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小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代

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この章の概要

★時代区分:幕末、明治維新、明治時代前期
★取り扱う年代:1853年(ペリー来航)から1889年(大日本帝国憲法の発布)まで

黒船来航と江戸幕府の終わり
日本が鎖国をしている間、ヨーロッパやそれを受けたアメリカ大陸では大きな社会変革が起こっていました。「産業革命」です。産業革命によって、石炭を使って大量の製鉄ができ、蒸気機関によって大きな力を得て、蒸気機関車や蒸気船といった、大量かつ高速輸送が可能となりました。欧米各国は、産業革命で巨大になった経済力を背景に世界中に船を出すなどして、製品の市場(しじょう)を求めるようになりました。
1853年アメリカ合衆国(米国)の提督ペリーが4隻の蒸気船(黒船)を引き連れ、浦賀に来航し日本に開国を要求しました。幕府は大混乱の中、翌年の再来日をうけ、米国の船舶が港湾を利用することなどを認める日米和親条約を結び、その後、米国以外のヨーロッパ各国とも同様の条約を結び、1639年以来の鎖国は解かれました。欧米各国はさらに日本との貿易の条件などに関する通商条約の締結を求めます。日本国内では天皇が治める国であって(尊皇)外国人を入れるべきではない(攘夷)という考え(尊王攘夷)が全国的に起こり、幕府の動きがこれに反するものとして対立し、大老井伊直弼はこれを弾圧しました。井伊直弼は通商条約締結を強行しますが、尊王攘夷派に暗殺されます。日本は長い間他の国と外交をすることがなかったので、国際法の知識に乏しく、この時に結ばれた通商条約は、「治外法権」があって、「関税自主権」を認められない日本にとって不平等な条約でした。長州藩薩摩藩は尊皇攘夷の代表でしたが、欧米諸国に日本は大きく遅れており、それに追いつくには、「攘夷」ではなく積極的に外国に学ぶことであり、幕府の仕組みではうまくいかないと考えて、同盟して(薩長同盟)、幕府をうちたおすこと(倒幕)に方針を変えました。1867年第15代将軍徳川慶喜は、征夷大将軍を辞任し(大政奉還(たいせいほうかん))、江戸城は、薩摩の西郷隆盛らの率いる新政府に明け渡されました。こうして、江戸幕府は終わり、武士の世の中が終わります。
明治維新と文明開化
幕府が倒れた後、薩摩藩の西郷隆盛大久保利通、長州藩の木戸孝允らの働きによって明治天皇を中心とした新政府がつくられました(王政復古)。明治天皇の名による五箇条の御誓文が発布され新政府の方針がしめされ、様々な改革に取り組みます。元号が「明治」に改められたことをうけて、この改革を「明治維新(めいじいしん)」といいます。新政府は幕府だけでなく、藩も廃止し、政府が全国を直接治める形に変えました(廃藩置県)。また、四民平等をうたって、武士の特権を否定しました。新政府は、法律・裁判・軍隊・警察・経済・金融・税制・工業・鉄道・海運・郵便・電信・学校・暦など数多い分野で、欧米を模範にした改革を行いました。
これらの改革によって、たとえば、布地が安く手に入るようになったり、蒸気機関車で短時間で遠くまで移動できるようになるなど人々の生活は大きく便利に変わりました(文明開化)。また、身分制をなくしたので、生まれた家に関わらず、個人の努力によって政治をはじめとする社会のあらゆる分野にかかわることができるようになりました。このような社会にあった「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の考え方が福沢諭吉などにより紹介されました。

黒船来航と江戸幕府の終わり

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世界の変化1 - 産業革命

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ワットの蒸気機関、最初は炭鉱の水の排出に使われました。
スティーブンソンが実用化した蒸気機関車
日本が鎖国をしている間、ヨーロッパやそれを受けたアメリカ大陸では大きな社会変革が起こっていました。
17世紀のヨーロッパは各地で大きな戦争が起き、そこでは、多くの銃や大砲が使われました。銃や大砲は鉄でできていますから、作るのに大量の鉄が必要となりました。このころまでは、鉄を作るために木炭を使っていたためヨーロッパの国々の森林の伐採が進みました。イギリスでは国内の森林のほとんどが伐採され、木炭は輸入に頼るしかなくなりました。イギリスは、石炭が豊富に取れる国だったので木炭の代わりに石炭を使う工夫にとりくみました[1]。そうして、18世紀初頭に、石炭を蒸し焼きにしたコークスが発明され、製鉄に石炭が使われるようになります。
コークスの発明で、大量の製鉄が可能になりましたが、同時に大量の石炭を採掘しなければならなくなりました。石炭は地下資源なので掘りすすめると、地下水が大量に出て、さらに進むことができなくなります。これを解決するのに、蒸気機関が開発されました。水を温めて蒸気にすると水の体積に比べて何倍も膨張(ぼうちょう)します、逆に、冷やすと水に戻りますので収縮(しゅうしゅく)します。この膨張と収縮を交互に行うことで、水を温める熱を運動に変えるのが蒸気機関です。炭鉱では、蒸気機関でポンプを動かし水を汲み出しました。特に1776年ジェームズ・ワットが開発した蒸気機関は、小型で強力なもので、それ以降の蒸気機関の元となりました。
ワットの蒸気機関は石炭を燃やすだけで大きな力を得ることができ、当時、おこりつつあった繊維(せんい)工業の生産力を爆発的に向上させました。繊維工業には、大きく分けて、細かい繊維をまとめて糸にする工程(紡績(ぼうせき))と、糸を縦横に組み合わせて布にする工程(織布(しょくふ))があります。紡績には、細かい繊維をくるくるとより合わせて長い糸を作る作業があり、また、織布には横に交互に張った縦糸に横糸を通して力をかけてまとめるという作業があります。これらの作業は、もともと人力でやっていたため、大量の生産は期待できませんでした。一部には水車を使った水力も使われていましたが、工場の立地が限られるという難点がありました。この動力源として、ともに蒸気機関が用いられるようになったのです。
また、蒸気機関を動力とした乗り物が開発されました。19世紀の初頭には、蒸気機関を船の動力とした蒸気船がアメリカ人ロバート・フルトンによって、蒸気機関車を使った鉄道[2]がジョージ・スチーブンソンによってイギリスで実用化されました。
こうして、鉄や、繊維や布といった工業製品を大量に製造し、それを鉄道や蒸気船で大量・安価かつ高速に輸送することが可能になりました。これを、「産業革命」と言います。産業革命は、イギリスにはじまって、ヨーロッパ各国、大西洋を越えてアメリカでもおこりました[3]
欧米各国は、産業革命で経済力が大きくなりましたが、さらにそれを大きくするため、国内で生産する工業製品の市場(しじょう)と原材料となる農産物や鉱物資源を欧米諸国の外に求めるようになりました。国外の市場や原材料を確保する方法の一つとして、アジアやアフリカの多くの国や地域が、工業化が進んだイギリスやフランスといったヨーロッパの一部の国の植民地となりました。
例えば、インドは、綿花の産地で、手作業で綿花からとった綿(わた)をつむいで、木綿(もめん)を作り、綿織物を自分たちのために作っていました。ところが、イギリスは、インドから綿花を輸入して、紡績工場で木綿を生産し、それを使って綿織物を機械織機を使って大量の綿織物を生産しました。こうして、インドにはイギリスからの安く良質な綿製品が流れ込み、国内の綿工業は衰退する一方で、輸入などにあたっての資金はイギリスから貸し付けられたため、イギリスの影響力が極めて強い状態になっていました。そうして、1857年の反乱がきっかけとなって、イギリスの植民地となりました。また、中国(清)からは、大量の茶を輸入していたのですが、代わりに清に輸出するものがなく、麻薬であるアヘンを密かに売っていました。そのため、1840年イギリスは清と戦争(アヘン戦争)になり、香港を領土としたりしていました。この状況は、日本にも伝わり、一部の人たちはヨーロッパ各国に対して警戒するようになっていました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】「電気」の研究
「産業革命」の中心となったものは、鉄鋼・蒸気機関・紡績・織機などですが、同時に、これと並行して「電気」も研究されていました。
「電気」は、はじめ、「ある種のものをこすると、軽いゴミとかが集まったりしたり、たまに、ビリッと痛みを感じる」くらいの経験から研究がなされるようになります。この時こすったものはコハク(琥珀)でした。コハクはギリシア語でエレクトロンと言います。そこから、このこすった時のモヤモヤした物を「エレクトリクス」と呼ぶこととし、それが、後に英語のelectricity(エレクトリシティ; 電気)となります。17世紀に入って、こすって「静電気」を作り出すことができる機械を作ったり、そのビリビリする目に見えないものは、金属を通して移動をして、加工をほどこしたガラス瓶にためられることがわかりました。1776年に平賀源内が組み立てた「エレキテル」もこのような機械の一つです。ただ、そのビリビリは何かの役に立つかは全くわかりませんでした。数少ない例外の一つが、アメリカのベンジャミン・フランクリンの話で、1752年、フランクリンは(かみなり)は、このビリビリの一種だと考え、実際に(たこ)を使った実験をし、雷がビリビリの一種であることを証明して、避雷針(ひらいしん)を発明したことです。
18世紀から19世紀にかけて、イタリアのボルタが、静電気のようにこすってではなく、化学変化から連続して電気を取り出せるようになりました。「電池」が発明されたのです。
このことで、安定して電気を得ることができるようになり、さまざまな実験ができるようになりました。その実験の中から、電気が磁気(磁石の力)と関係することがわかって、1825年電磁石が発明されます。そして、1831年ファラデーが電気と磁気と運動の関係を発見します。この発見は後にモーターと発電機の発明につながります。
モーターと発電機の発明はもう少し後の時代になりますので、少し見方を変えます。電磁石の発明は、電気と運動を関連づけることになります。つまり、電気が通ると電磁石が磁力を持って鉄などを引きつけます、電気を切るとそれは離れます。電気は遠いところでもほぼ同時に動きを伝えることができます。つまり、手元のスイッチのオン/オフを遠いところでほぼ同時に知ることができ、そして、いくつかのオン/オフのタイミングで文字を伝えるということができるということです。これが、「電信」の仕組みで、1830年代から40年代にかけて実用化しました。はじめて、電気が人の生活の役に立った例でしょう[4][5]
電気は、「目には見えないけれども、ものをこすると何かビリビリするものができる」とわかってから、何の役にも立たなかったのに、科学者たちは興味を持ち続け約200年の時をへて、ようやく、人の暮らしの役に立ちました。それから電気を使ったさまざまな発明がなされ、皆さんの生活に欠かせないものになっていることは、よく知っているかと思います。興味を持って研究していくことの大切さがよくわかる話ですね。


黒船来航と開国

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黒船来航
欧米で産業革命にともなう変化が起こっている中で、鎖国をしている日本に対しても、イギリスやロシアから鎖国をやめるよう何度か使者が来ましたが、幕府はこれを許しませんでした。
このようななか、1853年7月8日アメリカ合衆国[6](米国)の提督ペリーが4隻の蒸気船(黒船)を引き連れ、浦賀(うらが)に来航し日本に開国を要求しました。
ペリーは、それまでの各国の対応とちがい、東京湾を北上したり空砲を発射したりするなど、幕府に対して強硬に接し、翌年の返事を約束させて、7月17日浦賀から去りました。
幕府では大混乱となり[7]、幕府内だけでは対応ができず、8月5日、老中筆頭の阿部正弘(あべまさひろ)は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも外交についての意見を求めました。これは江戸幕府が始まって以来初めてのことでした。しかしながら、良案は出ない一方で大名などに、幕府に意見をしても良いという風潮が生まれました。
ペリーは、返事を翌年にするとの約束のところ、日本での混乱を聞きつけ半年後の1854年2月13日に再び浦賀に現れました。幕府はペリーと交渉し、3月31日米国の船舶が港湾を利用することなどを認める日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結びました。その後、米国以外のヨーロッパ各国とも同様の条約を結び、1639年以来の鎖国は解かれました(開国)。
欧米各国はさらに日本との貿易の条件などに関する通商条約の締結を求めます。日本国内では天皇が治める国であって(尊皇(そんのう))外国人を入れるべきではない(攘夷(じょうい))という考え(尊王攘夷)が全国的に起こり、幕府の動きがこれに反するものとして対立し、大老井伊直弼(いいなおすけ)はこれを弾圧しました(安政(あんせい)大獄(たいごく))。井伊直弼は1858年アメリカとの間で日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)、イギリス・フランス・オランダ・ロシアとの間で同様の通商条約の締結を強行しますが、翌年尊王攘夷派に暗殺されます(桜田門外(さくらだもんがい)(へん))。日本は長い間他の国と外交をすることがなかったので、国際法の知識に乏しく、この時に結ばれた通商条約は、「治外法権(ちがいほうけん)[8]」があって、「関税自主権(かんぜいじしゅけん)[9]」を認められない日本にとって不平等な条約でした。

江戸幕府の終わり

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もともと、江戸幕府では、外様大名は幕府の政治に口を出すことはできなかったのですが、開国にあたって、意見を求めたことと、その後幕府が騒動をおさめられなかったことから、各地の大名の中には、幕府の政治に参加しようとしたり、幕府の政治を批判するものも見られるようになりました。また、開国と条約締結にあたって、幕府は朝廷(天皇)の許可を求めたため[10]、「尊皇攘夷」を唱え、幕府の開国や条約改正に反対する各地の武士などが京都に集まっていました。
長州藩[11]には、吉田松陰(よしだしょういん)という思想家が現れ、松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いて長州藩の若者に尊王攘夷を説きました。松蔭は、安政の大獄で処刑されますが、高杉晋作(たかすぎしんさく)桂小五郎(かつらこごろう)(後の木戸孝允(きどたかよし))らの弟子たちは京都などで尊皇攘夷の運動を繰り広げます。
薩摩藩[12]では、島津斉彬(しまづなりあきら)という藩主が、海外の状況などを研究し[13]、同じ尊皇攘夷でも、攘夷とは国として他国の支配を受けずに独立してやっていくことだと考え、それを成功させるには、国を強く豊かにさせる必要があると考えていました。その考えのもと、薩摩藩で、後に富国強兵(ふこくきょうへい)殖産興業(しょくさんこうぎょう)と呼ばれるようになる政策に着手し、また幕府に働きかけて国政改革にも貢献しました。斉彬は1858年に亡くなりますが、西郷隆盛(さいごうたかもり)大久保利通(おおくぼとしみち)ら家臣が、その思想を受け継ぎます。
長州藩と薩摩藩は幕府との関係で敵対することもありましたが、1863年から1864年にかけて、それぞれヨーロッパの艦隊と戦い大きな被害を出すという共通の経験を経て[14]、欧米諸国に日本は大きく遅れており、それに追いつくには、西洋諸国との付き合いを避けるという「攘夷」ではなく積極的に外国に学ぶことが必要であると考えるようになりました。そうして、現在の幕府の仕組みではうまくいかないとして、同盟して(薩長同盟(さっちょうどうめい)[15])、攘夷から幕府をうちたおすこと(倒幕(とうばく))に方針を変えました。
第15代将軍徳川慶喜
開国や通商条約の締結にあたって、幕府がしっかりした方針を示せなかったことは、全国の大名に不安をもたらしました。開国に伴って海外の様子が伝わり、イギリスやフランスが多くの国や地域を植民地にしていったことも知られるようになり、このままでは日本も植民地にされてしまうということも恐れられるようになりました。また、開国に伴って各大名が近代兵器を海外から買い付けたことや、金が海外へ流出したこと[16]で、物価が上がって庶民の暮らしは苦しくなり、世の中は騒然としました。このようになっても、幕府は諸大名をまとめられず、効果的な政策を行うこともできなくなっていました。
このような中、1867年第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、征夷大将軍を辞任し(大政奉還(たいせいほうかん))、260年以上続いた江戸幕府は終わりを告げます。慶喜は、大名が相談して政治を進めることを期待して、慶喜自身もそれに徳川家の代表として参加するつもりでしたが、西郷らは、天皇中心の政府(新政府)を作るために(王政復古(おうせいふっこ))、翌1868年、江戸幕府をはじめとして、明治政府に従わない大名を従えるため戦争を起こしました(戊辰戦争(ぼしんせんそう)[17]。西郷らは、公家の岩倉具視(いわくらともみ)などを味方につけ、天皇の権威((にしき)御旗(みはた))をもって、天皇の軍隊として幕府を攻めました。新政府軍は、薩摩藩及び長州藩を中心として、後に土佐藩[18]や肥前藩(佐賀藩)[19]が加わります。長州藩では、武士だけではなく、農民他庶民も軍に加わりました(奇兵隊(きへいたい))。この戦争で中心となった、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩の出身者が、明治政府の中心(「薩長土肥(さっちょうどひ)」)となります。
新政府軍は、京都から東に進んで、江戸城を攻めようとしましたが、幕府を代表する勝海舟(かつかいしゅう)が、西郷隆盛と交渉して、江戸城は新政府に明け渡されました。その後、東北北越地方の大名との戦いや、函館で旧幕臣らとの戦いがありましたが、新政府軍が勝利し、1869年5月戊辰戦争は終わります。


明治維新と文明開化

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明治維新と武士の社会の終わり

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西郷隆盛
大久保利通
木戸孝允
こうして、西郷隆盛大久保利通木戸孝允(この3人を「維新の三傑」と言います)らの働きによって明治天皇(めいじてんのう)[20]を中心とした新政府がつくられました。明治天皇の名による五箇条(ごかじょう)御誓文(ごせいもん)が発布され新政府の方針がしめされ、様々な改革に取り組みます。元号が「明治」に改められたことをうけて、この改革を「明治維新(めいじいしん)」といいます。
なお、これ以降は、日本の出来事については西暦と元号を並べて記述していきます。明治以降は、元号を10年区切り(大正は15年を一区切り)にしていくと時代の特徴が理解しやすいところがあるからです。
また、これまでの記述と違って、個人を姓のみであらわすことがあります。
新政府は、律令制の仕組みを元にした太政官(だじょうかん)という役所で政治を行い、日本中から広く優秀な人たちを集めましたが、討幕を主導した4藩(薩長土肥)の出身者がその中心を占めていました。このような政治を藩閥(はんばつ)政治と言います。各藩出身の主な政治家を以下にしめします。
江戸幕府が滅びたのちも、徳川家の領地などは、「府」や「県」をおいて新政府がおさめることとなったのですが、そのほかの大名の領地はそのままで、大名が知藩事(ちはんじ)[21]と名を変えておさめていました。藩と府県は入り組んでおり行政には非効率でした。また、新政府直轄の府県は合わせても全国の4分の1程度で、新政府は改革の資金を得るのに苦労する一方で、各藩では財政が悪化し、廃藩を願い出るところもありました。
こうしたことを受け、1871年(明治4年)新政府は幕府だけでなく、藩も廃止し、政府が全国を直接治める形に変えました(廃藩置県(はいはんちけん)[17]。また、四民平等をうたって、「名字帯刀」などの武士の特権を否定しました。廃藩置県によって、武士の世の中は完全に終わりました。
「農工商」と言われていた庶民[22]も、等しく姓をなのることができるようになり、同年制定の戸籍法に基づいて翌1872年(明治5年)近代的な戸籍に記録されました。
新政府は、経済を発展させて軍事力の増強させなければ欧米諸国の植民地となるという危機感があり富国強兵(ふこくきょうへい)を国の目標として、殖産興業(しょくさんこうぎょう)[23]をスローガンとして、法律・裁判・軍隊・警察・経済・金融・税制・工業・鉄道・海運・郵便・電信・学校・暦など数多い分野で、欧米を模範にした改革を行いました。
遣欧使節団
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通
1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて、欧米の状況を学ぶため、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らを含めた約100名(遣欧使節団(けんおうしせつだん)、「岩倉使節団」ともいいます)が送られました。この使節団の帰国後、大久保利通や伊藤博文を中心に、改革が急速に進みました。
また、欧米から高い科学技術を学ぶため、政府は、多額の予算を使って多くの外国人を指導者としてやとい入れました。この外国人たちを(やと)い外国人といいます
以下に、この時期にどのような改革が行われたかを列挙します。
軍隊
天皇は、臣下に武士がいなかったため、明治4年(1871年)、薩摩・長州・土佐の各藩から、天皇警護の名目で兵が集められました。
同年の廃藩置県で武力を持った藩は消滅し、政府だけが軍事力を持つことになります。四民平等によって、武士は世襲の職業ではなくなり、また、軍人を志願するものだけでは、兵隊として数が全く足りないため、全国民の男子から兵士を集めるようにしました(徴兵制(ちょうへいせい))。
1872年(明治5年)に太政官は徴兵告諭(こくゆ)という法律を出し、翌1873年(明治6年)に徴兵令が施行されました。徴兵には、新たに導入された戸籍が用いられました。
徴兵令は、士族のプライドを傷つけるものであり[24]、逆に平民にとっては、命をかけて戦うというのは思ってもいなかったことで、多くの国民には不安と不満を持ってむかえられました。
徴兵された兵士は、日本で6ヶ所に設けられた鎮台(ちんだい)に集められ、厳しい訓練と教育を受けます。そうして、後に述べる西南戦争などにあっても、元武士である士族に対しても戦える近代的軍隊に育ちました。
経済・金融
江戸時代には、貨幣を使って経済を回す仕組み(貨幣経済(かへいけいざい))はできあがっていましたが経済の中心はやはり米であり、また、貨幣も、金(小判、分金)・銀(板銀、分銀)・銭(寛永通宝 など)がばらばらに流通する複雑な仕組みでした。この頃の欧米諸国は、お金の価値を(きん)の価値とする仕組み(金本位制(きんほんいせい))となって、単純で明確なお金の流れが確立し、経済の流れに勢いをつけていました。日本も1871年(明治4年)、新貨条例を制定し、通貨単位を「両」から「圓(円)」に切り替えて本位貨幣を金貨とし、金本位制度を採用することにしました。
金貨は重量があり、また、そのまま流通させると、傷がついたりしてすり減るおそれがあります。そこで、金貨を預かって代わりに紙の「預かり証」を発行する工夫がなされました。「預かり証」は、預けているところに持っていけば金貨と代えてもらえるので、金貨と同じようにお金として利用できます。この金貨を預かるところが「銀行(ぎんこう)」です。そして、預かり証が「紙幣(しへい)」です。銀行は、預かるため安全な金庫を持っていますから、金貨だけではなく、すぐには使わない紙幣も預かるようになります。預かって金庫の中にしまっておいても、預けていた人が大勢いれば、預けていた人が一斉に全部引き出すことはめったに起こりませんから、預かっているお金を貸し付けに使ったりできます。こうして銀行の仕組みができて、新しい事業を起こす元手を得る方法が新たに加わりました。
1872年(明治5年)このような役割を果たす銀行についての国立銀行条例を政府は制定しました。そして、翌1872年(明治5年)、国立銀行条例の制定にかかわった渋沢栄一(しぶさわえいいち)が日本最初の銀行である第一国立銀行を設立しました。また、渋沢は、第一国立銀行を、多くの人から資金を集める株式会社(かぶしきがいしゃ)の仕組みを日本で初めて使って設立しました。
税制
貨幣経済の仕組みを作り上げたとはいっても、当時の日本で最大の産業はやはり稲作であり、税収はそれに頼らざるを得ませんでした。
しかし、江戸時代同様、収穫した米を年貢として徴税する方法では、米の輸送や保管に費用がかかり、また、米の相場に税収が左右されるなど、国の財政を計画的に運営するには適当ではないため、1873年(明治6年)、土地の収穫量などを参考に地価を決め、それを証明する証書(地券(ちけん))を発行し、地価に対する一定割合(当初3%、後に2.5%)を現金で納税する方式を取り入れました。これを、地租(ちそ)改正といいます。
地租改正は、同時に、江戸時代は禁止されていた農地の売買を公に認めることとなりました。
工業
明治政府は、欧米諸国に追いつくよう、蒸気機関などの動力や、織機などの機械を使った工業をおこす必要がありました。そこで、政府が出資して、近代的工場(官営模範(かんえいもはん)工場)を作りました。
1872年(明治5年)群馬県にカイコの(まゆ)から生糸(きいと)を作る富岡製糸場(とみおかせいしじょう)[25]が作られ、1873年(明治6年)頃に深川セメント製造所など多くの官営模範工場ができました。1876年には札幌に開拓使(かいたくし)麦酒醸造所(ばくしゅじょうぞうじょ)というビール工場までできます。
これらの、官営模範工場は、民間で新たに作る工場のモデルとなり、やがて、民間だけで経営ができるようになると民間の資本家に売却されました。
浮世絵に描かれた開業当初の鉄道(横浜)
鉄道等交通機関
鉄道
1872年(明治5年)、日本初の鉄道路線である新橋駅 - 横浜駅間が、正式に開業しました。西日本では、明治7年(1874年)に大阪駅 - 神戸駅間が開通し、明治10年(1877年)に京都駅まで延伸しました。
鉄道は、当時開拓中であった北海道で、開拓推進のため、本土の各地域にさきがけて、1880年(明治13年)小樽 - 札幌間で開業しました。
明治10年代は、西南戦争の影響もあり、政府は資金不足で鉄道建設の進みは遅くなりましたが、徐々に路線は伸びてゆき、1889年(明治22年)、東京大阪間を結ぶ東海道本線が開通しました。
市街地の交通
人力車(1897年)
東京など市街地では、1870年(明治3年)発明された人力車が、駕籠(かご)に代わって、人々の近距離の移動の手段となりました。人力車が普及するためには、市街地においても道路が整備される[26]必要があります。
また、1882年(明治15年)道路にレールを引いて、その上を走る鉄道馬車が運行を開始し市内大量輸送交通のさきがけとなります。
海運
江戸時代は、千石船を使って海上輸送がなされていましたが、開国後、欧米資本の船会社が最新の蒸気船を使って定期航路を開き、それまでの廻船問屋を圧倒し、海運業は独占されるおそれがありました。政府は、1872年(明治5年) 日本国郵便蒸気船会社を設立し、政府予算で蒸気船を購入し定期的な海上運送を開始します。1875年(明治8年) 岩崎弥太郎(いわさきやたろう)率いる三菱商会が、事業を引き継ぎ外資に頼らない海上運送ができるようになりました。
前島密の肖像を使った1円切手
郵便
1871年(明治4年)、郵便に関わる太政官布告が交付され、郵便制度が施行されました。この時、最初の郵便切手が発行されました。郵便役所はさらに横浜、神戸、長崎、函館、新潟と全国展開が図られ、江戸時代に地域のまとめ役だった名主に自宅を郵便取扱所(後に郵便局となります)とすることを要請、1873年(明治6年)に全国約1100箇所の名主が郵便取扱所となることを引き受けたことから、郵便制度は全国に拡大しました。
郵便制度を作り上げたのは、もともと幕臣であった前島密(まえじまひそか)で、現代でもよく使う「切手」、「為替」、「葉書」などの言葉は、彼の考案によると言われています。前島密は「日本郵便の父」と言われ、その肖像は、1円切手に採用されています。
電信
1869年(明治2年)に横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線が敷設、1870年1月(明治2年12月[27])には、東京・横浜間で電信による電報の取り扱いが始まりました。1880年(明治13年)頃には大都市間、1890年(明治23年)頃には全国の県庁所在地が電信でつながりました。
1871年(明治4年)にはロシアのウラジオストクから長崎へ海底ケーブルが敷設され、シベリア経由でヨーロッパ、さらには大西洋横断電信ケーブルを経て米国とも通信が可能となりました。1873年(明治6年)には東京と長崎間に回線がひかれたので、東京から海外との通信が可能になりました。
学校
1872年(明治5年)、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である学制(がくせい)が出されました。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校[28]・小学校を設置することを計画し、身分や性別に区別なく、国民全てが学校教育を受けられることを目指しました。
高等教育においても、1877年(明治10年)、もともと、徳川幕府が近代化政策のために設置し、明治政府が引き継いだ開成学校と東京医学校を統合し、近代的な総合大学である東京大学[29]が発足します。また、開拓に力を入れた北海道には、1876年(明治9年)に農業技術に関して大学に相当する札幌農学校[29]を設立しています[30]。そこでは、多くの外国人が雇われ、欧米の進んだ科学技術を、若者たちに教えました。札幌農学校で農業を指導したウィリアム・クラーク[31]などが有名です。
高等教育は、民間においても、1868年(慶応4年)福沢諭吉(ふくざわゆきち)が政府にさきがけて近代的な高等教育の場である慶應義塾[32]を設立し、それ以後、1875年(明治8年)新島襄(にいじまじょう)同志社英学校[33]、1882年(明治15年)大隈重信(おおくましげのぶ)東京専門学校[34]を設立するなどして、官学とはやや異なった見方から、新しい社会へ人材を送り出していきました。
明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌日を明治6年(1873年)1月1日として欧米諸国で用いている太陽暦(グレゴリオ暦)にしました。それまで使っていた暦は、今は「旧暦(きゅうれき)」と呼ばれています。

士族の反乱

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廃藩置県によって藩がなくなったので、武士であったひとたちは、定期的な収入も失い、自分で慣れない商売を始めるなど(そして、それに失敗する例も数多くあり、「武士の商法」として、嘲笑(ちょうしょう)されました)、新たな苦労を負うことになりました。また、戸籍の上では「士族」として、「平民」とは、区別されていましたが、特に優遇されることもありませんでした。多くの士族が新政府の政策に失望し、特に倒幕に加わった藩の士族は、中央で活躍するかつての同輩たちに不満を抱きました。
このような中、1873年(明治6年)、遣欧施設の帰国後、朝鮮との外交問題(征韓論(せいかんろん))で、西郷と大久保が対立し、西郷、板垣、後藤、江藤、副島は政府から離れ故郷に戻りました。
1874年(明治7年)に江藤が故郷の佐賀県でおしたてられて反乱をおこしましたが(佐賀の乱)、政府によって鎮圧されました。
続いて、1876年(明治9年)には熊本県で神風連(じんぷうれん)の乱、それを受けるように福岡県で秋月(あきづき)藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、10月には山口県で前原一誠(まえばらいっせい)らによる(はぎ)の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧されました。
西南戦争で最も激しい戦いとされる田原坂の戦いを描いた錦絵
これらの反乱は、すべて、倒幕の中心またはそれに協力した藩の士族によるものです。
そして、1877年(明治10年)には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将にして、日本国内では歴史上最大規模の内戦となる西南戦争(せいなんせんそう)が勃発しました。西郷等の軍は北上して、鎮台のおかれていた熊本を攻めますが、鎮台の兵士が熊本城にこもり、西郷軍の足止めをしているうちに、大久保利通が主導する政府は東京や大阪から大量の兵士を移動させ田原坂(たばるざか)の戦いで西郷軍を打ち負かします。残った西郷軍は南九州各地を転々とし、最後に、西郷隆盛が鹿児島の城山で自決して、西南戦争は鎮圧されます。なお、この翌年、大久保利通は不平士族に暗殺されました。
薩摩藩は、江戸時代から武を尊ぶことで有名で、戊辰戦争でも活躍し、日本最強と言われていたところ、多くは元々武士ではなかった兵士の政府軍に圧倒的に敗北したのですから、これ以後、政府に対する不満は、武力に訴えるものではなく、自由民権(じゆうみんけん)運動など政治活動によるものとなっていきます。

北海道と沖縄

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江戸時代、北海道と沖縄は、一部の除いて、幕府と藩という江戸時代の政治の仕組みとは別に取り扱われていました。明治になって、この二つの地域も日本の一部として他の地域同様に取り扱われるようになりました。
北海道
ヨーロッパの一国であるロシアは、17世紀東に兵を進め、ユーラシア大陸北部のシベリアを領土としました。シベリアは、ロシアの中心部からは遠く、また、農業に適していない土地だったので、開発はなかなか進みませんでしたが、18世紀後半あたりからロシア船舶の航海がさかんになり、日本人としばしば接触するようになりました。その頃から日本でも、北海道沿岸でとれるニシンなどを肥料に用いるようになり、北海道でも農業に代えた経済的な価値が発見され、本土からの商人の行き来がさかんになってきます。例えば、函館(はこだて)市は、そのような商人が江戸時代に開いた街です。また、太平洋側まで領土を広げ、さらに、南下しようとするロシアに対抗して、幕府はこの地域の調査を始めます。間宮林蔵(まみやりんぞう)樺太島(からふととう)(サハリン)を調査し、それが島であることを発見しました[35]。幕末、開国に合わせ箱館(函館)に箱館奉行がおかれています。
明治になって、政府は北海道をロシアに近く、また、未開発の土地などが豊富にある[36]重要な土地と考え、開拓使(かいたくし)(通称:北海道開拓使)をおいて北海道の開拓を進めます。北海道には、兵士として警備・防衛につきつつ普段は農業をいとなむ屯田兵(とんでんへい)がおかれました。また、戊辰戦争で敗北した藩からの移住なども見られました。明治政府も、札幌(さっぽろ)小樽(おたる)など都市の建設、鉄道の導入、学校(札幌農学校)や工場の建設などについて、本土に優先して予算を配分した例も少なくありません。
沖縄
沖縄は琉球王国がおさめる国でしたが、薩摩藩が強い力を持って支配し、同時に清国に朝貢を行う国、つまり、清国の属国でもありました。
明治になって、琉球王国がどこに属するかが清国との間で問題になりました。1872年(明治5年)、明治政府は、琉球国を「藩」のひとつとして認め[37]、日本国の一部と諸外国に宣言しました。1875年(明治8年)、明治政府は「琉球処分」を決定し、清国との間の独自外交を禁じ、本土の法制などに従うよう琉球藩政府に要求しました。このような明治政府の対応に、琉球藩内で抵抗がありましたが、1879年(明治12年)、琉球藩は廃止され[38]、沖縄県がおかれました。

文明開化

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これらの改革によって、たとえば、布地が安く手に入るようになったり、蒸気機関車で短時間で遠くまで移動できるようになるなど人々の生活は大きく便利に変わりました(文明開化)。
遣欧使節団途中で、まげを切った岩倉具視。使節団出発の時と比べてみてください。
1871年(明治4年)「断髪令(だんぱつれい)」が出され、それまで、身分によって髪型((まげ)、「ちょんまげ」はまげの一種です)が決まっていましたが、どのような髪型をしても良いことになり、ほとんどの人がまげを切りました。当時、まげを切ったばかりの髪型を「ザンギリ(あたま)」と言われていました。庶民の間では、「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」などと言われ、生活が変わったことの実感として受け取られました。
欧米人が数多く訪問したり、居住したりするようになり、牛肉や豚肉などの肉食の習慣や牛乳を飲むなどの新しい食習慣が少しずつ広がりました[39]
衣服も江戸時代は身分によって決められていました。明治になって、その制限は無くなりました。すぐに、全て洋服に変わったわけではありませんが、機械工場で生産する布地は、和服の反物より安く入手できたので徐々にデザインも洋装にちかづいていきました。
開国に伴って、キリスト教の宣教師も来日するようになりました。江戸幕府は禁教令をそのままにして、日本人がキリスト教徒になる事を禁じていました。明治政府も最初はそれを引き継ぎましたが、外国人達の強い抗議があって1873年(明治6年)以降、キリスト教を含めた宗教の布教や信者になることについて一切の制限がなくなりました。
一方で、仏教寺院は、寺請制度で住民の役所の役割も果たしていましたが、戸籍制度がこれに代わったため、住民との公的なつながりは無くなりました。さらに、新政府ができた当時は、尊皇攘夷思想の影響から神道が重要視され[40]、また、仏教は古臭い伝統であるとの意識から、多くの寺が壊されたりものが持ち出されたりしました(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))。明治政府の中には、尊皇攘夷の影響を強く受けた政治家なども多く、天皇を中心とした神道を、国の宗教(国教)としようとする動きもありました。しかし、もうその当時、欧米の先進国では人々の信教の自由は重要なもので宗教的なものを政治に関係させないという考え方が一般的になっていたので、欧米の国を見習った国づくりをする人たちには受け入れられませんでした。ただ、皇室の祖先である天照大神(あまてらすおおみかみ)(アマテラス)をまつった伊勢(いせ)神宮を頂点とする各地の神社は、国民が尊敬するものとして政府が管理するものとなり、大規模な神社は国の施設として営まれました(国家神道(こっかしんとう))。
学校制度の定着は、識字率(しきじりつ)(文字を読める能力)を高めることになり、また、欧米から伝わった活版印刷によって、新聞や出版物が大量で安価に人々の元に届くようになります。このことで、欧米の新しい思想が普及するようになることの他に、小説などの文学が娯楽として定着するようになりました[41]
また、演劇の世界では、歌舞伎のように男性だけが舞台に立てるという制限がなくなり、女性も同様に舞台に立つという新劇が生まれました。
社会思想
身分制をなくしたので、生まれた家に関わらず、個人の努力によって政治をはじめとする社会のあらゆる分野にかかわることができるようになりました。このような社会にあった「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の考え方が福沢諭吉(ふくざわゆきち)などにより紹介されました。
福沢諭吉は、著書『学問のすすめ』の中で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と、生まれながらの平等を説いて、努力次第で社会の重要な地位に就くことができること(立身出世)を主張しました。これらの考えは、学校教育制度の整備や新聞や出版物の普及もあわせて、だんだん社会に浸透し、努力をすることで社会的立場を向上さすることができることが理解されるのと同時に社会のさまざまな層から社会参加を求める声が上がってきました。

脚注

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以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ 石炭には、イオウやリンが多く含まれていて、製鉄に使うと鉄がもろくなるので、そのまま使うことはできませんでした。
  2. ^ なぜ、「鉄道」だったかを考えてみましょう。車輪をつけた乗り物は、でこぼこ道を走るのは大変ですし、スピードを出せません。でこぼこ道をならして舗装しなければなりませんが、これを、いつも維持しておくのは大変です。そこで、車輪がとおる場所だけ、でこぼこでないようにすればいいと考えたのです。その車輪が通る部分だけ丈夫なもので作っておけば、道全体を常に整備しておく必要はありません。これが、鉄路(レール)の考え方です。この背景には、コークスにより、鉄が安く大量に手に入るようになったことがあります。
  3. ^ 同じ時期に、ヨーロッパやアメリカ大陸では、身分に関係なく人々が国の政治に参加するという、もうひとつの大きな社会変革が起こっていました。この変革については、次の章でお話しします。
  4. ^ ボルタが電池を発明した直後の1805年フランスで電気メッキの実験が成功していました。しかし、この事実は隠されていたため、これと関係なく1839年にイギリスとロシアで発見され翌年特許が取られて実用化しました。
  5. ^ なお、モーターが実用化になるのは1860年代、電球と電話が発明されるのは1870年代です。
  6. ^ アメリカ合衆国は、1772年イギリスから独立した新しい国ですが、1846年に北米大陸西岸までが国土となり、太平洋へ進出しました。このころの米国の太平洋への関心事は油を取るための捕鯨でした。日本には、捕鯨船の寄港地(遠洋航海での水・食料・たき木などを手に入れる港)を期待していました。
  7. ^ ペリーが浦賀から去った10日後の7月27日、病床にあった第12代将軍家慶が死去、将軍後継者の家定は病弱でこの混乱を抑えられる人ではありませんでした。
  8. ^ 外国人が犯罪を犯した時に、その国の法律と裁判所ではなくて、犯罪を犯した外国人の本国の法律で、その国に駐在する本国の役人(領事(りょうじ))により裁判がなされる権利をいいます。「領事裁判権(りょうじさいばんけん)」ともいいます。加害者側の国の法律で、加害者側の裁判所が裁くのですから、被害者側から見て不公平な判決がなされる、または、そう見えるおそれがあります。
  9. ^ 関税(かんぜい)とは、輸入する時に輸入国がかける税金です。主に、国外から安い品物が入ってくると、国内の産業が成り立たなくなるため、国内産業の保護の目的でかけられます。普通は、輸入国は自由に関税をかけたり、その税率を決めたりできるのですが、この通商条約により、自由に決めることができなくなっていました。
  10. ^ 江戸幕府の仕組みとして、このような場合に、朝廷に許可を求める必要はなかったし、実際求めませんでした。形式的に許可が必要な時には、幕府は朝廷を強制して許可を出させていました。開国にあたって幕府は、自分で決められないところを朝廷に責任を移した結果、このようになりました。
  11. ^ 長門国と周防国(現在の山口県)を領有する、毛利家を藩主とする藩です。
  12. ^ 薩摩国と大隅国(現在の鹿児島県)と日向国(現在の宮崎県)の一部を領有する、島津家を藩主とする藩です。
  13. ^ 斉彬は、もともと蘭学に興味を持つなど、知的好奇心が旺盛な人でしたが、黒船来航にあたっては、浦賀に来航する前、当時、薩摩藩の強い影響下にあった琉球国に立ち寄るなどしていたため、幕府とは別の情報を得ていたと考えられます。
  14. ^ この時、銃火器の差の大きさが痛感されました。日本では、まだ、安土桃山時代の火縄銃がそのまま使われていましたが、欧米では、射程が長く、命中度も高く、取り扱いが簡単な銃器が大量に存在していました。
  15. ^ これを仲介したのが、坂本龍馬(さかもとりょうま)と言われています。
  16. ^ 日本には佐渡金山(さどきんざん)など世界有数の金鉱山があって金を豊富に持っていました。一方で欧米諸国ではメキシコなどで銀が大量に採掘されていて、銀の価値は比較的低いものでした。その結果、日本では金と銀を1:5で交換していたのですが、欧米では1:15で交換していました。そこで、欧米の商人たちは、銀で日本の金を買って持ち出したため、日本から大量の金が国外に流出しました。そして、日本では金の価値が上がり、銀の価値は下がることとなります。江戸時代は、金も銀も通貨として使われていましたが、交換の割合は決まっていませんでした。銀は幕府の公共事業の報酬などに使われており、庶民もよく手にするものでしたが、その価値は下がり、他方、大名や大商人間の取引や一部の税の支払いは、金で決済されることが多かったのですが、金が上がったため、その調達の費用が増えました。
  17. ^ 17.0 17.1 徳川家は、将軍職と無関係に約400万石の経済力を持っていました。天皇家と全ての公家を合わせても10万石、薩長を合わせても100万石程度なので、徳川家がある限り薩長が主導権を握ることはあり得ませんでした。また、幕藩体制は、徳川幕府が格段に強い権力と財力を持っていたとはいえ、基本的には、大名の連合であって、欧米諸国に追いつくためには、各々の大名が持つ財力を一つの政府にまとめる必要がありました。討幕に加えて、廃藩置県をして、全ての税金が政府に集まり仕組みが作られて初めて、鉄道や官営工場などの投資ができるようになったのです。
  18. ^ 土佐国(現在の高知県)を領有する、山内家を藩主とする藩です。坂本龍馬の出身地でもあります。
  19. ^ 肥前国東部(現在の佐賀県)を領有する、鍋島家を藩主とする藩です。
  20. ^ 1868年元号が明治に変わるときに、天皇ひとりについて一つの元号を用いることが定められました(一世一元(いっせいちげん))。「○○天皇」という呼び方は、その天皇が亡くなってからの呼び方です。明治以降の天皇には、「○○」の部分に在位した元号がきます。
  21. ^ 名前は、すぐに、「藩知事」と改められます。
  22. ^ 明治の戸籍においては「家」が単位となりました。戸籍に、もともと武士であった「家」は、「士族」とされ、その他、「農工商」の庶民の「家」は「平民」と書かれました。
  23. ^ 経済を発展させるため、西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義の育成により国家の近代化を推進する。
  24. ^ 後に起こる、士族の反乱の原因の一つとなります。
  25. ^ 2014年世界遺産に登録されています。
  26. ^ いわゆる舗装(ほそう)です。現在のようにコンクリートやアスファルトをつかったものばかりではありませんが、でこぼこ道を平らにならし、つき固める必要もありましたし、雨が降って水がたまったり泥だらけのぬかるみにならないようにしなければなりませんでした。また、人力車などがすれちがえるように幅を確保する必要もありました
  27. ^ この頃はまだ、暦は変更されていないため、西暦と元号の月が1か月程度ずれます。
  28. ^ 現在の中学校と高等学校にあたります。
  29. ^ 29.0 29.1 東京大学は帝国大学・東京帝国大学をへて、現在の東京大学となります。1897年に京都帝国大学が設立されるまで、原則として「学位(大学教育を修了したという国際的な証明)」を授与できる唯一の大学でした。その例外として、札幌農学校においては、農学に関する学位が授与できるというものでした。
  30. ^ 札幌農学校は、現在の北海道大学の母体となります。
  31. ^ クラーク博士として知られ、「少年よ大志を抱け」という言葉で有名です。
  32. ^ のちの慶應義塾大学。
  33. ^ のちの同志社大学。
  34. ^ のちの早稲田大学。
  35. ^ 樺太の領有はロシアとの間で争われていて、大陸の一部であると、日本の領有は認めにくいものでした。
  36. ^ 北海道が江戸時代初めには認知されていながら、開発が全く進んでいなかったのは、石高制などの基本である稲作に適していなかったからです。明治初期においても、北海道での稲作は難しいものでした。しかし、食生活の変化や鉄道・汽船といった輸送設備が整備されることで、商品作物としてじゃがいも・たまねぎ・小麦・てん菜・ホップ・トウモロコシ・リンゴなどが農業生産の対象となり、また、西洋食の習慣や毛織物が浸透してくると牧畜も成立し、北海道の広大な土地は農業の地として魅力的なものになりました。明治政府は、海外から農業技術の指導者を招くなどして、農業創業・農地開拓を推進しました。なお、稲作については、その後の地道な品種改良などの努力によって、現在では、都道府県別のコメの収穫高で、新潟県と1位2位を争う生産地域となっています。
  37. ^ 前年に「廃藩置県」がなされているので、異例の処理です。
  38. ^ 旧琉球国王は、各藩の藩主同様、華族となって、東京に住むことが強制されました。
  39. ^ 肉食は、仏教の教えから嫌われていたと言われていますが、魚やニワトリは普段の生活でも食べており(ただし、ニワトリも一種の高級な食材であったため、めったに食べることはできないものでした)、ウサギやイノシシなどの野生の獣は食べていたので、仏教の影響というよりはよりも、牛や豚といった食料用の家畜を飼う習慣や家畜を解体して食材にする習慣があまりなかったという理由の方が大きいと思われます。来日した外国人のために、家畜を飼ってそれを料理にする仕組みが整えられたため、それを利用し、一般の日本人も食べるようになったという側面も大きいでしょう。また、軍隊で体格をよくするという目的で肉食がすすめられたという点も見逃せません。
  40. ^ 江戸時代までは、神道は仏教の一部であるとの考え(神仏習合)が有力で、僧が神官を兼ねていたり、大きな神社には神宮寺(じんぐうじ)といった寺が併設されたりしていました。明治政府は、これを仏教と神道に分け寺か神社のいずれかにするよう命じました(神仏分離)。このため多くの寺が、神社となりました。
  41. ^ 言葉づかいも、日本で共通のものになるよう、工夫が進められてもいます。

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