ラテン文学の作家と著作/黄金期/リキニウス・マケル
C・LICINIVS・MACER
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ガーイウス・リキニウス・マケル(Gaius Licinius Macer:前118/110頃[1]-66頃)は、ローマ共和制末期の政治家・弁論家・年代記作家。弁論家・詩人の#カルウスの父。
リキニウス氏族のマケル家に生まれ、平民派の政治家となり、前73年に護民官、前68年に法務官となる。平民派ガーイウス・マリウスの子分で、スッラの閥族派体制に対して平民の不満を扇動した。
- キケローに訴追され、急死
前66年、前年の属州総督任期中に不正行為のかどで#キケローによって訴追される。彼自身も有力者であり、有力者クラッススら友人たちの支持を得ていたので裁判は無罪と思い、陪審員たちの投票中なのに帰宅してしまい、身仕度を整えて広場に出かけようとしていたが、クラッススから有罪判決を知らされると自宅に引き返し、ベッドに寝たまま急死した[2]。財産没収を免れるための自害ともいう。
- 弁論家として
弁論家としても名声があった。キケローは、リキニウス・マケルの演説は話題と構成に優れるが雄弁と洗練を欠くと評している(キケローは後に、彼の息子#カルウスとやり合うことになる)。
- 年代記
ローマ建国以来の『年代記』(Annales)(少なくとも16巻[3])を著した。これは、ユーノー・モネータ神殿内にあった古文書をもとにしたと述べられているが、そのほとんどが散逸し、伝存する引用のほとんどは第1・2巻からのものである。その評価は、リキニウス氏族の功績を誇張する[4]凡庸な史書[5]、自分の派閥の良いようにローマ初期の歴史記述を歪めて記した[6]、などの否定的な評価があり、公的記録を史料として用いて潤色を加えぬ著作態度[7]という中立的な評価もある。
年代記作家#リーウィウスやギリシア人史家ハリカルナッソスのディオニュシオスもリキニウス・マケルの年代記を参照している[8]。
脚 注
[編集]- ^ 生年を前118年頃とするのは集英社世界文学大事典(1997)(第4巻、高橋宏幸)で、西洋古典学事典(2010)(松原國師)は前110年頃とするが、諸説あって、生年を明記しない文献が多い。
- ^ リキニウス・マケルがキケローから訴追されて急死する顛末については、プルータルコスの対比列伝「キケロー」などが詳しい。
- ^ 西洋古典学事典(2010)は「少なくとも21巻」とするが、Hazel:Who's Who in the Roman World(2002)は“at least sixteen books” としている。
- ^ ウィキペディアの記事「ガーイウス・リキニウス・ストロ」では、リキニウス・セクスティウス法の提案者の一人とされるガイウス・リキニウス・ストロについての年代記作家リウィウスの記述は、リキニウス・マケルの年代記に依拠していると思われ、リキニウス・マケルは自身の祖先の業績を粉飾している可能性があることが指摘されている。
- ^ 岩波西洋人名辞典(1981)の「リキニウス 2)」
- ^ バウダー 古代ローマ人名事典(1994)の「マケル」
- ^ 集英社世界文学大事典(1996)の「マケル」(高橋宏幸)
- ^ Hazel:Who's Who in the Roman World(2002)の「Macer 3.」を参照。
参考文献
[編集]- 西洋古典学事典(2010)の「リキニウス ②ガーイウス・リキニウス・マケル」
- 集英社世界文学大事典(1997)(第4巻)の「マケル ガイユス・リキニウス」(高橋宏幸)
- 岩波西洋人名辞典(1981)の「リキニウス 2)」
- 古代ローマ人名事典(1994)の「マケル」
- Hazel:Who's Who in the Roman World(2002)の「Macer 3.」
関連史料
[編集]- プルータルコスの『対比列伝』の「キケロー」(9節)
- 邦訳『プルタルコス英雄伝 下』(村川堅太郎 編、筑摩書房(ちくま学芸文庫))のp.283-284
- リキニウス・マケルがキケローから訴追されて急死する顛末が言及されている。
- 邦訳『プルタルコス英雄伝 下』(村川堅太郎 編、筑摩書房(ちくま学芸文庫))のp.283-284