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この章の概要
★時代区分:戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代
★取り扱う年代:1467年(応仁の乱の開始)から1600年(関ヶ原の戦い)まで
- 戦国時代
- 義政のころになると、守護大名は幕府にたよらず領地を強力におさめるようになり、そのため、各地では大名同士や国人同士での勢力争いも数多く見られるようになりました。特に、義政の後継者争いをきっかけにした応仁の乱以後は、幕府は各地の争いを止める力を失って大名間で競って領土を争うようになります。この時代を「戦国時代」と言います。
- 戦国時代にあっては、世襲の守護大名に対して、実力のある家臣などが大名の地位を乗っ取ることがしばしば見られました(下克上)。このように実力で大名となり、周囲の大名と争った大名を戦国大名と言います。また、長槍・投石など単純な兵器を軽装で扱う兵士(足軽)を大量に用いて集団でたたかうようになりました。特に、鉄砲伝来が、この戦い方に影響を与えました。
- 15世紀から、西ヨーロッパの国々、特にポルトガルとスペインは世界中に船を出して貿易を始めたり、新たな土地を発見したりしていました(大航海時代)。その中で、1543年種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲が伝えられました。日本への航路を発見したポルトガルとスペインは、日本では南蛮人と呼ばれ、各地の戦国大名などと貿易を行います(南蛮貿易)。また、フランシスコ・ザビエルが来日し、キリスト教を伝えました。
- 安土桃山時代
- 実力のある戦国大名が、周囲の戦国大名などを討ち取って、各地での統一が進んでいましたが、戦乱の世の中を治め日本全体を統一に向かわせたのは織田信長です。信長は、領地の商業を盛んにし財力を拡大し、身分に関わりのない人材の登用、鉄砲など新たな武器の使用などで、領国の現在の愛知県から京都周辺の近畿地方一帯を統一し、将軍を追放し室町幕府を滅ぼしました。しかし、家臣の明智光秀により殺され、光秀を討った豊臣秀吉が信長の天下統一を引き継ぎます。信長は滋賀県の安土に城をきずき政治を行い、それをついだ秀吉は京都の桃山城(現在の京都市伏見区)で政治を行なったので、この時代を「安土桃山時代」と言います。政治の中心は桃山(伏見)でしたが、秀吉は、豊臣家の城として大坂城(大阪城)をきずき、城下に大名屋敷や堺などの周辺の町々の町人を集めて、大坂(大阪)の町を築いて政治・経済の中心都市としました。
- 秀吉は、中国地方の毛利氏、四国地方の長宗我部氏、九州地方の島津氏などを攻めしたがえ、関東を支配する北条氏を攻めほろぼして、天下を統一します。天下を統一した秀吉は、全国の農地の測量を行い(検地)、どれくらい米が収穫できるかを明らかにし(太閤検地)、大名の財力の基準としました(石高制)。この機会に、長さ・広さ・体積の単位が統一されました。また、天下が統一され、平和になったのだから武器は必要ないであろうということで、刀などを取り上げる「刀狩」を行いました。刀狩で、武士とそうでない民衆は明確に区別されました。
- 秀吉が、天下を統一したころには、キリスト教の信者(キリシタン)はかなり増えており、大名の中にも信者がいました(キリシタン大名)。しかし、各地で寺社との対立があったり、スペインなどの侵略のうわさなどもあり、宣教師(バテレン)を国外に追放し、キリスト教の布教を禁止しました。
- 晩年、秀吉は、大陸進出を望んで、全国の大名に命じて朝鮮に兵を進めました(朝鮮出兵: 文禄・慶長の役)。しかし、朝鮮の強い抵抗と、明の援軍にあい、侵攻が進まないなか、秀吉が死去し朝鮮出兵は撤退しました。
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戦国時代[編集]
戦乱の世の始まり[編集]
応仁の乱が始まった当時(1467年)
人名:青字が東軍、赤字が西軍
守護大名の領土
水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲
- 銀閣を建てた第8代将軍義政のころになると、守護大名は、各国で大きな力をもち、幕府にたよらず領地を強力におさめるようになりました。日本各地では、大名同士や国人同士での勢力争いや後継者争いも数多く見られるようになりました。特に、関東においては、関東の政治を行なっていた鎌倉府が、鎌倉公方(足利氏)と関東管領(上杉氏)と対立し、また、上杉氏の中でも争って、京都の幕府にもしたがわないなど、関東の中での争いの原因となっていて、15世紀初めから、ずっと戦乱が続き、幕府もなかなかこれを止められませんでした。
- そのような中、1467年応仁の乱が起きました。応仁の乱とは、もともと、有力な守護大名である畠山氏の後継者争いにはじまって、管領の細川勝元と数カ国の守護大名である山名宗全が対立していたところに、義政と弟足利義視との間で後継者争いがおき[1]、義政は細川勝元をつけ(東軍)、義視は山名宗全を味方につけて(西軍)、争ったものです。おのおのに有力な守護大名がついて争い、京都が焼け野原になるなど大きな被害が出ましたが、1473年山名宗全と細川勝元が次々に亡くなると、京都だけではなく戦乱は全国に広がりました。各地方では、守護大名の一族や家臣の中でも東軍西軍に分かれて、争うこともありました。この争いは、1477年、西軍が降伏することで終わりますが、処分を受けた守護などはいなかったため、東軍・西軍のどちらが勝ったというものではありませんでした[2]。また、関東では、京都での争いと関係なくずっと争いが続いていました。
- 応仁の乱以後は、多くの武士は将軍にしたがわなくなり、幕府は各地の争いを止める力を失って大名間で競って領土を争うようになります。この時代を「戦国時代」と言います。
- 平安時代に成立した土地の仕組みである荘園は、鎌倉時代以降、年貢の多くを武士である守護や地頭に横取りされていましたが、それでも、公家や寺社といった領主は、そこから収入を得ていました。しかし、戦国時代に入ると、税は戦国大名がすべて取りまとめるようになり、京都などの遠方の領主におさめることはなくなって、荘園は消滅していきます。また、おのおのの戦国大名の領地が独立国のようになり、大名の領地を離れるところに大名は関所をもうけ、人の出入りが監視され、通行税をとったりしました。
下克上の時代[編集]
- 戦国時代にあっては、世襲の守護大名に対して、守護代など実力のある家臣が、その地の国人領主らをしたがえて、大名の地位を乗っ取ることがしばしば見られました。これを、下克上といいます。また、家系は同じであっても、国人領主となっていた分家が本家を乗っ取ることも少なくありませんでした。このように実力で大名となり、周囲の大名と争った大名を戦国大名と言います。
- 応仁の乱をひきいた、山名氏は京極氏が守護であった出雲の守護代尼子氏にせめとられ、管領の細川氏は領土の一つであった阿波の守護代三好氏に乗っ取られます。三好氏の三好長慶は、畿内・近畿・四国東部を領地とし、幕府をあやつるようになります。また、関東は、戦国大名の代表である北条早雲があらわれ、その地方の争いをおさめます。
- 戦国大名は、その武将が強かったというよりは、多数の国人領主を味方につけたという性質があります。国人領主などが共同して(国一揆[3])、守護大名をほろぼして、国人領主どうしの話し合いで国をおさめたものもあります。特に浄土真宗の本山本願寺の一派は一向宗と呼ばれて、本山本願寺はこれを全国各地で応援しました。これを、一向一揆[3]といいます。
- 戦国時代になると、戦い方も、武士が一人一人ばらばらに戦うのではなく、軽装で大量の兵士が、長槍や投石(石を投げること)など単純な兵器を使って、集団で戦うやり方になりました。このような軽装の兵士は、普段は貧しい農民であったりした者で足軽と呼ばれました。特に、次の節でのべる鉄砲伝来が、この戦い方に影響を与えました。足軽から武士になって出世をしていく者もあらわれました。
- 戦国時代は、このように、今までの身分などの秩序がみだれた時代でしたが、実力により世に出ることができる時代でもありました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】戦国大名と下克上
戦国時代中期(1550年)の各国の守護大名や戦国大名
戦国時代中期(1560年)の各国の守護大名や戦国大名 この「長尾氏」は上杉謙信のことです
- 有名な戦国大名を以下にあげます。その他にも有名な戦国大名はたくさんいますが、脱線しすぎるので、ここでは、取り上げません。興味があれば、皆さんの住んでいるところで活躍した戦国大名を調べてみましょう。
- 北条早雲
- 伊豆国(現在の静岡県)と相模国(現在の神奈川県)をおさめ、後に関東地方全体をおさめる北条氏[4]の初代となる戦国大名です。関東南部から上野国、越後国は、関東管領である上杉氏が守護をしていましたが、関東での戦乱で上杉氏の中でも対立がおこり、守護に戦乱をおさめる力はありませんでした。北条早雲は西国の出身ですが[5]、東国に移り住んで今川氏が守護をする駿河国(現在の静岡県)の守護代となり、伊豆国と相模国から上杉氏の勢力を追い出し、領地としました。
- 斎藤道三
- 美濃国(現在の岐阜県)の戦国大名です。美濃国は、土岐氏が守護をつとめていましたが、実際の政治は守護代である斉藤氏が行い、さらに、その代官である長井氏が力を持っていました。斎藤道三は、もともと京都の油売りで、美濃で長井氏につかえ、やがて、主人の罪をせめて殺して長井新九郎をなのります[6]。その後守護代の斉藤氏が亡くなると、斉藤新九郎利政となのって守護代になります。そして、最後に守護の土岐氏を追い出して、美濃国をおさめる戦国大名となりました。
- 上杉謙信
- 越後国(現在の新潟県)の戦国大名です。越後国の守護は上杉氏がつとめていて、守護代を長尾氏がつとめていました。謙信は、もともと長尾氏の生まれですが、力が衰えた上杉氏の養子となり、関東管領の地位もつぎました。謙信は、北関東をめぐって北条氏と戦い、信濃国(信州、現在の長野県)をめぐって武田信玄と戦いました。
- 武田信玄
- 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名です。武田氏は、もともと守護大名です。信玄は、馬を使った戦がたくみで、信濃国をめぐって上杉謙信と戦い、信濃を領地にし、今川氏が衰えたのち、駿河に南下し、徳川家康とたたかい、家康を敗退させます。そのまま、西に進み、織田信長とたたかおうとしたところで病で亡くなりました。
- 今川義元
- 駿河国と遠江国(現在の静岡県中部から西部)の戦国大名です。今川氏は、足利家の一族の有力な守護大名です。義元は、隣接する北条氏や信玄と争いながら、ひけをとらない強力な戦国大名で、西に隣接する三河国の大名松平氏をしたがえており、松平氏であった徳川家康も幼いころ人質にされていました。1560年、大軍で西に進み尾張を攻撃しようとしたところで、織田信長の奇襲にあってうたれました(桶狭間の戦い)。
- 毛利元就
- 毛利元就はもともと安芸国(現在の広島県)の国人領主でしたが、安芸の守護武田氏をほろぼし戦国大名となり、ついで、周防、長門国(現在の山口県)など中国地方西部を領地とした守護大名である大内氏の内乱の機会に大内氏の領地をえて、中国地方の東部を領地とした戦国大名である尼子氏をほろぼして中国地方全体をおさめる戦国大名になりました。
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鉄砲とキリスト教の伝来[編集]
種子島火縄銃
- 15世紀から、西ヨーロッパの国々、特にポルトガルとスペインは世界中に船を出して貿易を始めたり、新たな土地を発見したりしていました(大航海時代)。
- その中で、1543年種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲が伝えられました。当時の鉄砲は、筒先から、丸い弾と火薬をつめ、ねらいを定めたら、手元の火のついた縄で火薬に火をつけうつというもので火縄銃と呼ばれています。火縄銃の弾がとどく距離は、100mほどでしたが[7]、鎧をつらぬくほどの威力があって、おどろきをもってむかえられます。すぐに、火縄銃の製造法(鉄砲鍛冶)が習得され、全国で製造されるようになって、各地の戦国大名がもちいるようになり、戦争の様子が大きく変わりました。
南蛮屏風(※ 一部分)
南蛮貿易のようすがかかれています。日本人がえがいたものです。
- この漂着を機会に日本への航路を発見したポルトガルとスペインは、日本では南蛮人と呼ばれ、九州の長崎や平戸や、大阪の堺の港などを訪れ各地の戦国大名などと貿易を行うようになります(南蛮貿易)。
- 南蛮貿易で、ボルトガルは、ヨーロッパから持ち込んだものではなく、日本・中国(明)・インド(ゴアという町をポルトガルの領地にしていました)・東南アジアを結んだ貿易をしていました。
- 中国から日本
- 生糸、絹織物、金、陶磁器、硝石[8]、薬、砂糖
- 日本から中国
- 銀、硫黄、日本刀、漆器、螺鈿細工、人(奴隷)
- 東南アジア各地から日本へ
- 沈香[9]、錫、鉛など。
- その他、南蛮貿易によって、アメリカ大陸原産のカボチャ[10]・スイカ・トウモロコシ・ジャガイモ[11]・トウガラシ・タバコが日本にもたらされました。
- また、これらの船を使って、日本人の中にも東南アジアの各地にうつり住む人々も出てきて、東南アジアには日本人町もあちこちにできました。
フランシスコ・ザビエル
- 1549年、スペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、キリスト教を伝えました。キリスト教は、聖書にもとづいた大変わかりやすい教えで、また、当時の仏教の寺の多くが地主や大名のように振る舞っていたことへの反発、さらに、貿易の目的から保護をする大名などもいて、多くの信者(キリシタン)をえました。戦国大名自身でキリシタンとなった者(キリシタン大名)もいました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】大航海時代
大航海時代の主な航路を示した地図
- 日本人にとって外国とは、朝鮮半島か中国、書物の上での天竺(インド)くらいでしたが、鉄砲伝来の時に、はじめて、日本で、日本人がヨーロッパ人に出会うことになりました。
- 日本を、ヨーロッパに初めて広めたのは、14世紀に中国の元を、元寇のころ、おとずれたマルコ・ポーロの書いた『東方見聞録』です。そこでは、日本をジパング[12]と呼び、建物の屋根まで黄金でできた黄金の国と表現しています[13]。
- 14世紀頃までのヨーロッパの重要な輸入品に、肉のくさみを消し、長期間保存するための胡椒がありました。胡椒はインドで栽培されたものを陸路で運んでいましたが、途中にイスラム商人やイタリア商人が入っていたため大変高価なものとなっていました。
- 15世紀になると、ヨーロッパの国々で航海の能力が、格段に伸びて、陸路ではなく船で貿易をこころみるようになりました。さまざまな航路が発見され、ヨーロッパの人々は世界中に船を出し貿易をしたり、新たに見つけた土地を植民地としたりしました。この時代を、大航海時代といいます。
- ヨーロッパからインドまではアラビア半島沿いの紅海を通っていけば近いのですが、当時は紅海と地中海の間は船の通行ができず[14]、また、イスラムの国々を通過しなければならなかったので、その経路はつかえません。そこで、大西洋アフリカ西岸を南下し、アフリカ最南端を回ってインド洋をへてインドへむかう航路が探され、1498年ポルトガル王が派遣したヴァスコ・ダ・ガマがその航路を発見しました。それ以降、ポルトガルがこのインド洋航路を支配して貿易を行いました。
- これと同時期、アフリカ西岸を南下するのではなく、地球は丸いのだから大西洋をずっと西に行けばインドに着くという考えを持つ人がいました。クリストファー・コロンブスという人です。コロンブスは、黄金の国ジパングにあこがれ、スペイン王の支援をえて、1492年、大西洋を西に進みました。そうすると、2ヶ月後に人の住む島を発見しました。コロンブスはインドに到着したものと思い、その島の住民などを「インドの人(インディオ、インディアン)」と呼びました。しかし、その後よく調べると、コロンブスが発見したのは、インドの一部ではなく、ヨーロッパ人が知らなかった新たな土地アメリカ[15]であることがわかりました。
- 16世紀の間、スペインは南北アメリカ大陸を植民地とし銀などの資源をヨーロッパに持ち込み、ポルトガルはアフリカ航路を利用した、アジア貿易で国がさかえました[16]。
- 1553年、種子島にポルトガル人が漂着したのはこの頃です。
- ポルトガルは、中国南部のマカオを拠点として、さらに東に貿易の範囲を広げようとしていました。漂着したポルトガルの船には、中国人が乗っていて、種子島の役人とは筆談で、やりとりができました。
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【脱線 - 覚えなくてもいい話】キリスト教について
- さすがに、キリスト教を全然知らないという方はいないでしょうが、日本の歴史では、ここで初めて出てくるので、簡単な説明と、この時代のキリスト教の状況について説明しておきます。
- キリスト教は、紀元1世紀[17]、現在のイスラエルで、その地に住んでいたユダヤ人の宗教ユダヤ教を元にイエス・キリスト[18]が説き、ヨーロッパ各地に広めた宗教です。イエス・キリストの教えは、ユダヤ教の教えとともに「聖書」という書物[19]になって、キリスト教は、この聖書にもとづいて説かれています。
- キリスト教は、最初はヨーロッパから中東、アフリカ北部を支配していたローマ帝国から厳しい迫害を受けましたが、4世紀にはローマ帝国の国教になります。ローマ帝国がほろびた後も、ヨーロッパ全土にキリスト教の教えは広まり、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会(ローマ教会)が、ヨーロッパ西部において宗教的な支配者となりました[20]。また、同時に、教会も土地やそこで働く農奴を有して、領主としてもふるまうようになりました(日本のお寺が「荘園領主」になったのと同じことです)。こうして、経済的な力も持った教会は、しばしば、国王や貴族たちと対立するようになりました。なかには、神父など聖職者であるにもかかわらず、教会のお金で贅沢な生活をするものも現れました。
- 16世紀(ちょうど大航海時代の頃)になって、イエス・キリストの教えはカトリック教会からではなくて、聖書から直接学ぶことができるという考え方が現れ、カトリック教会から独立してキリスト教を信仰する動きが出てきました。この考え方を、「プロテスタント」または「新教[21]」といいます。プロテスタントはローマから遠いドイツやフランスの北部に広まり、ヨーロッパ各地でカトリックとプロテスタントの争い[22]が起こりました。
- カトリック教会でも、このようなことになったことに反省し、その使命感を持った人々が集まり[23]、新たな布教活動を始めます。フランシスコ・ザビエルが所属するイエズス会もそのひとつです。
- イエズス会などは、大航海時代で、ヨーロッパ人には新たな土地である、アジアや南北アメリカ大陸の各地へ布教にでかけます。宣教師たちは、キリスト教の教えとともに算術などの各種の学術、中には文字まで伝えるなどして、ヨーロッパ文明を伝え信者を増やしました。一方で、そのようにして信者を増やして、スペインなどが植民地としやすくしたとの話もあります。
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【脱線 - これはちょっと覚えておいた方がいい話】ヨーロッパの人々について
- この時代に、日本はヨーロッパの人たちと初めて出会ったのですが、大航海時代以降世界中でヨーロッパの人たちは活躍し、その影響は、今、皆さんたちが生活している現代までに及びます。
- ただ、ヨーロッパとは言っても、その中身はさまざまです。ヨーロッパの人たちは大きくラテン系、ゲルマン系、スラブ系の人々に分かれます。このことは、小学校の学習範囲ではありませんが、世界の地理や歴史を話す際に常識になりますので、大まかなところを覚えておきましょう。
- ラテン系の人々は、主にヨーロッパの南西部の人々です。カトリックの信者が多く、ポルトガルやスペインはこのグループに入ります。その他、フランスやイタリアが含まれます。大航海時代にスペインとポルトガルからメキシコ以南の中南米に多くの移民し、その言語や文化を伝えます。そのため中南米をラテンアメリカと言います。
- ゲルマン系の人々は、主にヨーロッパ北西部の人たちです。プロテスタントの信者が多くなります。ポルトガルやスペインの次にやってくる、オランダやイギリスがこのグループです。その他、ドイツやデンマークなど北ヨーロッパ諸国が、ゲルマン系になります。北アメリカのアメリカ合衆国はイギリス人の移民が中心となって建国しました。
- スラブ系の人々は、主にヨーロッパ東部の人々です。この地域では、キリスト教のうちギリシア正教が中心となります。このグループを代表するのがロシア人です。その他、ウクライナやポーランド、ブルガリア、セルビアなどが挙げられます。
- この3つのグループに属さないヨーロッパの民族もいくつかあります。代表的なものはギリシア人です。
- 各々のグループの特徴については、数多くの例外はありますが、この3分類はヨーロッパの理解の基本として覚えておきましょう。
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安土桃山時代[編集]
- 1467年の応仁の乱から、約100年、戦国の世の中は、各地で有力な戦国大名が領土を拡大し、各地方をまとめつつありましたが(このような状態を、群雄割拠といいます)、上杉謙信と武田信玄と北条氏がお互い強力で動きが取れなくなったりして、世の中が平和になる見込みはありませんでした。そのような中、尾張(現在の愛知県の西部)に織田信長が現れました。信長は、尾張からはじまって約20年で京都をはじめとした日本の中心部をおさえ、天下を統一し戦国時代を終わらせるきっかけを作りました。信長は、家臣の明智光秀によって殺されますが、光秀を討った豊臣秀吉が引き継いで天下を統一します。信長は滋賀県の安土に城をきずき政治を行い、それをついだ秀吉は京都の桃山城(現在の京都市伏見区)で政治を行なったので、この時代を「安土桃山時代[24]」と言います。
織田信長の登場[編集]
織田信長
- 織田信長がやったこと
- (ここには、ポイントだけ書きます。細かい部分は参考資料とし、小学校の範囲を超えているので、おぼえる必要はありませんが理解を深めるため、そちらをを読んでください。)
- 尾張一国の戦国大名でしたが、1560年桶狭間の戦いで有力な戦国大名である駿河の今川義元をたおしました。
- 領土を西に広げて行き、1569年室町幕府の第15代将軍に足利義昭をつけました。
- 堺などの商人を保護し、南蛮貿易をはじめとする商業をさかんにしました。
- 南蛮貿易をさかんにするためなどの理由で、ポルトガル人宣教師によるキリスト教の布教を認めました。
- 将軍義昭と対立し、1573年京都から義昭を追放しました。そのため、室町幕府は滅亡しました。
- 三好氏・朝倉氏・甲斐武田氏といった有力な戦国大名をほろぼし、京都をはじめとした主要な土地を領地として、その領土に自分の家臣をおきました。
- 1576年、近江(現在の滋賀県)に 安土城 を築かせ、そこで政治をとりました。
- 1582年、家臣の明智光秀に裏切られ、京都の本能寺でおそわれて、亡くなりました(本能寺の変)。
- 信長が他の戦国大名と違うところ
- それまで戦国大名ができなかったことが、信長にはなぜできたのでしょう。信長がそれまでの戦国大名と違うと言われるところを以下にあげます。
- どれも、信長がはじめてやったというものではありませんが、これらのことを大胆にできたので、信長は天下統一に手がとどいたのかもしれません。
長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。
- 軍事
- 鉄砲の活用
- 信長は、戦に大量の鉄砲を用いました。
- 鉄砲を活用した戦の例として、1575年、甲斐の大名武田勝頼(信玄の子)との長篠の戦いがあります。当時、武田軍はよく訓練された騎馬部隊[25]をもっており、日本最強とも言われていたのですが、これを、3000丁の火縄銃でむかえうち、武田軍を圧倒しました。
- 軍団の組織化
- 信長は、それまで武将(多くは国人領主)単位に編制されていた軍隊を鉄砲隊、槍隊、騎馬隊など機能ごとに編成しました。また、各地での連絡や移動途中の食糧の確保などを重視し、軍隊が素早く動けるよう工夫しました。
- 兵士の専門化
- 戦が集団戦で数が多い方が有利となり、足軽などが増えたのですが、多くは農民をかねていて稲作の時期など思うようにあつめられず、また、鉄砲や槍といった取り扱いに訓練や経験が必要なものは、農作業のあいまにということではうまくいきませんでした。信長は、これらの足軽を城下に集め、専門の兵士としました。また、これを逆から見ると、専門の兵士でないものは農業ばかりやるようになり、生産が増えることが期待できる他、武器を持った反乱などのおそれがへるということになります。
織田信長軍 永楽銭(永楽通宝)の旗印
- 経済
- 鉄砲を買ったり、専門の兵士として足軽を雇うためにはお金が必要です。信長は、お金をえるためにいろいろなことをしました。
- 信長の旗印は、中国の貨幣で当時日本でも共通の貨幣であった「永楽通宝」です。信長が、いかに経済を大事に考えていたかがわかります。
- 検地
- 信長は新たに領地となった田畑の面積や収穫量を調査し、それを検地帳にまとめました[26]。これで、年貢の量を予想することができ、計画的にお金の使い途(予算)を決めることができます。お金の出入りが計画的であれば、売ったり、貸したりする方も安心して取引ができます。
- 商業の振興
- 領地内の関所を廃止し通行税をとることをやめ、商品が安価で大量に流通するようにしました。
- 楽市楽座といって、岐阜や安土城の城下の市などで自由に物を売らせるようにし、いろいろなものが大量に取引されるようにしました。
- 日本最大の貿易港であった堺を直接おさめ、堺の商人に自由にものごとを決めさせて、南蛮貿易などを盛んに行いました。
- 人材の登用
- 豊臣秀吉、明智光秀、滝川一益など、家柄や出身地にかかわらず能力のあるものを登用しました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】信長のあしあと
戦国時代末期(1570年)の各国の戦国大名
1582年本能寺の変直前の領地の様子。徳川氏は信長にしたがっているので、信長の領地と考えても良いです。
- 尾張(現在の愛知県西部)はもともと斯波氏が守護を務める国で、織田氏は尾張の守護代の家柄でした。しかも、信長の家系は守護代の家の分家にあたりましたが、父織田信秀が戦国大名として尾張をまとめ、隣国美濃(現在の岐阜県)の斎藤道三と結ぶなどしていました。
- 尾張一国のみの大名であった信長が有力大名になるきっかけは、1560年桶狭間の戦いです。これは、有力な戦国大名である駿河(現在の静岡県中部)の今川義元が西に進めていた軍を、奇襲して義元を討ち取ったという戦いです。この戦いで、東側からせめられる心配がなくなり、信長は西へ進みます。
- 1567年、道三の孫斎藤龍興を追放し、美濃をえて、街の名を岐阜と変えて尾張から移住、同年には尾張から南下して伊勢(現在の三重県)北部を支配下に加えます。翌1568年、足利氏の一族である足利義昭[27]を連れ、近江(現在の滋賀県)南部を支配下において、京都に入り、翌年第15代将軍としました。
- 京都から近畿地方一帯を、自分の勢力におさめた信長は、当時、日本最大の貿易港であった堺を直接おさめ、堺の商人たちに自分たちの政治をまかせました。そうすることで、商業をさかんにし、南蛮貿易をはじめとした取引の利益を税としてえようとしました。
- また、このころ、キリスト教の宣教師と初めて出会い、布教を許可しました。信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長のねらいは、南蛮貿易のほか、宣教師のもたらす情報や、さらには当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと言われています。
- 信長は尾張、美濃、近江と行った自らの領地の中の政治や領地の拡大につとめ、京都近辺の訴訟や各国の争い事の調停などは将軍義昭の幕府に任せてつもりでしたが、幕府にはもうその力はなく、将軍にかわって信長が取り扱わなければならない例が多く出てきました。将軍義昭やその側近はそれに不満を持つようになりました。そのため、信長を囲む勢力と連絡をとって攻撃させたとも言われています。信長を囲む勢力としては、阿波の三好氏、北陸越前(現在の福井県)の朝倉氏、摂津(現在の大阪府北部周辺)の石山本願寺を拠点とし全国の浄土真宗本願寺派の長である僧侶顕如や教如が指揮をとる各地の一向一揆がありました。信長は、家臣を各々の方面に当てて戦いました。また、1571年には、 延暦寺が敵対する朝倉氏の兵をかばったとして焼き討ちにしました[28]。翌1572年には、これをとがめた武田信玄が西へ向かい、同盟者の徳川家康と戦い、三方原の戦いで信長と家康の同盟軍をうちやぶりますが、信玄がその途中で病死したため、武田軍は甲斐へ戻ります。
- 1573年、信長は将軍義昭を追放し、室町幕府はほろび、室町時代は終わります。
- 翌年、北陸地方の有力な大名であった朝倉氏とその協力者であった北近江の浅井氏をほろぼし、1575年の長篠の戦いでは、大量の火縄銃で、武田勝頼がひきいる日本最強とうわさされた騎馬軍団をしりぞけました。
- 1576年、近江に 安土城 を築かせ、岐阜からうつって政治をとりました。安土城は、最初に天守閣をもった城と言われています。信長は、多くの家来を安土城の城下に集め、また、取引が自由な市を安土城下におきました。
- その後、1580年摂津の石山本願寺を打倒し、北陸方面では国境を接するようになった上杉謙信らと争い、中国地方では毛利氏と四国地方では三好氏に代わった長宗我部氏と争います。そして、1582年には、長年敵対していた武田勝頼をほろぼします。
- 同年、このような中、中国地方の毛利氏と争っていた豊臣秀吉に支援の兵を出そうとしていた時、重臣であった明智光秀が、信長の滞在する京都の本能寺に兵を向け、そこで亡くなりました(本能寺の変)。
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【脱線 - 覚えなくてもいい話】楽市楽座。
- 戦国時代に入るころには、大量の永楽通宝などが入って、ますます商業はさかんとなって、各地の交通の便の良いよいところや寺社の門前の市がにぎわったほか、戦国大名などは、居城の周辺に家臣を集め住ませたことで刀鍛治などの職人も集まるようになり、そのような場所にも定期的に市が立つようになりました(城下町のはじまり)。
- そのころの市では、領主などにお金を払って、商売をする場所「座」を確保していました(市にある「座」を「市座」といいます。「店」のはじまりです)。座は最初は個人にあたえられていましたが、次第に同業者でまとまったりしていました。このような座に魚座・莚座・鋳物座・布座・紙座など多数ありました。これらの座は、個々の市をこえてまとまって、お金を払う代わりに寺社などの保護を受けるものもありました。
- 戦国時代のなかばには、「市座」は、その市で独占的に商売をすることができるようになり、だれかが新しくその仕事をはじめたり、値段を決めたりすることがむずかしくなっていました。また、「座」があることで、新しく始めたり、値段を安くしたり、工夫をすることができなくなっていました。
- 楽市楽座は、このような制限をなくして、自由に取引ができるようにし、より良いものが、より安く、より多く取引されることを目的とした政策です。
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豊臣秀吉の天下統一[編集]
豊臣秀吉。秀吉は、もともと農民でしたが、武士になりました。そして、信長に認められ、信長の部下になりました。
大阪城
- 1582年、本能寺の変のとき、豊臣秀吉[29]は、備中(現在の岡山県)で毛利氏と戦っていましたが、ただちに、戦いをやめ軍団2万人を連れて上方に引き返し、明智光秀をうちました。
- このことで、秀吉は、信長の後継者とみとめられ、翌年、信長の有力な家臣であった柴田勝家をうって、信長の天下統一の事業を引き継ぎました。
- 同年、石山本願寺のあとに大阪城を築かせ、そこを本拠地にし、安土城同様またはそれ以上に、城下に堺の商人も含め多くの人々をあつめました。
- 秀吉は、以下のとおり、順々に全国を統一して行きます。
- 中国地方の毛利氏とは、毛利氏がその当時もっていた中国地方9カ国の領地をそのまま認めることで同盟を結びました。
- 1583年、越後の上杉景勝(謙信の後継者)とも同盟を結びました。
- 1584年、秀吉の後継に不満を持った信長の次男織田信雄が徳川家康を味方にして戦いますが、翌年には家康は秀吉に従います。
- 四国は長宗我部氏がほぼまとめていましたが、1585年、攻め入って、土佐(現在の高知県)一国のみを残し、その他を取り上げました。
- 1585年秀吉は、関白に、翌年太政大臣となり、天皇から「豊臣」の姓[29]をあたえられました。
- 1587年、その大部分を島津氏が統一していた九州に入り、島津氏には薩摩、大隈(現在の鹿児島県)と日向(現在の宮崎県)の一部のみを残し、九州を平定しました。
- 1590年、関東を支配していた北条氏の小田原城(現在の神奈川県小田原市)をせめ、これをほろぼします。この時、東北を広く支配していた伊達政宗は小田原まで来て、秀吉にしたがいました。こうして、秀吉に対抗する戦国大名はいなくなり、天下は統一され、戦国時代が終わりました。
- 1591年秀吉は関白をやめ甥の秀次にゆずりました。それ以降、秀吉は関白をやめた人をさす「太閤」と呼ばれます。そして、今では「太閤」といえば、普通は豊臣秀吉のことを指すようになりました。また、1594年秀吉は京都伏見に桃山城(伏見城)を作り、各国の大名を集め、そこで政治を行いました。
- 1592年、秀吉は、大陸進出を望んで、全国の大名に命じて朝鮮に兵を進めました。翌年、明が援軍を入れたため、いったん、兵を引き上げ、明と交渉を続けましたがまとまらず、1597年ふたたび、朝鮮に兵を進めました。これを、朝鮮出兵または文禄・慶長の役[30]といいます。朝鮮出兵は朝鮮の強い抵抗と、明の援軍にあい、侵攻が進まないなか、1598年秀吉が死去し朝鮮出兵は撤退しました。
- 秀吉の政策
- 秀吉は信長の政策の多くを引き継ぎました。
- 太閤検地
- 秀吉は、信長同様、新たに領地となった農地に対して検地を行いました。信長の時と違っているのは、信長の時は、土地の持ち主に申告させましたが、秀吉の場合、実際に役人を派遣して測量させました。この際、班田収授以来使用し全国で乱れていた長さ・広さ・体積の単位を統一させました。これを、「太閤検地」と呼びます。
- 太閤検地により、土地の収穫高がわかるため、これを大名の財力の基準としました(石高制)[31]。
- また、その土地を耕し、年貢を納める人が明確になったので、荘園は名実ともになくなりました[32]。
- 刀狩
- 秀吉は、信長の「兵士の専門化」をさらに進め、1588年に、天下統一が進み、世の中が平和になったということで、京都の方広寺に大仏を作るので材料の鉄が必要であるという理由で、武士ではない、農民から刀や鉄砲などの武器を没収する命令刀狩令を出しました。逆に刀などを持ち続ける場合には、武士であって、農地を手放すということです。この刀狩で、武士とそうでない民衆は明確に区別されました。
- また、刀狩によって、寺や神社で武器を持つことができなくなり、これ以降、寺社が武士のようにふるまうことがなくなりました。
刀狩令
- 百姓が刀・やり・鉄砲などの武器をもつことを禁止する。ねんぐを出ししぶり、一揆をおこすものは、厳しく罰する。
- とりあげた刀は、大仏をつくるためのくぎなどにするから、百姓は仏のめぐみで、この世だけでなく、あの世でも救われるだろう。
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- キリスト教の禁止
- 秀吉が、天下を統一したころには、キリスト教の信者(キリシタン)はかなり増えており、大名の中にも信者がいました(キリシタン大名)。しかし、各地で寺社との対立があったり、スペインなどの侵略のうわさ[16]などもあり、1587年、宣教師(バテレン)を国外に追放し、キリスト教の布教を禁止しました(バテレン追放令 禁教令)。この時は、個人として信じることは許されたのですが、キリシタン大名の中には信仰をやめる者や信仰を続ける代わりに大名をやめる者もありました。
- 秀吉は、南蛮貿易を、そのまま継続したため、キリスト教の禁止はあまり徹底されませんでした。ただ、例外として、1597年京都で活動していたキリスト教徒たちを捕らえて、はじめてキリスト教を信じたということで20人日本人、4人のスペイン人宣教師、それぞれ1名のメキシコ人、ポルトガル人宣教師合計26名が処刑されました[33]。この人たちは、「日本二十六聖人」と呼ばれています。
以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。
- ^ 義政は将軍就任後、しばらくの間、男子が生まれず、弟義視にゆずることにしていましたが、義政に子(後の第9代将軍足利義尚)が生まれ、その子につがせようとして争いが起きました。
- ^ 第9代将軍には義尚がなりましたが、義尚が若くして亡くなると、義視の子足利義稙が第10代将軍となっています。
- ^ 3.0 3.1 この時代、複数の人々が何かの目的を持って集まって行動すること約束すること(盟約)を「一揆」と言っていました。武士である国人が一揆することで「国一揆」、これに住民である農民も加わると「土一揆」、一揆の人々が一向宗の信者(「門徒」と言います。国人などの武士も農民もいました。)であると「一向一揆」と呼ばれます。時代がくだって江戸時代に、農民がまとまって武士に反抗して争うことを、「百姓一揆」と呼んでいます。
- ^ 鎌倉時代の執権であった北条氏と区別するため「後北条氏」といいます。
- ^ 以前は、誰にもつかえていない武士(浪人)とされていましたが、最近の研究では室町幕府の政所執事(政所の責任者)伊勢氏の一族であることが分かっています。
- ^ 最近の研究では、ここまでは、道三の父親の時代の話ではないかと言われています。
- ^ この距離は意外と短いです。一発うつと、次のをうつのに弾と火薬を、また筒先からつめないといけないので、その間に馬などに乗った敵に近づかれてしまいます。
- ^ 火薬の材料
- ^ お香や薬の材料。
- ^ 「カンボジア」がなまったものと言われています。
- ^ 「ジャガタラいも」の略で、「ジャガタラ」は今のインドネシア・ジャカルタのことです。
- ^ 「日本国」の当時の中国語の発音からでしょう。日本語でも、「日」は「ジツ」とも読みますね。英語の"Japan"(ジャパン)など日本を表すことばの元になっています。
- ^ もちろん、これは大げさですが、当時の日本からの重要な輸出品に金がありました。
- ^ 今は、スエズ運河があるので通行できます。
- ^ この名前は、コロンブスが発見したのがインドではなく新たな土地であることを見つけたアメリゴ・ベスプッチの名前にちなみます。
- ^ 16.0 16.1 1465年スペインはフィリピンを植民地にし、アジア貿易に参加します。また、1480年スペインはポルトガルを併合するので、秀吉の頃は貿易など、ポルトガルではなくスペインが独占しています。
- ^ そもそも、イエス・キリストが生まれたとされる年を紀元1年としているので当たり前ですが。
- ^ 名前が「イエス」で、「キリスト」は「救世主」の意味です。
- ^ もともとのユダヤ教の教えの部分を「旧約聖書」、イエス・キリストが登場した後の教えの部分を「新約聖書」といいます。「訳」ではなく「約」であることに注意してください。これは、神様との契約・約束ということです。
- ^ ただし、ギリシア近辺を中心としたヨーロッパの東部にはローマ帝国をつぐ国が残っていたので、その人々はローマ教会の支配に入らず、独自の信仰を続けました。この人々の宗派をギリシア正教と言います。ギリシア正教はやがて北上し、スラブ系の民族に信仰されるようになります。
- ^ 新教に対してカトリックを「旧教」ともいいます。
- ^ 単に宗教上の論争だけではなく、各々を信仰する貴族の間での戦争です。
- ^ キリスト教では、同じ考えに共感を持った聖職者があつまって活動する場所を修道院といい、いくつかの修道院を含んだ、そのような集まりを修道会と言います。
- ^ 別名を、「織田信長」と「豊臣秀吉」で織豊時代とも言います。
- ^ 馬に乗った武士がおそいかかる軍隊。
- ^ 最初に検地をやったのは、北条早雲ではないかと言われています。
- ^ 第12代将軍足利義晴の子、第13代将軍足利義輝の弟。当時、京都は、将軍義輝を殺した阿波(現在の徳島県)の三好氏が京都を占領しており、それから逃げていました。
- ^ 当時の延暦寺は僧だけではなく、寺を守る武士やその家族も含めた一つの街になっていました。
- ^ 29.0 29.1 秀吉は、何度も名前を変えていて、もともと、木下藤吉郎秀吉という名でしたが、この当時は、羽柴秀吉と名乗っていました。なお、「豊臣」は「源」や「平」と同じ本姓で、苗字(名字)は「羽柴」のままです。
- ^ 1592年が文禄元年、1597年が慶長2年となるからこの名がついています。「役」とは、「戦争」の意味です。
- ^ 「石高制」の前は、収穫した米を売ったお金を基準とする「貫高制」でしたが、農地の把握が不確実であったことに加え、貨幣の量が十分でなく、米との交換価格が不安定であったため、検地で収穫量を明確にし安定した収入を確保することで「石高制」に変わりました。
- ^ 公家は、荘園からの収入がなくなり、武家同様、知行からの収入のみとなりました。
- ^ これは、古くから布教をしていたキリスト教のグループであるイエズス会(ザビエルもイエズス会の一員です)は、秀吉の意を受けて目立たないように活動を続けていたのですが、新たに布教を始めたフランシスコ会というグループが禁教令を無視したふるまいをしたためにみせしめに行ったものであるとされています