小学校社会 6学年 歴史の人物事典

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ここには、小学校の歴史の勉強で出てくる人物について書いてあります。もっとくわしく知りたいときは青いタイトルの名前をクリックしてください。ウィキペディアにリンクしてあります。少し難しいかもしれませんので、国語辞書や身近な大人をフル活用してください。

弥生時代[編集]

卑弥呼[編集]

「ひみこ」2~3世紀の人。 当時、中国にあったという国に使いを送ったことが、その国の歴史書(魏志倭人伝ぎしわじんでん)に記されている。当時あれていた邪馬台国やまたいこく女王じょうおうで、神のおつげやうらないで政治を行ったことで有名である。邪馬台国が奈良にあった場合、卑弥呼をほうむったといわれる古墳が一番古いと考えられる

飛鳥時代[編集]

聖徳太子[編集]

「しょうとくたいし」。572年~622年。厩戸王うまやとおうなどとも呼ばれる。推古すいこ天皇に代って政治を行う摂政せっしょうとして活躍かつやく仏教ぶっきょうや中国の儒教じゅきょうの教えをもとに、朝廷の役人の心得である十七条の憲法じゅうななじょうのけんぽうを定めた。また、能力が高かったり手がらをたてた人が重要な仕事をできる冠位十二階かんいじゅうにかいの制度をつくった。仏教を深く信仰していた聖徳太子は、法隆寺ほうりゅうじを建て、仏教の力で平和な世の中になるように願った。10人が同時に話した内容を理解したなどの伝説がある。

  • 関連する人物

推古天皇(すいこてんのう)

小野妹子[編集]

「おののいもこ」。6世紀後〜7世紀前の人。男性(だんせい、男の人)である。607年、聖徳太子(しょうとくたいし)の命令で第2回遣隋使(けんずいし)として中国の隋(ずい)の国にわたる。608年には第3回遣隋使(けんずいし)になっている。

中大兄皇子[編集]

「なかのおおえのおうじ」。のちの天智天皇(てんちてんのう)  蘇我蝦夷・蘇我入鹿を中臣鎌足とともにたおした。それが、大化の改新ともいう。

中臣鎌足[編集]

「なかとみのかまたり」。中大兄皇子と協力して大化の改新を進めた。  やがて、藤原姓をもらう。

奈良時代[編集]

聖武天皇[編集]

「しょうむてんのう」。仏教を信仰(しんこう)し農民などの不安をしずめるため、大仏(だいぶつ)を作り上げた

行基[編集]

「ぎょうき」。一般の民衆への仏教の布教が禁止されていた時代に、布教を行った僧(そう)。朝廷(ちょうてい)からは弾圧(だんあつ)されたが、民衆からは尊敬(そんけい)された人物。国民の平和を願う大仏を作った。

鑑真[編集]

「がんじん」。聖武天皇から招かれ、僧として中国から日本に11年かけて渡ってきたが、五度の失敗ゆえに目が見えなくなってしまった。唐招提寺を建て日本に正しい仏教を伝えてくれた偉人。 その他に医学や薬学、美術工芸なども伝えた。

平安時代[編集]

藤原道長[編集]

「ふじわらのみちなが」。中臣鎌足(なかとみのかまたり)を祖とする貴族家系。 道長は運が信じられないくらい良かったと言われ、兄弟の中で一番下だったが病気や事件を起こして追放されてしまったなど兄たちがしたあげく、貴族でトップの地位にたった。

自分の娘を天皇のきさきにしたり、自分の権力が揺るぎないものになったと確信し、「望月の歌」を作った。 【この世をば 我がぞと思う 望月の かけたることも なしと思えば】

仮説で、道長は「源氏物語」の光源氏のモデルだと言われている。道長が活躍していた頃、「源氏物語」を書いた紫式部は朝廷で道長の娘の教育係をしていた。紫式部は教育係をしながら朝廷の人々の様子を観察していたと言われている。このことから、主人公の光源氏は、道長がモデルではないかという。

菅原道真[編集]

「すがわらのみちざね」。遣唐使(けんとうし)の廃止を申し出た。政敵による工作により、悪名をきせられ、太宰府(だざいふ)に追いやられた。太宰府は、今でいう九州の福岡県にある。

道真は、学問に秀でていたと言われる。現在では、学問の神様としても、まつられている。

紫 式部[編集]

「むらさき しきぶ」。970年~?一条天皇のおきさきの彰子(しょうし)につかえた。紫式部日記を書きました。

百人一首 巡りあひ(い)て みしやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半(よは)のつきかな

『源氏物語』(げんじ ものがたり)を生み出した。源氏物語は、今も世界中で人気がある。

清少納言[編集]

「せいしょうなごん」。966年~?一条天皇のおきさきの定子につかえた。

百人一首 夜をこめてとりそらねははかるともよにあふさか(おおさか)のせきはゆるさじ

『枕草子』を書き有名になった。

平 清盛[編集]

「たいらのきよもり」。武士として、日本の歴史上、初めて、政治権力の中枢(ちゅうすう)をにぎった人物だろう。源氏と戦い武士ではじめて太政大臣になった政治に大きな影響力を持っていたが、1181年に没した。

平家の権力の最盛期はすごかったようで、「平家にあらずんば、人にあらず」とも言われた。

1185年、平氏は、源氏によって壇ノ浦(「だんのうら」、今でいう関門海峡)にて滅ぼされた。

鎌倉時代~戦国時代[編集]

鎌倉時代[編集]

源 頼朝[編集]

「みなもとのよりとも」。源氏と平家が戦っていた時代の、源氏の棟梁とうりょう(リーダー)。かれは関東地方から使いを送って各地の部下に指示を送っており途中からじっさいの戦場には頼朝は出ていない。

1192年ごろに鎌倉幕府を開いたのは、彼、源頼朝である。

  • 関連する人物
源 義経

「みなもとのよしつね」。頼朝の弟。じっさいに平家と戦っていたのは義経など、頼朝の部下だったが、源氏と平家との戦いの終わったあと、義経は兄の頼朝にうとんじられ、義経は東北方面に逃げるはめになったが、それでも頼朝の軍勢は追撃してきて、そして最終的には、頼朝の軍勢によって滅ぼされた。


北条政子

頼朝の奥さん。

頼朝が死んだあと、しばらくは源氏から将軍が出たが、その後、頼朝の家系が途絶え、北条の家柄が、権力をにぎる。つまり、北条家によって、源氏は、権力を乗っ取られた。

北条時宗[編集]

「ほうじょうときむね」。元寇でモンゴル軍が攻めて来たときの、鎌倉幕府の執権。

  • 関連する人物
フビライ=ハン

元寇のときの、モンゴル本国での皇帝(ハーン)。日本の戦場には、フビライは出向いていない。そもそもフビライにとって、日本なんて、べつにどうでもいい、片田舎の国だった。

かれが支配しようとしていたのは、おそらく中国大陸方面であり、すでに中国のほとんどを支配していた。支配を広げようと、このころの時代の前後に、ベトナムや朝鮮半島などの周辺の国々とも戦争をしていたので、そのついでに日本にも攻め込んできただけである。


竹崎季長

「たけさき すえなが」

親鸞と栄西と日蓮[編集]

運慶と快慶[編集]

運慶(うんけい)。快慶(かいけい)。彫刻家。金剛力士像(こんごうりきいぞう)の作者。

鎌倉時代の、武士の支配する世相(せそう)を反映してか、この時代には、こういう力づよい作品も、好まれるようになった。

※ なお、平安時代には、やさしそうな表情とか、おだやかな感じの作品が、好まれていた。

室町時代[編集]

足利尊氏[編集]

「あしかがたかうじ」。尊氏は、有力だった御家人である「足利貞氏」の息子として生まれた。鎌倉幕府がまだ生まれた時にあり、元は源氏の一族だった。若い頃についての記録がほとんどなく、出身地も鎌倉•足利•丹波など様々な説がある。

後醍醐天皇が天皇を中心とする政治を復活させよう!!!!と幕府に2回も争いを仕掛けたが、敗北し島根県に追放された。しかし、後醍醐天皇は島根県から脱出して3度目の争いに挑んだ。この時尊氏は天皇の味方にならないかと誘われ、鎌倉幕府にも恩はあったが不満を抱えた尊氏は最後は天皇軍に加わった。その後いろんな場所で戦いを繰り広げ、1333年に幕府を滅ぼした。

滅ぼした後醍醐天皇は、自分の名から1字を与え「尊氏」になったという。しかし天皇を中心とする政治を行ってたため武士の不満はどんどん高まった。尊氏も天皇の政治に不満を持っていた。

そこで尊氏は武士の政治を取り戻そうと1336年に光明天皇を即位させ、後醍醐天皇を奈良に追い払った。そうした末、光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開いた。

足利義満[編集]

「あしかがよしみつ」。義満は南北朝を統一させたことで有名。

室町幕府の基礎固めをする中で、京都の室町に貴族の屋敷に見立てた武家屋敷を作った。ここに幕府を移して政治を行うためであった。その屋敷は広い庭には四季折々の花が咲き乱れたことから、人々は「花の御所」と呼ぶようになった。

南北朝を統一させた義満は息子に将軍の職を譲って、京都の北山に別荘を建てては華やかな余生を過ごした。その別荘の中にある、外側に金を張り巡らせた建物だったことから【金閣寺】と言われている。

足利義政[編集]

「あしかがよしまさ」。応仁の乱のさなか、子に将軍職をゆずり文化に没頭した。有名な銀閣は晩年に建てられた。

雪舟[編集]

水墨画(すいぼくが)のうまい人のひとり。

なお、水墨画は、中国大陸が起源(きげん)であり、日本が起源ではない。

戦国時代 (安土桃山)[編集]

織田信長[編集]

✩プロフィール 1534年~1582年(49歳・自害)。出身・尾張(愛知県)。武士の子。合戦: 桶狭間の戦い、姉川の戦い、石山合戦、長篠の合戦、など。 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギスなどで有名。 信長は、新しい物好きなので鉄砲が出たら、鉄砲の活用や、楽市楽座などの、あたらしい手法を日本の政治に取り入れた、改革的な戦国大名でもあった。

だが、信長の少年期の頃は、かれの考えかたが周囲からはあまり理解されず、おろかものだと思われてたようで、また、信長が行動的なため、人々からは理解しがたい行動をすることも信長は多く、そのため人々からは信長は「うつけ」(※ バカ、アホの意味)と呼ばれていた。

信長の教育係だった平手政秀(ひらて まさひで)は、信長に反省してもらうためだろうか、1553年に切腹して自殺してしまった。

かれ信長の幼名は「吉法師」(きっぽうし)であるが、13才で元服(げんぷく)すると「織田三郎信長」と名乗る。その翌年に初陣した。

この頃、隣国の弱小国の三河(みかわ)から、大名の松平家の子である当時6才のおさない竹千代(たけちよ)が、人質(ひとじち)として尾張に送られていた。この人質として尾張におくられた子供・松平 竹千代(まつだいら たけちよ)が、のちの徳川家康である。

当時、三河は弱小国だったので、となりの大国・駿河(するが)と遠江(とおとうみ)を支配する今川家に、三河の松平は、したがわせられていた。その今川家のつごうのため、立場のよわい三河の松平家が、人質を尾張に送るはめになったのである。

さて、信長はじっさいに尾張で人質をしてたころの竹千代とあったらしく、信長は彼(=竹千代)が気にいったらしい。

そして、1548年、隣国の美濃の大名の斉藤道三(さいとう どうざん)の娘である濃姫(のうひめ)と、信長は結婚する事になった。尾張と美濃と政略結婚(せいりゃくけっこん)によって、信長と結婚することになった。

つまり、斎藤道三(さいとう どうざん)が、信長の義理(ぎり)の父親である。

※結婚相手の父親の事を、現代では「義理の父」という。同様に、結婚相手の母親の事を「義理の母」という。たとえばマンガ『サザエさん』では、マスオの義理の父親が波平(なみへい)。サザエにとって、波平は義理の父ではない。サザエにとって、波平は実(じつ)の父。

もともと、尾張と美濃は、対立していて、何度も戦争をしていたが、両国とも方針をあらため、同盟を結ぶことにしたのである。 尾張と美濃が同盟をむすべば、尾張にとっては、三河方面の今川の対策に集中できる。


結婚から3〜4年後、1551年に信長の父親の信秀(のぶひで)が死亡する(1552年に信秀が死亡という説もある)。信長が、織田家をつぐことになった。

信長は、父・信秀の葬式のさい、焼香(しょうこう)で使うお香を位牌(いはい)に投げ付けたという。

この後の1553年、信長の教育係だった平手政秀(ひらて まさひで)は、1553年に切腹して自殺してしまった。


さて、濃姫・信長の結婚後の1553年に、尾張(おわり)の近くの大国・美濃(みの)の斎藤道三(さいとう どうざん)と信長が、尾張と美濃の国境ちかくにあった聖徳寺(しょうとくじ)で会見することになった。

信長は、正徳寺にくるまでの道のりのあいだ、とんでもない格好で来てたらしい。だが、じっさいに信長が聖徳寺に到着して道三と対面したとき、なんと信長の格好は、きっちりとした正装だったらしく、道三はびっくりしたという。どうも信長は、あたかじめ、正徳寺にくるまでの道のりのあいだに、斎藤道三の部下のものが、かくれて自分らを観察しているだろうという事を予想してたらしい。おそらく信長は、道三を油断させるために、わざと、道のりのあいだは、とんでもない格好で来たのだろう。

このような事があってか、正徳寺の会見で、道三は信長の実力を見抜き、そして会見の終了後、道三は自分の部下に「わが子らは将来、あの男(= 信長 )の部下になるだろう」などと言ったと伝えられる。


尾張(おわり)を平定し、1560年に桶狭間(おけはざま)の戦いで今川の大軍に攻め込まれて、織田軍は危機をむかえたたが、織田の軍勢による奇襲攻撃が成功し、攻め込んできた今川軍のリーダーである今川義元(いまがわよしもと)を討ち取って殺して、織田軍が勝つ。

この戦いのあと、三河の松平家が独立し、徳川家康が三河の大名になった。そして、三河の徳川家康は、尾張の織田信長と同盟を1562年にむすんだ。この織田信長と徳川家康の1562年の同盟が、清洲同盟(きよすどうめい)である。


信長は、1563年、美濃の大名・斎藤竜興(たつおき)をほろぼすため、美濃をせめていた。(このころ斉藤義龍(よしたつ)は、すでに死んでいる。竜興は義龍の子。)

斉藤氏は、居城として稲葉山城(いなばやま じょう)をかまえており、信長はなかなか稲葉山城を攻め落とせなかった。

この美濃ぜめの戦いで、信長の部下の木下藤吉郎(きのした うきちろう)が、墨俣(すのまた)に短期間で砦(とりで)をつくる工事をした。どうやって短期間で砦(とりで)を作ったかというと、あらかじめ材木をとりでを建てる(たてる)ために必要な長さ(ながさ)や幅(はば)に切り出しており、その材木を川でいっぺんに運んだという。

信長がわの、このような優れた作戦もあって、最終的に織田信長によって、斎藤竜興は打ちやぶられ、織田信長は美濃も統一した。

そして、信長は、稲葉山城を『岐阜城』(ぎふじょう)と改名して、そして信長は拠点を尾張から岐阜城に移した(うつした)。

そして、信長は、この岐阜の地で、「楽市・楽座」(らくいち らくざ)という自由経済の政策を始めた。 当時、ほかの大名の土地では、市場で商売をするためには税金が必要だったが、信長は、その商売のさいの税金をただにする政策を「楽市・楽座」でしたのである。この政策により、商人があちこちからやってきて岐阜で商売をはじめ、岐阜は経済(けいざい)が活発(かっぱつ)になった。

さて、同じころ、美濃の西の隣国、近江(おうみ)について、信長は近江の大名・浅井長政(あさい ながまさ)と同盟をむすぶため、信長の妹の お市(おいち) を浅井に嫁(よめ)として、とつがせた。


さて1560年代の後半、室町幕府の足利一族とは、室町幕府の支配を下剋上によって乗っ取った三好(みよし)一族を倒すため、当初は足利義昭(よしあき)と信長は協力していた。そして、1568年、ついに信長は京都に入る。

そいて1569年ごろ、キリスト教の宣教師のルイス・フロイスが信長に布教の許可をもとめるために面会し、信長はキリスト教の布教を許可した。

その後も、ルイス・フロイスたちと信長はつきあい、信長は西洋の知見をいれていた。信長は宣教師から地球儀などをもらい、西洋の地理も学んだという。


だが、信長の勢いが増すうちに、足利一族が信長をおそれたので、しだいに足利と織田は対立し、そして足利が信長をうらぎるった。 足利義昭は、信長以外の日本全国の大名に、信長をたおすよう、書状(しょじょう)で よびかけた。そして、信濃(しなの)の武田信玄や越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくら よしかげ)などの有力な大名が、信長に敵対した。

そして信長は1570年、越前の朝倉を攻めいった。しかし、織田信長とその軍が越前で朝倉の軍と戦争をしている最中、近江の浅井長政は、信長をうらぎった。なぜなら、浅井は、織田と同盟をしていたが、朝倉とも浅井は同盟関係にあったので、よって近江の浅井長政は信長をうらぎったのである。

この浅井のうらぎりにより、信長は撤退する必要が生じ、そして岐阜へ撤退した。

その後、信長は体制をたてなおし、1570年、近江・姉川(あねがわ)の地で、朝倉・浅井の連合軍を打ちやぶった。

しかし、比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)が浅井・朝倉の勢力(せいりょく)に強力(きょうりょく)しつづけ、信長と敵対することになった。当時、有力な寺院には僧兵(そうへい)という武装した僧侶がいて、対立する勢力とは、僧兵は武力で たたかっていた。

そして信長は1571年、延暦寺を 焼き討ち(やきうち) した。

信長はいったん危機を脱したかに見えたが、しかし1572年、甲斐・信濃の強力な大名である武田信玄が、徳川家康たちに攻めこんだ。 この1572年の武田 対 徳川の三方が原の戦いで、武田が圧勝したが、武田信玄が病死してしまい、武田軍は撤退した。

そして、信長は1573年、足利義昭を京都から追い出し、こうして室町幕府が信長によって滅ぼされた。 また、この年、信長は浅井・朝倉をほろぼした。


さて、武田信玄は病死したが、信玄の子の武田勝頼(たけだ かつより)が、信玄のあとをついだ。

織田と徳川の連合軍が、長篠(ながしの)の戦いで、甲斐(かい)を拠点とする武田軍に攻め込まれた。だが、信長・徳川連合軍は鉄砲を大量に使用し(三千個の鉄砲をつかったという。千個という説もある)、そして武田軍に勝つ。当時、武田軍は騎馬隊(きばたい)が強いとして諸国(しょこく)から恐れられていたが、しかし信長たちの鉄砲隊によって、武田軍は惨敗させられた。なお、この長篠の戦いの7年後の1582年に、武田勝頼は信長に攻め込まれ(「天目山の戦い」(てんもくざん の たたかい))、勝頼は自害し、武田家は滅んだ(ほろんだ)。(※ 「天目山の戦い」については、高校~大学レベルなので、小学生は暗記しなくてよい。)


さて、」1576年に信長は安土城(あづちじょう)を築いた。1582年、毛利軍と戦ってた部下の羽柴秀吉を援助しようと、道中で本能寺(ほんのうじ)に寝泊まりしていたところを、部下の明智光秀(あけちみつひで)によって裏切られ、自害。

信長は新しいもの好きだったようで、宣教師(せんきょうし)が地球儀を見せると、即座に地球が丸いことを理解したという。

裏切り者や一揆(いっき)などには容赦がなく殺したので、後世の江戸時代以降の作家からは、信長の性格の例えとして「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」などと信長は評されている。

  • 家臣
柴田勝家(しばた かついえ)
羽柴秀吉(はしば ひでよし)
前田利家(まえだ としいえ)
明智光秀(あけち みつひで)

・・・など、ほか多数。

  • 同盟関係
斎藤道三(美濃の大名)
徳川家康(三河の大名)
浅井長政(近江の大名)

このうち、斎藤道三(さいとうどうざん)は、信長の嫁である濃姫(のうひめ)の父親。そもそも濃姫の「濃」の字が、美濃の地名から。

もともと、道三は油売りの商人だったらしいが、下剋上によって、美濃の大名に成り上がった。

道三は、息子である斎藤義龍(よしたつ)に裏切られ、下剋上を起こされ、死亡。


浅井長政(あさいながまさ)は、信長の妹の「お市の方」(おいちのかた)を、妻の一人として、むかえている(当時は一夫多妻制)。

越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくらよしかげ)とも、近江の浅井は同盟をしていた。

しかし、その同盟関係にひきずられ、越前が信長によって攻め込まれたさい、浅井も信長と対立するはめになり、そして浅井は織田軍に滅ぼされた。 なお、お市は生き延び、のちに織田の家臣の柴田勝家(しばたかついえ)の妻(つま)となった。

その他の有力な戦国大名[編集]

武田信玄
上杉謙信
今川義元
毛利元就
島津貴久
長宗我部元親
三好長慶

・・・など、ほか多数。

武田信玄についていうと、風林火山(ふうりんかざん)の格言が有名。

「ときこと(※ 早いこと、という意味。副詞「とっとと」と似た意味 )風のごとく、静かなること林のごとし、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし。」

というのが、「風林火山」。なお、武田軍は、騎馬(きば)武者が強かったという。

のちに織田が、信玄の息子の勝頼の軍勢をほろぼす。だが、信玄の生きて行た時代は、織田は信玄の軍勢を恐れていたようである。


越後(えちご)の上杉謙信(うえすぎけんしん)の軍勢は、甲斐(かい)の武田軍と領土をあらそった。川中島(かわなかじま)が、上杉と武田が領土をあらそった土地の代表として有名。

上杉は義理にあつかった人物と言われている。武田軍が塩不足にこまってたときに、相手の弱味につけこむのは卑怯(ひきょう)とかんがえたのだろうか、武田軍に塩を送り、「敵に塩を送る」のコトワザの語源ともなっている人物。


毛利元就(もうりもとなり)は、安芸(あき、いまでう広島県あたり)の大名であり、「三本の矢」(さんぼんのや)の言い伝えで有名。かれ元就が死ぬ直前、3人の息子達に、1本わたして、折ってみよ、と命じたという。息子は、なんなく、矢を折ったという。

つぎに、元就は息子に3本の矢をわたして、同時にこの矢を折ってみよ、と言った。3本の矢はかたく、息子たちは、矢を折れなかった。

おまえたち(=息子)も、この矢のように、3人が力をあわせよ、と言った、という。

ザビエル[編集]

戦国時代のころ、日本に、キリスト教を布教しにきた人物のうち、さいしょのほうの人物。いわゆる宣教師(せんきょうし)のうちの一人。

  • 関連する人物
ルイス=フロイス

ルイス=フロイスは、宣教師の一人であり、信長に気に入られた。

安土桃山時代[編集]

千利休

茶道の偉い人。

信長が、茶道を重んじたこともあり、戦国時代に、急に茶道が広まった。また、茶器(ちゃき)が、急に工芸品としての価値が高まった。

秀吉の時代に、秀吉の怒りをかってしまい、利休は処刑された。


狩野永徳

戦国時代の有名な絵描きの一人。「狩野派」(かのうは)とは、彼、および、彼の弟子や孫弟子などの一門のことである。

豊臣秀吉[編集]

✩簡単に説明  信長亡き後明智光秀を倒し検地を始めた。大阪城を築き、関白となると翌年には太政大臣となった。刀狩令を出した2年後に天下統一を成し遂げた。その後、朝鮮に2度攻め込み、2回目の侵略中に病死した。

  • 関連する人物

石田三成

江戸時代[編集]

徳川家康[編集]

✩簡単に説明  信長が亡くなった8年後、関東に領地を移した10年後関ケ原の戦いで勝ち征夷大将軍に任命され江戸幕府を開いた。

徳川家光[編集]

✩簡単に説明  家光は江戸幕府第3代目将軍。征夷大将軍になると、武家諸法度の中に新しく参勤交代という制度を創り江戸幕府の支配を固めた。

近松門左衛門[編集]

「ちかまつもんざえもん」人形浄瑠璃の脚本家。 『近松全集』『近松浄瑠璃集』『近松門左衛門集』『曽根崎心中』などを著作する。

歌川(安藤)広重[編集]

「うたがわ(あんどう)ひろしげ」『東海道五十三次』で有名な浮世絵師。

本居宣長[編集]

「もとおりのりなが」国学を学ぶ。  『古事記伝』を著す。

杉田玄白[編集]

解体新書。

前野良沢と共にオランダ書「ターヘル・アナトミア」を日本語に訳し、「解体新書」を完成させた。

伊能忠敬[編集]

日本中を駆け巡り、正確な日本地図を作る。

ペリー[編集]

日本に二度開国を求め、1854年に日米和親条約を結ぶ。

勝海舟[編集]

幕臣 西郷隆盛と話し合い、江戸城を人が死ぬことなく開城させた。

坂本竜馬[編集]

西郷隆盛(薩摩藩)と木戸孝允(長州藩)を結び付け薩長同盟の成立に大きな役割を果たした。 また、土佐藩の仲間を中心に、日本初の貿易会社(海援隊)を長崎で作り、物産や武器の貿易をした。 33歳の時何者かに暗殺され、亡くなった

明治時代[編集]

西郷隆盛[編集]

薩摩藩出身 明治維新の中心人物(参議)

大久保利通[編集]

薩摩藩出身 大蔵省 廃藩置県を行う

木戸孝允[編集]

長州藩出身 西郷隆盛と同じく、明治維新の中心人物(参議)

明治天皇[編集]

五箇条の御誓文を発布する。

伊藤博文[編集]

初代の内閣総理大臣 ヨーロッパを回り、大日本国憲法のもととなる憲法を探した。

福沢諭吉[編集]

  • 関連する人物
金玉均

現一万円札に記載

田中正造[編集]

大隈重信[編集]

地租改正などの改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進。

板垣退助[編集]

自由民権運動の主導者として知られる。

陸奥宗光[編集]

  • 関連する人物
川上操六

山県有朋[編集]

  • 関連する人物
メッケル

東郷平八郎[編集]

日露戦争で活躍した 関連する人物

乃木希典

小村寿太郎[編集]

1911年(明治44)にアメリカとの交渉で関税自主権を回復させた。

野口英世[編集]

1000円札に載っている人として有名。

大正時代[編集]

与謝野晶子[編集]

  • 関連する人物
与謝野鉄幹

昭和時代[編集]

昭和天皇[編集]

昭和の天皇

佐藤栄作[編集]

田中角栄[編集]

平成[編集]

平成については記述せず。(当事者が生存中などのため。)