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小学校社会/6学年/歴史編/人物事典

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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ここには、小学校の歴史の勉強で出てくる人物について書いてあります(発展(はってん)的な内容および人物もふくまれています)。もっとくわしく知りたいときは、色がついているタイトルの名前をクリックしてください。ウィキペディアにあるページにリンクしてあります。少し(むずか)しいかもしれませんので、事典や身近な大人をフル活用してください。


また、難しいかもしれませんが、中学受験社会/歴史/人物をみてもいい情報があるかもしれません。

弥生(やよい)時代

卑弥呼(ひみこ)

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ウィキペディア卑弥呼の記事があります。
3世紀はじめごろ。邪馬台国(やまたいこく)の女王です。
当時、中国にあった()という国に使いを送り、その時に親魏倭王(しんぎわおう)の称号を与えられたとその国の歴史書(魏志倭人伝(ぎしわじんでん))に記されています。
神のおつげやうらないで政治を行ったとされています。
邪馬台国があったと考えられる場所は不明ですが、奈良(なら)にあったとするものと九州北部にあったとするものの二つの説が有力で論争が続いています。一番古い時代に作られた古墳(こふん)が、卑弥呼の墓で、奈良に邪馬台国があった場合、箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないか、と考えられています。
(→教科書本文)
学習上のポイント
「卑弥呼」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 「縄文時代」「弥生時代」をへて、人々が集まった小さな「むら」から、大きな「くに」ができるようになりました(「むら」から「くに」へ)。
  • 「くに」は、当時世界で最も有力であった中国に使いを送ります。
  • その当時、日本にはまだ文字が伝わっていませんでしたが、中国へ送った使いによって、当時の日本のことが記録され、様子がわかります。


飛鳥(あすか)時代

聖徳太子(しょうとくたいし)

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ウィキペディア聖徳太子の記事があります。
生没年:572年-622年。厩戸王(うまやどおう)などとも()ばれます。
推古(すいこ)天皇に代わって政治を行う摂政(せっしょう)として活躍(かつやく)し、豪族(ごうぞく)の集まりであったヤマト政権を天皇を中心とした政治を行うようさまざまな改革を行いました。
仏教(ぶっきょう)や中国の儒教(じゅきょう)の教えをもとに、朝廷(ちょうてい)の役人の心得(こころえ)である十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)を定めました。また、能力が高かったり手がらをたてた人が重要な仕事をできるよう冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制度をつくりました。
仏教を深く信仰(しんこう)していた聖徳太子は、法隆寺(ほうりゅうじ)などの寺を建て、仏教の力で平和な世の中になるように願いました。
10人が同時に話しても、そのすべての内容を理解したなどの伝説がも残ります。
(→教科書本文)
  • 関連する人物
    推古天皇(すいこてんのう)
    日本で最初の女性の天皇です。推古天皇の皇太子であった聖徳太子は、摂政(せっしょう)の立場で、さまざまな改革を行いました。
    蘇我馬子(そがのうまこ)
    最大の勢力を持った豪族蘇我(そが)氏をひきい、天皇につかえるものの中で最も高い位である大臣(おおおみ)として聖徳太子を助けました。

小野妹子(おののいもこ)

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ウィキペディア小野妹子の記事があります。
生没年:6世紀後半〜7世紀前半。「妹子(いもこ)」という名前ですが男性(だんせい)です。
607年、聖徳太子(しょうとくたいし)の命令で第2回遣隋使(けんずいし)として中国の(ずい)の国にわたります。608年には第3回遣隋使として、ふたたび隋をおとずれます。
(→教科書本文)
学習上のポイント
「聖徳太子」や「小野妹子」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 聖徳太子より前の日本の政治は、有力な豪族が集まっただけの政治のかたちでした。
  • 聖徳太子が皇太子となったころ、こうした豪族どうしが争う一方で中国や朝鮮半島では、皇帝などを中心とした強力な国づくりが進んでいました。
  • 聖徳太子は天皇を中心とした国づくりをすることで、国をまとめようとしました。また、聖徳太子は、仏教を積極的に取り入れました。
  • 聖徳太子は、国の制度や仏教を学ぶため、中国の(ずい)に使いを送りました。その代表に選ばれて隋に渡ったのが小野妹子です。


中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

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ウィキペディア天智天皇の記事があります。
生没年:626年 - 672年
後の天智(てんじ)天皇[1]
聖徳太子が亡くなってから、蘇我馬子をついだ蘇我蝦夷(えみし)とその子入鹿(いるか)が勝手な政治をしたため、中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともにこれをほろぼしました。
皇太子となった中大兄皇子は、力を持った豪族はいなくなったので、大化(たいか)の改新と言われる天皇中心の政治を行うために改革を行いました。大化の改新により、日本の人民と土地は天皇が支配するものとなり、人民には農地が与えられる代わり、租庸調(そようちょう)と呼ばれる税を天皇(朝廷)に納めるようになりました。
また、聖徳太子がやったように、隋を滅ぼして建国された(とう)に使い(遣唐使(けんとうし))を送りました。しかし、朝鮮半島での新羅(しらぎ)百済(くだら)との争いで、唐は新羅を、日本は百済を味方したため、敵対することになりました。この争いで新羅は百済を破り、百済は滅亡します。
中大兄皇子は、唐・新羅連合軍が日本に攻めてくることにそなえ、防人(さきもり)をおいて九州を守らせ、都を現在の大阪市にあった難波宮(難波宮)から滋賀県の近江京(おうみきょう)に移しました。
(→教科書本文)
  • 関連する人物
    天武(てんむ)天皇(大海人皇子(おおあまのおうじ)
    天智天皇(中大兄皇子)の弟。はじめは天智天皇の後に天皇になる予定でしたが、皇太子を天智天皇の子である大友皇子(おおとものおうじ)に譲りました。しかし、天智天皇の死後、大友皇子と争い、勝利して天皇に即位しました。天智天皇の方針を引き継いで、天皇中心の社会を作るよう努めました。
    聖武(しょうむ)天皇など奈良時代の天皇は天武天皇の子孫になります。

中臣鎌足(なかとみのかまたり)

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ウィキペディア藤原鎌足の記事があります。
生没年:614年 - 669年
もとは、日本伝統の神をまつる神職を職業とする豪族でしたが、仏教を盛んにしようとする蘇我氏に圧倒されていました。蘇我氏と関係の薄かった中大兄皇子に協力し、蘇我氏をともにほろぼしました。
その後、中大兄皇子の大化の改新に協力して改革を進めます。
669年、亡くなる時に天智天皇は、鎌足の功績にむくいるため、大織冠(だいしょくかん)という進化の中でも最高の位と藤原(ふじわら)の姓を与えました。したがって、中臣鎌足を藤原鎌足ともいいます。
鎌足の子孫は、奈良時代から平安時代にかけて、勢力を拡大し、朝廷の主要な役職を独占する「藤原(ふじわら)氏」となります。
学習上のポイント
「中大兄皇子・天智天皇」や「中臣鎌足・藤原鎌足」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 聖徳太子の死後、天皇を凌ぐほどの力を持った蘇我氏を、中大兄皇子と中臣鎌足が滅ぼします。
  • 中大兄皇子は、聖徳太子の目指していたところをさらに進める政策を行います。これを「大化の改新」といいます。
  • 「大化の改新」で最も重要なものは、人民と土地は直接天皇が支配し、農地を朝廷が与える代わりに人民は税(租庸調)を納めるというものです。
  • 朝鮮半島の戦争で、百済にみかたした日本は、新羅と唐の連合軍に敗北し朝鮮半島の拠点を失い、一時は唐との関係も悪化しました。
  • 天智天皇かめざした天皇中心の政治は、天智天皇の死後、律令(りつりょう)制の成立という形で完成します。

奈良(なら)時代

聖武(しょうむ)天皇

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ウィキペディア聖武天皇の記事があります。
生没年:701年 - 756年
奈良時代を代表する天皇です。在位中は災害や伝染病(天然痘(てんねんとう))の大流行などがあって、平穏な時代であったとは言えませんでしたが、大宝律令の完成(710年)から約30年、平城京遷都(せんと)から約20年たって、律令にもとづいた天皇中心の政治がようやく定着した時期でもありました。
(→教科書本文)
聖武天皇は仏教を手厚く保護します。この時期は、遣唐使で留学した僧も多く帰国して仏教が日本全国で定着した時期でもあり、国が安定することを目的として全ての国に国分寺と国分尼寺を建てました。その中心として、平城京(奈良)に東大寺を建立し、そこに、大仏「奈良の大仏」を作らせました。
  • 関連する人物
    光明皇后(こうみょうこうごう)
    聖武天皇の皇后です。藤原鎌足の子藤原不比等(ふひと)の娘になります。皇室出身以外から初めて皇后になりました。以後、藤原氏から多くの皇后が出るようになり、藤原氏が朝廷で力を得る例のさきがけとなりました。

行基(ぎょうき)

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ウィキペディア行基の記事があります。
行基
生没年:668年 - 749年
河内国の渡来人の家系に生まれた(そう)です。道昭(どうしょう)に学んだとされています。道昭は遣唐使で留学し玄奘(げんじょう)に学びました。玄奘は、唐からインドを訪ねて仏教を学んだ僧で、西遊記の三蔵法師のモデルです。
当時の仏教は国を守護安定させるものとの考えがあり、ほとんどの僧は寺で仏教を学問として研究するものが主流で、一般の民衆への仏教の布教は禁止されていました。こうした時代に、諸国をまわって用水の池や橋を造りながら、身分を問わず教えを説きました。はじめのうちは、危険な人物と思われ、朝廷(ちょうてい)からはは行基の行動をとりしまりました。からはされました。しかし、民衆(みんしゅう)や地方豪族の尊敬(そんけい)を集め、朝廷も危険な行動ではないと理解し、後には、とりしまりをゆるめました。
こうしたなか、聖武天皇は大仏建立を命令しましたが、とても多くの人々の支持と労働力を必要とする大仏建立はなかなかすすみませんでした。そこで、朝廷は、人々にしたわれていた行基を、日本の仏教の最高峰である大僧正(だいそうじょう)に任じて、大仏建立の責任者としました。
行基のはたらきもあって、大仏建立は順調に進むようになりましたが、行基は完成前に亡くなりました。

鑑真(がんじん)

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ウィキペディア鑑真の記事があります。
国宝『鑑真和上坐像』
生没年:688年 - 763年
唐の長安で僧となるものに戒律(かいりつ)を与える教えの有名な僧侶(そうりょ)でした。戒律とは仏教の修行者が守るべき生活上のルールを言います。正式に僧や尼僧として認められるには、修行を積んだ僧から、この戒律を伝えられなければなりませんでした。特に、唐で修行する場合には、その資格を持った僧(律師)から与えられていなければ、正式な僧として修行ができませんでした。日本には唐でも認められる律師がいなかったため、遣唐使の留学僧は留学の時困っていました。742年、日本からの留学僧が、日本に律師を送ってほしいと頼まれ、弟子に声をかけましたが誰も自ら名乗り出るものはいませんでした。そこで、鑑真は自ら日本に渡ろうと決意しました。最初は皇帝からの許可が降りず、許可を得てから渡ろうとして、5回も失敗し、6回目にようやく日本に着きました。754年、6回目のこころみでようやくに日本についたころには、失明していました。聖武天皇に迎えられた鑑真は、奈良に 唐招提寺(とうしょうだいじ) を開き、正しい仏教を伝えて、多くの日本人の僧を育てました。
また、医学や薬学、美術工芸なども伝えました。


学習上のポイント
「聖武天皇」「行基」「鑑真」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 聖武天皇の時代には、律令制によって、天皇中心の政治ができるようになりました。
  • 遣唐使によって、多くの中国の文化が伝わりました。仏教も、伝わった文化の一つです。
  • 全国に国分寺・国分尼寺と都の平城京にはそれをまとめる東大寺が建てられ、東大寺には大仏が置かれました。

平安(へいあん)時代

桓武(かんむ)天皇

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ウィキペディア桓武天皇の記事があります。
桓武天皇
生没年:737年 - 806年
都を平城京(奈良)から平安京(京都)にうつした(平安遷都(へいあんせんと))天皇です。
770年、称徳(しょうとく)天皇(聖武(しょうむ)天皇の皇女)が亡くなり、天武(てんむ)天皇の子孫がたえて、天智(てんち)天皇の子孫である光仁(こうにん)天皇が即位しました。桓武天皇は光仁天皇の子で、あとを継ぎました。
平安遷都の前の朝廷は、仏教の寺院が大きな勢力を持って、僧が政治に口を出すようになり、争いが絶えないようになっていました。また、律令制がすすむことで、班田収授法によって民衆に分ける土地も奈良盆地周辺だけでは足りなくなっていました。このような問題を解決するために、桓武天皇は平城京から平安京に都を移しました。
また、桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命し、東北地方の蝦夷(えみし)をうたせるなどして、日本に律令制を確立させました。
仏教が政治にかかわるのをきらって、平安遷都では大きな寺院を平城京に残した一方で、最澄や空海を遣唐使として唐に留学させ新しい仏教を学ばせました。
(→教科書本文)
  • 関連する人物
    最澄(さいちょう)
    平安時代のはじめに活躍した僧です。平城京にあった大きな寺院から離れ、近江(今の滋賀県)の比叡山(ひえいざん)で修行しました。比叡山は平安京のすぐ東北の位置になりますが、最澄が修行を始めたのは平安遷都より前のことです。遣唐使として留学し、多くの経典などを持ち帰りました。それらは比叡山に開いた寺(後に延暦寺(えんりゃくじ)と呼ばれます)で研究され、延暦寺はのちの日本の仏教に大きな影響を与えます。最澄が開いた宗派を天台宗(てんだいしゅう)といいます。
    空海(くうかい)
    平安時代のはじめに活躍した僧です。遣唐使として最澄とともに留学し、最澄同様に多くの経典などを持ち帰りました。特に、仏教のうち密教(みっきょう)と呼ばれるものを伝え、真言宗(しんごんしゅう)を開きました。和歌山県の高野山(こうやさん)金剛峯寺(こんごうぶじ)を開き、また、嵯峨(さが)天皇[2]から、平安京の中の二つの寺のうちの一つである東寺(とうじ)をまかされます。空海の教えは、天皇や貴族だけにとどまらず、広く民衆に伝えられ、また、空海自身もため池の造営など民衆のための事業を行いました。

菅原道真(すがわらのみちざね)

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ウィキペディア菅原道真の記事があります。
左奥で顔をおおっているのが道真です。太宰府に流される時、天皇から贈られた衣を見て泣いている場面です。
生没年:845年-903年
平安時代前期の貴族です。
学問に優れ、その当時、藤原(ふじわら)氏は、他の貴族の一族を圧倒して朝廷の大事な役職を独占しようとしていましたが、それに対抗して朝廷で重要な役職につきました。政治から遠ざけようとする人々は、道真を遣唐使(けんとうし)の大使として、(とう)に送ろうとしましたが、唐は戦乱で乱れ、道真は得るものも多くないと考え、遣唐使の廃止(はいし)を申し出、これを廃止しました。その後、朝廷では右大臣まで出世しますが、藤原氏らの陰謀(いんぼう)により、太宰府(だざいふ)(現在の福岡(ふくおか)県にあった九州をおさめる役所)に流され、そこで亡くなりました。
道真の死後、朝廷では数々の異変が起こり、「これは道真の(うら)みからの(のろ)いである」とおそれられ、朝廷は道真を天満天神(てんまんてんじん)という神としてまつりました。現在では、学問の神様「天神(てんじん)さま」として有名です。道真をまつる神社を天満宮(てんまんぐう)といい、亡くなった土地である福岡県にある太宰府天満宮や京都の北野(きたの)天満宮、東京の湯島(ゆしま)天満宮などが有名です。
(→教科書本文)
学習上のポイント
「菅原道真」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 平安京に遷都して(794年)から、約100年たって政治は安定した一方で、律令制度が理想としていた天皇中心の政治から、貴族が中心となる政治に変わりつつありました。
  • 特に、有力であったのは藤原氏で、藤原氏以外の貴族が勢力をもとうとするとそれをじゃましたこともありました。菅原道真が太宰府に流されてしまったのもその例の一つです。
  • 奈良時代にさかんで、多くの新しい文化を日本に伝えた遣唐使も、この時代には得るものが少なくなっていたため廃止されました。外国の影響が少なくなったので、日本独自の文化が発達するきっかけになりました。
  • 菅原道真は神様としてまつられ、今では学問の神「天神さま」として有名です。


藤原道長(ふじわらのみちなが)

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ウィキペディア藤原道長の記事があります。
1220年頃に作られた『紫式部日記絵巻』に書かれた藤原道長
生没年:966年 - 1028年
平安時代中期の貴族で、中臣鎌足を祖先とする藤原氏になります。
平安時代の摂関政治を代表する政治家です。
道長は、娘四人を天皇の(きさき)とし、その娘が産んだ三人の孫が天皇になり、藤原氏の全盛期をきずいたと言われ、そのようなありさまを、以下のように和歌にしたと伝えられます。
「この世をば わが世とぞ思((う)) 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思((え))ば」
(この世は、望月(満月)のように欠けているものがなく、まるで(わたし)(道長)の物のようだ。)
その当時、同じ藤原氏の中でも争って娘を天皇の妃にしていましたが、天皇に気に入られるように、(きさき)の周りには和歌を読んだり物語を語るのがたくみな女官(にょかん)が集められ、後の世に残る和歌や物語、随筆(ずいひつ)[3]などが数多く作られました。これを宮中文学と言います。道長の娘彰子(あきこ/しょうし)[4]には、紫式部(むらさきしきぶ)が仕え『源氏物語(げんじものがたり)』を作りました。道長の時代には、その他、『枕草子(まくらのそうし)』なども作られて宮中文学が最も盛んであった時期と言われています。
紫式部は彰子の教育係をしながら朝廷の人々の様子を観察していたと言われています。このことから、主人公の光源氏は、道長がモデルではないかともいわれています。ただし、これはあくまでも一説であり、その他、源融(みなもとのとおる)源高明(みなもとのたかあきら)がモデルであるなど、さまざまな説があります。


紫式部(むらさきしきぶ)

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ウィキペディア紫式部の記事があります。
紫式部のイメージ(江戸時代初期に土佐光起によって書かれた)
生没年:970年から978年?~970年から978年?
道長の時代の歌人、物語の作者です。
藤原氏の生まれですが、そのころには、藤原氏の数も相当に増えていて、道長のように裕福で政治の頂点にいる家系と、それほど豊かではなく中下級の役人となる家系と分かれるようになっていました。紫式部は中級の貴族の生まれで、学問の家系だったと言われます。
道長の娘で一条(いちじょう)天皇の(きさき)である彰子(あきこ/しょうし)[4]に仕えました。
宮中文学の中でも最も有名な作品の一つである『源氏物語(げんじものがたり)』の作者です。源氏物語は、(みかど)の子である(ひかる)源氏が主人公の物語で、光源氏が、藤原氏と思われる貴族などとの宮中政治に巻き込まれながら、多くの女性との恋愛を経験するというものです。源氏物語は、その後の日本の文学に多くな影響を与え、また、30ヵ国語を超える翻訳を通じて世界各国で読まれるなど、日本文学の代表的作品と評価されています。
また、宮中での務めの様子を記した『紫式部日記』を残しており、当時の宮中の様子が伝えられています。
和歌の読み手としてもすぐれていて、多くの歌が残っており、「百人一首」にも、以下の歌が選ばれています。
巡りあ((い))て みしやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半(よは)のつきかな
ようやくあえたのに、それがあなたかどうかが、わからない位すぐに いなくなってしまい とてもさびしい気持ちです。まるで、切れた雲から月が少し見えたと思ったら、またすぐに雲に隠れたように。

清少納言(せいしょうなごん)

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ウィキペディア清少納言の記事があります。
清少納言のイメージ(江戸時代初期に土佐光起によって書かれた)
生没年:966年?〜1025年?。
道長の時代の歌人、随筆[3]枕草子(まくらのそうし)』の作者です。中級貴族の清原(きよはら)氏の出身です。
清少納言は一条(いちじょう)天皇の(きさき)である定子(ていし/さだこ)[4]に仕えました。定子の父は道長の兄で摂政や関白を務めた藤原道隆(みちたか)ですが、早くに亡くなってしまいます。道隆をついで政治のトップに立ったのが道長です。定子の兄藤原伊周(これちか)は、道長との政治上の争いに敗れてしまい、定子の宮中での立場は非常に弱いものとなっていき、道長の娘彰子が一条天皇の(きさき)になると間もなく亡くなります。『枕草子』は、その間に清少納言が見聞きしたことや、その感想、定子やその兄弟などとのふれあいを書いたものです。
『枕草子』は、『方丈記(ほうじょうき)』『徒然草(つれづれぐさ)』とともに、日本三大随筆の一つに数えられ、『源氏物語』同様に日本の文学に大きな影響を与えます。
また、紫式部と同様に、歌人としてもすぐれ、「百人一首」にも、以下の歌が選ばれています。
夜をこめて とりのそらねは はかるとも 世にあふ(おお)さかの せきはゆるさじ
夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似(とりのそらね)をして人をだまそうとしても、この逢坂(おおさか)の関は決して許しませんよ。(だまそうとしても、決して()いませんよ)
  • 中国の昔話で、とらえられている貴族を逃すのに、朝にならないと開かない国境の門を、貴族を逃すためにつかわされた従者がニワトリの声をまね、夜が開けたと思わせ、だまして門を開けさせたという話(鶏鳴狗盗(けいめいくとう))が元になっています。このように、中国の古典の知識などが宮中の女官には求められました。「逢坂(おおさか)の関」は、都と近江国(滋賀県)の間にある関所ですが、ここでは、「逢坂」の「()う」がかけられていて、逢いたいと言いよってくる男性に「なんと言われても逢いませんよ」と、女性がフっている情景です。
(→教科書本文)
学習上のポイント
「藤原道長」「紫式部」「清少納言」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 菅原道真が太宰府に流された事件から、さらに約100年、貴族、特に藤原氏が摂政や関白になる政治は、道長の時代にピークをむかえます。
  • 遣唐使が廃止された後、日本独自の文化はますます発展し、『源氏物語』『枕草子』といった、現代でも評価の高い宮中文学が生まれます。しかも、それをなしたのは宮中に務める女性でした。
  • その後、貴族の力はだんだん弱まっていき、代わって武士の力が強くなっていきます。


平清盛(たいらのきよもり)

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ウィキペディア平清盛の記事があります。
14世紀前半ころに描かれた平清盛
生没年:1118年-1181年
平安時代末期の武家である平氏(へいし)[5]棟梁(とうりょう)です。武士として初めて日本の政治の頂点に立ちました。
清盛は、主に瀬戸内海地方の海賊(かいぞく)を取り締まる平氏の武士団をひきいて勢力を伸ばしました。清盛は瀬戸内海の取締りを行うことで、この地方の海運を支配し、財力を高めました。清盛は、現在の広島県にある海の神をまつる 厳島(いつくしま)神社 を(うやま)い、平氏一族がまつるべき氏神(うじがみ)としました。
1156年天皇家や藤原氏本家(摂関家)のあとつぎについて、双方が武士団を味方につけて争った保元の乱では、後白河(ごしらかわ)天皇側について勝利にみちびき、源氏(げんじ)[6]源義朝(みなもとのよしとも)らとともに武家としてはじめて中央の政治にかかわるようになりました。そして、1160年の平治の乱では源義朝を倒して、他の有力な武家をおしのけて、清盛の平氏だけが武家として中央の政治にかかわるようになりました。
清盛は一族を朝廷の高位の役職につけたり、自分や一族の娘を天皇の(きさき)とし、子どもができると天皇をつがせようとするなど、藤原氏とにた政治を行うようになりました。1167年には武家ではじめて太政(だいじょう)大臣になります[7]。こうして、平氏は勢力を極め、清盛の弟平時忠(たいらのときただ)などは「平家にあらずんば、人にあらず」(平家でなければ人でない)とも言うようになりました。
清盛は、朝廷での権力をにぎった後も、主に瀬戸内海を舞台とした海運を続け、唐の後に中国を統一した(そう)との間の貿易(ぼうえき)も行うようになります。平安京(京都)は、このような海運に不便なので、都を福原(ふくはら)(現在の神戸市)に移そうともしました。
しかし、このような平氏ばかりを優遇する政策は、都の貴族たちや東国の武士団の反発をまねきます。清盛の晩年には各地で平氏に対する反乱が起き、1180年には、義朝の子で伊豆に流されていた源頼朝(みなもとのよりとも)が、鎌倉(かまくら)(神奈川県鎌倉市)を拠点として関東の武士団をまとめて兵を上げ、西に兵を進めました。清盛は、これを討とうとしましたが、翌1181年病気で亡くなってしまいました。
各地の反乱をおさえられなくなった平氏は、京都を捨て、瀬戸内海を西に逃げますが、1185年、源氏によって壇ノ浦(だんのうら)(現在の山口県)で(ほろ)ぼされました。
(→教科書本文)
学習上のポイント
「平清盛」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 清盛は平安時代末期の人物ですが、武家として、それまでの貴族の政治を終わらせたと言う意味で、鎌倉時代以降の時代を開いた人と理解してください。
  • しかし、政治を行うのに、それまでの貴族政治の仕組みをそのまま使おうとして、それまでの貴族からも、地方で勢力を持つようになった武家からも反発されて、平氏の世は、清盛死後、まもなく滅びてしまいます。

鎌倉(かまくら)時代

源頼朝(みなもとのよりとも)

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ウィキペディア源頼朝の記事があります。
東京国立博物館所蔵、木造伝源頼朝像
生没年:1147年-1199年
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて源氏(げんじ)平氏(へいし)が戦っていた時代の、源氏の棟梁(とうりょう)(リーダー)。
平治の乱で父源義朝(みなもとのよしとも)を亡くし、頼朝も処刑されるところでしたが、幼かったため許され、伊豆(いず)の国(現在の静岡県)に流されます。伊豆で地元の武士の娘北条政子(ほうじょうまさこ)と結婚し、北条氏の支援などを得て、平家に対抗する兵をあげます。
関東地方(鎌倉(かまくら))から、弟の義経(よしつね)らに指示を送って平家を(たお)しました。平家滅亡に向けた(いくさ)には頼朝は出向いていません。
その後、東北地方で強い勢力を持っていた藤原氏(公家の藤原氏と区別して奥州(おうしゅう)藤原氏と言います)を滅ぼし、全国の武士を支配、1192年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、鎌倉幕府(ばくふ)をひらきました。
同じ武家の政権ですが、平氏がほぼ清盛一代であったのに対して、鎌倉幕府は、頼朝の血筋こそ絶えたものの150年近く続きました。これは、清盛が朝廷に入って政治を行おうとして、多くの武家の反発を受けたのと対照的に、頼朝は京都から遠く離れた鎌倉で、武家を治める政治を行う仕組みにしたことにあるでしょう。
  • 関連する人物
    北条政子(ほうじょうまさこ)
    生没年:1157年-1225年
    頼朝の妻。伊豆の地方武士北条時政(ときまさ)の娘。
    頼朝が()くなった後、頼朝と政子の子である頼家(よりいえ)実朝(さねとも)が将軍となったが、どちらも亡くなって頼朝の家系(かけい)途絶(とだ)えました。幕府の政治は、弟の北条義時(よしとき)執権(しっけん)として見るようになって、その後、鎌倉幕府の政治は義時の子孫である北条氏が執権として支配します(執権政治)。1221年後鳥羽(ごとば)天皇が、鎌倉幕府を(ほろ)ぼそうと兵をあげると(承久(じょうきゅう)の乱)、天皇にはむかうことにためらっている御家人(ごけにん)たちを激励(げきれい)し、後鳥羽天皇側の武士をうちまかし、鎌倉幕府の優位を確立します。

源義経(みなもとのよしつね)

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ウィキペディア源義経の記事があります。
生没年:1159年-1189年
源義朝(みなもとのよしとも)の子で頼朝(よりとも)の弟。平治の乱のとき、兄頼朝同様、(おさな)かったため許され、(そう)となるため京都北部の鞍馬山(くらまやま)で育てられました。幼い頃の名を牛若丸(うしわかまる)といいます。牛若丸は京都からのがれて、東北地方の奥州(おうしゅう)藤原氏のもとへ向かい武芸をみがき、元服して義経と名乗りました。
兄頼朝が平家をほろぼす兵をあげると、その手伝いをしようと鎌倉に向かい、頼朝の軍に加わります。頼朝は義経を武士団の大将にし、西へ向かわせました。義経は、戦さにたくみで、まず、京都から平家を追い出した源義仲(よしなか)木曽(きそ)義仲)を()って、そのまま、西に向かい本州と九州の境の壇ノ浦(だんのうら)で平家を滅ぼしました。
しかし、源氏と平家の戦いが終わったあと、義経は兄の頼朝にきらわれ遠ざけられて、義経は奥州藤原氏のもとへ()げることとなりましたが、頼朝の軍勢の追撃(ついげき)にあい、最終的に、奥州藤原氏が裏切って、(ほろ)ぼされました。
その他、小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#義経を参照。
(→教科書本文)
学習上のポイント
「源頼朝」や「源義経」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 平清盛に敗れて殺された源義朝の子の源頼朝は、弟源義経などに関東の武士をひきいさせて、平家を滅ぼします。その後、義経は頼朝と対立し、東北の奥州藤原氏のもとに逃げますが、裏切った奥州藤原氏に滅ぼされます。頼朝は、その奥州藤原氏を滅ぼして、日本の武士をまとめます。
  • 頼朝は征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)になり、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)をひらき、以後、日本の政治は将軍の(もと)、武士が行うようになります。
  • 頼朝は御家人(ごけにん)とよばれる自分の家来の武士たちを、守護(しゅご)荘園(しょうえん)地頭(じとう)に任命して日本全国におきました。
  • 頼朝の子孫である源氏の将軍はすぐに絶え、鎌倉幕府は北条氏が権力を持った執権(しっけん)政治となります。


運慶(うんけい)快慶(かいけい)

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ウィキペディア運慶の記事があります。
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ウィキペディア快慶の記事があります。

運慶(生没年:? - 1224年)

快慶(生没年:不詳 1189年頃から1221年頃までの作品が残る)

仏師(仏像を製作する彫刻家)。代表作は東大寺南大門金剛力士(こんごうりきし)像。
鎌倉時代の、武士の支配する世相(せそう)を反映してか、この時代には、金剛力士像のような、写実的で躍動(やくどう)的な作品も、好まれるようになりました。
(→教科書本文)
学習上のポイント
「運慶」や「快慶」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 平安時代、宮中や貴族を中心とした日本独自の文化が誕生しますが、鎌倉時代になると、武士をはじめとした民衆に新たな文化が誕生していきます。仏像なども、平安時代までの静かに座ったものから、動きをいきいきと表した金剛力士像のようなものが好まれるようになります。
  • 仏教も、寺での僧たちの活動だけではなく、民衆が広く理解ができる、浄土教や禅宗、法華宗など新しい教えが誕生しました。


北条時宗(ほうじょうときむね)

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ウィキペディア北条時宗の記事があります。
生没年:1268年 - 1284年
中国の王朝(げん)()()んできたとき(元寇(げんこう))の鎌倉幕府の執権。
時宗は、元が服従するよう命じてきたのを拒否し、全国の御家人だけでなく、御家人ではない武士にも、筑後(現在の福岡県)に集まり元から日本を守るよう命じ、元を撃退(げきたい)します。
(→教科書本文)
  • 関連する人物
    • フビライ・ハーン[8]
      中国の王朝(げん)の皇帝。クビライと書くこともあります。
      中国本土北部の遊牧民モンゴル(蒙古(もうこ))族のチンギス・ハーン[8]は、中国本土へ攻め入り、西に向かい、ヨーロッパの東部までその勢力におきました(モンゴル帝国)。フビライ・ハーンはチンギス・ハーンの孫で、モンゴル帝国のうち、中国本土の部分を「元」として独立させ中国風の皇帝となりました。
    • 竹崎季長(たけさきすえなが)
      元寇のときの鎌倉幕府の御家人(ごけにん)。元軍の撃退に活躍(かつやく)しましたが、それを幕府に伝えるために、自身の戦いを「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえまき)」に(えが)かせました。
学習上のポイント
「北条時宗」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 13世紀モンゴル民族は全世界にその勢力を広げました。それが、東の日本に向かったものが「元寇(げんこう)」です。日本は歴史上初めて、外国の大勢の軍隊からの攻撃(こうげき)を受けました。
  • 鎌倉幕府のリーダーであった執権北条時宗は、全国の御家人や武士を北部九州や中国地方西部に集め、元軍を撃退(げきたい)しました。
  • しかし、幕府は得るものがなく、武士たちに恩賞(おんしょう)を与えることができなかったので、各地の武士には不満が残りました。


室町(むろまち)時代

足利尊氏(あしかがたかうじ)

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ウィキペディア足利尊氏の記事があります。
足利尊氏
生没年:1305年 - 1358年
鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の日本の武将。征夷大将軍となって室町幕府を開きました。
尊氏は、もともと、栃木県南部(現在の足利市一帯)をおさめる鎌倉幕府に仕える有力な御家人(ごけにん)でしたが、後醍醐天皇が、鎌倉幕府に不満を持つ御家人や武士たちに、鎌倉幕府を倒すことを呼びかけたのに応じて兵をあげ、1333年に鎌倉幕府をほろぼしました。
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は新しい政治を始めますが、武士に比べて公家を優先するなどしたため、武士の多くは反発し、その声を受けた尊氏は、後醍醐天皇と対立することになります。
尊氏は、後醍醐天皇に味方する武士と戦って勝利し、後醍醐天皇は奈良県吉野という山中に逃れます。後醍醐天皇は退位していないまま、尊氏は京都で別の天皇を即位させ朝廷を開かせます。ここで、日本に二つの朝廷ができることになります。京都の朝廷を「北朝」、後醍醐天皇の朝廷を「南朝」といって、日本全国で各々の調停に従った武士たちは戦いを続けます。この時代を、「南北朝時代」といいます。
1338年尊氏は、北朝の天皇から征夷大将軍に任命されて、幕府を開きます。この幕府は、のちに室町幕府とよばれます。
(→教科書本文)
  • 関連する人物
    後醍醐(ごだいご)天皇
    生没年:1288年 - 1339年
    第96代天皇。鎌倉幕府を倒すことを計画していましたが、幕府に知られ隠岐島(おきのしま)に流されます。翌年、そこから逃亡し伯耆国(ほうきのくに)で兵をあげ、幕府に不満を持つ武士を集め、鎌倉幕府を倒し、天皇が直接主導する政治を始めました。しかし、多くの武士からの支持を失い、足利尊氏が別の天皇を立てたため、吉野に逃れ、南朝をたてました。
学習上のポイント
「足利尊氏」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 元寇(げんこう)で元軍を撃退(げきたい)しましたが、鎌倉幕府は、武士たちに恩賞(おんしょう)を与えることができず、多くの御家人(ごけにん)がまずしくなりました。
  • 一方で、ものの取引が活発になって、ものの取引などで力をつける武士などが増えてきて、百数十年前鎌倉幕府ができたころに頼朝たちに味方したことで御家人(ごけにん)になった古い家柄の武士たちとの対立も増えてきました。
  • 鎌倉幕府は、このような問題をうまく解決できず、各地の武士の幕府への不満は大きくなっていきました。
  • 後醍醐天皇は、幕府に不満を持つ武士や公家によびかけて、鎌倉幕府を倒しました。
  • しかし、後醍醐天皇の政治は、公家を優先するものだったので、それに不満のある武士をひきいて足利尊氏が、別の朝廷(北朝)を立てて将軍となり室町幕府を開きました。


足利義満(あしかがよしみつ)

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ウィキペディア足利義満の記事があります。
足利義満
生没年:1358年 - 1408年
室町幕府の第3代将軍です。尊氏が将軍の時期には、後醍醐天皇の南朝やそれに味方する武士たちとの争いが続き、また、尊氏の弟直義(なおよし)も兄と対立するなどして、大変不安定なものでした。しかし、尊氏が晩年に弟の軍勢を破り、尊氏の死後は子の第2代将軍義詮(よしあきら)が南朝に味方する武士たちを負かしていくとともに、幕府の仕組みを整えていくことで、だんだん安定していきました。
義詮をついで将軍となった義満は、日本各地からの訴訟などを解決できるよう、幕府の仕組みをさらに整えました。また、京都の室町(むろまち)というところに貴族の屋敷に見立てた武家屋敷を作り、ここに幕府としました。その屋敷は広い庭には四季折々の花が咲き乱れたことから、人々は「花の御所」と呼ぶようになり、これ以降、足利将軍の幕府を「室町幕府」と呼びます。
また、義満は中国の新しい王朝である(みん)との間で貿易をはじめ、その利益で室町幕府はますます栄えました。
こうして日本全国の武士たちから信頼を得た室町幕府は、南朝を降伏させ南北朝時代は終わります。
南北朝を統一させた義満は息子に将軍の職を譲って、京都の北山に別荘を建てては華やかな余生を過ごしました。その別荘の中にある、外側に金を張り巡らせた建物は金閣(きんかく)と呼ばれており、現在その建物のある寺も金閣寺(正式には鹿苑寺(ろくおんじ))と呼ばれています。
義満が将軍だった時期が、室町幕府で将軍が最も力を持っていた時期です。


足利義政(あしかがよしまさ)

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ウィキペディア足利義政の記事があります。
足利義政
生没年:1436年 - 1490年
室町幕府の第8代将軍です。
義満の死後、南北朝の争いもなくなり、取引が盛んになるなどして社会は豊かになっていきました。それにともなって、各地の守護が大名となり、地頭・領主といった武士たち(国人(こくじん))も力をつけ、お互いに争うことや、家の中のあとつぎ争いも目立つようになってきました。
1467年、鎌倉幕府の管領(かんれい)[9]斯波(しば)家と畠山(はたけやま)家でのあとつぎ争いをきっかけに、管領である細川勝元(ほそかわかつもと)がひきいる東軍と中国地方の有力な守護である山名宗全(やまなそうぜん)がひきいる西軍に分かれて争う戦乱「応仁(おうにん)の乱」が起こりました。東西の対立は、将軍のあとつぎに、もともと決まっていた義政の弟義視(よしみ)にかえて義政の子義尚(よしひさ)とするかという問題もあわさって、全国に広がり、京都の街は焼け野原になりました。義政は、応仁の乱を終わらせることにはあまり熱心ではなく、戦乱は約10年続きました。この、応仁の乱が戦国時代が始まったきっかけの一つと言われています。
そんな中で、義政は将軍職を子の義尚にゆずり、義満にならって、京都の東山に別荘を建て過ごしました。その別荘の中にある建物は銀閣(ぎんかく)と呼ばれており、現在その建物のある寺も銀閣寺(正式には慈照寺(じしょうじ))と呼ばれています。

雪舟(せっしゅう)

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ウィキペディア雪舟の記事があります。
生没年:1420年 - 1506年
中国大陸に起源(きげん)を持つ水墨画(すいぼくが)を元にして、日本独自の水墨画の画風(がふう)[10]を完成させた画家です。当時は、画家は独立した職業ではなかったので、僧侶(そうりょ)として活動しました。
今の岡山県に生まれ、子どものころにお寺で修行し、京都で絵や禅の勉強をしました。のちに山口県で活動し、「雪舟」という名前を名乗るようになります。50点ほどの絵が残っています。1467年には中国に渡って本場の絵を学びました。風景を見て絵にする力が高く、「風景こそ最大の師」と言ったともいわれています。全国を旅して多くの絵を残しました。
(→教科書本文
 
学習上のポイント
「足利義満」「足利義政」「雪舟」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 室町幕府は、できた当初は南北朝の争いなどで不安定でしたが、義満が将軍の頃、それもおさまり、最もさかえました。
  • 義満の死後、各地の守護や国人(こくじん)たちが争うようになり、義政の頃、大きな戦乱である「応仁(おうにん)の乱」がおこり、だんだん戦乱の世の中になっていきました。
  • 社会が安定して豊かになったことから、公家など貴族の文化と武家の文化が融合した文化が生まれてきました。その代表が、義満が建てた金閣や義政が建てた銀閣です。また、雪舟の水墨画など、後世に残る新たな文化も誕生してきました。


戦国時代

有力な戦国大名

  • 朝倉孝景(あさくらたかかげ)(または朝倉敏景(あさくらとしかげ)→ウィキペディア
    生没年:1428年 - 1481年
    越前(えちぜん)(今の福井県)で活躍した武将です。もとは越前の守護斯波(しば)氏につかえていました。応仁の乱の原因のひとつである斯波義敏(しばよしとし)斯波義廉(しばよしかど)の争いでは、はじめ義廉の西軍として戦いましたが、応仁の乱の中で、東軍の細川勝元(ほそかわかつもと)による東軍への寝返りのさそいに応じて、東軍を勝利に導きました。その後、孝景は越前守護代として、その地のほとんどを支配するようになり、自分の国づくりを進めました。これは、守護をおしのけて、家来などが、その地を支配する最初の例となりました。ただし、孝景が、そのようになるには、将軍が認める必要がありました。
  • 北条早雲(ほうじょうそううん)→ウィキペディア
    生没年:1432年 - 1519年
    もともと、西国の出身ですが、東国に移り住んで今川氏が守護をする駿河(するが)(現在の静岡県中部)の守護代となり、伊豆(いず)(現在の静岡県東部)と相模(さがみ)(現在の神奈川県)から、関東管領である上杉氏の勢力を追い出し、領地としました。子孫である北条氏は早雲の死後も勢力を伸ばして関東地方全体をおさめるようになりました。早雲は守護や守護代といった、室町幕府の仕組みによらず伊豆や相模を支配したので、最初の戦国大名といわれています。また、田畑の面積や収穫量を調査し、それを帳面にまとめる「検地」を行い、領民からの年貢(ねんぐ)を引き下げたとも伝えられます。
  • 斎藤道三(さいとうどうさん)→ウィキペディア
    生没年:1494年(1480年とも)- 1556年
    美濃(みの)国(現在の岐阜県)の戦国大名です。美濃国は、土岐(とき)氏が守護をつとめていましたが、実際の政治は守護代である斉藤(さいとう)氏が行い、さらに、その代官である長井(ながい)氏が力を持っていました。斎藤道三のうまれた家柄(いえがら)はよくわかっていませんが、美濃で長井氏につかえ、やがて、主人の罪をせめて殺して長井新九郎をなのります。その後守護代の斉藤氏が亡くなると、斉藤新九郎利政となのって守護代になります。そして、最後に守護の土岐氏を追い出して、美濃国をおさめる戦国大名となりました。下克上の典型的な例と言われます。
  • 毛利元就(もうりもとなり)→ウィキペディア
    生没年:1497年 - 1571年
    もともと安芸(あき)国(現在の広島県)の国人領主でしたが、安芸の守護武田氏をほろぼし戦国大名となり、ついで、周防(すおう)長門(ながと)国(現在の山口県)など中国地方西部を領地とした守護大名である大内(おおうち)氏の内乱の機会に大内氏の領地をえて、一方で、中国地方の東部を領地とした戦国大名である尼子(あまこ)をほろぼして中国地方全体をおさめる戦国大名になりました。
    以下の「三本の矢」の言い伝えで有名です。
    元就が死ぬ直前、3人の息子達に矢を1本ずつわたして「折ってみよ」と命じると、息子たちはなんなく矢を折りました。つづいて、息子に3本の矢をまとめてわたしてもう一度「この矢を折ってみよ」と言ったところ、3本の矢はかたく、息子たちは、矢を折れませんでした。そこで「おまえたちも、この矢のように3人が力をあわせよ」と言いのこしました。
  • 島津貴久(しまづたかひさ)→ウィキペディア
    生没年:1514年 - 1571年
    薩摩(さつま)(鹿児島県西部)の戦国大名です。薩摩の守護である島津家もいくつかに分かれ対立していましたが、本家からは遠い分家であった父島津忠良(ただよし)が薩摩各地の国人領主たちをおさえ、貴久に本家をつがせ薩摩を統一しました。貴久は、その後、大隅(おおすみ)(鹿児島県東部)・日向(ひゅうが)(宮崎県)南部にも勢力を拡大していきました。貴久が薩摩の国守であったころ、ポルトガルの船が来航し、鉄砲やキリスト教を伝えます。貴久は鹿児島に渡来したフランシスコ・ザビエルと面会しました。
  • 今川義元(いまがわよしもと)→ウィキペディア
    生没年:1519年 - 1560年
    駿河(するが)遠江(とおとおみ)(現在の静岡県中部から西部)の戦国大名です。今川(いまがわ)氏は、足利家の一族の有力な守護大名です。義元は、隣接する北条氏や武田信玄と争いながら、ひけをとらない強力な戦国大名で、西に隣接する三河(みかわ)(愛知県東部)の大名松平(まつだいら)氏をしたがえており、松平氏であった徳川家康も幼いころ人質にされていました。1560年、大軍で西に進み尾張(おわり)を攻撃しようとしたところで、織田信長の奇襲にあってうたれました(桶狭間の戦い)。
  • 武田信玄(たけだしんげん)→ウィキペディア
    生没年:1521年 - 1573年
    甲斐(かい)(現在の山梨県)の戦国大名です。武田(たけだ)氏は、もともと守護大名です。信玄の父信虎(のぶとら)は、甲府を本拠として、甲斐国内の有力国人たちを武力で制圧し、従わせました。しかし、家臣たちにきびしくふるまったため対立が生じ、信玄が国人たちの支持を受けて信虎を追放し、甲斐領主となりました。信玄は、馬を使った(いくさ)がたくみで、信濃(しなの)国をめぐって上杉謙信と戦い、信濃を領地にし、今川義元が桶狭間の戦いでうたれ、今川氏が衰えたのち、駿河に南下し、徳川家康とたたかい、家康を敗退させます。そのまま、西に進み、織田信長とたたかおうとしたところで病で亡くなりました。
    「風林火山」とよばれる旗印で有名です。「風林火山」は「(はや)きこと風のごとく、(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし。」という言葉に由来します。
  • 上杉謙信(うえすぎけんしん)→ウィキペディア
    生没年:1530年 - 1578年
    越後(えちご)(現在の新潟県)の戦国大名です。越後国の守護は関東管領である上杉氏がつとめていて、守護代を長尾(ながお)氏がつとめていました。謙信は、もともと長尾氏の生まれですが、力が衰えた上杉氏の養子となり、関東管領の地位もつぎました。謙信は、北関東をめぐって北条氏と戦い、信濃(しなの)国(信州、現在の長野県)をめぐって武田信玄(たけだしんげん)と戦いました。
    謙信は信義にあつく、敵であっても弱みにつくこまない人物と言われています。武田家が、今川家と戦い太平洋側からの塩の運搬を止められ塩不足に悩まされていたときに、武田家に塩を送り、「敵に塩を送る」のことわざの由来となったともいわれています。

フランシスコ・ ザビエル

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ウィキペディアフランシスコ・ ザビエルの記事があります。
フランシスコ・ ザビエル
生没年:1506年 - 1552年
スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭[11]、宣教師です。
カトリック教会が衰退することを心配して作られた修道会イエズス会の創設メンバーの1人です。
ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名です。島津貴久や大内義隆といった大名に面会し、大友宗麟を洗礼させるまでにいたりました。日本での宣教の結果多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれています。1551年日本を離れ、インドで宣教を続けます。翌年中国へ宣教に向かったところ、中国南部で病気で亡くなりました。
  • 関連する人物
    • ルイス=フロイス
      ポルトガルのカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を残しました。


学習上のポイント
「戦国大名」「フランシスコ・ ザビエル」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 応仁(おうにん)の乱」の後、室町幕府は、各地の戦乱を止めることができなくなっていました。
  • それまでは、守護が大きな力を持って争っていて、これを守護大名(しゅごだいみょう)といっていましたが、守護大名を倒して、ある地方を支配する武将が、各地で登場しました。これを戦国大名(せんごくだいみょう)といいます。
  • もともと、守護だった戦国大名もいますが、戦国大名は大きな力をつけてきた国人(こくじん)をまとめて国をおさめ、戦さにのぞんだところが、守護大名とはちがっています。
  • 戦国大名を細かく覚える必要はありません。
  • 戦国時代の後半には、ポルトガル人が来航するようになり、鉄砲やキリスト教を伝えました。


安土(あづち)桃山(ももやま)時代

織田信長(おだのぶなが)

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ウィキペディア織田信長の記事があります。
織田信長
(→教科書本文
生没年:1534年 - 1582年
はじめは尾張(おわり)の一部をおさめる大名でしたが、身内との争いに勝ち、尾張一国を治める戦国大名となりました。。
1560年の「桶狭間(おけはざま)の戦い」では、駿河(するが)からせめてきた今川義元(いまがわよしもと)の大軍を少ない兵で打ち破り、名を上げました。その後、美濃(みの)斎藤(さいとう)氏をたおして美濃を手に入れ、拠点を岐阜城に移しました。
1568には、足利義昭(よしあき)を助けて将軍にして京都に入り、京都で力をふるっていた三好(みよし)一族を追いはらいました。やがて義昭と対立し、1573年にはこれを追放し、室町幕府をほろぼしました。
信長は、まわりの有力な戦国大名を次々に打ち破り、あるいは味方につけていきました。北陸方面では浅井長政(あざいながまさ)朝倉義景(あさくらよしかげ)との連合軍をやぶり、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)一向一揆(いっこういっき)などの勢力も平定しました。武田信玄(たけだしんげん)には苦しめられましたが、その死後は、武田勝頼(かつより)を1575年の「長篠(ながしの)の戦い」で打ち破りました。この戦いでは、鉄砲を効果的に使ったことでも知られています。
経済やまちづくりにも力を入れ、楽市楽座(らくいちらくざ)というしくみで商人が自由に商売できるようにしました。1576年には安土城(あづちじょう)を築き、政治や文化の中心としました。
1582年、中国地方の毛利(もうり)氏との戦いを支えるために出陣しようとして京都の本能寺(ほんのうじ)にいたところを部下の明智光秀(あけちみつひで)におそわれ、亡くなりました。このとき信長は、毛利だけでなく、上越地方では上杉(うえすぎ)、四国では長宗我部(ちょうそかべ)など、全国の大名に兵を向けており、天下統一に近づいていました。
外国のことにも関心があり、地球儀(ちきゅうぎ)を見て、地球が丸いことをすぐに理解したとも言われています。


豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)

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ウィキペディア豊臣秀吉の記事があります。
豊臣秀吉
(→教科書本文
生没年:1537年 - 1598年
秀吉は、現在の名古屋市にあたる場所で生まれました。農民の子とも足軽の子とも言われていますが、正確なことはわかっていません。武士として高い家柄に生まれたものではなかったことはたしかです。
もともと、木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗っており、松下之綱(まつした ゆきつな)に仕えたのち、織田信長に仕えました。信長のもとで数々の手柄を立てて出世し、名前も羽柴秀吉(はしば ひでよし)と改めました。本能寺の変の前には、毛利攻めの総大将を任されるほどになっていました。
本能寺の変のとき、秀吉は備中(びっちゅう)(今の岡山県)で毛利氏と戦っていましたが、すぐに軍を引き返し、明智光秀を討ちました。これにより、信長の後継者としての立場を固め、翌年には、信長の家臣の中でも最も有力であった柴田勝家(しばた かついえ)を破りました。そして、大阪城を築き、政治の中心としました。また、朝廷に近づき、高い官位を受け、最終的には関白まで上りつめます。そして、天皇から「豊臣」の姓をもらい、豊臣秀吉と名乗るようになりました。
秀吉は、戦いだけでなく、交渉や同盟もうまく使って全国をまとめていきました。毛利氏や上杉景勝(うえすぎ かげかつ)と同盟を結び、徳川家康(とくがわ いえやす)も従わせました。四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏、九州の島津(しまづ)氏、関東の北条(ほうじょう)氏を次々に制し、東北の伊達政宗(だて まさむね)も従わせたことで、日本を統一し、戦国時代は終わりました。
政治では、「検地(けんち)」を行い、土地の広さや収穫量を正確に調べて税のしくみを整えました。また、「刀狩(かたながり)」によって、農民の武器を取りあげ、武士と民の身分のちがいを明らかにしました。
秀吉はのちに「太閤(たいこう)[12]」と呼ばれ、京都南部の伏見に桃山(ももやま)城を築き、そこで政治を行いました。また、南蛮貿易を奨励する一方で、キリスト教を取りしまり、宣教師の追放や信者の処刑も行いました。
晩年には、大陸への進出をめざして朝鮮に出兵しましたが、戦いはうまくいかず、秀吉の死によって朝鮮出兵も終わりました。

安土桃山時代の文化人

  • 千利休(せん の りきゅう) (→wikipedia
お茶を飲む習慣は鎌倉時代に始まっていましたが、室町時代になると茶の湯として広く流行し、茶器の工芸品としての価値も高まりました。そのため、高価な茶器を用いた豪華な茶会が開かれるようになりました。
そのような風潮に対して、一見ありふれたような道具を用い、そまつな中の美しさを見出し、客と主人との心の交流を重んじるw:わび茶が生まれます。このわび茶をもとにして、現在の茶道を作り上げたのが千利休です。
堺の有力商人でもあった利休は、織田信長などとの取引をつうじて関係を築き上げていきました。このため武将たちとも交流ができ、多くの弟子が生まれました。信長の死後、豊臣秀吉に仕えますが、秀吉の怒りをかってしまい、利休は切腹させられました。
  • 狩野永徳(かのう えいとく)(→wikipedia
戦国時代の有名な絵描きの一人。「狩野派」(かのうは)とは、彼、および、彼の弟子や孫弟子などの一門のことを言います。

江戸時代

徳川家康(とくがわいえやす)

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ウィキペディア徳川家康の記事があります。
徳川家康
生没年:1543年-1616年
1543年、三河(みかわ)(現在の愛知県東部)の大名松平(まつだいら)氏に生まれます。松平氏は三河の国人出身の大名でしたが、隣接する今川(いまがわ)氏や織田氏に比べると弱小な大名でした。家康は家を継ぐ前、松平元康(まつだいらもとやす)と言って、今川氏に人質に出されていたことがあります。
1560年桶狭間(おけはざま)の戦い今川義元が討ち死にし、今川氏が弱くなると、信長と同盟し三河をとりもどします。そして、名を徳川家康(とくがわいえやす)とかえ、遠江(とおとおみ)をせめとります。その後、信長の同盟国として武田氏や北条氏と隣接する信長の勢力の東南部を守り続けます。
1572年の三方原(みかたがはら)の戦いでは大敗し、命の危険もありましたが、武田信玄が病死し、兵は甲斐へもどったため一命をとりとめました。
逆に、1575年の長篠の戦いでは、信長との連合軍で、武田勝頼(たけだかつより)に大勝し駿河(するが)をえ、1582年武田氏をほろぼして甲斐(かい)信濃(しなの)の一部をえました。
1582年本能寺の変で信長が亡くなった後、秀吉には、後継者争いで一時抵抗し、秀吉の軍をくだすなどしたのですが、和解し、その後はしたがいます。
1590年、秀吉の小田原攻めに協力し北条氏を攻め滅ぼしますが、秀吉の命令によって、昔からの領地の三河や隣接する遠江・駿河といった領地から北条氏のおさめていた関東に移され、江戸(えど)城を拠城(きょじょう)としました。
秀吉の生前は、秀吉配下では最大の大名となっており、秀吉政権においては五大老の筆頭でした。
秀吉の死後、1600年、関ヶ原の戦いに勝利して政権を握ります。
1603年、朝廷(ちょうてい)から 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、江戸に幕府を開きます。
1614年から翌年に「大坂の陣」を起こして豊臣氏を滅ぼしたのち、1616年亡くなりました。
「東照大権現」として、日光東照宮などにまつられています。


家光は江戸幕府第3代目将軍。征夷大将軍になると、武家諸法度の中に新しく参勤交代という制度を創り江戸幕府の支配を固めだした。老中、大老を置いた

人形浄瑠璃・歌舞伎の作者。町人社会の義理や人情をテーマとした作品(w:世話物)や歴史的な事件や出来事を扱ったw:時代物で評判を得る。

代表作は「曽根崎心中」「冥途(めいど)の飛脚」「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」など。

『東海道五十三次』で有名な浮世絵師。

本居宣長

「もとおりのりなが」国学を学ぶ。

 『古事記伝』を著す。

杉田玄白

解体新書。

前野良沢と共にオランダ書「ターヘル・アナトミア」を日本語に訳し、「解体新書」を完成させた。

伊能忠敬

日本中を駆け巡り、正確な日本地図を作る。

マシュー・ペリー

日本に開国を求め、1854年に日米和親条約を結ぶ。


勝海舟

1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影
生没年:1823年- 1899年
幕臣、ただし、身分はあまり高くない御家人と言われる家柄の出身です。
「海舟」は号と言われる一種のペンネームで、若い頃は「麟太郎(りんたろう)」、明治になって戸籍には「安芳(やすよし)」と記録されました。
はじめ、蘭学を学び、1853年の黒船来航をきっかけに、蘭学知識を頼りとされ、幕府に外国関係の役人として抜擢(ばってき)され、航海術などを取り扱います。1860年日本人乗組員が主となって初めて太平洋を横断した咸臨丸で米国に渡る経験をします。それから、幕府内で外国の知識が豊富な有力者として、海軍の創設などを行います。また、西郷隆盛など薩長などの有力者とも親交を持ちました。薩長同盟を仲介した坂本龍馬は、勝海舟の弟子です。
戊辰戦争で薩長軍が江戸を攻めようとした時、西郷隆盛と話し合い、江戸城を人が死ぬことなく開城させました。

坂本龍馬

西郷隆盛(薩摩藩)と木戸孝允(長州藩)を結び付け薩長同盟の成立に大きな役割を果たした。

また、土佐藩の仲間を中心に、日本初の貿易会社(海援隊)を長崎で作り、物産や武器の貿易をした。

33歳の時何者かに暗殺され、亡くなった。

明治(めいじ)時代

薩摩藩(さつまはん)出身。「討幕」を主導するなど明治維新(めいじいしん)の中心人物です(参議)。
討幕後、廃藩置県(はいはんちけん)を主導するなど、新しい社会を作るために、古い武家社会の消滅に貢献しました。
征韓論を唱えて、政府を離れました。
鹿児島に戻って、若者の指導をしていましたが、新政府に不満を持つ士族にかつぎあげられ、西南戦争を起こし敗死します。
薩摩藩(さつまはん)出身。西郷隆盛等とともに討幕を主導します。
維新後は、内務省を作り、日本の官僚制度を作り上げます。
西南戦争時には、これを指導し政府を勝利に導きます。
西南戦争の翌年、不平士族に暗殺されます。

長州藩(ちょうしゅうはん)出身。西郷隆盛(さいごうたかもり)と同じく、明治維新(めいじいしん)の中心人物です(参議)。

明治時代の天皇。五箇条(ごかじょう)御誓文(ごせいもん)を発布しました。

長州藩(ちょうしゅうはん)出身。
大久保利通の跡を継いで、日本の官僚制度を整備します。
その完成として内閣(ないかく)制度を創設(そうせつ)し、初代内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)となります。
ヨーロッパを回り、大日本帝国憲法(けんぽう)の手本となる憲法を研究し、ドイツ(当時はプロシア)の憲法を手本とすることにしました。
  • 関連する人物
井上馨(いのうえかおる)
長州藩(ちょうしゅうはん)出身。
日本陸軍の仕組みを作り上げ、政府に対する強い地位を確立した。
渋沢栄一
生没年:1840年 - 1931年
江戸時代末期、武蔵国榛沢郡(現在の埼玉県深谷市)に百姓(豪農身分)として生まれます。黒船来航後、混乱する幕末に徳川慶喜の家臣として、武士に取り立てられ、のちに慶喜の将軍就任にともない幕臣となります。明治維新後は、明治政府で官吏となり、民部省を経て直属の上司である井上馨の下で、造幣(ぞうへい)(通貨の発行)、戸籍出納(すいとう)(政府における金銭の出し入れの管理)など様々な政策立案を行いました。その後、政府から離れ、実業界に転じて、株式会社の制度とそれを支える証券取引所の制度、銀行の制度、保険の制度、商工業の経営者が集まって政府や社会に向けて意見を発信する商工会議所の制度など、近代的な資本主義社会に欠かせない各種の制度を作り上げます。そのため、「日本資本主義の父」ともよばれています。
また、社会福祉事業、大病院の建設など医療事業、教育や学術研究の発展などにも大きく貢献しました。
現在(2025年)の1万円札の肖像に用いられています。
  • 関連する人物
岩崎弥太郎(いわさきやたろう)
福澤諭吉像(東京都港区三田・慶應大学構内)
生没年:1835年 - 1901年
豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の子として生まれます。大阪の「適塾」で蘭学を学び、1859年勝海舟らが率いる咸臨丸に同乗し渡米の経験をえ、その後ヨーロッパを訪問、再び米国を訪れるなどして、蘭学のみならず英語による欧米の文物の知識を得るようになります。
1868年(慶応4年)に、蘭学塾である慶應義塾を開きます。それまで、医学や化学など科学技術が中心であった蘭学塾と異なり、欧米の思想や会計などの制度も教えました。また、蘭学塾といいながら英語によるものが教えられていました。これが、日本で最初の近代的大学と言われる慶應義塾大学(慶應大学)の創始です。
明治時代になって、「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の近代思想を数々の著書を通じて紹介しました。『学問のすすめ』の中では「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と、生まれながらの平等を説いて、努力次第で社会の重要な地位に就くことができること(立身出世)を主張しました。
官主導の明治政府に対して、民間の立場から、新聞や出版物で社会を啓蒙し、教え子を民間の各所で活躍させるなどして、日本社会の近代化を主導しました。
渋沢栄一の前の1万円札の肖像に用いられていました。
  • 関連する人物
中江兆民(なかえちょうみん)
金玉均(きんぎょくきん) 
地租改正(ちそかいせい)などの改革(かいかく)にあたるとともに、殖産興業(しょくさんこうぎょう)推進(すいしん)しました。
自由民権運動を主導しました。

自由民権(みんけん)運動の主導者です。

日米修好通商条約の領事裁判権(りょうじさいばんけん)(治外法権(ちがいほうけん))の撤廃(てっぱい)に成功しました。

日露(にちろ)戦争で活躍(かつやく)した海軍軍人です。

関連する人物

川上操六(かわかみそうろく)
山本権兵衛(やまもとごんのひょうえ(ごんべい)) - 海軍において山縣有朋と同様の役割を果たした。
大山巌(おおやまいわお)
児玉源太郎(こだまげんたろう)
乃木希典(のぎまれすけ)
メッケル
日露戦争の講和会議に全件として出席し、ポーツマス条約を締結して日露戦争を終わらせた。
1911(明治44)年にアメリカとの交渉(こうしょう)で関税自主(けん)を回復させた。
生没年:1876年(明治9年) - 1928年(昭和3年)。医師、細菌学者。
福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となり、渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。
主に細菌学の研究に従事し、黄熱病(おうねつびょう)や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がった。黄熱病の研究中に自身もそれにかかり、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。
1000円札にのっている人物として有名。
その他、小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治時代後半から大正時代#野口英世を参照。
ドイツに留学し、伝染病を研究。帰国後、伝染病の研究所作ろうとしたが、政府の援助は得られなかったところ、福沢諭吉(ふくざわゆきち)が支援し研究所が完成、志賀潔(しがきよし)、野口英世などの研究者が生まれ育っていった。

昭和(しょうわ)時代

昭和(しょうわ)時代の天皇(てんのう)

アメリカ合衆国占領下の日本で、新憲法の成立と日本の新しい民主主義体制を確立させ、サンフランシスコ講和条約を締結し日本の主権を回復しました。。
1964年(ごろ)首相(しゅしょう)です。
日本の高度成長をおしすすめ、沖縄の日本への復帰を成功させました。
日本人で初めて、ノーベル平和賞を受賞しています。

1972年(ごろ)首相(しゅしょう)です。

脚注

  1. ^ 歴史の学習では、普通、即位後の天皇の名前で呼びますが、中大兄皇子の場合、皇太子である時期に、大化の改新などで活躍したため、皇太子時代の名前で呼ばれることが多いです。なお、「天智天皇」という名は、のちの奈良時代になってつけられた名前です。
  2. ^ 桓武天皇の二代後の天皇。
  3. ^ 3.0 3.1 自分が見聞きしたことや体験、それに関する感想などを、自由な形式で書いた文章をいいます。「エッセイ」とも言います。
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 当時の女性名は漢字でしか残っていない場合が多く、訓読みがわからないものもあり、音読みで読む学術的な慣習がありました。最近は、そのように読まれたであろうという訓読みが一般的ですが、ここでは参考のため、どちらも書いておきます。
  5. ^ 天皇の子孫で「(たいら)」を本姓とする一族です。「平家(へいけ)」とも言います。
  6. ^ 天皇の子孫で「(みなもと)」を本姓とする一族です。「源家(げんけ)」と言うこともありますが、「平家」に比べれば使うことはまれです。
  7. ^ 太政大臣は、律令制ができた当時に皇族が就任、奈良時代末期に道鏡が就任した他は、約400年間藤原氏以外が就任した例はありません。
  8. ^ 8.0 8.1 「チンギス」が名前で「ハーン(ハン、カーン、(カン)と書いたり、発音したりもします)」が君主を意味するモンゴル民族など北方民族のことばです。
  9. ^ 将軍に次いで幕府の有力な役職です。鎌倉時代北条家がつとめた執権とにていますが、室町幕府では、細川家・斯波家・畠山家の三家で交代して、その役につきました。
  10. ^ ある画家や時代、またはある絵画の流派の作風や特徴。
  11. ^ キリスト教・カトリックにおける聖職者(神父など)の階級のひとつです。
  12. ^ 関白を辞めた人のことを言いますが、秀吉以降は、一般的に太閤とは秀吉のことを指すようになりました。