ガイウス・ユリウス・カエサルの著作/ラテン語の紀年法
表示
年号
[編集]下表に、『ガリア戦記』『内乱記』前後の年号を、西暦(キリスト紀元)、AUC(ローマ建国紀元)、および当時用いられていた執政官による表記(ラテン語と和訳)で示す。年号の紀年法については、次項で説明する。
西暦 | AUC | 執政官による表記 | 和訳 | 備考 |
---|---|---|---|---|
BC61 | 693 | M. Messala M. Pisone consulibus | マールクス・メッサラとマールクス・ピーソーが執政官のとき | 『ガリア戦記』 第1巻2節参照 |
BC60 | 694 | L. Afranio Q. Metello consulibus | ルーキウス・アフラニウスとクィーントゥス・メテッルス が執政官のとき |
|
BC59 | 695 | C. Iulio Caesare, M. Bibulo consulibus | ガーイウス・ユリウス・カエサルとマールクス・ビブルス が執政官のとき |
|
BC58 | 696 | L. Pisone A. Gabinio consulibus | ルーキウス・ピーソーとアウルス・ガビニウスが執政官のとき | 第1巻6節参照 (第1巻の年) |
BC57 | 697 | P. Lentulo Q. Metello consulibus | プーブリウス・レントゥルスとクィーントゥス・メテッルス が執政官のとき |
(第2巻の年) |
BC56 | 698 | Cn. Lentulo L. Philippo consulibus | グナエウス・レントゥルスとルーキウス・ピリップス が執政官のとき |
(第3巻の年) |
BC55 | 699 | Cn. Pompeio M. Crasso consulibus | グナエウス・ポンペイウスとマールクス・クラッスス が執政官のとき |
第4巻1節 参照 (第4巻の年) |
BC54 | 700 | L. Domitiō Appiō Claudiō consulibus | ルーキウス・ドミティウスとアッピウス・クラウディウス が執政官のときに |
第5巻1節 (第5巻の年) |
BC53 | 701 | M. Messala Cn. Calvino consulibus | マールクス・メッサラとグナエウス・カルウィヌス が執政官のとき |
(第6巻の年) |
BC52 | 702 | Cn. Pompeio Q. Metello consulibus | グナエウス・ポンペイウスとクィーントゥス・メテッルス が執政官のときに |
(第7巻の年) |
BC51 | 703 | M. Marcello Ser. Rufo consulibus | マールクス・マルッケルスとセルウィウス・ルーフス が執政官のときに |
(第8巻の年) |
BC50 | 704 | L. Paulo C. Marcello consulibus | ルーキウス・パウッルスとクラウディウス・マルッケルス が執政官のときに |
第8巻49節の前を参照 |
BC49 | 704 | L. Lentulo et C. Marcello consulibus | ルーキウス・レントゥルスとクラウディウス・マルケッルス が執政官のとき |
内乱記 第1巻 ~第2巻の年 (ローマ内乱が勃発) |
BC48 | 705 | C. Iulio Caesare P. Servilio consulibus | ガーイウス・ユリウス・カエサルとプーブリウス・セルウィリウス が執政官のとき |
内乱記 第3巻の年) |
ラテン語の紀年法について
[編集]古典ラテン語の叙述において最も一般的に用いられる紀年法は、当該年の執政官(コンスル)2人の名を並べて絶対奪格(ablativus absolutus)で示すものである。例えば、西暦のBC54年は『ガリア戦記』第5巻の1節に出てくるように、次のようになる。
- L. Domitio Ap. Claudio consulibus :ルキウス・ドミティウスとアッピウス・クラウディウスが執政官のとき(年)に
このとき、個人名は頭文字で記すのが正式で、2人の名前を併記するときに接続詞やコンマはなくてもよい。氏族名や添え名はしばしば省かれる。
『ガリア戦記』で用いられている紀年法は上記のみであるが、参考のため、以下にラテン語の他の紀年法も示す。
- ローマ建国紀元
共和制末期の著作家マルクス・テレンティウス・ウァロ (BC116–BC27年:『内乱記』にはカエサルの敵将として登場する) が考案した、BC753年をローマ建国の年と推定して各年を表示するローマ建国紀元(Anno Urbis Conditae, A.U.C.)を用いる場合もある。BC54年は次のように表記される。
- キリスト紀元
6世紀(AD525年)以降には、ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスの算定によるキリスト紀元の西暦が使われるようになった。紀元前については Ante Christum と表記され、あるいは次のように表記される。
- Annus quārtus quīnquāgēsimus ante Christī nātum あるいは LIV a.C.n. (キリスト生誕前の第54年)
(参考:w:la:Calendarium)
各年の執政官
[編集]- BC61年(AUC693年)
- M. Valerius Messalla Niger (マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ニゲル)
- M. Pupius Piso Frugi Calpurnianus (マルクス・プピウス・ピソ・フルギ・カルプルニアヌス)
- BC60年(AUC694年)
- Lucius Afranius (ルキウス・アフラニウス)
- Quintus Caecilius Metellus Celer (クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレル)
- BC59年(AUC695年)
- BC58年(AUC696年)
- Lucius Calpurnius Piso Caesoninus (ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス:カエサルの岳父)
- Aulus Gabinius (アウルス・ガビニウス)
- BC57年(AUC697年)
- Publius Cornelius Lentulus Spinther (プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテル)
- Quintus Caecilius Metellus Nepos (クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス)
- BC56年(AUC698年)
- Cn. Cornelius Lentulus Marcellinus (グナエウス・コルネリウス・レントゥルス・マルケッリヌス)
- L. Marcius Philippus (ルキウス・マルキウス・ピリップス)
- BC55年(AUC699年)
- BC54年(AUC700年)
- Appius Claudius Pulcher (アッピウス・クラウディウス・プルケル)
- Lucius Domitius Ahenobarbus (ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス)
- BC53年(AUC701年)
- Marcus Valerius Messalla Rufus (マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ルフス)
- Gnaeus Domitius Calvinus ① (グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス ①)
- BC52年(AUC702年)
- Quintus Caecilius Metellus Pius Scipio Nasica (クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ)
- Gnaeus Pompeius Magnus ③ (グナエウス・ポンペイウス・マグヌス ③)
- BC51年(AUC703年)
- Marcus Claudius Marcellus (マルクス・クラウディウス・マルケッルス)
- Servius Sulpicius Rufus (セルウィウス・スルピキウス・ルフス)
- BC50年(AUC704年)
- L. Aemilius Lepidus Paullus (ルキウス・アエミリウス・レピドゥス・パウッルス)
- C. Claudius Marcellus (ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノル)
- BC49年(AUC705年)
執政官 :- L. Cornelius Lentulus Crus (ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルス)
- C. Claudius Marcellus (ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・マヨル)
独裁官 :Gaius Iulius Caesar (ガイウス・ユリウス・カエサル)(10月頃~12月)
- BC48年(AUC706年)
- Gaius Iulius Caesar ② (ガイウス・ユリウス・カエサル ②)
- en:Publius Servilius Vatia Isauricus (プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス)
- 参考リンク
- w:共和政ローマ執政官一覧(日本語版ウィキペディア)
- w:la:Index_consulum_rei_publicae(ラテン語版ウィキペディア)
各年のおもな出来事
[編集](stub)