業などが起こりました。また、精錬するのに電気を必要とするアルミニウムが実用化になりました。
    生活の面では、1880年頃にトーマス・エジソン電球を発明するなど、身近な家庭電化製品が発明されていきました。また、同じ時期にアレクサンダー・グラハム・ベルが実用的な電話を発明しています。
    1887年に何もない空間を電気の変化を伝える性質である電波が発見されると、それを応用して電線をつながなくても通信ができる無線電信が1900年頃実用化されました。同じ頃、電波を使って音声を伝える技術が開発され、それを応用して、1920年、ラジオ放送が開始しました。
  3. 化学工業
    植物が育つには窒素(ちっそ)が必要ですが、空気中の窒素は、豆類の根につく細菌類が化学合成し物質として固定するのを待つしかありませんでした。1909年にドイツで完成されたハーバー・ボッシュ法によって、空気中の窒素から直接、化学肥料の材料となるアンモニアを合成できるようになりました。効果的な化学肥料を製造できるようになり、農作物の収穫が格段と大きくなりました。これは、「水と石炭と空気からパンを作る方法」と言われました。
    また、従来は火薬(黒色火薬)の原料として硝石(しょうせき)が使われていて、地下資源として採掘するなど、容易に入手できるものではありませんでしたが、アンモニアが大量に手に入るようになったことと、黒色火薬より強力な窒素系の火薬が開発されたことで[49]、火薬製造は原料の輸入に頼らず、強力な火薬が大量に製造できるようになりました。

全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦[編集]

先進国の間の対立[編集]

三国同盟と三国協商
先進国のうちでも、イギリスやフランスは、いち早く近代的な国家の仕組みを整え、産業革命も世界に先がけて成しとげていました。そのため、国内では余る生産力を海外に向けるためアフリカやアジアの多くの地域を植民地として、綿花など原材料の生産地として、そして製品の市場としていました。19世紀半ば頃から他のヨーロッパの他の国も近代工業化がすすんできました。特に、1871年に北部のドイツを統一してできたドイツ帝国では、科学技術のめざましい発展が見られ、国の経済力は、すでにフランスを圧倒し、イギリスと肩を並べるものになっていました。しかし、イギリスやフランスは国外にも多くの植民地をはじめとした国際的な市場を持っていたのですが、近代化の遅れたドイツは植民地をあまり持っておらず、国外への展開に困難がありました。
ドイツ帝国は、同じドイツ系のオーストリア帝国、隣国のイタリア王国と同盟し(三国同盟[50])、オスマン帝国とはかって、バルカン半島からトルコを経由して中東までの鉄道を敷設し、この地域の経済を有利に進めようともくろみました。ドイツから中東までを独占し、さらに、そこからアジア・アフリカに進もうとする考えです。
この考えに、アジアやアフリカを大きな市場としていたイギリスやフランスは警戒します。
また、東にあるロシアは、バルカン半島での南下政策がクリミア戦争で挫折(ざせつ)した後、極東に目を向けていたのですが、日露戦争に敗れたため、再び、クリミヤ半島からの南下に政策を変えます。今度は直接攻め入るのではなくバルカン半島のスラブ国家や独立運動家を支援しオーストリア帝国やオスマン帝国に対抗させる形での介入です。イギリスとフランスは、ドイツを牽制(けんせい)[51]するため、ロシアとの間に協商(きょうしょう)条約[52]を結びます(三国協商[53])。
こうして、バルカン半島を中心に、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国とその東西の国との緊張が高まってきました。

初めての『世界大戦』[編集]

バルカン半島中西部のボスニア・ヘルツェゴビナは、長い間、オスマン帝国の領土で、住民もイスラム教に改宗した人々(ボスニア人)が多い地域でしたが、19世紀後半以降オーストリア帝国が支配する領域となっていました。
1914年6月28日、オーストリア皇太子がボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪問した際、隣国セルビア王国のボスニア系の独立運動家に暗殺されました(サラエボ事件)。これが、きっかけとなって、7月28日オーストリア帝国はセルビア王国に宣戦布告し、セルビアを支援するロシアも参戦、これを受けてオーストリアと同盟を組むドイツが参戦、そして、ドイツと敵対するフランスとイギリスが参戦し全ヨーロッパにおける戦争『第一次世界大戦[54]』が始まりました。なお、以下、ドイツ・オーストリア側を「同盟国[50]」、イギリス・フランス・ロシア側を「協商国」と言うこととします。
第一次世界大戦はそれまでの戦争とことなって『国家総力戦(または、総力戦)』と言われます。それまでの戦争は、あくまでも軍隊と軍隊の戦いで、軍事拠点をめぐっての争いや、双方の主力部隊がある戦場で戦う(会戦)もので成り立っていて、そのような場所以外が戦火の被害を受けることは少なく、また、軍人以外で戦争で死傷する人は限られていました。しかし、第一次世界大戦になると、戦争は軍人以外の国民も巻き込んだものとなります。兵士は国民の中から徴兵されたものですし、銃砲や砲弾・銃弾、それに用いる火薬といった兵器の製造力も国内の工業力に支えられます。兵器だけではなく、軍服や戦場に持ち込む食糧もそうです。また、兵器やその他の物資を輸入に頼るにしても、その資金は国内の工場の生産物を輸出することで得られるものです。そのため、敵対する国は、相手の軍隊を攻撃するだけではなく、相手の国の生産力を下げるため、戦闘の機会に工場や輸送に用いる鉄道・港湾・船舶を破壊するようになります。さらに、相手が戦争を継続する力を落とすために、軍隊どうしの戦場ではないところの住宅等も破壊するようになりました。総力戦になって、軍人以外の民間人の死傷者や家屋などの財産の破壊が、それ以前と比べられないほどに増大しました。
戦争は、ヨーロッパだけでなく世界中を巻き込みました。1914年11月ロシアと対抗し、イギリスに脅威を感じていたオスマン帝国は同盟国として参戦しました。こうして戦争は北アフリカなどにも広がりました。
日本は、日英同盟から、イギリスに要請され協商国側に参戦し、ドイツの租借地である中国の青島(チンタオ)や南太平洋の島々を占領しました。
第一次世界大戦の塹壕(ざんごう)
第一次世界大戦では、塹壕(ざんごう)という攻めてくる敵に対して地面に人が隠れられる溝を掘って[55]、守りを固める戦法をとったため、お互い戦闘が進まず、戦争は長期化し、同盟国・協商国ともども国内経済は衰退し、国民生活はだんだん貧しいものとなっていました。一方で、当時の最先端の科学技術は次々と投入されます。化学工業の発展は火薬の力を強くしていましたし、毒ガスの開発にも応用されました。また、内燃機関を使ったトラックなどが、馬車などに代わって兵士を移動する手段となり、また、道の状態にかかわらず進むことができる、戦車なども開発されました。そして、発明されたばかりの航空機も戦場に投入されました。こうした、最新の科学技術の投入は、戦場をますます悲惨(ひさん)なものにしていきました。
1917年になって、状況が大きく変わります。
アメリカ合衆国(以下、しばしば、「米国」と略します)は、もともと、「南北アメリカ大陸のことに、ヨーロッパの国に口を出させない。その代わり、米国もヨーロッパの政治に口を出さない」という外交の方針があって、また、移民の国であるため、ドイツ系の国民も多く、中立の立場にいました。しかし、ドイツがイギリス周辺を航行する船を、軍事に関する物品を輸送する船であると潜水艦で攻撃し沈めるという作戦をとったところ、米国人を多数乗せた船を沈めると言う事件などがあって、この年に、協商国側として参戦します。米国の参戦は軍隊が増えたことに加えて、米国の工場など生産設備が無傷であったため、イギリスやフランスといった協商国には物資がどんどん補給され、協商国側に有利となりました。
一方で、東側のロシアとの戦争も一進一退の状態でしたが、バルト海と黒海を同盟国側が封鎖したため、ロシアは輸出入がとだえ、国内の物資不足とインフレが社会問題となっており、各地でストライキや暴動が起こり、1917年2月に皇帝ニコライ2世は退位します(ロシア革命)。このような中、共産主義の運動家であるウラジーミル・レーニンらが政府を握り、同年12月にはドイツとの戦争を停止します。
こうして、ドイツは、東側での戦争は終結したのですが、イギリス・フランスと戦う西側では、1918年になると米国の支援により優勢になり、また、スペインかぜ(インフルエンザ)が大流行するなどして、戦闘の継続は困難なものとなり、11月ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命(ぼうめい)[56]、オーストリア皇帝カール1世も退位し、第一次世界大戦は事実上終了しました(正式な終了は講和条約が締結された翌年1919年となります)。
同盟国であったドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマン帝国は崩壊し、それぞれ共和国となりました[57]
第一次世界大戦は、協商国側の戦死者 553万人、戦傷者 1283万人、行方不明者 412万人、同盟国側の 戦死者 439万人、戦傷者 839万人、行方不明 363万人。民間人の死亡者、協商国側 360万人、同盟国側 314万人と人類が経験したことがない規模の犠牲者を出すことになりました。

第一次世界大戦後の世界[編集]

1919年フランスのパリで第一次世界大戦の講和会議が開かれました。その結果、
  1. 敗戦国は戦勝国に賠償金を支払う。
  2. 領土の一部を戦勝国に割譲する。
  3. オーストリア帝国、オスマン帝国が支配していた中央ヨーロッパ・バルカン半島、中東から北アフリカにかけての地域について、独立またはイギリスやフランスの保護領とする。
  4. 敗戦国の軍備は数年間制限する。
などが決められました。
また、このような戦争が2度と起こらないようにと米国大統領ウッドロウ・ウィルソンが提唱し、常設の国際的な協議機関「国際連盟(こくさいれんめい)」が誕生します。国際連盟の運用は理事会が行いますが、日本は理事会の常任理事国にイギリス、フランス、イタリアと共に選ばれました。しかし、これを提唱した米国は、従来の国の方針から国内の反対があって国際連盟に加盟しませんでした。
第一次世界大戦がもたらしたもの
第一次世界大戦は、人類の歴史が始まって以来の大量の戦死者や戦傷者を出し、当時最も発展していたヨーロッパの国土が荒廃するなど、世界に大きな影響を与えました。その結果として以下のような変化が生じました。
  1. ヨーロッパの衰退とアメリカ合衆国・日本の台頭
    同盟国であるドイツはもちろん協商国側のフランスは戦場として荒廃し、イギリスも大量の兵力を送り出すなどして疲弊するなど、ヨーロッパの生産力が弱まりました。代わって戦場とならなかった米国は、協商国に兵器他大量の物資を輸出した他、ヨーロッパ諸国が輸出していた地域に代わって輸出することになり、大きな経済的発展を見せることとなりました。その国力を背景に、国際政治で主導的な地位に立ちました。しかし、もともとの国の方針から、国際政治に十分に参加できませんでした。
    日本も、国民国家を成立させ産業革命をなしとげた世界でも数少ない国のひとつでしたが、ヨーロッパから遠く離れ、第一次世界大戦の影響を受けることはなく、米国ほどではありませんがヨーロッパの国々が輸出できない分をうめあわせるなどして経済が発展し、国際社会でも有力な国となりました
  2. 国際機関の誕生と軍縮の傾向
    それまでの国際外交は、国対国の関係でしたが、国際関係が複雑になると、関係する国がまとまって討議するようになりました。第一次世界大戦以前から、電気通信に関して万国電信連合(現.国際電気通信連合)がありましたが、戦後、世界平和を目標とする国際連盟が結成され、平和以外にも人権などについて各国が参加して討議されるようになりました。
    第一次世界大戦の惨状(さんじょう)から、各国共に厭戦(えんせん)[58]ムードになっていたため、軍縮に関する国際会議が何回も開かれました。
  3. ナショナリズムの実現
    ナショナリズムの高まりは、国際的に認められるようになり、オーストリア帝国やオスマン帝国が支配した領域から、同じ民族で集まった国が数多く独立することになりました。しかし、アジアやアフリカの諸国は、まだ独立が認められず、第一次世界大戦後はアジア各地での独立運動が見られるようになります。
    また、先進国の内部においても一種の民族主義が盛んになります。これは、他の先進国の国外資本が進出してくることや民族主義を否定する社会主義・共産主義の動きに反発するものです。これが、のちにファシズムと呼ばれるものになります。
  4. 社会主義国家の誕生
    ロシア革命後、ロシア国内では内戦が起こり、1922年レーニンが率いる共産党が国内をまとめ、世界で初めての社会主義・共産主義を国の仕組みに持ったソビエト社会主義共和国連邦[59]ソビエト連邦ソ連)が誕生しました。

脚注[編集]

以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ 土地(領地)を間に介して、主従関係を結ぶ制度を言います。日本でも、鎌倉時代の「ご恩と奉公」の関係はこれにあたりますし、安土桃山時代から江戸時代にかけての石高制も封建制の一種です。
  2. ^ 封建制の時代は、国王でも自分の荘園をおさめられる程度の役人がいればよく、戦争などでは、その都度、封建領主に命令して軍隊(騎士)を集めていました。
  3. ^ 3.0 3.1 実際は、公家や大名、明治政府に大きな貢献のあった人たちについては、公爵(こうしゃく)(こう)爵・(はく)爵・()爵・(だん)爵といった貴族の爵位が与えられ、その一族は「華族(かぞく)」と呼ばれました。華族には、いくつかの特権が認められましたが、華族の数は比較的少ないうえ、江戸時代ほど極端に大きな差ではありませんでしたし、社会的な貢献をすることで、誰でも華族となる機会はありました。また、「士族」と「平民」の間で異なる取り扱いは一切ありませんでした。
  4. ^ この頃のドイツは、日本が藩に分かれていたのと同様に、多くの王国・貴族領に分かれていたものを、各地で統一の要望が上がり、その中で有力となったプロイセン国王を皇帝とするドイツ帝国が成立していました。ドイツ帝国は、イギリスやフランスよりも、皇帝(それを受けた行政機関)の権限が強く、議会の力はおさえられていました。ドイツは、英仏に比べ工業化などが遅れていたために、それを推進するために、強い行政の力が必要であったためです。また、各個人の人権についても制限がありました。伊藤が、英仏ではなく、ドイツを国の形の模範としたのは、このように、日本と状況が似ていたためです。
  5. ^ 明治憲法が、実際に有効となる(施行される)のは、1890年(明治23年)11月29日なので、まだ、憲法の下の選挙・国会の招集ではありませんでした。
  6. ^ 実際は、行政府である政府の仕事です。
  7. ^ 天皇の命令。実際は、その時の行政府による指名。
  8. ^ ただし、このような議会の成り立ちは、世界的に見ても珍しいものではありませんでした。明治憲法の元になったドイツ帝国の議会が貴族院と衆議院で成り立っていましたし、そもそも、議会政治の模範とされるイギリスも世襲貴族による「貴族院」と選挙で選ばれた議員による「庶民院」で構成されていて、現在もその伝統が残ります。このことで、身分で選ばれた議員による議会を「上院」、選挙で選ばれた議員による議会を「下院」という習慣ができました。アメリカ合衆国には独立当時から貴族制度はありませんでしたが、上院は各州の代表(元々は州議会が選出していましたが、現在は州民の選挙によります)、下院は州にかかわらず選挙で選ばれた議員による議会と、上院と下院で性質を変えていたりします。時代が下るにつれ、選挙で選ばれた議員の決めることが優先されるという政治習慣(下院優先の原則)が有力になります。
  9. ^ 元老には、最初は伊藤博文など維新の功臣が、後代には長期に首相を務めた者がなりました。
  10. ^ 「急激な近代化に成功した日本」と書きましたが、これは、前の章の『産業革命』の節に書いた「欧米各国は、産業革命で経済力が大きくなりましたが、さらにそれを大きくするため、国内で生産する工業製品の市場(しじょう)と原材料となる農産物や鉱物資源を欧米諸国の外に求めるようになりました。」の部分を日本に当てはめたものです。しかし、この頃の日本の工業力はまだ近代化が始まったばかりで、外国に市場を求めるまで成長していません。
  11. ^ 11.0 11.1 11.2 中国の地名については、日本語の音読みで読む方法と現代の中国語に近い音で読む方法があります。後者は、「音読みだと日本人にしか通じない」と言う配慮から現代の中国語に近い音を当てると言う意図なのかもしれませんが、実際の発音とは異なっているので中国人にも伝わらないでしょう。ですから、ここでは、原則として音読みで音をふりますが、北京(ペキン)上海(シャンハイ)のように現代中国語音に似せた言い方が一般的になったものもありますので、それらは、よく使う言い方をカタカナで表記します。
  12. ^ 1両は銀37.3gで、当時の日本円に換算して約3億円。これは、政府の年間予算の約3倍にあたります。
  13. ^ 当時、3億人を超える程度の人口があったものとされています。
  14. ^ これを、「清国は『眠れる獅子』だ」という言い方をします。
  15. ^ 銃器などを欧米の商人から買っていました。
  16. ^ 「干渉」とは、「他のものの動きに影響を与える」という元々の意味から、このような場合、「他国の政治に口を出す」という意味で使われています。
  17. ^ 日本からイギリスやフランスまで、船ならば45日〜50日かかったところを、シベリア鉄道を使えば15日程度で移動できました。
  18. ^ 現在は、中国東北部と呼ばれる地域です。もともと、「満州(満洲)」とは清王朝をおこした民族(女真族)の名前で地名ではありませんが、「満洲族が起こった土地」と言うことで通称として用いられるようになりました。このころから、1945年頃まで、満州は日本にとって歴史上重要な土地となります。
  19. ^ ロシア進出の背景には、大韓帝国の王室のメンバーや両班(ヤンバン)と呼ばれる高級官僚らが、朝鮮の政治・経済に段々影響を強めてくる日本を警戒して、それに対抗するため、ロシアと通じていたということもあります。
  20. ^ これは、大げさな話ではなく、アフリカの植民地化はこの時期に進み、19世紀末には独立国は、エジプト周辺、エチオピア、リベリアだけになっていましたし、アジアも1887年にフランスがベトナムを植民地にするなどして、独立を保っていたのはシャム王国(現在のタイ王国)くらいになっていました。
  21. ^ ある地域を自由に航行できるということ。
  22. ^ 「バルト海」で行動する艦隊なのでバルチック艦隊といいます。
  23. ^ 死後、乃木神社にまつられます。乃木坂などの地名にも残っています。
  24. ^ 土地などを、借り受けるという意味ですが、実質的な支配が行われ、「租借地」というのは、「植民地」とほぼ同義語になります。
  25. ^ ロシアは、バルカン半島を南下しようとしたのですが、イギリス・フランスの参戦により押し戻され、クリミア半島が主要な戦場となりました。クリミヤ半島は、現在(2022年4月)、ロシアの侵攻で話題になっているウクライナの黒海地域です。
  26. ^ クリミア戦争で、戦傷者の救護を組織的に行い、看護師による近代看護を確立したのが、フローレンス・ナイチンゲールです。
  27. ^ 当時は、戦場の衛生環境などが悪く、病気になって亡くなる兵士も少なくありませんでした。日露とも、戦没者の1/4が病没者で。特に日本の病没の原因としては、ビタミンB欠乏症の「脚気(かっけ)」が目立っていて、これは、日本陸軍の医療関係者が、当時新興の栄養学を軽視したためとも言われています。この医療関係者には、小説家の森鴎外もいました。
  28. ^ 戦争において装備に大きな差がなければ、数の違いは大きく影響します。
  29. ^ 当時の軍艦の動力は蒸気機関であっったため、石炭と真水を大量に積み込む必要がありました。
  30. ^ 後に、刑事訴訟法に改正されます。
  31. ^ 殺そうとした相手が死ななかったことを言います。
  32. ^ 現在の言い方では「無期懲役(ちょうえき)」、一生、刑務所に入れられる刑です。
  33. ^ 現在の最高裁判所長官に相当します。
  34. ^ コメは、現在よりもはるかに生活に重要な物資で、当時の平均的な家計消費支出の3割程度を占めていたと考えられます。なお、現在では1%程度です。
  35. ^ 明治維新以来、明治政府は、討幕に功績のあった「薩長土肥(さっちょうどひ)」と言われる、薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩出身、特に長州藩・薩摩藩出身の政治家が力を持っていました(藩閥(はんばつ)政治)。明治維新から50年たって初めて、藩閥以外の国のリーダーが登場したのです。
  36. ^ ただし、今でも話し言葉と書き言葉は同じものではありません。
  37. ^ 37.0 37.1 「東京美術学校」と「東京音楽学校」は、のちに合併し「東京藝術(げいじゅつ)大学」となります。
  38. ^ 元の名は「清作」で「英世」は22歳になって改名したものですが、ここでは、「英世」で統一します。
  39. ^ 大学以上の高等教育を受けさせることは当時の庶民にはめったにないことでした。また、英世の出身地会津は、戊辰戦争で官軍に抵抗し、政府などに関係者も少なく、薩長などの出身者より不利なところもありました。
  40. ^ 当時、家が貧しくても、軍隊に入って勉強するという方法もありましたが、英世の場合、このやり方は難しかったと考えられます。
  41. ^ 最近のコロナ禍で、2020年から2022年10月現在の死者の累計数が約4万人であることと比較してみてください。当時の日本の人口は約8000万人(現在の2/3程度)です。また、現在ほど高齢化が進んでいないため、死者に多くの若い世代の人たちが含まれていました。
  42. ^ 1000年に1度と言われる2011年東日本大震災のマグニチュードは9.0で特別ですが、1995年阪神淡路大地震のマグニチュードは7.3くらいです。
  43. ^ 「ナショナリズム(Nationalism)」は、「ナショナル(National; ネイション(Nation; 国民・民族)の)」+「イズム(ism; 主義)」という意味です。国民主義とも訳されます。
  44. ^ オーストリア帝国は、もともとヨーロッパの中でも最も強力な国の一つで、プロシアを中心としたドイツ帝国の成立まではドイツ民族の中心でした。この時代においても、中部ヨーロッパに広い領土を持つ国です。また、オスマン帝国は、15世紀に起こったトルコ民族が中心の国で、中東から北アフリカにかけてのイスラム世界を広くおさめ、ヨーロッパもバルカン半島まで領土としていた大国です。両国とも、19世紀にあっても広い領域を支配していましたが、近代化が遅れていました。
  45. ^ この考えは、「働かざる者食うべからず」というスローガンに現れています。これは、働かないで怠けているものは食べるべきでない(=生きるべきでない)ととらえられがちですが、第一には、たとえば、地主が土地を小作人に貸したり、財産の利子や配当収入だけで生活できるような資本家を攻撃した言葉です。
  46. ^ 歴史学者の一部では、これを「第二次産業革命」と呼びます
  47. ^ ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツは、各々で自動車の会社を作ります。1926年それらの会社が合併しダイムラー・ベンツができます。現在のメルセデス・ベンツ・グループ(「メルセデス」はダイムラー社製の車の愛称です)です。
  48. ^ モーターに力を加えて回すことで電流を得ることができます。
  49. ^ 代表的なものは、ニトログリセリンです。これを安全に取り扱えるようダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルは、莫大な遺産でノーベル賞を創設しました。
  50. ^ 50.0 50.1 イタリア王国もドイツと同じように市民革命ののちに封建諸国でばらばらであったイタリア民族を統一した王国で、イギリス、フランスを追いかけていた国の一つです。このような共通点から、ドイツと同盟を結びますが、オーストリアとの間に領土問題が存在したため、最初は参戦せず、後に、協商国側で参戦します。
  51. ^ 相手に自分の行動を見せつけ、勝手な行動をとれなくすること。
  52. ^ 「協商」は「相談をする」と言う意味で、「協商条約」は外交にあたって相談をするということを約束した条約です。「商業」と直接の関係はありません。
  53. ^ 英仏・仏露・英露、各々の協商条約などを合わせたものです。イギリスとロシアは日露戦争までは敵対していましたが、ロシアが敗戦したことをきっかけに、同盟関係を結びます。
  54. ^ これから、25年後、次の世界中を巻き込んだ大きな戦争が起こり、それを『第二次世界大戦』と呼ぶため、この戦争を『第一次世界大戦』とよびます。この当時は、『世界戦争』・『大戦争』と呼んでいました。
  55. ^ フランスとドイツの間には、大西洋からスイスまでの全長700kmにわたる塹壕が両陣営でできました。
  56. ^ 国外に逃げ出すことを言います。
  57. ^ オスマン帝国は、1918年に降伏し、1922年にトルコ革命により共和制となります。
  58. ^ 戦争を嫌うこと。
  59. ^ 「ソビエト(ソヴェート)」はロシア語で「評議会」の意味で、ロシア革命前後に人々が集まって政治の方針を決めた団体が母体になっていることを意味します。「社会主義共和国」は社会主義を政治の方針とする共和国ということです。最後の「連邦」は、そのような社会主義共和国がいくつか集まって1国となっているということを言っており、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国など、いくつかのの国で構成されていました。

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