小学校社会/6学年/歴史編/人物事典
ここには、小学校の歴史の勉強で出てくる人物について書いてあります(
また、難しいかもしれませんが、中学受験社会/歴史/人物をみてもいい情報があるかもしれません。
弥生 時代
卑弥呼
3世紀はじめごろ。
飛鳥 時代
聖徳太子
572年~622年。
- 関連する人物
小野妹子
6世紀後半〜7世紀前半。
中大兄皇子
のちの
中臣鎌足
奈良 時代
聖武天皇
聖武天皇の時代は災が多かったために、都を移動させたり、東大寺を中心に国分寺を国ごとに建てさせた。仏教を
行基
一般の民衆への仏教の布教が禁止されていた時代に、布教を行った
鑑真
平安 時代
菅原道真
- 845年-903年
- 平安時代前期の貴族です。
- 学問に優れ、その当時、
藤原 氏は、他の貴族の一族を圧倒して朝廷の大事な役職を独占しようとしていましたが、それに対抗して朝廷で重要な役職につきました。政治から遠ざけとうとする人々は、道真を遣唐使 の大使として、唐 に送ろうとしましたが、唐は戦乱で乱れ、道真は得るものも多くないと考え、遣唐使の廃止 を申し出、これを廃止しました。その後、朝廷では右大臣まで出世しますが、藤原氏らの陰謀 により、太宰府 (現在の福岡 県にあった九州をおさめる役所)に流され、そこで亡くなりました。 - 道真の死後、朝廷では数々の異変が起こり、「これは道真の
怨 みからの呪 いである」とおそれられ、朝廷は道真を天満天神 という神としてまつりました。現在では、学問の神様「天神 さま」として有名です。道真をまつる神社を天満宮 といい、亡くなった土地である福岡県にある太宰府天満宮や京都の北野 天満宮、東京の湯島 天満宮などが有名です。
学習上のポイント
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藤原道長
自分の
この世をば
(この世は、望月(満月)のように欠けているところがなく、自分のもののようだ。)
道長は「
紫式部
970年~?。
巡りあ
清少納言
966年〜1025年頃。
夜をこめて とりのそらねは はかるとも 世に
平清盛
平家の権力の
1185年、平氏は、源氏によって
鎌倉時代~戦国時代
鎌倉 時代
源頼朝
源氏 と平家 が戦っていた時代の、源氏の棟梁 (リーダー)。- 平治の乱で父
源義朝 を亡くし、頼朝も処刑されるところでしたが、幼かったため許され、伊豆 の国(現在の静岡県)に流されます。伊豆で地元の武士の娘北条政子 と結婚し、北条氏の支援などを得て、平家に対抗する兵をあげます。 - 関東地方(
鎌倉 )から、弟の義経 らに指示を送って平家を倒 した。平家滅亡に向けた戦 には頼朝は出向いていません。 - 全国を支配し、鎌倉
幕府 をひらき、1192年に征夷大将軍 に任命されました。
- 関連する人物
北条政子 - 頼朝の妻。
- 頼朝が
亡 くなった後、しばらくは源氏から将軍 が出たが、その後、頼朝の家系 が途 絶え、北条氏が、執権 として権力 をにぎった。
源義経
頼朝 の弟。実際に平家と戦っていたのは義経など、頼朝の部下だったが、源氏と平家の戦いが終わったあと、義経は兄の頼朝に疎 んじられ、義経は東北方面に逃 げるはめとなりましたが、頼朝の軍勢の追撃 にあい、最終的に、頼朝の軍勢によって滅 ぼされた。
北条時宗
- 関連する人物
- フビライ・ハン
- 元寇のときの、モンゴル本国での
皇帝 (ハン)。日本の戦場には、フビライは出向いていない。そもそもフビライは、日本には全く関心がなかった。
彼 が支配しようとしていたのは、おそらくユーラシア大陸方面であり、すでに中国のほとんどを支配していた。支配を広げようと、このころの時代の前後に、ベトナムや朝鮮 半島などの周辺の国々とも戦争をしていたので、そのついでに日本にも攻め込んできただけである。
竹崎季長 - 元寇のときの鎌倉幕府の
御家人 。自身の戦いを「蒙古襲来絵詞 」に描 かせた。
運慶
快慶
二人の彫刻家。金剛力士像(こんごうりきしぞう)の作者。
鎌倉時代の、武士の支配する世相(せそう)を反映してか、この時代には、このような力強い作品も、好まれるようになった。
室町時代
足利尊氏
「あしかがたかうじ」。尊氏は、有力だった御家人である「足利貞氏」の息子として生まれた。鎌倉幕府がまだ生まれた時にあり、元は源氏の一族だった。若い頃についての記録がほとんどなく、出身地も鎌倉・足利・丹波など様々な説がある。
「後醍醐天皇が天皇を中心とする政治を復活させよう!」と幕府に2回も争いを仕掛けたが、敗北し島根県に追放された。しかし、後醍醐天皇は島根県から脱出して3度目の争いに挑んだ。この時尊氏は天皇の味方にならないかと誘われ、鎌倉幕府にも恩はあったが不満を抱えた尊氏は最後は天皇軍に加わった。その後いろんな場所で戦いを繰り広げ、1333年に幕府を滅ぼした。
滅ぼした後醍醐天皇は、自分の名から1字を与え「尊氏」になったという。しかし天皇を中心とする政治を行ってたため武士の不満はどんどん高まった。尊氏も天皇の政治に不満を持っていた。
そこで尊氏は武士の政治を取り戻そうと1336年に光明天皇を即位させ、後醍醐天皇を奈良に追い払った。そうした末、光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開いた。
足利義満
「あしかがよしみつ」。義満は南北朝を統一させたことで有名。
室町幕府の基礎固めをする中で、京都の室町に貴族の屋敷に見立てた武家屋敷を作った。ここに幕府を移して政治を行うためであった。その屋敷は広い庭には四季折々の花が咲き乱れたことから、人々は「花の御所」と呼ぶようになった。
南北朝を統一させた義満は息子に将軍の職を譲って、京都の北山に別荘を建てては華やかな余生を過ごした。その別荘の中にある、外側に金を張り巡らせた建物だったことから【金閣寺】と言われている。
足利義政
「あしかがよしまさ」。応仁の乱のさなか、子に将軍職をゆずり文化に没頭した。 有名な銀閣は晩年に建てられた。
雪舟
「せっしゅう」水墨画(すいぼくが)を日本風にした人。
なお、水墨画は、中国大陸が起源(きげん)であり、日本が起源ではない。
戦国時代
有力な戦国大名
- 武田信玄
甲斐 (現在の山梨県)の戦国大名。後に信濃 (長野県)と駿河 (静岡県の東部)などにも勢力を伸ばす。信濃への勢力拡大の最中に越後 (新潟県)の上杉謙信と5回戦った(w:川中島の戦い)。- 「風林火山」とよばれる旗印で有名。「風林火山」は「
疾 きこと(※ 早いこと、という意味 )風のごとく、静かなること林のごとし、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし。」という言葉に由来する。 - 分国法の一つである「
甲州法度次第 」を定めた。 - 晩年に織田信長・徳川家康とも戦う(w:三方ヶ原の戦い)が、その後に死去。あとを継いだ武田勝頼の代で武田家は滅亡する。
- 上杉謙信
越後 (新潟県)の戦国大名。元々は長尾景虎という名前であったが、後に関東の名門である上杉家を継いだため、上杉輝虎と名のる(謙信の名は晩年。以下では謙信で統一)。- 謙信は義理にあつかった人物と言われている。武田家が塩不足に悩まされていたときに、相手の弱味につけこむのは
卑怯 とかんがえたのだろうか、武田家に塩を送り、「敵に塩を送る」のことわざの語源とされる。
- 今川義元
駿河 (静岡県東部)と遠江 (静岡県西部)の戦国大名。足利家の一門でもあった有力大名。武田信玄などとも同盟を組み、三河 (愛知県東部)と尾張 (愛知県西部)にも勢力を伸ばすが、w:桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死する。息子の氏真の代のときに武田信玄と徳川家康とに攻められて大名家としては滅亡する。- 分国法の一つである
今川仮名目録 に追加を行った。
- 毛利元就
安芸 (広島県)の戦国大名。元々は小さな領主 にすぎなかったが、周辺の小領主を吸収して勢力を拡大する。そして、w:厳島の合戦などで周囲の有力大名を倒し、中国地方の大部分を統一する。- 「三本の矢」の言い伝えで有名。元就が死ぬ直前、3人の息子達に矢を1本ずつわたして「折ってみよ」と命じた。息子はたちはなんなく矢を折った。つぎに、元就は息子に3本の矢をわたしてもう一度「この矢を折ってみよ」と言った。3本の矢はかたく、息子たちは、矢を折れなかった。そこで「おまえたちも、この矢のように3人が力をあわせよ」と言ったという。(ただし、史実ではないことが分かっている)
- 島津貴久
薩摩 (鹿児島県西部)の戦国大名。元々は島津家の分家の出だったが、本家の養子となる。父の協力をえながら対立していた他の分家や豪族を押さえ、薩摩を統一する。その後、大隅 (鹿児島県東部)・日向 (宮崎県)にも勢力を拡大する。- 鹿児島に渡来したフランシスコ・ザビエルと面会し、日本で初めてキリスト教の布教を許可する。しかし、領地の神社・寺院の反発が激しく、布教を禁止する。
- 息子の義久の代で、島津家の悲願であった大隅・日向の統一に成功する。さらに、九州の有力大名も倒して九州の大半を統一するが、豊臣秀吉に敗れて薩摩・大隅・日向の一部の大名となる。
- 長宗我部元親
- 三好長慶
- 顕如
フランシスコ・ ザビエル
戦国時代のころ、日本に、キリスト教を布教しにきた最初の人物。いわゆる宣教師(せんきょうし)のうちの一人。
- 関連する人物
- ルイス=フロイス
ルイス=フロイスは、宣教師の一人であり、信長に気に入られた。
安土桃山時代
織田信長
1534年~1582年。有名な合戦: 桶狭間の戦い、姉川の戦い、石山合戦、長篠の合戦、など。
元々は尾張(愛知県西部)の一部を治める大名であったが、対立する親類や勢力をたおして尾張を統一する。1560年に桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元を討ち取る。この戦いのあと、三河の松平元康(のちの徳川家康。以下、家康で統一)が独立し、家康と信長とが同盟を1562年にむすんだ。
その後、
1568年、室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭(よしあき)の求めに応じ、上洛を開始する。信長は対立した大名を倒し、そうでない大名とは協力関係を築くことで上洛に成功する。
だが、信長の勢いが増すうちに、しだいに足利義昭と信長は対立するようになる。足利義昭は、信長以外の日本全国の大名に、信長をたおすように書状でよびかけた。そして、武田信玄や近江(滋賀県)の浅井長政、
そして、信長は1573年、足利義昭を京都から追い出し、室町幕府は信長によって滅ぼされた。
1575年、徳川家康は武田信玄のあとをついだ武田勝頼に攻め込まれ、信長が救援に向かう。両軍は長篠(三河国)で戦いとなり、織田・徳川軍は鉄砲を大量に使用し[1]、武田軍に勝った。これが長篠の合戦である。
1576年に信長は安土城を築いた。1582年、毛利家と戦っていた部下の羽柴秀吉を援助しようと、道中で本能寺に寝泊まりしていたところを、部下の明智光秀によって裏切られ、自害する(本能寺の変)。
信長は新しいもの好きだったようで、宣教師(せんきょうし)が地球儀を見せると、即座に地球が丸いことを理解したという。
後世の江戸時代以降の作家からは、信長の性格の例えとして「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」などと信長は評されている。
- 家臣
- 柴田勝家(しばた かついえ)
- 羽柴秀吉(はしば ひでよし)
- 前田利家(まえだ としいえ)
- 明智光秀(あけち みつひで)
など、ほか多数。
豊臣秀吉
信長亡き後、明智光秀を倒し検地を始めた。大阪城を築き、関白となると翌年には太政大臣となった。刀狩令を出した2年後に天下統一を成し遂げた。その後、朝鮮に2度攻め込み、2回目の侵略中に病死した。
その他
- 千利休
- お茶を飲む習慣は鎌倉時代に始まっていたが、室町時代になると茶の湯として広く流行し、茶器の工芸品としての価値も高まった。そのため、高価な茶器を用いた豪華な茶会が開かれるようになった。
- そのような風潮に対して、一見ありふれたような道具を用い、そまつな中の美しさを見出し、客と主人との心の交流を重んじるw:わび茶が生まれる。このわび茶をもとにして、現在の茶道を作り上げたのが千利休である。
- 堺の有力商人でもあった利休は、織田信長などとの取引をつうじて関係を築き上げていった。このため武将たちとも交流ができ、多くの弟子が生まれた。信長の死後、豊臣秀吉に仕えるが、秀吉の怒りをかってしまい、利休は切腹させられた。
- 狩野永徳
- 戦国時代の有名な絵描きの一人。「狩野派」(かのうは)とは、彼、および、彼の弟子や孫弟子などの一門のことである。
江戸時代
徳川家康
- 1543年、
三河 (現在の愛知県東部)の大名松平 氏に生まれます。松平氏は三河の国人出身の大名でしたが、隣接する今川 氏や織田氏に比べると弱小な大名でした。家康は家を継ぐ前、松平元康 と言って、今川氏に人質に出されていたことがあります。 - 1560年
桶狭間 の戦いで今川義元が討ち死にし、今川氏が弱くなると、信長と同盟し三河をとりもどします。そして、名を徳川家康 とかえ、遠江 をせめとります。その後、信長の同盟国として武田氏や北条氏と隣接する信長の勢力の東南部を守り続けます。 - 1572年の
三方原 の戦いでは大敗し、命の危険もありましたが、武田信玄が病死し、兵は甲斐へもどったため一命をとりとめました。 - 逆に、1575年の長篠の戦いでは、信長との連合軍で、
武田勝頼 に大勝し駿河 をえ、1582年武田氏をほろぼして甲斐 と信濃 の一部をえました。 - 秀吉には、後継者争いで一時抵抗し、秀吉の軍をくだすなどしたのですが、和解し、その後はしたがいます。
- 1590年、秀吉の小田原攻めに協力し北条氏を攻め滅ぼしますが、秀吉の命令によって、領地を北条氏のおさめていた関東に移され、
江戸 城を拠城 としました。 - 秀吉の生前は、秀吉配下では最大の大名となっており、秀吉政権においては五大老の筆頭でした。
- 秀吉の死後、1600年、関ヶ原の戦いに勝利して政権を握ります。
- 1603年、
朝廷 から征夷大将軍 に任命され、江戸に幕府を開きます。 - 1614年から翌年に「大坂の陣」を起こして豊臣氏を滅ぼしたのち、1616年亡くなりました。「東照大権現」として、日光東照宮などにまつられています。
徳川家光
家光は江戸幕府第3代目将軍。征夷大将軍になると、武家諸法度の中に新しく参勤交代という制度を創り江戸幕府の支配を固めだした。老中、大老を置いた
近松門左衛門
人形浄瑠璃・歌舞伎の作者。町人社会の義理や人情をテーマとした作品(w:世話物)や歴史的な事件や出来事を扱ったw:時代物で評判を得る。
代表作は「曽根崎心中」「
歌川(安藤)広重
『東海道五十三次』で有名な浮世絵師。
本居宣長
「もとおりのりなが」国学を学ぶ。
『古事記伝』を著す。
杉田玄白
前野良沢と共にオランダ書「ターヘル・アナトミア」を日本語に訳し、「解体新書」を完成させた。
伊能忠敬
日本中を駆け巡り、正確な日本地図を作る。
マシュー・ペリー
日本に開国を求め、1854年に日米和親条約を結ぶ。
勝海舟
- 1823年- 1899年
- 幕臣、ただし、身分はあまり高くない御家人と言われる家柄の出身です。
- 「海舟」は号と言われる一種のペンネームで、若い頃は「
麟太郎 」、明治になって戸籍には「安芳 」と記録されました。 - はじめ、蘭学を学び、1853年の黒船来航をきっかけに、蘭学知識を頼りとされ、幕府に外国関係の役人として
抜擢 され、航海術などを取り扱います。1860年日本人乗組員が主となって初めて太平洋を横断した咸臨丸で米国に渡る経験をします。それから、幕府内で外国の知識が豊富な有力者として、海軍の創設などを行います。また、西郷隆盛など薩長などの有力者とも親交を持ちました。薩長同盟を仲介した坂本龍馬は、勝海舟の弟子です。 - 戊辰戦争で薩長軍が江戸を攻めようとした時、西郷隆盛と話し合い、江戸城を人が死ぬことなく開城させました。
坂本龍馬
西郷隆盛(薩摩藩)と木戸孝允(長州藩)を結び付け薩長同盟の成立に大きな役割を果たした。
また、土佐藩の仲間を中心に、日本初の貿易会社(海援隊)を長崎で作り、物産や武器の貿易をした。
33歳の時何者かに暗殺され、亡くなった。
明治 時代
西郷隆盛
薩摩藩 出身。「討幕」を主導するなど明治維新 の中心人物です(参議)。- 討幕後、
廃藩置県 を主導するなど、新しい社会を作るために、古い武家社会の消滅に貢献しました。 - 征韓論を唱えて、政府を離れました。
- 鹿児島に戻って、若者の指導をしていましたが、新政府に不満を持つ士族にかつぎあげられ、西南戦争を起こし敗死します。
大久保利通
薩摩藩 出身。西郷隆盛等とともに討幕を主導します。- 維新後は、内務省を作り、日本の官僚制度を作り上げます。
- 西南戦争時には、これを指導し政府を勝利に導きます。
- 西南戦争の翌年、不平士族に暗殺されます。
木戸孝允
明治天皇
明治時代の天皇。
伊藤博文
長州藩 出身。- 大久保利通の跡を継いで、日本の官僚制度を整備します。
- その完成として
内閣 制度を創設 し、初代内閣総理大臣 となります。 - ヨーロッパを回り、大日本
帝国憲法 の手本となる憲法を研究し、ドイツ(当時はプロシア)の憲法を手本とすることにしました。
渋沢栄一
- 銀行、証券取引所、保険制度、商工会議所など、近代的な経済の仕組みを日本に導入した実業家です。
- 関連する人物
福沢諭吉
- 1835年 - 1901年
- 豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の子として生まれます。大阪の「適塾」で蘭学を学び、1859年勝海舟らが率いる咸臨丸に同乗し渡米の経験をえ、その後ヨーロッパを訪問、再び米国を訪れるなどして、蘭学のみならず英語による欧米の文物の知識を得るようになります。
- 1868年(慶応4年)に、蘭学塾である慶應義塾を開きます。それまで、医学や化学など科学技術が中心であった蘭学塾と異なり、欧米の思想や会計などの制度も教えました。また、蘭学塾といいながら英語によるものが教えられていました。これが、日本で最初の近代的大学と言われる慶應義塾大学(慶應大学)の創始です。
- 明治時代になって、「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の近代思想を数々の著書を通じて紹介しました。『学問のすすめ』の中では「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と、生まれながらの平等を説いて、努力次第で社会の重要な地位に就くことができること(立身出世)を主張しました。
- 官主導の明治政府に対して、民間の立場から、新聞や出版物で社会を啓蒙し、教え子を民間の各所で活躍させるなどして、日本社会の近代化を主導しました。
- 現在(2023年)の1万円札の肖像に用いられています。
- 関連する人物
大隈重信
地租改正 などの改革 にあたるとともに、殖産興業 を推進 しました。- 自由民権運動を主導しました。
板垣退助
自由
陸奥宗光
日米修好通商条約の
山県有朋
長州藩 出身。- 日本陸軍の仕組みを作り上げ、政府に対する強い地位を確立した。
- 関連する人物
東郷平八郎
日露 戦争で活躍 した海軍軍人です。
関連する人物
小村寿太郎
- 日露戦争の講和会議に全件として出席し、ポーツマス条約を締結して日露戦争を終わらせた。
- 1911(明治44)年にアメリカとの
交渉 で関税自主権 を回復させた。
野口英世
- 1876年(明治9年) - 1928年(昭和3年)。医師、細菌学者。
- 福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となり、渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。
- 主に細菌学の研究に従事し、
黄熱病 や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がった。黄熱病の研究中に自身もそれにかかり、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。 - 1000円札にのっている人物として有名。
- その他、小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#野口英世を参照。
北里柴三郎
- ドイツに留学し、伝染病を研究。帰国後、伝染病の研究所作ろうとしたが、政府の援助は得られなかったところ、
福沢諭吉 が支援し研究所が完成、志賀潔 、野口英世などの研究者が生まれ育っていった。
昭和 時代
昭和天皇
吉田茂
- アメリカ合衆国占領下の日本で、新憲法の成立と日本の新しい民主主義体制を確立させ、サンフランシスコ講和条約を締結し日本の主権を回復しました。。
佐藤栄作
- 1964年
頃 の首相 です。 - 日本の高度成長をおしすすめ、沖縄の日本への復帰を成功させました。
- 日本人で初めて、ノーベル平和賞を受賞しています。
田中角栄
1972年
脚注
- ^ 千丁(一説に三千丁)とも言われる