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高等学校政治経済/現代社会の諸課題

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

現代日本の政治や経済の諸課題[編集]

大きな政府と小さな政府[編集]

少子高齢社会と社会保障[編集]

住民生活と地方自治[編集]

情報化の進展と市民生活[編集]

労使関係と労働市場[編集]

産業構造の変化と中小企業[編集]

産業の中心が、一次産業から二次産業、二次産業から三次産業へと移ることをぺティ・クラークの法則という。そして日本では経済のソフト化が進んでいる。

消費者問題と消費者保護[編集]

公害防止と環境保全[編集]

農業と食料問題[編集]

国際社会の政治や経済の諸課題[編集]

地球環境問題[編集]

核兵器と軍縮[編集]

国際経済格差の是正と国際協力[編集]

北と南の国際的な格差問題を南北問題(North South problem [1])という。発展途上国が宗主国の影響でモノカルチャー経済に陥っていることが原因である。工業化を目指し資金を借り入れた国では累積債務問題が発生し、支払いのリスケジューリングなどの対策がとられた。逆に工業化に成功した国々はNIEsといわれた。工業化がなされていない国は後発発展途上国と呼ばれている。先進国側ではDACが置かれた。途上国側では、第1回国連貿易開発会議にてプレビッシュ報告がなされて、70年代にはNIEOが宣言された。

先進国政府の援助はODAとよばれ、グランド・エレメントという指標がある。日本の二国間ODAの特徴として、アジアからアフリカへと配分が変わってきている。

経済摩擦と外交[編集]

日本とアメリカの間では貿易摩擦や経済摩擦が起こったので、日米構造協議や日米包括経済協議といわれる交渉が行われた。


その他[編集]

2015年ごろ「相対的貧困率」という用語が流行した(2017年度センター試験にも出題された)。「相対的貧困」の内容は、単なる所得格差のことである。なので、所得格差の高い国ほど、相対的貧困率が高くなる。

よって、アメリカ合衆国は相対的貧困率が高い。

なお、2000年度の各国の相対的貧困率は、(2017年度センター試験によると)

日本: 15.0%
アメリカ: 17.0%
デンマーク: 5.0%
ドイツ: 11.0%
(「OECD編著『格差は拡大しているか』(2010年)により作成」とのこと)

である。

左翼運動化はよく「ドイツに見習え。欧州に見習え」というが、日本と比べてドイツの相対的貧困率は、それほど低いわけでもない。

人種・民族問題[編集]

国際社会における日本の立場と役割[編集]

巻末資料[編集]

Q&A:「シビリアン・コントロールとは?」[編集]

  • Q. シビリアン・コントロールとは何でしょうか?
    「国民が、選挙で選ばれた国民の代表(政治家)を通じて、軍隊を、コントロールする。」ということです。
  • Q.誰がコントロールするのでしょうか?
    「国民」の代表者。
  • Q.何をコントロールするのでしょうか?
    「軍隊」です。
  • Q.どうやってコントロールするのでしょうか?
    「選挙で選ばれた国民の代表(政治家)」を通じてコントロールします。
  • Q.シビリアンとは何でしょうか?
    「選挙で選ばれた国民の代表(政治家)」のことです。

シビリアン・コントロールとは、

(誰が?)→(どうする?)→(何を?)→(どうやって?)

国民が → コントロールする → 軍隊を → 選挙で選ばれた国民の代表(政治家)を通じて

ということです。

つまり、「国民が、選挙で選ばれた国民の代表(政治家)を通じて、軍隊を、コントロールする。」ということです。


シビリアン・コントロールのよりくわしい内容については、ウィキペディア文民統制を参照ください。


(※ 範囲外)背景的な議論マナーや反証可能性など[編集]

※ ここで紹介されている議論のマナーなどは、あくまで政治学や経済学や法律学での議論のマナーです。
哲学や文学や芸術などの議論では、議論のマナーが違う場合もあります。政治学・経済学・法律学 以外についての議論のマナーは、それぞれの学問の専門書をお読みください。

政経の教科書の巻末などにある議論のこと[編集]

高校の公民(「政治経済」や「公共」など)だと、教科書の章末や巻末などで、2つの対立概念を提示していて、それぞれの立場からの議論を手短かに展開しています。で、その章末などの議論の例では、2つの対立する意見を紹介しています。たとえば、「政府は日本は農業を保護するべきか」

意見A. 保護すべきである。なぜなら~(以下略)
意見B. 保護すべきではない。なぜなら~(以下略)

みたいなのです。


他にも、男女平等をどうするのかとか、国際化と日本文化との問題をどうするかとか、科目と時代によって色々と教科書に議論が載っているでしょう。

政治の問題などは、個人が一人で進めるわけにはいかないので、少なくとも政治家や知識人などが議論をせざるを得ません。

ある程度の検証をされている対立意見に耳を傾けて(時間に限りはありますが)、さらにそれを自分らでも検証したりするのが、本当の議論です。

農業問題など政治問題の、議論の典型的な主張の内容を覚えるのも大切ですが、それと同じくらい、政治経済についての議論のマナーを身に着けるのも大切です。

教科書巻末などの「議論」は、おおむね、下記に述べるような手法で、議論が展開されているだろうと思います。読者が将来的に議論をしたり読んだりする際の参考にしてください。

エコーチェンバーを自動防止できる[編集]

高校の公共などの科目で、「エコー・チェンバー」と言う用語を習います。エコーチェンバーとは何かについては『中学校社会_公民/世論とマスメディア#※_中学の範囲外:_情報の片寄り』を参照してください。

さて、対立意見を両方の立場でそれぞれ読んだりすることで、読者はエコーチェンバーを自動的に防げます。

だから教科書の巻末・章末の議論にある対立意見も、かならず両方の意見にきちんと目を通しましょう。


さて、教科書以外の読書のさい、決して、やみくもに書籍をたくさん読んでも、もし自分とまったく同じ意見の人の本ばかり読んでいてはエコーチェンバーになってしまい意味がありません。だから教科書以外の読書では、時々でよいので、自分の価値観とは反対の主張がされている本も読みましょう。

たとえば自分が「農業をもっと保護すべき」だと思うのなら、その逆の「農業をもっと自由化・規制緩和・補助金削減しろ」みたいな論者の主張の書籍をときどきは読むべきなのです。


反証可能性[編集]

議論のための前提として、正しい反対意見によって間違った学説を淘汰(反証)して修正できる仕組みが確保されていなければいけません。このような仕組みのことを、科学哲学(かがくてつがく)という学問でも「反証可能性」と言います。科学哲学者カール=ポパーの提唱した概念です。

人は誰しも、「自分の意見こそが正しい」と先入観を思いがちですので、だから対立意見にも耳を傾けて、自分の考えを現実を説明できる正しい考えへと修正するのが大事なのです。もっとも、人生の時間には限りがあるので、なんでもかんでも文句を聞き入れるのではなく、的確な統計などのまとまった優れた対立意見だけを聞くことになるでしょうが。


たとえば理科なら実験や観測で間違った学説を淘汰できるし、数学なら証明や計算で間違った学説を淘汰して修正できますので、反証可能性があります。

社会科・政治経済でも、統計などで、政策や法律などの効果を、ある程度は検証して修正できますので、数学ほどではないですが反証可能性のようなものは存在しているでしょう。


本ページでは修正と言ってますが、マチガイがあっても、間違った部分だけを限定的に取り除いて、正しい情報に交換すればいいのです。学説全体を無くす必要はありません。少なくとも学問の世界ではそうです。

よほどマチガイの割合が多い学説なら、ゼロから学説を作り直したほうが早いですが、しかし市販の書籍などに紹介されるような学説やら政策などの場合なら、マトモな出版社から出ている教科書や書籍なら、ゼロから学説・主張を作り直すのは時間の無駄です。そもそも学問というのは、アイデアを共有する知的な営み(いとなみ)でもあります。


文学や芸術や哲学など、統計などによる検証が難しいかもしれない学問もあるかもしれませんが(そのため科学哲学の「反証可能性」がなじまない分野もあるかもしれませんが)、少なくとも政治学と経済学は、統計などによる反証可能性が必要ですし、実際に統計などによる反証による学問の発展が可能です。

しかし、仮に文学そのもに反証可能性が仮に無いとしても、文芸小説などを売っている出版社には利益というお金が必要であり、社会でのお金の流れは経済などの影響を受け、そして経済学には反証可能性があります。だから出版人は、経済の反証可能性を無視することはできません。少なくとも最終的・長期的には、文学人などと言えでも経済などの反証可能性のようなものを無視できません。


さて、もし、ある仮説において、反証可能性が確保されていないと、少なくとも「科学」 science とはみなされません。まあ、哲学も法学も「科学」 science ではないのですが。もっとも、法律でも、裁判の原告と被告の法廷闘争を思い起こせば分かるように、対立意見どうしを裁判官が聞いています。

芸術など一部の分野では例外があるでしょうが、多くの学問の分野で、反証可能性は尊重されているだろうと思います。というか、日本の大学研究者への補助金の科研費(科学研究費)は、少なくとも建前上では科学的でないと予算がおりません。「科学研究費」「という、その名の通り。


高校の「政治経済」や「公共」などの公民科目の検定教科書を作るような人たちは当然ですが、「反証可能性」などの概念を知っているだろうから、だから巻末などの議論でわざわざ対立する主張を提示しているのです。

なぜ、わざわざこういう事を言うのかと言うと、世間の教育評論家のなかには、これが出来ていない人が多くあります。世間では、知的なレベルの低い人でも教育評論をしています。世の中には、こういう反証の基本的な検証作業のできないオトナもいて、高校生以下の知力のオトナもいます。困ったことに、そういった人でも大卒などの学歴を手にしてしまっている場合もあります。


反証可能性のためのノウハウ[編集]

統計や歴史事実などを基本に[編集]

反証可能性の確立のためには検証が必要ですので、政治経済の議論の場合なら、統計などの具体的で数値的な情報が必要です。もしくは、「西暦〇〇年に□□が起きた」みたいに実際に歴史上に起きた事例などです。

おそらく、政治経済の巻末にある議論の例でも、数値などが提示されているか、もしくはインターネットを使えば省庁や学会などの調査した統計にアクセスできるような具体的な情報が提示されているかと思います。


善悪などの主観的表現は最小限に[編集]

こういった政治学・経済学のような議論の際には、けっして、あいまいな表現や主観的な表現を、議論での主張の根拠にしてはいけません。

たとえばダメな例として、「私は農家が好き」とか「農業って面白そう」とか「農家は偉い」とか、あなたがどう思っても、そういうのは日本の農業政策をどうすべきかとは関係ありません。農業に限らず在日外国人の議論でも男女平等の議論でも何でも同様、あなたの思いは、とりあえず社会の議論としては検証には関係ありません。

もっとも、「日本国民の〇〇パーセントは農業について好意的印象を持っている」と言ったような大規模アンケートなどの結果なら、議論の根拠にする意味はあるかもしれません。しかし、少なくとも、あなたの好き嫌いは議論の検証結果には関係ありません。

自分に都合よく自分勝手に解釈できてしまい内容を都合よく変更できてしまう表現をしていては、議論が深まりませんし、相手や第三者からすれば信用もされません。


他のダメそうな例として、「善」・「悪」というのも、政治経済の議論としては要注意の表現です。往々にして個人的な「好き」をもっともらしく言い換えただけのゴマカシの表現が「善」だったりする場合もあります。

窃盗(せっとう)などの明らかな犯罪ならともかく、あるいはウソツキなど議論の妨害行為ならともかく、法律違反でもウソツキでもないのに何かを「悪」と断じる人には(たとえば「日本の農業政策の〇〇は悪である」みたいな)、議論では注意が必要かもしれません。

なにより問題なのは、善悪を理由にして、対立意見を悪だと断定して、そして対立意見を耳に入れようとせずに現実を無視する人が、世間には時々います。

しかし、自分に近い意見だけを耳にしていては、エコーチェンバーにおちいってしまいます。どんなに人数だけは多くの人の意見を聞こうが、書籍数だけは多くの書籍を読もうが、自分と同じ意見だけの本を読んでいてはエコーチェンバーになるので、政治経済の勉強としては無駄になってしまいます。


さて、最近(2023年に記述)は少なくなりましたが、2005年あたりまでは、左翼マスコミや左翼政党などの左翼主張を並べ立てて対立陣営を批判するだけの行為を「議論」だと勘違いしている、ヘンな人もいました。

大物の左翼政治家だろうが右翼政治家だろうが、それは何の統計でもなく、だから政治経済の議論においては、まったく証明の根拠の主流にはなりません。他に統計などがある場合の傍証(ぼうしょう)にはなるかもしれませんが、しかし証明の主流の手段にはならないのです。

これから証明しようとすることを根拠にしない(循環論)[編集]

例として、2005年くらいの「つくる会」の歴史教科書運動のとき、以前の教科書の中立性などが疑問視されたのですが(ロシアや中国など旧・共産圏に好意的すぎないか、など)、ネットの意見やら一部の評論家などから、「以前の(つくる会以外の)教科書は中立的で正しいに決まっている。なぜなら、中高の教科書を見ても書いてある話題を紹介しているだけだからだ」という言説がありました。

しかし、そもそも、当時の議論していた問題こそ、その根拠として提示されている中高の教科書の記述内容の妥当性です。


このように、なにかの議論で妥当性を検証する際は、根拠には、検証しようとする対象以外のものを根拠にしないといけません。

たとえば、中高の歴史教科書の記述の妥当性を検証しようとする場合なら、大学レベルの学術書をいくつも読んだり(歴史学の学術書を読むのは当然、歴史学の公平性そのものを検証するために他の学問の書籍も多く調べる必要があるかもしれません)、論文を読んだり、そのほか、多くの歴史評論なども読む必要もあります。とても大変な活動です。

このように多くのものを読まないといけないのに、しかし世間では、そういう読書をサボって、検証対象になっている書籍だけしか読まずに、にもかかわらず、なにかを検証したつもりになっている頭のわるい人が、世間には少なくないのです。


「先生の言っていることは正しいと思いま~す。なぜなら、先生がそう言ってたからで~す!」みたいな理屈は、なんの証明にもなっていません。

こういうのを循環論(じゅんかんろん)と言います。循環論とは、証明しようとする対象そのものを根拠として理屈を展開してしまう、論理展開のミスことです。

教育問題以外でも、循環論はよくありました。たとえば新聞の信頼性の議論で、「朝日新聞・毎日新聞などの主張は正しいか」という議論なのに、その根拠として朝日新聞・毎日新聞などにありそうな言説を根拠にする人もいたのです。同様、「産経新聞の主張は正しいか。正しい。なぜなら産経新聞に書いてあった内容と一致するから」みたいな困った言説もよくありました。

朝日新聞とテレビ朝日の関係のように大手新聞社はテレビ局を持っていたり、雑誌も「週刊朝日」とかありますので、新聞の信頼性を証明する際に根拠とする情報は、新聞・テレビ以外のものでないといけませんし、系列の出版社以外の情報源でないといけません。

大小などの基準をハッキリ[編集]

他にも要注意の表現として、「大きいので」とか「小さいので」などの表現も要注意です。「何と比べて大きい/小さい から」なのか、大小の基準をなるべくハッキリさせましょう。他の例として「強いので」・「弱いので」も同様、基準の必要な表現です。

議論でマチガイを突っ込まれると、基準を都合よく後から操作する人がいます。

素直に間違いを認めればいいのに、たとえばマチガイに気づいた時点で議論相手に「私のマチガイでした。なので、基準を変えますね。では、新しい基準で議論を続けて、議論を深めましょう」とか言えばいいのに、

しかし自分のマチガイを認めたくないばかりに(なぜなら「自分がバカだった」と認めたくないので)、だから基準を最初から提示しない人がいるのです。

しかし、そういった態度では、議論が深まりません。

マチガイを認めないことこそ、本当のマチガイです。古代中国の孔子(こうし)も「過ちて(あやまちて)改めざる。 これを過ち(あやまち)という」と述べています。

高等学校情報/その他の技術的な話題#ブレーンストーミングの仕方でも、相手のアイデアを利用するのが推奨されています。議論の本来の目的は、決して言い負かすことではないはずです。議論の正しい目的は、理解を深めることや、すぐれた対策を打ち出すこと、などのはずです。

マチガイを恐れない勇気[編集]

さて、仮に事実が一つだとすると、対立する2つの政策意見のうち、少なくともどちらか一つの主張は、思考法などのどこかが間違っているわけです。

しかし、マチガイのない人間はいません。仮に人間が間違えたとしても、それでも実用的な政策などを決めるために、議論をするのです。人間の集団がイキイキと生きていくためには、今後のことをどうするかを主体的に決めなければいけません。

マチガイを恐れて何も主張しなければ、何も決定に影響を与えられません。そのせいで何も決定できなければ、何も事態が改善されません。たとえば大地震でも大災害でも何でもいいですが、そういった事が起きたとき、マチガイを恐れて何もしないで被災者を放置することが、一番のマチガイです。

政治ではないですが、裁判での原告と被告との法廷闘争も似たようなものでしょう。

人間が死んでないかぎり、間違っても、やり直せばいいだけです。


論点をすりかえない[編集]

反証可能性とはあまり関係ない話題ですが、議論のマナーとして、議論開始前に事前に提示された論点をずらしてはいけません。

よくあるマナー違反が、新たな視点にて論点を追加した際に、どさくさに紛れて不都合な論点を消そうとする、迷惑な人です。

たとえば、先に2022年の自民党政権のときの物価高を問題視する議論で、「じゃあ2010年代前半の民主党政権のときのデフレ不況はどうだったんだよ!」と意見を出してきたりして、議論を2022年の話から2010年代前半の話に変えようとするような行為です。しかしこれは議論ではありません。

なぜなら、2010年代の不況の原因がデフレであろうがなかろうが、2022年代が物価高であった事実は統計などから明白だからです。


しかし世間には、論点を追加することで、不都合な以前の論点をうすめようとしたり消そうとしたりする人がいます。

もちろん、かならずしも論点を追加する人が悪意とは限らず、純粋に視野の広い人が善意で論点を追加する場合もあるので、いちがいに批判はできません。しかし、そういう善意の人のふりをして、論点を追加することで、不都合な論点をすりかえようとする悪意の人もいます。

このような卑怯な論点のすりかえに対抗するため、もし論点があらたに議論中に追加された場合は、追加されたほうの論点は議論の後回しに分けて、時間が余った時などにだけ議論するのが良いでしょう。もしくは、1~2分など短時間にだけ新規の論点について説明してもらうのが限度でしょうか。

事前に計画された古い論点から、(自分が)逃げない、(相手を)逃さないようにしましょう。最悪、そのような議論のルールを守れない人は、議論から追い出す必要があるかもしれません。

もし古い論点そのものに問題がある場合でも、それは議論を開始する前に指摘しておきましょう。もし議論開始後の議論中に新規に追加を主張された論点があっても、新規追加されたほうの論点は後回しにされなければなりません。

なお暗黙の前提として、こういった論点のスケジュール管理をできるようにするため、論点は箇条書きに分けましょう。また、箇条書きにされた一つ一つの論点は、なるべく短めの文章にすることです。

中学高校あたりの国語や社会科での議論やディベートの実習だと、先生がこういった論点の管理をしてくれますが、しかし学校以外では自分たちで論点をきちんと管理するしかありません。


逆に言うと、もし論争相手から論点の変更が主張されていなければ、論争相手から不都合な統計などを出されたりしたら、その統計に不備が見つけられない限り、少なくともその統計を認めなければいけません。

普段の読書の仕方[編集]

最低でも3冊は対立意見の本を読む[編集]

大学などでは、もしアナタが政治的・経済的な思想を主張したいなら、ふだんの読書のさい、入門レベルの分かりやすい本でも良いので、最低でも3冊はアナタの主張と対立する意見の根拠が書かれている本を読むのが良いとされています。知識人のように、政治・経済について主張したいなら、そうすべきでしょう。

その根拠として、

・まず読書の一般常識的に、なにかに入門するための読書をするさい、3冊を読んで共通点を見つけるのが良いとされています。
・そして、自分の対立意見については、ふつうの人はあまり対立意見の根拠には詳しくないのが通常です。

なので、これらを組み合わせると、もし読書で議論のように考えを深めたいなら、自分の考えとちがった対立意見の本を最低でも3冊は読むことになるでしょう。

高校の在学中は時間的に難しいかもしれませんが、大学や就職後などの読書では、次第にこういった読書法も身に着けることになるでしょうか。


たとえば、アナタが左翼思想の持ち主なら、最低でも3冊は右翼思想の本を読む。逆に、アナタが右翼思想の持ち主なら、最低でも3冊は左翼思想の本を読む。・・・といった具合に、です。

もちろん、自分の考えと近い内容の本については、もっと多くの十冊以上とか読むわけです。


もし、親書やら文庫のたった3冊すら読めないレベルの読書週間なら、あるいは対立意見の本を読むのに精神的に耐えられないなら、そもそも思想とかに深入りするのをヤメたほうが安全です。

たった3冊すらも対立意見の本を読めない程度の精神力の弱さなら、スポーツや芸能などのよほどの天才でもない限り、世間の常識にしたがって普通の仕事に就職して、普通に上司に従ったりなどして生きていくほうが安全でしょう。

  1. ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.371