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利用者:すじにくシチュー

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

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言語別の利用者

物理学者ファインマン「宗教とは信じる文化であり、科学とは疑う文化である」



生ごみ避け

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利用者:すじにくシチュー/高校化学 合成高分子化合物

生ごみみたいな名前の編集者が、出典を消したり、資料集や検定教科書コラムや参考書にあったような話題を消すので、非難。

べつにコラムなどの話題を分離するくらいならイイけれど、消されてどこにも退避しないのは、さすがに迷惑だわ。検索しても見つからないので。シンジオタクチックとか見つからないのは困るので。

高等学校化学II/検定教科書で扱われてる発展的話題 にもシンジオタクチックあるけど、その記述を書いたのは私。

生ごみ野郎、なんの役にも立ってねえ。

ツイッター教育評論家のデマ

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ツイッターなどSNSでの素人の教育評論では、馬鹿がいいかげんな評論を言っている。

たとえば「偏差値の低い私立大学を潰せ」みたいな事を言ってる馬鹿が後を絶たない。

しかし統計では、学生1人あたりの人数で見れば、国公立大の学生は私大の10倍の補助金をもらっている(出典サイトを忘れたが、たしか日経新聞あたりがそう報道してた)。

国立大は学生1人あたり100万円の補助金、いっぽう私大は学生1人あたり10万円の補助金である。

このように、ほとんどの私大は、国からの補助金で成り立ってるのではなく、学生からの授業で採算性を確保しているのである。


そもそも公立中学ですら、国から60万円ちかくの補助金をもらっている(※これは帝国書院の中学公民の教科書にすら書いてあった)。

私大への補助金よりも、公立の小中高への補助金のほうが負担額が大きい。

なのにSNSでは、この程度の基礎知識すらも分からない馬鹿の一つ覚えアカウントが、教育評論を語ってる。学生を馬鹿にする前に、てめえが勉強しなおせよ、馬鹿が。

もうね、中学公民の教科書すら読めてない、公立中学生よりも馬鹿な大人が、教育評論を語っているのである。

エンタメ業界の30歳定年は昭和の工学書でもう曝露されてた

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芸人とか、若手の作家とか、業界や会社が20台のときに猛烈プッシュして宣伝して、30台になったら仕事がなくなるって言い伝えあるじゃん?

私、大学時代に読んだ本で、岩波書店の工学書で、昭和の時代の本でそういう話を読んだわ。

法政大学に通ってたとき、図書館にそういう電気工学だか機械工学の本があったんだよ。


知識人きどりの文系左翼は知らないだろうけど、岩波書店は昭和の昔、工学書も出版してたんだよ。(バカ文系が文系書を高値で買って、理系の頭のいい奴が安値で岩波の教科書を読めるという搾取の構図もあるのだが、それはそれで別の話なので省略する。バカ文系はカモにされるだけ。)

もうね、昭和の時代から、オモチャ業界とかエンタメ業界とかの30歳定年みたいなの、バレてるんですよ。


岩波のその本、工学書だからオモチャ会社を例にしてたけど(プラ成型とか金型の知識が必要だし、エレメカ玩具とか電機の知識が必要なので)、若手社員は、消費者の子供に年齢が近いからオモチャ会社とかの文系大卒は20代のうちは重宝されるけど、でも年を取ると急に仕事なくなるって、もう岩波書店の昭和の工学書で言われてたのよ。


だから君たち理系の読者は、マスコミとかの宣伝に流されず、いつの時代でも通用する自然科学的な原理を身に着けなさいって、岩波の本では言ってた。

昭和の工学書はさ、こういう社会の実態が書かれてたんだよ。

しかし、こういう社会の実態に関する言い伝えが、平成の理系大学では失われてるけど、私が大学入学したときは既に失われてたけど、まあ今時の大学はもうゴミですね。

今時の理系大学は、教員がすでにゴミ。昭和の時代の教員とは別の階層。魂も受け継がれてないだろう。


公式を暗記するだけの暗記馬鹿を育ててるのが今時の理系大学だし、「理系重視」とかSTEMとか言ってるネトウヨだとかサヨクも同レベルのゴミ。


  • クリちゃんの公式

別の工学書かもしれないけど、岩波の工学書で、電気工学か制御工学かにあるクリストロフなんとかみたいな名前の長い人の公式を、その工学書を執筆した教授が「長いから『クリちゃんの公式』って授業では呼びますね」とか言ったら、学生が笑ったって。下ネタの疑惑。教授本人が下ネタに気づいているかどうか知らないが。

昭和の高度成長期の工学部ってこういうの。今時のなんか共産主義ロマンみたいな馬鹿どもの幻想してる理系とは全然ちがうんで、文系やニワカ理系どもは勘違いすんなよな。

  • おっぱい材料力学

他社だけどパワー社の材料力学の工学書とか読んだら、弾性係数あたりの解説で、裸の おっぱい と乳首の絵があるのが、昭和の工学ですわ。フェミ公どもやジェンダー連中どもは勘違いすんなよな。

メモ用

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人体ドローイングの腰の男女差

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男女の腰の高さの差について、クリストファー・ハート 著『驚くほどかんたん 人体デッサン』の「簡略式骨格:側面」P50に情報あり[1]

このクリストファー本の説明図では、腰までが同じ高さで身長の違う男女の骨格が載っている。

(このため、女性のほうが、身長に対する腰の高さの比率が高い。つまり、相対的に女性のほうが足長に見える。)


なお、女性の腰は前に傾いている。


愚者は経験に学ぶ

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靴屋さんはスポーツシューズを売ってるからって、別に靴屋がスポーツ選手になる必要もないし、スポーツ趣味の必要もない。せいぜい、スポーツシューズの特徴に詳しければいいだけ。

なのに、これがアニメ・マンガ・ゲームになると、なんか私に「お前、アニメーター(あるいは漫画家、ゲーム作家)じゃないでしょ」みたいな馬鹿げたことを言ってくる馬鹿も多いよね。お前らは政治の話をするたびに政治家の選挙に立候補してるっかていうの。

スポーツ競技場を建設する土木工事員がスポーツが得意である必要もない。駅伝で道路を走るからって、道路工事のおっさんが駅伝に出場する必要もない。

各地の地図を作ってる会社が、その地図に書かれてるスポーツ場でスポーツの好成績を出す必要も無い。


私は自分を、たとえるなら道路工事のおっさん、あるいは地図つくる会社のおっさん、みたいなもんだと思ってる。


べつに私、自分が職業アニメーターとか職業漫画家とか職業ゲーム作家とか言ってないし。でも、そういう馬鹿な人が作家・ファンとかにも多そうなのが、アニメ・マンガ・ゲームの界隈。


道路に穴が開いてるから埋めたり、あるいは複数に別々に作られた近隣地域の地図をまとめて1枚の地図にまとめてセットにしてくれる人に対して、「お前はスポーツ選手(漫画家・アニメーター・ゲーム作家)じゃないじゃん」みたいな、おかしなことを言ってくる界隈もある。ええ、オタク産業にそういう、おかしな人も少なくありません。


そりゃ、4コマ漫画くらいは子供時代の小学生のころに書いたことあるよ。でも、そういうの誰でもあるでしょうし、仮に「マンガを描いたことあるよ」って私が言ったとしても、べつにそれを出版社とかに持ち込みしたなんて言ってないし、「Gペンで描いた」とも言ってないし、ひとことも職業漫画家なんて思わないでしょ。

アニメもゲームも、一応は作ったことある。

ゲームなんて、コンピュータゲーム以外のアナログでもいいんだったら、小学生とかのときに作る子も多いでしょ。スゴロクとかさ。私もよく学校で見たよ、そういうアナログゲーム。

「ゲーム」と聞いて、アナログのスゴロクとかカードゲームとかすっとばして、なんかRPGツクールしか思いつかない時点で、なんか頭がめちゃくそ悪い界隈だと思うわ。

そもそも私の小学時代の当時、そもそもインターネット環境じたいが普及してなくて、ツクールなんて普及してないわ。


私の小学時代の同級生と中学時代の別の同級生は、なんかサイコロを使った対戦RPGみたいなのを作ってたなあ当時。そういうノンフィールド対戦RPGみたいなのは、商業ゲーム以外の場所では、じつは意外と昔から多くの人が考えている。

モンスターどうしを戦わせる対戦RPGだけど、ドラクエとファイファンのモンスターとかの混ざったヤツ。いちいち分けない。まだスクウェアとエニックスの合併前の時代。サガとファイファンのモンスターも混ざってたりとかさ。

なお私は小中学の時代、何かゲームブック(3~5ページ程度)を作ってて、『北斗の拳』と『女神転生』の世界観が混ざったヤツ。


そういうのだけでも、バランス調整のコツとか少しは分かるものだよ。「やべえ、敵を強くしすぎた! もっと弱くしないと」みたいなのさ。

私は、ゲーム中に落とし穴を作って(なお、落とし穴に入るとゲームオーバー)、「これ、防ぎようがないよね?」ってツッコミを食らったことがある。そういう理不尽な高難度ゲームのフィールドを作りたくなる心理も知っている。

その心理とは、ゲームブックの場合、先に答えを見る反則プレイヤーがチラホラいるから、作者側は反則者のペナルティ用に高難度にデザインしたくなるんだよ(体験談)。でも、現代の後知恵もあるが、その高難度デザインはマチガイってのが私の中学時代の実体験。

現代の後知恵を含めて言うなら、プレイヤーは結局、シナリオや世界観を楽しんでるんだよね。


ただし、そういう調整のフィードバックが分かるのは、作品をプレイしてくれる相手が居ての話。私の1作目を面白がってくれた友人が、高難度にデザインされた2作目を非常につまらなそーな顔で、「(敵を)倒せねーよ。無理!」とか言われて、ようやく自分のデザインミスに気付く。

だから、大人とかでそういう友人のいない現代だったら、ネットでツクール作品とかを公開するほうが早いと思うわ。なので、べつにツクールとかを作る趣味を否定はしない。

なお、ツクールとかウディタとかに私は興味ない。ゲーム自体に興味は無く、子供時代の未来予想で「ゲームが将来的に家電とかのOSになるんでは?」とまるでプレステ3時台のソニーや90年代の岡田斗司夫みたいな予想をしてたからゲームデザインとかも勉強してただけに過ぎないのが私。なのにツクールとかでプログラムを作っても、他の用途になんの転用できないし不便なだけだし。


正直、私の感想としては、私は美術の教科書などの現代化のためにアニメ・マンガ・ゲームの創作論なども私は調べてるけど、正直その界隈の連中の思考レベルが上記のように低すぎて、あんまり関わりたくないって思い始めてる。やっぱ小中高の美術教育とかで、オタク産業の紹介が後回しなのには理由があるよ。


そもそも論として、書籍って、読み手が体験しないでも済ますために書籍があるわけで。歴史とかそうでしょ。戦争とか繰り返したくないから、戦争の歴史の書籍があるわけで。

著作権法の意義とか、引用の意義とか、なんか根本的にわかって無さそう。

マンガ業界はあまり教本とか出してないから問題ないけど、教本を出してるアニメ業界とゲーム業界のファン層が「お前、アニメーター(ゲーム屋)じゃないでしょ」とか、それをいっちゃ、著作権法に則ってる一般の業界からは、そのオタク産業が馬鹿な業界だと思われるだけで。

特許でもないんだし、別に発明した本人である必要もないのにさあ。なんか、特許法みたいな排他的占有権みたいなことを言ってくる、おかしな界隈もある。著作権法などの法律の常識が分かってない幼稚な界隈なんだろうなあ。


結局、「馬鹿を優先的に喜ばせる産業は悪」「馬鹿のほうが楽しめる産業は悪」なんだと思うわ。現実逃避を助長してしまうからね。タバコやアルコール飲料みたいな産業。まあ、美術や音楽自体が、そういう現実逃避の文化かもしれないけど。だから大学入試に美術・音楽が出ないことにも納得が行く。


明治時代に慶應義塾の福沢諭吉が似たようなことを考えているらしい。体育教育や部活動についての福沢の考えは下記のようらしい。

そして福澤諭吉は、体育は単に立身出世の一手段に過ぎないのであって、体育を人生の目 的としてしまうことは、目的と手段を混同してしまっていると言わざるを得ないと述べ、 以下のようにも述べている。

そして、実際に福沢は下記のように発言したらしい。

元来書生に腕力の不用なるは、恰も力士に学問のなきと一般なれども、唯如何にせん、 学理上肉体と精神との間に密接なる関係ありて、身体を健かにせざれば、智識を進る こと能はざるを以て、已むを得ず学校に体育の設もあることなり。然るに書生の輩が 体育を口実として漫に遊戯に耽り学業を怠り、剰さへ肉体の強壮なるに任せて有りと あらゆる不養生を行ひ不品行を働き、独り得得たるが如きに至ては、言語道断の次第 と云はざるを得ず(8)。

[2]


サル漫が指摘してるように、芸術を現実逃避の手段にしている人もいるからね。消費者としてならそれでもいいけど、でも生産者がそうなったら予後が悪い。


アニメ産業やゲーム産業の生産なんか、経験したくねえよ。

そもそも私は、それらを経験したくねえから、教本などの書籍で疑似体験してんだよ。

戦争を経験したくねえから、戦争の歴史を学ぶのと同じだ。

なんかアニメ業界人とかゲーム業界人ってさあ、「みんな、アニメ業界やゲーム業界を経験したいはずだ」って勘違いしてない?


戦国時代の研究をしている歴史家は、べつに戦国武将になりたいわけじゃない。なのにアニメやゲームの研究をすると、「アニメーター(ゲーム作家)になりたいんだろ。でもお前はなれなかったから嫉妬」みたいなことを言ってくる馬鹿も多いよねえ。

うん、そうだね、お前は小学校で戦国時代の勉強をするときに、そのまま戦国時代の雑兵のように死ねばいいと思うよ。


アニメに関しては、「物理学の参考になるかな?」と思って模写など練習してたこともある。力学が 静力学→動力学 と発展した歴史のように、絵画・美術が 静止画→動画 みたいに発展してくかなと予想してた。結果、予想は外れた。

教育イラストをwikiで描く側になって分かったが、必要な知識の解説って既に静止画にされてて1枚絵で一目瞭然にデザインされてる教育イラストが普及してるから、その静止画の教育イラストをわざわざ動画にする必要も無いのよね。

動画にすると、注目したい場所でコマ送りとかにしないといけないし、読み手に余計な手間が増えてしまい、学習に役立たなくなってしまう事も多い。

まあ、動画教材とか作ってる会社は、そういう手間をかけて教材を作ってるわけで、だから動画教材が高額なのも分かる。


グラフィックデザインの専門書とか読んでて気づいたけど、自分はデザイン論を技術者の視点で勉強したかったんだなあ・・・(なお、別にデザイナーになりたいわけでない)と。昔は中学高校の美術ではデザイン論はろくに教育してなかったんだよ。

地元の図書館で古いデザイン論の本を読んだけど、デザイナーなのに何かアーティストみたいに紹介してたりとかさ。

たとえるならシナリオ論がその存在自体を知られてないように、デザイン論がその存在自体を知られておらず(少なくとも入門書がとても見つけづらい)、なので技術者にはデザイン論が暗中模索だった時代もある。

現代は高校の情報科目でもデザイン論の概要があるけど、そもそも昔は高校に情報科目が存在しなかったりとかさ(指導要領には情報科目が存在していても、開講してない高校のほうが多かった)。


テレビのメディアが文化的な観点からエンジニアに注目しだしたのって、90年代後半のNHK『プロジェクトX』あたりからじゃないかなと。「ものつくり」とか新語が言われ始めたのも当時。私は実家が製造業だけど、プロジェクトX以前は「ものつくり」なんて聞かなかったしなあ。


なお、機械設計とかのデザイン(設計は英語で design )も、私の関心の「デザイン論」に含む。

あと、ゲームデザイン論じゃなくて、「ソフトウェア工学」(とでも言うのか?あるいは「ソフトウェアデザイン論」とか?)および心理学に自分は関心があることも分かった。

「イラスト」と聞いてアニメ絵・ゲーム絵しか思いつかないって馬鹿

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私はいちいち「同人イラストレーター」とか名乗ってないけど、でも教材イラストを多数wikiに投稿してるから、すでに同人イラストレーターなんだよね、実態は。

あるいは、「教材イラストは本来のイラストではない!」とか頭の変なオタクが言うなら、じゃあ日本で学校教材の中にあるイラストを描いている職業の人とかどうなるんだ? そのオタクは職業差別主義者か?ってことになる。「イラスト」って聞いて、アニメ絵やゲーム絵しか思いつかない時点で、頭が悪い。なるほど、こりゃオタク族はバカにされるわ。

2001年くらいのネットにあった「お絵かき掲示板」のイラストは多くが消失している一方、wikiのイラストは2020年過ぎになっても残り続けるというのが、ネット上での絵の世界の現実。


世間の人は、1枚の絵で何でも自己アピールしたがる自分の経歴とか、人生観とか、自分の好みとかさ。いわゆる「自己表現」ってヤツ。

でも、教材イラストを描いてると、そういう必要ないんだよって分かる。

教材イラストを普通に描ける時点で、自分の学力・学歴はそこそこアピールできる。中学の勉強を理解しなきゃ、さすがに中学教材のイラストを描くのは面倒になるし(無理やり描けば可能だが)。

あとは、裁量の許された細部にだけ、自分の好みを入れればいいだけ。たとえば教材中のキャラの指先の色使いを、好みのイラストレーターの塗りの色からスポイトしてきたりさ。

あるいは、教科書の本文自体を書けば、そもそも絵でわざわざ学力を表現する必要すらもない。


検定教科書にある教材イラストを観察してると、あまり難しい構図は使っていないのが現実。構図を難しくしても学生の5教科の勉強に役立たないから、教育的に意味ないんで。それが絵の業界の一部では現実・実態でもある。

私の描くwiki教材イラストの構図は、あれは手本にした検定教科書の構図とかがああなっているから、それを私は真似ているだけである。日常演技。

若手が思いつく画風の多くはとっくに先人が実験済みだという事

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美術風+オタク絵の画風の多くはとっくに先人が実験済みで失敗済み

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同人イラストなどでは、アニメや漫画のキャラっぽいデザインのキャラ絵に、水彩画とか油絵とか日本画とか、美大っぽい画風を加えるアレンジの画風のイラスト作品が、ときどき同人界ではあります。趣味でやってるなら、それでも良いでしょう。ですが、決して「ひょっとしたら、マンガ界・アニメ界でこれからヒットする画風かも?」とか思わないほうが安全でしょう。

なぜなら、アナタが若いなら、単にアナタが知らないだけで、すでに同人界でとっくに何度も実験済みの画風だからです。少なくともネット上で、2005年くらいまでに、とっくにそういう画風の同時にイラストレーターが何人も存在していました。ネット以外でも良いなら、イラスト投稿雑誌などで、昔からよくある画風でしょう。

イラスト投稿サイトが普及する前、お絵かき掲示板というのがあって、そこでアニメキャラや漫画キャラを水彩タッチや油絵タッチとかで描く投稿イラストを、いくつも見たことあります。

もしアナタが若くて10~20代くらいで知らなかったなら、単にそういう美術的な画風が不便だったので普及しなかったからです。

残酷ですが、10代か20代前半程度の若いアナタが思いつく画風なんて、とっくにアナタよりうまい人が実験済みで、単に不便で普及しなかったから他の誰も追いかけてない画風だったりします。

さらに残酷なことに、若いアナタが「斬新」だという感想を思ってしまってるあたり、先人クリエイターたちのネットで無料公開すらされていた実験的な作品を知らない結果なわけで、先人たちにとっては彼の知名度の低さの証明になってしまってるという、とても残酷な感想です。悪気はないのでしょうが。

まあ、もしアナタが売上げを求めるなら、売れ線以外の画風を求めるアート界隈とかで、運よくヒットすれば幸運、といったところでしょうか。その場合ですら、あなたの先人で水彩画とか油絵とアニメ・マンガキャラを組み合わせてた人との競争、あるいはアナタより若い人との競争、になります。需要の無い業界で利益を求めるという事は、そういう事です。


ついでに言うと、「商業主義にとらわれない自由な作風で、マンガ界に革新を!」みたいなアイデアも時代遅れで、それはもう1980年代~90年代あたりにコミケについての評論とかで言われてたことです。ゴーマニズム宣言とかでも、コミケについて批判的な文脈(共産主義的だと批判する文脈)で90年代に指摘済みのことです。ネットの普及した今、いまさら「打倒、商業主義!」みたいなアイデアは、だいぶ苦戦を強いられるだろうと予想します。

趣味でやるならイイですよ。ただ、売上が良いとは思わないほうが安全だろうと思います。

ラノベ絵+アニメ・マンガ絵は実験済み(そして失敗)

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あるいは、美大風・アート風ではなく、「ラノベ表紙絵みたいな細かい絵で、マンガ絵やアニメ絵を描こう」みたいなアイデアも、答えは「とっくに同人界で実験済み」だと言っておきます。 そういうアイデア、もう2005年や2010年くらいまでに、同人絵描きたちが実験してきたわけです。

当時、デジ絵が普及してきて(ペンタブとか普及してきた)、「コンピュータを使えば何とかなるかも? いけるか?」と模索して挑戦して、そして、ダメだったわけです。漫画家とかアニメーターとかが過労になってしまったわけです。

どうあがいても、1人では、ラノベ絵みたいな細かい絵では、週刊~月刊マンガやらアニメは作れないという事が分かったのが2010年以降です。もしかしたら人数増やせば可能かもしれませんが、しかし報酬をそこまでスポンサーが払えないのが現実だというのが2010年以降の結果です。

まとめ

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本来、上記のようなクリエイターたちの挑戦と失敗の歴史はイラスト産業の教育者たちが言うべきだと思いますが、ネットを見る限り、ロクに教育者が言ってません。

ともかく、wikiのゲームプログラミングの教科書でも言いましたが、だから漫画家を目指して絵が上手くなりたいならマンガ絵を模写するしかないし、アニメーターを目指して絵が上手くなりたいならアニメ絵を模写するしかありません。

ゲームプログラミングの教科書に書いてある結果だけを見れば単なる練習ノウハウの一つですが、その裏には先人のクリエイターたちの多くの挑戦と失敗があるのです。各種の教本などにあるクリエイターのためのノウハウは、他のハズレの選択肢で失敗した先人たちの、貴重な失敗の教訓の歴史でもあります。


「自由」を言う偽善者ゲーム産業たち

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ゲーム業界人もマンガ業界人も、新卒採用とかで「自由な発想の作品、お待ちしております」とか言うけど、

でも自由に創作した結果、不採用で無職の失業者とかになっても、なんの責任も取りませんけどね。

だってこいつらオタク系コンテンツ企業の会社のつくる作品、抽象アートみたいな分かりづらい作品を採用してないじゃん。抽象アートつくりたい人だって、「自由」な発想だろ?

それとも抽象アートは「不自由」な旧態依然とした業界だって言うつもり? あ、サル漫とかそういう見解だけど、でもゲーム会社の見解はそうじゃないじゃん。あの手の界隈の業界人、偽善的すぎる。

今まで黙ってたけど、「人間的に偽善者」だと思ってる。

こいつら、「自由」と言いつつ、自社に都合のいい作品だけを作ってくれる、単に都合のいい若者が欲しいだけじゃん。いやまあ、大企業とかだったら、そういう若者を選んで採用できると思うけど、中小零細の制作会社とかだと少し難しいんじゃないですかね。で、ほとんどのクリエイター志望者は、中小の制作会社に行くことになるわけですよ。

まあ、ゲーム業界がどうなろうと知ったことないけど、他の業界に感染したら迷惑なんで、文句を言っとく。特に教育マンガとか教材イラストとかの業界に感染したら、オタク以外にも迷惑だから、すげえ邪魔ですんで。


まだしも自由ゆえの「不採用」のリスクとかわかってて、それでもクリエイター人生におけるモチベーションの重要性とかを考えて、あえてリスクを覚悟しつつ「自由」な作品をつくるならともかく。しかし界隈のオタクども、どうもそこまで考えてなさそうだし。

ロックンローラーに憧れてしまう人が勉強ができなかっただけの不良のように(なお実際は音大卒とかがロッカーしてたりの例も)、実態と建前の解離している業界に憧れてしまうのは、勉強のできなかっただけでしょ。

もっと言うと、「自由」という名目で、事情の分からない地方とかの新人を搾取しているだけでしょう。

「採用まではアマチュア趣味でいいけど、採用後の仕事はアマチュア趣味では不採用で~す。だからそれに適応できそうな人を実は募集でーす」というのが本音じゃん。「だからアマチュア趣味を貫きすぎて変える気ない人は不採用でーす。だから抽象アートみたいなのも不採用でーす」というのが本音じゃん。「『自由』といいつつ本当は自由じゃなくって、『本音と建前』の見抜ける若者を募集してま~す」というのが本音じゃん。

この本音が見抜けなくて憧れたりしてゲーム買ってる人を、搾取してるだけじゃんかよ。

正直、ゲーム産業に限らず、クリエイターで非・偽善的で立派なのって、上澄みのほうだけでしょ。クリエイターの中堅~下のほうには、偽善的なクソ人間も多い。消費者に偽善者が多いから、クリエイターも比例して偽善者はいる。

実際、テレビ芸能人とか、ステマで視聴者やファンを騙してた連中も多いでしょ。マンガ・アニメ・ゲームのクリエイターも、それと同じですよ(たぶん広告代理店とかがもうとっくにオタク産業にも手出しをしている)。自分のファンを騙して搾取して、スポンサー企業を儲けさせるヤツら。

いやまあ、スポンサーを儲けさせるのはいいけれど、お前のファンを騙すんじゃねえよ、ゴミクズ作家どもが。偽善者のクズすぎ。自分のファンを騙して心が痛まないのか。それともまさか、自分がファンを騙している自覚すらないほどに頭が悪いのか。人格が偽善的で悪いくせに「自分は人格者」だと思ってしまってるのか。あるいは、ファンがバカすぎて、現実から目を背けてるのか。

テレビ局なんか、幹部は高学歴なのに、番組は低学歴むけだったりして低学歴を搾取するけど、そういうの。出身が底辺とか地方な奴にかぎって、どう考えても自分じゃ就職の難しいバラエティ芸人とかに憧れてしまうアレ。

クソすぎ。

まあ、クリエイターはそれでも低賃金で忙しく頑張ってるから、しょうがない面もある。同人の連中も、裏ではプロの人の同人名義だったり、あるいは本人が本当にアマでも人脈とかでプロ友人とかいたりするから、守秘義務みたいに言えない事もあるのも仕方ないだろう。

でもファン・消費者の連中さあ、お前らの大半は非クリエイター業で、ノーリスクで暇じゃん。なのにファンが偽善的なウソを広めるじゃねえよ、偽善者どもがさ。


「ゲーム絵師が実は普段はゲームしてない人も多い」ってのも、証拠あるけど黙っててあげてるだけだからね。昔さ、今ほど守秘義務とかキツくなくて、若手にそういう内部事情を教えてくれる親切な自称「同人」ゲーム作家の先輩クリエイターとか何人もいたんですよ。ゲーム中にイラストを組み込むときも、まずはゼルダのプロトタイプみたいに色の塊を塗るってのも教えてくれたりさあ、あるいはアニメのラフ原みたいなのを描くとか、そういうのを新人に教えてくれる先輩クリエイターとかが昔はいたわけ。



中学時代の美術と教員免許の思い出

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思い出した。中学時代、担任の社会科教師(東京六大卒)が、美術の教員免許を持ってたわ。美大卒とかにとっては、数少ない就職先が奪われてアレ。なんつうか、現実はこう。

まあ、普段は美大卒の美術教師が授業をしてて、その美術専門教師の病欠とかのときに社会科の美術教師が代理で授業とかだけど。


思い出した。中学時代のその美術専門教師、じつはマンガ模写してますよ~って言ってたわ。アフタヌーン連載してた「ああ女神様」を模写してたって。

授業では作品名を伏せてたけど、模写先の画風で、「マユゲの太い女性の神様のマンガ」って言ってたんで、クラスのオタクが藤島作品の「ああ女神様」の模写って気づいて、授業後に「先生の模写してたの、ああ女神様でしょ」ってオタクが話してたわ。


正直、美術教育は間違っていると思う

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日本の美術教育はキチガイ発生器。

美術の教育理論は、現代のマンガ産業・アニメ産業などの実態とズレています。現代の絵描きの多くはマンガ・アニメ関係です。


もっと現代の産業にあわせる改革をすべきだと思う。少なくとも美術教育のもう半分くらいはアニメ模写・マンガ模写とかの実用重視・産業重視みたいな方針で良いと思います。あと、アニメやゲームのCGの量産テクとか、もっと教えるべきです。

写真のなかった古代では、もともと美術はもっと実用性のあったもので、現代の写真に相当するようなものであったわけです。


経済学部生とかと比べて美大生とかの精神疾患の割合が多いとかいうのは、つまり単に美術教育の理論が間違ってるだけだと考えれば辻褄が合います。アニメ専門学校とか卒業後が低賃金の職種と比べても美大とかの精神疾患が多いのなら、絵描きうんぬんとか低所得が理由だからでもないので、もう美大の教育理論が邪悪です。

抽象的な哲学みたいな感じになっている美術教育を、もっと社会科でいう地理科目や公民科目みたいな感じの美術教育に変えるべきでしょう。

社会科に例えると、「倫理」科目と若干の「歴史」科目しかない状態です。地理と公民に相当するものが、美術教育では抜けています。


また、現代の美術教育は、教育の順序が違うと思います。

先に実用的・現実的なことを勉強して、あとから「目先のことばかり勉強するのも視野が広がらずに不十分だよね」ということで視野を広げるために非実用的なことも勉強してみるのはアリかと思います。

でも今は、早い段階で抽象芸術みたいな非現実的なことを美術教育で教えており、これでは単なる現実逃避になりかねません。事実から目をそむける怠惰な態度を作り兼ねません。

水彩画とかも、現代では必要性が低くなりました。デザイン事務所などの多くの仕事がコンピュータ作業になりました。アニメ番組の背景も今ではコンピュータ作業です。アニメ背景は、たとえ見た目が絵の具風の塗りの背景でも、実際にはコンピュータで描かれています。

カラーのコピー機やプリンタが普及したことに加え、さらにインターネット空間などにカラー画像があふれているので、絵の具のスキルの価値は大幅に下がりました。

水彩絵具とポスターカラーは学校美術では価値は対等ですが、しかし、推測ですが、どちらかというとポスターカラーのほうが現代の産業的な需要に近いでしょうか。


偏見ですが、大体、精神病のキチガイほど、就職先の業界からズレた勉強ばかりしそうです。たとえばマンガ家志望なのにアニメ模写ばかりする的な。

まあでも、アニメやゲームのような集団作業で作ってる作品の模写は、自立のための情操の教育には良いかと思います。結局、情操教育といっても、程度の差はあれ、現実と向き合う必要があります。

裏を返すと、行き過ぎた抽象芸術みたいなのは中高の美術で教えますが、しかし現実との対応がしずらく、情操教育には悪いと思います。


絵描きのストレス発散は絵を描くことでしょ

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私の実体験ですが、新卒で就職した企業で、大学時代には応用数学とかを使った工学を勉強させられたのに、そのせいで私は法政大で留年までさせられて退学にしたのに、

なのに就職後、「数学は使わない」みたいな事を言われて無能扱いされたので、私は内心、製造業そのものにキレて、その日から家でお絵描き練習をしました。

その日から家でアニメ模写してた。好きなアニメのワンシーンとかを模写。

その日から、大学時代は中断してたお絵描き趣味を再開したわけです。


だからさあ、美大生とかが「向精神訳とかを飲んで不安の解消」とか言う人、ぶっちゃけ、「あんた、向いてないよ」と思う。


マンガ模写とかアニメ模写とか、お絵描きこそが、私のストレス発散。だから私、酒もたばこも一切ヤリタイと思ったことない。酒は絵に役立たない、時間の無駄じゃん。中学生のころから、そんなのよりアニメ模写してるほうが楽しいんで。

まあ、そういう反骨精神を復活させてくれたという意味で、新卒時の企業には感謝していますよ。


こういう反骨精神をとりもどす労働経験って、たぶんコンビニバイトみたいなのじゃ身につかなくって、ある程度、専門性を使った労働じゃないと身につかないと思う。

バイトを転々としてる人だと、身に付きづらいと思う。だから、もしそういう職歴の人は、べつに私を尊敬しなくてもいいから、この反骨精神のお絵かきどうこうの前後の話だけは聞いてほしい。君に届け。

実際、浪人中(法政→電機大のときの電機大の入学前の浪人)とかに親父の会社でバイトさせられたけど、その経験では反骨精神は戻らなかった経験もある。


さて、江川達也が2005年くらいのテレビ番組でニートと対談したとき言ってたんだが、そのニートは趣味でマンガを描いてたんだが、

江川は、おおむね、「働かないでストレスが無いよりも、働いてストレスを適度にためて、そのストレスを創作にぶつけて解消するほうがエネルギーのこもった作品をつくれるよ」とか「バイトでも何でも時々は働いたほうがネタも収集できるから、働いたほうがいいよ」とか、みたいな事を言ってた。

まさに、私がその通り、働いてストレスを貯めて、お絵かき趣味を復活したわけだ。


さて、絵描きのウツについて。

すでにデザイン企業とかイラスト制作会社とかに勤務してる人が激務とかでウツになるのは分かるけどさあ、

そういう激務で過労な人だったら「しばらく絵を描きたくない」とか分かるけどさあ、

でもまだデザイン企業とかに就職してない人がウツになるのは違うでしょ。自己陶酔としか。

ネットの普及前の時代あたりに百歩ゆずってウツになるとしても、自責ならともかく、他責はクソのゴミ野郎でしょ。


このwiki作り始めたころ

私が工学のwikiとか作ったのは、若いころ、勉強しようにも情報不足で苦労したから。だって、一般の書店で機械工学書とか売ってないじゃん。

工学的なものの考え方とか教えられず、公式の暗記と計算問題ばかり大学でさせられたんで、もっと実務的な工学書を書きたかったんだ。

2009年ごろ、ニコニコ動画とかpixivとかの「お絵描き講座」とか見ながら、私は思ったんだ、「い~な~、イラスト界隈の連中は。工学でもこういう感じの教育、できないかな~」とか悶々として、とりあえず模写とかしてたんですよ。

当時すでにwikibooksが存在してたけど、当時はサイトの存在を知らなかったんだ。だから、なんかアニメ模写ってた。


作家志望ならカウンセリングの自己肯定より漫画・アニメによる否定を受け入れよう

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カウンセラーはむやみに患者の考えを肯定したりするのでしょうが、しかし実際の職場はそうではありません。

別に一般の事務職とか肉体労働とか工場などの仕事だけでなく、作家とかの仕事でもそうです。

たとえばマンガとかアニメとかいった娯楽作品なんて、作家の側からすれば人気投票だの納期だの競争だのといった自己否定の連続です。たとえば絵の模写の練習は、自分の古い絵柄への自己否定です。文体の模写も同様でしょう。


自己否定のできないバカは、勘違いして「自分は自己否定しすぎ」と思っています。たとえば絵の模写の練習は、自己否定なわけです。作家のように創作性が問われる業界ですら、その業界の作品の模写(文体模写なども含む)によって選択的に自己否定をしています。

だから正直、精神医療だの心理療法とかの患者の肯定ばかりする理論は、少し間違っていると思います。そういう下らない医療に、税金なんか使うべきじゃないと思います。

まだしも大災害とかベトナム戦争とかの不可抗力のPTSD治療とかならともかく、そうでない平和な時代の精神疾患なら、肯定ばかりしては現実対応力を失うでしょう。

治療開始の短期的には肯定も必要だとは思いますが、しかし長期的には否定も必要です。就職の志望先での業界内の現実・事実などとズレている患者の認識は、そのマチガった自分の思い込みを否定されなければ、就職できず、したがって自立できません。

だから、納得のできる就職先の業界による否定と向き合うのが、本当の自立への努力でしょう。


精神科医だのカウンセラーだのの治療だのなんだのを1~2年も受けて、それで改善されないなら、おそらくもう、そのカウンセリングなどの理論が間違っているのでしょう。

アニメ絵の練習ノウハウで、「理論どおりに練習して、絵がうまくならないなら、その理論が間違っているので、別の理論に変えろ」という教訓があります。

精神医学だの心理療法などの通院・服薬はもし効果が数年で無ければ、さっさと乗り換えて、そんなのよりも就職志望先の勉強や練習をしましょう。

けっして「カウンセラーを別のカウンセラーに変える」とかじゃなくて、もはやカウンセリングに頼って何か自己変革したつもりになる態度そのものをやめるべきです。1~2年ならともかく、10年もカウンセリングを受けつづけていても無駄でしょう。


カウンセリングなんか受けるよりも、5教科の勉強をしましょう

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人格の成長は、ある程度の年齢以上なら、就職・職業のための訓練とその結果でしか、育たないのが実状だろう。まず普通に中学高校~大学教養の教科とか、社会人の実学とかを勉強するしかありません。

世間一般のふつうの大人ができている道徳とか礼儀とかマナーとかも身につけましょう。最低限、高卒でもできる程度の道徳・礼儀・マナーは身につけなければなりません。

というか、あれこれと言い訳をつけて、そういう地道な勉強や礼儀をサボる人が、精神障害とか宗教とか自己啓発セミナーとか、あるいは極端な政治思想とか(以下略)、ああいうのに逃避します。

正直、カウンセリングとかは5教科を勉強させないのでゴミ。自立したいなら先に普通の中学高校の勉強しましょう。世間のほとんどの人は、中学高校の内容を理解できていません。理系科目とか典型ですし、社会科も政治経済とか、アヤシイです。

なお、まともな高校生なら、シグマベストあたりの政治経済あたりの参考書を読めて当然です。

政治経済とか歴史科目とかの参考書を覚えようとするのではなく、読むのを通して自分の幼稚な社会認識みたいなのを直してください。 もし思考回路が間違っている場合、たいていは社会科・数学の事実と自分の思考の予想がズレるので、そういうのを参考に自分の思考回路の精度を高めていけばいいのです。

そういうのを、なんか論理的で頭よさげな感じの人は自然にやってます。そういうの子供時代からサボっている人が、なんか発達障害やら過激な政治運動家みたいなキチガイになるのです。


「社会科学」と言う発想のないキチガイ

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健常者は義務教育でコミュ力を習う

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キチガイは「自他境界」とかをカウンセリングで初めて知るんだろうけど、でも健常者は小・中・高校の社会科で同等の内容かそれ以上の理解に気づくんだ。法律も経済法則も、自分とは違って世間の健常者なら気づくんだ。

だからキチガイには「カウンセリングを5年や10年とか受けるより、さっさと学校の公民科目あたりの復習しろよバカ」って思う。

健常者はいちいち精神医学とかの用語で説明しないだけで(用語を知らないので)、義務教育あたりの学校教育でそういうコミュニケーション・スキルや思考法を身につけるんだ。

要するに発達系のキチガイは、義務教育レベルのコミュ力や思考法が身についてないだけの重度の暗記バカってのも多いんです。身についてなくても、日本では丸暗記だけで(数学公式の丸暗記も含む)、そこそこの偏差値の進学できてしまうからねえ。まあ、人権とかあるんで、バカの思考回路を規制しづらい。

キチガイはよく「親がコミュニケーションを教えてくれなかったのが悪い」とか言うけれど、私からすれば「でもお前、義務教育は受けてるじゃん? 義務教育でコミュ力が身についてないの?」って思います。しかしキチガイはこの程度の反論すら聞き入れません。要するに本当に悪いのは、キチガイの頭です。

キチガイは基本、思考力の低いアホのくせに自己評価が高すぎるんですね。


健常者でも社会科学を知らない

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本論

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さて、世間の人の何割かは、健常者も含めて「社会科学」(ソーシャル・サイエンス)と言う発想がありません。(社会学ではなく)

経済法則とかが分かりやすいですが(「恐慌のときには減税や公共事業をするなどするとよい」みたいなの)、社会の仕組みには法則性があります。

この社会に法則性があるという主張は別に私(この文を書いてる人)のアイデアではなく、経済評論家の故・小室直樹とかが90年代に著書で普通に言っています。

最近では「再現性」と言う言い方をされるかもしれません。

要するに、物理学みたいなかんじで、そこそこ精度のいい法則のようなものが、社会科にもあります。

物理の法則は永久不変なのと違って、社会の法則は国や時代によって変わりますが、しかしそんなに変化は急ではありません。

たとえば、「恐慌のときには減税や公共事業をするなどするとよい」みたいなケインズ経済学的な理論は、21世紀になっても生き残っています。

少なくとも教科書レベルの法則は、100年くらいは使えます。

なお、アニメ産業やゲーム産業といった集団作業で作品を作る業界でも、製作ノウハウなどにおいて再現性は必要です。組織労働での集団作業なので、再現性が求められるのです。


さて、社会学は法則性・再現性があやしいですが(自説に不都合な統計を無視するダメ学者が学会に紛れ込んでる)、経済学はまあ、それなりに再現性が統計などによって先進各国の大学や研究期間によって検証されています・


しかし、世間の人は、社会科が暗記科目のままで終わっており、なんか世間の人は、左翼思想(または右翼思想)と社会科学とを混同しています。マルクス読んだり、あるいは三島由紀夫・司馬遼太郎とかの小説を読んだりするのが、なんか社会の勉強だと思ってたりします。

宗教とか自己啓発セミナーとかに流れる人も、なんか、あまり社会科学的なものの考え方ができてるような感じがしません。精神障害とか発達障害の人とかも、たぶんそんな感じの人が多いだろうと思います。他責とか被害者意識の極端に強い人、あるいは極端に自己批判する人とかも、なんか社会科学という発想ができてないかと思います。

自分が論理的だと思ってるキチガイは多くいますが、しかし実際に論理的ですぐれた論文・レポート・教科書などを書けるレベルのキチガイを見たことありません。

つまり、キチガイは(科学としての)社会科学が苦手。暗記科目としての社会科は出来るかもしれないけど。


なお、歴史的には日本では、戦前の軍国主義のアンチテーゼとして左翼思想を語る人が多かったので、左翼思想なだけで客観性が高いと勘違いしている人も2010年くらいまで、よくいました。

世間の何割かは、戦前の左翼みたいにアンチテーゼで現状批判をするだけで「客観的」だと勘違いする、なんか頭のヘンな人がいます。

困ったことに、昭和や平成初期の時代は、文部省(現在の文科省)や日本中の小中高の学校がそういうアンチなだけの左翼思想を奨励してたような側面もあります。


困ったことに、アンチへのアンチを言うだけで「自分は客観的」だと思ってる、これまた頭の悪い人もいます。

たとえば、戦前右翼のアンチへのアンチの戦後の人です。具体的にいうと、なんか三島由紀夫とか石原慎太郎とかを尊敬しているが、しかし高校生レベルの歴史知識や公民知識のない、保守思想かぶれの学力低いオジサンとかです。伝統的なマクロ経済理論とか知らないというか、個々の政策はニュースとかで知っていても体系的に結びついていません。

うちのオヤジが生前、こんな感じでした。権威を重んじる保守のくせに、あまり大学教科書(これは学問では権威ですよ)の内容とか知りませんし、法学部の1年レベルの教科書の民法総則とか刑法総則などの体系的知識もありません。仕事が忙しいとしても、大学1年レベルの法学・経済学の勉強もできないのは、さすがにアレです。そもそも新卒採用で大卒を雇うのに、大学教科書にも目を通さないとは。どういう了見か。

まあ、共産主義みたいな左翼思想だと会社経営できないので、社長であるオヤジは右翼思想にシンパシーを感じたのでしょう。


で、戦前右翼へのアンチ(つまり戦前左翼)のアンチ(つまり戦後右翼)のアンチ(左翼っぽい言説)を言うだけで、「自分は客観的」だと思ってる、これまた頭悪い人がいます。

まあ、うちの母親がそんな感じです。

オヤジ(母から見れば夫)に反発してか「芸術的感性が大切」みたいな事を言う割に、アニメとか馬鹿にして見下していました。(なので、90年代後半のアニメブーム時にオヤジからそこを突っ込まれる。)

主婦の大変さとか母親の偉さとかを謳ったりするメロドラマが、芸術的なドラマらしいのでしょう。そういう、自分を正当化してくれる都合のいい作品が「芸術的」に見えてしまう、そういう人も世間にはいます。

本人は紆余曲折(右翼のアンチのアンチ(結果として左翼)という紆余曲折)を歴た進歩的な思想のつもりですが、しかしハタから見れば古い左翼と変わりません。


で、戦前右翼へのアンチ(つまり戦前左翼)のアンチ(つまり戦後右翼)のアンチ(左翼っぽい言説)のアンチ(右翼)を言うだけで、「自分は客観的」だと思ってる、これまた頭悪い人がいます。

ヒッチコック映画とかで、女性をヒステリックに表現していたりして、主婦向けメロドラマとは違っているので「芸術的」に見えてしまう、そういう人も世間にはいます。まあ、うちのオヤジですが。

息子がマンガを読んでると馬鹿にするくせに、自分はドラマ版『サラリーマン金太郎』(原作がマンガ)を見てたりするのがオヤジです。


本人は紆余曲折(右翼のアンチのアンチのアンチ(結果として右翼)という紆余曲折)を歴た進歩的な思想のつもりですが、しかしハタから見れば古い右翼と変わりません。


このように、社会科学のできない人は、本人は自己評価で「頭いい」つもりですが、ハタから見るとウヨ・サヨ対立のなかの、低次元な人間です。

もっと高次元な思考回路を持ちましょう。


まず基本として、映画とかドラマとかいった創作物から、社会を学ぶのはヤメましょう。創作物ではなく、なるべく実社会の統計を見ましょう。


映画とかドラマは基本、娯楽です。好き嫌いによって成り立つ文化です。

しかし、社会の仕組みは、あなたの好き嫌いとは関係ありません。(こういうの分かってない人ほど、創作物を人に社会勉強として布教したがる)

で、なんか「論理的」「ロジカル」とか言われる人は、統計とかを見れる人なのです。あるいは、統計をもとにして作られた社会科学の仮説の法則(「◯◯の法則」みたいなの)をもとに思考実験できる人です。

うちのオヤジもお袋も、映画とかはレンタルビデオとかを借りてまで見たりするのですが、しかし一向に経済学の教科書とかは見ませんでした。まあ、団塊の世代は、そういう映画信仰の強い世代なのでしょうが。

「少しは教科書を読めばいいのに」と学生時代から思いました。


さて、日本の右翼が中国政府を批判して、「中国は歴史学を外交の道具にしている」と言ったりしています。歴史の知識を悪用して、他国に要求を押し付けようとする的なアレです。

うちの両親も、なんか社会科の(断片的な)知識を、交渉で相手に要求を押しつけるような道具にしているような感じがあると思います。まあ、それが世間の平均レベルなのでしょう。

でも、そういう人の相手では、社会の話をするのが嫌になってしまいます。中国政府が歴史研究とかで信用されないのと同じです。

もし、大人の話相手が幼稚な子供だったら、そういう大人でも社会について子供に教育できることがありますが、しかし子供が大人になるにつれ、段々と話をしたくなくなってしまいます。


私の場合、両親の話は参考程度に耳には入れてましたが(「悪気はないんだろうなあ・・・」と思ってたので)、しかし両親の話とも低品質だと思って信用していませんでした。「使えそうな知識(生まれる前の時代の歴史知識など)があれば、覚えとく」くらいでしょうか。

母親はなんか私が父に洗脳されてるように思ったらしいですが、しかし私は父の話も信用していませんでした。


両親を疑った元ネタは、なんかマンガ・アニメを私が読んでて『エヴァンゲリオン』とか『ゴーマニズム宣言』とか江川達也『東京大学物語』で語られる教養とかが、なんか両親の話よりも理論が細かいと感じたからです。まあ、タネ明かしをすれば、作家が大卒で高学歴(当時)だったり、そもそもマンガ編集者とかが東大卒・早慶卒みたいな業界なのですね。

今はネットが普及してので教養を得るのにマンガをよむ必要は無かったですが、しかし昭和や平成初期の昔は、子供向けに社会の教養を話す本が少なかったのです。情報源が学校教科書(当時は左翼寄り)とテレビニュース(当時は左翼寄り)に限られてて、なんか説得力のある情報ソースがない時代です。

なお、私が『ゴーマニズム宣言』を読み始めた理由は、単に書店でエヴァンゲリオンのフィルムブックの横に置いてあったからです。新ゴー宣の出た頃がちょうどエヴァンゲリオンのブームと同じころだったので、エヴァ本とゴー宣が近くに置いてあったりしたのです。

だから2ちゃんねる掲示板とかでサヨクとかが「90年代当時の若者はゴー宣なんて読まない」とか言ってるの、デタラメなんですよ(サンプル数=1)。

東京圏でエヴァンゲリオンを視聴してたのは前番組のタートルズをアメリカ文化の勉強も兼ねて見てた層だし、書店でエヴァのフィルムブックを買うついでにゴー宣を買っただけだし、つまりタートルズを見てたようなイロモノ好きの層がゴー宣を買った層だと言うのが実態の一例です。


「数学は役に立たない」っていう人も「(広い意味での)芸術は役に立たない」っていう人も、同じ穴のムジナで、単にウヨ・サヨ的な立場の違いだけで対立してるだけで、同レベルなんだよね。要するに、「自分が使わないので、社会でも役立ってない」というだけの発想。社会科学というか、自分と社会との違いが分かってないんですよ。


社会科学の分からない人は、誰かをダマしてる傾向も高い。

たとえば父の場合、客をダマしている。ボッタクリ商品みたいなのも生産していた事がある。税金もダマしている。小さいころは父を見て「税金の勉強とか大変そうだな~。レシートをたくさん保管したりとかも」とか思ってたが、大人になって単に税務署をダマしているだけだと知った。家庭で買ったものも会社の経費にしたり的な。まあ、たぶん税務署にはバレてて、小規模の企業だから見逃してただけでしょう。

たとえば母の場合、自身が本当は不勉強なのに、自分を「勉強家」だと思ってたりする自己欺瞞。数学・物理とか客観的な事実と向き合うタイプの勉強がイヤだから文芸とか英語とか音楽とかいった文系・芸術に逃げただけなのに、自分は文系の適正のある勉強家だと自己を欺いている。文系とか芸術ってのは、そういう、自己をなぐさめる言い訳に使われやすいんですよね。まあ、時代によっては適度にそういう慰めも必要かもしれないけど。

英語とかフランス語とか母はよく勉強してたけど、でも私は脳内で母に「イギリス・フランス・アメリカも近代化の早かった工業国じゃねーかよ。理系の国じゃねーかよ」って、私は母を批判的に疑ってました。

90年代の時点でもう、Z会の英語参考書とかで、「英語だけ勉強できても、せめて高校レベルの数学とかできないと、最新のコンピュータ技術とか分からなくなるから、通訳の仕事ないよ」って世間では言われてました。でも私が母にそういう知識を話しても、母は聞かないんですね。


身勝手な理由でウソを付いていると、論理的思考の能力が下がるんですよ。詐欺師とかああいうの、文系が多いでしょう。なぜならウソツキで論理思考ができないから、理系にはなれないんですよ。

で、ともかく、ウソをついてると論理思考ができないから、社会科学の思考もできないので、社会の知識が断片的になって、社会について何か発言しても説得力がなくて、だから話をしても周囲・相手からは「あ、この人は自分のワガママな要求を通したいだけの理論武装をしてる人なんだな」って思われて信用されなくなるの。

社会科学ができない事が問題じゃなくって、その背後にある歪んだ自己評価・自己欺瞞などが問題なのよ。


昭和の昔は、社会科の教育の質が低くって、だから仕方ない面もある。たとえば昭和の中学・高校の公民科目なんて、経済の教育がなんか論理性のレベルが低かった。

でも平成生まれの人には、昭和のダメな大人の欺瞞を繰り返しては欲しくない。

親に不満があるなら、親よりも現実主義・論理的になれ

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本論
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上の章では、親への不満を書いた。もし読者が親に不満があるなら、それを世間に分かってほしいなら、私のように言わなければならない。

つまり、親に不満があるなら、その不満を世間に分かってほしいなら、親に不満のある子は、親よりも現実主義にならなければならない。 そして、親よりも論理的にならなければいけない

だから親よりも勉強しなければならない。親よりも、普通の大学受験の5教科とかを勉強しないといけない。科学技術の勉強なども、数学の計算などを避けずに勉強しないといけない。英単語も古文単語も覚えよう。英文法も「日本人だから」とか言って避けてはいけない。

そうしないと、親の不満ばかり言っても、世間からは単なる「子が発達障害で被害者意識が強くて他責なだけでは?」とか「ワガママな子供の駄々」と見られるだけである。

あるいは、親がアートの学習をかじってるなら(でも自分では絵を描かない親なら)、親に不満あるなら、たとえば最近の流行作のマンガ本などを模写しよう。もちろん似るまで、(もしくは時間切れになるまで)何度も書き直す。親が親の得意分野で避けてること(手を動かすことなど)を子は行い、そして親を超えよう。


私は、父親とテレビ視聴でニュースとか見てて政治ニュースなどについて議論していた際、コメンテーターなどの感想を言う父の主張の矛盾をついて「すじにくは論理的すぎる」と何度も父から言い返されたことがある。こういう事である。

家族以外も含めて周囲の誰かからそういう風に言われるレベルに自分が達してない場合、どうせ被害者ヅラしてる本人が大して勉強できておらず、単なる学力不足で世間知らずであろう。


ともかく、勉強すれば(実技の練習も含む)、少なくともスキルが色々と身につく。

だから、他責の自己正当化なんてしてはいけない。そんなことしても、発達障害呼ばわりされるだけである。そして、スキルもほとんど身につかない。


現実主義になるという事は、一例として、たとえば普通に社会科学や自然科学・理工学などを勉強するしかない。クリエイター志望などでどうしても忙しくて社会科学などを勉強する時間が無いなら、せめて創作の練習では、(自分の世界に閉じこもるのではなく)普通のオーソドックスな創作の練習をしよう。

漫画家志望なら、普通の人が面白いと言ってくれそうなマンガを普通に書けるように練習するとか。あるいは、アニメーター志望なら、普通にアニメの原画や動画を書けるように練習するとか。そういう、オーソドックスで定評のある練習をしよう。

こういう実用的な目標の練習を通して、適度に自己否定をして自分のうぬぼれた鼻っ柱(はなっぱしら)を自分で折って、自分の精神・知性・技術を研磨しよう。


そうせず、親に反発するために同人マンガや同人小説など1人で作れるジャンルのコンテンツを書いてクリエイター面をして「親への復讐」(笑)を企てようが、今や「発達障害者でも、いまどきは同人ならマンガ/小説を書ける」とネットでは思われる時代である。夏目漱石や太宰治などの時代は「ノイローゼ」が作家の勲章みたいなところもあったが、しかし同人マーケットや電子書籍などオタク関連メディアの発達した今、親や世間の不満ばかりを同人で書いてる作家はもはや発達障害よばわりな時代だ。


ゴーマニズム宣言で、教科書問題だったか何かの議論で小林が彼より上の団塊世代に不満があるシーンで、リアルの小林の友人の知識人が「俺たちが大人よりも大人になるしかないんだよ」と、小林を励まします。

私たちも同様、上の世代に不満があるなら、親や親世代よりも、現実をきちんと(逃避せずに)勉強するしかありません。


新卒の実体験
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あ、思い出した。

ゴー宣にあった「(俺たちが)大人よりも大人になるしかない」、これと同じようなこと、ゴー宣なんか知らない新卒企業の先輩にも言われたわ。

「すじにく さあ、お前は先輩に不満があるんだろうけど、だったら先輩よりも実務書とかも読んで、先輩よりも勉強するしかないんだよ」と忠告されたわ。

まあ、その企業は辞めたけど、でもその忠告に従って、だからアニメ教本とかゲームデザイン論とか読んでるんですよ。そういう背景もある。もちろん背景はそれだけじゃないけど。


一般企業に勤める社会人絵描きは、練習時間で、平日は1日に2時間くらいしか練習できない。土日はもっと練習できるけど。

そうなると、社会人になってお絵描き模写を再開した私には、もう書ける画風がアニメ模写しかない。もしラノベ絵とか模写してると、時間が足りないんで。

だって、模写し始めたその日のうちにとりあえず書き終わるジャンルのほうが、モチベーションが湧くじゃないですか。だからアニメ模写になる。

そうすると、どうせなら、アニメ教本とかも読みたくなるじゃないですか。

別にアニメーターになるつもりは無かったけど、どうせアニメ模写するなら、アニメ教本とかも読んで業界の常識的なノウハウとか知っておけば、些末な事でいちいち悩んだりする事もなくなるし、効率的じゃん。

リアルでは絵描きの知り合いとか居なかったし、ネットで知り合った絵の先輩の社会人絵師はラノベ系の絵描きだったので、アニメ系を目指す私にはネット先輩は残念ながら参考にならなかったので、残るは教本での独学しかなかったんだよ、昔は。


あ、エヴァのニュータイプ100%ブックとかの知識は、中古本とかじゃなくって、自分が子供だった新刊のときに仕入れた知識。

新桃太郎伝説の裏設定本の知識も同じで、単に攻略本と間違えて90年代当時に買っただけなのが実態。攻略本かなと間違えただけ。 ゲーム発売時に受験とかでプレイできなくって、だからプレイが数年後の後回しになって、そのときに偶然に裏設定本が出てたので買っただけであった。なお、新桃のソフトは知人から借りただけ(買ってない)。

ジャンプ漫画のセクシーコマンドー外伝マサルさんがエロ本と間違えて格闘技セクシーコマンドーの教本を買ったのと同レベル。間違えただけ。

てっきり、ロマサガ大辞典みたいに攻略情報とかあると思って買ったんですよ。


つまり、工学よりも先にアニメやゲームの設計論を勉強したわけ。

決して、法政大だの電機大だのの理系学部で決して「システム的思考」だのを身に着けたからアニメ・ゲームの設計論とかに興味を持ったとかじゃないんで。順序が違うんで。

アニメ創作論とかゲーム設計論とかのほうを先に私は90年代に上述の書籍で勉強した。

そういう予備知識があったから、だから法政大のクソ授業に関わらず、「大学のほうが企業社会の実務とズレてる。大学が間違ってる」と私は自分の論理思考を維持できたわけだ。


なお、私がプログラミングの勉強を始めた時期は、BASIC以外は実は、当wikiのプログラミングの教科書を書いた数日前~当日に始めたばかりだったりする。

これは数学者の秋山仁も大学講師になったときに使ったテクニックで、学生時代はうろ覚えで、数日前に新しく勉強したばかりの事を教えるために復習することで、「分からない学生」の気持ちの分かる授業ができる、というテクニックである。なにせ、当の講師自体が数日前までウロ覚えで分からなかったジャンルなので、学生の気持ちに近いってわけだ。


法政大を辞めた時
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法政大を辞める時、親が辞めさせてくれなかったんで、だから私は最後もう、軽度の知能障害者・学習障害者のフリをした。「ぼく、頭悪くて、授業についてけないんです」みたいな事を言って、ようやく大学を辞めさせてもらった。実際は一般入試で法政に合格して入学したんだけどね。

うちの父親の子供の教育管理なんて、その程度。

ろくに教育制度も大学カリキュラムも分かってない高卒の親が、テレビで底辺向けに放送してる大学生と馬鹿にする番組を見て、真に受けてるのが親父。

私は親のある面をかなりバカにしてるが、しかし憎んではいない。憎んでも何の意味ないんで。なんか役立つの、それ? 憎めば毎日の食事の肉料理が上手くなるとでも? 「親を憎んでる」なんて言ってる奴は、ソイツがまだ親を馬鹿にできるほどの知識のない子供なだけだ。親を馬鹿にできるように、もっと勉強しろ。

もっと言うと、「憎悪」は不勉強の不安の責任転嫁だ。ここでいう「勉強」には、絵の模写なども創作の勉強として含む。

私は親を心では馬鹿にはするが、しかし本音で感謝はしているし、嫌ってもいない。

不勉強のくせにウソをついてて頭のいいフリしてるから、親を馬鹿にできないから、表現できない鬱屈が、ありもしない親への「憎悪」とか、見当違いの感情として自己を認識することになる。


そうそう、よく「デザイナーは言語化を重視する」と言うが、「アニメやゲームでは再現性のためにデザイナーが言語化する」というが、言語化の際に重要なことは、なるべく正確な言葉で言語化することだ。念のためグラフィックデザインの専門書の児童書も何冊か読んだが、やっぱ言語化をなるべく正確な表現でしてましたよ。


例えば、私の先ほどの「親を馬鹿にしているが、憎んでいない」と言うのも、正確な言語化だ。

決して親を SA・TSU・GA・I !! したいわけでもないのに「私は親を憎んでいる!」とか堂々と言えるバカは、言語化を正確にできていない。

「馬鹿にする」よりも「憎む」のほうが語感が強くて世間に構ってもらいやすいで、いわゆる「かまってちゃん」みたいな連中はよく、こういう不正確な言語化をする。

「憎む」とかよりも「憎悪」のほうが何か二字熟語っぽくて頭良さそうみたいな感じで、「親を憎悪!」とか言ってる詩人気取りのバカとか、見てらんないっすねもう。「あ~こいつ、言語化も正確に出来てないバカの癖に『自分は文学的感性が豊か』って思っちゃってる、どうしようもない低能なんだろうな~」って見てて思います。

そういう不正確な自称・言語化は、問題解決や再現性には意味ないんでヤメロってことだ。


言語化のできないお前なんかよりも、頭のよくて絵や音楽のうまい奴が言語化を正確にしてるのに、一方でそれ未満のお前が奇妙な言語化をしてたら、そりゃ差が開くのは当然よ。

な~んで、普通の中卒レベルでも出来る言語化ができないんですかね? たぶん、余計なプライドが高いんでしょうなあ。


芸術家志望で多浪で予備校通いとか、馬鹿ですか?

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私が高校生だった時代にもう「仮面浪人」という言葉がありました。マンガでも、『東京大学物語』の主人公が、東大に落ちて早稲田で仮面浪人をします。でさあ、美大・音大志望とかで「親に理解されない」とか被害者ヅラしてるくせに、親のカネで予備校とか多浪で通わせてもらってるくせに親に文句言ってるゴミさあ、あんたら、(文句はともかく、知能の低い)バカですかと。

浪人覚悟で美大・音大とか行けるカネある家庭なら(この手の大学は昔は数が少なく倍率が高く、浪人が普通だった)、「どこでもいいから文系の短大とか偏差値そこそこの大学に行って(今はもう短大が少ないが)、そのあと目的の美大・音大に編入学すれば済む」って、なんで気づかないのかと。

4浪とかする予備校のカネと時間で、短大の学費を確保できて卒業できて、美大・音大に編入学できてしまうって、なんで気づかないんですかね?(仮に美大・音大に受験に失敗して1浪しても、少なくとも短大卒の肩書は得られる)

お金にもっと余裕ある家庭なら、いっそ一般の文系の大学を卒業してしまう方法もあった。いわゆる「ダブル・メジャー」。

そういう受験テク、もう私が中高のころの2000年ころには常識で、医学部とかの入学テクニックとして、よく知られてたぞ。

そういうの知らないで浪人してるくせに文句を言ってて孤高ヅラしてるのって、何なのオマエ? クズか? 受験への本気度が低い。本気で勉強してねえだろとしか。

自分に酔ってるんじゃねえよ、バカが。被害者意識は結局、自分を「悲劇のヒロイン」として脳内の境遇によって、快感を得たいだけでしかない。

※以下、他責思考などの話題

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クリエイターなどは、決して他責思考や被害者意識などに溺れてはいけません。創作に限らず、ある程度以上の知能労働の界隈では、他責思考の問題点は常識です。

自由度の高くて不安定な業界だと、しばしば他責思考に溺れる者が出てきます。


「他責思考は成長しない」という常識

一般に、「他人のせい」という他責思考の欠点として、「他責思考だと、もし自分が失敗しても、失敗から反省して学ぼうとしないので、成長しづらい」などと、ビジネス書やら心理学などで広く常識的に言われます。

被害者意識も、これと同じです。

なぜなら、被害者になるのには、なんの努力もいらないので、無能でも怠惰でも被害者になれてしまいますが、しかしそのため被害者意識・他責の人は何の成長もしないのです。


成長しないので失敗を繰り返し、状況などが悪化するので不安感が高まり、ますます被害者意識が強まり、ますます他責思考になっていきます。

そして、高まる不安を、他責思考・被害者意識で、まぎらわせます。


このように、ともすれば他責・被害者意識は、麻薬のようになってしまいます。

ほか、努力の方向性がトンチンカンだったりする場合も、他責や被害者意識になりやすいので、注意が必要です。


もちろん場合によっては本当に他人の責任の場合もあるでしょうが、しかし確率としては五分五分でしょうか。なのに、自分の周りの失敗を毎回他人のせいにしている人は、「他責のせいで、精神的に成長していない人物」と社会では見なされます。

べつに「自己批判をしろ」なんて言いませんが、もしなにか自分の周囲でトラブルがあったとき、よほど相手の悪さが明白な事態でないかぎりは、「もしかしたら自分にも少しは責任あるかな?」と少しは可能性も考えてみるくらいのことは、したほうが良いでしょう。


さて、「他責の人は成長しない」と言われてても、それでも他責の人らは危機感を感じないのです。なぜなら本人は成長しているつもりなのです。

たとえば「資本主義のせい!」とかばかり言ってる人は、自己評価では経済学を勉強して成長しているつもりです。

たとえば「文学や芸術を理解しない愚民のせい!」とかばかり言ってる人は、自己評価では文学・芸術を勉強して成長しているつもりです。

たとえば「男性社会のせい!」とかばかり言ってる人は、自己評価では社会学を勉強しているつもりです。


ほか、他責のせいでコミュニケーションが苦手な人は、「自分ではコミュニケーションが上手」「思考力の低い人とは仲良くしないだけ」だと思っていたりします。「頭が悪いのは自分」とは思ってなかったりします。「自分はジアタマが良い」とすら思っていたります。


困ったことに、文芸小説も芸術も、べつに教育を目的としてはいないので、読み手の好き勝手に理解できてしまうので、そういう自己正当化にも使われてしまいます。

また、経済評論書や社会評論書には、質の悪い評論書もあり、他責しているだけで質の低い書籍でも売れてしまっているものもあります。

商売とは、売り手と買い手さえ居れば成り立つので、質の悪い評論書では、他責思考の読者を満足させるために、読者に機嫌を損ねる真実は書かずに、他責の正当化ばかりを書いた断片的な内容の経済評論・社会評論などの書籍でも、そこそこ売れてしまうのです。

出版物には、一見するとマジメな外見の本でも、質の悪い、他責思考の読者からのウケ狙いなだけの書籍もあります。そのような、他責ばかりしている質の悪い書籍を、読書しないようにしましょう。


なお、アニメ業界のガンダムの監督として有名な富野監督は、中高の学生だったらまず教科書を読め、と著書などで言っています。さすがに中高の教科書は他責思考のウケ狙いの書籍ではないので、そういう品質のシッカリした教科書を読んで基礎学力を付けるのが人生のテクニックだと言っているわけです。

べつに絵描きやプログラマーなどに別に高校の社会科とかを細かく覚える必要は無いですが、もしそれらの学問を勉強をしたくなったら、富野監督の言うようにキチンとした書籍を選びましょう。

他責だと上記のように、本人は成長しているつもりなので、自己評価だけが高くなります。そして、自己評価の高さに対し、実力の低さ・精神年齢の低さ、などとの差が広がり、事態は悪化していきます。


それもこれも、もとはと言えば、他責思考・被害者意識のせいですし、自己評価を下げることができない過剰な自己肯定感のせいです。

なので、対処法は、自己評価を最初から低くしたうえで、その上で楽観主義によって未来を予想した上で、トンチンカンでない努力をすればいいだけです。

たとえば、2010年以降のいまどき、ネット上とかで同人とかで幾らでも発表の場所があるんだから、「少なくとも今の私は、商業クリエイターを目指すには実力は低いかもしれないけど(あるいは「プロ作家を目指すには精神が未熟かもしれないけど」とか)、それでもマンガを描くのが好き(あるいは「アニメを描くのが好き」でも「ゲームを作るのが好き」)」とかの自己評価をすれば良いじゃないですか。

そして、プロの作品を手本にして、模写をしたり自主制作でもしてれば、それで気が済むわけです。


なのに、前半の「私は実力は無いかもしれないけど」といった「少なくとも今の」という限定付きの自己評価を下げる可能性すら認めたくないあまりに、「私はもう既にクリエイターとしての実力と精神性があるから、マンガ/アニメ/ゲーム業界に就職すべき」みたいにトンチンカンな自己評価に入り、もちろんそこまで成長できてないので就職がうまく行かなかったり就職できても長続きしなかったり職場の周囲とコミュニケーションに失敗したりして、ドツボにハマります。

対策は、もっと言うなら、自己評価の高低と、楽観・悲観とを切り離すことです。

創作スキルが高かろうが低かろうが、人生の幸福には、さほど関係ありません。

たとえばスポーツなら、草野球のサラリーマンでも人生がしあわせな人もいれば、元プロ野球選手でも犯罪や麻薬などに手を出して身を崩す人もいます。

創作でも、今時はネットがあるので、多くのジャンルで、アマチュアでも簡単に作品を発表できます。

知識として「草野球」「コミケ」「同人」とかの単語だけは知っていても、上記のような草野球サラリーマン的な同人の思考法ができず、勝手に自己評価を高くして就活の前後などでウツになっている人は少なくありません。

ネット普及前の2001年あたりにウツになるのはともかく、ネット普及後の2010年以降になっても上記のような草野球サラリーマンみたいな発想転換も出来ない人は、「自分のジアタマが悪い」と思ったほうが良いでしょう。「ジアタマが良い」なんて高すぎる自己評価はやめましょう。


なおウツについて、他責・被害者意識の人は、ウツですら他人のせいにして、自分に酔いしれます。

たとえば、つまり、「自分は頭が良すぎるので(あるいは「センスが斬新すぎるので」とか)、世間の凡人には自分の長所が理解できず、そのせいで心の繊細な自分はウツになってしまっている」みたいな自己陶酔です。

他責思考の人の被害者意識は、自己陶酔の一種でもあります。自己評価の高さとか、奇妙な悲観主義とかと、色々と関連づいています。


大した思想もないくせに、ちょっと創作とかをかじったくらいで、まるで原始キリスト教か何かの受難者(じゅなんしゃ)のような気分を気取っていたりします。

他責の怒りに酔いしれている暇があるなら、模写などの練習をしましょう。

なお、趣味の模写をしていて怒りを発散できないなら、そもそもそれは趣味ではないでしょう。たとえば、「社会人絵師」と言われる一般企業でサラリーマンなどをしている同人イラストレーターの人たちは、イラスト創作で、仕事のストレス発散をしているわけです。もし同人の創作などでストレス発散をできないなら、そもそも、そのジャンルの創作に向いていません。


辛辣だと感じるかもしれませんが、しかし精神医学などの用語で「イネイブラー」という用語があって、良かれと思ってアルコール依存やウツなどの精神障害の人を「そのままで良いよ」と励ましつつ世話をやいてしまうと、治りづらくなることが知られています。たとえばアルコール依存症の夫をもつ妻が、夫のアルコール依存を容認して、飲酒している夫を突き放さずに親身に世話してしまうようなものがイネイブラーです。「共依存」という用語も、イネイブラーと似たような文脈で使われます。

なお、依存症患者への本来するべき協力とは、依存を断ち切ろうとする努力への協力だけです。たとえば夫のアルコール依存なら、断酒への協力なら、しても構わないのです。


なお、アニメ会社もゲーム会社もマンガ出版社も、べつに介護施設ではないので、単に使いづらい他責の人をリストラするだけです。


なおなお、この手の被害者意識の強い人のよくやる言動として、虚言癖とはちょっと違うのですが、ハッタリをつく大言壮語癖があります。嘘をつくのではなく、自分をえらく見せるために話を「大げさ」にするのです。 「大卒」と自己紹介してたが実際は短大卒、口は達者だがレポートを書かせても中学生・高校生程度の水準のレポートしか書けない、子会社の下請けの派遣社員で末端の仕事しか経験が無いのに大本での設計の経験が豊富なように装う、等々です。

IT系の場合なら、ろくに習得していない言語を「使えます」とか言ってきたり自己紹介するので、仕事の邪魔です。ネットの講座にあるチュ-トリアルのコードを写して入力しただけで「理解した」つもりになって「この言語を使えます」みたいに自己紹介を言ってきたりしかねません。

被害者意識が強いので、「自分が見くびられている」と思っているようで、なのでハッタリをついて自分を大きく見せようとするのです。


あまりゲームとは関係ない話題になってしまいましたが、ともかく、これほどまでに他責思考・被害者意識の暴走は、おそろしいものです。決して他責・被害者意識の中毒にならないよう、注意しましょう。

もし読者がクリエイター志望でこのコラムを読んでいるような意識の高い人なら、実際に手を動かして(コードやイラストなどを)模写したりアレンジしたりして試行錯誤して練習できる人だろうから、なのに他責・被害者意識に溺れるとしたら、もったいないです。他責の中毒に溺れないようにしましょう。

もし創作の師匠などから「クリエイター志望なら心を健全にしろ」みたいに言われるとしたら、それは「他責・被害者意識を治せ」「他責・被害者意識をやめろ」という意味でしょう。他責とウツで心を病んでる人が、他責のまま「俺のウツはあいつのせいだから、俺のウツを治すために、ウツの原因のあいつを憎んで不幸にしてやる」みたいな他責に加えて読解力も低く、心理を察する能力なども低く、「憎む」とか「不幸にしてやる」などの非建設的な発想をする人は、残念ながらクリエイター業界への就職は色々な意味で難しいでしょう。


なお、絵の創作などで一定以上のスキルは、自分の実力の低さを正しく見ないと、獲得できません。じっさい、アニメーター・同人イラストレーター・ラノベ絵師などの業界では、もう2010年の時点で「絵描きは、自分の画力が上がると、今までの自分の絵がヘタに見える」、「だから自分の絵がヘタに見えたら、それは退化ではなく、それこそ成長のあかし」ともう言われていました。

なのに、もし他責思考・被害者意識が強いと、絵に限らず「自分はヘタではない」と思い込んでしまうので、こういった自己フィードバックがまったく得られないので、まったく成長しなくなってしまうのです。

他責思考の人は、口先では「自分はヘタで~」とか言うかもしれませんが、しかし本音では「でも自分はセンスが良い」とか思っており、なので改善の可能性がとても少ないのです。

作家として売れないままなら、「自分のセンスそのものがピント外れ」という現実を受け入れなければなりません。


「でも自分の精神年齢は高い」と他責の人は思っているのかもしれません。

しかし、大した売上や人気なども無いのに自分のセンスに疑いを持てないなら、もはや精神年齢も高くありません。

そもそもクリエイターやら自由業に精神年齢の高さが必要かどうかは分かりませんが、文学小説を読もうが哲学書を読もうが、精神年齢は高くなりません。「売れない自分のセンスがピント外れかもしれない」という現実を受け入れて自己の改革をはかることで、少しだけ精神年齢が高くなります。

ベテランの作家ですら、時代に合わせて作風を変えていっている人は多くいます。

なのに大した実績のない底辺作家が、作風の変更はともかく(作風の変更には時間が掛かるので)、自己認識すら変えようとしないで自信満々なままの自分に危機感を抱かなければ、もう絶望的です。


ビジネスでは常識なのですが、ガマンの量は、成長とは関係ありません。

たとえばあなたが断食したところで、なにも絵のスキルは伸びません。

これは極端な例ですが、たとえばアニメ絵をうまく描きたいのに文学小説を読み漁っても、アニメ絵はまったく上達しないのが実情です。

目的に合わせて適切な練習をすることで、自己は成長します。

他責思考の人は、往々(おうおう)にして、ガマンの量と成長とが比例すると誤解しています。

絵を上手くしたいのに哲学書を読んだりします。しかし、ガマン量と比例する場合とは、練習法などのピントが合っている場合だけです。

ガマンしているのに成長しないから、絶望してウツになったりして自己陶酔するわけです。しかし成長しないなら、「単にガマンの方向性が間違っていただけじゃん。あー俺ってバカだな~」という現実を受け入れなければなりません。

ITオープンソース業界には『貢献の競争』という言葉があります。どんなに難しいことをできても、社会に貢献できてない限り、価値はありません。どんなに我慢がキツくても、社会に貢献できてないかぎり、価値はありません。


ほか、他責の人は、徹夜をしたりして練習して自己アピールしたりもしますが、しかし、すべきは徹夜ではなく、徹夜しない平凡な練習量でも作品をつくれる作風に変更するという自己変革です。

たとえば社会人絵師は、一般企業への会社勤めと創作趣味とが両立できるように、創作の作風を変えていったわけです。彼らはいちいち自己アピールしないですが、みんなそういう自己改革をしているのです。

ともかく、他責を治さないと上記のように、人生の選択肢の多くで、ピント外れの選択肢を選び続け、失敗し続けます。


自己の「絵のうまさ」的な能力値パラメーターだけを上げようとするのではなく、自己変革によって自己のアルゴリズムそのものを更新しましょう。

もっと言うなら、こういうアルゴリズム更新の発想にならない時点で、そもそもの目標そのものがピント外れだった可能性があります。目標を治しましょう。自分の間違った目標の前提になった、自分の間違った人生観・社会観・経済感などそのものを修正して更新しましょう。

他責や間違った人生観などの修正のためには、信頼できる大人(たとえば創作の師匠など)と、徹底的に、自己の欠点とその改善策についての話をすることです。逃げずに(師匠をコロコロと変えて逃げたりしない)、ごまかさずに(哲学用語とかの披露で逃げたりしない)、です。これしかありません。

これからも逃げたら、もう、ずっと成長しません。作家としては進歩が止まるでしょう。


なお、他責の人は業界知識も間違っている場合もありますが、しかしそれは派生的なものです。他責の人は、おおもとの社会観が正しくありません。他責の人は往々にして知った風な口をききますが、大した実務的な社会知識はないのが、よくある傾向です。


都合が悪くなったらやる被害者仕草と、自分の主張を通すための虚言・大言壮語や怒号をやめる、これしか、進歩はありません。なのに、この本質的な自己改革を避けて、その周りでどうでもいい自己啓発テクニックの練習を披露しても、無駄です。

他者からの真摯な忠告でも自分に1ミリでも否定的なニュアンスで言われたら怒るのを、やめなければいけません。価値ある情報というのは自己変革に結び付くので、たいていは否定的なニュアンスも含んでいるからです。 エヴァンゲリオンとか寄生獣とか、ああいうマンガを読むと、自分の罪悪感で心が苦しくなるようなものです。「良薬は口に苦し」です。


徹底的に自分に都合のいい話しか聞けず、それどころかその現実逃避を「ウツの治療に有効」だと勘違いしているから、認知がおかしいままになる。

もっと言うと、「自分はジアタマが良くて努力家だ」と他責の人はどこかで信じてる。実際、成功する時はするし。なのにやけに大失敗して後に活きない。人と上手くいかない。そこで「優しすぎて人につけ込まれる自分」という世界観に固執して、コミュニケーションを減らそうとする。昔の友人などとも会わない。違う、他責の人はある点では努力家でも、内省的・自己分析の関わる面では非常に怠け者だ。そういう障害なんだ。

それを認めないと、先に進めない。怠惰な部分がめちゃくちゃある。本人が思っているより、遥かに怠惰な部分がある。それを「周囲の無理解で人間関係に恵まれない自分」でゴマかすのはやめなければならない。

他責の人は、自己陶酔が変な領域に入ってるのです。「もともと純粋で優しい自分だけど、社会のスルい奴らと戦うため、冷酷にならなくちゃ」みたいな世界観には無理あります。もともと社会の酸いも甘いも理解できちゃいないのです。疎遠になった昔の友達に頭を下げて聞いてみましょう。


とにかく他責の人は、立ち回りが見苦しいのです。馬鹿の一つ覚えの被害者ヅラ。堂々と自分のちょっとしたアホさを認めさえすれば、何も失うことはなかったのに・・・とハタから思われています。他責の人は、自分で自分のブランドを汚しているのです。

空想上の師匠もいらないし、空想上のドクターも空想上の心理士もいらない。リアルな師匠やドクターなどからの指摘に逃げないようにしよう。疎遠になった昔の友人や家族とも話そう。それしか改善の方法はないのです。



※ここまで他責思考などの話題

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社会学

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「社会学」というのは、社会科の公民分野では、ありません。社会全体の性質について、哲学的というか思想というか、独特の手法で分析していくのが、社会学です。もちろん、学者のなかには、統計などを重視して、現在の社会で起き始めている変化を探るという、高校までの公民や地理の延長上のようなことを研究している学者もいますが、しかし、そのような研究は、あまり社会学の主流になっていません。

「社会科」と「社会学」とは名前が似ていますが、まったく別々の学問ですので、間違えないようにしましょう。

建前上は、社会学は統計などで実証をする学問となっていますが、しかし形骸化しており、しばしば大学の社会学の教育は、その教授の支持する政治運動を正当化する学問になっています。『学問の自由』があるため、このような学者の教育の私物化を排除できません。

出典をきちんと出します。

日本における大学での社会学の問題点を的確に表現したwebサイトが、立教大学の『計量社会学』の科目説明で的確に指摘されているので、紹介します[3]

※ 以下、引用。

心理測定法という学問はあるが、社会測定法という学問は今のところない。そして、調査をしたが分析できない、ということでは研究として成立しない。

 社会の構造や社会的地位をどう測定するかは、重要な問題。多くの社会学は、測定や分析に失敗しているので、あやしげな質的調査や、直感での分析、構築主義などの解釈や印象批評に逃げてしまっている。構築主義などは一見おもしろそうに見えても、具体的な測定法や分析法を作ることができなかった学問である。これでは大規模な社会を的確に研究することはできない。多くの記述的社会調査(質的社会調査)は、データの偏りが大きく「木を見て森を見ず」の不適切な研究となる。

※ 以上、引用。

もし、この立教大学のような人の考え方で、社会学の教科書が書かれて入れば、何の問題もありません。ですが、そうなっていない教科書が多く市販されています。

さて、社会学において、意図的に統計などをあまり使わずに、柔軟な解釈によって分析しようという「質的調査」という手法があります。これはこれで、問題探索の段階では意義がありますが、しかしあくまで探索の初期段階までです。いつまでも統計を無視するのは、断じて学問的な態度とは言えません。

この質的調査が悪用されており、特定の政治思想などに片寄って現実の統計をいつまでも無視したかのような学説が、残念ながら大学レベルの社会学の教科書に残り続けています。

先ほどの立教大の計量社会学の科目説明の続きを引用します。

※ 引用.

なお質的調査も、問題探索の段階では意義がある。ただし、データが偏り社会の、ごくわずかな部分しか見ていないという点と、適切な分析法がないという点については、欠点を克服できていない。この2点について限界があり、これのみでは研究
の最後まで到達して、結論を書き、科学的な論文にすることはできないことは事実である。質的調査のみで、巨大な社会の全体像を把握することはできない。適切なデータがないからといって、いいかげんなデータをもとに研究してはいけない。計量分析ができないから質的研究に逃げる人が多いことも事実だが、そのような姿勢が正しいわけではない。

※ 以上、引用。

社会学教育の現状を問題視して改革しようとしている人もいますが、しかし2021年の市販の大学レベルの社会学の教科書の書籍を何冊か確認したかぎりは、改革が追いついていません。


さて、社会学ではなく心理学の問題ですがw:再現性の危機といって、大学レベルの心理学の教科書などに書かれている基礎的な理論・「法則」などの類が、じつは満足に統計的に追試されていないかもしれないという問題が近年明らかになっており、近年に追試実験をしてみると「法則」の再現性があまり良くなかったりして、主に心理学の分野で大問題になっています。

文献『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』(有斐閣)によると、2015年には、すでに再現性問題の議論が始まっていたようです(Open Science Collaboration, 2015)[4]。また、医学でも再現性が問題になっているようです(Baker, 2016)[5]


どうも心理学では、今までまともな追試をせず、あるいは追試によって反証があっても無視したりして、学会やマスコミなどの流行ばかりに基づいて、満足に追試実験をしないで来てしまった分野もあるようです。

ただし、こういう問題点が明らかになるという事は、裏を返すと心理学では改革が進んでいるという事でもあります。

まともに議論されていない、社会学における再現性の危機こそが、本当の危機です。



なお、「質的」と言う言葉を、こういう使い方をするのは別に社会学だけでなく、心理学でも「質的」とは同様の使い方です。細菌は、統計学でも用いますし、数学書でも気の利いた数学教科書なら紹介される場合もあります(たとえば 磯貝英一 ほか『要点解明 統計学 改訂版』、培風館、2019年10月10日 改訂第7刷 発行、P.4 )。

何かの心理学や社会学などの社会科学的な実験において、ある行動をした人の人数とか、そういう数値的なデータを「量的」データなどと言います。人間でなくともよく、たとえば迷路実験であるルートを選択したネズミの数や割合などでも、かまいません[6]

いっぽう、聞き取り調査などによって得られた録音テープなどを書き起こしたものなどは、「質的」データなどと言います[7]

心理学において、心理学が科学的であるためには統計による検証が必要です。だから心理学では、質的データを使う場合もあるものの、量的データのほうに権威の比重が置かれています[8](少なくとも建前(タテマエ)上は)。 量的データに比べて質的データは、客観性を確保するのが難しいのです[9]

  • 質的→量的 の変換

ただし、質的データのなかには、適切な数値に置き換える変換法によって量的データに変換できるものもあります[10]。数学書(たとえば磯貝英一 ほか『要点解明 統計学 改訂版』培風館)でも紹介されている、標準的な方法です。

たとえば、内閣支持のアンケートの「支持する」、「支持しない」は、

「支持する」→1
「支持しない」→0

などの数値に置き換えることで、質的データを量的データに変換でき統計的な計算が可能になります[11]


  • 政治学も統計を迫られている

20世紀初頭の米国シカゴ学派の法学者・政治学者メリアムという学者の理念が、法制度研究において歴史学的な編成を記述するだけでは不適切という理念であり、心理学や統計学を駆使した研究をすべきだという理念をメリアムは提唱している[12]。 このような科学的な態度にもとづく米国政治学は、投票行動や世論の研究において成果をもたらし、1967年には政治学者イーストンらによって『行動論政治学』という分野として成立した[13]



社会学

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「社会学」というのは、社会科の公民分野では、ありません。社会全体の性質について、哲学的というか思想というか、独特の手法で分析していくのが、社会学です。もちろん、学者のなかには、統計などを重視して、現在の社会で起き始めている変化を探るという、高校までの公民や地理の延長上のようなことを研究している学者もいますが、しかし、そのような研究は、あまり社会学の主流になっていません。

「社会科」と「社会学」とは名前が似ていますが、まったく別々の学問ですので、間違えないようにしましょう。

建前上は、社会学は統計などで実証をする学問となっていますが、しかし形骸化しており、しばしば大学の社会学の教育は、その教授の支持する政治運動を正当化する学問になっています。『学問の自由』があるため、このような学者の教育の私物化を排除できません。

出典をきちんと出します。

日本における大学での社会学の問題点を的確に表現したwebサイトが、立教大学の『計量社会学』の科目説明で的確に指摘されているので、紹介します[14]

※ 以下、引用。

心理測定法という学問はあるが、社会測定法という学問は今のところない。そして、調査をしたが分析できない、ということでは研究として成立しない。

 社会の構造や社会的地位をどう測定するかは、重要な問題。多くの社会学は、測定や分析に失敗しているので、あやしげな質的調査や、直感での分析、構築主義などの解釈や印象批評に逃げてしまっている。構築主義などは一見おもしろそうに見えても、具体的な測定法や分析法を作ることができなかった学問である。これでは大規模な社会を的確に研究することはできない。多くの記述的社会調査(質的社会調査)は、データの偏りが大きく「木を見て森を見ず」の不適切な研究となる。

※ 以上、引用。

もし、この立教大学のような人の考え方で、社会学の教科書が書かれて入れば、何の問題もありません。ですが、そうなっていない教科書が多く市販されています。

さて、社会学において、意図的に統計などをあまり使わずに、柔軟な解釈によって分析しようという「質的調査」という手法があります。これはこれで、問題探索の段階では意義がありますが、しかしあくまで探索の初期段階までです。いつまでも統計を無視するのは、断じて学問的な態度とは言えません。

この質的調査が悪用されており、特定の政治思想などに片寄って現実の統計をいつまでも無視したかのような学説が、残念ながら大学レベルの社会学の教科書に残り続けています。

先ほどの立教大の計量社会学の科目説明の続きを引用します。

※ 引用.

なお質的調査も、問題探索の段階では意義がある。ただし、データが偏り社会の、ごくわずかな部分しか見ていないという点と、適切な分析法がないという点については、欠点を克服できていない。この2点について限界があり、これのみでは研究
の最後まで到達して、結論を書き、科学的な論文にすることはできないことは事実である。質的調査のみで、巨大な社会の全体像を把握することはできない。適切なデータがないからといって、いいかげんなデータをもとに研究してはいけない。計量分析ができないから質的研究に逃げる人が多いことも事実だが、そのような姿勢が正しいわけではない。

※ 以上、引用。

社会学教育の現状を問題視して改革しようとしている人もいますが、しかし2021年の市販の大学レベルの社会学の教科書の書籍を何冊か確認したかぎりは、改革が追いついていません。


さて、社会学ではなく心理学の問題ですがw:再現性の危機といって、大学レベルの心理学の教科書などに書かれている基礎的な理論・「法則」などの類が、じつは満足に統計的に追試されていないかもしれないという問題が近年明らかになっており、近年に追試実験をしてみると「法則」の再現性があまり良くなかったりして、主に心理学の分野で大問題になっています。

文献『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』(有斐閣)によると、2015年には、すでに再現性問題の議論が始まっていたようです(Open Science Collaboration, 2015)[15]。また、医学でも再現性が問題になっているようです(Baker, 2016)[16]


どうも心理学では、今までまともな追試をせず、あるいは追試によって反証があっても無視したりして、学会やマスコミなどの流行ばかりに基づいて、満足に追試実験をしないで来てしまった分野もあるようです。

ただし、こういう問題点が明らかになるという事は、裏を返すと心理学では改革が進んでいるという事でもあります。

まともに議論されていない、社会学における再現性の危機こそが、本当の危機です。



なお、「質的」と言う言葉を、こういう使い方をするのは別に社会学だけでなく、心理学でも「質的」とは同様の使い方です。細菌は、統計学でも用いますし、数学書でも気の利いた数学教科書なら紹介される場合もあります(たとえば 磯貝英一 ほか『要点解明 統計学 改訂版』、培風館、2019年10月10日 改訂第7刷 発行、P.4 )。

何かの心理学や社会学などの社会科学的な実験において、ある行動をした人の人数とか、そういう数値的なデータを「量的」データなどと言います。人間でなくともよく、たとえば迷路実験であるルートを選択したネズミの数や割合などでも、かまいません[17]

いっぽう、聞き取り調査などによって得られた録音テープなどを書き起こしたものなどは、「質的」データなどと言います[18]

心理学において、心理学が科学的であるためには統計による検証が必要です。だから心理学では、質的データを使う場合もあるものの、量的データのほうに権威の比重が置かれています[19](少なくとも建前(タテマエ)上は)。 量的データに比べて質的データは、客観性を確保するのが難しいのです[20]

  • 質的→量的 の変換

ただし、質的データのなかには、適切な数値に置き換える変換法によって量的データに変換できるものもあります[21]。数学書(たとえば磯貝英一 ほか『要点解明 統計学 改訂版』培風館)でも紹介されている、標準的な方法です。

たとえば、内閣支持のアンケートの「支持する」、「支持しない」は、

「支持する」→1
「支持しない」→0

などの数値に置き換えることで、質的データを量的データに変換でき統計的な計算が可能になります[22]




2022年3月31日 (木) 21:14‎ すじにくシチュー トーク 投稿記録‎ 58,915 バイト +313‎ なお、「需要」と「供給」の概念そのものは、マルクスの時代には知られており、たとえばマルクス『資本論』でも用語が使われている[23]。 取り消し

を引用。

なお、次編集により削除。

2022年5月22日 (日) 15:14‎ 椎楽 トーク 投稿記録‎ 50,885 バイト −8,030‎ →‎社会学: 前の内容はただの社会学ディスりでしかなく、「社会学とは何か」の説明に全くなっていない記述だったので削除。書き直し(途中)。 


「再現性の危機」「量的」「計量社会学」などの概念を教えられる私の編集と、社会学をほめてるだけの椎楽の編集。

落語家の歌丸は言った、「褒める人間は敵と思え。教えてくれる人、注意してくれる人は味方と思え。」と。椎楽の編集を読んで、なんかスキルとか身につくんですかね?

こういう証拠が積み重なって、現代の大学にある「社会学」は学問ではなく政治運動という事になるわけだ。

アメリカの大学の文系的なコースがもはや政治運動の場所である。アメリカでは「現代の倫理に反する行為の書かれた時代錯誤の小説は読みたくない」とか大学生が主張する運動が盛んになっており、古典を読ませようとする大学を訴訟したりするような事例が頻発している。2020.11.28 "アメリカの大学でなぜ「ポリコレ」が重視されるようになったか、その「世代」的な理由『アメリカン・マインドの甘やかし』(1)"ベンジャミン・クリッツァー プロフィール

アメリカでは文学部だけでなく法学部ですら、「犯罪の惨状を調べるのはショックだから、それを勉強しないで法学を専攻したい」などと主張する意味不明な訴えをする法学志望の大学生もいて、しかもそういった文学部や大学部の学生が社会的に賛美されてしまっている。

法律は日本とアメリカで異なることや、司法試験などがあるので不適切な学生や研究者が日本では淘汰されるが、しかし社会学はそうではない。

近年、アメリカの大学に大きな問題があり、世界的に米国の文系教育が疑問視されている。そのアメリカ式の大学文系の社会科教育の流行にいちばん近いのが社会学である。


wiki「反証可能性」

反証可能性(Falsifiability) カール・ポパー(Karl Raimund Poppr, 1902-1994)の科学論におけるもっとも重要なテーゼ。 科学理論の客観性を保証するためには、その仮説が実験や観察によって反証される可能性がなければならないというもの。


日本の社会学では、フェミニズム運動などの左翼イデオロギーに疑問を抱いて検証をしようとした大学生が落第をさせられる、という現象も報告されている(SNSでの報告なので信憑性にやや不安があるが)。

欧米では、「キャンセル・カルチャー」といって、黒人や女性に不都合な統計解析の結果を述べた文系研究者が大学の職を追放されるという現象も起きている。

物理学者ファインマン「宗教とは信じる文化であり、科学とは疑う文化である」

欧米の文系教育は宗教である。よって社会学は宗教である。


トークページのテンプレ保管庫

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利用者トークページでは、利用者に対する連絡を行ってください。

教科書の単元の記事に対する議論は、それぞれの教科の記事の議論ページで行ってください。

連絡以外の感想を書かれると、ほかの連絡が届きづらくなるので迷惑です。また、確認する私のほうにも手間が掛かります。


なのに当トークページで連絡ではなく感想を述べる利用者がいるので、いったんこのトークページを消しました。それでも改善が見られない場合、何度もトークページを消します。

もし編集者 利用者:すじにくシチュー への連絡などあれば、下記ライン下にお書きください。
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作業用

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教科書の執筆で使いそうな表などを、この節に置くことにした。

おもな税金
  直接税 間接税
国税  所得税
 法人税
 相続税
 消費税
 酒税
 関税
 たばこ税
地方税  住民税
固定資産税
 たばこ税  
プロジェクト 長い形式
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ショートカット
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ウィキペディア wikipedia:* [[:w:]](英語版ウィキペディア)
ウィクショナリー [[wiktionary:]] [[wikt:]]
ウィキニュース [[wikinews:]] [[n:]]
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思い出話

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自己紹介がてら、忘れないうちに思い出話を書く。

  • 2009年。東京の横田基地の米軍ロープ事件の暴露バナシ

『米兵の子4人を逮捕、道にロープ張り女性重傷』、2009年12月5日 16:26 発信地:東京 、2022年2月28日に確認.

この米軍ロープ事件の当時、私は横田基地の周辺に住んでいた。勤務先の工場が横田の付近だったので住んでた。犯人の米国ガキが、私の自転車を盗難している。カギをかけてなかったんで盗まれた。刑事(日本の刑事)に寄ると、盗難自転車が日立物流(ひたち ぶつりゅう)のあたりに乗り捨ててあったとのこと。

当時、あまり政治問題に巻き込まれたくなかったんで黙ってたが、まあ10年以上たってるし情報公開する。そんだけである。他に大したことは知らない。

沖縄の米軍の犯罪とかのあるたび、左翼がしたり顔で「本土が沖縄に米軍を押し付けている」とか言うのを見ると、「じゃあ、米兵のガキの犯罪被害にあった私は何なんだ。左翼は私の存在を侮辱してるのか」と思うので、左翼にも腹立たしい。


  • 2001年頃

2001年頃だが、新宿の紀伊国屋でいつもどおりに理工書を読んでて、造船工学あたりのコーナーで本を探してたら(山海堂とかの本を見てた)、付近の客の若い20歳台くらいの女性(気象関係の仕事っぽい)が携帯電話で、なんか彼女の会社の先輩に相談してて「わたし文系だから、どんな本を買ったらいいか分からないんで、先輩教えてくれませんか? いま目の前に○○(専門書の題名)って本があります。」ってな感じのことを電話で聞いてた。

たぶん女子アナか何かだろう。テレビでは芸人みたいに振舞ってても、実際はいろいろと専門書を買ってきて勉強してるんだろう。その上で芸人とかとも一緒に仕事してるわけだろうな。まあ、テレビの芸能番組なんかを真に受けてはいけない。

新型コロナ騒動はアジア差別

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コロナ報道の結果が、科学的な検証をされないまま将来の学校教科書に載りかねないので、ここで釘を指しておく。

連立方程式と対照実験とコロナ

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「コロナにワクチンが効いたのか?」とか「マスクは効いたのか?」とか色々が議論があるけれど、検証をするには本来なら対照実験をしなければいけなかった。

つまり、日本人どうしで、「マスクをしてない集団」と「マスクをしている集団」を用意して、一定期間、生活させなければいけない。たとえば、ためしに「群馬県ではマスク強制しないけど、栃木県ではマスク強制する」みたいな対照実験が必要。

まあ、国民みんなで同じことをしたがるジャップには無理。「共同責任は無責任」を地で行く偽善者がジャップ。ビートたけしは言いました、「赤信号、みんあで渡れば、怖くない」と。

数学的に言えば、対照実験をしないと、連立方程式において方程式不足なんですわ。

たとえばワクチン効果ならさ、

ワクチンが無いときの死者をA、

ワクチンによって減らせた死者の減少ぶんをBとして(Bが正か負かは置いとく)、

その年の超過死亡数をCとすれば、

A-B=C

なわけだ。で、このうち、Cは死者統計によって後日に分かる。なので未知数はA,Bの2つだけ。

つまり、 A-B=C は二元方程式だ。

中学校で習ったように多元方程式を解くには、その元の数の方程式が必要だ。

で、物理学だの生物学だの実際の現象をあつかう学問では、実験をすることが、方程式を得ることにつながる。

対照実験をしないかぎり、方程式の数が不足しており、方程式が原理的に解けない。

そして「日本国民は赤信号を皆で渡れば怖くない」発想で皆で同じ行動をするので、対照実験が日本では不可能だ。

だから、方程式はいつまでも個数不足であり、永久に方程式は解けないまま。


原理的に解けないままの方程式は、心理学のロールシャッハ・テストのように機能する。

新薬を信じる者は変数Bの効果をプラスと置き、新薬を疑う者は変数Bの効果をマイナスと置く。一見すると対立してそうな両者だが、しかし双方とも対照実験をする気のない連中だというのは変わらない。この程度の連中が日本では医学者ヅラだ。あーあーヤダ、ヤダ。なんでこんな事にも気づかない受験暗記バカ医学部卒どもに研究費が与えられるの?

正直、過去の「ホンコン風邪」とか「スペイン風邪」の報道も、私はもう疑ってる。ああ、wikiの将来の教科書のコロナ記述、書きたくねえな~ってのが本音。

欧米によるアジア蔑視が背景でしょ

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さて、コロナ騒動も落ち着いてきたし、そのうち検定教科書の日本史とかにもコロナ書かれそうだから、私の本音を先に書いておく。「後だしジャンケン」とか言われたくないので。あと、下記のような欧米マスコミに不都合な意見を、歴史の闇に葬らせたくない。

欧米人は、アジア差別が大好きである。2020年のコロナ報道は、当初は、東洋の奇病というようなスタンスだった。これは背後にアジア差別があるだろう。

つまり、「アジアは見せかけだけ工業国だけど、実態は後進国だから、新型コロナなんていうヘンな奇病が流行してるぜ、HAHAHA! その点、ヨーロッパは衛生観念や医学の発達した本当の意味での先進国だから関係ないけどなッ!」みたいな感じが当初の欧米人の本音だと思う。

だから欧米マスコミは、センセーショナルに、死に至るかも奇病が東アジアで蔓延!? かのよう報道した。偽善的な欧米の民衆も、マスコミ報道を喜んだ。工業国の日中韓に煮え湯を飲ませれ来た白人の元・工業国は、留飲を下げただろう。

しかし、まもなくして欧米でもコロナが市中感染してることが発覚し、欧米の偽善者は引っ込みがつかなくなった。欧米は被害者ヅラしてるが、単にアジア差別者の欧米人が、引っ込みがつかなくなっただけであろう。

そして日本の出羽守も、欧米人がナチュラルにアジア差別してる事を周知させたくないので、コロナは恐ろしい難病だという事にした。そのほうが出羽守にも好都合だから。

日本は国自体がアメリカの属国のアメリカ出羽守なので、日本も欧米に追従した。

まあ、日本は資源が無い癖に人口過密の身の程知らずのデブ国家ですんで、欧米からの輸入に頼らざるを得ず、まあデブ日本国が悪い。団塊世代やその前の世代が、年金やら老後の収入欲しさに、自分さえよければと、国家の農業生産力やらを無視して子供を生んだ結果だ。

病んでるのは人間の精神ですね。

結局、日本では超過死亡数が減少という結果だった。まあ、欧米では超過死亡が増えた国もあるらしいけどさ。あと、そもそも欧米の死亡統計って正確なのかね? 移民とか貧困層の死亡統計とか、欧米はかなり精度が悪そうな偏見がある。とくにアメリカ。新自由主義やらで公共予算を色々と減らしてる国だし 、皆保険もないアメリカに、精度の良い死亡統計なんてあんの? コロナ前から死亡していた人が、コロナ時に死亡したことにされてるだけじゃないのって疑念もある。日本でも、年金とか欲しさに死んだ老人を生きてることにして逮捕される貧困層とかいるしさあ。


戦前の日本では軍人が崇拝された。平成以降の日本では、医者が崇拝された。

「マジメで勉強家な軍人さんが、日本の財閥を懲らしめる」という留飲を下げる戦前の愚民、

「マジメで勉強家なお医者さんが、日本の財界の既得権益を規制する」という留飲を下げる戦後の愚民。

なんの違いも無い。

自称アニメファンの歴史捏造をただす

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コロナの後知恵ニワカと同様、アニメ・マンガ文化も95年のエヴァのヒット以降、後知恵ニワカの知ったかぶりがヒドい。ここで自称アニメファンの歴史捏造をただす。

90年代前半にあったとされる「オタク差別」って、今で言うキモメン差別のことで、アニメ差別じゃないよ。

「オタク文化」をアニメ・マンガ・ゲームと言い出したのは、あれは96年くらいにアニメ評論家の岡田斗司夫が言い出したことにすぎず、90年代前半当時の「オタク」の言葉の意味とは違うので。90年代の前半当時、「オタク」の意味はどっちかというとアイドルマニアが近い。実際、芸人の宅八郎がそういうイメージで芸能活動してたし。まあ、語源的には「オタク」はコミケで同人誌とか売ってたヤツのことなんで岡田の定義にも一理あるが、しかし95年以前は普及していなかった定義。

実際、私の周囲では、アニメファンの同級生女子が90年代前半、「オタッキー」という言葉を「ネクラ」みたいなニュアンスでそういう意味で使ったことある。自分らアニメファンのことだとは思ってない様子であった。サブカル評論家のコラムニスト・竹内義和が岡田以前の「オタク」をどう言おうが、そんな評論家自体、評論マニアにしか知られてないわ。私はゴーマニズム宣言で始めて竹内を知ったくらい。

90年代前半、仮面ライダーなんて当時はオッサン以降(団塊~バブル世代あたり)しか知らない時代遅れの作品だけど、でもパロディの仮面ノリダー(とんねるずの番組中の特撮っぽい寸劇)がウケた時代だし。

ゲゲゲの鬼太郎で有名な水木しげる作品の「あくまくん」のパロディで、ナン魔くんなんてウッチャンナンチャンのパロディ劇もあったし。


90年代の初めのころのTVアニメって、ジャンプアニメ、スポコンアニメとかの全盛期だから、「アニメ視聴して差別された」って事例はマイナーよ。 「主語がデカい」ってヤツ。あるとしたら、せいぜいOVA差別とかエロマンガ・エロゲー差別とか。

実際、エヴァンゲリオンが95年にヒットするまで、「TVアニメではジャンプやサンデー・マガジンものしかウケないと思われてた」通説がエヴァのヒットで覆されたって、と学会あたりに評論されてたくらい。

それですら、95年以前にもジャンプでOVA版ジョジョとかOVA版ファイナルファンタジーとかの宣伝もしてたし(ヒットしなかったが)、まあ、そういうの。OVAについてもテレビでOVA版ロードス島戦記とか放映されてたし。宇宙皇子(うつのみこ)をどこかで見たなあ。

90年代前半の当時のチビッコが必ずしもジャンプを定期購読してるわけではなく、たとえば同級生ではアニメ版のドラゴンボール見てるけどジャンプ買ってない子もちらほら見た。我が家は金持ちだから兄弟がジャンプ買ってたけど、世間はそうではないので。

80年代には「東映まんが祭り」とか言ってたのが90年代には「OVA」という単語が少年ジャンプに出るくらいにはアニメが独自の文化として認知されてたくらい。

NHkで1990年のナディアの前あたり、アニメ三銃士って作品があったんですが、うちの小学校に警察の音楽隊の人たちが吹奏楽で演奏しにきてくれて、アニメ三十四のOP曲の演奏をしてたくらいの時代ですよ、うちの小学校では体育館で。たぶん他校でも同様に巡業してたんだろう。 もうその時代からアニメはそこまでの権威があった時代。

スポコン作品の流行についての事例は、うちの周囲では、バスケ部(小中)のヤツがスラムダンクのページの切り抜きをファイルに入れてたなあ。なんかそれ見て部活の気合を入れるらしい。

地域によって文化の差はあるだろうけど、少なくとも東京の小中学校は私の近辺ではこんな感じだった。


なお、95年当時、サンデーで名探偵コナンが連載開始したあたりで、私の身辺ではヤンキー不良が学校(小中)にコナンの単行本1巻を持ち込んでたなあ。そういうのよ。

こういう状況なので、「サンデー読んでてイジめられた」とか、どこの世界の出来事よって思う。80年代はどうか知らないが少なくとも90年代前半では、あるとしても稀有な事例。コナン連載開始の少し前、少年マガジンで推理モノの金田一少年がドラマ化して一般層にもヒットしたので、ヤンキーとかもコナンを読む土壌が出来上がってたくらいだし。

91~94年ごろガンダムを見てたメイン層は、女性ではなく男児だし(SDガンダムとかGガンとかあったので)、なのに「ガンダムの主要ファンは女性」とか知ったかぶり言うニワカも多いし(それは初代ガンダムとガンダムWの話だ)。

なぜそんなことを覚えてるかというと、周囲の男子同級生が下ネタで、Gガンダムの決め台詞「俺のこの手が真っ赤に燃える」をパロって、「俺のチンコが真っ赤に燃える」とか言ってて、その後もなんか下ネタの口上を続けてたので、まあ覚えてる。なにが女子人気だかニワカが。


うちの周囲でオタク文化関連のイジメを見たのは、学校にスレイヤーズの小説の単行本を貸し借りのために持ってきた後輩(部活のバトミントン部の後輩)が、イジメっこに単行本を破られたってヤツ。でも後輩は「オタク差別」という文脈では話さなかったなあ。単に「イヤなヤツが嫌がらせをしてきた」くらいのニュアンス。

なお、ジャンプ・マガジン系でないアニメ絵、いわゆるオタク系のアニメ絵は、スレイヤーズなどのコミカル系の絵柄のもあったが、しかしどっちかというとリアル系が主流だった90年代前半。ほら、なんかロードス島戦記とかOVA版・飢狼伝説とかアニメ版スト2とか、なんかああいう路線だったんですよ90年代序盤のアニメ絵の流行が。

オタク向けアニメのスポンサーの角川書店が当時90年代前半、ロードス島とかアルスラーンとかサイメビとかのリアル絵の方向性だったんで、あんまエヴァ的な美少女アニメっぽいの関係ない。

あ、97年ころ近所のオモチャ屋で、エヴァのグッズを欲しがる小学生の男児に、その子に親が「少女アニメでしょ? 違うの買うほうがいいでしょ」って言ってた。エヴァの絵柄はオタク絵ではなく少女アニメに見えるのが一般層ですからね。自称アニメファンの歴史捏造主義者のサギ師どもは知ったかぶりしないように。

スト2でチュンリーを使ってた男子が「オカマ」とからかわれたのは小中でよく見たが、それアニメ差別の有無とは直接の関係ない。

90年代前半の時点で、金田一とか東京大学物語とか、マンガ原作のドラマとかもあったんで、「マンガを読んでてイジメられ」うんぬんってのは違和感だし、まあネットのデマ屋・運動屋の作り話だろう。

なお、東京大学物語があったので、ヤングジャンプとかヤンマガよりもスピリッツを立ち読みする土壌もあったくらい。当時まだヤングジャンプのサラリーマン金太郎はドラマ化してないし。

私が独協高校に通ってた時、小中ではマンガを描いてた同級生を見かけたけど独協では見かけなくなったので、偏差値の高い連中はアニメやマンガの創作をしなかったのが多いかもしれないが、しかしそれは偏差値の高い人が単に受験勉強ばかりしてるのが実態って話であり、オタクのイジメどうこうとは関係ない話題。

そもそも少年ジャンプで90年代前半の時点でもう「るろうに剣心」っていう、なんか昨今のアニメキャラみたいな頭デカくて瞳の大きいキャラの作品が連載してたのが90年代の前半だし。

だから絵柄どうこうでファンがイジめられるのはそれこそスレイヤーズくらいに差別化の激しい絵柄でないと、もう成り立たない時代に90年代前半で到達してたほど。

そもそもエヴァンゲリオンっぽい絵柄はテレビでもうNHKが1990年ごろにナディアで放映してたわけで(エヴァとナディアのアニメ制作会社が同じ)。エヴァ・ナディアっぽい絵柄のほうが実は90年代前半では一般層向けであり、そもそもジブリ絵が元ネタだし、だからマンガ雑誌でも絵柄の似ている漫画家さんがチラホラいるわけ。YAWARAの作者さんとか、セクシーコマンド外伝の作者さんとか、サザンアイズとか、ほら色々と。

そういうジブリ系統の絵とは差別化しようと思ってか、ロードスとかスレイヤーズとか、ああいう模索的な絵柄が始まったんじゃないかねって思うくらい。


90年代当時の雑誌のコラムとかラジオ放送とか、真に受けちゃダメよ。95年以降の事例だけど、「あしたのジョー」がNHKのマンガ評論番組で話題になったとき、「連載時のジョーの生気あふれる横顔が年取ってもう書けない」ってちばさんインタビューで言ってたけど、後日に他局のラジオ(アニメ系ラジオ)でちばさんのインタビューと同じこと言ってる自称「ファン」のイラスト趣味の若者がいたから。つまりラジオ局が取材のために、ウソ情報で「リスナ-の意見ですが」とか流すんですよ。

2010年以降だけど、大学教育問題の放送で、ある女子大には経済学部がないのに「○○女子大の経済学部3年生のAさん」みたいにマスコミがモザイク紹介して、ネットでツッコミされた事例もある。

要するに、アニメ雑誌やアニメ系ラジオなどのマスコミは取材などの都合でウソをつく。そして、95年のエヴァのヒット以降、それ以前はオタク産業なんて目もくれなかった層が、オタクを自称だし、そいつらがアニメ雑誌などのマスコミのウソを真に受けた。

WW2戦後に平和主義者ヅラするウソツキみたいに、平成もウソつき野郎のほうが人数が多いので既成事実化されるけど、ウソはウソです。大体、ゲームボーイのサガ・シリーズの絵柄が典型的アニメ絵だしねえ。

他、有害図書規制運動とか90年代前半はあって、遊人(マンガ家さんの名前)とか話題だったし、当時のゴーマニズム宣言でも遊人さんの名前が取り上げられるくらいには知名度あったし、私も学校でヤンキーが遊人さんのエロマンガを回し読みしてるのを見た。

でもそれはオタク差別うんぬんとは別問題。ポルノ規制とか自主規制問題とかの問題。ゴーマニズム宣言の小林よしのり自身が、当時の小林の連載で乳首シーンとかが規制されたって報告をゴー宣であげているくらい。なお、小林はオタク差別をしてた側であり、具体的にはガンダムとかをイメージ例にして批判してる(当時のゴー宣で確認できる)。なので、まあアニメ差別はあったと思うが、そもそも小林自体がマイナーだし、小林にも小林の感想を言う自由があるからねえ。その小林もアニメ会社を設立したし、むしろ当時はそういうアニメ投資ブームの側面もあった。だから他クリエイターだがOVAとかあったし、ジャンプ作品などもジョジョとかOVA化したくらいなんであって。

要するに、95年のエヴァのヒット以降にカネの匂いでアニメ産業に参入してきたニワカ連中が、岡田斗司夫の理屈を真に受けただけ。でも今でもそいつらニワカどもが商業の世界でカネを動かしてるので、ウソが既成事実化されている。小中学生の子供はそもそも18禁ゲームなんて買えないから関係ない子が大半なのに、「そのファンでイジめられた」とか言い出すウソツキも多いからねえ。

なお、宮崎事件で実際に規制されたのは、ホラー産業。ジェイソンとかフレディとかアレ。これは当時のゴーマニズム宣言で確認できる。評論家の中にはアニメの悪影響がどうこう言ってた人がいたのかもしれないが、少なくとも私の周囲の小中学校ではその評論家の影響の大きさを確認できていない。

不良が遊人を読むわ名探偵コナンを読むわ、アニメファンの同級生女子がアイドルオタクを差別するわ、警察の音楽隊がアニメ三銃士を体育館で吹奏楽演奏するわ、、自称「オタク」の通説とは逆。

これは私の体験なんで、文句を言われる筋合いがない。テレビ朝日の朝生で評論家がアニメの悪影響うんぬん言ってたらしいが、当のテレビ朝日がアニメ番組を流してるからねえ。

文句をつけてくる連中に、当時の自身の体験を語れるヤツを見たことない。そういう身体性のなさが気持ち悪い。「あんた本当に日本人? 当時は外国(中国韓国)にいたんじゃないの? 外人がカネの匂いで日本の古参のアニメファン面してんじゃないの?」って思う。


根本的には、生産者サイドの漫画家やアニメーターなどの内情は知らないが、少なくとも当時の東京の小中学生といった消費者サイドでは「消費者サイドではアニメファンはテレビっ子というメジャー文化の消費者の一種にすぎず、イジメをする側の者も含まれていた」のが実情。

マイナー層が見てたのはアニメではなく、マイナー向けのゲームとか(当時、女神転生すらマイナーだった)、マンガならヤンマガとかもマイナ-だった(否中のブームまではヤンマガはマイナー)。

アニメとかマンガ「東京大学物語」とか見てた同級生に、スーファミのソフトの貸し借りで、真・女神転生を貸そうとしたら、「あ、英語も多くて難しそうだからイラナイ」って断られたくらいには女神転生はマイナーだし、アニメファンはそんなゲーム文化なぞ理解する気はないのが実情。なお、メガテンを断った彼はロマサガ1を購入してクリア済み。そういうの。英語が多いゲームはそれほどまでに嫌われる。別の同級生はイース3(スーファミ版)が同じ理由(英語が多いのはイヤという理由)で貸し借りを拒否された。その彼もロマサガ1は購入してクリア済み。


アニメファンやらマイナーな漫画ファンの中にも不良やイジメッ子は普通にいたし。だからドラクエ3はカツアゲされる。スト2関連もよく被害にあったと聞いたなあ。私が聞いたのは、地元のゲーセンでスト2が違法プレイされたって聞いた。本来なら50円入れないとプレイできないんだけど、筐体を蹴ってコイン機に衝撃与えて誤認させてスト2をプレイする不良のハナシを聞いた。

むしろ、当時のなんのエビデンスも出さずに「ネットでアニメファンが95年以前は差別されたといわれてるから差別されたに決まってる。空気よめよ」みたいなエビデンスなしの押し付けをする連中の発想こそ、まさにイジメッ子の行動パターンなのが実情だろう。


談話室の保管庫

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過去に著作したページの控えのリンク

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※ 1980~1990年代の旧課程の理科用のwikibooks教科書の控え用です。(控えが無いと、調べなおす際に図書館から取り寄せることになる、という個人的事情があるので。(現在では旧課程の教科書・参考書が絶版なので。) なお議論ページでの現行2020年の『小学校理科』からのリンク除去およびリダイレクト、白紙化などには異論なし。追認します(今知った)。)

なお、執筆当時の2003年の参考文献として、学研の小学生むけの教科事典の1980年代版を主に参考にした。(その他、当時の児童書の理科の書籍など。)現在の学研の教科事典には、その内容が無いので、現行の事典では再調査不能なので、本サブページにて自作教科書の控えを作成する。

リンク先ページのほうでは、参考文献を紹介していない。(小学生には不要な情報だし、混乱の原因になるので。そもそも小学1年生は『参考文献』という用語すら知らない。)

なお、執筆当時の私の編集上の趣味も入ってるので、完全には1980年代カリキュラムには準拠していません。


※ 作業中の保管場所

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現在は作業中ドキュメント無し.

私の著作権の放棄の宣言

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私が今までウィキブックスおよびウィキペディアおよびウィキペディア姉妹サイト(ウィキバーシティやウィキニュースなど)で著作したコンテンツを、すべて、著作権および著作者人格権、著作隣接権など(以下、「著作権など」と略記)を法律的に可能なかぎり放棄します。また、私の今後の投稿でも同様に、私の投稿は法律的に可能なかぎり、著作権などを放棄します。

利用者ページだけでなく、一般の教科書の記事でも、私の著作した部分は、すべて、著作権などを放棄します。

より具体的に言うと、私のウィキブックスおよびウィキペディアなどでの著作物に限り、法律での著作権の保護期間50年(または70年)を待たず、私の著作物は保護期間を0年として良い、という事です。

引用などの際、ウィキペディアおよびウィキブックスなどウィキペディア姉妹サイト内私の著作した文章についての引用は、いちいち出典を記述する義務もありません。 また、私への連絡も不要です。


私の著作した記事を、法的に可能なかぎり パブリックドメイン(public domain) または クリイエティブコモンズ0 (creative commons 0)または、それに類するライセンスとして引用・使用することを許可します。


これは、私自身のためでもあります。

私がwikibooks以外の一般のサイトなどで、自分の書いた記事を引用する際、いちいち自己の著作だと証明したりの手間や、出典のために記事の版や時刻を調査して明記するのは、私にとっても負担なのです。

さて、プログラミング言語の記事などで私の書いたコンピュータ・プログラムのコードにも、著作権の放棄の宣言は、及びます。つまり、私の書いたソースコードを、あなたが自分のソフトウェアに組み込んで使用する際、いちいち出典としてウィキブックスなどの版をクレジット欄に記述する必要は無いのですし、連絡なども不要です。(これは私のためでもあります。なんで自分の書いたソースコードの出典を、いちいち記載しないといけないのか。同一人物であることの証明も、煩わしい。しかも、教科書レベルの初等的なコードなのに出典を明記するのは、はなはだ煩わしく不便である。プログラミングの際に、そんな事務的なメンドウなことで、わずらわされたくないのです。)

なので、私の書いたソースコードのライセンスを、 MITライセンス(w:MIT License) または パブリックドメイン(public domain) または クリイエティブコモンズ0 (creative commons 0)またはWTFPLライセンス(勝手にしやがれライセンス(w:WTFPL))、それに類するライセンスとして組み込み・使用などをすることを許可します。

このため、私の書いたソースコードについてw:ライセンス感染を気にする必要は無いのです。


また、私の著作物をどんなに侮辱しようが、その侮辱が刑法の侮辱罪など著作権法以外の法律違反に相当しないかぎり、私への敬意は不要です。つまり、私のウィキブックスでの著作物を利用する場合、私への敬意は不要です。このような意味で、私は、ウィキブックスおよびウィキペディアなどでの著作者人格権も放棄します、という事でもあります。


ウィキブックス日本語版だけでなく(およびウィキペディア日本語版だけでなく)、外国語版も含め、私の著作した箇所はすべて、著作権などを法律的に可能なかぎり放棄し、また、これからの投稿も著著作権などを放棄します。


なお、私がウィキペディアなどで投稿した版だからといっても、投稿内容が引用などの場合があり、引用箇所については私の著作物ではなく、引用元の著作者の著作物なので、パブリックドメイン化は適用されません。また、荒らしに対する差し戻しなどは、荒らされる前の元の版およびそれ以前の投稿者たちの著作物であり、私の著作物ではありませんので、ご注意ください。

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また、画像などは、その画像を制作した著作者による著作物であり、私の制作した画像でないかぎり、その画像は私の著作物ではありませんので、ご注意ください。


このページの利用法への文句への反論について

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よく、新参のウィキペディアンが、私のこの投稿者ページの長い記述について、「ブログみたいな場所と勘違いしてるんじゃないか?」みたいな批判します。

ですが、私はかなり多くの記事をwikibooksで書いていますので、この内容はほとんど、それらの記事の執筆時に考えていたことや、あるいは今後の執筆をするための準備のものです。

たとえば、私は

高等学校商業 経済活動と法
高等学校工業 工業材料
高等学校工業 電子回路

などの各単元の主著者です(2019年の時点)。

私は小学校や中学校のwikibooks教科書も書いているので、新参の人はてっきり私を小中レベルの文系科目の学力しかない人だと勘違いして、 その勘違いの上に、 「素人が知ったかぶりの評論をしている」とでもいいたげな批判を、議論ページやトークページでしますが、しかしそれらの批判はすべてピント外れです。

共著なども含めれば、私の著作は

高等学校化学II
高等学校生物/生物II

などの多くがあります。

そして、これらの著作を書くために、大学レベルの理工書なども購入したうえで書いています。(実際、該当するwikibooks教科書の単元のいくつかに、そういう参考文献の紹介をしている。2019年の時点では。)

そういった大学レベルの学力があるうえに、さらに私は小中学校の検定教科書を購入して読んだうえで、ようやく私は、このページにwikibooks教科書側には書けない個人的な解釈などを書いているのです。

私に偉そうな文句をつけるなら、最低限、大学レベルの専門科目の勉強をしたうえで、検定教科書も読み込んで、さらにwikibooks教科書に検定教科書などの最新版の知見なども加えられるようになった上で、文句をいいましょうね。自治厨の口先ばっかし君たち。

自分用メモ

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スタブの

『このページ「高等学校世界史B/ティムール朝とオスマン帝国」は、書きかけです。』

とかのメッセージで、どこがどう書きかけなのか、書いた本人の自分でも忘れる。なので今後は、どこが書きかけなのか、追記しておこう(特に専門外の文系分野)。暗記科目とか、ほんと、まったく内容を覚えてないので、書きかけがどこかも完全に忘れる。


よく忘れるタグ一覧
<references/> スラッシュの位置は最後。
<!-- 非表示タグ -->


文章の書き方

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「頭痛が痛い」とか「馬から落馬する」とか、そういうのを二重言葉といい、これを文法的に間違ってる表現だと批判する文系の人も多い。

だが、それは文系だけのローカルなルールである。

講談社ブルーバックス『論理が伝わる 世界標準の「書く技術」』(倉島保美)では、文章が長い場合や文構造の複雑な場合などは、二重言葉を必要に応じて用いるべきだと言っている。

文系学屋の自己満足の表現技法は、実社会では役立たない。

文系の学会や出版社などだと、二重言葉を直されるが、しかしそもそも、その文系の業界そのものが、多くの実社会では不要扱いされているのが、社会の実情である。

レポートの書き方などの指導法も結局、理科系の人の書いた解説書のほうが、上流社会では信用されている。


あと、別の書籍だけど「象は鼻が長い」という文章の主語は「象」なのか「鼻」なのかという議論があって、「象は」は主語ではなく「主題」であるという学説もある。(三上文法でよくある議論)

欧米式の主語という概念だけでは、日本の文法の主格は説明しきれないという説もある。

こういう「主題」という観点を考えると、必ずしも「頭痛が痛い」は文法的なマチガイとも言い切れないとも、持論を述べておこう。


高校数学のリーマン積分の件

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駿台出版の参考書では微分積分をリーマン積分の定義に基づいて紹介している。しかし、ウィキブックスでは、それを紹介すると差し戻しされる出鱈目っぷりである。

https://ja.wikibooks.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%8F%97%E9%A8%93%E5%8F%82%E8%80%83%E6%9B%B8/%E6%95%B0%E5%AD%A6&oldid=139024

犯人はIP「115.37.87.204」。

このIPは、自分が駿台の数学講師陣よりも優秀だと勘違いしているのだろうか??

このIPは「「大学受験参考書」なので、大学受験との関連が不明確な記述を除去」とか言っている。(笑)

なお、米国の権威ある数学教科書 Calculus: Early Transcendentals では(大学教科書だが、米国では高校の段階で大学数学を先取り履修できるようになっている)、まさに上記wikiの記事のようにリーマン積分で教えており、リンク先wikiと同様に2次関数を例に解説している。(米国ではそもそも高校段階では微分積分を教えないのが基準とされている。)

P2で積分は区分求積こそが定義だと教えており、P360で具体的な計算をしており、二乗和の級数の公式もP362で導出している。一方、日本では、大学でもこれをやってない。少なくとも法政大学と東京電機大学はそうである。


もはやリーマン積分による積分の導入は、国際標準である。(残念ながら日本では、高校はおろか大学ですら、この原則がおざなりにされているが・・・。日本の学校の数学教育は劣悪である。日本で高度な教育を行えているのは、学校ではなく一部の参考書である。)

なお、その米国教科書では逆三角関数も教えられている(ネット上で拾ったのでは P.68 に逆三角関数の解説がある)。一方、日本はそうではない(工業高校だけで逆三角関数を教えるのみ)。もはや日本の高校数学は、国際的には、あまり高度ではない可能性がある。ただし、大学生も使う米国教科書なので、高校生が読み終えてるとは限らないことを考慮する必要があるが。なおP214には逆三角関数の微分積分あり。

P.110 を見ると、イプシロン-デルタまで書かれている。 一方、日本では、大学でも工学部などではイプシロン-デルタを習わない。もはや日本は大学数学ですら、アメリカの後塵を期している。

P257 では双曲線関数まで。


あー、もしかしたら米国では、積分の計算練習の教育時期って、かなり後回しっぽい。先にイプシロンデルタとか双曲線関数とかまで教えて、あとから積分を計算練習するっぽい。

だから微分方程式を教える際は、積分の記号を使わずに教えるっぽい。

積分とは別に、「逆微分」とでもいうべき ANTIDERIVATIVE という概念があるっぽい。P.345


削除申請を出されているので、サブページに保存しておこう。

利用者:すじにくシチュー/リーマン積分に基づく高校数学の微分積分


検定教科書用のページからリーマン積分の記述を除去する議論は、まだワカルよ? たしかに検定教科書には無いが。

でもさあ、ワルいけど、駿台出版とかモノグラフのレベルもわからない人に、口出しされたくない。そんぐらい、一般の書店で内容を確認できるでしょ。

バカの一つ覚えで、駿台出版とか予備校とかの状況も分からずに、「検定教科書用で消されたから、参考書ページでも消すべきなんだ!」と思ってそう。

自治厨ユーザーをバカにして悪いが、でも、本体の管理人がそういう出版状況の説明を自治厨にサボっているのが悪いんだよ。というか、私はすでに過去の議論で何度も説明している。


思い出話

法政大学で習ったことなんだが、教養部の解体の後の時代だったんで工学部カリキュラムがコロコロと変わった時期があったんだが、 数学の授業の小テストで、授業で習ってないことが出たことがあったんだが、「授業で習ってないです」とテスト後に学生が反論すると、数学者の教員(清水さん)は、「君たち、高卒ですか? 大学ってのは自分で勉強する場所ですよ」みたいなことを言っててさ。

まあ、同感である。

そりゃ、さすがに大学1年生に微分幾何学(3年くらいのレベル)とか関数解析とかは無理だけど、配当年次の教科書の1ページ先くらいは勉強してほしいもんだ。

だけど、今の日本政府の考えるバカげた大学入試では、そういう勉強法は不利になるんだよなあ。今までもそうだし、これからもそうだ。

そしていまや大学教員の中にも、授業範囲が狭いかわりに、やたらと難しい難問を出すゴミ学者も多い。日本の教育制度では、そういうバカが出世する。

似たようなことは、獨協高校でも言われたなあ。z会の本の査読も勤めている英語の教員I先生に、「お前ら、実業高校の生徒じゃないんだからさあ、授業の予習復習くらいしろよ」って。

まあ、理系の私にとっては、「獨協高校では英語以外の予習の時間が確保されてない」という不満はあったが。だけど、今の日本政府の考えるバカげた大学入試では、そういう勉強法は不利に(以下略)


志村ケンなどとの遭遇

東京の書店の紀伊国屋の新宿本店で理工書を買ったとき帰り道でさあ、「ほかにも本屋がないか探してみよう」と思って、地下道ではなく地上を歩いてたら、芸人のビートたけしと志村ケンのロケに遭遇したことあるんだねえ。タケシムケンの収録。

新宿の通行人のタバコの煙が口に入って不快なのでツバを吐いたら、遠くから見ていた志村だかビートに、「あ、ツバはいた。うっわ、新宿、ガラわるい。」って言われたの、私。

その何年もあと、志村は、なにかの雑誌のコラムで「俺の志村動物園のコスプレが『かわいい』って言われるけど、信用しちゃダメだ。年寄りの俺がかわいいわけないんだから」って言ってた。

私も文化祭で女装させられたときに、芸人の同級生に「かわいい」といわれたが、まあ、志村の言うような意味なんだろうなあ。


芸人といえば、東京で電車に乗ってるときとか、ときどき小林よしのりみたいなオッサンを見かけたことあるが、でも話したいことは別にないし、私は理系なので話題も合わないと思い、声かけない。

あ、そういやあ、三鷹の当たりで、某アニメ監督みたいなのを電車で見たわ。私、留年してたんで昼ごろに登校してたら、時間帯が重なったらしい。で、近所の高校生が電車で「あ、あの人、○○(有名アニメ)の△△さんじゃね」とかヒトヒソ話をしてた。


流体計算はスパコンの元ネタ

ゲームプログラミングの3Dの記事で書いた、流体計算うんぬんの元ネタは、法政大学のころの体験談ね。

文化祭のときの見学で、なんか航空研究会みたいなのがあって(鳥人間コンテストとか出てる大学ですんで)、

すでに法政の学生だが見学者としての私が「流体計算とか、どうしてるの?」って航空研の部員に聞いたら、

部員いわく「私は設計者じゃないので詳しくないですが、コンピュータで計算してるようです」って聞いて、

私は「どんなコンピュータ?」って聞いたら、

「たぶん(マイクロソフトの)フライトシミュレータじゃないですかね?」(実際は違う)って答えやがって。


で、後日、通ってた電機工学科の教授がその同好会の担当教授を兼ねていたんで、「いや、実務的な流体計算ってのは、スパコンとか使って時間がめちゃくちゃ掛かるんで、市販のパソコンなんかじゃ航空機の精密な数値シミュレーションは無理」って教授が訂正してさ。



1970年までの高校数学について

なお、1970年までは検定教科書でも、高校2年の段階で区分求積法に基づく積分の定義を教えていた[24][25]

1970年まで「数学2B」で無限級数を教えてて、その延長で区分求積法を教えてたとの事。


なるほど、だいたい、背景がつかめてきたぞ。

つまり、1970年以降、バカな教科書会社が、カリキュラム変更で文科省に忖度したんだ。そして、バカな文部省(当時は文「科」省ではないので)も、権勢をアピールしたくって、その忖度を受け入れたんだ。


おそらく、指導要領の「区分求積法は時間が掛かるので、教えなくてもいい」的なカリキュラムに柔軟性を持たせようとした改革案が、なぜか「区分求積法を教えてはならない」な硬直的な教育指導に置き換わったんだろうな。

アレだ。小学校の掛け算の順序問題とかああいうのと同じで、横並びの教科書業界と、(2000年以降こそ歴史教科書の騒動でメスが入れられたが)癒着と(省庁への)忖度の産物だ。

馬鹿じゃねえの、文部省。


区分求積法で使う程度の無限級数なんて、文系生徒でも分かるわ。うちの出身高校の文系女子生徒でも、そんくらい計算しとったわ。

「無限級数」と言うと難しそうだが、単に(20世紀当時は)数学1Aで習う「級数和」の公式の分母に、数学2Bで習う無限を代入して、1/∞ になった項をゼロ 0 に置き換えるだけであるので、なんも難しくない。


なるほど、だいたい、背景が分かってきたぞ。世間評の「理系の高校生・学生が優秀」とか言うのは、この1960~70年の頃のハナシか。

この1960年代の時代、高校の微分積分の教育レベルが高くって、派生的に、物理の高校3年では、微分方程式など大学教養理系レベルの話題にも言及する事になるだろうから物理のレベルも高く・・・とか、物理のレベルが高いので、化学や生物でも発展的な話題を・・・とか、そういう時代のハナシだ。


しかしその後の1971年以降のカリキュラム改革で、高校数学カリキュラムが暗記バカ向けに変更されたので、バカ受験生でも理系の大学に進学するようになった事を、企業が分からなくって(日本の企業経営者には、大卒採用してるのに自身の理系の学力が中学レベルのバカ文系社長が多い)、で、就職採用で偏差値順にバカを採用するになったわけか。そして日本の東証上場企業に、バカが大卒の技術者・研究者として就職。

ナゾは色々と解けた。

ウィキブックス日本語版への抗議

[編集]

まず、根本的な前提として、ウィキペディアなどでの選挙や、記事のあり方をめぐる投票は、本来は人気投票の場所ではないですが、しかし実際には、編集者どうしの人気投票の場になっています。

ウィキペディアには、あまり専門知識が無いのに、管理者になっている人も、ちらほら居ます。そういう人に、過去に私は「編集が間違っている」と、あるウィキペディア管理者に文句を言われたこともあります(当時は、別の一般編集者が私を擁護してくれた)。「管理者」というと、頭がよさそうですが、しかし実態は、ネットで拾ってきた程度の情報しか知らない人が管理者をしています。まるで、2ちゃんねらー連中や、ツイッター連中です。

そして、管理者選挙などで投票をする有権者の人も、2ちゃんねる連中と同じような知的レベルなので、あまり専門知識の無い人が、管理人に選ばれます。

このため、ウィキ系のプロジェクトでは、専門知識の有無ではなく、人気とりの活動をしている人が、チラホラいます。


そういう人は、たいてい、自分では記事を書かずに、他人の書いた記事にばかり文句をつけます。しかし、文句が多い割りに、いっこうに彼らは自分では記事をロクに書かないのです。

また、もし専門書などの文献などで明確なマチガイであると主張できるなら、その文献を出すべきですが、しかしそれもしないです。単に、自分がわからないだけなのに「間違っている!」と記事を消す人も、よくいます。

そういう、文句ばかりで記事を書かずに手を動かさないのに、あたかも品質管理の仕事をしているかのようなフリをする人が、ウィキペディア系には多くいます。(おそらく、選挙などの際に、自分の影響力を増したいのでしょう。なので、実績を作っているツモリなのでしょう。)


具体名を挙げると、文句はつけるけど、対案を出さない、困った人ユーザーとは、たとえば「令和少年」や「峰浦景勝」である。 「よらしむべし、知らしむべからず」とでも思ってるんだろうか。何様のつもりだろうか? 議論ページで、彼らに抗議を出しても修正しないので、利用者ページで私の声明を出すことにする。

いっぽうユーザー「椎楽」は私をよく批判するが、一応は私が対案を彼に求めたら出すので、一応、教科書を書く気が本気であるのはワカル。

この私の抗議は、他ユーザーへの「個人批判」といわれるかもしれないが、だったら、私の受けている、対案の無い「批判」もまた、私への個人攻撃である。


彼らの精神の特徴って、「『好き嫌い』と『真偽』の区別がついていない」ってことなんだよね。


「マジメな俺が不快感を覚える記述だから、間違ってるハズだ」って発想。

まあ、私も批判的・挑発的な書き方を編集でよくするが。


でもね、私が批判的に書くのは、論点を分かりやすくする目的なんですよ。

そもそも官僚答弁や公文書みたいに、あいまいだったり玉虫色な表現で教科書を記述してたら、教育にならないでしょ。

「おそらくは ~~~ であるかもしれないという説もあるといわれている・・・」とか教科書で書いてたら、ロクに教育にならないじゃんかよ。

で、実際に社会科の自衛隊の記述なんて、まさに検定教科書が婉曲表現なワケだ。


まさかね、私が婉曲表現をできない人だと勘違いしていないか?

あるいは、「婉曲表現のできる自分は賢い!」とでも勘違いしてない。


あと管理人は、管理人業務をサボルをヤメロ。たとえば、削除申請のページで、削除するのかしないのかの判定が放置されているページが、いくつもアル。

もし、存続の価値があると思うなら、削除申請を出した人に、反対意見を言うべきだ。その通知を申請者にすべしだし、削除申請を濫用しないように呼びかけるべきだ。

いっぽう、削除に賛成なら、堂々と削除すればいい。

しかしwikibooks日本語版の管理人は、そのどちらの仕事もサボっている。削除もせず、存続決定も判定しない。


もうひとつ、管理人がサボっている事は、学術書・専門書などによる文献調査という、学問上の事実確認の努力だ。

たとえば高校数学参考書の区分求積法がコミュニティに削除されたけど、でも市販の参考書に書いてあるんだから(科学新興社『モノグラフ』シリーズなど)、本来なら削除はアリエナイんだよ。でも管理人が、文献調査よりも合意形成を尊重して放置するという、間違った発想と態度に基づいているから、編集上の諸問が発生する。

結局のところ、wikibooksの問題は、文献調査をしない人(コミュニティ)に選挙権のような自治権を与えられている事に限る。


たとえば(行政や学会などの募集する)パブリックコメントは決して選挙ではなく、議論に見落としが無いかなどを確認するためのものであるのだが、wikiの「議論」も本来はそうあるべきで、最終的な決定は(コメントで出た観点を参考にして、)文献調査などをもとにして管理者が決定を行えばいいのだが、しかし実態では文献調査が重視されていない。

要するに、分かりやすく言うと、「馬鹿」の合意に、科学的な価値は乏しい。というか、そもそも本来の学問は、そういうものである。

学問ってのは芸人ではないので、無知な人たちの合意に科学的な価値は無いので、だから教科書など信頼できる文献に基づく文献調査などを本来は教科書の著作において重視すべきで、文献調査に基づいて編集上の合意を形成していくべきなのだが、しかしwikibooksでは人気投票みたいな合意形成になっているのが実態だ。

もっとも、そもそもwikipediaが、そういう実態である。結局、wikiナントカでの教材開発は本質的には無理筋なのだろう。

事実、結局、私以外の人はwikibooksではロクに、中等教育むけ(中学~高校むけ)の教科書を書いていない(ロクに教科書の文献調査をしていないようだ)。ごく一部の例外の人を除く。私以外の人の書けるのは、せいぜい大学向けの、教科書というより百科事典的な記事を書ける人が、チラホラといるくらいである。


教科書や専門書などの文献に当たらない事の一番の問題点は、そもそもメインターゲット読者の中学生~高校生あたりの層のために全く役立ってない事だ。これに尽きる。

中学生や高校生からすれば、ロクに教科書も確認しない大人(?)の「合意」などという投票で決めた解説なんか、「読み価値あんの?」って事よ。

だって、そんな「合意」(笑)だと、2ちゃんねる掲示板とかの教育評論に、毛の生えた程度でしかない。教育者きどりのウィキ編集者の自己満足でしかない。


それでも私がwikibooksを使うのは、アメリカ人を信用しているからである。日本の連中なんぞ、信用しとらん。

教科書のオープンソース化の国際化対応をしようと思ったら、現状では、wikibooks以外に選択肢が無いんだよ。

国内サイトの enpedia では、外国への国際化対応ができない。

仕方なく wikibooks を使ってるんだよ。


彼らwikibooks連中の本質的な勘違いは、教科書の執筆を、合意の形成によるべきとしている点だ(その態度はwikipediaの風習に由来する)。

でも、そういう「合意」は学問じゃないんだよ。

そもそも学問って、そういう人気投票や知名度重視みたいな態度を排して、再現性などを重視したところにあるんだよ。

だから教科書の著作では、議論よりも文献調査をするしかないんだよ。その上で、どうしても文献調査の限界のある事だけを仕方なく議論で合意形成するならまだしも、しかし残念ながら最初から文献調査を放棄している人たちが議論ページに集まっているから、どうしようも無い。

要するに、単に彼ら議論マンは文献調査をサボりつづける怠け者に過ぎないんだが、しかし彼らは彼自身を

「私は、他人の意見に耳をやれる公平な人物」

かと勘違いをしているので、どうしようも無く低俗だ。

すべての科学「法則」は単なる傾向

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文系の学問では、「法則」とは言われる学説でも、実は統計的な「傾向」でしかないとは、しばしば指摘されることである。

しかし、実は理系の学問でもそうだろう。


実際、有機化学は、そういう立場である。「マルコフニコフ則」とか。

しかし物理学などでは、「傾向ではない」と主張する物理学者もいるが、しょせんはその物理学者の主張ですら、学説でしかない。

困ったことに、物理学者は、その個人の信念を、教育カリキュラムの形で、学生に押し付けてくる。


特に困ったことに、「量子力学」を信仰する物理学者に、その押し付けの傾向が強く、もはや大学教科書そのものが量子力学ではそういう押し付けスタイルになっている。


しかも困ったことに、日本憲法の悪しき「大学の自治」および「学問の自由」により、そういう物理学者の宗教を規制できない。

戦前の軍部大臣現役武官制による軍部の横暴のように、戦後の「学問の自由」による学者の横暴である。


実は、ほとんどの物理法則は、地球の周辺でしか実験をできてない。

なので、実は、「実験的事実」と言われるものでも、地球の周辺での実験結果でしかない。


なので、アポロ宇宙船とか国際宇宙ステーションなどで行われた宇宙での実験とかは、その検証範囲を拡張するための実験だという意義がある。


地球周辺でないものは(冥王星などは)、(実験でなく)観測しかできてない。


では、「実験」と「観測」の違いとは何か?


「実験」とは、何度でも起こすことができるので、検証のために何度も実験をすることができる。


いっぽう、気象などの「観測」は、観測者の意思では起こすことができない。地震や台風は、人間では起こせない。


実験でも、特に、信頼性の高い実験式は、多種多様な実験によって裏付けられる。


また、化学と古典物理学での実験の違いとして、

古典物理学は、実験時の実験パラメーター(実験変数)を、数%ほどの小ささでも微調整できる。たとえば、質量1kgの物体での実験を検証するために、と質量1.3kgとか質量0.85kgとか、微妙に質量を変えて追試もできる。
化学は、パラメーターを微調整できない。たとえば、原子番号1の元素と原子番号2の元素の間を知りたいと思っても、原子番号1.3とか原子番号0.8とかの元素は無い。


現代物理学(特に量子力学)と言われるものの幾つかの理論は、実は化学と同様、パラメーターの微調整ができない分野である。

なので、本質的に量子論には、化学の法則と同様の不確実性が付きまとう。


これは、数学・物理学の用語でいえば、現代物理学実験のいくつかでは、微分的な実験がされてない、と事である。


なのに現代物理学の公式で微分方程式がよくつかわれるのは、単なる信仰である。

古典物理学で微分方程式の活用が成功したし、古典物理実験ではパラメーターの微分的実験ができるので、なので古典物理を微分方程式で記述するのは妥当である。


しかし、物理学者は、微分実験のできない分野にも、それを適用した。なので、シュレーディンガー方程式などの微分方程式には、実は実験的根拠が無い。


私から言わせれば、もはや量子力学は「物理学」ではない。量子力学は、「化学」の悪い浅知恵である。

社会学が総合科学みたいなフリをしていたが、最近の社会学では色んな学問・学閥の悪い部分が合わさって社会学者の質が悪化してるのと同様に、量子力学も物理と化学との総合的な科学を目指したが、もはや質の悪い部分が合わさり、悪化した。


比喩が汚くなるが、もしも食事の味噌汁にウンコが1滴でも混ざったら、どんなに薄めても飲みたくないでしょ。

量子力学は、ウンコ(微分的実験ができてない)の混ざった味噌汁(微分方程式)のようなものだ。廃棄すべきだ。理論をゼロベースから見直して実験結果のみに基づいてすべきだ。


数学では、「すべての定義は仮説である」と考える一派がある。ヒルベルトが幾何学原論で主張した発想だ。

ユークリッド幾何と非ユークリッド幾何のように定義の異なる幾何学が数学には内在するので、なので「すべての定義は仮説である」と必然的に考えるしかないのだ。


しかし、物理学者は、この発想に従わない。

べつに個人的に従わないだけなら自由だが、しかし社会に押し付けないでほしい。

やっぱ物理学者は淘汰されるべき悪だ。戦前の軍部と同様の悪だ、こいつら。


物理学者は幼稚である。

本当の科学的な「法則」の理解とは、法則の限界を認めることである。たとえば、数学では5次方程式の一般解が無いという限界を認めることにより、ガロア理論などを進歩をした。

しかし、物理学者は、近世でのニュートン物理への信仰だったのが近代には量子論と相対論への信仰に変わっただけであり、理論の限界の可能性を認めない。


相対論ですら、天文観測の「重力レンズ」などの観測結果があっても、実は、宇宙に関しては観測レベルである。物理学者の誰もアンドロメダ星雲とかの遠い星で実験できないもんな。

単に、天体望遠鏡などで観測される情報をもとに推測しているだけである。

つまり、相対論ですら、宇宙においては実験による検証ではなく、観測結果による制限的な検証でしかない。


真の物理「法則」の理解とは、こういう人類の限界を認めることだ。いうなれば、「観測法則」と「実験法則」を区別するべきだ。

ニュートン力学ですら、冥王星の運動とかはもはや、実験法則ではなく観測法則でしかない。

もちろん、今後の目標として、「宇宙ロケットなどで宇宙進出して、実験できる空間の範囲を広げよう」と目指すのはいい。

でも、まだ進出できてない範囲まで、あたかも物理法則が確認されたかのようにふるまうのは、もはや科学的な態度ではないので、やめてほしい。

なのに、物理学者には、このような注意深さは無く、もはや物理学者は幼稚である。

要するに、小学生の子供くらいの児童向けの説明の、「科学法則があたかも広大な宇宙全体に通用する」を鵜呑みにした馬鹿のまま大学の理科教師になったような連中が、物理学者である。


本当は、「現代の人類の科学法則は、実験では地球だけでなく月でも実験で確認されています。」「また、観測によって、冥王星や銀河系などの観測で得られる情報をもとに、学説を吟味しています。」であるべきだ。

しかし、小学生の子供には、「実験」と「観測」の区別はつかない。また、吟味という発想も分からない。

こういう小学生レベルのちょっと理科マニアなだけのニワカ野郎のまま大人になったのが物理学者だ。

科学界には「一次史料」的な考えが大学ですら理科教育に無い

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歴史学では、史料の信憑性に「一次史料」・「二次史料」などの等級をつける。

たとえば、何らかの理由で「この史料は信用できる」と判断した当時の古文書や、 当事者の残した史料で「とりあえず当時の人々の感想を知るために読む価値がある」と判断した史料を「1次史料」という。

一方で、よほど信憑性の乏しい史料や、 当時の噂話の又聞きの又聞きとかで伝言ゲームみたいになっててロクに検証されてない単なる風説とか、

あるいは著者が正直でなく偽書の可能性・虚偽の割合の高そうな史料を「四次史料」「五次史料」など数字の大きい等級をつける。

数字が小さい(等級の数字が1に近い)ほど信憑性は高くなる。


しかし自然科学には、このような理論に等級をつける習慣が無い。だが現実には、自然科学の中にも、等級の悪い理論はある。

まず、自然科学において信憑性の高い情報とは、実験事実そのものだろう。(説明を単純化するため、実用性や普遍性などは「信憑性」とは別の要因とする。)


多くの人でも追試実験または追試観測できる実験ほど、信憑性が高い。

小学校や中学校で習うような、実験事実・観測事実そのものの傾向をまとめた理論を「一次理論」としよう。

個々の実験結果そのものは、そもそも理論でないとしよう。


たとえば、中高で習うメンデレーエフの周期表の学説が、一次理論としよう。

それらの個々の実験の結果から導かれる「一次理論」的な学説である。


ただし、ここでいう「一次」の評価には、あまり実用性の評価は入れないとしよう。実用性の観点を入れると、評価が主観的になりブレるからである。


また、将来的に反例が見つかる場合であっても、とりあえず現時点で可能な実験で反例が見つかってなければ「一次理論」としよう。


ニュートン力学は相対性理論あたりの実験・観測(マイケソンモーレーや重力レンズなど)で反例がみつかったわけだが、それでも、古典的な実験に基づく実験結果そのものをまとめたわけだから、ニュートン力学も「一次理論」としよう。


化学の「元素」の考えは、化学反応そのものの物質の種類をまとめた理論なので元素は「一次理論」だが、しかし「原子」の理論は別である。


化学反応において、実際に原子1個1個の動きを観測することは現代の人類には未だに不可能なので、化学において「原子」の理論は「一次」でなく「二次」的な理論である。


電子顕微鏡などで、固体の金属結晶などの「原子」らしきものは観察できるが、しかし一般の物質の化学反応においては未だに電子顕微鏡でそのような観察はできてないと思われる。

少なくとも寡聞にして、私はいくつも科学書を読んできたが、そういう顕微鏡観察での化学反応観察の例をひとつも読んだことが無い。


小学校で習う理科の理論は、実験結果に近い「一次」的な理論であり、さらに実用性の高い理論で、さらに追試実験が子供でも容易な理論などの条件を満たす理論が選ばれてるわけだ。


中学校や高校で習う理科の理論も、ほとんどが「一次」理論であるが、追試実験が子供には困難だったり(たとえば原子力などの分野)、そういうのが中学あたりに回されるわけだ。


で、実験そのものをまとめた一次理論をもとに、誰かが提唱した学説を「二次理論」または「三次理論」・「四次理論」のように、2以上のと等級をつけてと言おう。

等級の数字が大きいほど、より派生的な理論になるとしよう。


高校くらいなると、一次理論か二次理論かの判別の難しい理論が出てくるわけだ。


たとえば、価電子の理論などは、人類の誰も価電子を直接は観測してないし、単に、電気分解などの実験結果から「たぶん、化学反応の決め手になる8個のアレは電子だろう」と類推しただけである。

実際、「オクテット説」とか、「八偶説」みたいに、電子の名前の入らない感じで提唱されていたわけだ。


さて大学で習う理論でも一次理論はあり、たとえば電磁気の「マクスウェルの方程式」の4つの基本方程式は、実験事実そのものをベクトル式で言い換えただけなので、あれも一次理論である。

そしてマクスウェル方程式を連立して得られる電磁波の仮説の存在(ヘルツの追試実験では「電磁波」の磁場成分までは検証できていない)、1.5次的な理論か、もし等級を悪くしたとしても、せいぜい2次までの理論であろう。


マクスウェルの電磁波についての予測が当たったからって、その学説を一次理論とする風潮は悪い風潮であり、やめるべき風潮である。

あくまで「実験結果そのものをまとめたのが一次理論」、「実験結果から派生した予想、または実験で検証された式から得られる予想が二次理論」としよう。

もちろん、予測能力の高い理論は、実用性や教育効果の観点からは良い理論であるための「必要条件」ではあるけれど、しかしけっして実験にもとづく一次理論としての「十分条件」ではない。


流体力学のナヴィエ方程式などは、精度はともかく、とりあえず実際の流体を人類が観測してみて、「たぶんこういう方程式だろう」と提唱した式なので、とりあえず1次理論である。


材料力学の応力などの方程式は、実際に材料に過重を加える実験などして、どのくらいの力の大きさで破壊するかを観測して検証できるので、とりあえず一次理論である。


ただし、工業高校で習うような理論でも、結晶の「転位」などは、まともに観測されてないので(少なくとも教科書に、「転位」とやらの観測写真などは無い)、「二次」以降の理論である。


「転位」に相当する実験事実の一次理論は、

「一般に合金は硬度が高い。」という傾向、
「曲げなどの変形加工をすると、金属材料は硬度が増す。」という傾向、
「炎や高温の油で長時間の加熱をしたあとに徐冷すると、金属は固体のままでもやわらかくなる。」という傾向、

である。

しかし「転位」は、あくまで派生的であり、上述のこういった実験結果をまとめて考え出された派生的な学説なので、顕微鏡などで直接観測されないかぎり二次理論である。


大学で習う、 熱力学の「ギブスの相律」 f=C-P+2 は、しょせん二次理論である。

実験事実は、相図において

「1成分系では最大3相まで共存できる」、
「2成分系では最大4相まで共存できる」、
「3成分系では最大5相まで共存できる」

である。たしかに、合金などの一般的な相図を見ても、2成分系は最大4相までである。

(なお、「ギブスの相律」自体は、熱力学の考察から得られたのであり、べつに合金の考察で得られたのではない。)


マクスウェルの方程式が、たとえ古典物理の方程式の連立から得られても、あくまで1.5次~2次理論として扱うべきなように、ギブス相律もまた、2次理論として扱うべきだろう。


価値ある二次理論であっても、二次理論はあくまで二次理論として扱うべきであり、けっして一次理論にしてはいけない。


比喩的だが、測定器の国家二次標準器をけっして国家一次標準器にしてはいけないように、二次理論は(直接の実験にもとづかないので)けっして一次理論にしてはいけない。


さて、現代物理と言われる分野があるが、実は、この分野の多くは、直接の実験はできていない。

実際に観測する物理量は、電流や電圧などの古典物理的な量、もしくは、光を回折格子を使って色を見たりなどの波長(人が実際に見るのは「色」)などの古典物理の量の観測である。


つまり、「現代物理」の分野は、分野そのものが、理論 と 実験の現場 が食い違っており、古典物理から派生した等級の数字の高い(悪い)分野である。


また、現代物理の「解析力学」や、「量子力学」のシュレーディンガー方程式は、そもそも特定の実験に基づいていない

そもそも解析力学が分野横断的に考えられた学説であるからだし、解析力学はそのような分野横断の手段として微分積分を使っているし、量子力学も解析力学を手本にしてるからだ。

なので、本質的に、これらの式から派生した理論は、けっして直接の実験に基づかない2次以上の次数の悪い派生理論である。


教科書では学説の成功例ばかり書かれるので、「解析力学」や「量子力学」などこれらの分野が無敵なように錯覚しがちだが、 実際は予測を外したりなどの失敗もあり、たとえばノーベル賞学者の中村修二は自分たちの青色ダイオード開発が物理学者から「量子力学にありえない」と批判されたと、物理学者を中村の自伝著書で批判している。


「量子論」と言われる分野でも、高校で習うような光電効果や、元素ごとの放電光のスペクトル分布などは、多くの元素で追試実験できるので、一次理論である。

ただし、光電効果に書かれているアインシュタインの「光粒子」の学説は、実験事実そのものではなく、派生的な二次理論である。

なぜなら、光電効果で実験事実そのものをまとめるなら、単に、波長と電圧と金属の元素の種類だけで十分だからだ。


相対性理論のマイケソンモーレー実験から得られるローレンツ収縮などの学説も、単に実験事実を言い換えただけである。(アインシュタインよりもローレンツのほうが提唱が早い。アインシュタインはそれらの実験事実をもとに、相対論を提唱しただけ。)

相対論は、あくまで二次理論である。ローレンツ収縮などが、一次理論である。


大学教育でアインシュタインの学説を教えてもいいが、しかし、それをあたかも普遍の真実かのように教えるのはヤメルべきだ。(量子論と比べたら相対論はだいぶ実験的でマシだが、それでも抑制すべきだろう。)

ウンコの混ざった味噌汁は、もはや食べ物にならない。

二次理論と混せこぜになった元・一次理論は、もはや一次理論ではない。

まとめると、

今までの間違った理科教育: 一次理論と二次理論の混同。特に大学で混同がひどい。
これから改革すべきこと: 一次理論と二次理論の峻別。



本当に優れた理論って、決定的な実験事実があるから一次理論になるか、せいぜい二次理論どまりなんだけど、

しかし、世間の馬鹿は、3次理論・4次理論のよう等級の大きい理論(学説)ほど、予備知識が必要なので、

それら高次の派生理論を優れた理論かと錯覚する。


3次理論など等級の高い理論は、その学説を理解・検証するための予備知識が多いから、

予備知識を多く知ってる → 勉強家

という、幼稚なイメージだ。

たとえば、世間の馬鹿が、やたらと長い小説や哲学書や思想書を読んでる人を、あたかも「知識人」・「天才」などと錯覚するようなものである。

しかし、それは馬鹿の錯覚なのである。現代の自称「哲学者」にマトモな科学者がいないことからも分かるだろう。


小学校レベルだと、参考書が(検定教科書と比べて)ある程度は分厚いので、小学レベルでは長い本を読めるほど賢い子なので、その錯覚のまま大人になった馬鹿たちが、4次理論など等級の大きい理論を「高尚」だと誤解する。


そして困ったことに、現代の欧米の大学カリキュラムを作ってる科学者もまた、この程度のレベルの低い大人である。

日本の大学もそうである。


なので、世界中で大学の研究が投資不足になり先行き不安になり、ぜんぜん企業で実用化されてないわけだ。

だって、大学のもともとの研究学説が、三次理論・四次理論とかばかりで信憑性がアヤシイんだもん。

超弦理論とか、実験に基づかずにさんざん理論展開して派生したあげく、結局、ロクな成果を出せず行き詰ってるでしょ。

量子論とか素粒子論とかの分野も、さすがに超弦まで酷くないけど、でもアレも研究者のメンタリティが超弦に近いのよ。

少なくとも、現代の量子論などの教科書は、ろくに実験事実との検証をしておらず、教科書を読んでも、一部の実験を除いて実験方法がロクに書かれてない。もっとも、電磁気学の教科書にもその傾向(ろくに教科書で実験方法を説明してない傾向)は強くあるが。



科学哲学の本を読んでたら「現象論」という言葉があった。 どういう事かというと、哲学本の著者の解釈とは違うかもしれないけど、学問の世界ではかつて「理論的真実」とされた定説がくつがえされた事例がたびたびあったから、学説を記述するときは、なるべく理論を前提するのを避けて観察結果そのものを記述しようという立場があるらしい。 (ただし、大元の哲学でいう「現象論」や「現象学」・「現象主義」はもっと抽象的・哲学史的な文脈で使われているので、科学哲学的な意味の「現象論」とはニュアンスが若干ちがう。)

もっとも、現象論的に記述すれば厳密性が増すといっても、実際には程度問題であり、もし観察結果を第三者に通じるように記述するには共通語としての理論が必要である。たとえば「太陽が東から昇るのを見た」という初等的な実験事実を説明ですら、前提となる理論として、

「太陽」という星があり、しかもその太陽は恒星である(恒星とは、自ら光を放つ星のこと)という、天文学的な理論の仮定、
その太陽は、毎日、同じ方向から昇るという仮定(だからこそ「昇る」という表現を使える)、
東西南北などの方向の概念がある、地理や地学に関する仮定、
空や上空などの概念や仮定、

など様々な仮定や理論に基づいている。(たとえば、八木沢敬『はじめての科学哲学』、岩波書店、87ページ で、太陽の話をしている。参考文献では、もっと厳密に話してるが、本wikiでは抜粋のため、いくつか表現を変えて、かみくだいている。)

もし、そういった理論的背景となる仮定を用いないければ、太陽をみても単に「私は、なんだか、まぶしい物を見て、それが黄色く見えたてように目で感じました。その黄色く光ってるものは、丸かったです」程度のことしか言えない。

なので、何らかの学問を現象論的に記述する事で客観性を高めようとする際、実際はその学問分野の理論を念頭に置いている。 (たとえば科学哲学者ノーウッド・ハンソンは「理論と観察とは独立ではない」と述べたと言われている[26]。)

現象論・現象主義にもとづく哲学者は、あえて、比較的に理論的な仮定に依拠する程度を減らそうとする事により、理論の頑強さを強めようとするのが現象論・現象主義的なものを考え方、という事らしい。

もちろん、森羅万象を観察だけで記述していたら煩雑なので、ある学問の基礎理論など特に重要な学説だけに限定するなどして現象論的に記述したり研究したりすることで、記述の負担を減らすという、実務的なノウハウが使われているが。


さて、ある学問を現象論的かつ教育的に記述するのは、実は、その学問が成熟したあとに出来ることである(たとえば高校数学の複素数の分野を考えればわかるように。数学史では、複素数の基礎理論が出来たのは、実はオイラーなどが先に定理的な命題を精査したあとの時代であった)。

だから、高校で習う理科は現象主義的であるという事はつまり、実は大学の2~3年あたりで習う程度の古典的な「現代物理」と言われる20世紀初頭の学説よりも、実は高校理科のほうが学問的内容が成熟しており高度なのである。

だが残念なことに日本の科学者の多くは、そういう、科学教育における現象主義の必要性を理解してない(つまり、高校理科のほうが大学で習う古典より高度だという事が理解できてないのが大半の科学者である)。いや日本だけでなく、おそらく欧米の科学者も同様だろう。中国韓国の論文を見たことがあるが、東アジア諸国でも日本と同様の傾向であると感じる。

フッサールの現象学などを読むまでも無く、実は初等中等教育に、現象学の優れたノウハウが詰め込まれているのである。


日本の教育は三等国

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近年、大学入試の混乱や大学内の先行き不安感が激しいが、根本的な原因は、日本人の教育がことごとく「畳の上の水練」であることだ。これに尽きる。

たとえば、英語の能力を測りたいなら本来なら簡単で、実際に欧米人の書いた文書の翻訳でもさせればいい。

実際、欧米人はそう判断する。

それにネット上には、膨大な未翻訳文書が転がっている。

著作権の問題があるが、だったらウィキペディアには膨大な未翻訳の海外記事もある。


いくら大学入試の英語の成績がよかろうが、実際に翻訳が出来なかったら仕事でも海外の文献調査でも役立たずである。

べつに英会話や海外旅行だけで役立たずなのではなく、学術研究のために海外の学術文献を読む際にすらも役立たずである。

しかし、日本のような教育制度や選抜試験では、原理的にこういう実務的な試験は無理である。


日本人って頭おかしくて、目の前の人の実務能力より、なにかのコンテストの成績を重視するんですよ。

日本はそういう土人国家。

そりゃねえ、子供のピアノ大会とかバレエダンスとか、そういう実用性の乏しい芸術なら、コンテストの成績とかを重視するのもアリでしょう。

児童教育なら、企業の競争に子供をさらさないためにも、そういうコンテスト重視もアリかもしれんよ?


でもねえ、一般の実用品の商売とか企業の経営とか工業品の設計とかの実務で、それをやったらアウトですよ。

日本人はそういうアウト連中ばかりのアホ国。

児童教育の発想のまま、大人教育をしてしまっている、東洋のキチガイ馬鹿国家が日本だよ。

なので、明治維新の直後のような、近代化を始めたばかりの幼稚な時代でしか、日本の教育はパフォーマンスが無い。

マッカーサーの言うように日本は幼稚な国なのだよ。ほら、朝鮮半島とか見ると、幼稚だろ。日本もあれと同じ、


だいたい「筆記試験」なんてのは、そもそも税金と同じで必要悪な強制であり、最低限のものにすべきなのである。

なので、日本の大学入試みたいな選抜試験は、もう不要である。


経理の能力を見たいなら、実際に簿記検定でもすればいい。

工業設計も同じで、実際に材料力学計算なり電気回路計算でもさせればいい。それでも文盲レベルのバカは落とせる。


なのに、日本企業はバカなので、わざわざ専門外の国文学のような試験とかで選抜する大学入試の成績で新卒採用を判断する。

日本企業は、なんでこうバカなのか。

せめて、高校で習った科目で試験するにしても、経理マンの採用なら政治経済の成績で選ぶべきだろ。


もっとも、高校の政治経済もクソで、簿記も教えないし、商法も教えない。リーガルマインドみたいなのは育たない。

経済学的な分析法の涵養もアヤシイ。


要するに、もう普通科高校そのものがクソだ。あんなの学んでも、思考力は身につかない。

最低限の知識なら中学レベルで、ほぼ十分だ。高校レベルのアレは、単に覚えることが増えただけで、補足知識でしかない。


作家でも、工業高校卒の作家はいろいろといる。

高校ではないが、司馬遼太郎も工業系の学校の卒業生だし、田中角栄もそういう工業系学校の卒業生だ。


結局、企業はバカなのだし、消費者もバカなのだ。

日本企業が優秀だというのは大嘘だ。アメリカのパクリをしてきただけだ。

アメリカのパクリでもノーベル賞を取れるのだ。

というか、そもそもノーベル賞の審査員は、技術者としては全く優秀でない。

大学教授の物理学者や化学者などの、民間企業で働いてない技術素人の大学教員が、審査員だからだ。医学部を除いて、大学教授は実務能力がアヤシイ人たちばかりですよ。

IBMは半導体でノーベル賞を輩出した企業だが、いまでは製造業から撤退している。

もはやノーベル賞は疫病神だ。

ロボトミー手術ですらノーベル賞を取れる。


また、そもそも大企業の研究員も優秀ではない。大企業の実態は商社マンで、本当に中枢の仕事をしている人物は、まったくの別人だ。

日本の大企業は近年、技術不足が指摘されるが、実は昔からそうったのだろうな。

本当は下請け企業の成果や、地方の機械工業とか地方の港湾沿いの化学メーカーとかの成果だったのを、商社である大企業の都会の電機メーカーが演技をして、あたかも自社開発したかのように装った演技をしてきただけだろう。

その演技のために、大企業は東大とかの理系卒を雇って、数学まがいのゴミ論文を書かせて学会発表してきた。量子力学とかの用語を使ってね。


実は戦前から、徴兵されたくない物理学者たちが、量子力学を誇大にアピールしてきたと、橋爪大三郎『戦争の社会学』にも書いてあった。日本は原爆の原料のウランも未入手なのに、物理学者は「量子力学で原爆を開発できます!」ってバカ軍部を騙してね。

要するに消費者がバカなのだ。(なお、日本の軍部もいちおうは量子力学の研究のしている。証拠があって、海軍省か何かの戦時中に出した工学書があって、兵器用の初歩の材料工学かなんかのついでに、量子論の初歩の話を解説している本があった(あまり大した技術は書いてない)。その本を、私が法政大学の学生時代に小金井の地下図書館の閉架でそういうの読んだ。)

消費者がバカなので、馬鹿の代表的知識人である東大とか京大とかも馬鹿である。

本当に賢いのは、歴史には名を残してない、あまたの無名の技術者たちだ。


大企業「メーカー」(自称)(笑)の技術力は演技で、バカ消費者むけの演技だから、大学の教育もバカ消費者向けの演技だ。

バカ学者のくせに「自分は頭いい」と持ってる馬鹿学者が、弟子として都合のいいバカを選抜するために、選抜試験で「こいつは天才」だと思ってバカを選抜する。

バカの拡大再生産だね!

日本の大企業はバカなので、パソコンのOSも作れないしCPUも作れないし、マザーボードも作れない。この分野はすべて外資の独壇場だ。

何も不思議なことは無い。


結局、学問は自分の頭で考えるしかない。

日本バカ国民は勘違いしている。バカ日本人「日本の教育は高度だけど、経済は三流だね」と。

違うのだ。日本は教育も三流なのだ。

まあ、アメリカの劣悪な四流の初等中等教育と比べればマシかもしれないが、そもそも馬鹿アメリカ教育のような劣悪としか日本教育が比較できない時点でもう、日本の教育は劣悪だ。


電磁波が磁場の波だという実験的な証明は、実はされてない。

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マクスウェル理論の予言した電磁波を実験的に証明したとされる「ヘルツの放電実験」で証明されたのは、「放電実験」の名の通り、放電を通しての(おそらく電場の)の遠隔伝達である。

なので、電場の遠隔伝達の証明にはなる。また、電波の偏波の証明にもなっている。(ヘルツは受信機の向きをいろいろ変えたりして、偏光性を証明した)

だが、その電波の遠隔実験が電場の波かどうかは、ヘルツの実験だけでは不明。

しかし、事前に別の学者によって光が波であることや、光の偏光性などが分かっていた事が分かっていた。

なので、「電波」はおそらく波だろう、という推測は妥当。


しかし、電場に磁場が伴うかどうかは、偏光性の実験だけでは不明。

少なくとも、物理学の教科書を読んでも、「電磁波で方位磁石が動きました。」なんで実験例は書いてない。そりゃあ、ラジオ波とかの1000kHzとかに追随して動く方位磁石なんて、無いもんな。

よほどの低周波(1ヘルツ以下)とかなら、もしかしたら方位磁石を動かせるかもしれないが、しかし、そういう実験例は寡聞にして聞かない。


なお、ヘルツの実験回路にコイルはついているが、しかし、このコイルは高電圧を作るための変圧器であり、けっして周波数選択などを行うためのものではない。


ヘルツの実験の時点で、すでに光学の偏光素子が知られていた。また、マクスウェルも、光は電磁波だと予言している。

なので、ヘルツの検証した放電の遠隔作用の性質が、光の性質と似ているので、光は電場の波であるというのは、ほぼ間違いない。


しかし、この実験結果のどこにも、磁場の波は観測されていない。放電という現象はあるが、しかし「放磁」という現象は無いので、どうやっても直接的には磁場の波を観測できない。


マクスウェルの予言が当たったことは、マクスウェルの理論の実用性の証明にはなるので、高校や大学などでのマクスウェル理論の教育的な意義はありそうだが、しかし、マクスウェル理論が真実かどうかは別の話。

実は、磁場の波は観測できず、証明されてない。


なお技術史的には、発電技術による高電圧や高周波の発電こそが、無線通信のためのブレークスルーである。

ライデン瓶などによる放電では、とてもじゃないが、通信インフラとしての実用性は無い。

欧米人を含む世間の連中は馬鹿なので、発電技術などを知らないので、マクスウェルとヘルツだけがえらいと思ってる(あとは、せいぜいエジソンとか。マクスウェルも偉いが)。

中学校公民の人権教育の偽善

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中学校社会 公民/被差別部落とアイヌ問題』では同和利権のことを語れないので、w:同和利権を参照せよ。

なお、「同和」とは「同胞融和」の略語である。しかし、実際には、在日朝鮮人集落の住民など、まったく日本国民の同胞ではない外国人集団も混じっている。

学校でならう「江戸時代の『えた・ひにん』に基づく差別というのは、たしかに明治時代ごろには、そういう差別も過去には存在したが、しかし20世紀後半以降の現在での日本の「部落」差別の問題はそっちではなくて、どっちかというと、実は移民への差別のほうである。なので、西日本で「部落差別」が深刻なわけだ。

つまり、中学校の社会科の人権教育は嘘をついている。これは根本的には、政府や行政がそういったウソ・ゴマカシをしている。


なお、公権力による外国人への(自国民のよりも不利な扱いをする)差別は許される。これは世界の常識である。実際、1990年代のテレビのTBS番組『ここが変だよ日本人』でも、ゲストとして出演してた東大生が、レギュラー外国人にそう主張していて討論していた。「プライオリティ」(優先順位)という言葉を使い、自国民にプライオリティがあると。

しかし、21世紀現在の日本の中学公民の教科書は、あたかも、そのような外国人への不利な扱いが、まるで違法なように主張している検定教科書もある。


また、日本国民どうしでも、実は法では奨励されていないが、単に、民間人どうしによる、好き嫌いなどの個人的な差別は合法である。

もちろん、一般の小売店や各種の販売店などで「相手が金を払っても、部落住民を相手に物を売らない」などの差別は、各種の業界の規制法に違反していて違法である場合が多い。

しかし、じつは「結婚差別」や「就職差別」は合法である。一般地区に住んでいる日本人どうしでも、貧乏人は結婚や就職で、相手方の親から、「あいつとは結婚しないでほしい」と反対され、差別される。もちろん合法だ。

就職でも、たとえば都市の住民は、田舎の企業への就職で差別されたりする場合もある。都市から来られても賃金を高い払えないからと、採用では地元出身者の優遇をしている中小企業も多い。もちろん合法だ。


また、民間人どうしどころか、公権力による低学歴への差別も日本にある。日本では、学歴が低いと、公務員などの就職では不利になる。そして、その学歴取得の機会も、学費の高騰や、教育内容の時代遅れ化や形骸化の問題もあり、富裕層に有利にできている。教員免許とか、馬鹿でも大卒だったりすると取得がラクになるし、最高学歴が高卒では教員免許を取得できない)。

公権力ですらそういう差別者なのだから、ましてや私企業による就職差別は、よほど、悪意にもとづくものだとか公言しないかぎり、許されているのが社会の実態である。

なのに、なぜ部落出身者や在日外国人だけ、結婚や就職を歓迎して優遇しないと「差別」だと言われるのだろうか?(反語疑問文)


結婚についていうと、民法では結婚はそもそも、婚姻に親の合意はいらない(中学校でも習う常識だ)。単に、市役所に婚姻届けを出せば、婚姻は成立する。

なので、そもそも親は、婚姻を禁止できない。親には、区役所の職員に弾圧できるだけの権利は無い。

また、親にも思想信条の自由があるので、子供が誰と結婚するのを応援したり反対したりするかは、親の権利である。

しかし日本政府は邪悪なので、親のこの正当な 思想信条の自由 を弾圧しようとしている悪だ。


また、そもそも結婚(婚姻)は、法的にも、男女どうしで親から独立した世帯を営むものであるとされている。なので、道徳的にすら、そもそも親には、子供が誰かと結婚するのを応援する義務も無いし、結婚したあとの子供の家庭を応援する道理は無い。

結婚したあとにも親から補助を受けようと思うような貧乏人は、そもそも、産まれてくる子供がかわいそうなので結婚しないでほしい。

単に、親は、結婚したあとの子供について、養育の義務を失う。


また、成人した子供について、親はそもそも、成人後の子とは、家族として親密に交流する法的義務は無い(子供が親の監督に従わないでよくなるのと同様に、親も、子供と親密に交流する義務も無くなるのが法律だ)。

なので、子供に「〇〇したら、家族としての(親密に交流するという意味での)縁を切る」と親が言うのは合法だ。


このように、民法学的には、そもそも中学の人権教育は、完膚なきまでに間違っている。

もはや、中学公民の人権教育のアレは、馬鹿むけの建前だろう。政治学者の故・丸山眞男のいう「顕教」と「密教」の、顕教のほうである。

というか、そもそも結婚差別や就職差別は合法な選別だからこそ、無くならないのである。そして経済発展的にも無くす必要も無い。(違法だったら、そもそも差別者は逮捕されたりするだろうが、そんな話は寡聞にして聞いたことない。)

つまり、政府は無くす必要もなく、そもそも無くせるだけの法的な強制力も持たないのに、民間人どうしの正当な思想信条にもとづく選別を「差別」と認定して批判しようとしているのである。

けっして、このような政府の恣意的な思想弾圧を許してはならない。


中学校教育での議論や報告書の教育の間違い

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中学校の国語での議論の教育で、「お互いの意見の妥協点を見つけましょう」とかあるけど(※ 東京書籍の中3国語など)、しかし、それは間違いなのである。

まず、この考え方のまずいところとして、悪人に悪用されて、悪人が過剰な要求を議論の形式でしてくるのである。


悪人「お前はオレに100万円を払うべきである! 」

善人「はあ? 借金もしてないのに、あなたにそんなことする理由ないでしょ?」

悪人「理由がないだと、だったらどう理由がないのか説明したまえ!!」

善人「は? なんでそんなことを説明しないといけないんですか?」

悪人「あ、おまえ、説明の議論から逃げたな! よって私の意見が正しいのが証明された!! 私の勝利!!!」


みたいな感じ、にである。


これは極端な例であるが、これを薄めた感じの悪人というか馬鹿は、世間に多く存在する。

「お前はオレに100万円を払うべきである! 」では極端だろと思っても、しかしちょっと言い方をかえて、「金持ちは貧乏人に金を施すべきである!!」とか「男は女に金を(以下略)!!」とかのような、あたかも博愛主義的な意見に言い換えて、意味不明な要求をしてくる悪人が多いのである。

つまり、「議論」の形式をした、タカリや嫌がらせをしてくる人間がいる。そして困ったことに、世間のバカは、それが議論のフリをしたタカリであることに気付かない。

残念ながら、日本の大人のけっこうな割合は、そういうレベルの馬鹿である。


また、民主主義の教育としても、無理矢理な意見の妥協は間違っている。

なぜなら民主主義というのはそもそも、多様な異なる意見が同じ時期に同じ場所に存在してもいい制度である。

国会議員の野党は、与党の定めた法律には原則的には従うが、けっして意見に賛同しているわけではない。与党の意見に強硬に反対する野党議員や野党政治家すらいる。


なのに、与党案が国会で採決されたからとして、ひとつの意見しか認めないなら、それは全体主義や独裁主義である。


もちろん、国会や県議会などの会議などは、その団体の行動を決めるために採決なども必要であろうし、ある議員が自分の案への賛成派を増やすためには、ほかの議員との妥協も必要だろう。

しかし、議論はけっして政治家の会議だけではない。


また、政治の議論としてすら、中学教科書の「議論」の教育は間違いである。たとえば、どんなに多くの有権者が支持しても、実現不可能な政策は実現不可能である。

外交でも、アメリカも中国も妥協はしてくれない。

2009年ごろの民主党政権の鳩山政権の沖縄の基地移転問題の顛末を考えれば分かるだろう。

日本は、学校での議論教育が間違っているのである。



まして、科学技術では、知識人や技術者などは一切、馬鹿の意見には妥協してくれない。

実際、たとえば医者は、馬鹿のニセ医学には一切、妥協しない。


議論の教育の間違いだけでなく、報告書の教育にも間違いがある。

ある教科書出版社の報告書の教育では、あいかわらず「起承転結などの構成を意識して」とか書いてある教科書出版社もあるし、困ったもんだ。

まあ、「企業などでの実務では、物語ではないのだから起承転結では書かないように意識する」って意味ですかね(笑)。

報告をするときは、要点を先に書くのは、ほぼ企業での決まりごとである(大学はそうでもないかもしれないが、しかし「大学のほうが間違っている」と、企業では見られている)。

たとえば、電話セールスとかの営業トークって、要点をなかなか話さないでしょ。アイツら電話営業セールスは、たとえば電気関係や通信関係の企業などだと、あたかも公共機関の関係者であるかのように装ったりするでしょ。もはやペテン師ですよ。

で、要点を先に話さない・書かない報告のスタイルってのも、ペテン師どもの話法と同じだって、マトモな企業の実社会では、見られてるんだよ。

このように、心にヤマしい事がないなら、要点を先に話せるんだよ。つまり、そうしないヤツは、もはやペテン師で社会悪だ。

表現の自由 とか 言論の自由 とかの都合で、しかたかく、要点を先に話さないスタイルも法的には認められているだけに過ぎない。


さて、議論の教育でマシな教育をしてる教材はですね、参考書ですよ。旺文社の参考書がいちばん良くて、大人でも使えそうな内容である。

他社の参考書はそれよりは子供向けで(大人用としては)劣るが、検定教科書よりかは、はるかにマシである。


たぶん、検定教科書では原理的に無理なんでしょうな。

ほら、たとえば「自衛隊は実質的に軍隊である」という事すら、社会科の検定教科書では教えられないでしょ?

たぶん、それと同じで「議論」の教育も、公教育や子供むけの教育では根本的に難しいんですよ。



「議論」ってのは、べつに「したから偉い」んじゃなくって、国政などのために「しかたなく行う」ものですよ。

たとえば、近所でスーパーで買い物をするときに、「議論」が必要ですかね?

買い物のときに店員に議論をふっかけても、営業の邪魔だから迷惑だし、店から追い出されるぞ。


ビジネス以外の若者文化でも同様だ。

たとえば、ミュージシャン志望の若者が、楽器の練習をなにもせず、音楽の流行について友人と議論をしたら、夢に近づけるんですか?

たとえば、イラストレーター志望の若者が、イラストを書く練習をせずに、イラストの流行について議論をしたら、夢に近づけるんですか?


そういう事ですよ。一人で練習したり勉強したりできることは、いちいち「議論」の必要は無いんです。

なのに議論ばかりしたがる人は、つまり、自分からは何も練習してなくて勉強もしてない、なのに、なんか「通」(つう)ぶりたい、 なんの努力もしてない馬鹿で怠惰のくせに褒められたがってるゴミ野郎ってことだ。


そういえば大学なんかでも、議論ばかりしてて実験も統計調査もしない学部ってのは、アレですね。


議論の必要な場合とは、たとえば国政や自治体の政治などのように、住民みんなが参加者みたいな場合に、しかたなく代議をするんですよ。

公共機関でも、しかたなく職員などによる議論は必要かもしれない。

でも、民間企業では、オーナー企業なら、議論は ほぼ不要だ。


科学みたいに実験で確認できるような分野でも、議論の価値は低い。科学で必要なのは、「議論」ではなく、実験や計算などの「検証」である。

科学的検証も広い意味での「議論」なのかもしれないが、少なくとも中学教育で習うような「議論」とは科学的検証は大きく違う。

高校歴史教育のダメな点

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(2018年5月27日に初公開)

高校の日本史教育のダメな点は、知識の根拠が書かれてない事である。

たとえば、五カ条の誓文について、検定教科書では、しばしば、「天皇が神々に誓約する形として出された」などと紹介される。しかし、検定教科書を読んでも、どのような史料にもとづき、史実がそうであるかを証明できたかの根拠は、教科書には無い。


もし数学教育だったら、定理を教える時は証明とセットに教えるので、論理的思考の教育にもなる。

しかし歴史教育の場合、証明が書かれてないのだ。

百歩ゆずって、小学校や中学での歴史教育なら、人生で初めて習う内容が多いし、証明まで授業では出来無いのは、時間的に仕方が無い。

しかし、問題は高校教育である。

中学でも『五カ条の誓文』なんて習ってるわけだから、本来なら高校では、もっと知的に質の高いこと(たとえば根拠など)を教えるべきなのであるが、しかし残念ながら、現状の高校教育は、暗記させる教育内容が細かくなっただけである。

百歩ゆずって、高校に入ってから新しく習う分野なら、暗記させるだけってのも仕方無い。 たとえば、大正期の政治家の山本権兵衛なんて、中学では習ってない人物であるから、そういう歴史人物については暗記させるだけになるのも仕方は無い。

問題は、すでに中学で習ったことについても、教育内容は暗記のオンパレードであるという事だ。


近年、「文系は馬鹿」とよく言われるが、理系教育と文系教育の質の差は、けっして知識の細かさではなくて、証明の有無の差なのである。

理系教育には証明がついているから、新説が発見された時などの教育内容の修正も容易だし、学校でまだ教わってない事にも予想が立てられるし、数学のように実験設備を使わない分野ならば学生だけでも研究するのが容易なのである。

しかし、文系教育には、教育内容に証明の欠けている教育課程も多く、そのため、研究者には検証の手間が雪だるま的に蓄積していき、教材があまり役立たないのである。

コンピュータのプログラムの業界では、「バグのないことの検査をされてないソフトウェアは、資産ではなく負債」という表現がある。

文系教育の現状も同様である。現在の文系科目の教育内容では、証明が大幅に欠落しているので、研究者には検証の手間が膨大に掛かり、膨大な作業負担になるのだ。

また、学生が論理的に教育内容の理解をしようとすると、教科書以外にも専門的な文献を探すなど、膨大な検証の作業が必要になるので、不可能である。しかも、その専門的な文献がどこにあるのかすら、なんて題名の学術書がどういう理由でオススメなのかすらも、教科書ではロクに説明されてない。

なので、つくづく文系教育が役立たない。

早い話、現状の文系教育は馬鹿の拡大再生産。

歴史科目の教育内容に証明が無い → なので思考力などの低い馬鹿でも東大とか京大にも入れる → 馬鹿だけど東大卒・京大卒なので学閥により歴史学会で権力を握る → そしてバカ学者の書いたバカ向けの日本史の検定教科書が作られる → ますます、思考力の低い馬鹿が東大とかに入る → 馬鹿が歴史学会で権力を握る → (以下、繰り返し)

『聖徳太子』と『厩戸王』と『厩戸皇子』とか、『ABCD包囲網』と『ABCD包囲陣』とか、『鎖国』の表現の是非とかも同様である。 なぜ、そのように言い換えをしなければいけないのかは、検定教科書には書かれておらず、単に、「この言い方をしろ」って(事実上の)命令してるだけである。なので、読んでて、あまり役立たない。

たしかに『ABCD包囲』なんとかは網(アミ)ではないが、しかし『ABCD包囲網』について当時の文献を読むときには、21世紀ごろになってから言い換えられた『包囲陣』ではなく『ABCD包囲網』って元々の表現の知識も必要だ。

『聖徳太子』が死後に何十年〜何百年も立ってから厩戸王につけられた名前だとしても、厩戸王の死後に書かれた歴史史料を読む場合だってあるだろう。

こういうふうに、時と場合に応じて必要な知識は変わるから、どんな場合にも対応できるように、用語の根拠も必要なのである。しかし、検定教科書に用語の根拠は無く、歴史学会あたりが決めた用語を押し付けるだけである。

センター試験は難問である

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2ちゃんねるとかでさ、「マーチ合格は3ヶ月の勉強で余裕!」とか言ってる馬鹿っているじゃん。あれ、本人はまともに合格点を取れない馬鹿だよね。

あと、もしマーチが簡単な問題を出したとしても、競争相手の受験生だって、同じ入試問題を解くのだから、結局、そんなに簡単には合格点を取れない。


で、本題の「センター試験は簡単!」と言ってる教育評論家も、それと同じ。

そりゃあ、浪人して受験勉強ばかりしてたら、そのうちセンター試験も多く解けるようになるよ? でも、それって、教育政策的に意義あるの?

センター『世界史』なんて、受験評論家の和田秀樹(東大卒の医者)ですら、センターの『世界史』は難しいって著書で言ってたりするんだぜ。

そういう科目が含まれた地歴公民を、国立理系の大受験生の足切りにするのに、果たして意義あるの?


たぶん、「センター試験は良問!」「センター試験は簡単!」って言ってる馬鹿評論家は、本人はまともに合格点を取れないよ。

昔、センター試験の初期のころの、まだ手探り状態だった時に、入試で突破しただけでしょ。もしくは、共通一次時代とか。


あと、センター試験は東大医学部ですら地歴公民は1科目までなので、実は高校で習う地歴公民の知識のバランスが欠けてても、センター入試を突破できる。


馬鹿なヤツほど、問題の難易度が分からないんだよな。

そういう馬鹿は「自分は答えを知ってる」問題が簡単な問題であり、 「自分でも答えを知らない」問題は難しい問題であると主張する。

または、教科書にとりあえず説明してある事項ならば、たとえ本文外の表に書かれた知識でも「簡単な問題である」と主張する。

でも、違うんだよ。


難易度の正しい評価基準は

「教科書を理解していれば解ける問題か?」と
「そもそも、その教科書は、マジメに全教科を勉強していれば、高校3年以内に解けるようになる問題か?」

の2点で、大学入試の難易度を考えるべきだ。

センター地歴公民は、明らかにバランスの悪い勉強法を、受験生に要求している。実際、理系の学生は、センター地歴公民を1科目(「地理」または「倫理政治経済」)に絞って勉強せざるを得ない現状である。センター理科の基礎科目と比べて地歴公民は、明らかに学習に掛かる時間が多すぎる。

また現状、センター地歴公民は、どう考えても、高校3年間の時間では、理解が追いつかない。あれを「理解した」と言ってる評論家は、たぶん、なんにも理解できてない馬鹿である。 アメリカのスタンフォード大学の歴史学教授が、日本の山川出版の教科書を「アメリカでは大学レベル」と言ってるくらいだ。

また、センター数学は、短い時間で多くの問題を解かせるので、時間切れになりやすい。

なので、解法を知ってても、試験なれしてないと高得点を取れないことでも有名であり、センター数学は悪評が高い。

でも馬鹿評論家は、「センター数学は高校教科書に書いてある解法で解けるから、センター数学は簡単だ。これが解けないヤツは馬鹿」とか言い出す。お前が馬鹿なんだよ。


  • 高校生に相応しいのか?

大学の歴史研究者育成のための基礎トレーニングとしては、山川などの高校の地歴公民の教科書は、すばらしいだろう。

でも私は、山川や帝国書院などのあの教科書が高校生に適したトレーニングとは思わない。


たとえば、「債権」と「債務」の違いすらロクにしらない高校2年生に、「○○年、アメリカが債権国になった」とか暗記させて、何の教育になるんだ?

でも馬鹿な評論家は、「教科書に『○○年、アメリカが債権国になった』と書いてあるから、この問題は基礎レベルだ」とか言い出す。

民法の内容も知らない子に、「日本では○○時代の○○年に民法が制定された」とか暗記させて、何の教育になるの?


結局、法律や経済学など、歴史以外の他学問の知識のバランス無しでは、歴史学の勉強では大した理解に到達できない。


  • 教育改革の努力と「教育すべき」とは別問題

センター試験の試験問題を作成するのは、その時代の全教科書のチェックなどが必要で、センター問題の作成には膨大な手間が掛かるので、教育学的にはセンター試験問題は貴重な問題でもある。

でも、そのことと、センター地歴公民のアレを高校生に解かせる必要があるかは、別である。司法試験とか司法書士試験だって改革をしているが、高校生に要求すべき知識ではないのと同様に。

私が思うに、センター地歴公民のアレは、大学生(文系)や教員志望者に要求すべき知識だ。

結局、2000年ごろまでの文系大学バブルを参考にセンター試験は制度設計されており、また検定教科書もその文系バブル時代に合わせて作られている。


もちろん、高校教育の関係者の改革の努力は認めるが、しかし、そのことと「高校生に要求すべきか?」は別である。

マスコミでは、「センター改革で記述問題を導入か」とか議論になってるが、本質はそこではなく、そもそも5教科の教育内容のバランスが不適切になってるのである。



センター試験の地歴公民の悪問

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センター政治経済の悪問

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第二次大戦後の日本での、労働組合法の制定の年度と、傾斜生産方式の年度と、経済安定化9原則の年度の順序が、2018年度センター試験で出題されている。

たしかに検定教科書に書いてある話題だが、年度の順序は政治学でも経済学でもない。

だいたい、人生で必要な知識は「傾斜生産方式とは何か? なにが原因で、それが必要になったか?」とか「経済安定化9原則とは何か? なにが原因で、それが必要になったか?」という理解であるし、若い高校生に必要な知識も、そうであろう。

経済安定化9原則の直接の原因は「復金インフレ」であり、「傾斜生産方式」とは直接の関係は無い。

GHQが労働組合を合法化したのは多くの高校生は知ってるだろうけど、それが傾斜生産方式の前か後かなんて、教科書を読んでて普通は意識しないし、検定教科書だって、そういう説明はしてない。

センター出題者の「多くの検定教科書に書いてありさえすれば、どんな問題でも出題してよい。」などと考えている意図が透けて見える。

  • 前川レポート

2018年度センター試験で「前川レポート」の内容が出題。私は30年以上生きてきたが、初めて知ったぞ。2000年以降の生まれの高校生に必要な知識かしら?  せいぜい、レーガン・サッチャーの新自由主義と絡めて「中曽根政権で、規制緩和や市場開放が行われた。」とかの知識で常識的には十分かと思うが。

センター「世界史」は悪問では

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2018年のセンターで「フェビアン協会」について出題されたらしいが、私は「フェビアン協会」が何だったか、私は覚えてないです。

そんなことを知らなくても、wikibooksで世界史の教科書を古代史から現代史まで著作することは可能だ。

ニューオリンズを建設したのがフランスだってことも、私は知らない。南ティロルの位置なんて、私は覚えてない。

イェルサレムを占領したのが第何回十字軍だったか、私は覚えてない。『ローランの歌』の時代なんて、知らない。

ヘンリ2世とヘンリ3世の違いなんて、覚えちゃいねえよ。


2016年のセンター地理Bの本試験はゴミクズである

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南アフリカ共和国で英語が公用語かどうかとか、イギリス連邦にインドが含まれてるかどうかとか、この年度のセンター試験で問われてるが、そんな知識、社会で必要なのかね?

南アフリカ共和国で英語話者が多いのは、セシルローズなどイギリス植民地支配の歴史から、想像つきますよ? でも、「英語が公用語かどうか?」まで、私は知らないし、そんなマニアック知識は検定教科書でも強調されていない。

世間常識で必要なのは、せいぜい「インドと南アフリカでは英語話者が多い。」「イギリスの旧植民地のなかには、イギリス連邦に加盟している国もある」くらいだろ。それにエジプトやミャンマーはイギリス植民地だったがイギリス連邦には加盟してない。植民地支配の歴史を知ってからと言って、解ける問題でもない。

この年度の問題は、他の問題も、重箱の隅をつつくような問題が多く、読んでて呆れて腹が立ってくる。


受験評論家が受験制度を擁護して言う「センターは高校の教科書レベルだ。センター試験は国立二次試験と比べたら簡単なほうだ。」なんて、ウソっぱちですよ。正しくは「教科書レベルでも解ける問題も部分的に用意されている」ってだけ。

センターの「英語」教科や「数学」教科は、国立二次試験と比べて簡単なのかもしれないし教科書レベルに近いかもしれないけど、地歴公民は、ぜんぜん簡単じゃないし教科書レベルを大幅に越えてますよ。

私、地理Bのすべての検定教科書を読んだけど、イギリス連邦にどこの旧植民地が所属してて、どこの旧植民地が所属してないかなんて、まったく分からないよ。


でもセンター英語も難しいですよ、という話

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ちょっとプライベートな話になるんだけど、私が高校生のとき、地元の塾の同級生で、高校も私と同じで、英語の得意な同級生がいたんだ。その同級生、英検1級とかも持ってる子だったの。(なお、私の出身高校は、独協大の付属校なので、それなりに英語を志望する子が多く集まってる高校。)

でも、その子でもセンター受験の際、「センター試験の英語は難しい」と言ってた。これがセンターの難易度の現実ですよ。どうやら、英単語が難しかったらしい。

西暦2000年ごろの話だから、今と難易度が違うかもしれないけど、でも、とにかく彼が「難しかった」と言ってたのは事実。

べつに、センター英語が悪問とは言わん。しかし、難しいのは事実だ。


そりゃあ、センター英語に出る単語は、単語集とかに書いてある内容なのかもしれんよ。勉強すべき基本的な単語かもしれんよ。

でも、そのことと「簡単かどうか」は別。


なのに、どうも世間は

「勉強すべきこと = 覚えられて当然のこと = 簡単なこと」

と混同して勘違いしているような気が・・・(世間の多くの連中の思考回路が小学生レベルなんだろうね。小学校のテストでは、覚えやすいことばかり出るから。

バカ評論家は大学で専門用語を詰め込んでも、思考回路が低いままなんだろうね)。


そして、こういう勘違いにもとづいて、日本の教育政策が立てられている、もしくは教育学者が教育論を主張しているような。


そりゃあ、東大・京大とか東北大とかの国立二次試験の英語テストと比べたら、センター試験の英語は簡単かもしれんよ。


でも、それは、他の入試と比較すれば「比較的には簡単」「相対的には簡単」というだけであり、けっして、高校生にとって「絶対的に簡単」ではないハズ。つまり、それほど難関校に合格するための入試は難しい。

どうも、こういう相対的な観点が、日本の自称・教育評論家に欠けてるような。

私は一応、大学受験では「そこそこ難関」とされるマーチ理系や芝浦工業大などに現役で合格した経験があるが、それでも「センター英語は難しい」と高校3年のときに感じましたよ。

そりゃあ、教育学者なんて文系の連中ばかりだし、理系科目の勉強をあまりしなくていいんだから、その学者は英語が得意かもしれないが。

だからって、理系志望の高校生とか、教育学と英語以外にも他に色んなことを勉強しないといけない若い子にも「覚えられて当然!」って要求するのは間違ってるでしょってこと。


最近、入試改革の英語の試験改革案(民間試験の導入)に反対したい連中が、デマで「センター入試の英語なんて簡単。教科書の勉強をしてれば普通にセンター突破できるよ。」とかホザく連中が多く、しかも残念なことに大学教員にもそういうデマを担ぐ教員がいる。しかし、そういうデマ教員にダマされてはいけませんよ。

「民間試験には、こういう欠陥がある!」とか主張してるけど、仮に欠陥があったとしても、そのこととセンター試験の難易度は別でしょ。

少なくとも、センター試験の難易度について、大学教員たちがウソをつくのを見るのは、私にとって不愉快だ。

どうも大学の学者は、民間試験賛成派と反対派の党派の権力闘争みたいなことをしてるらしい。

本来、学問ってのは、こういう権力闘争やら党派主義を超越して、事実を客観的に分析するものなんだがなあ。なのに、そういうことの出来ないで、党派で物事を語る大学教員の多いこと。


残念ながら大学教授や教育学者でも、「勉強すべきこと・勉強させるべきこと」と「細かく覚えさせること・細かく覚えて当然のこと」との区別がロクについてないらしい。困ったもんだ。馬脚をあらわしてくんないかなぁ。

「勉強すべきこと」と「覚えることの違い」ってのは、たとえば小中学校とかの社会科の地理の教科書にある具体的エピソードが分かりやすい例で、検定教科書には、たとえば○○県の農家の山田さん(仮名)とかの農業の具体的エピソードが書いてあったりするけど、そういう具体例は暗記の必要が無いってような事。


思うに、高校で覚えるべきことは、勉強の仕方である。

だいたい、高校は義務教育では無いんだから、高校で習うことに実社会での必要性は低い(「無い」とは言ってない)。なので、文法(英文法や日本の古典文法など)や高校レベルの数学・物理・理科などの基礎理論さえ練習しておけばいい、ってのが本来あるべき姿。

英単語などの、あとの各論的な知識は、どこにどんな感じの事が書いてあったかを目次的に覚えておけば実用では十分である。

仕事で必要になったら、各論は、参考書などで、その箇所を読み込めばいいんであって。


もちろん「どこにどんな感じの事が書いてあったかを目次的に覚えておく」には、目次よりも先のことを勉強をしておく必要がある。

英単語なら、単語集などで一度は目を通す必要があるだろうし、テストで単語力を評価するのも妥当だろう。

なので、入試などで、やや難しいことを出しておくことも、知識の全体像を教えるためには必要である。


もっとも、世間の教育評論家どもは「大学で覚えるべきことは、勉強の仕方」というが・・・。まいったな、本来なら高校生の段階で勉強の仕方を教えないといけないのに、それを日本の教育者たちはサボってきたわけか。


とにかく、「センター英語は簡単」的なデマが悪い。これのせいで、日本国民の各人の学力の自己評価がズレるのである。


一説には「日本の中学高校で習うことは、英語圏なら小学生でも知ってることだ」という。そうかもしれないね。

だからといって、「日本人でも高校生なら、英語圏の小学生レベルの英文が読めても当然!!」って主張はオカシイでしょ。

そんだけ、日本人やアジア圏の人間にとって、英語の学習は難しいんですよ。英語圏の人だって、日本人なら小学生でも読める和文でも、むこうの人はまったく読めないでしょ。


なのに、なんで私ごときでも出来る、この程度の思考すらも、しかし日本では教育学者や英語学者ともあろう人たちですら、ロクにできない人たちばかりなのか。


すげえ根本的な問題として、日本の大学教員って、ちょっと馬鹿な、受験マニアだっただけの人たちも混ざってるんですよ。きっと昭和戦後の昔、マトモな論文やら研究成果が書けなくても東大・京大とかを卒業すれば大学教員になれた時代が昔あったのだろうね。英語教育に限らず。

そんな馬鹿の学者だから、私みたいな一介の理系の人間にすら劣る教科書すら、ロクに書けない学者ばかりなの。

ああ、そうだった、もはや教科書すら書けないような学者でも、日本では大学教員をしてるんだった。

大学教員ってのは本来、大人向けにマジメな学問の教科書を書けるような人達でもあったんだと思うんだが・・・。

批判: 2017年定義変更されたキログラム原器は、プランク定数をもとに定義できてない。

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まず、ニュースで『産総研、シリコン単結晶を高精密計測し質量再定義する値を決定 』 https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00447907?twinews=20171025 とある。

これらのニュースによると、プランク定数をもとにキログラムの定義を算出するのに成功した、と産総研や米国NISTなどが発表している。

しかし、彼ら(産総研や米国NISTなど)の主張は間違いである。

彼らが成功したのは、キログラム原器をシリコン材質に変更するための、シリコン素材の物性測定に成功しただけである。(シリコン単結晶へと、キログラム原器の材質を変更する予定がある。それ以前は、プラチナ系の合金を原器の材質にしている。)


記事をよく読むと分かるように、このプランク定数を実験的に算出するのに、測定により、「重さ」と「体積」と「シリコンの格子定数」などを計測する必要がある。

これの計測によって判明することは、原器中に含まれる原子数でしかない。(いわゆる原子数密度)

たとえ、どんなに精度よく、シリコン球体の体積中の原子数を計測できたとしても、けっして、プランク定数を測定したことには。ならない

なぜなら、ある体積中の原子数の計測から、誤差ゼロで算出できる量とは、単なる密度でしかない。けっして、プランク定数ではない。


よって、2017年の産総研や米国NISTなどの発表内容は間違いであり、真実は、「2017年定義変更されたキログラム原器はプランク定数をもとに定義できてない。」

なぜなら、キログラム原器のシリコン素材への材質変更の案件と、プランク定数への変更の案件とは、別件である。しかし報道では、これらが同じ案件だと誤解されているし、米国NIST自身が混同している。(そして産総研は米国NISTの下請けでしかない。)


さて報道内容によると、レーザーなどによって、原子数をシリコン球の原子数や格子間隔など正確に数えたらしい。(原子数は膨大なので、おそらく統計的な処理をしたのだろう。)

ともかく、このレーザー測定によって、キログラム原器の材質が将来的にシリコンに変わる可能性が高いし、シリコンへ材質変更すること自体は妥当だろう。半導体産業などでも安定的に高純度のシリコン単結晶を製作する技術が蓄積されている。(2017年以前は、プラチナ(白金)90%、イリジウム10%からなる合金製の金属塊)


しかし、シリコンへの材質変更は、けっして「プランク定数をもとにキログラムの定義を算出するのに成功した」ことには、ならない。


よって、キログラム原器の材質変更の案件と、プランク定数への変更の案件とは、別件である。

シリコンの単結晶の物性測定により、プランク定数がより精度よく測定できる可能性はある。しかし、そのことは、けっして、プランク定数にもとづく質量再定義という案件の妥当性を意味しない。



大学よりも高校のほうが、研究機関として優秀なんですよ

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東京書籍の高校物理の検定教科書で、「副実像の公式」というのがある。

この公式は、近年の日本の高校生が発見した公式であり、ニュースにもなっている。

熊本県立の宇土高等学校の科学部の発見した公式だ。


他にも、高校生・高専生の発見した理論は、いくつもある。例えば国立米子工業高等専門学校の物質科学の学生が、卵の卵膜か何かで、燃料電池の実験ができる事を発見している。


アメリカでも、高校生が、製薬の発見をしてる。アメリカで、製薬会社チューリング社による特許で高価なHIV薬を、アメリカの高校生が特許を使わない形で製造する方法を発見し、オープンソース化した。


でも日本の大学では、このような実験は、出来ないんですよ。

なぜなら、大学では、カリキュラムが過密で、そのカリキュラムを消化しないといけないから、研究をしてる時間が、ほとんど無い。

私も理系の大学に通ってたが、研究をできた時間は、大学4年生のときの最後の一年だけだったし、その研究時間も、就職活動などで、ほとんど使えない。私が4年生で研究の時間を取れたのも、電機大に進学する以前に、法政大で単位を取ってたら、単位に余裕があって、卒業年次には研究以外の科目を履修する必要が無かったから、という幸運もある。


卒業研究とは別に、1年のころの実習などで研究的な事もあったが、あまり研究時間が取れなかった。また、しょせん実習科目である。


私は高校生の頃、「大学に進学したら、いろいろと研究をさせてもらえる」のだろうと思ってたが、結局、日本の大学では、ほとんど研究をさせてもらえなかった。

日本の大学で習ったのは、なにかの科目の試験問題の解き方である。


さて、高校生の発見した副実像の公式で使う数学は、行列計算(数学Cに相当)である。2次正方行列である。今では数学Cが廃止されたため大学の範囲だが、昔は高校で習ってたレベルである。

でも、大学で覚えさせられる数学は、これよりもずっと難しいですよ。3次以上の行列の対角化とか固有値とかの計算を、短時間で計算する練習とかをするんですよ。少なくとも工学部ではそうだ。

で、それをしないと単位が入らないし、進級できない。そして、行列の計算でそういう練習をしても、たったの4単位が入るだけである。(卒業までの約120のうちの、4単位。)


それでも、大学の数学の授業はまだマシで、ヒドイのは工学や物理などの専門科目である。物理や工学では、いくつもある実験の、解き方の分かった特定の条件の問題を、数式で表して短時間で解析的に解く練習をするんだ。でも、実務では不要なんだよな。

まず、実験をすれば、いちいち計算をしないでも、答えが求まる。そもそも、物理学者は、まず実験により答えを求めている。

また、たとえ理論を数式で表すにしても、物理学者は、その理論を短時間で計算する方法を覚えて、筆記で計算する練習などは、してない。


数学や物理を学ぶことによる論理性の習得などが目的なら、もはや高校の数学で、ほとんど、その目的は達している。なんのために、大学の数学や物理の授業があるんだ?

工学の計算は、工業高校で習う程度で、実用上は充分である。しかも、高校だから定期試験は、100点満点中、30点以上をとれば済むんだよな。高校でたとえ赤点で追試になっても、追試問題には、本試験とほとんど同じ問題が出る。いっぽう大学の場合は、高校よりも遥かに難しい試験問題で、60点以上で、追試無しだったりするんだ(実際、私が体験した)。


大学進学直前に父親から聞いた話では、「工業大学の低学年では、工業高校で習うような計算をする」と聞いていた。

しかし、法政大に進学したら、そんな授業は無かった。大学高学年むけの教科書をつかって、試験問題を解くという授業だった。

で、私は法政を進級できなかったので電機大に移ったわけだが、その電機大ですら、似たような授業である。


昔の大学では、大学の低学年では工業高校で習うような計算をしてたのかもしれないが、2000年以降、そんなのは無いのだろう。


そんな大学工学の計算能力、不要なんだ。計算方法なんて、必要になったら調べればいいだけの事。そして、そもそも「短時間で」計算する必要なんて、仕事では存在しない。

そもそも工学の便覧とか工学公式集とかは、技術者が大量にある雑多な公式をいちいち暗記しなくても済むように、そもそも便覧とか公式集とかが市販されているのである。

そして、理科で使う数式ですら、基本的に高校レベルで、ほとんど代用ができる。


そもそも計算は、研究開発の出だしではないんだ。計算は、まず先に仮説を出したあとの検証方法でしかない。仮説を出す前に、まず先に、何かを試作するなどの実験が必要なんだ。


だからまず、研究のための、いろんな実験をしないといけない。


でも、日本の大学の授業は、そうなってないんだ。

実験をさせない、試作をさせないのが、日本の大学だ。もしくは、既に結果が分かった実験を、すでに知られている実験方法で実験するだけの、実習科目なのが、日本の大学での「実験」だ。


もはや日本では、大学よりも、高校の科学部みたいな場所のほうが、研究所としては優秀なんだ。



工業大学のカリキュラムはいろいろと腐ってる

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いろいろと理系大学のカリキュラムを調べてみたが、どうも、まず偏差値トップクラスの高偏差値の工業大学のカリキュラムが腐ってるようだ。

で、この腐ったカリキュラムを、マーチだの理科大や芝浦工大などが真似してるので、日本中の理系大学がオカシイようだ。


まず、かつて故 矢野健太郎(東工大の名誉教授)などが数学教科書を書いてたような時代とは、もう、カリキュラムが違う。

たとえば、ある難関大学の2年のフーリエ解析のシラバスを見てみると、離散フーリエ変換とか、そういう雑多なことを教えてるんだ。

離散フーリエ変換とか、重要か?

離散フーリエ変換なんて、信号処理などの一部の分野でしか使わないぞ。(そもそも「信号」処理と言いながら、内容が、なんの情報処理にもなっていないが)

そしてその信号処理の理論自体、結局、あまり実務で使われてないぞ? 通常のフーリエ変換には、まだ使い道がある。物理の微分方程式を解く等の使い道だ。

しかし、そのフーリエ変換をまねて離散フーリエ変換だのの理論を構築しても、結局、なんの方程式も解けないのである。(離散フーリエは、けっして微分方程式の理論ではない。)

方形波などのデジタル波形であっても、そのデジタル波形をRLC線形電気回路に印加した場合電圧やら電流を解析的に厳密に求めたい場合には、離散フーリエではなく通常フーリエ変換を使う。


そもそも、デジタル波形をデジタル的に解析したい場合、デジタル電子回路の理論で、事足りる。要するに信号処理の理論は、淘汰されるべき破綻した理論だ。


「電気回路では複素数をよく使うし、RLC回路の解析でラプラス変換やフーリエ変換をよく使うから、デジタル回路でも類似の変換を考えたら役立つだろう」という仮説にもとづいて、世界各国の工学者が、離散フーリエ変換やらゼット変換とかを考えてみたわけだが、結局、役立ってない。

つまり、必要性があって作られたラプラス変換やフーリエ変換とは違い(「微分方程式を解く」という必要性があって、工学でのラプラス変換とフーリエ変換の理論は作られた)、必要性もなく離散フーリエ変換やらゼット変換やらは考えられた。


いちおう、離散フーリエやそれに類似する変換(ゼット変換など)で、差分方程式を解く事はできるのかもしれないが、そもそも高校数学の数列の解法で、実用上は充分だし、だいたい、離散なんとか変換の理論は単に、数列の理論を言い換えただけだったりする。

そして、数列の解法を暗記しないと試験時間内に解けないのと同じように、結局、離散なんとか変換の公式を暗記しないと解けないので、わざわざ離散なんとか変換を覚えても役立たない。


そもそもフーリエ変換ってのは、熱伝導のフーリエによる解析のように、不連続な微分方程式を連続的に解析手法である。矢野健太郎なども、そういうふうに教科書を書いてるわけだ。) フーリエさんは信号処理(デジタル波形の複素数列への変形)なんかしてねえよ、馬鹿教授。

数学の分からない馬鹿な工学者が、勝手にカリキュラムを変えて、どんどんと分かりづらいカリキュラムになってる。

本来なら、離散フーリエ変換をもちいたシステム解析などは、「信号処理」などの科目名で分けて教えるべきであるし、少なくとも矢野健太郎の時代はそうだったんだろう。


どうも、いくつかの工業大学では「フーリエ解析」の名前で、数学的なフーリエ解析の理論と計算ではなく、信号処理の理論を教えてるようだ。

特に電気系の学科で、その傾向が高い。

あるいは、ある大学では、そもそも「フーリエ解析」の科目自体がなく、「信号処理」という科目名で信号処理の数学理論をそのまま2年生か3年生で教えてるようだ。

ああ、頭が痛い。こんな馬鹿学者どもが、日本の電子工学の教育をしてるのか。

あのですね、馬鹿の電子工学者ども。デジタル信号処理以外でも、工学でフーリエ解析はたくさん使うんですよ。機械振動の解析とか、土木工学でも地震の影響の解析とか、そういう応用物理でも、フーリエ級数とかを使うんですよ。

だからね、信号処理の雑多な理論を教える前にまず、フーリエ解析の標準的な計算練習をする必要があるんですよ。それだけで2単位くらい、本来なら必要なんですよ。

たぶん矢野健太郎は、そういう物理計算を知ってるから、矢野のフーリエ解析の教科書では、信号処理ではなく微分方程式への応用を中心にフーリエ解析の教育をしたわけだろうな。

なのに、そんなことも分からない馬鹿が、理系大学の電気電子工学のカリキュラムを作ってる。それも難関大学のな。


日本の馬鹿工業大学は、なんで普通に教育できないんだ? なんで、矢野健太郎あたりの書いたフーリエ解析の入門的な数学理論を教育できないのだろう? なんでカリキュラムを矢野健太郎の時代から劣化させるんだ?

フーリエ解析の定期試験なんてね、本来ならね、「次の関数をフーリエ変換せよ。ただしフーリエ変換の公式を○○(←あの公式)とする。」とか試験問題に書いて、実際に公式を使えるかどうかを確認するくらいで良いんですよ。


そんなのでも、実務では充分だ。


また、物理公式などの偏微分方程式の解き方としてフーリエ変換を使うときは、そもそも物理の教科書にその計算法が書いてあるので、フーリエ変換の公式は覚える必要が無い。


少なくとも、大学2年生に、(特定の分野でしか使わない)離散フーリエ変換の使い道を覚えさせるのは馬鹿げてる。


他にも、あたまの痛い事例がある。

ほかのある大学では、「制御工学」という科目名で、2年生あたりでラプラス変換をもちいた制御工学の応用を教える大学もある。どうも、その大学では、通常のラプラス変換は教えてない。

あのねえ、常微分方程式(定数係数)の解法としてラプラス変換を使うこともあるから、制御工学とは別の授業で、ラプラス変換の公式を別に教えてもらわないと、困るんですよね・・・。

普通の応用数学の教科書でラプラス変換を読めば、普通に最初のほうに微分方程式の応用が書いてあるのに、なんでわざわざ、一部の分野でしか使わない制御工学を前面に出したカリキュラム改悪をするのか?


私は仕事で論文を読んで、東工大や東大の機械工学の論文を読んでたら、常微分方程式をラプラス変換で解いてたぞ。ラプラス変換は普通、こういうふうに使うのが標準だよな? 歴史的にも、そういうふうに普及してきたんだし。電気回路の過渡現象の常微分方程式を、ラプラス変換で解くというのも、電気工学者ヘビサイドなどの発見した歴史がある公式で、有名な公式だし。

だからまず、大学のラプラス変換の授業では、普通に微分方程式への応用をやれよ。


どうも日本の学者には無能者がいて、制御工学やら信号処理やらの分野の学者には、無能が多いようだ。

実務を知らない馬鹿教授が、実務からズレた内容を教えてる。かつての高学年(3〜4年)のマイナーな専門科目を、低学年の2年生あたりに下ろして、多大な迷惑を与えている。

制御工学の公式では、機械は制御できないんですよ。制御の実務は、それぞれの現場の経験則(現場の実験で確認した実験式など)を使うんですよ。だから大学での、制御工学の難解な数式や計算練習は、役立たずだし、それどころか、役立たずな理論に権威を与えていまうから、もはや有害なんですよ。大学の制御工学や信号処理の授業は、有害なんですよ。


結局、電気工学での応用数学の教育で最善な方法は、普通に電気数学の教科書で、電気数学の教育をするのがベストなんですよ。なのに馬鹿な工学者が、それを変えようとして、信号処理だの制御理論だの特定分野を混ぜてカリキュラムに混乱を起こしている。いわゆる「無能な働き者」だ、彼らカリキュラムをいじくる工学者は。

工学部のフーリエ解析の教科書だけに書いてある離散フーリエ変換やらパワースペクトルがどうこうとかの信号処理の理論は、本来なら3~4年生の「信号処理」とかの授業で教えるべきなんであって、なのにそれを2年の電気数学とか教えようとするから、混乱が起きる。

そもそも、そんな信号処理やら制御工学の細かい公式なんて、在学中に習得する必要すら、無い。

まず、パルス1個分やノコギリ波1個分の電力スペクトルなんて覚えずとも、そもそも、たった1個のパルスの電力なんて、実用では問題にならないので、実務でフーリエ変換による電力解析は不要である。いっぽう、大量のパルス波形が繰り返し発生する場合の電力計算で必要な数学は、フーリエ「級数」であり、フーリエ変換ではないし、まして離散フーリエ変換ではない。

そして、その大量のパルス波形が発生する場合の電力の求め方ですら、実用上はフーリエ級数を無限項まで展開しなくても、せいぜい3項〜5項あたりまで近似展開すれば充分である。(工業高校なんかだと、こういうふうに近似するよな。)

そしてさらに、そのフーリエ級数の有限近似展開すらしなくても、測定器として電流計や電圧計や電力量計などを用いれば、実験的に電力が求まってしまうし、しかも、実験的に求められた値こそが、物理的に真実の正確な値である。


フーリエ級数ですら実務では、無限項の一般項を求める必要性は少ないのに、ましてや離散フーリエ変換などは使い道がないのである。


さて、政治報道では、政治選挙の当選後3ヵ月は、マスコミは与党の当選政治家を褒めるらしく、ハネムーン(新婚期間)という。

離散フーリエ変換などの提唱当時の新理論なんて、せいぜい提唱後15年くらいまでをハネムーンとして、実務での使い道がなくても、大学院とかの選択科目とかで、希望者だけに離散フーリエ変換などを教えるべきだった。

なのに、役立たないままの理論が、理系大学では淘汰されず、「10数年前から教えてるから」とかの理由で定着してしまうのが、理系大学の教育カリキュラムのおかしさ、杜撰さ、稚拙さ、である。


そもそも、数学や物理学あたりに、このような役立たずの理論が多い。シュレーディンガー方程式は結局、役立たずの理論である。

当初、シュレーディンガーの理論などで、化学反応などを理論的に予測できるようになるかと思われてたのだろうが、結局、21世紀の現在でも、そうではない。(だからこそ、高校で習うような、シュレーディンガー方程式によらない一般化学の理論がある。)

研究ですら、産業などで実用化されている化学の、実際の研究手法は今だに、理科実験室みたいな場所で、試験管などで実際に化学反応を起こしてみる事である。けっして、シュレーディンガー方程式を解くことではない。

でも、シュレーディンガー方程式はノーベル賞を受賞している。

要するに昔のノーベル賞なんて、その程度の、ハネムーン的な賞なのだ。

湯川の中間子理論だって、結局、陽子と中性子のあいだに素粒子なんて、21世紀のいまでも見つかっていない。だけど湯川は、クラインゴルドン方程式の研究成果として中間子を提唱し、ノーベル賞を受賞した。これだって、ハネムーン的な賞でしかない。


本来なら、10〜20年ほどの(新理論における)ハネムーン期間が終わったあと、淘汰を激烈に行うべきであり、実用性が乏しかったり、実験結果と一致しない部分は、たとえノーベル賞の受賞理論だろうが、教育から追放・廃絶させるべきなのである。


さて、離散フーリエ変換やら信号処理なども、提唱直後はハネムーンでしかない。

理系大学のダメな処として、「ハネムーン」という発想がなく、実用性の確認できない理論を淘汰せず、そのため、教育内容がどんどん肥大化していき、カリキュラムが過密になっていく。そのせいで、1科目あたりの予習復習が時間不足になるのである。


数学科卒や物理学科卒の技術者は、信号処理論のこまかい用語も理論も、在学中には知らないぞ。

というか、「実務でつかうかもしれない」と思われようが、細かい事は、就職後に現場の研修で習えばいい。文科系の大学がそういう発想なので、大学では、本当に普遍性の高い事だけを精選して、学生に教え、雑多なことや普遍性の低い事はあまり教えない、というスタンスである。

しかし困った事に、どうも理系の大学には、そういう発想が無い。

それどころか、理系大学は、実務で使ってないことを、実務知らずの大学教員が「実務でも使うぞ!!」とウソを学生に教えて、不安をあおって、勉強させる。もはや霊感商法などのサギ師のような行動パターンである。


機械工学や電気工学の学生が、在学中に計算法を習得する必要のある理論なんて、数学と物理だけであり、あとは、公式集を必要なときに読めばいい。

常微分方程式などの数学と、物理の、力学の慣性モーメント計算や、それと同レベルの電磁気の初歩的な計算くらいだ。

それ以外の物理計算なんて、公式集を必要なときに読めばいい。機械工学や電気工学の個別の公式なんて、公式集を必要なときに読めばいい。

あとの科目は、せいぜい「知らないよりかは、少しは知ってたほうがイイ」だけだ。


考えてみれば、法学部なら、法律の個別の条文は覚えずに、小六法を必要なときに読んで参照するだけである。法学部で覚えるべきなのは、(おそらく)法学的な考えかたであり、個別の条文でもない。

しかし理工系の大学では、そういう「参照する」という発想がなく、工学の公式や専門的な物理の公式を暗記させようとする(そして定期試験では、短時間で計算させようとする)。


法学部や経済学部の、社会科学系の実学系のカリキュラムなどと比較すると、工学部のカリキュラムの欠陥が、上記のように分かる。


法学部では、道路交通法や軽犯罪法ですら、ろくに教えない。なぜなら、法学的な考え方を養成するのに役立たないから。そういう個別の法律は、就職後に実務で必要になった時に、勉強すれば良く、大学では、「その就職後の勉強のための基礎学力を養成する」という発想なので、刑法や商法などの基本的な法律しか、大学の学部では教えないのである。


なのに工学部では、そういう発想がなく、学部の時点で、衝撃波の流体力学の具体的な計算法やら、高電圧の具体的な計算法やら、そういう個別の事を、3年生あたり教えようとする。

書店を思い起こせば、大学教科書を販売している書店に行っても、法学書なら、有斐閣などの教科書出版社ですら大学卒業後の人のために実務書を何冊か出版してあるのに、いっぽう、工学書では、ほとんど、そういう本が無い。


そもそも、電気工事の知識すらない大学3〜4年生に高電圧工学やら発電工学の詳細を理解させるなんて無理でして、本来なら、そういう工学の詳細なんて、卒業後に専門書で教えれば良いだけである。大学では、感電事故などを卒業後に起こさないように、最低限の安全対策などを教えておけば、それでいいのである。

要するに大学教授が実務を分かってない馬鹿なのだが、こいつら馬鹿のくせに「自分は頭がいい」とか思ってるだろうな。


電気工学の授業なんて、電気工事的な作業の安全対策のための知識の定着をさせる事と、あとは学力養成として単に数学教育と物理教育の切り口が、電気方面なだけで良い。

機械工学も同様だ。機械加工などの安全対策のための知識の定着をさせる事と、あとは学力養成として単に数学教育と物理教育の切り口が、機械方面なだけで良い

結局、理工系の大学で理路整然と教えることのできる知識なんて、安全対策の知識と、数学と物理学だけだ。


その物理教育ですら、1年生では、時間の都合で、力学くらいしか計算練習できないんだよ(実際、カリキュラムを調べてみた)。

そもそも高校の物理では微分積分を使わないから、本来なら、微分で解析的に物理を理解しなおすだけで、時間が掛かる。

高校物理の微分化に必要な数学は、微分方程式であり、大学2年レベル終了後である。どう考えても、大学1年生には習得できない。

1年生や2年生は、せいぜい、物理数学の真似事をするだけである。

たぶん、3年生や4年生ですら、高校レベルの物理の公式を微分的に理解できてる人は少なくて、単に授業で習ったとおりの計算法をしてるだけだろう。そうしないと、進級できないし卒業できないから。


結局、アメリカみたいに、大学低学年の物理なんて、日本の高校物理レベルってのが、いちばん合理的である。

裏を返せば、おそらく日本の理系大学生は、ろくに物理を理解できてない。教師が黒板に書いた数式を覚えてるだけだろう。そういう連中が、やれ東大だの東工大だの早稲田や慶応だの理科大だのに、たくさん居るんだろう。


ハッキリいうと、もはや、角運動量や慣性モーメントなんて、大学1年には、理解できないんだ。

それよりも前に、まず、高校2年間で習った物理を、まず微分で理解しなおす必要がある。もちろん現在の大学には、そんな時間は無いか、ほとんど時間が与えられていない。

つうか、そもそも教養課程の物理教科書には、そういう微分公式が書いてあるハズなんだが・・・。しかし現在の理系大学では、そういうのを教えないんだな。少なくとも工学部では。


高校の熱力学なんて、もし微分で理解しなおそうとしたら、偏微分になってしまうからな。(実際、物理学科の熱力学の授業で、そういう偏微分の熱力学公式をたくさん習い、それだけで2単位くらいになる。)


結局、大学1年レベルの高等物理の入門は、駿台文庫の山本義隆の参考書のように、高校レベルの物理でいいから、その物理法則を微分積分で置き換えることに専念するのが、一番合理的である。そして本来なら、それだけで1年以上の年月は掛かる。

もし力学だけに限定して、高校物理を微分で表そうとしても、位置エネルギーとかで、ベクトルの線積分とか必要になるしな。


工学部の馬鹿教員どもは、そういう微分理解が「大学入学後の半年くらいで習得できる」と勘違いしてるが、それはもちろん勘違いであり、大学3年くらいまでに、微分方程式の計算練習やベクトル解析の計算練習などをたくさんして、ようやく、微分的な理解は身についてくる感覚である。

電気工学科とかで1年で教えてる電磁気学なんて、ろくに学生は理解しちゃあ、いないだろ。


私の場合、電磁気学の理解は、自分で書店に行って、矢野健太郎などのベクトル解析の教科書を何冊か書店で買って、計算練習して、それでようやく、「電磁気学で使う数学が、いくつか分かってきた」という感覚になった。

個人的な意見を言えば、電気工学科の低学年のカリキュラムなんて、「教養課程の物理の電磁気学を必修にする」くらいでいいんですよ。というか、高校がそういう場所だ。

高校の物理教育なんて、単に『物理』という1冊の教科書を丹念に読み解いたり、計算練習もするだけだ。

教養課程を低レベルだと思う意見も多そうだが、それは単に大学教養課程での採点基準が甘いだけだ。市販の「教養の物理」などのタイトルの大学教科書の内容は、そんなに簡単じゃないですよ。


日本の大学はね、科目数が多すぎなんですよ。もっと科目数を減らすべきですよ。各科目で計算練習の時間とかも、2~4単位ほど、とるべきなんですよ。「微分積分」4単位のほかに、「微分積分演習」4単位みたいにさ。その演習の時間で、例題とか基礎問題とかの練習をしてればいいんだよ。

微分積分や線形代数の単位(通年)が、たったの4単位なんて間違っていて、本来なら、線形代数だけで8~12単位くらい与えるべきなんですよ。

計算練習とかで、そんくらい大量の時間が、必要なんでずよ。

だいたい、高校で数学Cや複素数やらが、たびたび高校カリキュラムから外れるのに、大学1年生で、オイラーの公式やら、線形代数の固有値やら何やらを、そんなスグには理解できませんよ。

結局、単位基準の「授業時間の2倍の予習復習を、単位の基準にする」というのが、そもそも間違っているんですよ。


ひとむかし前のテレビ番組で、アメリカの大学の授業の理系科目を見ても、どう見ても、授業時間の2倍の予習復習なんて、してるようなレベルではなく、日本でいう高校レベルの内容だった。


そもそも予習復習の時間なんて、理系大学生は、ほとんど取れないんですよ。そもそも「復習」には、かなりの時間が掛かるんだよ。受験の浪人生なんて、高校レベルの復習にすら、数年の年月を掛けるんであって。

私なんて30歳すぎの大人になってすら、高校レベルの化学や生物など暗記科目の教科書を読み返して、いまだに新発見があるんだぜ(まあ、高校教科書も内容がどんどんと新しくなってるって事情もあるが)。

また、高校の教科書がどんどん新しくなってるって事もあるように、高校教科書の復習ですら、そんなに低レベルではない。いまや高校教科書でも、量子力学の初歩の不確定原理とかを教えてるし。


「復習に時間が掛からない」と勘違いしてる人は、たいした勉強をできていない人である。工業大学のカリキュラムを作ってる馬鹿教授は、こういう勘違いをした、たいした勉強のできてない人である。


そもそも1冊の教科書では、学力は身につかない。高校の数学Cだって、高校教科書 + 参考書による問題練習 + 入試対策問題集 という3段構えで、やっと習得している。


なのに理系大学の線形代数の教科書が1冊の教科書と授業週1~2コマの授業時間だけで、身につくわけがない。

医学部なら国家試験のための対策授業があるかもしれないが、理工学部にそんなの無いしなあ。


要するに、もはや日本の理工系大学では、基礎学力は身につかない。理工系の場合、日本の学校教育によって学力が身につくのは、高校まで、ですよ。高校カリキュラムをつくってる文部省が、そんだけ優秀って事だ。裏を返せば、理工系の大学のカリキュラムを作ってる理系の学者どもが、すさまじく無能で愚かだということ。

理系大学の混乱の原因のひとつは、文系学部ならある総論的な入門科目が存在していない事

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文科系では、専門科目でも大学1年むけの、初等的な科目がある。

法学部ですら、1年生むけに、初等的な教科書をつかって、その科目の総論的な講義をする。

たとえば有斐閣から出ている有斐閣アルマシリーズの、民法や刑法や会社法などの、ハンディサイズの教科書だ。

いきなり物権法とか債権法とかの詳細に立ち居らず、まず民法の総則とかを、1年や2年生むけに、初等的に講義するワケだよな。

別にアルマシリーズでなくてもいいが、法学部ですら低学年の授業では、教科書は低学年むけに、簡略化された教科書を使っているわけだ。


さらに詳細な民法や刑法や会社法などを習いたい人は、高学年になって、より詳細な民法や刑法や会社法などの、それぞれの科目を習いってワケ。

ある難関大学では、2年で民法を習うけど、3年でより詳細な民法を習う、などの時間割になってたりするワケだ。


商学部でも、簿記なら、低学年むけの初等的かつ総論的な簿記があって、それとは別科目で、高学年むけの専門的な簿記の授業もあるワケだ。


経済学部でも、いきなりミクロ経済学とか各論を教えるのではなく、まず「経済学入門」とかの科目名で、総論を1年生に教えるわけだ。


しかし日本の理系の大学では、低学年むけの初等的な総論科目の設置を、ぜんぜん行っていないのである。

理系の専門科目では、低学年の最初から、高学年でも、そのまま通用する各論の理論と計算法を、低学年で教えるのである。

たとえば機械工学科あたりの2年生あたりの材料力学の最初の授業では、けっして、材料力学の概論や入門を習うわけでなく、2年でいきなり、卒業後もそのまま使える材料力学の計算法ばかりを習う。

いや、そういう実務的な細かい教育もあってもいいが、しかしそれとは別に本来なら、全体像を使むための計算練習とかも行って欲しい(しかし、そういう計算練習の科目は無い)。

機械工学科だけでなく、電気工学科とか土木工学科とか、工学部のほとんどの学科の専門科目が、同様である。電磁気学でも土木構造力学も、いきなり、そのまま仕事でも使えるような計算法の細かい各論ばかりを、習うのである。

数学科や物理学科なども、同様である。低学年むけに簡易な話題だけを集めた教科書というのが、そもそも理系のほとんどの科目に、ろくに存在していないのである。


例えば理系の大学1年の『微分積分』の教科書は、あれは別に、けっして、1年生むけに精選して解析学の総論の話題を選んでいるわけではない。けっして、民法や簿記の科目のように、1年むけの微分積分とは別の、2年以上むけの詳細な微分積分とかが、あるワケではない。

微分積分なんて膨大な分野だから、本来なら、たった1年の授業で終わるハズないのだが、しかし日本では、たった1年の授業で微分積分を終わらせるのである。


1年の微分積分の教科書では、高学年でもそのまま使える微分積分の各論の計算方の話題を、そのまま1冊の教科書にぶち込んでいるワケである。

線形代数の教科書も同様である。


とにかく日本の理系の大学では、低学年むけの簡略的な科目の設置を行っていないため、文科系の学部や諸外国と比べて、専門科目の時間割が、最低でも1年間ぶん、前倒しになっているのである(ヘタしたら科目によっては2年ほど、前倒しになっている)。

いやもしかしたら欧米もそうかもしれないけど、じゃあ欧米も間違ってるだけだ。 なんというか、高校の数学だと、もっと全体像を教えますよね。でも大学、そういうのが無いんですよ。

これが、日本の大学で理系が、忙しい原因である。要するに、カリキュラムをつくっている大学教授たちが、本来なら作るべき教科書を作らず、つまり初等的・入門的だが総論的な教科書をつくらずに、教員が手抜きをして、専門科目をそのまま低学年に教えているわけである。

理系の大学では、そもそも教員たちの大学教育に関する常識が間違っており、そのため、文科系の教育では作られているハズの、低学年むけの総論科目の教科書が、理系大学では、まったく制作されていない。

そして、総論的な低学年科目が理系学部には存在していないため、バランスの取れた学力が養成しづらくなっている。


それでも数学科目や物理科目などは、教養科目があるので、まだマシである。

ヒドイのは、工学の専門科目である。

例えば機械工学科では流体力学で、3年生で、気体など圧縮性流体の衝撃波の方程式などを習う。でも、よくよく考えれば、3年生じゃ無理な内容である。

なぜなら機械工学科では3年生あたりは、実験実習などで、とても忙しいのである。

なのに、2年生で習う、液体などの非圧縮性流体ですら、まだ全てを習いきってない状態なのに(流体力学は膨大なので、1年間の授業では、扱いきれない)、さらに、気体圧縮性流体の衝撃波の方程式などを習うワケである。

うん、無理だ。


本来なら、こういう難解な分野をあつかう科目は、まず「気体流体工学 入門」などの科目名で、エアコンなど空調機器の話題とか、または自動車や飛行機などの空気力学がらみの設計ノウハウの話題とかも混ぜて、総論的に入門的な話題を扱えば充分なのであろう。


というか本来、工学部の大学3年生の授業なんて、「◯◯(各論の分野名)工学 入門」みたいなもんで、充分なのであろう。

たとえば電気工学科の3年なら、けっして「電気機器」の詳細をいきなり教えるのではなく、「電気機器 入門」などの科目名で、まず、電機機器工学に、発変電工学など(2年生までは習ってないだろう)強電系の話題もまとめて、入門的かつ総論的な内容を、大学レベルとして微分積分などを使って講義すれば充分なのであろう。


ああ、こういう教科書、まったく読んだことがない。そういう総論的な教科書は、理系大学には存在していないのである。

というか、工業高校の「電気基礎」「電気機器」やら市販の電気工事士の教本の何やらが、そういう教育をしているのだが、しかし大学では、こういう教材を使わないしなあ。

結局、工学で、たかだ週1コマ(90分)の半年の授業で習得できる事なんて、せいぜい工業高校レベルに毛の生えた程度まで、なんですよ。せいぜい、微分積分をつかって、工業高校の公式を理解しなおせれば、もう学生レベルとしては十分なのよ。

なぜなら、それ以上の各論への深入りは、勉強時間が不足するんですよ。実験や実習もあるし、数学や物理などの他科目もあるから、工業高校レベルを大幅に越えた工学の各論の詳細なんて、勉強時間が無いんですよ。

そっから先の詳細は、本来なら、卒業後に勉強する事になるのよ。


声明: 日本企業は戦後、就活で高度経済成長期に私大卒を差別をしたのではないか?

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戦前、私大には入試がなかったんだ。

だから、今でいう、専門学校卒みたいな扱いだった。

まあ、それでも、司法試験みたいなのは受験できたから、勉強法を教わろうとして、私大に行く人が多かったんだ。

でも、企業にとっては、入試を受けてないって事で、あまり、大企業には入りづらかったらしい。

ここまでは、まあ分かる。(これはこれで問題かもしれないが、本件では、扱わない。)


問題は戦後だ。

戦後、学制が新制になって、大学進学者も増えて、私大も入試をするようになったんだ。

ところが、私が理工書を読んでると、その理工書の著者が元 大手電機メーカーの企業の技術者 である場合、学歴が国立大学卒ばかりなんだ。東芝、日立、三菱電機、日本電気、・・・出身の技術者の学歴が、国立卒ばかりなんだ。たまたま私が読んだ本がそうだったのかもしれないが、早慶卒すら、見当たらなかった。東大京大の人のほかには、茨城大(日立の地元が茨城県)とか岡山大とか東工大とか、そういう学歴だったりするんだ。

ここで私は疑念を感じた。

日本企業は、戦後になっても、高度経済成長期の頃から、私大が入試を行うようになったにもかかわらず私大卒の就活生を就活で差別したんではないかと?


なお、昔の入試は、国立大学も私大も、理系は三教科だったりする(と伝聞で聞いている)。

入試で5教科受験とかをやりはじめたのは、共通一次が開始されてからである。


また、昔は、地方国立よりも、関東圏の私大のほうが、受験倍率が高かった時代もあったんだ。東京の大学は、全国から人が集まるんで、それだけ競走倍率が高かった。

入試科目が国立も私立も同じ三教科なら、どう考えても、茨城大や岡山大よりも、早慶のほうが難関だったんだよ、昔は。下手したら、マーチのほうが、茨城大よりも難関だったかもしれないよ。

なお、東工大は、今でこそ5教科型の受験をするし、文系科目も得意な5教科受験型の学生が集まるかもしれないが、しかし共通一時以前の高度経済成長期の東工大の入試は、おそらく違うだろう。だいたい、東工大の前進は、官立の工業系の専門学校である。高度経済成長期(および、それ以前)の東工大に、5教科受験型の文科系の得意な学生が集まる理由もない。

つまり、ある時期までの東工大の入試は、現在の理科大と同じような入試だろう。にもかかわらず、理科大卒の技術者の理工書が、見あたらず、東工大卒の(元大手電機メーカー勤務の)技術者の理工書が見当る。(そもそも理科大卒の学生が戦前から、就活で差別されてたのでは・・・?という疑惑すら感じているが、本件では深入りしないとしよう。)

とすると戦後の一時期、私大生が、入学時も卒業時も、国公立と同じ学力なのに、就活で差別されたのでは・・・?という疑念を感じている。

要するに、日本企業は、ろくでもない。

仮説: 携帯電話の電波について

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(※ そのうち、通信工学とかの教科書を書こう。)

携帯電話の技術の正体は、おそらく、警察無線やタクシー無線だ。 日本中、どこでも警察無線がつながるように、かなり昔から、無線通信のための基地局が、日本の各地の電信柱などに設置されてたんだろう。

なので、じつは1990年代の携帯電話の普及前から、無線通信の基地局が日本各地に設置されてたんだろう。

その費用は、税金や電話料金として、国民が知らずに負担してきたんだろう。

思うに、携帯電話の電波の仕組みは、おそらく、実はローカルテレビ放送の仕組みと同じで、その地域一帯に通話内容の電波が飛びかっている。

言わば「通話放送」とでも言うような仕組みだろう。通話相手以外の電話機にも、通話内容の乗った電波そのものは届いている。

よって、原理的には盗聴が可能である。現在の携帯電話で他人の会話を盗聴できないのは、単に、携帯ハードメーカが良心的だから、そういう盗聴が不可能なOSにしている、すぎない。

また、暗号化などもしてあるだろうから、個人では解読できない。


事実、1990年頃の昔のアナログ無線では、コードレス電話などの通信が傍受できた(マンガなどで、そういうシーンを見ている)。というか、秋葉原でそういう受信機が販売されていた。

いまの携帯電話の原理も、デジタルとアナログの違いを除けば、あのアナログ無線と同じなんだろう。


NTTのサイトなどで、携帯電話の通話の仕組みをみると、あたかも通話相手にだけ電波が届いてるように絵が書かれているが、思うに、あの絵はウソだろう。

また、通話が歩いて移動しても通話が途切れないことから、けっこう広い範囲(少なくとも数キロメートル以上の範囲)に、通話内容の乗った電波が飛びかっているのだろう。


昔のコードレス電話の想像から、なんとなく、「せいぜい数百メートルの範囲」の電波を想像してしまいがちだが、それだと、電車などに乗っていて座席で通話してても、なかなか通話がきれないのが説明がつかない。

だから、けっこう広い数十キローメートル以上の範囲で、通話内容の電波が乗った「通話放送」の電波が飛びかっている。


もともと、携帯電話の電波の仕組みは、ワンセグ放送みたいな原理なんだろう。

ワンセグは単に、「テレビ放送電波みたいに地域一帯に電波を発信してるんだったら、だったら、余った電波で、テレビ放送すればイイジャンか」という先祖返りなんだろう。


通信工学にあるセルラー理論では、ひとつの基地局がカバーする領域をマクロセルといい、その広さはおおむね半径にして数百メートルの広さだと言われる。

しかし、それだと電車や自動車での通話が不明である。まあ、自動車での運転中の通話は禁止されているからイイとして、問題は電車だ。やはり、マクロセル異常の広さをカバーできるなんらかの電波が利用されていると考えざるを得ない。既存の教科書は探求が不十分である。

さらに小さい半径のフェムトセルという半径数十メートルの領域が2008年代には提唱されているらしいが、どうせ単に「国際規格化されたのが2008年」だというだけで、たぶん昔からそういう数十メートル規模の送受信アンテナと通信網は日本各地に立ってたんだろう。どんな技術も、規格なんてできる前から存在している。ネジや釘もそうだ。


告発

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経歴

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  • 国籍 :日本人
  • 母国語 :日本語
  • 得意分野 :主に理工学系。機械工学を中心に、物理学や応用数学などを少し学んだ。
  • 年齢 :大人

Self-introduction

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My handle-name's pronunciation is "Su Ji Ni Ku - Si Tyuu"

  • Nationality  : Japan.
  • Mother tongue: Japanese.
  • A specialty  : Science and engineering .Mainly specialty is mechanical engineering, and on the other , engineering mathematics and physics just a little .
  • Age      : Adult

私の話す言語について

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私は、日本語を話せます。
少しだけ、英語が話せます。
他の言葉は話せませんので、その場合は機械翻訳に頼ることになります。

About language which I speak

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I can speak Japanese.
Just a little bit, I can speak poor English.
Since I can not speak other languages​​, I will be talking in that case rely on machine translation.

「すじにくシチュー」の元の言葉の意味

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牛肉のアキレス腱の部分とか横隔膜とかの部分らしいです。細かいことは知りません。

Meaning of "Sujiniku-Sityuu"

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"Sujiniku" is beef sinew; fibrous beef; beef tendon. "niku" is meat. "Sityuu" is Stew.

他の活動場所

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ウィキペディアでの利用者ページへのリンク、こちら。( The link of My User page in Wikipedia is next one. )

w:利用者:すじにくシチュー

作業用

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教科書の執筆で使いそうな表などを、この節に置くことにした。

おもな税金
  直接税 間接税
国税  所得税
 法人税
 相続税
 消費税
 酒税
 関税
 たばこ税
地方税  住民税
固定資産税
 たばこ税  


学校生活ガイド

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余計な友人・知人をつくってはいけない

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教師の言う生徒みんなで仲良くしましょう」は信用してはならない

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学校の教師は、生徒すべてに平等に接しなくてはならないので、「生徒みんなで仲良くしましょう」などと指導する。

しかし、不良生徒の中には、こういう風習を悪用して、悪事を行って他の生徒に嫌がらせをしても、ときどき、いじめた相手と一緒に遊んだりして、いじめをやむやにする連中も多い。

大人になるにつれて、そういう不良連中とは縁を絶っていくことになるのだが、小中学校の時点だと、学校でも集団行動をさせられる事が多いので、縁を立つのは難しい。

そもそも外見だけでは、不良だと判別がつかない場合もある。金髪や茶髪に染めてなかったりすれば、不良かどうかなんて、外見では判別不能である。


不良が、いたずらと犯罪の区別がついてない未熟な人物かのように装う場合もあります。しかし、おそらく、実際は、いたずらと犯罪の区別がついており、意図的に、未熟な人物を装っています。

また、そもそも不良本人が、自分自身が不良だと気づいてない場合もある。「髪を染めてないし、タバコをすってないし、大学進学を目指して、学校のテスト前にはテスト勉強をするので、だから自分はまじめな一般の生徒」などと、不良本人が勘違いしている場合もある。

だから、一般の生徒としては、そもそも他の生徒児童とは、最初から仲良くしないようがいい。

だから、教師の「みんなと仲良くしましょう」という指導は、そもそも間違っているのである。


なお、このような不良が小中高の学校には居るので、あまり学校に貴重な物を持って行かないのがベストである。お気に入りの○○とか、ついつい普段から持ち歩きたくなりますが、しかし、学校には持ち込まないのがベストです。あまり、大切なものは、家の外に出さないのがベストです。

大切な品物は、家庭内で使用しましょう。

お金も、運賃や食費などで必要がないかぎり、学校に持って行かないのがベストです。

高校の通学や昼食の食費などで金銭が必要な場合でも、盗まれる場合も想定して、学校には必要最小限より少し多い程度の小銭を持ちこみましょう。

そこそこ偏差値の高い高校でも、万引き事件は、よく起きます。

こういう理由もあって公立の小中学校では、普段はお金やサイフを学校に持って行かないように教師が生徒に指導するのも、当然です。

カネを盗む生徒がいるんですよ、残念ながら。


不良とは別の、困った生徒

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不良とは別ですが、すぐに怒ったり、あるいは、不愉快なことがあると、相手を殴ったり、爪で引っ掻いてきたり、平手で叩いてきたりする生徒もいます。 被害者が女子の場合は、加害者が女子の髪を引っ張ってきたり、・・・などです。

小中高では、こういう未熟な生徒でも、そこそこ成績が良かったりして、優等生だったりします。


他人を殴ったりする生徒は、かならずしも体格が大きいとは限らず、逆に体格が小さい子供でも「自分は小さいから、相手が殴り返した場合のヤリすぎを恐れて、仕返しをしてこない」だろうと考えて、気軽に殴ってくる場合もあります。

一見すると、誰がこういう未熟な生徒だか、すぐには分からないので、いっそのこと、最初から、あまり同級生の相手をしないのがベストです。

また、こういうことをやられた場合、けっして生徒どうしで解決しようとせず、さっさと自分の親に相談し、そして、親から教師や相手の親に交渉させましょう。

一見、軽度のいじめは、生徒どうしで解決したほうが早そうですが、実態は違います。

なぜなら、他の一般の生徒は、トラブルに巻き込まれたくないので、大人の介入のないかぎり、放置します。

なので、さっさと親に相談しましょう。


教師はことを荒立てたがらずに不良を罰しないので、最悪、弁護士に相談を

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もし不良や暴力的な生徒に、とてつもない嫌がらせをされた場合、教師に相談するのではなく、自分の親に相談しましょう。被害が思すぎる場合は、親を通して、場合によっては弁護士に相談してもらいましょう。そして弁護士を通して警察に刑事事件として持ち込ませると、圧力を掛けるのが良い。

もちろん、これは最終手段です。

ですが、弁護士や警察に持ち込むほどではなくても、さっさと親に相談して、警察などへの持ち込みの圧力をかけつつ、保護者どうしで解決させるのが、ベストです。

不良たちは「親や教師に相談するなんて、卑怯だ」などと意味不明な理屈を主張したりしますが、卑怯なのはどう考えても、不良や暴力生徒です。

また、不良からの仕返しや報復を恐れる必要はありません。親に相談するのが、もっとも仕返しの少ない方法です。仮に仕返しをされても、ほぼ確実に、親が警察や弁護士などに相談し、確実に刑事事件化して、加害者が刑罰を受けるので、安心してください。

ある程度以上、不良からの嫌がらせが酷い場合は、それを相談せずに当事者どうしで解決しようとする事こそ、もっとも危険です。


親は生徒どうしの事情を知らないので、他の生徒の協力が必要な場合もありますが、その場合も、やはり、けっして生徒どうしで解決しようとするのではなく、親を通すの確実です。

(前の節でも述べたように)、他の一般生徒は、トラブルに巻き込まれたくないので、大人の介入のないかぎり、生徒間のいじめ・暴力などの問題を放置します。

そもそも、他の一般生徒は警察はないので、そのような生徒間の問題を解決する義理もありません。

なので、まわりの一般生徒の介入を待つのではなく、さっさと親に相談してください。


また、不良には、学業をサボったりするので時間が豊富にある一方で、被害者側のマジメな一般生徒は学業などで忙しく、不良との対応を考える時間などは時間がない。


私も、大人になった今から思えば、不良などの相手で困った場合、親に相談した場合が、もっとも解決が早かった。


ちなみに弁護士の相談料は、1時間あたり数万円である。相談するだけなら、あまり高くない。 また、地元の弁護士を探すには、市役所などに行けば、役所の職員から付近の弁護士事務所の場所を教えてもらえる。 もっとも、弁護士への相談は、最終手段である。

まず、親に相談すべきである。

なお、親の中にも、頭のわるくて「不良とも、生徒みんなで仲良くしましょう」とか思ってるバカな大人がいるので、その場合は、その親がバカだということを自覚させるために、たとえば、私のこの文章を読ませましょう。


塾でも、困った不良はいる

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塾とかにも、そういう困った不良じみた塾生がいる場合があります。ほかの塾生を重いっきり痛くツネッたり(「殴らなければ、問題にならない」とか考えてるようだ)、侮辱してきたりする人も、塾生に居る場合があります。(私の実体験です。)

これまた、塾講師に相談しても、無駄な場合がある。加害者の塾生も被害者の塾生も、両者とも塾生だから、塾講師は、ことを荒立てたがらず「二人とも仲良くしなさい」などと言ったりする場合もある。

塾講師がこういう「二人とも仲良くしなさい」などという場合、親に相談して、自分が、その塾をやめましょう。(私は親に、こういう困った塾生に嫌がらせをされてる、・・・と相談したら、その塾をやめさせてもらえた。) かわりの別の塾なんて、いくらでも、あります。

学校のクラスメイトなどに万引きの見張りをさせる不良

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不良が仲間を増やす手口として、「万引きの見張りをさせる」というのがある。

万引きとは別の理由で遊びに誘って、そして「買い物をしよう」などと店に入って、その遊びの先でいきなり万引きを初めて、その見張りをさせるわけだ。(なお私は、中学時代、同級生にコレをやられた。)

一般人は同級生から「放課後に遊びに行こう」と誘われたら、「むやみに断るわけにはいかない。」と思うし、遊びの外出先で、いきなり目前で万引きを始めたら、「ことを荒立てなくない」と思うのが一般的な子供の発想だから、見張りに加担してしまう、・・・というワケだ。

・・・で、こういう不良連中でも、そこそこの偏差値の高校に合格できてしまうワケですよ。

・・・で、こういう不良連中でも、部活動とかに熱心だったりするわけですよ。結局、部活動では、人間性なんて治らないんです。


江戸時代の「鎖国」についての私の意見

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次期学習指導要領から『鎖国』の表記が消えるらしい。

まあ、指導要領から消えても、教科書から消えるとは限らない。だが、あまりにもネットの世間の意見が低レベルだと感じるので、いろいろと自分の思う意見を書いておこう。


  • 「貿易をしてたから『鎖国』ではない」という意見。

→ 昔から誰も「江戸時代の日本は、いっさい貿易してない」なんて言ってない。昭和の昔からの学校教育ですでに、江戸時代の日本はオランダや中国とも貿易をしていた事を教わっている。だいたい、北朝鮮ですら貿易をしてるが、どうみても北朝鮮を『開国的』とは言えないだろう。

学力のひくいバカなヤツが、勝手に『鎖国』という言葉を「日本はどこの国とも貿易してない」(×)と誤解して、「その誤解を解くために用語を変えろ」と言ってる。変えるべきは用語ではない。用語の意味を誤解をしている人に、「あなた、用語の意味を間違って覚えてますよ」と指摘する事のほうが必要だろう。

また、「一部の国と貿易してたという例外があるから『鎖国』『閉国』ではない」なんて言い出したら、法学の概念や法律なんて、例外があるから、法学用語が全滅するんだが。

史学会の日本史部門は、いろいろと頭が悪そうである。なるほど、歴史学ではなく法学が、日本では文科系のエリート学問なわけだ。

そもそも、『鎖国』という表記は『貿易』だけを指すのではない。日本からの漂流民が海外に流れ着いても、日本に帰国したら帰国民が処罰されたり、そういう実態もふくめて、『鎖国』などと呼んでいるのである。ジョン万次郎とかを、どう教えるつもりか。


  • 江戸幕府の公式な制度としての『鎖国』はない、という意見。

→ 北朝鮮だって公式には「民主主義」だし(朝鮮「民主主義」人民共和国)、中国の「人民解放軍」はチベット・ウイグルへの侵略軍ではなくなるし、中国の「自治区」では自治を許されてる事になる。どうやら日本の史学会と文部省の歴史教育の担当部署は、思考回路が中国・北朝鮮レベルらしい。


  • 江戸時代の当時、『鎖国』という用語は使ってなかったので、教科書から消すべきという意見。

→ 「藩」という用語は廃藩置県のときに出来た、と言われてるんですが? 『江戸幕府』という用語自体、滅んだ鎌倉幕府や室町幕府を連想させるため、江戸幕府は自分たちの政権を呼ぶのに『幕府』という用語を使わせなかった、と言われてるんだが? そもそも『日本』という用語自体、縄文時代には存在しなかったと思われる。

社会科にかぎらず、他の教科でも、たとえば英語教育でも、「主語」syugo という英単語はないし、「動詞」dousi という英単語もないが、しかし「主語」や「動詞」という用語を英語の授業でも教えてるだろう。

  • 『鎖国』という用語が「開国すべき」という幕末ごろからの幕府への批判的な価値判断を含むから良くない、という意見。 

→ 宇宙論の『ビッグバン』という用語は、当初は批判的な意味で用いられたとも言われている(そうでないという説もある)。 由来が批判的な用法だろうが、実態を反映していると思えば後世の研究者はその用語を使えばいいし、反映してないと思えば使わなければいよいだけだ。いろいろと教養の足りなさそうな意見である。

結局、検定教科書を見ると、どうも当面は『開国』という表記は残すようである。では、それまでの日本は『閉国』だったわけで、やはり『鎖国』という表現が的を得ている事になるではないか。

勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家たち

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世間の教育インチキ評論家の中には、単に受験競争で、名門の大学に合格して進学しただけの受験競争の「勝者」なだけなのに、受験ノウハウに詳しいと勘違いしている人も多いし、教育情報に詳しいと勘違いしてる人も多い。

スポーツの名選手と名監督が別々の才能なように、他人に教わった受験ノウハウを実践できる事と、受験ノウハウに詳しい事とは、別々である。

極端な例をあげれば、毎日朝から晩まで受験勉強だけをしていて受験以外の勉強をしてない人は、受験の成績は良いだろが、べつに受験ノウハウには詳しくない。(べつに道徳的に「受験勉強しかしてないのはケシカラン」と言ってるわけではない。そうでなくて、そもそも、受験ノウハウを知ってるのは、その受験生を指導している親や教師や塾講師といった大人たちであり、子ども本人は、受験ノウハウに詳しくない、・・・と言いたいワケである。)

そもそも、「受験や教育にくわしい人」というのは、どういう人であるのかというと、本来は、少ない指導時間でも、生徒を志望校に合格させられるなどのような、短時間で大きな教育効果を出せる人の事である。つまり、時間あたりの教育効果の大きな指導者の事であり、けっして、多めの指導時間により平均的な指導効果の出せる人のことではない。

部活動や委員会活動をしていれば、そのぶん、受験勉強の時間は減ってしまう。音楽や美術などの練習をしていても、受験勉強の5教科の勉強時間は減ってしまう。なので、少ない指導時間で、大きな教育効果を出せる指導者こそが、必要なのである。

しかし、困った事に、世間のバカな一般大衆たちは、受験勝者と受験ノウハウ指導者を、混同しているのである。

なので、世間の連中は、受験ノウハウの勉強のさいに、やれ「弁護士」だとか、やれ「医師」だとかの主張する、つまり、(世間の馬鹿でも資格名を知っている)難関資格合格者の主張する勉強をありがたがる。べつに受験指導を商売にしている人でない人達の勉強法を、世間の連中は、ありがたがるのである。

このような「勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家」は、少なくとも教育評論の分野においては、「インチキ評論家」「デタラメ評論家」である。

そもそも弁護士も医師も、あまり数学や物理といった基礎科学には詳しくない。語学だって、べつに通訳でもなければ翻訳家でもない。


さて、このような「勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家」は、受験の成績と、学校での成績が別物だという事を、知らなかったりする。

まず、小中高の学校での成績と、受験での成績は違う場合が多い。なぜなら、定期テストと受験では出題範囲が違うし、また、学校で使ってる検定教科書が学校ごとに違う。なので、学校の定期試験では、数学ですら問題ごと丸暗記をしたりする人が、高得点を取ってしまたりする事態も発生する。(もちろん、入試では、そのような数学の問題丸暗記は破綻する。)


さて、もし、テスト勉強以外の事を勉強してなければ、中学2年生おわりまで、あるいは高校2年生のおわりまで、学校のテスト勉強ばかりをしていても、高校3年からの受験勉強で、学校テスト対策と受験を、そこそこ両立できてしまうからだ。だから進学校などでは、受験以外の生徒会とか学級委員とかのメンドウな仕事を、他の生徒に押し付けあうという事態すら、発生する。(耳にする)

もしくは、たとえ現役では受験不合格でも、浪人すれば、そこそこの学校に合格できてしまう。

また、受験勝者なだけで教育には詳しくない評論家の特徴として、小中高の教育内容を鵜呑みにする。

実際には、小学校だと、理系教科が専門でない教員が、算数や理科を教えてたりする。なので、小学校教員の指導内容を鵜呑みにしてるようだと、ハッキリいって才能がないのだが、しかし、そんな無才能の生徒でも、小学校テストでは高得点をとれる。というか、そもそも採点してる教員たちが無才能なので、教員と同様に無才能な生徒のほうが、高得点を取りやすい。

そもそも、検定教科書作成の時点で、教育学者などの意見が強く反映されている。問題なのは、この教育学の理論の、信憑性だ。

今は批判されてる「ゆとり教育」ですら、かつては教育学では、称賛されてたのである。

また、現在の小学校の算数の授業では、「かけ算の順序」というのがあって、多くの数学者が反対してるにもかかわらず、そのような授業が行われている。


そして困った事に、現在の小中学校では、テストの成績だけでなく、教師の主観的な評価が、成績評価の基準のひとつにもなっている。つまり、ある生徒が、どんなに定期試験の成績が良くても、もしその生徒が教師からのウケが悪ければ、そのぶん成績を低くされる可能性もある。

しかし、「勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家」というのは、学生時代は、教員の言う通りの勉強だけをしていたりするので(そして、学校で習わない事は、ろくに勉強しない)、教師からのウケは良いのである。

逆に私の場合、学習塾などで学校で習わない事も習ってたり、高校からは自分でいろいろと勉強してたから、そうすると、教師からのウケは悪いのである。

2017年の今でこそ、世間の教師たちは、「学校の成績がわるくても、受験の成績がいい生徒もいる」というのを、さすがに把握してるが、しかし、90年代までは、彼ら教師たちは、そういうのを全く把握してなかったのである。「中学高校の授業での指導範囲が、入試とズレてる」というのを、そもそも教師たちが把握してなかった時代があった。

そしてさらに困った事に、中学では「内申点」というのが存在していて、学校での成績がわるいと公立高校入試に不利になり、さらに、その成績には教師からのウケが含まれていたりする。

また、さらに、入試では要求されないような細かい知識が定期テストに出たりする。最近、調べていて分かったのだが、どうも、近年の入試は、あまり暗記を問わないらしい。

それでも、「入試では要求されないような細かい知識が定期テストに出たりする」は、今ではマシになった。昔は、もっと酷かったのである。


べつに、当時の中学高校の教員を恨むつもりはない。その時代は、子どもの数が多く、受験競争がきびしく、そのため大学入試がクソな内容だったのである。

もちろん90年代でも、理屈っぽい出題だって定期テストでは出されたが、しかし、そもそもの教科書じたいが理屈にあまり深入りしてないので、大した深い理屈は出題できず、なのでテストに出題しても、あまり点差があまり付かない。必然的に、定期テストでは、暗記の比重が増える。

で、「勉強時間を増やしただけの受験勝者の教育インチキ評論家」ってのは、こういうのを、知らないんですよ。なぜなら、そもそも彼らは、昔の時代の、暗記力ばかりを問うテストで高得点をとってきた人たちだから。

公民科目なら、今の中学公民の経済分野の内容のいくつかは、むかしは、高校の政治経済の内容でした。たとえば銀行がそもそも何を商売にしてるかといった、銀行の仕組みなんて、今でこそ中学でも教えてるが、昔は中学では習ってません。

その実例として、私は高校時代、学習塾のやや英語の成績のよいクラスに通ってましたが、その塾でのクラスメイトの高校生は、塾講師から、ひょんな話題で銀行の仕組みを聞かれたとき「習ってない」と塾生は答えました。私自身も、中学校では、銀行について、それほど習った記憶がありません。


小中高の学校での成績なんて、信用に値しない。信用に値するのは、入試の成績である。

それも、理系の私立大学の入試のような、進学後の勉強に直結する入試科目を出している、一部の大学での、入試の成績である。

いっぽう、たとえば経済学部なのに入試に「政治経済」も「数学2B」も出してない大学の入試なんて、信用に値しないのである。


また、センター試験の文系科目は、進学後に必要な最低限の学力とは大きくズレている。理系受験生にとっては、センター文系科目は、過大な負担である。90年代当時、私の同級生で、英検2級とか準1級とかを持ってる受験生ですら、自己採点で惨憺たる成績だったと、私は聞いた。私のセンター受験の記憶の場合、とにかく試験時間が足りないと感じた。センターの数学・英語は、とにかく短時間に大量の問題を解かせるので、時間がたりない。はたしてこれで、英文の読解力を測れてるのだろうか。

現状の教育制度では、「学力」として信用できる成績とは、一部の学校の入試の成績だけであり、しかも基礎学力を測れる成績として信用できるのは、高校入試の成績と、理系大学の入試だけが信用できるのである。また、特定の学科を志望するものに必要な専門知識として信頼できる入試は、現状では、国立大学の二次試験の成績と、あとはマーチニッコマあたりの平均的な私大の入試の成績だけが信用に値するのであろう。(早稲田の入試は、もはや難問コンテストのクイズ芸人養成所なので、論外。)

ところが、国立大学は、そもそもセンター試験で足切りされてしまう。なので、多くの受験生は、その試験を受験できないし、試験の難度も、専門外の学生には合ってない。

そして、せっかくマーチニッコマに一般入試で合格しても、推薦入試とかで入ってきた学生にあわせた授業をされるのである。たとえ平均レベルの偏差値の大学でも、そこに一般入試で合格しようと思ったら、けっこうムズカシイ。

そもそも、たとえ、ある大学の入試偏差値が低くても、かならずしも、その大学への「合格のしやすさ」を意味しない。

なぜなら、偏差値の高さと、要求あれる学力水準の高さとは、違うのである。たとえば入試必須科目が増えると、受験生が敬遠して倍率が低くなるので、偏差値も低くなる場合も多い。また、模試の種類によっては、理系の私立大学だと、文系大学と較べて、倍率が低い場合もある。例えば四工大は、あまり偏差値が高くないような記憶がある。

しかし、困ったことに、世間の教育インチキ評論家と、そのインチキ評論家の支持者は、その事実を知らない、「偏差値の高さと、学力水準の高さ、違う」という事を知らない。


困ったことに、小学校に入学してから高校入試までの9年間、ずっと成績が信用に値しない教育が、行われ続ける。その高校入試ですら、バカ政治家の考えた「内申点」という制度で、信用に値しない学内成績で、入試が不利になってしまう。


また、90年代の昔は、受験生サイドが自発的に受験教科を増やそうとして高校で科目を多く履修しようとも、高校側が対応できない時代があった。(なお、高校の担任教師はこの件で相談に乗ってくれたので、感謝している。) 私は、生物IIを履修できなかった。高校側の規則で、物理IIと化学IIを履修するものは、生物IIを履修できないのである。独学しようにも、現代とは違って、適した参考書が少ない。

生物IIの検定教科書の注文なんて、当時高校生だった私には分からないし、仮に教科書を注文で買ったところで、どういうペースで勉強してもいいかも分からない。つまり、wikibooksで教科書を書いた私の生物IIの知識は、すべて独学である。

べつに90年代当時の高校の教員を恨むつもりはない。その時代は、大学側が、そういうふうに受験生に勉強させてたのである。


証明丸暗記の物理学者・数学者は無能である

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数学者や物理学者・化学者の中には、証明を丸暗記してるだけのバカも多い。


真の理学は、そもそも科目そのものを産み出すのである。だから21世紀の現在、「微分積分」や「熱力学」などの科目がある。しかし日本の教育制度では、既存の科目を絶対視し、既存科目への批判を許さない教育制度である。

ニュートンが微分積分や物理を研究してた時代は、そもそも「微分積分という手法なんぞ、証明ではない!証明に値しない!!」と知識人どもからは思われてたのである。

カルノーサイクルで有名なカルノーが熱力学を研究していた当時、そもそも熱力学は物理科目だと見なされてなかったのである。


だから、すでに存在している科目の詳細を習うのは、エリート教育ではなく専門教育にすぎず、現代日本の理学者は、エリート教育としては失格だ。


このため、エリート教育としては、教養科目をベースに高度化したほうが良い場合もある。


昔の人は、そういう教育制度そのものの矛盾が分かっていたから、旧司法試験のように試験にさえ受かればエリートになれる門戸を開いてたのであろう。

大学教育の、今はなき教養部も、専門科目を絶対視せず検証する視点を養うための教育制度だったのだろう。

アメリカとかが、大学院ロースクールや大学院メディカル・スクールのように、学部では教養科目を重視していて、大学院に入ってから専門教育をしだすのも、同様の理由だろう。


アメリカの教育は、教科書が分厚いだけでレベルが低い。だが日本の教育も、レベルの低さの方向性が違うだけであり、日本もレベルが低い。

しかも、アメリカも日本も両者とも、「自分たちの教育はレベルが高い!!」と思ってやがるバカである。

アメ公は、「こんなに分厚い教科書を読める僕たち、すごいもん!!」とか勘違いしてるバカどもだ。

ジャップ公は、大学受験の時点なら「こんなに難しい試験問題を解ける僕たち、すごいもん!!」とか勘違いしてるバカだし、大学入学後の教育でも「こんなに難しい証明問題を解ける僕たち、すごいもん!!」とか勘違いしてるバカどもだ。

日本の大学教育は、試験問題の種類が大学入学後に証明問題などに変わっただけで、結局、試験の解法だけを鵜呑み・丸暗記してるだけの低レベルな教育なのだろう。

西暦2006年の上場企業の採用試験の英語問題についての体験報告

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私は西暦2006年、就職活動をした。

その時、いくつかの上場企業(製造業、電機系メーカー)の1次試験あたりで採用試験のひとつとして、英語の筆記試験があったのだが、これが全く難しく、私には解けなかった。

さて、ここまでなら、「私が単に英語が苦手なだけ」となる。しかし、いちいちwikibooksのこのページを読んでる読者なら分かるように、私はいちおう、wikibooksで中学英語の教科書を書けるくらいには英語力がある。大学入試でも、いちおう、現役高校生のときに、芝浦工大(たしか電気工学科を受験)に補欠合格し、法政大(工学部の電気電子工学科)に合格し、東京電機大学(たしか当時は工学部の電気工学科を受験したか)に合格できるくらいの、英語力はある。

さらに、出身高校ですら、獨協大学の附属高校である。

すると、大企業の採用試験の英語について、ひとつの推測が上がってくる。

「そもそも、これらの大企業は、採用試験で、志望生に解かせる気のない英語問題を出題してるのではないか? 高校必修英語や大学入試の英語からは、大幅にズレた内容の英語を出題してるのでは?」という推測である。

仮にそうだとして、それが良いか悪いかは、ここwikibooks利用者ページでは問わないとしよう。しかし、このような大企業の採用試験の英語科目が、日本全国の中学高校での英語教育に影響を与えては困るので、ここwikibooks利用者ページにて報告しておくとする。


日本の大学は職業訓練校である。研究者育成の機関ではない。

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日本の大学は、実質的には、偏差値が高いだけの職業訓練校・専門学校である。研究者を育成する機関としては、大学は非効率である。大学に既にいる研究者は、おそらく大学が研究者として育てたのではなく、本人の実力で研究者になったのであろう。

大学には設備があるので「研究機関」かもしれないが、しかし「研究者育成の機関」ではない。

理系も文系も、大学は実質的に、専門学校である。専門学校のカリキュラムに、専門科目の理論の座学と、「教養科目」という名称の数学・理科・社会・英語を追加しただけである。

大学は、研究をするには、現行の大学制度では、無駄・邪魔・不都合な作業が多い。

例えば大学の定期試験においては、やたらと小難しい難問・奇門の出題をされるが、最たる例である。

その業界のプロでも、問題を解くのに手間が掛かったりする難問を、出題する大学が多い。 少なくとも工学部ではそうだ。おそらく、商学部や法学部などでも同様だろう。


そもそも技術や理論とは、小難しかったり手間の掛かる作業を単純化するための工夫の事である。なので、やたらと難しすぎる知識体系は、そもそもレベルが低い体系なのである。

医学とかで例えれば分かるだろう。たとえば仮に、外科医が外科手術でメスをふるうさいに、患者を10cm切る際に毎回、微分方程式をとく必要のある外科医がいたら、そいつは単なる無能である。

つまり実務において、実務で使用しない余計な技能・知識などは、排除・淘汰する必要がある。

しかし、大学教員は、実務からのズレを反省するどころか、無能教員じしんは、「学生を鍛えてあげてる。論理的思考を身につけさせてやってる。使い物になるように、甘やかさずに鍛えてやってる」とか勘違いしているので、タチが悪い。


しかも困った事に一般大衆の多くは、発想が小中学校のカリキュラムで止まってるので、「学校の教員=学生よりも物知り」、「多くの知識があり、特技が多い生徒 = 優秀」「難しい知識体系 = 高度な理論」と思ってる馬鹿が多いのである。

しかも大学は、その「やたらと小難しい難問」を出すために、定期試験のその科目の試験範囲を狭める。

たとえば機械工学なら、理想的には高校の教科書とかを使って、さっさと1年間くらいで、高校みたいに簡単な内容を選んで「機械要素」も「材料力学」も「流れ学」も「機械要素」も教えればいいのに、しかし大学はそういう事をしない。

大学の「機械要素」の科目では、機械要素の解説だけしか書いてない教科書を使って、しかし高校では習わない、やたらと難しい事を教えたりする。

同様に、大学の「材料力学」の教科書なら、材料力学の解説だけしか書いてない教科書を使って、高校では習わない、やたらと難しい事を教えたりする。

このように、大学の授業は、縦割りである。おそらく大学教員たちにとっては、このように縦割りにしたほうが、業績の自己アピールをしやすいのだろう。

こういう縦割りでマニアックな重箱の隅をつつくような知識を出題するだけの大学のくせに、しかし大学教員は反省するどころか、「我々、大学教員は、学生の分析力を鍛えてあげてる」とか勘違いしているので、タチが悪い。


しかも、やたらと難しい問題が出るわりには、証明は不正確であったりする。そもそも数学者などは、機械工学のさまざまな「定理」を、数学的な定理だとは認めていない(電気工学も、ほど同様)。しかし、そのような「定理」が、数学的には価値の保証されてない「定理」が、大学の機械工学科の定期試験には出題されるのである。

要するに大学は、大学の既得権益を守るために、縦割りの世界に篭もり、世界を閉ざしているのだ。


電気工学も同様である。

大学の「電気回路」科目は、電気回路の事しか教えない。大学の「電磁気学」は、電磁気学の事しか教えない。また、化学のイオン傾向とかの話題は、とうぜん「電気回路」や「電磁気学」では教えない。電気回路と電磁気学と電気化学がどう結びつくかは、大学では教えられないのである。

工業高校ですら、「電機基礎」科目で、電気回路と電機磁気学と電気化学をまとめて教えてるのにさ。

しかも、それぞれの科目で、やたらと小難しい事を教える。もちろん、プロの電気技術者が仕事では使わない問題の解法の知識を、やたらと大学では教えて、それをテストで出題するのである。たとえば「テブナンの定理」とか、電磁気学のさまざまな微分方程式とか、仕事では、まず使わない。しかし、そういう仕事で使わない分野ばかり、定期試験では出題されるのであり、それらの問題を短時間で大量に解くような出題をされるのである。


教養課程の数学や物理も、似たようなもんである。

たとえば数学なら、線形代数なら、固有値や固有ベクトルの話題を扱う単元なら、高校みたいに2次元の範囲に限定して、さっさと固有値や固有ベクトルなどを教えればよいものの、大学はそういう事をせず、まず一般のn次元の行列における固有ベクトルを教えたりするだろう。

微分積分でも、大学は、めったに使わない単元を教えるために、微分方程式などを後回しにしたりするわけだ。高校の参考書ですら常微分方程式をあつかっているのにさ。(まあ、「物理数学」などの科目で、微分方程式を入学当初の早めに教える場合もあるが。)

文系の学部でも、専門科目は同様だろう。たとえば法学部で民事法を教え始める時は、民法総則ばかりをやたらと教えたりしてるんだろう。しかも、民法総則の細かい知識ばかりを教えてると予想。

商業高校の「経済活動と法」科目ですら、民法と商法と会社法と民事執行法とを1科目で教えてるというのにさ。


こういう実態こそが、大学が研究機関ではなく、職業訓練校・専門学校である事の、最たる例である。

「縦割り」というのは、研究ではないし、そもそも「理解」ですらない。そもそも「理解」とは一般に、知識を脳内で「横割り」にする事である。たとえば、高校の世界史を学ぶと、中学では別々に覚えていた西洋史の知識と、東洋史の知識が、結びついたりするだろう。

こういう、知識と知識の、横どうしの結びつきこそが、理解である。

そもそも縦割りの知識を覚えるだけなら、コンピューターでも出来る。情報を複製するだけなら、コピー機のほうが優秀である。


また、知識は現実と照らしあわせることで、初めて応用力を持つ。そして現実と照らしあわせるには、横割りの知識体系である必要がある。なぜなら現実は、いちいち縦割りに知識を紹介してくれない。

たとえば現実で詐欺などに巻きまれそうなとき、詐欺は民法と刑法で規定されてるが、現実でいちいち親切な誰かが「あなたは民法は知ってても、刑法が苦手だから、わたしがあなたのかわりに刑法部分の対策を考えてあげますよ」とかなんて、無料では誰も協力してくれない。

このように、現実社会では、縦割りの知識に、合わせてくれない。

だから、初学者はまず、全体像を、学ぶ必要がある。

しかし大学では、全体像をなかなか教えないのである。大学の1年生の科目で「機械工学入門」とか「電気工学入門」とかの科目が、2単位(半年の授業1コマ)で、ある場合もあるが、内容はぜんぜん、全体像を教えていない。


工学部の場合、いちおう大学に4年生(または院・修士課程まで含めて6年間)まで通えば、ひととおり、その学科(機械工学科、電気工学科など)の全体像を教わる。だが、工業高校や職業高校では、全体像を、高校卒業までの18歳までに、とっくに教えてるのである。

要するに、大学教育は「抱き合わせ商法」を教育産業で行ってるのである。さっさと全体像を教わりたい(マトモな)学生に対し、大学側は、一部の研究者しか使わない専門知識を抱き合わせて販売してるのだ。悪質商法である。

80年台のファミコン業界のドラクエ3のブームのころ、ちまたのゲームショップが、売れ残り品のゲームと、ドラクエ3を抱き合わせて販売してたっていう出来事がニュースで報道されてたのだが、大学も同様である。学者どもの売れ残りの知識を、抱き合わせて販売してるのだ。


そもそも「機械工学入門」とか「電気工学入門」とかの科目のオカシイのは、ある学問の全体像を、半年の授業1コマだけで教えようという(大学の)発想が、もう既にオカシイ。

ある科目の全体像を教えるとは、さきほどの高校世界史のように、年月を掛けて(中学でも世界史を教えていて、高校2年で世界史を教えて、さらに高校3年の受験科目で世界史を学んだり、浪人中に世界史を学んだり・・・)、全体像を教える必要がある。

また、「100点満点中、60点以上を取れ」という大学の要求が、もうオカシイ。まず、高校では進級基準は普通は「30点(または40点)以上」であるのが一般的である。

高校の場合、小学校とは違って、すべての科目で高得点を取るのはむずかしい。高校は、小学校とは違って専門的な話題も多いし、入試対策のために難問もいくつか出すし、学習内容も多いし、なので、「30点以上を取れれば進級オーケー」としてるわけだ。

もちろん、あくまで進級だけなら「30点以上でオーケー」に過ぎず、進学したい場合は、入試までに高得点を取れるようにする必要がある。しかし、それは入試までに高得点を取れるようにすれば充分なのであり、べつに授業で習った1か月後とかに高得点を取れるようにする必要はない。

しかし、大学では、高校よりも、より専門的な話題(大学では、そもそも科目自体が「専門科目」)、より学習内容が多い、より難問を出すにもかかわらず,「30点以上オーケー」ではなく「60点以上オーケー」である。しかも、授業で習った1か月後くらいに、高得点を取れるように、要求されるのである。

しかし、本来、たったの1か月では、理論なんて、理解なんて出来ないのである。高校世界史を思いだせば分かるだろう。世界史教育のように、小中高と何年も年月をかけて教えて、やっと知識と知識が結びつくのである。

しかし大学では、たった1か月で、いろいろと難問を解かされるわけであり、明らかに大学は学生に理解なんてさせていない。(入学後、さいしょの中間試験まで、たった1か月ていどである。)(そもそも数日で理解できる知識なら、そもそも大学で学ぶ必要がない。あるいは、高校で教えればいい。)

しかも高校の教科書では、他教科の内容も紹介してたりするが(高校世界史でも日本史の話題も紹介したりとか)、大学は違う。

大学の教科書は、タテ割りの知識体系なので、ろくに他教科の知識を紹介しない。

高校の教科書は、一見するとタテ割りに見えるが、違うのである。実は、高校のほうがヨコ割りなのである。


要するに、大学教授の多くが、教育力の乏しい無能である。しかし、日本企業も無能なので、新卒採用は入試偏差値順に採用するだけなので、大学の教育力の乏しさが見過ごされているのであろう。


大学にかぎらず、小中高大で、無能な教育者は、自分の流儀どおりの勉強法を、学生に押し付けるのである。無能だから、自分の流儀以外の勉強方法・研究方法がある事すら知らないのである。

小学校なら、たとえ学生の答案の答えが正しくても、解法が教員の期待どおりの解き方でないと減点したり、そういう馬鹿教員もいるかもしれない。

なお、高校の場合は、大学入試があるので、こういう迷惑な教員は淘汰される。

しかし大学では、実務でつかわない難問・奇門を出題して、実務能力がある人を減点するようなカリキュラムが、野放しにされている。

そういう迷惑なカリキュラムをつくる大学教員が、淘汰されずに野放しだったりするのである。

そして、こういう迷惑な大学教員たちが、自分の流儀どおりの独善的な自己正当化のカリキュラムをつくるのである。(実務能力の高いマトモな人ほど、大学に失望し、大学教育からは離れていく。) そのダメな大学の卒業生の一部が、そのダメな大学に教員として就職したりして、彼らの流儀どおりの、どんどん独善的な自己正当化のカリキュラムが再生産されていく。その結果、大学のカリキュラムがどんどん、実務からはズレていく。

もし企業だったら、こういった独善的な自己正当化をしているだけの労働者は淘汰されるが、しかし大学は企業ではないので、独善で自己正当化の研究者(自称)が淘汰されない。

「自分の流儀通りしか認めない!」という発想の証拠が、入学後から1か月後の定期試験で難問奇門を出し、しかも高得点(60点以上)要求である。

もし高校なら、進学校ですら、大学受験に合格さえすれば、勉強法なんて、法律の範囲内で、どんな方法で勉強してもいいわけだ。早い話、高校の定期試験の成績がわるくても、大学入試に合格しさえすればいいわけだ。なので、もし高校のバカ教員が、あまり入試範囲からズレた出題をしてると、定期試験の成績が悪い生徒が難関大学に合格したりして、そのバカ教員のメンツが潰れる。

しかし大学は違う。その大学の、その大学教員のさだめた科目の定期試験で、学生は高得点を取らないといけないのである。高校と違い、たとえ大学が実務や研究最先端からズレたことを教育していても、それを止める外部勢力が、ほとんど無い。だから大学では、バカ教員のメンツが、なかなか潰れない。

これこそ、大学が独善的な証拠である。大学教育の人間性は、高校未満の人間性である。

不要な理論を淘汰する事こそ、理論研究である

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文系の学部でも、マルクス経済学とかは淘汰されてるようですね。


線形システム論は不要である

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「線形システム論」は、数学的には無意味である。まず、線形システム論では微分方程式の解法にラプラス変換を用いるが、微分方程式の解法なんて、数学的には幾つもあり、どれかひとつの解法を特別視するのは数学的に無意味だからである。事実、数学科や物理学科などでは「線形システム論」を習わないし、数学者や物理学者は、「線形システム論」の細かい知識を知らない。

しかし、日本の大学工学部では、線形システム論は残っている。場合によっては必修化をされていたりする場合もある。

おそらく、文系大学に置いて、社会学のような、存在価値の疑わしい学問が残っているのと同じような現象だろう。

クレロー方程式、リッカチ方程式は、微分方程式の必修から外すべきである

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その大学数学の授業の、微分方程式の理論ですら、クレローの方程式やリッカチの方程式のような変数係数の微分方程式は、大学でよく習うが、少なくとも工業の実務では用いない。物理学の学習・研究では変数係数の微分方程式は必要になる可能性はあるが、しかし工業では用いない。

仮に必要になったとしても、解法を暗記する必要がない。というか、そもそも変数係数微分方程式には何パターンもあり、そのほとんどは一般解が存在せず、たまたま一般解が存在するのがクレロー方程式などの場合だけである。

なので、せっかく変数係数微分方程式のモデルを立式しても、一般解が存在しない事例が多く、工業の実務では不便なのである。むしろ、高校物理の振動の微分方程式のように、変数係数微分方程式を定数係数微分方程式に近似する手法こそ、工業の実務では必要なのである。そして、そのような近似手法は、高校でも習う。

変数係数微分方程式を暗記するのは、実用的には、ほぼ無意味である。少なくとも、工学ではない。

工業で用いる可能性の高いのは、定数係数微分方程式である。実際、高校物理で習う微分方程式の多くは定数係数微分方程式である。

というか、そもそも微分方程式じたい、滅多に工業で用いない。

設計をする際にも、微分方程式は用いない。そもそも、方程式で予想したものは、単なる仮説にすぎない。工業の実務では、仮説だけでなく、試作品をつくり実証実験などで検証する必要がある。そして工業製品は構成要素が多すぎて、人間が手業で解ける微分方程式にするのは無理である。スーパーコンピューターなどを用いて、なんとか工業製品の特性を予想ができるかもしれない、・・・というのが、現在の科学技術の限界である。もちろん実務的には、スパコン計算よりも、実際に試作品を制作したほうが安上がりの場合が多い。

工業実務における微分方程式は、過去の知識を整理するための手段にすぎない。経済学における数式の活用方法も、似たようなものだろう。

その他

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  • フーリエ変換は、電気工業では用いないのが現実である。

物理学的には、単一パルス波などのRLC線形回路方程式の応答解析にフーリエ変換を活用できるのであるが、しかし計算量が多く、その割に、電気工業の実務では単一パルス波の応答解析が必要な場面が、そもそも無いないようだ。電気工業で、フーリエ変換を活用した事例を、私は寡聞にして聞かない。

電気実務では、工業高校の教科書にフーリエ級数が紹介されてるように、フーリエ級数からの類推でも対応できる。むしろ、フーリエ級数からの類推ができないと、電気工業の実務では不便なのだろう。

ただし、jpeg画像圧縮の離散コサイン変換のように、情報処理などで、フーリエ変換から派生したような理論を用いる場合はある。

  • 中学・高校教育では、使用頻度の少ない理論は淘汰される

タイトルの通り、中学・高校教育では、使用頻度の少ない理論は指導要領などにより高校教育から外されて淘汰されるので、実は中学高校で習う事のほうが大学教育よりも使用頻度は高い。なので、中学高校や工業高校などで習う理論こそ、理論の本質なのである。

大学で習う事は、本質ではなく、未来の中学教育・高校教育をつくるための手段である。

実際、現在、高校でならう三角関数は、明治時代は大学教育の範囲だった。 最近では、普通科「情報」科目で習うことが、昭和の昔は大学教育の範囲だった。

もし工業製品を買った時、「この製品は未完成なので、微分方程式を解いて設計してください」とか説明書に書いてある製品だったら、購入者は「ふざけんな! カネを返せ! 詐欺だ!!」と思うだろう。

そして残念な事に、日本の工業大学の多くが、このような未完成のボッタクリ教育サービスである。

  • 量子力学のシュレーディンガー方程式ですら、現在の高校化学に、使用頻度と具体性の劣る理論である。

「大学で習う事は、本質ではなく、未来の中学教育・高校教育をつくるための手段である。」と上述した。

なので、過去の大学者の理論は、現在の中学高校の教育内容にすら劣る。具体的に言うと、シュレーディンガー方程式ですら、現在の高校化学に実用性の劣る理論である。高校化学にある、ベンゼン環などの共鳴と比べると、量子力学のハイゼンベルクの「不確定性原理」などは使用頻度が劣るし、具体性も劣る。

工業では、量子力学は今や、歴史としてしか実用性がない。

もちろん「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。歴史教育は必要である。しかし、だからといって、歴史学の知識を、「これは経済学です」「これは法学です」などとウソを騙って宣伝してはいけないのと同様に、「量子力学は化学の実務に必要です」などとウソを宣伝してはならない。もちろん、化学の理論研究では、理論の整理のために量子力学を使う可能性がある。また、スパコンの化学シミュレーションの精度を上げるので間接的に産業に役立つ可能性はある。だが、化学の知識を用いる多くの職場では、量子力学の直接的な実用性は乏しいだろう。

なお、溶鉱炉の温度の測定方法は、べつに量子力学が発見したのではない。科学史では、先に、溶鉱炉の温度をボロメータなどで計測する手法が確立してから(物理学者ウィーンなどの研究成果)、あとから、その測定結果にもとづいてプランクが理論的に解釈を発見することで量子力学の理論が誕生したのである。なので、溶鉱炉の温度の測定方法は、べつに量子力学が発見したのではない。


ハイゼンベルクやシュレーディンガーの研究成果は、一見すると無関係に見える、化学と物理学の法則を、共通する法則性があるとして、理論を整理して、暗記の負担を減らすための手法である。そもそも物理学とは、そういう「一見すると無関係に見える幾つもの自然現象から、共通する法則性を抜き出す」学問である。

日本の小中高の社会科は「社会科学」ではない

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これは指摘せねばならないだろう。


科学とは何か? 未来予測をできる知識体系のことである、と評論家の掛谷 英紀(筑波大の教授)は言う。

そして、私が思うに、その科学の理論は、カール=ポパーなどの言うように、実験などによって反証的に検証さて、劣った理論があれば淘汰されて修正されなければならない。


さて、小中高で習う社会科は、コレを満たしているだろうか?

政治経済の経済分野などの一部を除いて、まず満たしていない。

いっそ、歴史みたいに「覚えるしかない」と開きなおるなら、まだマシである。

有害なのは、社会「科学」でない思想・イデオロギーが、あたかも科学のフリをしていることである。たとえば、人権思想とか左翼思想とか。思想は、それの真偽を検証する証明がないかぎり、科学になりえない。なお、右翼思想でも同様に、社会「科学」でない。現状の教育では左翼が中枢にいるので、このページでは左翼を先に槍玉に挙げただけである。


たとえば「生活保護や福祉を増やすのが、いいか悪いか」かじゃなくて(善悪ではなくて)、「日本のこの状況で福祉(または生活保護、または他の行政施策でもいい)を増やしたら、具体的に何が起こるだろうか? その何かへの「影響」は、たとえば金額(あるいは人口などの数値)に換算すると、どれくらいか」とか分析するのが科学である(行動予測)。そういう分析につながらないのは、まったく科学ではなく、単なるイデオロギーである。


また、大学レベルになるだろうが、法の立法のさいの「○○主義」などのような原則ですら、科学ではない。(もっとも、法学部はそもそも自身を科学とは自称してない。なぜなら法学の成立は歴史でかなり古く、ニュートン物理学などの近代科学よりも法学は古いからである。)

アメリカの禁酒法のように、立法者の意図に反する結果になる法律なんて、法律の歴史をひもとけば、いくらでもある。

なので、日本でいくら、「○○主義」という考え方が法学やら政治学で存在すると学者が主張しようが、それ自体はまったく社会「科学」ではない。


困ったことに、こういう、なんとか学の「○○主義」を信望することが「科学」だと勘違いしている人が、世間には多い。しかし、「○○主義」自体は、統計などによる実験的な裏づけがないかぎり、なんの証明にもなっておらず、単なる政治理念などの理念であり、したがって「科学」ではない。


むしろ、もし法を社会「科学」的(未来予想・予測ができるという点での「科学」)にもとづいて研究するのならば、むしろ禁酒法のように制定者の意図と逆の結果になった法律を研究するほうが、手っ取り早いだろう。


社会「科学」とは何かというと、たとえば経済学での投資の乗数効果の理論のように、「○○をしたら、△△になるだろう」というような予想・予測の手法だけが、科学である。定量的であれば、なお良い。

もちろん、予想なのでマチガイや例外もあるだろうが、しかしそれすらも、社会科学なら統計によって検証ができる。

20世紀初頭の米国シカゴ学派の法学者・政治学者メリアムという学者の理念が、法制度研究において歴史学的な編成を記述するだけでは不適切という理念であり、心理学や統計学を駆使した研究をすべきだという理念をメリアムは提唱している[27]。 このような科学的な態度にもとづく米国政治学は、投票行動や世論の研究において成果をもたらし、1967年には政治学者イーストンらによって『行動論政治学』という分野として成立した[28]


しかし、日本の小中高の教育では、まったく、そういう社会「科学」的な予測手法の教育は乏しいし、予想の検証も当然に行われてない。せいぜい、高校の『政治経済』科目で、銀行の『信用創造』があるくらいだ。

百歩ゆずって、小学校で、そういう社会「科学」的な分析手法が練習されないのは、まあ仕方ないのかもしれない。学問も芸術もトレーニングは何事も「守・破・離」だから。でも、高校ですら、そうなのは、ちょっと低レベルだね。

wikibooks教科書の書き方

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例として、小中高のwwikibooks教科書を例に説明する。

  1. ある科目の検定教科書などを何社ぶんか冊を買ってきて、書きたい単元のとこを読みくらべる。(最低でも1科目あたり3社(つまり3冊)以上のていど。多いぶんには平気。)
  2. どの検定教科書にもある共通する単語とその解説の言い回しを抜き出して、ワープロソフト『Word』またはテキストエディタ(ウィンドウズ『メモ帳』)などにメモする。まず単語を抜き出し、つづいて、言い回しを抜き出そう。なぜなら小中高レベルでは、生徒の語彙力が限られるので、説明の言い回しがある程度、限られるからである。
  3. 上記の方法で抜き出した単語や言い回しをもとに、自分の理解に基づいて、文章として つなげる。ここで、理解力が要求される。
  4. 文章としてとりあえずの形になったら、さっさとwikibooksに投稿する。

書き始めは、たった、こんだけ↑。

けっして1冊の教科書を通読するのではなく、教科書の単元ごとに他の教科書と比較する読み方をします。

けっして、単に、共通内容を羅列するだけでは、教育になりません。なぜなら読者の側は、単なる知識の羅列をされても理解できません。

なので、あなたが代わりに理解をして、気づいたことに基づいて、文章をつなげていって、うまく説明していく必要があります。

上記の投稿結果が、今後のwikibooks教科書の骨組みになります。

なお、上記の他にも、図を描いたり、表を書いたりなどの手間もある。


さて、wikibooksにひとまず投稿したら、

次の段階として、補足としての説明を加えて肉付けをしていく必要がある。

参考書を読んだり、大学教科書など上級学校の教科書(中学wiki教科書を書くなら高校教科書が上級の教科書である)を読み、

それら教材を読んで、教科書の記述に関連の深そうな内容があれば、必要に応じて wikibooks 投稿に加える。

あるいは、検定教科書から共通知識として抜き出しをし忘れた項目などもあるので、ときどき検定教科書を読み返して、追加すべき項目が見つかれば骨組みに追加する。

なお、ココで、教科書でもなく参考書でもない学生教材 以外の情報を読んだりして、きづいた事を投稿したりすると、ほかの投稿者から「独自研究」とか言われて批判されることもある。


あるいは肉付けとして、次の段階で、一部の検定教科書にしか書いてない発展的な内容を、どの教科書出版社が紹介しているかという情報とともにwikibooksに追記してゆく。


だいたい、上記のような流れである。

たったこんだけで、wikibooks教科書を著作・改良していける。


「でもしか教師」たちに注意

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教育ってさ、形式の実践だけなら、バカでも出来るんだよ。マニュアル化されてるし。原理的に時代遅れなのよ、教育って。

だからさ、バカなくせにヤタラと努力家・勉強家(自称)の人は、教師になりたがるのね。

そういう人を揶揄して、「教師でもやるか」「教師しかなれない」って意味で『でもしか教師』って、昭和の時代は言ったのよ。

というか、才能豊かな人は、教師をやめちゃうのよ。たとえば漫画家の江川達也なんて、もともと中学の数学家の教員免許を持ってる学校講師。


で、小中あたりならまだしも「でもしか教師」とか言われても子供の世話をする人は必要かもしれないけど、しかし大学あたりでも、こういう「でもしか」な学者は今もいるでしょうよ。

最近は不況で雇用がきびしくなったけど、でも、他の職業で働けないような低脳な人が教育についているのは同じ。

「掛け算の順序問題」とか、習ってない漢字を答案につかうと減点とかの、社会では何のメリットも無い指導がはびこるのも、背景には「でもしか」教師が、身の程知らずのことをしているという背景がある。


雇用の厳しさと、労働者としての汎用性は、別問題。


たとえば芸術家とかさ、どんなに競争が厳しくても、他の職業につけなさそうな人、いっぱいいるじゃん。

学校や大学も同じですよ。

バカにありがちな勘違いの「競争が厳しい = 質が高い」ってのはスポーツ選手とか芸人とかいった興行の発想でしかなく、けっして学問の発想ではないの。

競争が厳しくて高品質なら、ブラック企業だって高品質だぞ、バカか。


本来なら、専門学校ではない小中高大学ってのは、普通教育の機関なんだから、大学ってのは汎用的な人材を教える必要があるんだよ。


汎用性をもつ手っ取りばやい方法は、複数の専門性をもつことだ。いわゆるダブルメジャー、マルチメジャー。多能工みたいなもん。

けっして雑学マスターでもないし、歴史クイズみたいなのに詳しくなることでもないし、哲学史に詳しくなることでもない。


悪いけど今どき、プログラミングのひとつも出来ない、商業高校レベルの簿記や経理もワカラナイ、エクセルなどの表計算ソフトも使えない、コンピュータで絵も書けなければ作曲も出来ない、・・・なんて、もはや教育機関としての資格がほぼ無い。(よほどの専門性が無い限り、その程度のリテラシーも無い人は、もういらない。)高校や大学を学校を卒業してその程度もできないって時点で、何も習得できていない。

で、小中高校や大学って、教師サイドが、こういう人たちばかりなんですよ。それどころか国が、そういう、5教科クイズ以外にとりえの無い人材の育成を奨励している。

さすがにもう、デジタル化の進んだいまどきですら JavaScript やら C言語 やら何かひとつもプログラミングの出来ない大人に「学問の大切さ」とか、ほざかれたくない。本来なら、こういう「でもしか教師」は、もう解雇すべきですよ。国鉄の民営化みたいに。

1980年代にNECとかが10万円くらいのパソコン販売してから、C言語やBasic系言語を勉強する時間なんて、いくらでもあった。いまだにプログラミングも出来ない人は、「今までの人生、何してきたの?」「教師用の指導書に書いてあることを発音するならデープレコーダーでも出来るよね?」って感じ。

べつにプログラミングができなくてもいいけどさ、何か法律とか語学とか、・・・で実務レベルのことが色々とできるならそれでもいいけど、でもどうせ、そんな実務能力も無いし、そもそも、そういう能力のある人は教員に就職したがらない。

その法律とか語学をするにしても、やっぱ今時、ニュースでもアメリカIT企業の話題が出てくるんだから、さすがにC言語か何かのひとつくらいカジってないと、研究にならないだろう(せいぜい出来るのは、他人の研究の落穂ひろいだろう)。

企業は言い訳で「国の教育が悪い」とか言うかもしれないが(実際、経団連のバカどもは、たびたび国の教育にケチをつける)、だったら自分たちで学校をつくればいいだろ。私一人ですら自分で小中高の国語・英語・理科・社会の教科書を作ったぞ。

経団連の社員がどこの大学を出た大企業だかしらないが、今どき教科書も作れないバカがさ、エリートづらすんじゃねえよバカ経団連。


馬鹿でも大人になれる、馬鹿でも親になれる、PTA

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日本では、大人になれば選挙権が手に入る。

なので、馬鹿でも選挙権が手に入る。政治家は、そういう人の票を獲得するために、馬鹿にもウケのいい政策を出す。

同様に、馬鹿でも親になれる。親になるだけなら、セックスして子作りすればいい。なので世間には、馬鹿でも親をしている連中がいる。

この「馬鹿」というのは別に学歴的な意味だけでなくて、世間知らずとか、机上の知識しかないとかの意味もある。

オウム真理教みたいなカルト教団に洗脳される馬鹿とか、北朝鮮みたいなカルト国家の言い分を鵜呑みにする馬鹿とか。

経済オンチの連中が共産主義革命を信望する馬鹿とか。


もちろん学歴的な意味でも、さすがに、いい年して中学レベルの5教科の知識も無い人は、さすがに馬鹿にされても仕方ないが。


で、こういう馬鹿でも、教育に口を出す。PTAって言う、名目上は生徒の保護者による組織があって、馬鹿でも親になれて、そいつらが教育の口実でマスコミに口出しをする。(ただし、実態は、一部の政治運動みたいなのに熱心なバカ親がPTAを牛耳ってたりする地域もあるという。)

でも、コイツラの批判で、マトモな結果になったことはない。

PTA的な組織が、かつてマンガを批判してたのは有名な話だ。


今でこそテレビは「マンガやアニメは日本の文化」とか政府が言ってるが、私の中高生時代でも、当時はマンガなどを子供だけの見るものとして見下す大人が、まだ多かった。もう既にファミコン(の互換機)が欧米でも売れて世界的なブームになってたり、少年ジャンプの発行部数が新聞を超えたりしてても、そういう現実を認めないのか無知な大人なのか、マンガやアニメやゲームを見下す大人は多かった。


1997年にエヴァンゲリオンや『もののけ姫』が映画化したが、それでも事態を理解できずに、マンガやアニメなどを見下す大人が残っていた。

べつに「ワシは頑固だから若者にコビを売りたくないのでマンガを遠ざけてる」(西部邁 的な意味)とかじゃなくって、そもそも、マンガの発行部数などの統計的な事態をまったく理解してない大人たちがいたのである。


テレビドラマは見たがるくせに、「マンガは作り話でしょ、くだらん」みたいに批判する人もいた。(ドラマは現実でなくて、小説家や脚本家の作った作り話なんだが・・・。アホかコイツ)

ドラマで勉強に役立つ知識なんて、せいぜい歴史大河ドラマや時代劇で歴史知識が出てくるとか、あるいは刑事推理ドラマの一部で法律知識が紹介されるくらいで、あとのメロドラマとか学園ドラマとかそんなのに、大した社会知識は扱われてねえよ馬鹿。 まして、メロドラマとか学園ドラマとか、場合によっては原作がマンガだったりする(しかし、昔はそういうのを把握できてないでマンガ批判してドラマを推奨するバカな大人もよくいたんである)

でも、世間はこういうことのワカラナイ馬鹿な団塊世代やその少しあとの世代(高度成長くらいの生まれ)でも、世間では親になれるのである(べつにウチの親じゃないよ・・・と言いたいが、まあウチの親にもその傾向があって、私がアニメを見てたら文句を言うのに、特撮をビデオ録画して見てたらドラマだと勘違いして文句を言わないというね・・・。実写版・女神転生デビルサマナーの視聴でした)。


子供がアニメを見てたら文句の言う母親が、自分はバラエティ番組を見てたり、とかのよくある話も、うちの家でもあったね。

親には育ててもらった義理はあるが、それでもウソを後世に伝えるわけにはいかない。上記のように身内の不見識を暴露する。


「ドラマを見るようになったから、自分は大人。成長した!」みたいな人は昔はよくいたさ。そういう人を何人か当時は見かけた。中学生かよ馬鹿。缶コーヒー飲んで大人の気分になるガキのいわゆる「中二病」と同じだろ。

馬鹿のくせに、年上だからって尊敬されて当然だと思ってる、馬鹿で怠惰な大人も昔は多かったのである。


ソープランドに行ってみただけで大人になった気分になるバカな大学生や新社会人とかも、昔はいたんだろうなあ。

タバコを吸って大人になったつもり、とかのバカもね。酒も同様。バイク(オートバイ)とかもね。


マンガ『ナニワ金融堂』くらいの法知識もないのに、複式簿記もろくに知らなくても(「記法がワカラナイ」じゃなくって、複式簿記という概念じたいを知らない)、ソープに行ったり、キャバクラでバイトしてみたりとかで、大人になったつもりのバカとかね。


ペテン師の「大学の数学が仕事の役立つ」と言うペテン

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世間の理系大卒どもがデタラメなことを言うが、「実社会で大学数学がそのまま役立つ」事例なんて、ありえない。

これは私が仕事の研究発表で言われたことなんだが、

就職先の会社で、私の研究発表のとき、「わが社のこの技術の仕組みは、数学でこう説明できます」と私が発表したところ、

先輩の研究員から「ちょっと違うよ。数学しか知らない人にも仕組みが分かるように説明できるように、わが社がそこまで試作(しさく)や実験を繰り返して技術開発しておいたんだよ。」というツッコミを入れられたことがある。

もちろん、その会社は産総研の下請けで部品を作ってたりするような技術力の高度なメーカーである。

そういう会社ですら、大学の数学がそのまま使えるなんてこと、絶対にありえない。


困ったことに、日本では大学教員が、こういう現実を認めず、それどころかペテン(「大学の数学が仕事の役立つ」と言うペテン)の片棒を担いでいる。

  1. ^ クリストファー・ハート 著『驚くほどかんたん 人体デッサン』、グラフィック社、2008年5月25日 初版 第1刷 発行、P50、
  2. ^ 『「部活動」の起源と発展に関する教育史的研究』、2016年度山本ゼミ共同研究報告書 慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会 、P10
  3. ^ 『村瀬 計量社会学』 2022年2月21日に閲覧して確認.
  4. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P216
  5. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P216
  6. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P215
  7. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P215
  8. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P215
  9. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P216
  10. ^ 磯貝英一 ほか『要点解明 統計学 改訂版』、培風館、2019年10月10日 改訂第7刷 発行、P.4
  11. ^ 磯貝英一 ほか『要点解明 統計学 改訂版』、培風館、2019年10月10日 改訂第7刷 発行、P.4
  12. ^ 吉野篤『政治学 第2版』、弘文堂、2018年(平成30年 ※原著で併記)2月28日 第2版 第1刷発行、P56
  13. ^ 吉野篤『政治学 第2版』、弘文堂、2018年(平成30年 ※原著で併記)2月28日 第2版 第1刷発行、P57
  14. ^ 『村瀬 計量社会学』 2022年2月21日に閲覧して確認.
  15. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P216
  16. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P216
  17. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P215
  18. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P215
  19. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P215
  20. ^ サトウタツヤ・渡辺芳之 著『心理学・入門 心理学はこんなに面白い』、有斐閣、2021年5月30日 改訂第7版 第7刷発行、P216
  21. ^ 磯貝英一 ほか『要点解明 統計学 改訂版』、培風館、2019年10月10日 改訂第7刷 発行、P.4
  22. ^ 磯貝英一 ほか『要点解明 統計学 改訂版』、培風館、2019年10月10日 改訂第7刷 発行、P.4
  23. ^ 新田 滋『マルクス経済学と限界分析(一)』、2014
  24. ^ [https://www.jstage.jst.go.jp/article/mesj/52/3-4/52_69/_pdf 『中等教育段階における学校数学に必要な解析分野の教育内容開発(そのI)�―“積分概念”を中心にして』]
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  26. ^ ページ7
  27. ^ 吉野篤『政治学 第2版』、弘文堂、2018年(平成30年 ※原著で併記)2月28日 第2版 第1刷発行、P56
  28. ^ 吉野篤『政治学 第2版』、弘文堂、2018年(平成30年 ※原著で併記)2月28日 第2版 第1刷発行、P57