小学校社会 6学年 上巻

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今ある(いまある)暮らし(くらし)、それは、人々がいろいろな工夫(くふう)を重ね(かさね)ながら、つくりあげてきたものです。1万年以上前の大昔(おおむかし)から現在(げんざい)まで、どのような社会の変化(へんか)があったのかを、ここでは考えます。ぜひとも、自分の好き(すき)な時代(じだい)、人(ひと)、それに文化(ぶんか)を見つけてくださいね。

ここでは、社会の様子(ようす)をわかりやすくするために、時代ごとに章(しょう)が変わりますが、時代が変わったからといって、そこで、歴史(れきし)がとぎれたり、何もないところからいきなり新しい時代が始まるわけではありません。例えば、日本で米作りが始まったのは2300年くらい前ですが、そのころからずっと、栽培方法(さいばいほうほう)や農具(のうぐ)・品種(ひんしゅ)など工夫(くふう)や改良(かいりょう)を重ね(かさね)ながら、現在(げんざい)まで受けつがれています。米のような、物(もの)だけではなく、決まり事(きまりごと) なども、昔(むかし)の失敗(しっぱい)や成功(せいこう)を生かし(いかし)ながら、現代(げんだい)へとつながっています。そのことを、頭(あたま)のかたすみにおいておいてください。

歴史を勉強していくと、いろいろな人物が出てきます。くわしく知りたいときは「小学校社会 6学年 歴史の人物事典」を参考にしてください。

※編集者への注意 当該ページを編集される方は、学習指導要領解説社会編を参考に人物を取り上げてください。また、小学生向けであることに留意してください。

目次

歴史を学ぶということ[編集]

まずは歴史を楽しんでください。昔の人が成(な)した偉業(いぎょう)にロマンを感じてください。そして、歴史を好きになってください。

「全部覚えないといけない」と身構えず、興味(きょうみ)のあるところを追い求めて(おいもとめて)ください。そこから、あなたの知識(ちしき)や考え(かんがえ)に広がり(ひろがり)が、生(う)まれます。

なぜ、学校で日本の歴史を学ぶのか考えてみましょう。どんなことが思い浮かびましたか。答えは一つではありません。歴史を知るため、歴史の中の失敗や成功から学ぶため、大人の常識(じょうしき)を身につけるため、日本のことを時間というじくを通して知るため、日本のことを(もっと)好きになるため、などなど。ほかにもあることでしょう。あなたの見つけた答えに沿って、これから、時間を追って日本の歴史を見ていくことにしましょう。


旧石器時代と縄文時代[編集]

(きゅうせっき じだい と じょうもん じだい)

大昔のくらしとクニの誕生

氷河期[編集]

(ひょうがき)

1万年前のくらし
おおむかし、1万年くらい前までは、地球は、氷河期(ひょうがき)と言って、今よりも冷たかったのです。その結果、海水面は今よりも、ひくく、ユーラシア大陸と日本は地続きだったのです。

なので、大陸から、動物が、やってきました。


オオツノシカ骨格標本。

その証拠に、ユーラシア大陸で生息していた ナウマン象(ナウマンぞう) や オオツノ鹿(オオツノじか) などの 化石(かせき) が、日本列島でも発見されています。

古い時代の物が、見つかる場所を 遺跡(いせき)と言います。

長野県の 野尻湖遺跡(のじりこ いせき) から、ナウマン象の化石が見つかっています。

同じくらいの時期か、しばらくあとに、人間もやってきたと考えられています。それが日本人の祖先(そせん)です。

旧石器時代[編集]

(きゅうせっき じだい)
外国での石器の例。
※ 日本の石器では、ありません。 日本での石器の画像がウィキペディアで見つからないので、外国の画像で代用しています。

石器(せっき)といって、石をくだいて とがらせた物(もの)や、石をみがいて つくった物が、見つかっています。 おそらく石器は、動物の狩りをしたり、野菜や果物をとったりするときなどに、利用されたのだろうと考えられています。

※ 日本での石器の画像がウィキペディアで見つからないので、かわりに、外部のサイト画像や教科書・参考書の写真などで石器の画像を見てください。

石を打ち砕いて作ったと思われる石器を 打製石器(だせいせっき) と言います。 打製石器は旧石器(きゅうせっき)とも言われます。

旧石器を多く使っていた時代を 旧石器時代(きゅうせっきじだい) と言います。

この旧石器時代は、あとの節で述べる縄文時代よりも、さらに古い時代です。

縄文時代の石器には、旧石器時代とは違い(ちがい)、磨製石器(ませいせっき)という、磨いた(みがいた)石器があります。旧石器時代には、まだ、磨製石器は、ありません。旧石器時代の石器は、打製石器だけです。

石器などの、古い時代の物が、見つかる場所を 遺跡(いせき)と言います。

  • 岩宿遺跡(いわじゅく いせき)
外国産の黒曜石。 (※ ウィキペディアに、日本産の黒曜石の画像が無いため、外国産の画像で代用します。アメリカ合衆国オレゴン州レイク郡で採取されたもの。)

群馬県の 岩宿遺跡(いわじゅく いせき) からは、一万年以上前にできた地層から、打製石器のかけらが見つかっています。

岩宿遺跡(いわじゅく いせき)の石器は1946年に発見されました。青年の相沢忠宏(あいざわ ただひろ)により、発見されました。 相沢により、群馬県の関東ローム層の地層から、石器のような、黒曜石(こくようせき)の かけら が発見されます。

相沢は、この石の破片を、大学に調査してもらおうと思い、明治大学(めいじだいがく)に石の破片(はへん)の調査(ちょうさ)を依頼(いらい)しました。(※ 学校名の「明治大学」は、おぼえなくて良い。) 明治大学などの学者の調査で、この遺跡が一万年以上前の遺跡であることが分かり、日本に旧石器時代があったことが証明されます。


縄文時代[編集]

(じょうもん じだい)
縄文土器(じょうもん どき)

地球の氷河時代から数千年たつと、氷河時代がおわり、地球はあたたかくなり、海水面はあがり、日本列島は海にまわりをかこまれた、島になりました。

このころ、日本列島に住んでいる人たちは、土器をつくるように、なりました。その土器に縄の模様がついているので、この土器は 縄文土器(じょうもん どき) と呼ばれます。

今から約1万6,500年前(紀元前145世紀、きげんぜん145せいき)から、今から約3,000年前(紀元前10世紀、きげんぜん10せいき)までの、あたりの時代を、縄文時代(じょうもん じだい)と言います。


「世紀」(せいき)とはなんでしょうか。100年ごとに区切って(くぎって)、年を数えるときに 世紀(せいき)ということばをつかいます。

たとえば、西暦2001年から西暦2100年までを21世紀(にじゅう いっせいき)といいます。 西暦1901年から西暦2000年までが20世紀です。

西暦1年から西暦100年までが1世紀です。 西暦1年より前の年が 紀元前(きげんぜん) です。

だから、縄文時代の紀元前145世紀とは、今から何年前かを数えると、今は西暦2000年代だから(西暦2013年に本書を執筆)、足し算で 14500+2000=16500 となって、だいたい約1万6,500年前になるわけです。

弥生時代の竪穴式住居(復元、吉野ヶ里遺跡)。

縄文時代の人の、家の建物(たてもの)は、 たて穴式住居(たてあなしき じゅうきょ、竪穴式住居) といって、地面に穴をほりさげたあとに、柱を立てて、草ぶき(くさぶき)の屋根をかけただけの住居にすんでいました。住居(じゅうきょ)とは、家の建物(たてもの)のことです。

加曽利貝塚(かそり かいづか)、北貝層断面

縄文人の集落(しゅうらく)があったとおもわれる場所からは、貝がらが多い場所が、たくさんでてきます。

この貝がらが多くある場所を 貝塚(かいづか) と言います。

縄文時代の石器には、打製石器の他に、表面を磨いた(みがいた) 磨製石器(ませいせっき) が見つかっています。


磨製石器は、石の槍先(やりさき)や、石の矢じり、斧(おの)などに使われています。


動物の骨でつくった 骨角器(こっかくき) という刃物(はもの)も、みつかっています。 骨角器でつくった釣り針(つりばり)や もり(水中の魚を突き刺す武器) なども、見つかっています。

打製石器を旧石器ということがあるように、磨製石器を 新石器(しんせっき) とも言います。


貝塚や石器などの、古い時代の物が、見つかる場所を 遺跡(いせき)と言います。

土偶(どぐう)。亀ヶ岡遺跡で出土

縄文の遺跡(いせき)から、土偶(どぐう)という土を焼き固めた、女性のような形の、焼き(やき)かためた人形(にんぎょう)が見つかる場合があります。 土偶(どぐう)は、食料が増えることを祈ったり(いのったり)、女性の安産(あんざん)をいのったものだと考えられています。


貝塚(かいづか)には、たとえば大森貝塚(おおもり かいづか)があります。明治時代に、アメリカ人のモースが大森貝塚を発見しました。この大森貝塚の発見が、きっかけとなり、日本各地で貝塚の調査や発掘が、始まりました。 ほかの貝塚には、福井県の鳥浜貝塚(とりはま かいづか)や、千葉県の加曽利貝塚(かそり かいづか)がある。

  • 三内丸山遺跡(さんない まるやま いせき)
六本柱建物(復元)

青森県の 三内丸山遺跡(さんない まるやま いせき) からは、栗(くり)の木を、栽培(さいばい)した形跡(けいせき)が見つかっています。 多くの土器や石器のあとも、みつかっています。

大型の、掘立て柱(ほったてばしら)も、見つかっています。掘立て柱の用途は、まだ分かっていません。 ヒスイの玉や、黒曜石(こくようせき)で出来た刃物のようなものも、見つかっています。

ヒスイは、この地ではとれず、新潟県の糸魚川(いといがわ)などの他の土地で取れるので、他の地域と交易(こうえき)があったのだろう、ということが考えられています。

この三内丸山遺跡(さんない まるやま いせき)は、縄文時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。

  • 屈葬(くっそう)

縄文人の死者の骨は、姿勢が、手足を折り曲げて、葬られて(ほうむられて)いる骨が多く見つかっています。このような葬り方を屈葬(くっそう)と言います。この姿勢で葬った理由は、まだ分かっていません。

※ ウィキペディアに、屈葬の、わかりやすい画像が無いので、外部の資料で、画像を確認ください。

縄文時代の次の時代は、弥生時代(やよい)です。弥生時代のあとは奈良時代で、そのあとは飛鳥時代。つづけて、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代・・・・・・ とつづきます。

弥生時代[編集]

(やよい じだい)

米づくりがはじまる

弥生式土器(やよいしき どき)。
紀元1世紀から3世紀に製作されたもの。東京都 大田区 の 久が原 で出土。(東京国立博物館所蔵)

紀元前の5世紀ごろ、ユーラシア大陸の中国(ちゅうごく)や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)あたりの人々から、米による稲作(いなさく)が、日本につたわりました。

米作りは、まず西日本につたわり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方まで広がりました。

この時代の農具(のうぐ)の多くは、まだ、木製(もくせい)です。ただし、米作りとともに鉄器(てっき)の技術(ぎじゅつ)も日本に伝わっているので、一部では鉄を用いた農具も見つかっています。

穂から米をとるのに、石包丁(いしぼうちょう)が、使われました。


  • 弥生式土器(やよいしき どき)

また、このころ、土器は、縄文土器よりも うすくて かたい 弥生式土器(やよいしき どき) をつくるようになりました。「弥生」(やよい)とは、学者が発見した場所が、東京の弥生町(やよいちょう)で見つかったので、「弥生式」「土器」と、よばれています。

縄文土器と弥生土器のちがいは、弥生時代のころには、土器をつくる技術が進歩したので、土器の形が かわったのだろう、と考えられています。

  • 高床式倉庫(たかゆかしき そうこ)

米の保管(ほかん)には、高床式倉庫(たかゆかしき そうこ)で保管されました。高床倉庫(たかゆかそうこ)とも、言います。

高床式倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくするため、が主な理由だろう、と考えられています。風通しをよくするため、という理由も、あるでしょう。ねずみの害をふせぐという理由の有力な根拠として、地面から床までの柱の、柱のてっぺんに、「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床式倉庫が見つかっています。

弥生時代の多くの住まいは、たて穴式住居です。

  • 金属器(きんぞくき)
銅鐸(日本の青銅器)

大陸や朝鮮半島から米作りがつたわると共(とも)に、青銅器(せいどうき)や鉄器(てっき)などの金属器(きんぞくき)が、伝わります。そして、日本でも、弥生時代中に、金属器がつくられるように、なります。

青銅(せいどう)とは、銅(どう) と すず とを、とかして、まぜあわせた金属でつくられた、合金(ごうきん)です。

「すず」とは、金属の材質(ざいしつ)のうちの、ひとつです。

青銅器には、銅剣(どうけん)や、銅矛(どうほこ)、銅鐸(どうたく)、銅鏡(どうきょう)などが、あります。

青銅器は、おもに祭りに使われるようになります。 いっぽう、鉄器は、農具や武器などの実用品につかわれるようになります。


  • 登呂遺跡(とろ いせき)
登呂遺跡(とろ いせき)。復元、竪穴式住居。

登呂遺跡(とろ いせき)からは、たて穴式住居と、高床式倉庫(たかゆかしき そうこ)が見つかっています。水田の、あともあります。水路や、あぜ道は、矢板(やいた)という板で、仕切られています。


  • 吉野ケ里遺跡(よしのがり いせき)
吉野ケ里遺跡,遠景

佐賀県にある。

まわりを濠(ほり)でかこまれた 環壕集落(かんごう しゅうらく) である。

人骨からは矢尻が刺さっているものも見つかっている。これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが予想できる。

堀の内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。


おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、
それぞれの集落で、多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じて、
そのため、土地や水が必要になり、
なので、集落どうしで、土地や水をめぐっての争いが起きたのだろうと思われています。

このような争いの中が、身分の差を作っていった理由の一つだとも、思われています。

この吉野ケ里遺跡は、弥生時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。


『漢書』地理誌[編集]

(かんじょ ちりし)

〜中国大陸の歴史書に見る日本〜

この頃の日本には、まだ文字がありません。ですが、中国大陸の王朝の国には、文字がありました。 その中国大陸の歴史書から、日本のようすも、分かります。

中国大陸の、今の中華人民共和国のあたりに、紀元前1世紀ごろの当時あった帝国の(かん)という国の歴史書の『漢書』の中の『地理誌』では、日本の弥生時代のころのようすについても、記述が書かれています。

(漢書をかいた漢は、前漢(ぜんかん)である。前漢については、後述。漢には、時代によって前漢と後漢がある。)

その頃、漢の人は日本を(わ)と呼び、日本人を倭人(わじん)と読んでいます。


漢書によると、そのころの、日本は、100あまりの国に分かれており、漢の王朝へ、定期的に貢物(みつぎもの)を持って、あいさつ に やってくるそうです。 日本は、楽浪郡(らくろうぐん)のむこうに、あるそうです。楽浪郡とは、今の朝鮮半島のことです。


ここで、中国大陸の漢の話がでたので、すこし、中国大陸の帝国や王朝について、話しておきましょう。 ここでいう「中国」とは、今でいう中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)のある場所にあった国(くに)や王朝(おうちょう)のことです。ユーラシア大陸の東のほうにあった、国土の大きな、漢(かん)などの帝国のことです。 日本国内の広島県や岡山県などの中国地方のことでは、ありませんので、まちがえないでください。

本書では、中国地方との混同をさけるため、必要に応じて「中国大陸」などの、「中国」以外の表現を用いることがあります。

中国大陸の王朝は、歴史的には、戦乱などで王朝が変わることが多いです。

  • 中国の王朝の変化

漢だって、最初からあったわけでは、ありません。


夏(か) :古代文明の黄河(こうが)文明があったあと、しばらくして夏(か)という国がありました。
殷(いん) :そのあと、紀元前1500年ごろに、殷(いん)という国が出きます。
周(しゅう) :つぎに、紀元前1100年ごろに、周(しゅう)が殷(いん)をほろぼします。
紀元前8世紀に、その周が分裂します。
秦(しん) :紀元前221年に、秦(しん)が統一します。
漢(かん) :その秦(しん)が漢(かん)に滅ぼされます。

漢は、一度、ほろびます。そのあと、ふたたび、漢の王朝になったので、前漢(ぜんかん)と後漢(ごかん)とに分けられます。

さらに後漢が分裂します。
三国時代 :多くの諸国の中から有力な勢力が三つ勝ち残った三国時代になります。

三国時代とは、「三国志」などで有名な、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国の時代です。

三国の中で魏が、もっとも強く、最終的に魏が、三国を統一します。統一したあとの王朝の名は「魏」ではなく、別の名前なのですが、まだ教えません。

ここまで、国名だけを、まとめると

「殷(いん)、周(しゅう)、秦(しん)、漢(かん)、三国時代(さんごくじだい)」となります。それぞれの王朝が出来た経緯(けいい)は、おぼえなくていいです。


殷(いん)の読みの「いん」とか、周(しゅう)の読みの「しゅう」とかは、日本での読みであり、中国語の読みでは、ありません。


小学校の社会科では、用語の読みは、日本語での読みを覚えれば、じゅうぶんだろう、と思います。

後漢の歴史書の『後漢書』(ごかんじょ)の「東夷伝」(とういでん)によると、倭の奴国(なこく、なのくに)の王が、後漢に外交の使者をおくり、日本から漢に貢物を送ったことが記されています。 奴(な)とは、100あまり、あった国のうちの一つだと、思われています。

金印(きんいん)。漢委奴国王印
金印の印文。漢委奴國王印文

漢の皇帝の光武帝(こうぶてい)は、日本の奴国王に金印(きんいん)を授けたといいます。

金印は、江戸時代の1784年に、今の福岡県の博多湾の志賀島(しかのしま)で、発見されています。金印の印の面には、文字がほられ、「漢委奴国王」と、ほられています。「漢委奴国王」の日本での読みは、「かん の わ のな こくおう」とか、「かん の わ の な の くに の おう」などと読みます。


日本統一へ[編集]

邪馬台国[編集]

(やまたいこく)
  • 魏志倭人伝(ぎし わじんでん)

中国大陸の3世紀ごろの歴史書の 『魏志』倭人伝(ぎし わじんでん) では、日本の3世紀ごろは、国の数が30あまりになっていることが分かります。東夷伝では100あまりの国が、魏志倭人伝では30ほどの国まで減っているので、このあいだの長い年月に、統一が進んでいったことが分かります。

そして、これら30あまりの国をしたがえた 邪馬台国(やまたいこく) が、日本に ありました。邪馬台国で、代表的な地位にあった人間がいます。名を 卑弥呼(ひみこ) という人物で、女の人物です。

倭人伝によると。倭(わ)の国では、もともとは男の王をたてていたようですが、戦争が続いたので、卑弥呼を女王にしたらしいです。


邪馬台国の場所は、まだ不明です。(2014年に記述。) もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南の太平洋の海の上に出てしまいますので、倭人伝の方向の記述が、あてになりません。

邪馬台国の場所の有力な説は、九州北部にあったという説と、奈良県の大和(やまと)にあったという説です。


邪馬台国は、魏に、外交の使いを送ります。 卑弥呼は、魏の皇帝から、 親魏倭王(しんぎわおう) という称号の入った金印(きんいん)をもらいます。そのほか、銅鏡を100枚と、絹の織物や、毛織物などを、日本は受け取ります。

倭人伝によると、卑弥呼の政治は、まじないや占いによるものだそうです。卑弥呼は、宮殿にこもりきりで、人々の前には、ほとんど姿を見せなかったらしいです。卑弥呼の弟が、宮殿に出入りをしていて、卑弥呼からの指示を人々につたえていたらしいです。実務は、弟など、卑弥呼でない人物が行っていたようです。

卑弥呼が死ぬと、大きな墓が作られ、また、100人あまりの奴隷(どれい)が、いっしょに埋められた(うめられた)らしいです。


倭人伝により、当時の日本の様子が分かります。 身分の差は、人々のあいだに、すでにありました。道端で身分の違う者どうしが出会うと、身分のひくい側のほうが道をゆずったといいます。

服装は、女は 貫頭衣(かんとうい) という、布のまんなかに、顔をだすための穴をあけただけの服を着ていたようです。

貫頭衣の画像がないので、外部のサイトなどでさがしてください。

また、税(ぜい)の制度があると、倭人伝に書かれています。 市(いち)も、開かれているようです。

古墳時代[編集]

(こふん じだい)
前方後円墳(ぜんぽう こうえんふん) 。仁徳(にんとく)天皇陵(てんのうりょう)と思われている大仙(だいせん)古墳
大阪府堺市

3世紀から4世紀ごろになると、王や豪族(ごうぞく)の墓では、大きな墓が、つくられはじめます。 このような、大きな王などをほうむった大きな墓を 古墳(こふん) と言います。

特に、近畿地方から瀬戸内海(せとないかい)沿岸(えんがん)の地域に、見られます。

この、3世紀ごろの時代から、7世紀ごろまでの時代を 古墳時代(こふんじだい) と言います。

古墳時代の文化のことを 古墳文化(こふん ぶんか) と言います。

古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に盛り上がった古墳を円墳(えんふん)と言います。四角く盛り上がった古墳を方墳(ほうふん)と言います。円墳と方墳があわさったような、かぎ穴のような形の古墳を 前方後円墳(ぜんぽう こうえんふん) といいます。

他にも、双円墳とか上円下方墳とか、いろんな形があります。とりあえず円墳と方墳と前方後円墳を知っておいてください。

大阪府の堺市にある 大山古墳(だいせんこふん、大仙古墳) は、日本で最大の面積の古墳です。

大仙古墳は、まわりが3重の濠(ほり)で、かこまれています。

ほかの場所でも、古墳は、見つかっています。古墳の数が多いので、すべての書ききれないので、代表的なものを書きます。

稲荷山(いなりやま)古墳・・・埼玉県
五色塚(ごしきづか)古墳・・・兵庫県
高松塚(たかまつづか)古墳・・・奈良県、明日香村(あすかむら)
江田船山(えだ ふなやま)古墳・・・熊本県
  • 古墳の副葬品
はにわ。武装男子立像(群馬県太田市出土)東京国立博物館蔵、国宝
はにわ。馬形埴輪(東京国立博物館)

古墳からは、鏡や玉、剣などの副葬品が、発見されている。他にも、はにわ(埴輪)という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が、発見されている。

大和朝廷[編集]

(やまと ちょうてい)

奈良県の大和(やまと)地方には、大きな古墳が多い。このことから、この大和の地方に、有力な勢力があったと、考えられている。この奈良地方の有力な豪族たちの政治勢力を 大和政権(やまと せいけん) という。

この大和政権の政府を 大和朝廷(やまと ちょうてい) と言い、その最高権力者を 大王(おおきみ) と言う。 大王(おおきみ)の一族は、後の天皇(てんのう)とよばれる一族である。

  • 発展的事項: キビとイズモの王朝
当時の日本には、地方によっては、ヤマト政権の他にも有力な豪族の治める王国があった。今でいう島根県あたりの出雲(いづも)や、今でいう岡山県あたりの吉備(きび)での、ヤマト以外の豪族たちの政権である。これらの政権を、大和朝廷や大和政権に対応して、出雲のほうは出雲政権とかイズモ政権とかイズモ王国、吉備のほうは吉備政権やキビ政権や吉備王国やキビ王国などと呼ぶこともある。
最終的に、のちの時代に日本を支配することになったのは奈良を中心とする政権の大和朝廷である。
イズモ政権やキビ政権については、まだ学者たちが研究中のこともあり、よく分かっていないことが多い。

(発展的事項、おわり。)

小学校の段階(だんかい)では、とりあえず、この古墳時代に大和朝廷が出来た、ということと、くわえて、大和朝廷が最終的に日本を支配した、ということを知っておけば良い。


まんなかにある、たてに長い茶色いのが、発掘された鉄剣。金錯銘鉄剣(国宝、埼玉県立さきたま史跡の博物館)

埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル大王(ワカタケルだいおう、ワカタケルおおきみ)の名が刻まれた文が、刻まれてあります。文を読むと、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたらしいです。


熊本県の 江田船山(えだ ふなやま)古墳 にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀(てっとう)があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲(はんい)に、およんでいたことが、分かります。

正確に言うと、当時はまだ漢字しか文字がなかったので、稲荷山の鉄剣には115字の漢字が刻まれており、その漢字の中に「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)という名が、刻まれています。 (※ 「獲加多支鹵」の漢字は、小学生は、おぼえなくて良い。)

また江田船山の鉄刀には、刻まれた文が破損しており、「獲□□□鹵大王」(ワ???ル大王 ?)というふうに名前の一部が読めなくなっています。(□が破損部とする。)

後の日本の神話の書の『古事記』(こじき)や、後の歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)などから「ワカタケル」という人物の存在が知られているので、鉄剣などがワカタケルの存在をうらづける証拠になったのです。日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述があるのです。 ワカタケル大王とは、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)だということが分かっています。

碑文の複製 1882年頃作成、東京国立博物館

朝鮮半島での、広開土王(こうかいどおう)の碑文(ひぶん)によると、当時の日本である倭が、外国である高句麗(こうくり)との戦争を4世紀後半にしたことが、書かれています。広開土王は好太王(こうたいおう)とも言います。

5世紀の終わりごろ、中国大陸の帝国は「宋」(そう)という国になっており、その宋の歴史書の『宋書』倭国伝(そうじょ わこくでん)では、5世紀に中国大陸の宋に、日本からの外交で、日本の5人の大王が、それぞれ外交の使者を送ってきたことが、宋書に書かれています。 5人の王の名は、宋書によると、それぞれ讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という名です。 この5人の倭国の王を 倭の五王(わのごおう) といいます。日本は、高句麗との戦争で優位にたちたいので、宋の支援(しえん)が、ほしかったのです。

この5人の王が、どの天皇か、それとも天皇ではない別の勢力なのか、いろんな説がある。

有力な説では、武(ぶ)は、日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述のあるワカタケル大王のことだろうと思われています。つまり雄略天皇が武(ぶ)だろうと思われています。


  • 氏(うじ)と姓(かばね)

日本国内に目を向けると、日本国内での大和朝廷による勢力拡大が進むにつれ、豪族たちの名前に関する制度で、氏(うじ)と姓(かばね)とによる、後に言う氏姓(しせい)制度が、作られた。

(うじ)とは、主に、血のつながった者どうしの集団である。(かばね)とは、政治の地位による称号(しょうごう)で、たとえば「臣」(おみ)や「連」(むらじ)という姓が、あります。

有力な豪族の氏には、たとえば蘇我氏(そが し)・物部氏(もののべ し)・大伴氏(おおとも し)などが、あります

政治の仕事を行なう豪族には、さらに、姓があたえられた。

例えば、蘇我氏には「臣」(おみ)という姓(かばね)が与えられた。大伴や物部には「連」(むらじ)という姓(かばね)が与えられました。


  • 渡来人(とらいじん)
須恵器。日下部遺跡(兵庫県・神戸市)から出土した飛鳥時代の甕(兵庫県立考古博物館)
須恵器。森ヶ沢遺跡(青森県・七戸町)から出土した5世紀の須恵器

5世紀ごろ、朝鮮半島や中国大陸から、多くの人が日本に渡ってきて、日本に移り住んだ。このように、古い時代に外国から日本に移り住んだ人たちを 渡来人(とらいじん) という。

この5世紀頃の渡来人により、外国の文化が日本に多く伝わった。


  • 漢字が日本に伝わります。
  • 儒教(じゅきょう)が伝わります。儒教とは、孔子が始めた思想で、政治や道徳に関する思想です。
  • 用水路の土木技術や、機織りの技術、農具や工具や武器などをつくる技術など、新しい技術も、日本に伝わります。

須恵器(すえき)という、土器の作り方が、日本に伝わります。須恵器は、弥生土器よりも、さらに製法の進んだ、かたい土器です。 須恵器の製法は、丘(おか)などの斜めになってる地面の斜面をくりぬいて穴窯(あながま)を作り、その穴窯の中で土器を焼き固めるという方法です。野焼きよりも高温に焼けるので、かたい土器が焼きあがるというわけです。 縄文土器や弥生土器は、野焼きの土器でした。


  • 仏教(ぶっきょう)の伝来

また、仏教(ぶっきょう)も、外国から伝わります。538年に、朝鮮半島の百済(くだら)という国の王から、仏像や経典が、日本の天皇に送られます。

仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで、 ゴーダマ=シッダルタ という人物が始めた宗教です。ゴーダマ=シッダルタは、日本では 釈迦(しゃか) と言われます。


飛鳥時代[編集]

聖徳太子の登場

(あすかじだい)
(しょうとくたいし の とうじょう)
聖徳太子のころ
年令 太子の行ったこと 社会のできごと
6世紀
豪族どうしが争う
574 1才 聖徳太子が生まれる
蘇我氏が権力をにぎる
589 隋が中国を統一する
593 20才 聖徳太子が摂政になる。
7世紀
603 30才 冠位十二階を定める
604 31才 十七条の憲法を定める
607 34才 小野妹子を遣隋使として送る
618 隋がほろんで唐になる
622 49年 聖徳太子がなくなる
645 大化の改新

日本では、6世紀ごろから、豪族(ごうぞく)の影響力(えいきょうりょく)が強まってくる。豪族の反乱や、豪族どうしの争い(あらそい)が出てくる。

まず、527年に、今の福岡県にある、筑紫(つくし)の豪族である磐井(いわい)による反乱が起こる。 この 磐井の乱(いわい の らん) を、豪族の物部氏の 物部麁鹿火(もののべの あらかみ) が しずめたので、物部氏(もののべし)の朝廷での影響力が強くなる。

後に、蘇我氏(そがし)が物部氏(もののべし)と争います。 蘇我氏は、仏教などの渡来人(とらいじん)の伝える外国文化の受け入れに積極的でした。いっぽう、物部氏は、仏教には反対でした。

587年には、蘇我馬子(そがの うまこ)が、物部守屋(もののべの もりや)ひきいる物部氏をほろぼします。

このように、蘇我と物部が争うように、朝廷の影響力が弱まっていってることが分かる。

また、外国でも、中国大陸で、隋(ずい)が6世紀後半の589年に出来た。周辺諸国に大きな影響があった。

日本では、蘇我馬子の権力が強くなり、天皇にも、蘇我氏と血縁のある妃(きさき)が産んだ 用明(ようめい)天皇 や 崇峻(すしゅん)天皇 などを皇位に即位させた。

崇峻天皇が馬子による独裁的な政治を嫌うと、馬子(うまこ)たちは、崇峻天皇を暗殺(あんさつ)するという事件を起こす。

このような国難(こくなん)に、当時の大和朝廷は、みまわれていた。


暗殺事件が起きたといっても、蘇我馬子の権力は、いまだに強いままであり、崇峻天皇の次の天皇である推古天皇(すいこてんのう)による政治も、蘇我氏の影響下にあった。

聖徳太子が描かれた肖像画。まんなかの、一番、背の高い人物が聖徳太子。

推古天皇は、摂政(せっしょう)として聖徳太子(しょうとく たいし)という人物をたて、聖徳太子に、朝廷の強さをますための、あたらしい法律や政治のしくみをつくらせる。 摂政とは、天皇のかわりに、政治の実務を行なうものです。天皇がなんらかの理由で政治の実務が行えない時に、摂政が、たてられます。歴史的には、天皇が幼い場合や、天皇が女性の場合に、摂政がたてられることが多いです。

聖徳太子は 厩戸皇子(うまやどの おうじ) とも言われます。


聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの改革(かいかく)をすすめる。

改革と言っても、聖徳太子の改革は、あくまで天皇の権力を強めるための改革であり、けっして現代で言うような民主主義(みんしゅしゅぎ)をもとめての改革ではないので、混同しないようにしよう。

聖徳太子の改革は、けっして、蘇我氏を権力から退ける(しりぞける)ためでも、ありません。そもそも、聖徳太子自身が、蘇我氏の親戚(しんせき)です。


聖徳太子らによる改革では、冠位十二階の制(かんいじゅうにかい の せい)と、十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)があります。

  • 冠位十二階の制(かんいじゅうにかい の せい)

冠位十二階の制は、家柄に関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手柄(てがら)によって、役人に位(くらい)が与えられます。位は、一代かぎりです。 役人の位を12段階に分けたので、このような名前で呼ばれます。これ以前は、家柄によって位が与えられたのが、あらためられました。

  • 十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)

役人の心がまえを、記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。

内容を現代風に訳す(やくす)と、およそ、次のようなことが書かれています。

1条 :争い(あらそい)をやめ、なかよくしなさい。
2条 :仏教(ぶっきょう)を保護しなさい。
3条 :天皇の命令には、したがいなさい。
12条 :百姓(ひゃくしょう)などの民(たみ)から、かってに税(ぜい)や貢物(みつぎもの)をとっては、いけません。
12条 :重要なことを決める(きめる)ときには、話し合いで決めなさい。

その他にも、いろんなことが書かれていて、全部で17条あるので、十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)と言います。 もともとの文は漢文(かんぶん)で書かれています。この聖徳太子の時代には、まだ、ひらがなが、ありません。のちの歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)に、十七条の憲法の原文があります。

原文は、けっこう長いです。

(小学生は、原文をおぼえなくてもいいです。)

原文に、読みやすいように送り仮名をつけ、記述の一部を抜粋(ばっすい)すると、

一(いち)に曰く(いわく)、和(わ)を以て貴し(とうとし)と為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。(後略)
二に曰く、篤く(あつく)三宝(さんぽう)を敬へ(うやまえ)。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。(後略)
三に曰く、詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。(略)

(中略)

十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に斂る(おさめる)ことなかれ。国に二君(ふたりのきみ)非(な)く、民に両主(ふたりのあるじ)無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)をもって主となす。(略)

(中略)

十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(後略)

といったふうに、書かれています。

十七条の憲法は、「憲法」と言っても、現代の日本の「日本国憲法」(にほんこく けんぽう)のような、他の法律の基本となる民主主義(みんしゅしゅぎ)の理念(りねん)や、日本国の国家理念(こっかりねん)がふくまれたものとは、ちがうので、混同しないでください。


「和をもって尊しとなす」と、「篤く三宝を敬え」は、有名な言葉なので、知っておいてください。

「詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め」も、けっこう有名です。意味は「天皇からの命令には、かならず、したがいなさい。」という意味です。


聖徳太子らの行った重要(じゅうよう)な政策(せいさく)には、外交政策(がいこうせいさく)も、あります。中国大陸を支配していた(ずい)という帝国(ていこく)との外交(がいこう)です。ある国と、別の国とが、政治の取り引きをすることを外交(がいこう)と言います。

607年に、外交の使者として 小野妹子(おのの いもこ)たちを 隋(ずい)に送ります。遣隋使(けんずいし)の派遣(はけん)です。

なお、小野妹子(おのの いもこ)は男です。小野妹子は女では ありません。小野妹子は妹(いもうと)でも ありません。

隋(ずい)に外交の使者(ししゃ)を派遣(はけん)するので「遣隋使」(けんずいし)と言います。

外交の結果、日本は隋と国交(こっこう)を結びます。国交とは、それまで、つきあいのなかった2つの国どうしが、平和(へいわ)に、かかわりを持ち始めることです。 また、隋(ずい)の文化や制度は日本よりも進んでいたので、多くの文化や制度を、日本は取り入れます。

隋と国交をむすぶとき、日本は、隋と日本とを対等(たいとう)の立場で、国交を結ぼうとします。そして、対等の立場で国交をむすぶことに、日本は成功します。

それ以前の外交では、中国大陸の帝国には、周辺国が貢物(みつぎもの)を持ってきて、中国の帝国の属国として外交をむすぶことが、ふつうでした。

当時の隋は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)と敵対(てきたい)していたので、高句麗と日本が協力することを恐れた(おそれた)のだろう、と言われています。


隋の歴史書である『隋書』(ずいしょ)に、この妹子との外交に関する記述があります。

(小学生は原文を覚えなくてもいいです。)
隋の皇帝である煬帝(ようだい)。真ん中の人物が楊帝。

隋の皇帝へと、小野妹子が差し出した国書(こくしょ)には、

「日出ずる処(ひ いずるところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日(ひ)没する処(ぼっするところ)の天子に致す(いたす)。恙無きや(つつがなきや)」 ※おぼえなくて良い

(原文 :日出處天子致書日沒處天子無恙) ※おぼえなくて良い

とあります。両国とも「天子」(てんし)という表現を用いていることに注目してください。つまり、日本の天皇と、中国大陸の皇帝を、同じ地位(ちい)と見ているわけです。

ほかにも、日本のことを「日出ずる処」と書いて、隋(ずい)を「日没する処」と書いてあります。

当初、この日本からの国書を読んだ隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、日本を無礼(ぶれい)な国と思い怒った(おこった)といいます。

『隋書』には、漢文で書かれています。これを日本語に読み下すと

読み下し文 (※おぼえなくて良い) :帝、これを覧て(みて)悦ばず(よろこばず)。鴻臚卿(こうろけい)に謂いて(いいて)曰く(いわく)、「蛮夷の書(ばんいのしょ)、無礼なる者(ぶれいなるもの)有り(あり)。復た(また)以って(もって)聞(ぶん)するなかれ
訳 :帝は国書を読んだが、不満であった。部下の外交官に言うには「日本からの書は、無礼である。二度と私に日本からの国書を見せるでない。」
( 原文 :「帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」) ※おぼえなくて良い

と、なります。

ですが、隋の皇帝・煬帝(ようだい)は高句麗との戦争を有利にすすめるため、隋は日本に良い待遇(たいぐう)をしたわけです。

日本の側も、隋と高句麗都との敵対した情勢(じょうせい)に関する情報(じょうほう)をつかんでおり、その情勢を利用して外交での交渉(こうしょう)に利用したわけです。


なお、「日出ずる処」とありますが、地球上では、中国大陸の東側に日本があるので、日本のほうが、夜明けが早いです。隋から見ると、日本のある方角から太陽が登ってきます。


飛鳥文化[編集]

聖徳太子が政治をおこなっていた時期でもある7世紀ごろ、今でいう奈良県である飛鳥地方に都が置かれていました。この時代のことを 飛鳥時代(あすかじだい) といい、この時代の文化を 飛鳥文化(あすかぶんか) といいます。

この飛鳥文化は仏教を中心とした文化である。

  • 法隆寺
法隆寺。金堂と五重塔
法隆寺の釈迦三尊像(金堂)

聖徳太子は、法隆寺を、607年に、建て(たて)させます。法隆寺の場所は、今でいう奈良県にあります。法隆寺は、現存する木造建築の中で、世界最古の木造建築です。法隆寺は、世界文化遺産に1993年に登録されました。

法隆寺には、 釈迦三尊像(しゃか さんぞんぞう) や 百済観音像(くだらかんのんぞう) 、おさめられている。

玉虫厨子

そのほか、法隆寺には絵画の玉虫厨子(たまむしのずし)など、多くの美術品が、おさめられている。


法隆寺の柱は、円柱の中央が、ふくらんでいる。これはギリシア建築に多く見られる特徴でエンタシスという特徴である。

その他、唐草文様などが美術品に見られるが、唐草文様の発祥はギリシアである。

これらのことから、ギリシアや中東の美術文化が、おそらくは中国大陸を通して、日本に美術文化が入って来ていることが分かる。


さて、聖徳太子は、四天王寺(してんのうじ)も、建てさせます。場所は、今でいう大阪府です。



飛鳥時代の、ほかの寺では、広隆寺(こうりゅうじ)の弥勒菩薩像(みろく ぼさつぞう)も、飛鳥時代の仏像として有名である。


聖徳太子の死後[編集]

622年に、聖徳太子が、死にます。 聖徳太子の死後は、蘇我氏が権力が強まります。 蘇我馬子(そがのうまこ)も、626年に、なくなります。

まず、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(そがの えみし)の権力が、強まります。さらに、馬子の孫であり、蝦夷の子である蘇我入鹿(そがのいるか)の権力が強まります。

643年に、蘇我入鹿は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)という聖徳太子の子である人物と、山背大兄王 の一族を滅ぼします。

このような強権的な蘇我氏に対して、豪族たちからの不満が高まります。


  • 乙巳の変(いっしのへん)  ※ 小学生は、おぼえなくて良い。

645年に、ついに、皇族の中大兄皇子(なかのおおえの おうじ)と、豪族の中臣鎌足(なかとみの かまたり)との協力により、蘇我入鹿は殺害されます。蝦夷は、この事件を知り、自殺します。

この蘇我氏の死亡した事件を 乙巳の変(いっしのへん) という。 (※ 小学生は、おぼえなくて良い。)

  • 大化の改新(たいか の かいしん)

このあと、中大兄皇子らが権力を取り、政治改革を色々と行なう。この皇子らの改革を 大化の改新(たいか の かいしん) という。645年に年号(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたので、この一連の改革は大化の改新と呼ばれています。 「大化」という年号により、日本では、はじめて年号が定められます。年号をさだめることは、中国大陸の帝国を参考にしたのです。

645年の覚え方には、「虫殺し」(むしごろし、645ろし)と覚える語呂合わせ(ごろあわせ)が、あります。

645年 :大化の改新 虫殺し(645ろし)

645年の一連の事件により、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は退位して、皇極元・天皇の弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)が645年に天皇になります。

改新の詔[編集]

(かいしん の みことのり)

中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要があった。

さて、改革の内容はと言うと・・・

646年に改新の詔(かいしん の みことのり)が出されます。これは改革内容の方針や目標を表したものです。この詔の発見は『日本書紀』で発見されています。

改革の内容は、以下の、公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)、国司(こくし)の設置(せっち)、です。


  • 公地公民(こうちこうみん)

これまでは豪族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のものになります。豪族や皇族が持っていた人民も、朝廷が持つことになります。この命令が公地公民(こうちこうみん)です。朝廷が管理できない土地の存在を禁止します。同様に、朝廷が管理できない住民の存在も禁止します。


  • 班田収授(はんでんしゅうじゅ)

人民の戸籍(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための口分田(くぶんでん)という田を与え耕作させます。

この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。

この飛鳥時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。

このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。

現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。

詔の本文に、「初造戸籍計帳班田収授之法。」とあります。現代風に読みやすく区切りを入れれば、「初 造 戸籍 計帳 班田収授之法。」とでも、なりましょう。


目的は、収穫から税収をとるためです。前提として、公地公民が必要です。 6年ごとに人口を調査します。 税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。女にも、 口分田が与えられます。

原則として、6才以上の男に2反(720歩=約24アール)の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2(480歩=約16アール)の田を与えています。5才以下には与えられません。

死んだ人の分の田は、国に返す。


  • 租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)
一般の人々の負担
 種類 内容
 税  収穫(しゅうかく)の約3%の稲(いね)
調 地方の特産物(糸、きぬ、わた、塩、
魚、海そう、鉄、・・・)などを納める。
麻の布を納める。(労役の代わり。)

 兵 
 役 
防人 九州北部で兵士を3年。

税(ぜい)の種類です。

祖(そ)とは、田の収穫量の、およそ3%を、国に納めよ(おさめよ)、という税です。 調(ちょう)とは、絹(きぬ)や、地方の特産物を、国に納めよ、という税です。

庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。

前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。

この他、防人(さきもり)という、九州で警備(けいび)の兵士をする、兵役(へいえき)の仕事がありました。租庸調(そようちょう)を都に運ぶ負担も、他の農民たちの負担でした。

この防人のつらさを歌った歌として、つぎのような歌が、残っています。

 さきもりの歌  ( 『万葉集』(まんようしゅう)より )

 唐衣(からころも) 裾(すそ)に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母(おも)なしにして


(現代語訳) 唐衣の 裾(すそ)に、すがって 泣きつく子どもたちを (防人に出るため)置いてきてしまったなあ、 (あの子たちには)母もいないのに


  • 国・郡・里

政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。

      国 (国司)
      ┃
      郡 (郡司)
      ┃
      里 (里長)

国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。

郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいて、その地方の豪族が郡司です。


国際情勢[編集]

7世紀のなかばになると、朝鮮半島で戦乱が起きます。 660年に百済(くだら)が、 新羅(しらぎ) という国に滅ぼされます。 朝鮮半島には百済という国があって、その百済は、日本とは親しかったのでした。

新羅は、唐(とう)の協力を、えています。

  • 白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい)

日本は百済を復活(ふっかつ)させるため、新羅と戦争をします。663年に、中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、日本 対 新羅の戦争が起きます。これが白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい) です。日本は負けます。新羅と唐の連合軍に、日本は負けました。

なお、後に新羅は676年に高句麗(こうくり)も滅ぼし、朝鮮半島を統一することになります。


日本国内の強化[編集]

白村江の戦い にやぶれた日本は、国内の政治に集中します。中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃にそなえるため、九州の防備を強化します。九州北部に 防人(さきもり) という防衛(ぼうえい)のための兵士たちを置き、水城(みずき)という土塁(どるい)と濠(ほり)を作ります。さらに北九州や瀬戸内海周辺の西日本の各地に山城(やまじろ)を作ります。


667年に、中大兄皇子は都を移します。奈良の飛鳥(あすか)から、今でいう滋賀県である近江(おうみ)に都を移します。大津宮に都が移ります。 この都を近江(おうみ)にうつしたことも、攻撃に備えて(そなえて)なのかもしれません。近江は、飛鳥よりも内陸にあります。


668年に中大兄皇子は天皇として即位し、天智天皇(てんじ てんのう)になります。

668年に、法典である 近江令(おうみりょう) が出来ます。天智天皇が中臣鎌足に命じ、役人たちに編纂(へんさん)させたものです。

全国的な戸籍である 庚午年籍(こうごねんじゃく) が作成されます。


  • 壬申の乱(じんしんのらん)

天智天皇がなくなると、天皇の座をめぐり、天智の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、天智の子の大友皇子(おおとものおうじ)とが、672年に争い戦争になる。これを 壬申の乱(じんしんのらん) という。大海人皇子が勝ち、大海人皇子が 天武天皇(てんむてんのう) になる。

天武天皇の死後、皇后の持統天皇(じとうてんのう)が即位します。持統天皇は、都を奈良に移し、藤原京(ふじわらきょう)を建設させます。

大宝律令[編集]

(たいほう りつりょう)

701年の文武天皇(もんむてんのう)のときに、 大宝律令(たいほうりつりょう) という法典が完成する。この大宝律令を編纂(へんさん)した人物は、藤原不比等(ふじわらの ふひと) らが中心に編纂(へんさん)した。藤原不比等は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子である。

「律」は罪人をさばくためのい刑法で、「令」(りょう)は役所や役人などに対する法律です。

政府の中央組織には 二官八省(にかんはっしょう) が置かれた。

二官には、紙をまつる宗教を行なう神祇官(じんぎかん)と、一般の政務をおこなう太政官(だじょうかん)がおかれた。

太政官の下に、大蔵省などの八省が置かれた。

班田収授や、租庸調(そようちょう)も定められた。

         
           ┏━━中務省
   ┏━太政官━━━╋━━式部省
   ┃       ┣━━民部省
天皇━┫       ┣━━兵部省
   ┃       ┣━━刑部省
   ┃       ┣━━大蔵省
   ┗━神祇官   ┣━━宮内省
           ┗━━治部賞

中務省(なかつかさしょう)の仕事は、詔(みことのり)や勅(ちょく)の作成。
式部省(しきぶしょう)の仕事は、役人の人事や教育。
民部省(みんぶしょう)の仕事は、戸籍や租税。
兵部省(ひょうぶしょう)の仕事は、軍事や警備。
刑部省(ぎょうぶしょう)の仕事は、刑罰や裁判。
大蔵省(おおくらしょう)の仕事は、物資の管理や財政。
宮内省(くないしょう)の仕事は、宮中の事務や庶務。
治部賞(じぶしょう)の仕事は、儀式や外交。

奈良時代[編集]

(なら じだい)
平城京 条坊図

文武天皇(もんむてんのう)のつぎの天皇である元明天皇(げんめいてんのう)の時代に、都が移る。710年に、奈良の 平城京(へいじょうきょう) へと移る。藤原京から平安京に移る。

年号をおぼえる語呂合わせは「なんと(7、10)、うつくしい平城京」。

794年に平安京(へいあんきょう)に都が移るまで、この平城京が都である。平城京に都があった710年から80年間ほどの時代を奈良時代(ならじだい) と言う。

平城京は、道の通りが碁盤目(ごばんめ)のように、区画(くかく)が整理されています。このような、碁盤目のような区画のつくりを 条坊制(じょうぼうせい) と言います。

和同開珎

経済では、この奈良時代の都では、和同開珎(わどうかいちん)という貨幣が708年に発行され、流通していました。 これより古い貨幣には、7世紀後半の天武天皇の頃に富本銭(ふほんせん)という貨幣がつくられています。

  • 税について。墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう)

農民は貧しく(まずしく)、多くの農民は竪穴住居に住んでいた。また、人口が増えたので口分田は不足した。税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた、

朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが 三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。

さらに743年には、期限が無く所有し続けられる 墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう) が制定された。

これは、つまり公地公民の原則を廃止したことになる。

また、貴族や豪族は、これを利用し、私有地を広げた。この貴族の私有地は、のちに 荘園(しょうえん) と呼ばれることになる。

  • 古事記、日本書紀

712年に『古事記』(こじき)という天皇家や貴族などにつたわる神話の時代をまとめた書が、できます。この『古事記』は、天武天皇により編纂が命じられ、712年に完成しました。

『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が、暗記していた神話や歴史を、太安万侶(おおのやすまろ)が3巻の書にまとめた書です。

神話の時代から推古天皇にいたるまでの出来事が古事記に書かれています。


また、日本の歴史書の『日本書紀』が720年に完成します。神話の時代の伝説から、7世紀末ごろの持統天皇にいたるまでの国家と天皇の歴史を書いた、歴史書のような書です。

日本書紀の編纂は、時代順に出来事を書く編年体(へんねんたい)で記述しています。

日本書紀は、舎人親王(とねりしんのう)らが、全30巻にまとめています。

大仏づくり[編集]

聖武天皇のころ、飢饉(ききん)がつづいたり、貴族の反乱が起きたりします。

東大寺盧舎那仏像

737年には病気の天然痘(てんねんとう)が流行り、多くの死者が出る。 740年には、九州で、貴族の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)による反乱も起きた。 政治が不安定になる。 また、人口が増えて公地公民が上手くいかなくなってきた。

聖武天皇は、仏教の力に、すがる。

まず741年に国ごとに 国分寺 (こくぶんじ)と 国分尼寺 (こくぶんにじ)を建てさせる。

都には 東大寺 (とうだいじ)を建てさせた。

743年に、東大寺の本尊(ほんぞん)として大仏を作らせる。

東大寺の大仏は、盧遮那仏(るしゃなぶつ)という仏です。 ※おぼえなくて良い。


行基(ぎょうき)という僧(そう)がいました。彼は、民衆のために用水の池や端をつくったりしながら、諸国をまわって教えをといていたので、民衆に、したわれていました。 しかし、朝廷は、はじめは、行基の行動をとりしまります。当時は、民衆への仏教の布教が禁止されていたし、寺の外での活動も禁止されています。 朝廷からは、おそらく行基は、民衆をそそのかす危険人物(きけんじんぶつ)だろう、と思われていたのです。


さて、大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、民衆の支持が必要でした。このため、民衆に慕われていた僧の行基(ぎょうき)の活動を認めます。

遣唐使と鑑真[編集]

(けんとうし と がんじん)

中国大陸の帝国が唐にかわっても、かつての遣隋使(けんずいし)と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の (けんとうし)遣唐使 を送ります。

遣唐使は、奈良時代のあいだは、おこなわれています。

のちの時代の平安時代に遣唐使は廃止されます。奈良時代には、まだ遣唐使は廃止されません。

717年に唐にわたった 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) や、仲麻呂と供に唐にわたったこともある 吉備真備(きびのまきび) が遣唐使として有名です。

なお、最初の遣唐使として630年に唐に派遣された犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)は、最後の遣隋使でも、あります。

阿倍仲麻呂は、日本に帰ろうとして乗った船が難破(なんぱ)し、日本に帰れず、最終的に唐の皇帝に仕えることになります。

吉備真備は日本に帰れます。吉備真備は2回も唐にわたり、日本に帰れます。

  • 鑑真(がんじん)
鑑真和尚像

日本の朝廷らは、唐の有名な僧の 鑑真(がんじん) に、日本でも仏教をひろめてほしいと、鑑真を日本へ招き(まねき)ます。この招きを受け、鑑真は日本への渡航をおこないますが、5回も失敗し、6回目で日本に着きます。6回目で日本についたころには、鑑真は失明しています。海の水しぶきをあびつづけることは、目に悪いのです。

鑑真は、奈良に 唐招提寺(とうしょうだいじ) を開きました。

天平文化[編集]

(てんぴょう ぶんか)

奈良時代の文化は、仏教の影響と、唐との交流の影響が、特徴(とくちょう)です。 とくに、聖武天皇の治めた 天平(てんぴょう) の年号の時代に、この傾向が強いので、この奈良時代の文化を 天平文化(てんぴょうぶんか) と言います。

正倉院正倉
校倉造(あぜくらつくり)。正倉院の宝物庫は、三角形の断面の木を組み合わせたつくりの校倉造で、つくられている。

東大寺にある 正倉院(しょうそういん) には、奈良時代の美術品や、聖武天皇が日用した道具などが収められています。

※ 有名な宝物で「螺鈿紫檀五絃琵琶」(らでんしたんごげんのびわ、図参照)や「瑠璃杯」(るりのつき)が保存されているのですが、ウィキペディアに画像がありません。外部サイトや参考書で、画像をお探しください。


宝物には、ギリシャやペルシャ、インドなどから運ばれてきたものもある。シルクロードという中国大陸からヨーロッパまでの貿易の通路を通ってきた宝物である。後世の言い方だが正倉院のことを「シルクロードの終着駅」とも例える。

(※ 赤漆文欟木御厨子〜蘇芳地金銀絵箱蓋は、おぼえなくて良い。)

文学では、和歌(わか)をまとめた万葉集(まんようしゅう)が759年ごろから編纂(へんさん)されます。 貴族の作った和歌だけでなく、農民や防人などの様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。

合計で4500首の歌が収録されています。

貴族の歌人では、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や大伴家持(おおとものやかもち)、山上憶良(やまのうえのおくら)、山部赤人(やまべのあかひと)などが有名です。

万葉集の文字の読みは、万葉仮名(まんようがな)という、漢字の音で日本語を表す読みです。たとえば、次のような句を次のように読みます。

(万葉仮名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武 (※ おぼえなくて良い。)
(訓)いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴(おおとも)の 御津(みつ)の浜松(はままつ) 待ち恋ひぬらむ(まちこいぬらん) 

平安時代[編集]

貴族がさかえた時代
かつての天平文化の仏教保護の政策などにより、仏教の僧や寺院の影響力が強くなる。

のちの天皇や朝廷は、これらの仏教勢力を嫌がり、そのため、桓武天皇(かんむてんのう)により、寺院の多い現在でいう奈良県から京都府へと都をうつす。まず784年に京都府の 長岡京(ながおかきょう) にうつす。さらに794年に京都府の 平安京(へいあんきょう) にうつす。

 鳴くよ(794、なくよ) ウグイス 平安京


「ホーホケキョー」とウグイスは鳴きますが、それと「へいあんきょう」をかけたダジャレの語呂合わせ(ごろあわせ)です。

平安時代(へいあんじだい)の当時(とうじ)に、こういうダジャレがあったわけでは、ありません。現代(げんだい)の私たちが、歴史上(れきしじょう)の出来事(できごと)のおきた年(とし)をおぼえるための語呂合わせ(ごろあわせ)です。

HeiankyouMapJapanese.svg 奈良から平安京への寺院の移転は禁止されます。


他にも、社会の変化で、もはや、公地公民による昔(むかし)の政治が上手くいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだろう。

平安京に都を移してから約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を 平安時代(へいあんじだい) という。

くわしくいうと、後に1192年に武士である源頼朝が権力をにぎる鎌倉幕府(かまくら ばくふ)ができますが、794年から1192年までを平安時代と言うことが多い。

なお、平安時代より、あとの武士による政治の時代になっても、都は平安京のままです。明治時代に東京に都が移るまでは、平安京が日本の都でした。平安京のつくりは、唐の都である 長安(ちょうあん) を、参考(さんこう)にしています。

桓武天皇は、公地公民が上手くいかない理由の一つである、税負担の重さに改革の手をつけます。 税負担の重さを減らしました。

雑用(ぞうよう)の日数を60日から30日に減らします。

また、桓武天皇の政権は、東北地方に支配を広げます。

東北地方の 蝦夷(えみし) とよばれる人々は朝廷の支配に反対し、たびたび反乱を起こしていました。朝廷は 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) という人物を 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん) という役職(やくしょく)に任命し(797年)、彼に東北の平定を命じ、東北の平定のため、東北に兵を送らせます。

蝦夷の族長はアテルイ(阿弖流為)という人物で、アテルイの兵力と、対する田村麻呂らの朝廷軍との戦いです。 結果的に、田村麻呂の側が勝ちます。つまり朝廷の側が勝ちます。

アテルイは負け、802年に降伏(こうふく)します。アテルイは平安京に連行されたのち、京にて処刑されます。 田村麻呂は、アテルイの命を助けるよう減刑をもとめましたが、貴族たちの反対により、アテルイは処刑されました。

東北での戦争のさい、胆沢城(いさわじょう、場所は岩手県) などが田村麻呂らにより築かれ(きずかれ)、朝廷による東北支配の拠点になります。


  • 仏教界の変化
最澄
空海

平安時代に入り、奈良時代の仏教とは、変化をした。天台宗 (てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)という新しい宗派(しゅうは)ができ、それが広まった。奈良時代の仏教とはちがい、新しい平安時代の宗派は、山奥(やまおく)で修行(しゅぎょう)をしたりする仏教である。

僧の最澄(さいちょう)と僧の空海(くうかい)による、新しい仏教の考え方が広まった。おそらくは朝廷が、奈良時代の政治に深く介入した従来の仏教勢力をきらい、かわりに新しい宗派を保護したのだろう。

最澄も空海も、遣唐使と共に唐にわたり留学し、唐の新しい仏教の教えを学んできた僧である。

最澄は805年に日本に帰国し、比叡山(ひえいざん、滋賀県にある。)に 延暦寺(えんりゃくじ) をたて、天台宗 (てんだいしゅう)をひろめた。最澄は伝教大師(でんきょうだいし)とも言われます。

空海は806年に帰国し、高野山(こうやさん、和歌山県にある。)に 金剛峯寺(こんごうぶじ) をたて、真言宗(しんごんしゅう)をひろめた。空海は 弘法大師(こうぼうだいし)のことです。ことわざの「弘法も筆のあやまり」(こうぼうもふでのあやまり)の弘法大師のことです。

比叡山と言い、高野山と言い、ともに山であることに注目もしよう。朝廷の、仏教の政治介入をきらう事とも、つじつまがあう。

  • 荘園(しょうえん)

奈良時代に墾田永年私財法により、開梱した土地の所有が認められるようになったので、貴族たちや寺社は農民らに開墾をさせ、貴族の所有する土地を広げていった。この貴族の所有する私有地が 荘園(しょうえん) である。

また、平安時代に、貴族や寺社の所有する荘園には税をおさめなくてもよいという、貴族につごうのいい権利が出来た。 税を収めない権利を不輸の権(ふゆのけん)と言い、荘園への役人の立ち入りを拒否(きょひ)できる権利を不入の権(ふにゅうのけん)といいます。 これら不輸不入の権もあり、貴族の荘園は、どんどんふえていき、朝廷の税収は減るので財政は悪化し、律令政治が上手くいかなくなります。

有力な貴族でない者の荘園は国司に取り上げられたり、他の豪族にうばわれることもあったので、そのような有力でない者は、朝廷の有力な貴族に、形式的だが荘園を寄付(きふ)した。これを寄進(きしん) という。


  • 摂関政治(せっかんせいじ)

9世紀の中頃になると藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣鎌足のこと。)の子孫の一族の藤原氏(ふじわらし) が、権力を強めます。

藤原氏の一族は、代々、娘を天皇の妃(きさき)にしています。 すると、藤原氏は天皇の母方(ははかた)の親戚(しんせき)ということになるので、藤原家の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。

藤原道長(ふじわらの みちなが)

藤原氏の一族では、とくに11世紀の前半に 藤原道長(ふじわらの みちなが) と、道長の子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)らの親子が権力をにぎっていた時代が、もっとも勢力が、さかんでした。

道長が有名なので、よく、教科書などに道長が取り上げられますが、藤原氏の権力は、べつに11世紀に急に強まったわけではなく、9世紀ごろから藤原良房(ふじわらのよしふさ)が摂政になったりなど、すでに藤原氏の勢力が強かったです。皇族以外で摂政になったのは、良房が、はじめてです。

天皇が幼いときは、藤原氏の者が摂政になり政治の実権(じっけん)を握り、天皇が成人しても藤原氏は関白(かんぱく)という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。このような摂政や関白として政治を行なうという政治の方法を 摂関政治(せっかん せいじ) といいます。

道長の読んだ歌で、つぎの歌があります。

「この世(よ)をば わが世(よ)とぞ思ふ(おもう) 望月(もちづき)の 欠けたる(かけたる)ことも なしと思へば(おもえば)」

意味は、「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(=満月)のように 何も足りないものはない」という意味です。

藤原実資(ふじわら さねすけ)の日記。
寛永2年(1018年)、今日は道長さまの娘さまの威子(いし)さまが、中宮(ちゅうぐう)になられる日である。道長さまが私(=日記の作者。実資)を呼んで、こう、いわれた。
「和歌をよもうと思う。君もかならず歌をかえしたまえ。」と言われた。
私は返事をして「きっと歌をかえしましょう。」と答えた。
つづけて、道長さまはこう言われた。「自慢(じまん)の歌なのだよ。べつにあらかじめ作っておいた歌では無いがね。」と。
そして、歌をよまれた。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思わば。」と。
私は答えた。「とても、すばらしい歌です。かえす歌も作れません。(道長いがいの)みんなで、このお歌を唱和(しょうわ)するのがよろしいでしょう。」ともうしあげた。みんなも、私の言葉におうじ、この歌を唱和した。道長さまは、たいそう気をよくして、歌をかえさなかった私をせめなかった。
(『小右記』(しょうゆうき)より。藤原実資(さねすけ)の日記。一部分。)


平等院 鳳凰堂

道長の子である藤原頼通(ふじわらの よりみち) は、平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を、たてさせています。十円玉に描かれている、あの建物(たてもの)は、平等院鳳凰堂の絵です。

10円

平安時代の文化[編集]

  • 遣唐使の廃止と、国風文化

まず、894年に、遣唐使が廃止されます。

:語呂合わせ:白紙(はくし、894)に戻そう(もどそう) 遣唐使
菅原道真(すがわらの みちざね)

菅原道真(すがわらの みちざね)の進言によります。


遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、中国大陸で内乱が多く唐が弱っていること、船の遭難(そうなん)など死の危険が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、経済的(けいざいてき)な負担(ふたん)が大きい、などです。

この遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだん、中国大陸の文化の影響(えいきょう)が、うすれていきます。

かわりに日本独自の貴族文化が発展していきます。この平安時代に発展した日本独自の貴族文化を国風文化(こくふうぶんか) と言います。


なお、その後、菅原道真は藤原氏と対立し、901年には太宰府(だざいふ)に追放されてしまいます。

漢字からひらがなへの変化
  • かな文字の発明

ひらがな や カタカナ などの かな文字(かなもじ) が、平安時代に発明されます。 ひらがなは、漢字の形をくずして、発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。

カタカナの由来

この時代、ひらがなやカタカナは、女が用いる字であった。貴族の紀貫之(きの つらゆき)は男だが、名を隠し、女を名乗り『土佐日記』(とさにっき)を描いた。 紀貫之が、国司(こくし)として、四国の土佐(とさ)に派遣されていたので、土佐から京にかえるまでの様子をしるした日記です。


ほかにも、古今和歌集(こきんわかしゅう、紀貫之の編集) や竹取物語(たけとりものがたり) などが、かな文字を用いた作品です。

古今和歌集は、紀貫之(きのつらゆき)という人物による編集です。醍醐天皇(だいごてんのう)の命令により、紀貫之らが編集しました。

  • その他の文化
典型的な寝殿造である東三条殿の復元模型(京都文化博物館)
1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 中門廊(ちゅうもんろう)、9. 釣殿(つりどの)
江戸時代の束帯(阿部正弘)
五衣唐衣裳(俗称 十二単)(京都御所にて)

平安時代には、貴族の衣服の正装(せいそう・・・正式な服のこと)が変わります。

男の貴族の服は 束帯(そくたい) になり、女の貴族の服は 十二単(じゅうにひとえ) になります。

貴族の住居の形が 寝殿造(しんでんづくり) になる。

絵画には、日本の風景などを書いた 大和絵(やまとえ) が出てくる。寝殿造りの屋敷の屏風(びょうぶ)や ふすま などに大和絵が描かれた。絵巻物などにも大和絵は描かれた。

鳥獣戯画の一部分

大和絵の作品では、鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)や源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)などが有名です。

鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)は、当時の社会を風刺するために、かえるやさる、うさぎなどの動物たちを擬人的に描いて表現した絵です。

文学の物語では『源氏物語』(げんじものがたり)という創作(そうさく)の物語が、貴族の紫式部(むらさきしきぶ)によって描かれました。この源氏物語は、主人公は貴族の「光源氏」という人物で、光る人物を中心にして貴族の恋愛などを書いています。

なお、名前が後の幕府の源氏(げんじ)と似ていますが、べつに光源氏は武士ではありません。源氏物語が出来た1007年ごろは、まだ鎌倉幕府はありません。紫式部は女です。藤原為時(ためとき)の娘です。

大和絵にも、「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)が、描かれました。絵画を使って、物語を絵で表したものを絵巻物(えまきもの)といいます。

随筆では、貴族の清少納言(せい しょうなごん)が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。 清少納言は女です。


  • 浄土教(じょうどきょう)
空也の像 (六波羅蜜寺) 

平安時代の中ごろは、伝染病が流行ったり(はやったり)、災害が起きたりしたので、社会の不安が大きくなった。このため、宗教では、人々に安心を与える宗教が、平安時代の半ば(なかば)ごろから、流行る(はやる)ようになる。

阿弥陀如来像 (平等院・鳳凰堂)

浄土教という信仰が流行るようになる。阿弥陀如来(あみだにょらい)にすがり、念仏(ねんぶつ)を唱えていれば、死後には、極楽浄土へ行ける、という信仰である。

浄土教を布教した人物では、空也(くうや)という人物が有名である。空也(生:903年〜没:972年)は、10世紀中ごろ、諸国をまわり、庶民に浄土教を布教していた。「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)という念仏を唱えるとよい、と空也は民衆たちに広めたという。人が集まる市(いち)で布教していたことから、空也は、市聖(いちのひじり)とも呼ばれます。

仏教の教えによると、1052年は釈迦が死んでから1000年後ということらしく、死後1000年ともなると釈迦の教えがおとろえて世の中が悪くなるという思想があり、この思想は 末法(まっぽう) と言われた。この末法思想もあって、浄土信仰は広まっていった。

金色堂。外側の覆堂(おおいどう)

地方にも浄土教がひろまり、各地に阿弥陀仏をまつる寺院である 阿弥陀堂(あみだどう) がたてられた。たとえば岩手県の平泉(ひらいずみ)には 中尊寺金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)という阿弥陀堂 が、たてられた。大分県に富貴寺大堂(ふきじ おおどう)が、たてられた。


平安時代の武士たち[編集]

平安時代には、地方の豪族たちは私有地を広げていったのであった。

9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力(へいりょく)をたくわえていった。一族の者や、手下の農民たちに武装させるようになった。

このようにして、武士(ぶし)が、できていった。

武士たちは、一族の かしら を棟梁(とうりょう)として、それぞれの一族ごとに武士団(ぶしだん)を結成(けっせい)していった。

貴族の中にも、これにならい、武士団をつくり棟梁となって兵を指揮する者が、地方貴族から出てきた。源氏や平氏などが、そのような貴族の武士である。

源氏も平氏も天皇の子孫です。

武士の中には、朝廷に対して反乱を起こす者も出てきました。

  • 平将門(たいらの まさかど)による反乱

10世紀の935年に、平将門(たいらの まさかど)が反乱を関東地方で起こします。朝廷は、ほかの武士の助けを借りて、将門の反乱を鎮圧します。

  • 藤原純友(ふじわらの すみとも)による反乱

939年には、藤原純友(ふじわらの すみとも)が反乱を瀬戸内海の周辺で起こし、海賊らを率いて反乱を起こします。朝廷は、ほかの武士の助けを借りて、反乱を鎮圧します。

朝廷の力だけでは、この2つの反乱をしずめることはできず、ほかの武士の協力をえる必要があり、これらの反乱により武士の影響力が増すことになった。

この2つの反乱のことを、起きた年の年号をとり 承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう の らん) と言う。

  • 東北地方での反乱

10世紀の1051年には東北地方で反乱が起き、安倍頼時らが反乱を起こします。この反乱の鎮圧を、源氏である源頼義(みなもとのよりよし)および源義家(みなもとのよしいえ)らの兵が鎮圧します。この反乱と鎮圧の争乱を 前九年の役(ぜんくねん の えき) と言います。 源氏が鎮圧を行ったので、関東地方では源氏の影響力が強まります。


院政[編集]

(いんせい)

11世紀の半ばすぎごろになると、藤原氏の影響力は弱まり、天皇には、藤原氏とは関係のうすい 後三条天皇(ごさんじょうてんのう) が即位した。天皇は、藤原氏の政治に不満をもつ貴族も用いて、政治の実権を天皇にもどした。


天皇は1069年には荘園整理令(しょうえん せいりれい)を出し、不法な荘園を取りしまった。


次の天皇の 白河天皇(しらかわ てんのう) も、天皇中心の政治を行った。 1086年には生存中(せいぞんちゅう)に次の天皇の堀河天皇(ほりかわ てんのう)に位をゆずり、白河 元・天皇は上皇として、政治の実権をにぎります。

上皇の住む住居が 院(いん) と呼ばれていたので、上皇による政治を 院政(いんせい) と言います。

堀河天皇の死後は、白河の孫である 鳥羽天皇(とばてんのう) が即位する。この鳥羽天皇も白河上皇の次の鳥羽上皇(とば じょうこう)になった。

鳥羽上皇の次は、後白河 元・天皇が後白河上皇となり、院政を行った。

このようにして院政が100年ばかり、続いて(つづいて)いく。

いっぽう、藤原氏の権力は、おとろえていった。


さて、天皇家の内部でも天皇と上皇との権力をめぐって対立が起きてくる。 これにくわえて、藤原氏の内部の対立も加わり、ついに1156年には戦乱が起きる。

保元の乱(ほうげん の らん)である。

上皇の側の崇徳上皇(すとく じょうこう)には、左大臣の藤原頼長(ふじわらの よりなが)、平氏の平忠正(たいらの ただまさ)、源氏の源為義(みなもとの ためよし)が、従った(したがった)。

平清盛(たいらの きよもり)。

天皇の側の後白河天皇には、関白の藤原忠通(ふじわらの ただみち)、平氏の平清盛(たいらの きよもり)、源次の源義朝(みなもとの よしとも)が、従った。

勝ったのは、御白河天皇の側である。 つまり平清盛と源義朝が加わった側が勝っている。

この乱の後、1159年に、保元の乱での恩賞に不満をいだいた源義朝が兵をあげ乱をおこしたが、平清盛らの軍に鎮圧される。これが 平治の乱(へいじのらん) です。

この件により、平氏の影響力が強まります。

  • 平氏の台頭(たいとう)

清盛は、武士の力を利用しようとする後白河上皇との関係を深めます。 1167年には、清盛は武士としては初めて(はじめて)の太政大臣(だじょう だいじん)になります。


武士の世の中へ[編集]

(ぶしの よのなか へ)

平清盛は、藤原氏の摂関政治のように、清盛の娘の徳子(とくこ)を、天皇の高倉天皇(たかくらてんのう)の后(きさき)にして、生まれた子を安徳天皇(あんとくてんのう)にさせ、平氏が政治の実権を得ていきます。

このようにして、平氏の一族が、朝廷での重要な役職を得ていき、権力をつよめます。


清盛は、貿易で、中国大陸の国の宋(そう)と貿易をする日宋貿易(にっそうぼうえき)に、かかります。今でいう神戸にあった大輪田泊(おおわだのとまり)という港を改修します。平氏は貿易をすすめていきます。

日宋貿易により、日本には宋銭(そうせん)が多く入ってきた。

平氏の一族は栄え(さかえ)、 「平氏にあらずんば 人にあらず」 (意味:平氏の一族でなければ、その者は人ではない。) とまで言われるほど、平氏が栄えた。

厳島神社(いつくしま じんじゃ)。広島県。 平氏の一族は、一族の繁栄を厳島神社に願った。 国宝。世界遺産。

清盛は 海の神をまつっている厳島神社(いつくしまじんじゃ) を敬った(うやまった)。厳島神社は、今でいう広島県の瀬戸内海の側にある。 そして厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神(うじがみ)とした。

厳島神社には、『平家納経』(へいけのうきょう)という、平家が一族の繁栄(はんえい)を願って納めた(おさめた)書が、納められている。


平氏の独裁的な政治に、他の皇族や、上皇の院、ほかの武士などからの不満が高まっていく。 それらが、のちに、平氏の打倒へと、つながる。


ついに1180年、皇族の 以仁王(もちひとおう) は、平氏を滅ぼすように命令を下す。以仁王は後白河法皇の子である。

以仁王の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげた。

鎌倉時代[編集]

以仁王の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげた。

源頼朝(みなもとの よりとも)
  • 源平(げんぺい)の戦い

源頼朝(みなもとの よりとも) は、関東で兵をあげた。富士川の戦いで平氏をやぶったあと、頼朝は関東の鎌倉(かまくら)に、とどまって、勢力の基盤(きばん)をかためた。

そもそも頼朝は、平治の乱によって、頼朝(よりとも)の父の義朝(よしとも)が平氏と戦って負けたので、小さいころに源頼朝は、伊豆(いず)に流されていた。(伊豆の場所は今でいう静岡県のあたり。) やがて成人して大人になった頼朝が、こうして平氏への反乱をしたのである。

そして頼朝は、平氏に不満をもっている武士の北条氏(ほうじょうし)など関東の武士とも協力して、勢力をのばしていった。

いっぽう、源義仲は木曽(きそ、長野県にある)の北陸地方を拠点にして、今でいう石川県での 倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげ) で1183年に平氏と戦って平氏をやぶり、つづいて義仲らは京都に向かい平氏を京から追放した。

しかし義仲は、後白河法皇と対立し、そのため、源頼朝の弟の源義経(みなもとの よしつね) に滅ぼされる。


頼朝は、自らは鎌倉にとどまり、かわりに弟の 源義経(みなもとの よしつね) の兵をつかって、平氏を西へと追いつめていった。

義経(よしつね)らは義仲(よしなか)を打ちとったあと、平氏の打倒のために兵をうごかし、1184年には 一ノ谷の戦い(いちのたに の たたかい) で平氏をやぶり(一ノ谷は神戸市にある。)、つづいて1185年には 屋島の戦い(やしまのたたかい) でもヨシツネらは平氏に勝って(屋島は香川県にある)、ついに平氏を壇ノ浦においつめ(場所は本州の西の端の山口県の下関「しものせき」)、1185年には壇ノ浦の戦い(だんのうら の たたかい)でヨシツネらは平氏に勝ち、ついに平氏をほろぼす。

これらの源氏と平氏との一連の戦いを「源平の戦い」(げんぺいのたたかい)とか「源平合戦」(げんぺいがっせん)とかという。

義経(よしつね)は頼朝(よりとも)と対立します。頼朝(よりとも)らによって、義経(よしつね)らは滅ぼされます。 義経らは東北地方である奥州にいる奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)をたよって東北に逃げていたので、奥州藤原氏も頼朝により滅ぼされます。


いっぽう、平氏の滅亡後、頼朝(よりとも)が朝廷に要求(ようきゅう)したことより、新しい制度として、国ごとに守護(しゅご)が一人ずつを置かれ、荘園(しょうえん)や公領(こうりょう)には地頭(じとう)が置かれた。

守護の仕事は、現代風(げんだいふう)にいうなら、その国での軍(ぐん)や警察(けいさつ)の管理者である。 地頭の仕事は、荘園および公領の管理や、税である年貢(ねんぐ)の取り立てである。

頼朝は1192年に朝廷から征夷大将軍(せいい たいしょうぐん) に任命(にんめい)されます。

頼朝は鎌倉に(今でいう神奈川県の鎌倉市のあたり)、武家による政治の拠点である幕府(ばくふ) を開きました。この鎌倉にある幕府を 鎌倉幕府(かまくら ばくふ)と言い、鎌倉に幕府があった時代を鎌倉時代(かまくらじだい) と言います。

1192年からを鎌倉時代とするのが一般的(いっぱんてき)です。

語呂合わせ :1192(いいくに、いい国)つくろう 鎌倉幕府(かまくらばくふ)

征夷大将軍という言葉の意味は、頼朝の時代からは武士たちの中での最高権力者(さいこうけんりょくしゃ)というような意味になってきます。

もともとの意味は、平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のように東北地方の蝦夷(えみし)と戦う軍での将軍(しょうぐん)という意味でした。


この鎌倉時代から、政治の権力が朝廷から幕府へと移っていき、武家政治の時代になっていきます。

幕府の行政の仕組みは、朝廷による律令制とは ちがっています。

将軍の家来の武士のことを 御家人(ごけにん) という。

将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する政策をとるかわりに、御家人たちは将軍のために警備をしたり戦争の時には戦うという主従関係(しゅじゅうかんけい)が、この時代の将軍と手下たちとの主従関係である。

ご恩と奉公

御恩(ごおん)と奉公(ほうこう) という主従関係です。

御恩(ごおん)とは、将軍が御家人の土地の権利を認め保証したり、手柄のあった御家人には新しく領地を与えることです。

奉公(ほうこう)とは、将軍や幕府のために仕事をすることで、具体的には、戦争の時には将軍のために戦うことです。「いざ鎌倉」(いざ かまくら)と言って、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました。

この主従関係は土地を仲立ち(なかだち)としています。このように土地を仲立ちとした主従関係を 封建制(ほうけんせい) あるいは封建制度(ほうけんせいど) と言います。

御家人たちの屋敷(やしき)は、武家造(ぶけづくり)という作りで、屋敷のまわりに堀(ほり)があったり、塀(へい)で囲まれてたりと、戦いにそなえたつくりになっています。

「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である。


北条政子(菊池容斎 画、江戸時代)

頼朝の死後は、頼朝の子の頼家(よりいえ)が次の将軍になり、さらに次の将軍位は頼朝の子の実朝(さねとも)がついたが、政治の実権は、有力な御家人である北条氏の一族にありました。頼朝の妻は北条政子(ほうじょう まさこ)という女で、その政子の父である北条時政(ほうじょう ときまさ)が執権(しっけん)という役職につき、北条時政らが幕府の実権をにぎりました。

        (中央) 
将軍━━執権━━┳━━┳━侍所
        ┃  ┣━政所
        ┃  ┗━問注所
        ┃
        ┃
        ┃
   (地方) ┗━━┳━守護
           ┣━地頭
           ┗━六波羅探題

北条氏のように執権として政治の実権をにぎる政治のやりかたを 執権政治(しっけん せいじ) といいます。

3代目将軍の実朝は、1219年に頼家の子である公暁(くぎょう)によって実朝は殺されます。こうして源氏の直系の将軍は3代で絶えます(たえます)。


  • 承久(じょうきゅう)の乱

1221年、朝廷で院政を行っていた 後鳥羽上皇(ごとばじょうこう) は政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、北条氏を倒す命令を出しました。 北条氏の幕府軍と、朝廷の軍との戦争になり、北条氏の側が勝ちます。 後鳥羽上皇は島根県の隠岐(おき)という島(しま)に島流し(しまながし)にされ、追放されます。

この争乱を承久の乱(じょうきゅう の らん) といいます。

幕府は朝廷や西国を監視するため、京都に 六波羅探題(ろくはらたんだい) を置きました。上皇側に味方した勢力の土地は取り上げられました。こうして西国でも幕府の支配は強まっていきました。

承久の乱 のあとである1232年に、執権の北条泰時(ほうじょう やすとき)らにより、武家社会の慣習(かんしゅう)をもとに新たな法律をつくり、御成敗式目 (ごせいばい しきもく) という法律をつくり、この式目が政治や裁判の よりどころ になった。

幕府にとっては御家人からの信頼(しんらい)が、幕府の権力の基盤(きばん)なので、御家人から信頼されるために公平な法律をつくる必要があったのだろう。


鎌倉時代は女の地位が、けっこう高かった。女でも土地の相続(そうぞく)ができ、また女でも地頭(じとう)になれた。


  • 武士のくらし
やぶさめ
犬追物
かさがけ

武士は、日ごろから武芸(ぶげい)に、はげんでいた。やぶさめ(流鏑馬)、かさがけ(笠懸)・犬追物(いぬおうもの)などの武芸に、はげんでいた。3つとも、馬に乗り、弓矢で的をいるものである。

流鏑馬(やぶさめ)では、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに射る。
かさがけでは、馬に乗りながら的をいる。
犬追物では、犬などの動く的を射る。

この3つの武芸を 騎射三物(きしゃみつもの) という。 犬追物では、やわらかい特殊な矢を使い、犬を殺さないようにしていた。


  • 庶民のくらし

鎌倉時代の農業では鉄を用いた農具が普及し、そのため農業が発展した。

鎌倉時代には二毛作(にもうさく)が西日本で行われるようになった。稲(いね)と麦との二毛作である。秋に米を収穫し、春に麦を収穫する二毛作である。

牛や馬を用いて、牛や馬にスキをひかせて田を耕す方法も行われるようになった。

また、草を焼いた灰や木を焼いた灰( これらを草木灰(そうもくばい)という )を、肥料(ひりょう)として使うようになった。

商業や工業も発展していった。

手工業では、鉄製の農具や武具などを作る鍛冶(かじ)職人や、大工、ほかにも染め物をする職人など、いろいろな手工業の職人があらわれるようになった。

農工業の発達もあって商業も発達した。定期的に市場(いちば)をひらく定期市(ていきいち)が、寺社などの近くで、毎月3回ほど決まった日に市が開かれはじめるようになった。この毎月3回の定期市を 三斎市(さんさいいち) という。

商業には貨幣が必要なので、中国大陸から宋銭(そうせん)が多く、日本に輸入された。

モンゴルとの戦い[編集]

(モンゴルとの たたかい)
  • モンゴル帝国の元(げん)
モンゴル帝国の拡大のようす。モンゴルの領土が、とても大きくなっています。

13世紀、中国大陸と、中国をふくむユーラシア大陸の広い地域ではモンゴル民族がモンゴル帝国を築いていた。まずモンゴル民族じたいの統一は チンギス=ハン によって統一された。

フビライ=ハン

チンギスの孫の フビライ=ハン もモンゴル帝国を支配しており、フビライは国号を元(げん)に変えました。中国での支配的な王朝が宋(そう)から元(げん)に変わりました。 なお中国には、まだ元にしたがわない南宋(なんそう)がのこっています。


  • 発展的事項(はってんてきじこう) モンゴルとヨーロッパとの関わり
(※ この発展的事項の内容は、まだ、おぼえなくて良い。)
モンゴル帝国は、一時期はヨーロッパの近くにまで領土を広げた。また、モンゴル帝国の拡大によってヨーロッパとユーラシア大陸の東アジア地方との貿易が活発になります。
ヨーロッパの貿易(ぼうえき)商人にとってみれば、モンゴル帝国の法律さえ守れば、アジアの広い地域との貿易が出来るようになったので、多くの商人がモンゴルとの貿易を始めました。
イタリア。みどり色の濃い、たてに細長い国がイタリア。
マルコ・ポーロ
ヨーロッパの南部の地中海の近くに イタリア という国があります。イタリア商人の マルコ・ポーロ(Marco Polo) は元(げん)をおとずれ、マルコ・ポーロは一時期、フビライに仕え(つかえ)ます。マルコはアジアに滞在中に得た伝聞により『世界の記述』(せかいのきじゅつ 、イタリア語原題:"La Description du Monde")を書きます。このマルコの本は、近現代の日本では『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)として知られています。その東方見聞録の中には日本に関する記述も出てきます。マルコは日本には来ていないので、伝聞をもとにして日本について書いています。 (文中のイタリア語表記は、小中高校生は、おぼえなくても良い。)
おそらく日本と思われる国のことを「ジパング」(Cipangu)といい、そのジパング(つまり、日本?)は黄金の多い国だそうで、「黄金の国ジパング」として紹介しています。ジパングの宮殿は黄金づくしだそうです。 (文中のイタリア語表記は、小中高校生は、おぼえなくても良い。)
実際には、日本は黄金づくしではありません。マルコのジパングに関する記述は、彼が聞いた伝聞なので事実ではありません。
黄金づくしの建物というと、のちの室町(むろまち)時代に金閣寺(きんかくじ)が建てられますが、鎌倉時代にはまだ金閣寺なんて存在していません。
なお、英語で日本のことを「ジャパン」(Japan)といいますが、その語源が「ジパング」です。
マルコが「ジパング」と記したのは、当時の中国語では日本国のことを「ジーベンゴオ」と言っていたことに由来すると言われています。 (文中の「ジーベンゴオ」の発音は、小中高校生は、おぼえなくても良い。)

(発展的事項 モンゴルとヨーロッパとの関わり 、おわり。)


さて、フビライの率いる元(げん)は、朝鮮半島を統一していた高麗(こうらい)も服属(ふくぞく)させました。

中国大陸には南宋(なんそう)がのこっているのでした。日本は平安時代に日宋貿易をしていたように宋との結びつきがある国です。

元は南宋を支配下におくため、宋と交流のあった国に次々と服属を求め、したがわなければ兵を送り、支配していきました。

日本にも、フビライからの服従の要求を伝える元(げん)からの使者が、たびたび来ます。執権の8代目である北条時宗(ほうじょうときむね)は、元(げん)の要求を拒否しつづけます。

  • 元寇(げんこう)

1274年、ついに元が日本に攻め込みます。元が約3万人の軍勢(ぐんぜい)で博多湾(はかたわん)に上陸し、元(げん) 対 日本の戦争になります。

最終的には暴風雨の影響により元軍が引き上げたので日本が勝ちますが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と呼ばれた)や、毒矢(どくや)、元軍の集団戦に苦戦しました。

それまでの日本では、武士どうしの戦いでは一騎打ち(いっきうち)が主流でしたが、外国の軍隊が相手では、日本の慣習は通用しません。

この1274年の元 対 日本の戦争を 文永の役(ぶんえい の えき) と いいます。

文永の役において、矢が飛び交い、てつはうが炸裂する中を、モンゴル帝国連合軍へ斬り込んでいく御家人の 竹崎季長(たけさき すえなが) と、応戦・逃亡するモンゴル兵

画像の合戦の絵は、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)という絵巻物の一部の絵です。 蒙古(もうこ)とはモンゴルのことです。

この戦いのあと、幕府は次の元軍(げんぐん)の侵攻(しんこう)に備え、博多湾の沿岸(えんがん)に石塁(せきるい)を築かせます。

1281年に、元(げん)の軍勢(ぐんぜい)は、再び日本に襲来(しゅうらい)してきます。今度の元(げん)軍は14万人もの大軍(たいぐん)です。 日本は、勝ちます。この1281年の戦争を 弘安の役(こうあんのえき) といいます。この弘安の役でも暴風雨により元軍は被害を受けました。

この2度の元軍の襲来をあわせて、元(げん) 対 日本の戦争のことを 元寇(げんこう) という。 つまり 文永の役 と 弘安の役 をあわせて 元寇(げんこう) と言う。

「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀(とくがわみつくに)の編纂した『大日本史』に出てくる。


元は3度目は日本に襲来できなかった。フビライは企画したが中国大陸南部での反乱などがあり、日本への襲来は延期になり、さらにフビライの関心が中国大陸南部の平定やベトナムの遠征へと関心が変わり、そのうちフビライも死んだので、日本には3度目の襲来はなかった。


さて、このときの暴風雨は、のちに「神風」(かみかぜ)と言われるようになった。1276年の公文書である『官宣旨』(かんせんじ)の中に「神風」という字が出てくる。のちに、江戸時代の国学でも「神風」(かみかぜ)と言われ始めた。 「神風」という言葉は、後に昭和の戦争での「神風特攻隊」(かみかぜ とっこうたい)などの語源にもなった。

古くは日本書紀にも「神風」という語句は出てくるが、江戸以降で「神風」といったら、元寇のときの暴風雨のことである。

もちろん鎌倉時代の当時に、江戸時代や明治・昭和などでの国家思想の知識があるはずも無い。鎌倉時代の歴史を語るページで江戸や明治・昭和での国家思想の是非(ぜひ)をながながと語ることはピント外れであろう。


御家人は元寇で多くの費用を使ったが、幕府は 御恩(ごおん) としての褒美(ほうび)の土地を、じゅうぶんには用意できなかった。元寇は日本国内での防衛戦なので、新たに日本が獲得した領土は無いのである。

このため、御家人は幕府に不満を持つようになった。

『蒙古襲来絵詞』(もうこ しゅうらい えことば)より鎌倉の安達泰盛邸で先駆けの功を訴える季長(右)

さきほど紹介した竹崎季長(たけさき すえなが)も、恩賞(おんしょう)の少なさに不満をもった御家人(ごけにん)の一人で、そのため幕府に自分の功績(こうせき)をうったえでるために、彼の元寇での活躍を記した絵巻物(えまきもの)を手下のものにつくらせた結果、さきほどの蒙古襲来絵詞(もうこ しゅうらい えことば)が出来たと言われています。


御家人の中には、社会の変化で、生活が貧しくなり、借金をする者も出てきた。1297年に、幕府は御家人の借金を帳消し(ちょうけし)にする 徳政令(とくせいれい) を出した。永仁の徳政令(えいにん の とくせいれい)である。 だが結果は、金貸しからすれば、貸した金が返ってこないのは困る(こまる)から、なので、金貸しが御家人には金を貸さなくなっただけであった。 金をかりれなくなった御家人は、あいかわらず貧乏なままであった。

  • 文化

武士の支配する社会になったので、平安のころの貴族文化とは、ちがった文化が出てきました。 文芸では、平氏の繁栄(はんえい)から滅亡(めつぼう)までを書いた『平家物語』(へいけ ものがたり)のように、軍記物が人々の関心をあつまました。

琵琶法師。

琵琶法師(びわほうし)という盲目の僧の人物が、琵琶による弾き語りで各地で平家物語などを語り歩いたといいます。当時は、文字の読める人が少なかったのです。

随筆では鴨長明(かものちょうめい)による『方丈記』(ほうじょうき)や、吉田兼好(よしだけんこう)の『徒然草』(つれづれぐさ)などが出てきた。

貴族を中心とした和歌などの文化も残っていた。『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)が藤原定家(ふじわらのさだいえ)により編集された。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の命令により、定家が編集した和歌集が『新古今和歌集』である。

鎌倉時代の和歌集は他にもあり、3代将軍の源実朝(みなもとの さねとも)によって残された『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)がある。

木造金剛力士像(国宝)

彫刻(ちょうこく)では、金剛力士像(こんごうりきしぞう)が、つくられました。金剛力士像がある場所は、奈良の東大寺の南大門にあります。この金剛力士像を作った彫刻家(ちょうこくか)は運慶(うんけい)と快慶(かいけい)です。

東大寺は、平安時代からあった寺ですが、平氏に焼き払われたので、鎌倉時代のはじめごろに再建されました。 この再建のときに、中国大陸の宋の建築様式である大仏様(だいぶつよう)が取り入れられました。大仏様は天竺様(てんじくよう)ともいいます。

似絵(にせえ)。源頼朝が描かれている。

絵画では、似絵(にせえ)という肖像画が描かれるようになります。

仏教では、武士や民衆にも分かりやすいような教えが好まれるようになり、新しい宗派(しゅうは)が出てきました。 民衆にも仏教が広まるようになります。鎌倉時代より以前の、平安時代などの仏教は、奈良時代の行基(ぎょうき)の活動などの一部を除けば、貴族中心の仏教でした。ですが、鎌倉時代になり民衆にも仏教が広まります。

鎌倉時代の仏教の宗派(しゅうは)では

浄土宗(じょうどしゅう)
浄土真宗(じょうどしんしゅう)
時宗(じしゅう)
日蓮宗(にちれんしゅう)
禅宗(ぜんしゅう)

が、出てきます。


・浄土宗(じょうどしゅう)

法然(ほうねん)が、ひらいた宗。阿弥陀如来(あみだにょらい)を信じて念仏を唱えれば、だれでも救われると説き、「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と念仏を唱えるように勧めた。


・浄土真宗(じょうどしんしゅう)、 一向宗(いっこうしゅう) とも言う

親鸞(しんらん)が、ひらいた宗。親鸞は、法然の弟子である。
たとえ信者が罪深い悪人であっても、阿弥陀如来を信じさえすれば救われると説いた。
親鸞の考えによると、仏とは、とても慈悲深いのであり、なので善人の信者がすくわれるのは当然のことで、さらに悪人の信者であっても、仏の慈悲により、その悪人が罪を悔い改めさえすれば救われると説いた。

このように悪人であっても、仏の慈悲により、救われるという考えを悪人正機説(あくにん しょうきせつ) という。


・時宗(じしゅう)

一遍(いっぺん)が開いた。「踊り念仏」と言って、彼は念仏を唱えながら踊るということをしながら、諸国を歩き、教えを広めた。


・日蓮宗(にちれんしゅう) 、法華宗(ほっけしゅう) とも言う

日蓮(にちれん)が、ひらいた。

「南無妙法蓮華経」(なむ みょうほう れんげきょう)と唱えれば救われる。


・禅宗(ぜんしゅう)

座禅するタイの僧侶
ヨーロッパ臨済禅センターの坐禅
臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗(そうとうしゅう)が、あります。開いた人は、それぞれ別の人です。
座禅(ざぜん)などの修行(しゅぎょう)により心を鍛え(きたえ)、悟り(さとり)を開く宗教です。この修行の考え方が武士の風習にあっており、なので武士に禅宗が好まれます。
栄西(えいさい)および道元(どうげん)という人物が、宋に渡って学んできた教えをもとにした宗派です。


・臨済宗
栄西(えいさい) が開きます。


・曹洞宗

道元(どうげん) が開きます。
  • 雑談(ざつだん) 「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)とは、どういう意味(いみ)なのか?
さて、念仏で「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とかいいますが、ともに「南無」(なむ)という言葉が最初に来ています。この「南無」の言葉の由来は、もともとは外国語でサンスクリット語という古代のインドの言語の語句です。仏教はインドで生まれた宗教で、ブッダが開いた宗教でした。
漢字であらわすのは、インドから中国大陸を経由して仏教が日本に伝わったからです。
サンスクリット語の「ナモー アミターバ」という言葉が由来になっており、「ナモー」とは 名乗る・唱える というような意味で、英語のname(ネーム)に意味が近いです。
「アミターバ」の意味は「計り知れない」つまり「偉大である」というふうな意味です。長さなどを計る道具を「メーター」といいますが、「ミター」という言葉は「測る」(はかる)という意味であり、「ア」がつくと否定の意味になって:「アミター」で「計り知れない」という意味です。
「南無阿弥陀仏」とは、もしサンスクリット語みたいに解釈すれば「唱えよ、偉大なる仏の名を。」というふうな意味になります。
もっとも、漢文ぽく解釈すれば、「阿弥陀物(あみだぶつ)の名を唱えなさい。」というふうな意味になるので、たぶん、当時の日本人の解釈では、このような意味でしょう。


サンスクリット語と英語の関係のように、英語などヨーロッパの言語は、古代のサンスクリット語などインドの言葉に単語が近いのです。各国の言語の特徴を研究する言語学では、英語などヨーロッパ系の言語の多くはインド・ヨーロッパ語族(ごぞく)というグループに英語は属しています。
仏教には、サンスクリット語に由来する言葉が多くあります。日本で墓石に添える木の札を 卒塔婆(そとば) といいますが、語源は「ストゥーバ」が由来です。僧(そう)の語源も「サンガ」というサンスクリット語です。


ついでに言うと、仏の名前の多くも、インドの神々の名前がもとになっています。たとえば毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の由来は、インドの神のひとりである ビロシャナー です。
当時の鎌倉時代の人たちが、インドの言語や古代インドの神の知識を直接(ちょくせつ)に知っていたわけではなくて、これらの知識は現代での知識です。(2014年に記述。)

(雑談(ざつだん)、おわり。)

室町時代[編集]

(むろまち じだい)
後醍醐天皇。

鎌倉時代のなかごろにより、朝廷では2つの派閥が皇位を争うようになった。幕府は、2つの派閥に交代で皇位につくよう命じた。いっぽうの派閥を 大覚寺統(だいかくじとう) と言い、もういっぽうの派閥を 持明院統(じみょういんとう) という。 (※ 派閥名は、おぼえなくて良い)

大覚寺統であった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、幕府を倒す計画をたてるが、1324年、計画がもれて失敗する。この1324年の事件を 正中の変(せいちゅうのへん) という。 (※  正中の変は、おぼえなくて良い)

1331年に、ふたたび幕府を倒そうと計画するが、また、計画がもれて失敗する。この1331年の事件を 元弘の変(げんこうのへん) という。 (※ 元弘の変は、おぼえなくて良い)

後醍醐天皇は幕府に捉えられ、隠岐(おき)に島流し(しまながし)にされた。 (島根県の、隠岐の島)

天皇は島流しになったが、幕府に不満のあった各地の武士や御家人たちは、天皇に味方して各地で兵をあげはじめた。

御家人でない武士の楠正成(くすのきまさしげ)らが、幕府軍に抵抗した。また、悪党(あくとう)という、幕府や荘園領主に従わない武装勢力が出てき始めて、幕府に逆らう勢力が増えた。

当時の「悪党」という言葉は、「強いもの」というふうな意味で、今でいう「悪い者」という意味では無い。


やがて後醍醐天皇が隠岐(おき)から脱出する。

尊氏とされる「騎馬武者像」

1333年、幕府の御家人であった 足利尊氏(あしかがたかうじ) は幕府を裏切り、後醍醐天皇と協力し、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を足利尊氏が攻め落とした。

同1333年、関東では 新田義貞(にったよしさだ) が鎌倉を攻め落とし、こうして鎌倉幕府は1333年に滅んだ。


建武の新政[編集]

(けんむ の しんせい)

1333年、後醍醐天皇は京都にもどり、天皇による新しい政治を始めた。この年に年号を建武にかえたので、この後醍醐天皇による1333年からの新たな政治を建武の新政(けんむ の しんせい) という。

しかし武士に対する恩賞が少なく、また新しい制度が貴族に大きな権力を与えるものであったので、武士からの不満が大きかった。

南北朝[編集]

(なんぼくちょう)

建武の新政への不満から、1335年に足利尊氏が反乱を起こし京都を占領したので、たったの2年ほどで建武の新政は終わった。後醍醐天皇は奈良の 吉野(よしの) に逃げます。

いっぽう足利尊氏は、京都で別の天皇の光明天皇(こうみょう てんのう)を立てます。

こうして、天皇が2人、できてしまいました。後醍醐天皇と光明天皇との、2人の天皇です。また朝廷が京都と奈良に、別々の2個の朝廷が出来てしまいました。

尊氏の味方の側である京都の朝廷を北朝(ほくちょう) といい、いっぽう後醍醐天皇の味方である奈良の吉野(よしの)の朝廷を南朝(なんちょう) と言います。ふたつの朝廷をあわせて南北朝(なんぼくちょう)といいます。

そして1338年には、その京都の北朝の光明天皇から征夷大将軍に足利尊氏が任命されます。こうして1338年、足利尊氏は京都の室町(むろまち)を拠点にして新しく幕府を開きます。この1338年の幕府は、のちに 室町幕府(むろまちばくふ) と言われます。

南北朝の対立は60年ほど続きます。

各地の武士は、北朝か南朝のどちらかについて争った。しだいに北朝の側が有利になり、最終的には北朝を正式な朝廷とする形で南北朝が和解することになる。

足利義満(あしかが よしみつ)。

1392年の3代将軍の足利義満(あしかが よしみつ)のときに、対立していた南朝を、幕府が政治を主導する形で、南朝を説得し従わせます。義満は、尊氏の孫である。

この南北朝が対立していた時代を南北朝時代(なんぼくちょう じだい)と言う。


京都の中央組織では新しく管領(かんれい)が置かれた。この管領は、侍所(さむらいどころ)・政所(まんどころ)・問注所(もんちゅうじょ)などを管理する。 管領は有力な武士であった細川(ほそかわ)氏・山名(やまな)氏・畠山(はたけやま)氏の3氏から交代で選ばれた。

この管領の細川・山名・畠山の三氏の一族たちは、三管領(さんかんれい)とも、よばれます。

(中央) 
将軍━━━┳━━管領━━━┳━侍所
     ┃       ┣━政所
     ┃       ┗━問注所
     ┃
     ┃
     ┃
(地方) ┗━━━━━━━┳━守護━━地頭
             ┗━鎌倉府

室町時代や南北朝時代では、鎌倉時代よりも、各地の武士の影響力が強くなった。 地方の管理のため、鎌倉時代から守護(しゅご)という1国ごとにおかれて兵や警備などを管理する役職があったが、この守護の影響力が強くなる。 守護には、1国の年貢の半分を取り立てる権利が与えられた。地頭(じとう)は、守護の支配下に置かれた。 室町時代の守護の権限には,鎌倉時代よりも大きな権限が、幕府から与えられるようになった。

その結果、守護は、その管理する国を、領地として支配し治めるようになった。このような一国を支配するようになった守護を守護大名(しゅごだいみょう)という。 有力な守護大名には複数の国を支配する守護大名もいた。

有力な守護大名には、細川氏(ほそかわ し)・山名(やまな)氏・大内(おおうち)氏・赤松(あかまつ)氏などがいる。

守護とは別に、鎌倉には鎌倉府(かまくらふ)が置かれ,室町幕府による関東への支配の拠点になった。



義満は彼の住居を京都の 室町(むろまち) につくらせ、その室町の住居が 花の御所(はなのごしょ) といわれて、ここが幕府の拠点になった。この「室町」の名が、この「室町時代」や「室町幕府」の名前の由来である。

金閣。

義満は 金閣(きんかく) という建物(たてもの)を、京都の北山(きたやま)に建てさせます。 義満のころの室町時代の文化を 北山文化(きたやまぶんか) と言います。 金閣は、金箔(きんぱく)が貼られた豪華な建物です。

このあと、8代将軍の義政(よしまさ)が京都の東山に銀閣(ぎんかく)という別の建物をたてますが、8代将軍の義政のころの文化を 東山文化(ひがしやまぶんか) と言います。

明との貿易[編集]

(みん との ぼうえき)
  • 中国大陸の明(みん)との貿易へ

日本では室町時代の頃、いっぽう中国大陸では、モンゴル民族の元(げん)にかわって、漢民族の(みん)が帝国を築いていた。

中国大陸では、1368年に漢民族の朱元璋(しゅ げんしょう)という人物が反乱をひきいて、モンゴル人の帝国である元をたおし、あたらしく明(みん)という漢民族の帝国を築いていたのです。(朱元璋は、まだ、おぼえなくて良い。) 朱元璋は皇帝となりの洪武帝(こうぶてい)になります。

3代皇帝の永楽帝(えいらくてい)の1400年ごろ、中国大陸沿岸では海賊(かいぞく)による被害があり、海賊の拠点は対馬(つしま)や壱岐(いき)などの九州や瀬戸内海であった。この対馬や壱岐を拠点にした室町時代の海賊を 倭寇(わこう) という。なお、当時の倭寇は日本人および朝鮮人から、なる。

なお、元寇により、中国大陸との正式な貿易は途絶えていたが、九州を中心に武士や商人らは元寇のあとも勝手に貿易をしていた。

明は日本に対して外交として、倭寇の取り締まりと、正式な国交を日本に求めてきた。この明からの要求におうじ、倭寇の取り締まりをするとおもに、日本から外交の使者を1401年に明へと送ります。送られた使者は、僧の祖阿(そあ)と、博多商人の肥富(こいづみ)であり、彼らが明(みん)へと外交のために行って、日本と明との外交が進みます。

日本は、明との正式な貿易を1404年に始めます。

この明との貿易では、正式な貿易船と海賊船との区別をつけるため、勘合(かんごう)という合い札を用いられた。

縦(たて)に一行、大きく数文字の文字が書かれた札を、文字の真ん中で2枚の札に分け、日本と明とが、その分けたうちの半分の札だけをもちます。正しい貿易相手どうしだと勘合の札を2枚あわせれば、もとの文字のもどるので、相手が正式な貿易船か海賊船かが確かめられる、という仕組みです。


このように勘合をもちいたので、室町時代の日本と明との貿易のことを 勘合貿易(かんごうぼうえき) と言います。


この貿易によって、幕府は大きな収入源(しゅうにゅうげん)になりました。

当時、明は、自分たち明に貢物をおくるという朝貢(ちょうこう)をする外国のみと、明は貿易をする方針をとっていたので、この日本と明との貿易もそうです。日本が明へ朝貢して、おかえしに明が日本に物を与えてあげるという形式の貿易です。 このため、足利義満は、明から、「日本国王」(にほんこくおう)と認められます。中国語では「王」は(中国の)「皇帝」よりも地位がひくいです。

  • 発展的事項 中国以外との貿易
  • 朝鮮半島との貿易
日本は同じころ、朝鮮とも貿易をはじめました。勘合とよく似た仕組みの 通信府(つうしんふ) を用いられ、通信符により正式な貿易船を確認しました。朝鮮半島に近い場所である対馬(つしま)を治める宗(そう)氏を仲介として日朝貿易が行われました。朝鮮には 倭館(わかん) という館がつくられ、外交のために日本から朝鮮に送られてきた使者をもてなし、また外交交渉するための建物がつくられた。
  • 琉球王国(りゅうきゅうおうこく)との貿易
また、当時、沖縄には 琉球王国(りゅうきゅうおうこく) があり、琉球王国が周辺の国々との貿易をおこなっていたので、日本も琉球との貿易を1415年ごろに開始した。
琉球の貿易相手は多くて、現在でいうフィリピンなどの東南アジアにある国々とも貿易をしていた。
琉球の貿易では、中継貿易(ちゅうけいぼうえき)といって、明や日本などの国々との貿易の仲立ちとしての貿易の商売をしていた。

( 発展的事項、おわり)

産業[編集]

室町時代の田植えの様子。 『月次風俗図屏風』(つきなみ ふうぞく ずびょうぶ)より。
(さんぎょう)

二毛作が各地に広まった。西日本だけでなく東日本にも二毛作が伝わっていきます。

手工業では、業種ごとに同業者どうしの (ざ) という組合(くみあい)がつくられて、座は製造や販売を独占する権利が有力な寺社などから与えられた。

室町時代は、鎌倉時代よりも、ますます商業が発達した。たとえば定期市は、鎌倉時代は月3回の 三斎市(さんさいいち) だったが、室町時代には月6回の 六斎市(ろくさいいち) になった。


室町時代の産業では、運送業(うんそうぎょう)が発達します。商業や農業・工業が発達したので、商品をはこぶ必要がふえたからです。

この時代の陸上での運送業者は、馬を使って運送をすることがおおかったので、 馬借(ばしゃく) と言います。牛車ではこぶ場合は 車借(しゃしゃく) と言います。

商業には貨幣(かへい)が必要です。中国大陸の貨幣が使われました。明の銅銭である明銭(みんせん)を日本に輸入して、つかっていました。この民選とあわせて、鎌倉時代に宋から輸入してつかっていた銅銭の宋銭(そうせん)も、つかわれました。

永楽通宝

明銭では永楽通宝(えいらくつうほう)が有名である。

他にも、倉庫などの保管業などを行っていたり輸送の管理をしたりする 問丸(といまる) が出来ます。これが問屋(とんや)の起源です。

高利貸し(こうりがし)で金貸しをおこなう金融業者(きんゆうぎょうしゃ)が出てきます。土倉(どそう) や 酒屋(さかや) です。土層(どそう)とは今でいう質屋(しちや)のことで、客から品物をあずかるかわりに、客にお金を貸します。酒屋は、文字どおりにお酒もつくっていましたが、金貸しも行っていました。

いろんな産業が出てきて、名前をおぼえるのが大変ですが、名前だけでなく現代の産業とも関連づけて、学んでください。


室町時代には、農民の自治が、前の時代よりも強くなります。この自治が強くなった理由のひとつは産業の発達とも関連しています。

色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるという 寄合(よりあい) という集まりが開かれるようになります。

このような主体的な村を(そう)または 惣村(そうそん) という。

このような惣は、産業が発達していた近畿地方から始まり、しだいに地方へも広がっていった。

一揆(いっき)[編集]

室町時代には、農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。 年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という強訴(ごうそ)をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう逃散(ちょうさん)などで、対抗しました。


  • 土一揆(どいっき)

農民や馬借などは、あまり裕福ではなく、これらの貧しい職業の民は、当時は 土民(どみん) と言われていた。

この土民たちが集団で実力行使にでることを 土一揆(どいっき) という。

室町時代には、貨幣による経済がすすんできたので、生活苦の農民などは借金をする必要が生じました。そのため、借金のふくらむ農民などが多くなり、たびたび借金帳消しの徳政をもとめて高利貸しなどをおそって借金の証文(しょうもん)を焼きすてる土一揆が、よくおきた。

このような一揆のきっかけが、次にいう 正長の土一揆(しょうちょう の どいっき) である。

  • 正長の土一揆(しょうちょう の どいっき)

近江国(おうみのくに、滋賀県のこと)の貧しい馬借(ばしゃく)たち運送業者が、京都で高利貸しをしている酒屋や土倉をおそい、幕府に徳政を要求した一揆である。 当初、幕府は徳政の求めには応じなかったので、一揆の民衆は借金の証文(しょうもん)を焼き捨てたり質物をうばうなど、実力行使(じつりょくこうし)に出た。


応仁の乱[編集]

(おうにん の らん)
 応仁の乱
   細川方(東軍)   山名方(西軍) 
主導者  細川勝元(管領)   山名持豊 
将軍家
(将軍は義政)
 足利義視(義政の弟)   日野富子 
 足利義尚(義政の子) 

8代目将軍の足利義政(あしかが よしまさ)のころ、有力な守護大名のあいだで争いがあり、細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)とで幕府の実権を争っていた。 これがもとで、1467年に戦争がおき、全国の守護大名たちは、細川方(ほそかわがた)の東軍(とうぐん)か、または山名方(やまながた)の西軍(せいぐん)との、東西に分かれて争うことになった。 これが 応仁の乱(おうにん の らん) である。乱は京都を中心にしていて、11年ほど乱が続く。

このように細川や山名などの守護大名が権力を持つようになった、そもそものきっかけは、義政が、あまり政治の実務には関心を持たなかった、という事情(じじょう)がある。

なお、戦争の起きたほかの要因としては、将軍の跡継ぎ(あとつぎ)をめぐる問題がある。次の将軍の候補(こうほ)に、足利義政の弟の足利義視(あしかが よしみ)と、それに対立して義政の妻の日野富子(ひの とみこ)が子の足利義尚(あしかがよしひさ)を跡継ぎ(あとつぎ)に推した(おした)ことで、跡継ぎ争いが加わった。

義視(よしみ)は細川氏をたより、義尚(よしひさ)は山名をたよった。

さらに、これにくわえて、有力な守護大名である畠山(はたけやま)氏の一族のあいだでも、争いが起こる。

このような、細川・山名の争いを中心に、他の権力闘争(けんりょくとうそう)が応仁の乱に加わっていた。

  • 乱の結果
応仁(おうにん)の乱。 足軽(あしがる)と呼ばれる身軽な兵が活躍した。『真如堂縁起絵巻』(しんにょどう えんぎ えまき)。『真如堂縁起絵巻』は重要文化財。

京都は戦火で焼け野原になる。じっさいに、そのような戦火の焼け野原の光景を歌った和歌が残っている。

なれや知る 都は野辺の夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は

(なれやしる みやこはのべの ゆうひばり あがるをみても おつるなみだは)

(※ 和歌の文は、おぼえなくてもいいですが、応仁の乱の情景を歌った大切な歌なので、知っておいて下さい。)

こうして、室町幕府の勢い(いきおい)は、衰えて(おとろえて)いった。

貴族や商人などは逃げた、京都から。 戦火の無い地方に、貴族などは移り住んだ。 京都の文化が、地方に移り住んだものたちによって、地方へと伝わっていった。


地方の守護大名の勢い(いきおい)も、衰えて(おとろえて)いった。応仁の乱で、守護大名が京都に出向いて兵を指揮していたころ、国もとに残っていた家臣らが実権をにぎるというということが起きた。 さらに、領地をめぐって争うことも起きた。その結果、したの身分だった者が、上の身分の勢力を倒すこともあった。 このように、下の身分のものが上の身分のものを倒し、のしあがる事や、その風潮(ふうちょう)を、下克上(げこくじょう)という。

戦乱は地方へも広がっていき、戦争の時代になっていった。時代が室町時代から戦国時代(せんごくじだい)へと、なっていく。

戦国時代には、地方の各国の最高権力者は、大名(だいみょう)であった。戦国時代の大名を戦国大名という。戦国大名の多くは、もとは守護大名でなかった者が、下克上によって大名になっていった例が多い。大名のなかには、守護大名から、そのまま戦国大名になったものもいる。

戦国大名どうしも、領地の拡大などを目指して戦ったため、戦乱はつづき、100年ほど戦乱(せんらん)の時代が続く。

戦国大名どうしが戦うことから、領地内での統制(とうせい)も強める必要があった。戦乱の時代に対応した、領地を管理するための法律を、新たに作る必要がある。 それぞれの戦国大名が領地内でしか通用しない法律を勝手に作った。これが 分国法(ぶんこくほう) である。戦国大名の領地を分国(ぶんこく)と呼んでいたので、分国の中での法律だから分国法というわけである。

武田信玄(たけだ しんげん)。(1521〜1573) 守護大名の一族の出身。甲斐の戦国大名。

たとえば戦国時代の大名の武田信玄(たけだしんげん)は、『甲州法度次第』(こうしゅうはっとのしだい)という分国法を1547年に作った。 内容は、今風にいうと、

「武田信玄の許可なく同盟を結ぶことを禁止する」
「他国に勝手に手紙を出してはならない」

などのような内容が書かれている。 他にも今川(いまがわ)氏の『今川仮名目録』(いまがわ かなもくろく)などの分国法がある。

分国法の内容は国によって違う(ちがう)が、多くの国の分国法では、勝手に他国と連絡をとることを禁止したりして、部下の裏切り(うらぎり)をふせぐための決まりや、部下どうしがあらそったばあいは両方とも罰することで領内を団結させるための決まりが多い。

部下どうしの争いを両方とも処罰することを 喧嘩両成敗(けんか りょうせいばい) という。

大名の多くは家来を自分の城の近くに住まわせた。このため、城の近くに街が出来た。こうして 城下町(じょうかまち) ができた。

今川氏の分国法
一. 今川家の家臣(かしん)は、勝手に他国から嫁(よめ)をもらったり、あるいは婿(むこ)に取ったり、あるいは他国に嫁を出すことは、今後は禁止する。
『今川仮名目録』(いまがわ かなもくろく)


武田氏の分国法
一. 武田信玄の許可なく同盟を結ぶことを禁止する。
一. 他国に勝手に手紙や贈り物(おくりもの)を出してはならない。

などのような内容が書かれている。

一. 喧嘩(けんか)をしたものは、どちらが良いか悪いかに関わらず、いかなる理由でも、両方とも処罰する。ただし、相手から喧嘩を仕掛けられても、こらえた者は処罰しない。
一. 主君から、もらった土地は、勝手に売買してはならない。やむをえず売買する場合は理由を申し出ること。
『甲州法度次第』(こうしゅう はっと の しだい)
1540年


室町文化。東山文化。[編集]

銀閣(東正面)

戦国時代の話から、室町の話に、もどる。 義政が京都の東山(ひがしやま)に 銀閣(ぎんかく) を建てた。銀角には、べつに、銀箔(ぎんぱく)は、はられていない。

この義政の時代のころの文化を 東山文化(ひがしやま ぶんか) という。

  • 書院造(しょいんづくり)
書院造(しょいんづくり)
※ 書院造の見やすい画像が無いので、ウィキペディア日本語版や外部サイトなどで書院造りの画像を見て下さい。

書院造(しょいんづくり)という、建築様式の室内の様式が出てくる。 特徴は、

違い棚(ちがいだな)という、棚が段差になった棚がある。
障子や、ふすま、がある。
畳(たたみ)の床(ゆか)

など。

これが、今日の和室(わしつ)の様式に、つながっていく。

代表的な例として東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)の部屋が、書院造の部屋で有名である。



  • 水墨画
水墨画。秋冬山水図のうち秋景(東京国立博物館)
雪舟自画像(模本) 、重要文化財、藤田美術館

中国大陸から 水墨画(すいぼくが)が日本に伝わる。雪舟(せっしゅう)などの水墨画の画家がでてくる。水墨画のことを墨絵(すみえ)ともいう。 べつに雪舟が始めたわけでなく、すでに義満の北山文化のころから如拙(じょせつ)や周文(しゅうぶん)らが水墨画をしていた。

  • 茶の湯

書院造の部屋で、おちついた作法にしたがって茶を飲む、茶の湯(ちゃのゆ)が始まる。茶の湯は、今(2014年に執筆。)でも茶道(さどう)として、受け継がれている。


  • 御伽草子(おとぎそうし)

御伽草子(おとぎそうし)が民衆の間で流行した。 『浦島太郎』(うらしまたろう)や『一寸法師』(いっすんぼうし)などがある。


戦国時代[編集]

(せんごく じだい)

鉄砲とキリスト教の伝来[編集]

愛知万博のポルトガル館展示物)

戦国時代の16世紀の1543年に、九州の今でいう鹿児島県の島である種子島(たねがしま)に、ポルトガル人を乘せた中国大陸の船が流れ着く。

このとき、ポルトガル人から鉄砲(てっぽう)が日本に伝わる。当時の鉄砲の仕組みは、火縄銃(ひなわじゅう)という仕組みである。それまでの日本には鉄砲は知られていなく、新兵器であった。

種子島(たねがしま)の領主の種子島時尭(たねがしま ときたか)は、ポルトガル人から大金を払って鉄砲を買い入れ、部下にその仕組みと製造法を学ばせた。 時尭はヨーロッパ人の鉄砲の威力を見て感心し、即座に2000両の大金を支払い2丁の鉄砲を購入したという。

やがて日本の各地に鉄砲の情報が広がる。堺(さかい、大阪府にある)や国友(くにとも、滋賀県にある)で、大量に鉄砲が作られるようになった。

この時代のころ、ヨーロッパでは、海路での貿易が、さかんであった。なぜなら15世紀に入ってから西アジアではトルコ系のオスマン帝国が成長し、ヨーロッパは貿易ルートをオスマン帝国にさえぎられるようになっていた。このため陸路(りくろ)をさけた貿易が、さかんになった。


鉄砲の伝来は戦いの仕方を、大きく変えた。

馬にのって戦う騎兵(きへい)の戦闘から、足軽(あしがる)などの歩兵の集団に鉄砲を持たせて戦う集団戦法に変った。
城の城壁は、鉄砲の弾(たま)を防ぐため、強固になっていった。
戦争の勝負が、早く決まるようになった。


また、キリスト教が日本に伝わった。

フランシスコ・ザビエル。

1549年にはスペイン人の宣教師(せんきょうし)であるフランシスコ=ザビエルが日本の鹿児島に来て、キリスト教を伝えた。

そのあと、他の宣教師も、次々と日本にやってきた。たとえばルイス・フロイスなどの宣教師である。

宣教師は貿易の世話もしたので、大名たちの中にはキリスト教を保護する者が、西日本に多くいた。とくに、キリスト教の信者になった大名を キリシタン大名(キリシタンだいみょう) という。 当時の日本では、キリスト教徒のことを キリシタン と呼んでいた。

南蛮貿易[編集]

このようなことをきっかけに、日本とポルトガルとの貿易が始まり、やがてスペインも日本との貿易を始め、ポルトガル人・スペイン人の商船が、九州の長崎や平戸(ひらど)や、大阪の堺(さかい)の港などを訪れ、貿易をするようになった。

日本への輸入品は、中国の生糸や絹織物など、中国産の物品が中心だった。ヨーロッパの鉄砲、火薬、毛織物、時計、ガラス製品、南方の香料なども、日本に輸入され、伝えられていった。日本からの輸出品は、銀や刀剣だった。当時の日本では銀山の開発が進んでいたのでおり、世界市場に影響を与えるほどの産出量・輸出量だった。

当時の日本人がヨーロッパ人を「南蛮人」(なんばんじん)と読んだので、日本によるヨーロッパとの貿易を南蛮貿易(なんばん ぼうえき)という。

天下統一へ[編集]

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

(おだのぶなが・とよとみひでよし・とくがわいえやす)

多くの大名がおり、各地で争いがおきているので、その全てを解説する時間はない。なので、代表的な人物を中心に取り上げる。

  • 桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)
織田信長(おだ のぶなが)
1565年

戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年以降から、まず、尾張(おわり、愛知県にある)の 織田信長(おだ のぶなが) が勢力を伸ばし始める。きっかけは、1560年に、桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)で駿河(するが)の大名である今川義元(いまがわ よしもと)の軍に尾張が攻めこまれたが、今川義元を織田らの軍が討ち取り、今川義元は死亡する。このため、今川軍は負ける。

今川討ち死にのいきさつは、信長軍の兵が少数の軍勢で今川の本陣を奇襲し、今川義元を討ち取った。

  • 発展的事項: 徳川家康の独立
この桶狭間の戦いを期(き)に、今川氏に支配されていた三河(みかわ)の松平元康(まつだいら もとやす)および彼の家臣が今川から独立し、松平元康は松平家康(まつだいら いえやす)と改名する。(元康の「元」の字は、義元の「元」の字と同じである。)松平元康は、後の時代に、征夷大将軍になる 徳川家康(とくがわ いえやす) である。しかし、このころの松平家康は、まだ一介の戦国大名であった。
桶狭間の戦いから2年後の1562年に、家康は織田信長と同盟をむすぶ。これが 清洲同盟(きよす どうめい) です。「清洲」(きよす)とは尾張(おわり)にある信長の居城の清州城(きよす じょう)のことです。なお、1582年の清洲会議(きよす かいぎ)とは、別の出来事です。1582年の清洲会議は、1582年に信長が死んだので後継者(こうけいしゃ)を決めるための会議です。

(発展的事項、おわり。)


なお、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、桶狭間の当時は織田信長の家臣であり、当時の名は 木下藤吉郎(きのした とうきちろう) と名乗っていました。のちの1570年のころに名を変え、木下藤吉郎から羽柴秀吉(はしば ひでよし)に名前を変えています。


桶狭間の戦い以降、信長は西へと勢力を伸ばしていく。1568年には、足利義昭(あしかが よしあき)を支援して京都に入った。義昭が、室町幕府の第15代将軍になる。

1569年、キリスト教の宣教師のルイス・フロイスと初めて出会い、彼にキリスト教の布教を許可します。信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長の狙いは宣教師のもたらす情報などが狙いだとか、あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと、一般に言われています。


  • 発展的事項: 信長包囲網(のぶながほういもう)
義昭が、第15代将軍になる。後に信長に実権をうばわれることをおそれた義昭が1571年ごろに各地の大名と密かに協力して御内書(ごないしょ)を送る。
御内書は、上杉謙信(うえすぎけんしん)や毛利輝元(もうりてるもと)、本願寺光佐(ほんがんじこうさ)や武田信玄(たけだしんげん)など、各地の大名に御内書が下された。これは現代(2014年に記述)では信長包囲網(のぶながほういもう)と一般には呼ばれている。この包囲網に、さらに、かねてから信長と対立していた大名なども加わる。
その後、各地の大名たちと織田軍は戦争になるが、織田軍は生き延びる。

(発展的事項「信長包囲網」、おわり。)


1570年には、信長に敵対する浅井・朝倉の連合軍と戦争になり姉川の戦いが起きるが、この浅井・朝倉連合軍をやぶる。
1571年には仏教勢力の延暦寺が浅井・朝倉に味方してことなどから、比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)を焼き討ちにする。いわゆる「延暦寺の焼き打ち」をした。


義昭は1573年に京都の槇島城(まきしまじょう)で挙兵したが失敗し槇島城を追われてしまい、織田により義昭は京都から追放された。 (※「槇島城」については、おぼえなくてよい。)

これによって、室町幕府は、ほろんだ。


  • 長篠の戦い
長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。

1575年に織田・徳川の同盟と、対する敵は、甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である 長篠の戦い(ながしののたたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは、織田・徳川らの鉄砲隊の活躍により、織田が勝ち、武田は負ける。 武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。


  • 安土城(あづちじょう)

1576年、近江(おうみ、滋賀県)に城を築かせ(きずかせ)、天守閣(てんしゅかく)を持つ 安土城(あづちじょう) を築かせる。

安土城の城下町では、次に説明する楽市楽座(らくいち らくざ)などの新しい政策が行われた。

  • 楽市楽座(らくいち らくざ)

商業をさかんにするため、関所(せきしょ)で通行税(つうこうぜい)をとることを廃止(はいし)した。 一般に商人は、利益をだすために、費用をあまり払いたくないので、そのため税のひくい場所で商売をしたがります。

また、各産業の同業者組合である座(ざ)の独占権を廃止し、だれでも商売が始められるようにします。このように座の独占権を廃止したことを 「楽座」(らくざ) と言います。

そして、商業を活発にするための信長による一連の規制(きせい)の撤廃(てっぱい)などの商業の振興策(しんこうさく)を、楽市楽座(らくいち らくざ)といいます。


本能寺の変[編集]

1582年

1582年、中国地方へと勢力をひろめるため、織田軍は秀吉などに命じて、中国地方の大名の毛利と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中、京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。

このとき、家臣の明智光秀(あけち みつひで)が反逆をして、この本能寺で信長および信長の子の織田信忠(おだ のぶただ)たちは死亡します。 信長は当初は応戦していたといいますが、やがて敵の兵数を知るとけを覚悟し、家臣の森蘭丸(もり らんまる)らに寺に火を放たせ、信長は自刃(じじん)して自殺したと言います。

この1582年の本能寺での一連の事件が本能寺の変(ほんのうじのへん) です。

( 語呂合わせ:いちごパンツ(1582)の信長 本能寺(ほんのうじ)で、没す(ぼっす) )

もちろん、当時にはパンツなんてありませんので、実際には、いちごパンツなんて、はいていません。語呂合わせのためのジョークです。


信長は、天下統一をしていません。 天下統一ならず、信長は死亡します。 のちに、戦国時代の天下統一をした人は、羽柴秀吉です。

羽柴秀吉の台頭(たいとう)[編集]

豊臣秀吉。

信長の死を聞いた羽柴秀吉は、ただちに毛利との停戦をし、そして京都・大阪に向かい 山崎の戦い(やまざき の たたかい) で明智光秀を倒します。

その後、信長の家来だった柴田勝家と戦い、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で秀吉軍は柴田軍を倒します。


このようにして、しだいに秀吉の地位は高まっていき、信長の領地を受け継いでいきます。


1583年に秀吉は、大阪にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地(あとち)に大阪城(おおさかじょう)を築かせ、この大阪城を本拠地(ほんきょち)にした。

そのあと、秀吉は各地の大名たちを平定し従えていきます。

1685年、羽柴秀吉は朝廷から 関白(かんぱく) の称号を、もらいます。 1586年、羽柴秀吉は朝廷から豊臣(とよとみ)の姓(せい)をもらい、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と名乗る許可を得ます。


そして1590年には、秀吉に従わなかった北条(ほうじょう)氏の治める関東の小田原(おだわら)を攻め、北条氏政(ほうじょううじまさ)を滅ぼします。

同1590年、秀吉に従っていなかった東北の伊達(だて)氏など東北の大名は、秀吉にしたがい、これで秀吉が天下統一をなした。

秀吉の政策[編集]

  • 太閤検地(たいこうけんち)

農民から年貢を取るための土地の調査を検地(けんち)という。

検知は信長の時代からも行われていたが、秀吉は各地でちがっていた長さや面積などの単位を全国で統一させた。年貢をおさめる枡(ます)も全国で統一させた。マスの基準(きじゅん)は、京都で使われていた京枡(きょうます)が全国の基準の枡になった。

そして記録によって、田畑の面積や、田の収穫高である石高(こくだか)、その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳(けんちちょう) が作られた。

検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。 また、これで、かつての荘園のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなった。


  • 刀狩(かたながり)

1588年に農民から刀や鉄砲などの武器を没収する命令の刀狩令(かたながりれい)をだします。名目は大仏を京都の方広寺(ほうこうじ)に作るので材料の鉄が必要なため、という名目です。秀吉の狙いは、一揆(いっき)を防ぐため、というのが現代(2014年に記述)での一般的な考えです。

  • 兵農分離

このような検地や刀狩の結果、農民と武士との中間的な立場の人間がいなくなり、農民と武士との身分のちがいが、はっきりとしました。このようなことを兵農分離(へいのう ぶんり)といいます。


キリスト教の禁止

豊臣秀吉は、キリスト教を禁止します。 1587年にキリスト教の宣教師(せんきょうし)を日本の外へ追放(ついほう)するバテレン追放令(バテレンついほうれい) を出します。バテレンとは、ポルトガル語で神父を意味する パードレ padre が由来の言葉。 (※ ポルトガル語表記「padre」は、おぼえなくてよい。)

しかし南蛮貿易は許可していたこともあり、取り締まりの効果は不十分だった。 秀吉は、はじめのうちは南蛮貿易を保護していたので、キリスト教の布教を許していましたが、考えを変えたわけです。では、なぜ考えを変えたのでしょうか。

一般に言われているのは、キリシタン大名の大村純正が長崎をキリスト教に寄付し、長崎がキリスト教の領地になっていることを、九州の平定の際に知った秀吉が、キリスト教は天下統一のさまたげになるだろうと考えたから、と言われています。


朝鮮出兵[編集]

国内を統一した秀吉は、つぎに、外国を征服(せいふく)しようとした。そのため、中国大陸、当時は明(みん)という国を征服しようとした。このための足がかりとして、まず朝鮮(ちょうせん)に通行の許可(きょか)や協力などをもとめたが、朝鮮に断られたため、朝鮮との戦争になり、2度にわたって朝鮮に兵をおくって戦争をした。

この戦争を日本の呼び方で、朝鮮出兵(ちょうせん しゅっぺい) とか 朝鮮侵略(ちょうせん しんりゃく)と いいます。

ここで気をつけてほしいのは、朝鮮の最初の目的は、けっして朝鮮半島への征服ではなく、中国大陸への征服です。名前が「朝鮮出兵」とか「朝鮮」侵略なので、てっきり朝鮮の領土などをねらった戦争だろうとマチガイやすいかもしれませんが、秀吉が最初に狙ったのは明(みん)の征服であって朝鮮の領土ではありません。

なぜ秀吉が明への侵略戦争を考えたはじめたかについては、学者でも、まだ理由が解明されていません。仮説(かせつ)は多くありますが、学者の研究途中です。


なお、20世紀の後の時代の戦争で朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)という戦争がありますが、朝鮮出兵とは別の戦争です。朝鮮戦争は北朝鮮と韓国戦争との戦争です。名前が似ていますが、まちがえないでください。

秀吉の朝鮮出兵は2度、ありますが、最初の1回目の出兵は1592年にあり 文禄の役(ぶんろくのえき) と言い、2回目の出兵は1597年にあり 慶長の役(けいちょうのえき) と言います。

2つの出兵とも、最終的に日本は朝鮮の撃破(げきは)に失敗します。

『行録』などの記述をそのまま絵にしたもので、亀甲船の想像図。少なくとも18世紀以後に描かれたものであり、史料価値はほとんどない。

1回目の朝鮮出兵である文禄の役 では、朝鮮の各地や海上で日本軍は朝鮮軍と戦いましたが、朝鮮の水軍(すいぐん)の軍人である李舜臣(日本語よみ :り しゅんしん、  韓国語よみ :イ スンシン)がひきいる亀甲船(きっこうせん)に、日本は苦戦した、といわれています。また明からの援軍が朝鮮に協力したので、日本の戦況は不利になっていきました。

朝鮮の民衆も朝鮮軍に協力したが、このため、朝鮮軍だけでなく朝鮮の民衆も戦争に巻き込まれた。

京都にある耳塚(鼻塚)。朝鮮出兵で切り取られた耳や鼻を供養(くよう)している。

2回目の出兵では、秀吉は、部下に手柄を証明させるために、敵の耳や鼻を切り取って送ってこい、という命令をだします。 このため日本に多くの朝鮮人・民国人の耳や鼻が送られてきます。

戦国時代では、手柄をしめすために敵の将の首を切り取り送るのが一般だったのです。階級の低い敵兵の場合には首ではなく鼻などを切り取っていました。


1598年に日本国内で秀吉が病死し、朝鮮出兵は終わります。

  • 朝鮮出兵の結果:
・日本の諸大名などからの豊臣氏への信用が弱まり、のちに、豊臣氏が没落していくキッカケの一つになる。
・朝鮮に、大きな被害を与えた。
・戦争で消耗した明(みん)の力も弱まる。
・朝鮮の陶器(とうき)の文化が日本に伝わる。朝鮮人の捕虜が日本に連行されたり、物品の略奪などを通して。佐賀県の有田焼(ありたやき)、鹿児島県の薩摩焼(さつまやき)、山口県の萩焼(はぎやき)など。今では、その地方の特産品の一つになっている。
・朝鮮の活字(かつじ)技術が日本に伝わる。
信長・秀吉・家康の時代
織田信長 豊臣秀吉 徳川家康
1534 尾張の大名の子として生まれる 1537 尾張に農民の子として生まれる 1542 三河の大名の子として生まれる
1560 今川氏を破る
1562 家康と連合する 1562 信長と連合する
1573年 足利氏を京都から追い出す
(室町幕府をほろぼす)
1575 長篠の戦い (信長と家康の連合軍が、武田の軍をたおす)
1576 安土城を築く
1580 石山本願寺を倒し、
一向一揆に勝利する
1582 本能寺の変で明智光秀におそわれ、
信長は自害する
1582 明智光秀をたおす
1583 大阪城を築く
1585 関白になる
1588 刀狩りを命じる
1590 日本を統一する 1590 秀吉の命令で、関東に領地をうつす
1592 朝鮮をせめる
1597 ふたたび朝鮮をせめる
1598 病死する
1600 関ヶ原の戦いで勝つ
1603 征夷大将軍になり、江戸幕府をひらく
1615 豊臣氏をほろぼす
1618 病死する

安土・桃山文化[編集]

信長が生きてて影響力の強かったころの安土文化(あづち ぶんか)と言います。信長が安土城を建てさせたころの文化だからです。秀吉の時代の文化を桃山文化(ももやま ぶんか)と言います。 安土文化と桃山文化を合わせて安土桃山文化(あづちももやま ぶんか)と言います。

  • 茶道(さどう)
千利休
(画:長谷川等伯)

室町時代に生まれた茶の湯は、千利休(せんの りきゅう)により、茶道(さどう)へと発展した。 織田信長のころから、めずらしい茶器(ちゃき)が好まれるようになった。朝鮮出兵のときに陶工を捕虜として連行した理由の一つには、このようなことがある。

  • 絵画
『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)、狩野永徳。

ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)が発達した。狩野永徳(かのう えいとく) や 狩野山楽(かのう さんらく) などの 狩野派(かのうは) の画家が活躍した。ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)を合わせて障壁画(しょうへきが)という。

狩野永徳の作品の『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)が有名。

ほかの派の画家では、長谷川等伯(はせがわ とうはく)が有名。

『洛中洛外図』(らくちゅうらくがいず)。狩野永徳の作品と、されている。
この洛中洛外図には、祇園祭り(ぎおん まつり)のようすが、えがかれている。(まんなかのほうに、祇園まつりのようすが、かかれている。)
現在の京都の 祇園(ぎおん)まつり
  • 南蛮文化

南蛮貿易により、ヨーロッパの医学・天文学・印刷技術が日本に伝わる。

食べ物のパン(pão、パアオ)やカステラ(pão de castela)、カボチャ、また、衣服のカッパ、カードのカルタ(cartas、カールタス)、食べ物のテンプラが日本に伝わる。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。「pão」や「carta」などは、おぼえなくてよい。)

「カステラ」の由来は、有力な説はポルトガル語でCastelaがスペインのカスティーリャ地方のことだが、カスティーリャ地方のパンケーキという意味でカステラが日本に伝わって、日本語の「カステラ」になったという。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。)


  • 芸能

浄瑠璃(じょうるり)と歌舞伎(かぶき)

  • 浄瑠璃(じょうるり)
民衆のあいだで、三味線の音色に合わせて、人が物語をかたるのを見て楽しむ浄瑠璃(じょうるり)が流行る。この浄瑠璃は、さらに発展し、人の代わりに人形を使う人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)へと発展した。
  • 歌舞伎(かぶき)
「出雲(いづも)の阿国(おくに)」という女が始めた歌舞伎踊りが人気(にんき)になる。出雲とは、今でいう島根県。

江戸時代[編集]

徳川家康

1590年  家康の領地が関東に移される。江戸城(えどじょう)が家康の拠点になる。江戸に移る前は、もとは三河(みかわ、今でいう愛知県)地方の大名だった。

豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康のいきおいが強まる。

  • 関ヶ原(せきがはら)の戦い
1600年 関ヶ原の戦い(せきがはら の たたかい)

家康がひきいる東軍(とうぐん)と、石田三成(いしだ みつなり)がひきいる豊臣側の西軍(せいぐん)とが関ヶ原(せきがはら、岐阜県)で戦う。

戦争の結果は、家康軍の勝利。 戦後は、豊臣氏は、まだ、ほろんでいない。豊臣氏は大阪城を拠点に、のこっている。秀吉の子である豊臣秀頼(とよとみ ひでより)が生きている。

関ヶ原の戦いでの各軍の兵数は、東軍が10万人ほど、西軍が8万人ほどの戦争であった。

負けた石田三成は処刑される。

  • 江戸幕府(えど ばくふ)
1603年  征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の称号(しょうごう)が朝廷(ちょうてい)から家康(いえやす)に送られ(おくられ)、家康が征夷大将軍に任命(にんめい)される。
家康は江戸(えど、今でいう東京)に幕府を開く。これが江戸幕府(えど ばくふ)であり、この時から江戸時代(えど じだい)が始まる。江戸時代は260年ほど、つづく。
1605年 家康は、息子の徳川秀忠(とくがわ ひでただ)に将軍の職をゆずる。このことによって、将軍職が、徳川家の世襲(せしゅう)であることを諸国にしめした。家康みずからの肩書(かたがき)は、大御所(おおごしょ)という肩書を名乗る。

このように、家康は1603年に自分が将軍になってから、たったの2年で秀忠に将軍の職をゆずった。


  • 大阪冬の陣(ふゆのじん)・大阪夏の陣(なつのじん)
1614年  家康により、豊臣氏をほろぼすための戦争を始める。家康は口実をもうけて戦争を始め、大阪冬の陣(おおさかふゆのじん)が起きる。この戦争では、まだ豊臣氏は、ほろんでいない。
方広寺の鐘銘。「国家安康」および「君臣豊楽」と刻まれている。

家康の戦争の口実は、難癖(なんくせ)による言いがかり(いいがかり)であり、秀頼が再建させた方広寺の鐘に「国家安康」(こっかあんこう)という文字が刻まれたことが、「国家」の「家」の字と、「安康」の「康」の字が「家康」の字であり、その家康の字のあいだに別の字が入っているということが、これは家康の体を切り裂こうとする呪い(のろい)である、・・・というような内容の難癖(なんくせ)である。この口実をもとに徳川が先に開戦した。

なお、さらに「君臣豊楽」(くんしん ほうらく)という文字が刻まれているが、これは豊臣の繁栄をいわったまじないである、というような主張もしている。

この、一連の言いがかりの事件を「方広寺の鐘銘事件」(ほうこうじ の しょうめいじけん)という。

1615年  家康により、ふたたび、豊臣氏をほろぼすための戦争が始まる。大阪夏の陣(おおさかなつのじん)が起きる。この戦争で豊臣秀頼(とよとみ ひでより)は負けて自害し、豊臣氏は、ほろんだ。
日光東照宮(にっこう とうしょうぐう)の陽明門(ようめいもん)。日光東照宮は、3代将軍家光(いえみつ)によって建造が命令され、家康をまつっている。世界文化遺産、および、国宝。
  • 1616年 徳川家康が死亡。死因は、まだ、解明されていない。家康が食べた天ぷらによる食中毒が一般的に定説だが、その証拠がない。


江戸時代初期の政治[編集]

江戸時代のはじめ頃から、大名の配置が変わります。幕府が、自分たちに有利な配置へと変えたからです。 江戸時代に大名の支配する領地のことを(はん)と言います。

徳川家の親族の大名や、関ヶ原の戦いよりも前に古くから徳川に仕えていた大名は、重要な地域や江戸の近くへと配置されます。

いっぽう、関ヶ原の戦いのあとに徳川に仕えた大名(だいみょう)は、江戸から遠いところに配置されました。

親藩(しんぱん) :徳川家の親族の大名(だいみょう)を親藩(しんぱん)と言います。親藩は、江戸の近くや重要地点に配置されました。
譜代(ふだい) :関ヶ原の戦いよりも前の古くから徳川に仕えていた家来(けらい)の大名を譜代(ふだい)といいます。譜代は、江戸の近くや重要地点に配置されました。
外様(とざま) :関ヶ原の戦いのあとに徳川に仕えた家来の大名のことを、外様(とざま)とか外様大名(とざまだいみょう)と言います。外様は、江戸から遠いところに配置されます。九州や四国や東北などに外様が多いです。九州の島津(しまづ)氏や、中国の毛利(もうり)氏、東北の伊達(だて)氏、加賀の前田(まえだ)氏などが、外様(とざま)です。


江戸幕府での「大名」(だいみょう)とは、領地の石高(こくだか)が一万石(いちまんごく)以上の武士のことです。


  • 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

それぞれの藩の大名の本拠の一城をのぞく、他の城を全て破壊させ、大名の居城を一つにかぎらせるという命令が1615年に、幕府により、くだされた。また、つぎに説明する武家諸法度(ぶけしょはっと)により、城の修理には、幕府の許しが必要になった。


  • 武家諸法度(ぶけしょはっと)

幕府により、大名を取り締まるために法律が作られ、この法は武家諸法度(ぶけしょはっと)と言い、1615年の徳川秀忠の時代に作られた。この法度に違反すると、領地の没収などの厳しい処分が、された。

以降、将軍が代わるごとに修正されて出されます。

  • 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびに くげしょはっと)

天皇や公家を取り締まるための法律です。また朝廷のうごきを監視するため幕府は京都所司代(きょうとしょしだい)という組織を作りました。

  • 参勤交代(さんきんこうたい)
徳川家光(いえみつ)

3代将軍の家光のとき、1635年に付け加えられ、大名には一年ごとに江戸と領地に半数ずつ住まわせるという参勤交代(さんきんこうたい)という決まりが武家諸法度に付け加えられました。 また、江戸に、大名の妻や子が、住まわせられました。

大勢の家来を江戸と領地に往復させるので、大名に多くの費用がかかって、大名の経済力を弱められました。 参勤交代のときの大名の一行は長い行列(ぎょうれつ)ができるので、大名行列(だいみょうぎょうれつ)と言います。

園部藩参勤交代行列図 (1) (南丹市文化博物館蔵)
園部藩参勤交代行列図 (2) (南丹市文化博物館蔵)
園部藩参勤交代行列図 (3) (南丹市文化博物館蔵)

幕府の目的は、大名の経済力を弱めることと、大名の妻や子を人質に取ることだろう、と今では言われてます。


参勤交代によって、道路などの設備(せつび)が整います。また宿場町(しゅくばまち)も出来ていきました。

家光は、「生まれながらの将軍」と言われており、つぎのような話が残っています。

家光は、諸国の大名を江戸城にあつめて、つぎのように宣言しました。「わたしの祖父の家康や父の秀忠は、もともとは、お前たちと同じ大名で、ともに戦った仲間だったから、お前たちへの遠慮(えんりょ)があった。だが、私は、生まれながらの将軍だ。だから、お前たちを家来として、あつかう。これに不満のある者は、領地に帰って戦いの準備をするがよい。戦いの相手をしてやろう。」

江戸時代はじめごろの貿易[編集]

  • 朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)
徳川家康朱印状/オランダ国立公文書館蔵

徳川家康の時代のころから、東南アジア方面の国々と貿易をしていた。なお、この貿易は、のちに廃止される。 この貿易では、日本の船に幕府の許可を示す朱印状(しゅいんじょう)が必要だったので、そのような朱印状を持っている日本の船を朱印船(しゅいんせん)と呼んだ。この朱印船による東南アジアとの貿易を朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)という。

2代将軍の秀忠の時代にも朱印船貿易は続き、キリスト教を秀忠が禁止したあとにも、朱印船貿易は続けられた。

東南アジアのルソン(今のフィリピン)やシャム(今のタイ)に日本人が集団で移り住み、日本町が出来た。 当時はスペイン人がルソン(今のフィリピン)に進出していた。

朱印船貿易は3大将軍の家光(いえみつ)のときに終わります。

  • オランダとの貿易

家康は、いったんイギリスとオランダの日本との貿易を許し、平戸(ひらど、長崎県にある)での貿易が始まる。 きっかけは1600年に豊後(ぶんご)に流れ着いたオランダ船リーフデ号に乗っていたオランダ人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)とイギリス人のウィリアム・アダムス(william Adams)であり、この二人が幕府の外交の相談役になったからである。 今の東京にある八重洲(やえす)の名前の由来はヤン・ヨーステンである。

スペインに遅れて貿易に参加することになったオランダは、キリスト教の布教には関心がなかった。 オランダは日本との貿易を独占するため、スペインやポルトガルはキリスト教の布教を通じて日本を侵略しようとしている、と幕府に、つげていた。

イギリスはオランダとの競争にやぶれ、日本をはなれて、イギリスの関心はインドでの貿易に変わった。

けっきょく、ヨーロッパの国のなかで、日本と貿易をできる国は、ほぼオランダだけになっていった。

鎖国(さこく)[編集]

江戸幕府は貿易を制限していき、江戸時代の貿易の相手国は最終的にオランダと清(しん、今でいう中華人民共和国)だけに、かぎられていく。

当時、オランダは台湾やインドネシアに進出していた。台湾の地に、オランダ人は「フォルモサ」(オランダ語:Formosa)という地名を名づけていた。(※ フォルモサという地名は、小中学生は、おぼえなくて良い。)


鎖国への歩み
おもなできごと
1613  幕府がキリスト教の禁止令を出す
1616  外国船との貿易を長崎と平戸(ひらど)に制限する
1624  スペイン人の来日を禁止する
1635  日本人の海外渡航の禁止。海外にいる日本人の帰国の禁止する
1637  島原の乱(しまばらのらん)が起きる
1639  ポルトガル船の来航を禁止する
1641  平戸(ひらど、長崎県)にあったオランダ人の商館を、長崎の出島(でじま)に移す
(鎖国の完成)
1824年、もしくは1825年に描かれた出島の鳥瞰図。扇形をしている。

なお、長崎は幕府が直接に支配する直轄地(ちょっかつち)である。

右年表のように、江戸幕府は貿易を独占し、また、制限していきます。

また、幕府は、貿易の制限だけでなく、キリスト教の布教も禁止し、また、外国人が一部の地域をのぞいて日本に入れないようにした。

オランダは、日本ではキリスト教を布教しないという約束を(江戸幕府と)して、オランダは日本との貿易を(江戸幕府によって)許されました。

(このような、江戸幕府による、外国人と日本人との交流を減らして(へらして)いった対外政策は、のちに江戸時代の1800年ごろから鎖国(さこく)と言われはじめ、明治時代から「鎖国」という用語が広がります。)

オランダとの貿易は、長崎の出島(でじま)とよばれる人工の島で行われました。出島に、貿易の仕事をするオランダ人を(幕府は)住まわせました。

江戸幕府は長崎のオランダ商館に、外国のようすを幕府に報告(ほうこく)させるための報告書(ほうこくしょ)の提出を義務づけ、『オランダ風説書』(オランダふうせつがき)の提出が義務づけられた。

このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、いったん、日本では、江戸幕府が西洋についての情報を独占しました。また、江戸幕府は、貿易の利益も独占しました。

  • 朝鮮との貿易

徳川家康の時代に、対馬藩(つしまはん)を通して朝鮮(ちょうせん)との貿易が行われます。秀吉の時代には朝鮮出兵により貿易が中断(ちゅうだん)しましたが、江戸時代に入り日本と朝鮮との国交が回復し貿易が再開します。鎖国のあいだも朝鮮との貿易は幕府に許され、貿易が続き(つづき)ます。

3代将軍の家光の時代からは、日本で将軍がかわるたびに、朝鮮からの通信使(つうしんし)が訪れるようになります。朝鮮からの通信使を 朝鮮通信使(ちょうせん つうしんし) と言います。

キリスト教の禁止[編集]

1612年 家康のころ、江戸幕府は1612年にキリスト教を禁止する禁教令(きんきょうれい)を出す。
1629年〜 絵踏み
イエス・キリストの踏み絵

3代将軍の家光の1629年のころから、キリスト教徒を発見するため、踏み絵(ふみえ)を用いた絵踏み(えふみ)が行われるようになった。

  • 踏み絵(ふみえ)による絵踏み(えふみ)

この時代、キリスト教は禁止されていたが、かくれてキリスト教を信じる「隠れキリシタン」(かくれキリシタン)がいた。このような隠れキリシタンを取り締まるため、幕府は人々にキリストやマリアなどが描かれた銅板の踏み絵(ふみえ)を踏ませるという、絵踏み(えふみ)をさせて、絵踏みをしないものはキリシタンであるとして処罰した。


  • 宗門あらため(しゅうもん あらため)

すべての人を、寺院に所属させる制度を作った。これが宗門改め(しゅうもんあらため)である。寺院は、村人の宗派を証明する手続きをする義務を負った。この寺による宗派の証明の制度を寺請(てらうけ)という。


1637年 九州の島原半島(しまばらはんとう、長崎県)や天草島(あまくさじま、熊本県)で、キリスト教の信者の農民3万人あまりによる反乱が起きる。農民の反乱の理由は、禁教によるキリシタンへの弾圧、および、領主による重い年貢などへの反乱である。

反乱軍の中心人物は、天草四郎(あまくさ しろう)とも言われる益田時貞(ますだ ときさだ)で、反乱軍は島原半島の原上にたてこもったが、幕府の松平信綱(まつだいら のぶつな)を中心とする

兵数12万人ほどの幕府軍により、反乱軍は負けた。 この出来事を島原の乱(しまばら の らん)と言う。現代では、この出来事の名前に関して、島原だけでなく天草地方にも反乱が広がっていたことをふまえて「島原・天草一揆」などと呼ぶ学者もいる。


島原の乱のあと、禁教は強化された。

身分制度[編集]

豊臣秀吉の時代に兵農分離がすすみました。江戸幕府も、兵農分離を受けつぎます。よって武士の身分は、農民・町民の身分と区別されます。


江戸時代の日本の人口における武士の割合(わりあい)は人口の7%ほどです。なお江戸時代の人口の数は 約3000万人 です。

江戸時代の日本の農民の人口の割合は、人口の84%です。 (※ 以下の、こまかな数字は、おぼえなくて良い。「国民のほとんどが農民」とえも覚えれば、じゅうぶんである。)

商人や職人などの町人が人口の6%です。

公家や僧侶や神社の神官などを合わせて1.5%です。

のこりの1.5%が、 えた および ひにん と言われる、農民よりも身分が低くされ、もっとも身分が低い(ひくい)という差別をされた人々です。

江戸時代は、武士の身分が、一番、高いです。武士が、他の身分の農民や町民などを支配します。

農民の身分が2番目に高い、とされました。


つまり、

武士 7%
農民 84%
職人・商人など町民 6%
僧など 1.5%
えた・ひにん 1.5%

です。

また、職業(しょくぎょう)を勝手(かって)に変える(かえる)ことは、ゆるされませんでした。

武士[編集]

政治は武士(ぶし)が行った。 武士だけが持つ特権(とっけん)として、名字(みょうじ、苗字)を名乗り(なのり)、また、刀を身につけることが許される(ゆるされる)という特権があった。この苗字と帯刀の特権を合わせて、苗字帯刀(みょうじたいとう)などという。

また、町人や農民など、武士よりも下の身分のものが武士に無礼をしたときには、その農民などを切り捨てても良いという斬捨御免(きりすてごめん)という特権(とっけん)がありました。


武士の中でも、身分の差があります。 将軍が、一番えらい武士です。 将軍や大名のような主人である武士は、家来を持っており、主人と家来にも身分の差があります。

農民[編集]

農民は、毎年、年貢を取られます。年貢の割合は、だいたい、収穫(しゅうかく)の50%です。 このように年貢が5割の場合、五公五民(ごこう ごみん)と、いいます。「五公」で年貢が5割という意味です。

年代によって年貢が6割の場合もあり、その場合は六公四民(よんこう ろくみん)といいます。 年代によって年貢が4割の場合もあり、その場合は四公六民(よんこう ろくみん)といいます。

つまり、江戸時代の年貢は、五公五民ぐらいでした。

  • 慶安の御触書(けいあんの おふれがき)

農民のくらしは、贅沢(ぜいたく)をしないように、きびしく管理されました。

慶安の御触書(けいあんの おふれがき)によって、農民の生活のきまりが、幕府によって定められました。 御触書の内容は、現代風に訳すと次のような内容です。

 慶安の御触書(おふれがき)

一. 朝は早起きをして草を刈り、昼には田畑の耕作をして、夜には縄(なわ)をつくって俵(たわら)を編む(あむ)など、それぞれの仕事をしっかりと行うこと。
一. 幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えず、また名主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。
一. 酒や茶を飲まないこと。
一. 農民は麦・ひえ・あわ などの雑穀(ざっこく)などを食べ、なるべく米を食べないこと。
一. 農民の服は、麻(あさ)と木綿(もめん)だけであり、ほかの服は着てはいけない、裏地(うらじ)にも他の布を使ってはならない。


以上の内容が御触書の内容として有名ですが、他にもつぎのような内容も御触書にあります。 (※ おぼえなくても、大丈夫だろう。)

 慶安の御触書(おふれがき)

一. タバコは、吸うな(すうな)。
一. 名主(なぬし、村長のこと)は親のように敬え(うやまえ)。


  • 五人組(ごにんぐみ)

ほかにも、農民の年貢や犯罪などに集団責任を負わせるため、五人組(ごにんぐみ)という集団を、村で5件ごとにつくらせた。


村長に当たる役目の人は、名主(なぬし)と言われました。

町人[編集]

職人や商人など、町人の多くは城下町(じょうかまち)などの都市(とし)に住んでいました。


幕府の仕組み[編集]

中央の仕組み[編集]

   ┳━大老
   ┃
将軍━┣━老中
   ┃
   ┣━若年寄
   ┃
   ┗━寺社奉行


将軍の補佐をする老中(ろうじゅう)が置かれています。

さらに、老中の補佐をする若年寄(わかどしより)が、います。

政務(せいむ)は、老中が担当(たんとう)します。

臨時(りんじ)に、必要なときだけ、大老(たいろう)が置かれれます。

  • 老中の下
   ┳━大老
   ┃
将軍━┣━老中━━━━┳━大目付
   ┃       ┃
   ┃       ┣━町奉行
   ┃       ┃
   ┃       ┗━勘定奉行
   ┃
   ┣━若年寄
   ┃
   ┗━寺社奉行

老中の下に、大名を取り締まる大目付(おおめつけ)と、江戸の町の政治や裁判をおこなう町奉行(まちぶぎょう)と、財政の管理をする勘定奉行(かんじょうぶぎょう)があります。


このほか、神社や寺を取り扱う 寺社奉行(じしゃぶぎょう) があります。

地方の管理の仕組み[編集]

将軍━┳━
   ┃
   ┣━
   ┃
   ┣━
   ┃
   ┣━
   ┃
   ┣━京都所司代
   ┃
   ┗━大坂城代

京都に朝廷と西国大名を監視(かんし)するための京都所司代(きょうとしょしだい)があります。大阪に西国大名を監視するための大阪城代(おおさかじょうだい)があります。

産業[編集]

農業[編集]

幕府や藩は、新田の開発に力を入れた。 その結果、開墾(かいこん)が進み、全国の田畑の耕地面積が秀吉の頃の、ほぼ2倍 に広がった。 幕府や藩の財政は百姓からの年貢にたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要があった。 江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って貨幣(かへい)に現金化していました。 年貢米は江戸や大阪にある蔵屋敷(くらやしき)に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。

治水(ちすい)工事も進み、農地に水を引く灌漑(かんがい)のための用水路(ようすいろ)が各地にできた。 箱根上水(はこね じょうすい) や 玉川上水(たまがわ じょうすい) は江戸時代に出来た。

九州の有明湾で干拓(かんたく)事業がされた。

備中ぐわ
千歯こき
  • 農具の発達

備中ぐわ(びっちゅうぐわ)・千歯こき(せんばこき)・千石どおし(せんごくどおし)などが開発された。

備中ぐわ(びっちゅうぐわ) ・・・ 耕すための農具で、深く耕せる。。
千歯こき(せんばこき ・・・ 稲(いね)の穂(ほ)から米つぶを脱穀するための道具。くし状の部分が鉄製で、何本もの、くし状の「こき」があるので、一度に多くの穂(ほ)を脱穀できる。
千石どおし(せんごくどおし)、とおみ ・・・ もみを、ふるい分ける。
水車(みずぐるま)、踏み車(香取市)
  • 踏車(ふみぐるま) ・・・ 灌漑(かんがい)用の水車である踏車(ふみぐるま)なども開発された。

踏車は、人間が踏んで回す水車なので、重力に逆らって水を高いところにあげられるという仕組みである。

竜骨車(りゅうこつしゃ)という、かんがい用の農具もあります。形は踏車とちがいますが、竜骨車も、農民が足で踏んで(ふんで)動かすことで、水がくみあがる仕組みです。


  • 商品作物

売ることを目的に、綿・なたね・茶・麻・あい、、、などの、今で言うところの商品作物(しょうひんさくもつ)が作られるようになった。 農村でも貨幣(かへい)が使われるようになった。


綿の生産の発達により、民衆の服は麻から綿に変わっていく。

外国から伝わった作物も、つくられるようになった。さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ・とうもろこし、などである。


  • 肥料

金肥 ・・・ なたね油やごま油の しぼりかす であり、肥料として使われる。農家が金(かね)を出して買う。

干鰯(ほしか) ・・・  いわし。肥料として使われた。

  • 水産業

沿岸漁業が、ほとんど。

九十九里浜(くじゅうくりはま)での、いわし漁。 瀬戸内海では塩田(えんでん)が発達。

工業[編集]

家内制手工業(かないせい しゅこうぎょう)

農民は、農作業のないときに綿花や絹などの織物(おりもの)をして商品を生産したり、菜種油や麻(あさ)材料など、商品の生産をするようになった。


問屋制家内工業

商人などが生産に必要な設備(せつび)や資金(しきん)などを百姓に貸し与え、百姓が生産して、出来あがった製品を商人が買い取り、商人が販売するという方式。


工場制手工業(こうじょうせい しゅこうぎょう)

商人や大地主が、生産に必要な設備を買い入れ、職場に多くの人をあつめて働かせるという、今でいう工場のような生産方式が出始める。工場制手工業(こうじょうせい しゅこうぎょう)という。

西洋史で言う マニュファクチュア に対応している。

  • 鉱業(こうぎょう)
鉱山(こうざん)の多くは、幕府が経営した。生産された金・銀・銅は貨幣の材料になったり、輸出品になった。

金山(きんざん)

佐渡(さど、新潟県)の金山や、石見(いわみ、島根県)の金山がある。

銀山(ぎんざん)

生野(いくの、兵庫県)の銀山。


銅山(どうざん)

足尾(あしお、栃木県)の銅山や、別子(べっし、愛媛県)の銅山。

銅は長崎貿易の輸出品に、なった。

鉄(てつ)は砂鉄(さてつ)や、釜石(かまいし、宮城県)の鉄山から。


商業[編集]

江戸時代は、商人があつかう商品の量や種類が増えた。このため、商業の仕組みが発達した。貨幣が全国的に流通するようになった。

商品の量や種類がふえ、複雑(ふくざつ)化していったので、商人も分業化するようになり、問屋(とんや)や仲買(なかがい)や小売商(こうりしょう)の区別ができた。

問屋どうしの中でも分業はすすみ、さらに分業化が商品の種類ごとに進み、米をあつかう米問屋(こめどんや)や、木綿(もめん)をあつかう木綿問屋(もめんどんや)、油問屋(あぶらとんや)など、専業化していった。

問屋(とんや)とは、生産者から商品を仕入れ、販売店などの小売業者に商品を販売する仕事である。


  • 発展的事項 分析(ぶんせき)してみよう。
では、そもそも農民は,なぜ、貨幣を使う必要があったのだろうか?
  • もしかしたら、こういう理由で貨幣が必要なのか?
おそらく、農工業などの産業の規模が大きくなり、また高度化し、もはや農村が一つの村の中で全てを生産することが、むずかしくなっていったのだろう。このため、おそらく村の外から必要な物を買い入れる必要が増えたのだろう。
このようなことが全国各地でふえていき、したがって商人が取り扱う貨幣や仕事の漁も増え、商業の規模も大きくなったことが、商人の分業化の理由だろう。


世間には「貨幣経済(かへい けいざい)が進むと、自給自足がむずかしくなる。」という人がいますが、むしろ順序が逆(ぎゃく)で「人口がふえるなどして消費がふえ自給自足がむずかしくなったから、貨幣経済をして労働者どうしが協力しあう必要が生じた」と考えるべきでしょう。
とは言え、貨幣がないと生活しづらい社会へと、日本では江戸時代の頃から、なっていったことは、たしかです。
現代(2014年に記述。)の日本の経済(けいざい)も、貨幣(かへい)がないと生活しづらい世の中です。世界中の多くの国が、貨幣がないと生活しづらい社会に現代(2014年に記述)は、なっています。


  • 商業のしくみの理由を、読者は考えてみるべきです。
商業について勉強をするときは、このように「なぜ、こういう仕組み(しくみ)が出来たのだろうか?」ということを考えてみてください。1分間ほど、ちょっとだけ考えるぐらいでもいいので、考えてみて下さい。
「なんでかな?」「もしかしたら、こうかな?」と考えてみないと、せっかく用語(ようご)を勉強しても、あまり記憶(きおく)に残りません。


考えてみた内容がまちがってるかもしれませんが、だとしたら気づいたときに、おぼえなおしていけばいいだけです。
※この説で紹介した考えも、ひょっとしたら、まちがっているかもしれません。だから、文章をそのままおぼえるのではなく、読者は自分なりに考えてみて下さい。
  • もしかしたら、こういう理由で商取引が活発になったのか?
村の外や藩の外との取引が活発ということは、前提として、村どうし・藩どうしが信用しあっているということです。つまり、日本が平和ということです。江戸時代の商業は、戦国時代とは、ちがう、というわけです。
また、商品を輸送(ゆそう)する物流(ぶつりゅう)のためには、道路や運送業(うんそうぎょう)が必要です。江戸時代の道路や街道などの発達の理由は、「参勤交代のため」という理由の他にも、もしかしたら商業上での商品の輸送(ゆそう)が必要という物流(ぶつりゅう)上の理由もあったのかもしれません。
なお、大量の商品を運ぶには、海上交通をつかうと、時間はかかるが安く運びやすい。このため、江戸時代は海運(かいうん)が発達した。


戦国時代だと、交通が不便なところに城を気づいたりすることもありましたが、江戸時代での商売となると、交通が便利でないとこまってしまうわけです。

(発展的事項、おわり。)

商人の種類[編集]

いろんな種類の商人の職が出てきます。現代の仕事に関連づけて、おぼえてください。現代の仕事に関連づけないと、おぼえづらいでしょう。

  • 蔵屋敷(くらやしき)

江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って貨幣(かへい)に現金化していました。

年貢米や、年貢のかわりの特産物(とくさんぶつ)は、江戸や大阪にある蔵屋敷(くらやしき)に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。 大阪は商業がさかえ、「天下の台所」(てんかの だいどころ)と言われました。

分業化は蔵屋敷でも、されていました。仕事の種類によって、大阪では蔵元(くらもと) や 掛屋(かけや)などに分業されました。江戸では 札差(ふださし) などがありました。

蔵元(くらもと)は、売りさばきが担当の商人です。今でいう販売員です。

掛屋(かけや)は、売上金の輸送や保管の仕事です。今でいう銀行の 預金業務(よきんぎょうむ) や 振り込み(ふりこみ) のような仕事をしています。


蔵屋敷で現金化できる年貢や特産物など、諸藩からの商品をあわせて、 蔵物(くらもの) と言います。

いっぽう、民間から出た商品も出回り、納屋物(なやもの)といいます。 (※ おぼえなくてよい。)


  • 両替商

両替商(りょうがえしょう)は、もともとは、金貨や銀貨や銅貨の交換を、手数料をもらって行なう仕事ですが、そのうち仕事の内容が変わり、今でいう銀行のような預金(よきん)業務と貸付(かしつけ)業務を行なうようになった。

両替商は貨幣の調達などに信用があるので、両替商どうしの帳簿(ちょうぼ)上の処理(しょり)で貨幣(かへい)の送金(そうきん)の代わり(かわり)とする 信用取引(しんようとりひき) の仕組みが発達した。


江戸を中心に関東では金が取引の主流であり、大阪などの関西では銀が取引の主流であったので、両替が必要だった。「両」とは金貨のこと、あるいは金貨の単位である。

  • 鉱山の開発

貨幣をつくるには、材料の金や銀が必要なので、幕府は鉱山を開発しました。 また、貨幣をつくる権利は幕府が独占した。


商業の発達には、交通の発達も必要である。

海上交通の発達[編集]

船は、大量の荷物を、少ない人物で運べます。しかも、一度、船に積めば、目的地までは途中で積み替えをする必要がありません。

このため、大量の商品を運ぶには、海上交通をつかうと、時間はかかるが安く運びやすい。このような理由で、海運(かいうん)が発達した。 また、船も改良され発達した。

菱垣廻船の復元船「浪華丸」

菱垣廻船(ひがきかいせん)

積み荷が船から落ちないように、船の両側に垣(かき)がつけられ、その垣の形が菱型(ひしがた)に組まれていたので、菱垣廻船(ひがきかいせん)という。

樽廻船(たるかいせん)

酒はくさりやすいので、素早く運ぶ必要があった。そのためのスピードが早くなる工夫をされた船である。


  • 航路

東回り航路

東北地方の太平洋側から、太平洋側を通り、江戸までをむすぶ航路。


西回り航路

日本海側の東北地方から、瀬戸内海を通り、大阪までをむすぶ航路。


これらの航路を開いたのは、江戸の商人である川村瑞賢(かわむら ずいけん)によって、東回り航路と西回り航路が開かれた。

陸路の交通[編集]

全国を道でつなぐため、街道(がいどう)が出来た。

江戸の日本橋の、ようす。五街道は日本橋が起点。画:歌川広重『東海道五十三次』より。
歌川広重(うたがわ ひろしげ)

江戸の日本橋(にほんばし)を起点とする幹線道路(かんせんどうろ)としての街道が5本あるが、これを五街道(ごかいどう)という。読みは「ごいどう」ではなく「ごいどう」なので、まちがえないように注意。

五街道(ごかいどう) と、そのほかの道である 脇街道(わきかいどう) などによって、東北から山陰・山陽地方までが道でつながった。

九州や四国も、それぞれの島の内部が、道で、つながった。


五街道は、東北地方の南部の今でいう福島県から京都までしか、つながっていない。

日光へと向かう 五街道のうちの街道が日光街道(にっこうかいどう)である。


日光街道は、北関東の宇都宮(うつのみや)のあたりで、ふたまたに分かれていて、宇都宮から福島の白河(しらかわ)へと向かう奥州街道(おうしゅうかいどう)に分岐(ぶんき)している。 (※ 宇都宮・白河など、細かな地名は、おそらく教科書の範囲外なので、学校対策では、おぼえなくてよい。)

以上の二本の街道が、五街道への北への方面である。


次に京都方面について、説明する。

京都の方面へと江戸から向かう街道は3本あるが、そのうちの2本は、じつは、途中(とちゅう)で合流(ごうりゅう)する。

五街道のうちの一つである甲州道中(こうしゅうどうちゅう)は、長野県の信濃(しなの)の諏訪(すわ)のあたりで、五街道のうちの別の一つである中山道(ちゅうさんどう)と合流する。 甲州道中の名前は「甲州」道中だし甲府(こうふ)を通るが、じつは長野県の信濃まで、つながっている。

五街道のうちの一つである東海道は、太平洋ぞいの街道であり、京都まで他の街道とは、つながっていない。東海道の経路は、今でいう神奈川県 → 静岡県 → 愛知県 → 京都 の経路である。 当時の用語で言えば、小田原(おだわら、神奈川) → 駿府(すんぷ、静岡) → 名古屋(なごや、愛知) → 京都 である。

東海道は、もっとも人々の行き来が、さかんだった。


  • 関所(せきしょ)
関所の様式の門。観光テーマパークでの復元。

警備(けいび)上の理由から、街道には、通行者の取り調べるため通行を制限(せいげん)する関所(せきしょ)が、おかれた。 関所では、通行者は、関所の役人に、通行許可証である手形(てがた)を見せる必要があった。

関所では、とくに江戸に入る鉄砲(てっぽう)と、江戸から出る女は、きびしく調べられた。鉄砲の取り調べは、反乱を恐れて(おそれて)、のことである。江戸から出る女は、参勤交代で人質として江戸に住まわせた女である、大名の妻が、こっそり江戸から故郷(こきょう)へ帰国(きこく)することを恐れて、である。

「入り鉄砲に出女」(いりでっぽうに、でおんな)と言われ、これら2つは、きびしく調べられた。


街道には、旅行者が寝泊まり(ねとまり)するための宿場(しゅくば)が、もうけられた。

大名(だいみょう)や幕府の役人のとまる宿(やど)である本陣(ほんじん)や、ふつうの武士のとまる脇本陣(わきほんじん)や、一般の旅行者が泊まる旅籠(はたご)が、もうけられた。

宿場の周辺の人々には、役人などのため人手をかす負担があって、この負担を 助郷(すけごう) という。

東海道には53の宿場があり、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)と言われた。


街道には、通行者が場所をわかりやすいように、並木(なみき) や 道しるべ が、もうけられた。また街道の道のりの約4キロメートルごとに塚(つか)がもうけられ一里塚(いちりづか) が、もうけられた。一里(いちり)とは、長さの単位(たんい)であり、今でいう約4キロメートル。


  • 通信の発達。飛脚(ひきゃく)

郵便物をとどけるため、人が走ったり馬をつかって運ぶ飛脚(ひきゃく)の仕事が発達した。

幕府が管理する飛脚を 継飛脚(つぎひきゃく) という。町人のあいだでは 町飛脚(まちひきゃく) が利用された。


都市の発達[編集]

江戸時代に商業の中心的な都市は、江戸と大阪です。

江戸

将軍のいる江戸城の城下町なので、江戸は「将軍の おひざもと」と言われました。江戸時代なかごろの18世紀には、人口が100万人をこえる大都市になった。

大阪

全国から年貢や特産物が集まり、商業のさかんな街である。年貢を現金化する蔵屋敷(くらやしき)があり、各藩の大名の蔵屋敷が大阪にあった。


その他の都市

京都

天皇の住む皇居(こうきょ)があり、寺社も多い。伝統文化の中心地だった。西陣織(にしじんおり)や清水焼(きよみずやき)などの工芸品(こうげいひん)の産地(さんち)でもある。


4代将軍〜5代将軍のから、幕府は財政が悪化していき、財政のあまり良くない状況が、江戸時代の終わりまでずっと続きます。 江戸時代には貨幣が普及していきますが、田畑の収穫が急にふえるわけでもなく、そのくせ人口はふえるし、鉱山から採れる金銀の量もへっていきますので、今の時代から見れば財政がわるくなっても当然です。

5代将軍の徳川綱吉(とくがわ つなよし)[編集]

5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)は、動物を極端に保護する、生類あわれみの令(しょうるいあわれみのれい)を出した。

綱吉が、いぬ年の生まれで、特に犬を保護したので、犬公方(いぬ くぼう)と大衆から呼ばれて、きらわれた。 令を出した理由は、一節には、綱吉には、子がなく、僧からのすすめで、殺生を禁じたら子ができる、と僧にすすめられ、とくに犬を大切にすれば子ができるとすすめられたらしいのが、令を出した理由だと言われている。


儒学などの学問に力を入れた。湯島に孔子(こうし)をまつる聖堂(せいどう)を立てる。儒学の中でも、とくに朱子学(しゅしがく)という分野を重んじた。

前将軍のときの火事の、明暦の大火(めいれきのたいか)での費用がかさむなどが、財政悪化の理由の一つです。


金貨・銀貨にふくまれる金・銀の量をへらした貨幣を発行したが、貨幣の信用がさがり、そのため物価(ぶっか)が上がった。

  • 発展的事項: 貨幣の質と、物価についての解説

現代でも、一般に、貨幣の信用が下がると、物価が上がります。

江戸時代は貨幣の信用のうらづけは、金貨や銀貨にふくまれている金・銀なので、貨幣の中の金銀のわりあいを減らせば、商人が物を売るときに今までと同じ金・銀を手に入れるには値段を上げなければ金銀の量が前と同じになりません。

なので、貨幣の質をさげると、物価が上がってしまいやすいのです。

(発展的事項、おわり。)

  • 雑談

綱吉が、このように儒学などの学問を重んじた理由や、あわれみの令を出して殺生(せっしょう)をきらった理由としては、一節には、家康からの軍事力にたよった武断(ぶだん)的(てき)な政治をあらためるためかも?・・・とも今では言われています。しかし、家康のころから朱子学を重んじてはいましたので、綱吉のねらいがコレかどうかは、わかりません。

(雑談、おわり。)

新井白石(あらい はくせき)の改革[編集]

新井白石(あらい はくせき)

新井白石(あらい はくせき)は、綱吉のあとの、6代所軍の家宣(いえのぶ)に使え、7代将軍の家継(いえつぐ)に仕えた。

新井白石は、綱吉のときに質の低下した金貨・銀貨の質をもとの質にもどした。また、貿易で金銀が外国に流出していたので、長崎貿易に制限を掛けた。この白石の政治(せいじ)を、正徳の治(しょうとく の ち)という

綱吉の生類あわれみの令は、白石によって廃止(はいし)されます。

新井白石は儒学者(じゅがくしゃ)であった。


将軍・吉宗(よしむね)の政治[編集]

徳川吉宗(とくがわ よしむね)

8代将軍徳川吉宗(とくがわ よしむね)のころになっても、幕府の財政は、よくありません。吉宗の理想は家康のころの政治で、吉宗は質素倹約(しっそけんやく)をすすめました。 吉宗の行った一連の改革を享保の改革(きょうほう の かいかく)と言います。

吉宗自身も倹約につとめました。

財政の悪い理由は、収入が少なく、支出が多いわけです。だったら、財政(ざいせい)改革では、何らかの方法で収入をふやして、支出をへらせばいいわけです。

質素倹約には、支出をへらす狙い(ねらい)も、あります。

では、収入を増やすには、どうすればよいでしょうか。米の収穫量の石高(こくだか)をふやせばいいわけです。年貢の米が、収入のもとなのだから、だったら米の石高を増やせばいいので、吉宗は新田(しんでん)の開発をすすめました。 年貢も、ふやしました。

商品作物の開発も、すすめて、菜種・さつまいも、さとうきび、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)、・・・などの開発をさせました。

飢饉(ききん)にそなえ、さつまいもの栽培の研究を、青木昆陽(あおきこんよう)に命じます。


  • 目安箱(めやすばこ)

目安箱(めやすばこ)を作って、庶民や町民でも、アイデアを書いて投書(とうしょ)で幕府に意見をとどける仕組みが出来た。目安箱からの意見により、江戸に無料の病院の小石川養生所(こいしかわ ようじょうじょ)が出来た。

  • 火消し(ひけし)

江戸の消防(しょうぼう)である町火消し(まちひけし)の制度を、目安箱の意見も参考にして、整備していった。


  • 実学の許可(きょか)

キリスト教をのぞく、産業や医学や天文学(てんもんがく)などの実学(じつがく)の洋書(ようしょ)の輸入を許可します。当時の輸入された洋書は、ヨーロッパの洋書が中国語に訳された漢訳洋書(かんやくようしょ)です。

また、オランダ語を青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)たちに学ばせました。


  • 上米の制(あげまいのせい)

大名の参勤交代をゆるくするかわりに、大名は石高1万石につき100石の割合で米をさしだす上米の制(あげまいのせい)が作られました。上米の制により、参勤交代での江戸の滞在期間は半年になった。それまでは1年の江戸滞在だった。


  • 裁判の改革

公正な政治や裁判をおこなうため、公事方御定目書(くじがた おさだめがき)を出して、政治や裁判の基準を定めた。

このような,吉宗の行った一連の改革を享保の改革(きょうほうのかいかく)と言います。

改革は、ある程度の成果もありましたが、農民にとっては年貢がきびしくなったこともあり、さらに飢饉(ききん)や凶作(きょうさく)も重なって、百姓一揆(ひゃくしょう いっき) や 打ちこわし(うちこわし) が起こった。

吉宗の改革で、年貢の率を、豊作・凶作にかかわらず一定の率にする定免法(じょうめんほう)で、米の値段を安定させようとしていたので、不作のときは農民が苦しくなりました。

米の値段(ねだん)の調整(ちょうせい)につとめた吉宗は「米将軍」(こめしょうぐん)と人々から呼ばれたり、「米公方」(こめくぼう)と人々から呼ばれたりしました。


田沼意次(たぬま おきつぐ)の改革[編集]

田沼意次(たぬま おきつぐ)

10代将軍の家治(いえはる)のころ、幕府の財政が、また悪化していきます。 8代吉宗の改革で年貢は増えたのですが、そのあと、米の値段そのものが下落していったのです。こうして、10代将軍のころ、また財政が悪化したのです。

老中の田沼意次(たぬま おきつぐ)は、農業だけにたよる収入源だけでは無理があると考えたのか、商業を重んじた政策を取ります。

  • 株仲間(かぶなかま)の許可

商人に事業独占の株仲間(かぶなかま)の結成をみとめるかわりに、株仲間から税(ぜい)を取り、収入をふやしました。

  • 長崎貿易

田沼は、長崎貿易もすすめ、日本からの輸出品(ゆしゅつひん)には海産物(かいさんぶつ)や銅(どう)を輸出(ゆしゅつ)することで、日本に金銀を流入させようとします。

また、銅山の開発も行いました。


田沼の政治は、貨幣経済の進む世の中でも安定的に税収をとる工夫をしている、という財政的には合理的な政策であったが、幕府の役人のあいだに賄賂(わいろ)が横行するようになったりして、批判(ひはん)もあった。

天命のききんが1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に東北地方を中心におこり、百姓一揆や打ちこわしがおこり、田沼の政治は行きづまり、田沼は失脚(しっきゃく)した。


天命のききん[編集]

松平 定信(まつだいら さだのぶ)
  • 寛政の改革(かんせいの かいかく)

天命のききんが1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に東北地方を中心におきた。天命のききんのつづくなか、老中だった田沼意次(たぬま おきつぐ)が失脚し、新しい老中として松平定信(まつだいら さだのぶ)が1787年に老中になる。 定信は奥州白河(おうしゅうしらかわ、福島県)の藩主で、天命のききんのときに、素早い対策を取り、すばやく商人から米や食料を買いあげて、農民に食料をくばるという方法で、領内で飢饉(ききん)による死者を一人も出さなかったと言われる。

この功績が評価され、定信は老中になった。

このとき、将軍は徳川家斉(とくがわ いえなり)。

定信は、さまざまな改革をおこなう。松平定信の行った改革を 寛政の改革(かんせいの かいかく) といいます。

飢饉(ききん)により、まず、食料生産をふやさないと国が危険な時代になってるので、定信は、食料生産を増やす(ふやす)政策を取る。

江戸に出稼ぎで来ていた農民を農村にかえらせるため帰農令(きのうれい)を出し、農民を農業に専念させます。また、商品作物の制限をし、なるべく米をつくらせます。

凶作でも飢饉(ききん)にならないように、米を蔵(くら)に蓄え(たくわえ)させるという囲い米(かこいまい)の制度を作ります。



ききんで米が不足しているということは年貢による収入も少ないということであり、幕府の財政も少なくなっています。なので、帰農令や囲い米には、財政を安定化させる役割もあります。

定信は倹約をすすめました。ききんで、余計な金をつかっている余裕がないし、そもそも年貢不足による財政難(ざいせいなん)なので、ぜいたくも出来ません。


松平定信(まつだいら さだのぶ)のこれらの改革を 寛政の改革(かんせいの かいかく) といいます。

寛政の改革には、食料の増産(ぞうさん)のほかにも、以下のような政策もあります。

  • 人足寄場(にんそくよせば)

職業訓練です。 ききんにより、農村が荒廃して江戸に人が流入したりして、江戸の町に浮浪者がふえたので、無宿舎を対象に職業訓練を行った。

  • 棄捐令(きえんれい)

借金の負担がおもくなった武士をすくうための、借金帳消しの政策。つまり徳政令(とくせいれい)。当然のごとく、商人は次からは金をかさなくなるので、武士の経済問題が先送りされただけであった。


  • 積み金(つみきん)
江戸では、緊急時のために、金(かね)を貯金していく積み立て(つみたて)をした。
  • 寛政異学の禁(かんせいいがく の きん)
幕府の儒学を教える学校では、儒学の一派である朱子学(しゅしがく)のほかは教えられなくなった。

儒学の派(は)には、朱子学の他にも陽明学(ようめいがく)などがある。 朱子学が正式な儒学である正学(せいがく)とされ、陽明学などのほかの派の儒学は異学(いがく)とされた。


しかし、この改革では倹約を強制し、さらに学問の統制、思想の統制などを行ったり、借金帳消しをさせたため、産業や文化が停滞(ていたい)し、人々の反発がつよまり、定信は6年ほどで失脚(しっきゃく)した。

狂歌には、「白河(しらかわ)の 清き(きよき)に魚(さかな)の 住(す)みかねて もとの濁り(にごり)の 田沼(たぬま)こいしき」とも、うたわれました。 「世の中に 蚊ほど うるさき ものは(わ)なし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねむれず」とも、うたわれました。



  • 発展的事項: ききんの根本的な原因
天明の飢饉(ききん)の理由は、冷害が理由の一つですが、それだけが飢饉の理由では無いようです。よく、以下のような他の理由が考えられている。
・根本的な理由は、藩の財政難?
身分が固定されてるので、政治が実情に合わなくなる。 → そのため、藩は財政難になる。 → 財政難をしのぐため、米などの食料を江戸などに売ってしまっていた。 → 農村で飢饉が発生。


田沼の批判される商業を重んじた政策も、ほんらいの目的は幕府の財政難への対策である。
財政難の根本的な原因は、幕府の仕組みそのものが社会に合わなくなっていたことが原因なのだが、政治家たちは、幕府の政治家であるという立場上の理由で、幕府そのものの改革には手をつけられなかった。
江戸時代のなかばの人口は、信長たちの戦国時代よりも、信長や秀吉の安土桃山時代よりも、2倍ちかくも人口が増えている。もはや江戸時代はじめごろの仕組みでは、社会の実体に合わないのであろう。


「商人による米の買い占めが悪い」と、ときどき言われるが、商人は売り物である米を買っただけです。べつに、米をぬすんだわけでは、ありません。商人に米を売る人が、いたわけです。現金が必要で、商人に米を売った人がいるわけです。
商人からすれば金をだして米を買ってきたのですから、買値よりも高く米を売らないと利益が出なくなり、商人が失業(しつぎょう)してしまいます。


・どうも貨幣経済で、農民の支出が増加して貧しくなっているらしい。
・藩が財政難だと、現金収入をかせぐために米を江戸などの都市に売ってしまっていた。江戸などの都市では、農村よりも高い米価で米が売れるので。
・そもそも米は熱帯性の作物であり、品種改良がされてきたとは言え、冷害に合いやすい。アワやヒエなどの雑穀は、米よりも冷害に強いが、米のほうが高く売れるので、米作にこだわった。

(発展的事項、「ききんの根本的な原因」、おわり。)


外国船の出没(しゅつぼつ)[編集]

ロシアのラクスマン
ロシアのレザノフ

ロシアは勢力(せいりょく)を 千島(ちしま) や 樺太(からふと) に のばしていました。 1778年に、ロシアが蝦夷地(えぞち)の厚岸(あっけし)に来て、日本の松前藩(まつまえはん)に通商をもとめましたが、ことわられました。

寛政の改革のころの18世紀後半に、ヨーロッパやアメリカなど欧米では政治改革や産業の近代化がおこり、そのため欧米の国力が強まって、アジアへ進出してきました。このため日本の近くの海にも、欧米の船が出没しはじめます。

蘭学を学んでいた林子平(はやし しへい)は、書物の『海国兵団』(かいこくへいだん)を1791年に記し、日本は海岸をまもる必要性を人々にときましたが、幕府には世間をさわがせるものだとして林子平は処罰されてしまいます。

しかし、子平の言う通りへの状況(じょうきょう)に、このあとの時代は動いていくのです。

ロシアは、1792年に日本に貿易の通商(つうしょう)を求めるため日本に人を送り、根室(ねむろ、北海道)にロシア人の軍人(ぐんじん)の ラクスマン( ロシア語:Лаксман、英語: Laxman ) がきました。しかし、そもそも外交交渉は日本では長崎で行なうことになっているので、根室での通商の要求は、日本に断られました。日本側は、つぎの交渉では長崎で交渉するようにロシアに伝えます。 (※ レザノフやラクスマンの英語表記やロシア語表記は、小学生・中学生・高校生は、おぼえなくて良い。)


1804年にはロシア人の外交官(がいこうかん)のレザノフ( ロシア語: Резанов , 英語:Rezanov ) が日本の長崎に来て通商の要求をしますが、幕府は、ことわります。

幕府は、北方の海岸の警備(けいび)に力をいれます。また、間宮林蔵(まみや りんぞう)などに千島や樺太の探検を命じます。 また、伊能忠敬(いのう ただたか)に、蝦夷地(えぞち、北海道)を測量させた。


レザノフの1804よりもさかのぼって、1796年にはイギリスが日本に来ていた。

イギリスのフェートン号

1808年にはイギリスの軍艦(ぐんかん)のフェートン号が対立しているオランダ船をとらえるために長崎に侵入し、オランダ商館員を人質(ひとじち)にする事件があった。イギリス側は、薪水(しんすい、「たきぎ」と水のこと)と食料を要求し、これを得たのち、日本から退去(たいきょ)した。これを フェートン号事件(フェートンごう じけん) と言います。


1825年に異国船打払令(いこくせん うちはらいれい)を出した。


天保(てんぽう)のききん[編集]

将軍・家斉(いえなり)のとき。

全国的なききん。ききんで死者の大きい地域は東北や北陸だけでなく、関東や、大阪などの西日本をふくむ。 大阪は、この時代の商業の中心地である。その大阪で被害が出てるのだから、すごい飢饉(ききん)なわけである。

幕府や藩には、まずしい人を救うだけの財政的なゆとりがなかった。関東も、ききんの被害が大きく、幕府には、財政的な余裕(よゆう)がない。

幕府が、江戸での打ち壊しをふせぐため、江戸に米をあつめるため、大阪町奉行などに米を買い占めさせた。

このようなことから、幕府に対して反乱が起きる。

大阪の町奉行所の元・役人の大石平八郎(おおしお へいはちろう)が、町奉行に貧民の救済を申し出たが、町奉行に聞き入れられず、その上、大阪で買い占めた米を江戸に送っているという有様(ありさま)だった。

1837年 大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろう の らん)

ついに1837年に反乱を起こしたのが、大塩平八郎だ。商人の家を大砲でおそったりした。

乱は一日ほどで、しずめられた。


しかし、大塩の乱が世間の人々の心に与えた影響は大きい。


これから、各地で、一揆や打ち壊しが、ふえてきた。


水野忠邦の政治[編集]

水野忠邦(みずのただくに)

1841年に、老中に水野忠邦(みずの ただくに)がつき、対策をとった。水野忠邦の政策を天保の改革という。手本は、松平定信の寛政の改革が、水野の手本であった。

水野の政策では、財政を立て直すため倹約令(けんやくれい)を出した。

物の値段が上がった原因を、水野は株仲間による独占が原因だろうと考え、株仲間(かぶなかま)を解散させた。

だが、物価の上がった本当の理由は、その時代に貨幣の質を下げられて発行されていたのが原因であり、このため、物価の引下げの効果は、ほとんどなく、株仲間の解散は失敗に終わった。


  • 発展的事項: 政策の分析
物価の上昇について、似たような貨幣の質の下がったことによる物価の上昇は、すでに5代将軍の綱吉の時代にもあった。
貨幣の質を下げても、すぐには物価が上がらないから、一時的には財政が豊かになったように見える。
天保の改革は、「改革」というと、なんとなく新しい政策をイメージしがちだが、やっていることは、すでにある吉宗の享保の改革や、松平定信の寛政の改革などに似ていて、水野の政策に目新しいことは少ない。株仲間の解散を命じたぐらいが目新しい改革である。

(発展的事項、「政策の分析」、おわり。)


天保の改革は、他にも、以下の内容がある。

・ 農村から人が流出し、江戸に人が出てきたので、農村にかえすための人返しの令(ひとがえしのれい)を出した。

・ 江戸と大阪を幕府の領地にしようとして上地令(あげちれい)を出したが、多くの大名などに反対され失敗した。


天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、幕府そのものも人々からの信用が下がっていった。

江戸時代の学問[編集]

  • 儒学(じゅがく)

徳川家康をはじめとして幕府は、幕府を保ちつづけるには儒学(じゅがく)などの道徳的な学問が必要だと考え、武士に儒学を学ばせた。

儒学では、平和に必要なのは、忠義の大切さや、子の親への忠孝の大切さなど、上下関係にもとづく忠孝や礼儀が、社会の平和に必要だと考えられていた。

このように上下関係にもとづき平和を求めるという儒学の内容が、幕府の士農工商などの身分差別の制度にも都合が良かったので、儒学が武士に学ぶべきとされる学問になった。

儒学の中でも、朱子学(しゅしがく)と言われる学問は、とくに上下関係による礼節を重んじていたので、幕府は朱子学こそ儒学の中でも学ぶべき学問と定めていき、朱子学が武士の学ぶべき学問とされた。

5代将軍の綱吉のころ、幕府は武士に儒学を学ばせる学校を江戸に開き、 昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ) を開いた。ほかの藩も、武士の教育のため、藩校(はんこう)を開いた。


  • 教育
寺子屋の、ようす。

百姓や町民などの庶民は、「読み」(日本語の読み)、「書き」(日本語の習字)、「そろばん」(算数のこと)などを寺子屋(てらこや)で学んだ。

当時の外国では、読み書きの出来る庶民は少なく、世界各国の中でも、日本は文字を読める人が多い国であった。

また、貸本屋(かしほんや)などの書店も、増えていった。

  • 儒学以外の学問

いっぽう、ヨーロッパの政治や道徳や宗教などに関する学問は、日本の社会をまどわし日本を混乱におとしいれる危険な学問であるだろう、というふうなことが江戸幕府に考えられており、西洋の政治に関する学問の多くは禁止をされ、西洋道徳を学ぶことも禁止された。

日本の古典や歴史を学ぶことは幕府は認めていた。なので、たとえば万葉集(まんようしゅう)などの古典や、古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)などの歴史を学んだり研究する者もあらわれた。


  • 蘭学(らんがく)

ヨーロッパの医学や農学や科学技術など、キリスト教や政治道徳に関係の無い学問を学ぶことは、江戸時代のなかばの18世紀はじめごろ、8代将軍・徳川吉宗の改革などにより、西洋の科学技術などの研究が認められていった。 当時はオランダ語を通して西洋の科学を学んでいたので、ヨーロッパから取り入れた学問のことを蘭学(らんがく)と言った。蘭とはオランダのことです。 吉宗は青木昆陽(あおき こんよう)にオランダ語の研究をさせた。青木昆陽はサツマイモの栽培を広めた。


  • 医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳(ほんやく)
『解体新書』。扉絵は底本『ターヘル・アナトミア』の扉絵とはまったく異なっている。
『ターヘル・アナトミア』(複製)。

18世紀のおわりごろ、オランダの医学書が日本語へと訳(やく)された。翻訳書(ほんやくしょ)を出したのは、小浜藩(おばまはん、今でいう福井県)の医者の杉田玄白(すぎた げんぱく)と、中津藩(なかつはん、今でいう大分県)の医者の前野良沢(まえの りょうたく)の二人がかりである。

杉田たちは、オランダの医学書を見て、人体の内蔵(ないぞう)の解剖図(かいぼうず)が、とても正確に書かれていることに、おどろいた、と言われています。そして、日本の医学が、ヨーロッパよりも遅れている(おくれている)ことに、杉田たちは気づき、ヨーロッパの医学書の翻訳を決意しました。

杉田と前野の協力により、オランダ語で書かれた医学書の『ターヘル・アナトミア』(オランダ語:Ontleedkundige tafelen「オントレートクンディヘ・ターフェレン」)が日本語に訳され、翻訳版(ほんやくばん)が『解体新書』(かいたいしんしょ)として出されたのである。

杉田玄白(すぎたげんぱく

これが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書になった。


翻訳の当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書は無くて、たいへんに時間がかかり、オランダ医学書の「ウェインブラーウ(まゆ)は、目の上に生えている毛である。」というような一文でさえ、翻訳するのに1日かかったといいます。翻訳本の出来上がるまでには4年ほどの年月がかかった。

まだオランダ語に対応する日本語が無い言葉もあって、「神経」(しんけい)・「軟骨」(なんこつ)・「動脈」(どうみゃく)・「盲腸」(もうちょう)・「十二指腸」(じゅうにしちょう)などの言葉は、この翻訳のときに前野と杉田が考えた言葉である。

ついでに杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを書いた本である『蘭学事始』(らんがくことはじめ)という本を記した。

ちなみにオランダの医学書のターヘル・アナトミアそのものが、じつは、ドイツの医学書の翻訳本である。

杉田玄白らの翻訳(ほんやく)のときの苦労話が、『蘭学事始』(らんがく ことはじめ)という本に書かれている。


  • 国学(こくがく)

江戸時代のなかばごろから、儒教や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきて、このような学問を 国学(こくがく) という。

本居宣長

賀茂真淵(かものまぶち)の弟子の本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の研究を行い、本居宣長(もとおり のりなが)は『古事記伝』(こじきでん)を記し、国学を高めた。 宣長の研究は『古事記』のほかにもあって、平安時代の紫式部の『源氏物語』についても研究している。

国学の、そもそものきっかけは、もっと前の時代に、さかのぼる。 4代将軍の徳川家綱(いえつな)の時代の1650年台のころに水戸藩の藩主であった徳川光圀(とくがわ みつくに)は、日本史の研究を人々に勧め(すすめ)させた。その歴史研究にともなって、万葉集などの古典も研究された。

光圀の命令により、僧の契沖(けいちゅう)が万葉集を研究し、つぎのようなことに気づいていった。


学者たちの古典研究の結果、学者たちから、儒教や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきて、のちに国学(こくがく) へと発展していく。

つまり、国学の発展にともない、儒学にもとづいた古典研究への疑い(うたがい)が、ふえてきた。

「 『万葉集』や『古事記』などの日本の古典の内容を研究するときに、外国の国の文化である儒教や仏教だけの道徳にもとづいて研究するのは、おかしくないか? 」

「そもそも儒学は中国という外国の学問じゃないか? 仏教だって、中国から伝わったインドの宗教だ。日本古来の宗教ではない。」

「中国の古典を研究するときに、中国の儒教の立場から考えてみるのなら、まだ分かる。」

「しかし、なぜ日本の研究で、しかも平民にまだ儒教や仏教が伝わってない時代の『万葉集』や『古事記』の研究で、儒教や仏教の考えにもとづいてばかりの研究しか、儒学者は研究しないのか? おかしくないか?」

「日本古来の伝統とは、儒学にもとづいてではなく、その古代の道徳を解き明かして、研究するべきだろう?  日本の古典文化を研究するときは、儒教にとらわれない立場で日本古来の古典や文化の研究をするべきだろうと思う。」


以上のような考えが、国学の考え方である。

万葉集の研究を命じられた契沖(けいちゅう)は万葉集を研究し『万葉代匠記』(まんようだいしょうき)を記して1690年に出来あがった。研究を命じた光圀は、のちに日本史の歴史書の『大日本史』(だいにほんし)を記した。


もっとも、国学のきっかけである徳川光国は、儒学を信望してた。また、『万葉代匠記』を表した契沖も、仏教の僧侶である。

この契沖の研究を、さらに発展させたのが、後の時代(吉宗のころ)の荷田春満(かだの あずままろ)であり、さらに荷田春満の弟子の賀茂真淵(かものまぶち)が研究を受け継いだ。

さらに、のちの時代(10代将軍家治(いえはる)のころ)に、本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の解読(かいどく)と研究を行い、以上に述べたように国学をより発展させた。本居宣長は賀茂真淵(かものまぶち)の弟子である。

  • 科学技術
平賀源内(ひらがげんない)
平賀源内作のエレキテルの複製(ふくせい)。国立科学博物館の展示。

平賀源内(ひらがげんない)が発電機(はつでんき)のエレキテルを作った。エレキテルでの発電の仕組みは、摩擦(まさつ)によって発電する仕組みである。平賀源内は、ほかにも、寒暖計(かんだんけい)を日本で初めて作っている。

伊能忠敬を描いている切手、1995年発行の切手
  • 測量(そくりょう)
江戸時代の測量(そくりょう)のようす

伊能忠敬(いのう ただたか)は、日本全国を地図をつくるために細かく調べる測量(そくりょう)する旅をして、正確な日本地図である『大日本沿海輿地全図』(だいにほんえんかい よちぜんず)を作った。


  • 数学

江戸時代のはじめごろ、4代将軍・家綱、5代・将軍綱吉あたりのころ、関孝和(せき たかかず)が数学を研究しており、たとえば円周率の計算を、かなり正確に研究していた。関の数学研究は当時としては世界的にも高度な研究をしていたが、日本が鎖国をしていたので外国に伝わらなかった。 鎖国化の江戸時代での、日本の数学研究は和算(わさん)と言われる。

江戸時代の文化[編集]

江戸時代の前半の文化[編集]

江戸時代の文化は、江戸時代はじめごろは大阪や京都を中心に発展した。江戸の半ば頃から文化の中心が江戸に移っていった。

ちなみに、江戸時代はじめ頃の大阪や京都を中心とした文化を 元禄文化(げんろくぶんか) と言う。元禄とは、この時代の元号が元禄(げんろく)なので。


  • 俳句

5・7・5の口調で季節の様子を句にする俳句(はいく)は、松尾芭蕉(まつお ばしょう)によって生み出さえた。俳句は連歌が、もとになっている。

芭蕉は、

「古池(ふるいけ)や 蛙(かわず)飛びこむ 水(みず)の音(おと)」

など多くの句を作りました。


また芭蕉は諸国を旅して、その観察した諸国の様子を『奥の細道』(おくの ほそみち)にまとめた。


  • 絵画
『見返り美人図』 菱川師宣の筆。

絵画では、描かれる対象が町人や女性などのようすになり、それらの絵を版画(はんが)を利用して印刷する浮世絵(うきよえ)が、絵描きの菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)によって広まりました。


絵画では浮世絵の他にも、装飾画の分野で尾形光琳(おがた こうりん)が活躍しました。

浮世絵は、貿易をとおして外国にも紹介され、ゴッホなどの西洋の画家にも影響をあたえた。


  • 人形浄瑠璃

物語を、三味線などを伴奏にしてリズミカルに節をつけて、あやつり人形をうごかしながら語るという人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)が元禄期の大阪や京都で、はやりました。

近松門左衛門

人形浄瑠璃の脚本家である近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)が有名で、近松の作品には『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)や『国性爺合戦』(こくせんや かっせん)などがあります。


  • 文芸

町人の生活をえがきた小説が好まれるようになった。町人など、庶民の様子をえがいた小説を 浮世草子(うきよぞうし) という。大阪の小説家の井原西鶴(いはらさいかく)が『日本永代蔵』(にほねいたいぐら)や『世間胸算用』(せけん むねさんよう)などを表した。


元禄文化のさかえた大阪は、商業のさかんな都市であり、町人の気風がつよく影響している。


江戸時代後半の文化[編集]

江戸時代の後半になると、文化は、江戸の町人が中心になった。この江戸時代後半の江戸を中心とした文化を 化生文化(かせいぶんか) という。


  • 小説

作家の十辺舎一九(じゅぺんしゃ いっく)が東海道の旅行のようすを、おもしろおかしく書いて『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅう ひざくりげ)を書いた。

滝沢馬琴(たきざわばきん)が『南総里見八犬伝』(なんそうさとみ はっけんでん)を書いた。

俳句は、与謝蕪村(よさ ぶそん)や小林一茶(こばやし いっさ)が発展させた。

「雀の子(すずえのこ) そこのこ そこのけ お馬(おうま)が通る(とおる)」(小林一茶の句)


  • 絵画

鈴木晴信が版画の多色刷りの方法である 錦絵(にしきえ) を開発し、そのため、化生文化では浮世絵が大流行して、多くの絵描き(えかき)が出た。

喜多川歌麿(きたがわ うたまろ) :美人画(びじんが)で有名。

安藤広重(あんどう ひろしげ) :風景画で有名。

葛飾北斎(かつしか ほくさい) :風景画で有名。作品に『富嶽三十六景』(ふがく さんじゅうろっけい)など。

『富嶽三十六景』より、一部を紹介。

役者絵。東洲斎写楽の筆。

東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく) :役者絵(やくしゃえ)で有名で歌舞伎(かぶきやくしゃ)役者などを描いた。


このほか、各地の特産品や工芸品などが、江戸時代全般(ぜんぱん)を通して発展していきました。

江戸時代の北海道と沖縄[編集]

  • 北海道
シャクシャイン像(新ひだか町 真歌公園)

江戸時代、北海道は「えぞ」とよばれており、アイヌ民族が住んでいました。

現代では、この北海道のいくつかの民族をまとめて、アイヌ民族と呼んでいます。

アイヌは、松前藩(まつまえはん)と貿易をさせられていました。 アイヌの人が持ってくるサケやコンブを、わずかな米などと交換していたといいます。

このような不公平な貿易におこったアイヌの人たちが、17世紀の中ごろ、反乱を起こしました。シャクシャインという人物を中心に反乱を起こしました。


  • 琉球王国(りゅうきゅう おうこく)

江戸時代、沖縄は「琉球」(りゅうきゅう)という王国でした。

江戸時代の初めごろ、17世紀に、琉球王国は薩摩藩によって支配されました。そして、薩摩藩によって、琉球は年貢を取られるようになりました。

薩摩藩は、以前から琉球が行っていた中国との貿易をつづけさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。

開国(かいこく)と戊辰戦争(ぼしんせんそう)[編集]

外国船の出没(しゅつぼつ)[編集]

ロシアのラクスマン
ロシアのレザノフ

ロシアは勢力(せいりょく)を 千島(ちしま) や 樺太(からふと) にのばしていました。 1778年に、ロシアが蝦夷地(えぞち)の厚岸(あっけし)に来て、日本の松前藩(まつまえはん)に通商をもとめましたが、ことわられました。

寛政の改革のころの18世紀後半に、ヨーロッパやアメリカなど欧米では政治改革や産業の近代化がおこり、そのため欧米の国力が強まって、アジアへ進出してきました。このため日本の近くの海にも、欧米の船が出没しはじめます。

蘭学を学んでいた林子平(はやし しへい)は、書物の『海国兵団』(かいこくへいだん)を1791年に記し、日本は海岸をまもる必要性を人々にときましたが、幕府には世間をさわがせるものだとして林子平は処罰されてしまいます。

しかし、子平の言う通りへの状況(じょうきょう)に、このあとの時代は動いていくのです。

ロシアは、1792年に日本に貿易の通商(つうしょう)を求めるため日本に人を送り、根室(ねむろ、北海道)にロシア人の軍人(ぐんじん)の ラクスマン( ロシア語:Лаксман、英語: Laxman ) がきました。しかし、そもそも外交交渉は日本では長崎で行なうことになっているので、根室での通商の要求は、日本に断られました。日本側は、つぎの交渉では長崎で交渉するようにロシアに伝えます。 (※ レザノフやラクスマンの英語表記やロシア語表記は、小学生・中学生・高校生は、おぼえなくて良い。)


1804年にはロシア人の外交官(がいこうかん)のレザノフ( ロシア語: Резанов , 英語:Rezanov ) が日本の長崎に来て通商の要求をしますが、幕府は、ことわります。

幕府は、北方の海岸の警備(けいび)に力をいれます。また、間宮林蔵(まみやりんぞう)などに千島や樺太の探検を命じます。 また、伊能忠敬(いのうただたか)に、蝦夷地(えぞち、北海道)を測量させた。


レザノフの1804よりもさかのぼって、1796年にはイギリスが日本に来ていた。

イギリスのフェートン号

1808年にはイギリスの軍艦(ぐんかん)のフェートン号が対立しているオランダ船をとらえるために長崎に侵入し、オランダ商館員を人質(ひとじち)にする事件があった。イギリス側は、薪水(しんすい、「たきぎ」と水のこと)と食料を要求し、これを得たのち、日本から退去(たいきょ)した。これを フェートン号事件(フェートンごう じけん) と言います。


1825年に異国船打払令(いこくせん うちはらいれい)を出した。

ヨーロッパのアジア侵略(しんりゃく)[編集]

(※ 発展的分野です。
世界史(せかいし)的な内容になるので、小学校では教わらないのが、ふつうです。ですが、この節であつかう「アヘン戦争」は、中学校では確実にならうほどの、歴史的な重要事項です。読者に時間の余裕(よゆう)があったら、お読み下さい。)

日本が鎖国していたころ、ヨーロッパでは、科学技術がものすごく発達し、ヨーロッパの兵器の技術も発達していった。 19世紀のころ、産業の近代化などで国力をつけていたヨーロッパ諸国は、アジアとの貿易のしかたを変えるようになった。結論から分かりやすく言うと、ヨーロッパによるアジアへの侵略が始まっていった。

もっと、くわしく説明すると、つぎのような説明になる。 日本では戦国時代ごろだった16世紀ごろは、ヨーロッパは、貿易相手のアジアの国とは、あまり戦いをしなかった。だが、そのあと、ヨーロッパの近代化でヨーロッパの国力が強まったことで、ヨーロッパはアジアに対しても侵略的になっていく。

(アフリカや南米では、ヨーロッパは、すでに侵略的だった。)

たとえば、直接、アジアと戦争をして領土を獲得して、領地で現地のアジア人を安い値段で働かせ農産物などを生産して、本国のヨーロッパに産物を輸出するようになった。 また、ヨーロッパの武力を背景に、戦争で負かしたアジア諸国の国政に干渉するようになった。

  • イギリスのインド支配

1800年台のはじめごろ、イギリスはインドに進出していました。イギリスの支配は、だんだんと強まっていきます。イギリスに対する大きな反乱が、1857年には、おきました。(「セポイの乱」と言います。) ですが、イギリスは反乱を武力で平定し、そのあと、イギリスの支配をますますつよめ、インドを支配下におきました。


  • イギリスのアヘン戦争(アヘンせんそう)
アヘン戦争(アヘンせんそう)で、イギリス海軍の軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵

インドでの大反乱より昔になるが、1830年ごろ、イギリスはインドを中継として清(しん)と貿易をしていました。

イギリスは、あまり輸出品が清には売れず、そのいっぽうで、清からは茶(ちゃ)などを多く輸入していました。このため、イギリスから支払いのための銀が多く流出しました。この銀の流出をいやがったイギリスが、貿易でかせごうと、支配していたインドで麻薬(まやく)のアヘンをつくり、アヘンを清にこっそりと輸出します。

このため、清には多くの麻薬中毒者(まやくちゅうどくしゃ)が出てきて、また、支払いのための銀が清から流出していきました。

清が、アヘンの輸入を取り締まり始めます。すると、イギリスは貿易の自由を口実にして、戦争を1840年にしかけました。これがアヘン戦争(アヘンせんそう)です。イギリスの海軍の軍艦で、清の船を破壊するなどして、清はなすすべがなくなり、戦争はイギリスの勝利でした。

戦争に負けた清は、不利な条約である 南京条約(ナンキンじょうやく) をむすばされ、多額の賠償金(ばいしょうきん)を支払わされ、また清は香港(ホンコン)をイギリスにゆずりわたすことになってしまいました。


日本にも、清の敗戦の知らせは、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。 また、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていってるという情勢(じょうせい)に気がつく者があらわれはじめてきます。

このあと、フランスなどの他のヨーロッパの国々も、イギリスのように、武力でアジアを支配するようになっていった。


日本の幕府は、清の敗戦を知ったこともあり、異国船打払いの方針のままだと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給(ほきゅう)することをゆるしました。

黒船の来航[編集]

黒船来航
ペリー
日本の浮世絵に描かれたペリー。 嘉永7年(1854年)頃

1853年にアメリカ合衆国の4隻(よんせき)の軍艦(ぐんかん)が日本の浦賀(うらが、神奈川県の港)にあらわれ、4隻の軍艦をひきいたアメリカ人のペリー(Perry)が開国を日本に求め、アメリカ大統領からの国書を幕府に、わたしました。

当時、日本に来た4隻のアメリカの船は、色が黒かったので、黒船(くろふね)と日本の人から言われました。 アメリカの軍艦は、蒸気船(じょうきせん)と言われるもので、石炭などを燃料とした蒸気機関によって動く最新式の船であり、船の煙突からは煙がもうもうとあがっていました。この蒸気船は、それまでのロシアやオランダの船の帆船とは違い、最新式の船でした。

ペリーは日本について事前にオランダの本などから研究していたので、日本人は権力者の命令に弱いということを知っており、わざと幕府のある江戸に近い関東の浦賀に黒船で、やってきたのです。当時の日本では、長崎が外国との外交の窓口でしたが、ペリー達はまったく長崎に行こうとはせず、幕府と直接に交渉をしようとする態度(たいど)です。


このようなアメリカの船と、ペリーの態度を見て、日本人はおどろきました。とりあえずペリーに、返事を出すまで時間がかかるので、一年後に、もう一度、日本に来てもらうように、たのみました。


黒船の来航のときの幕府の様子をからかった狂歌も歌われました。

泰平(たいへい)の 眠り(ねむり)をさます じょうきせん たった四はい(しはい)で 夜(よる)も眠れず

という狂歌です。

「じょうきせん」の意味には、蒸気船と、宇治(うじ)の高級茶の上喜撰(じょうきせん)が、ダジャレで、かけられています。


幕府は、事態(じたい)を重く考え、朝廷にも報告をして、諸国の大名にも相談をしました。相談のあいては、外様大名もふくみます。


いっぽう、アメリカが日本に開国をせまった目的は、燃料や水の補給(ほきゅう)を日本でおこなうために立ち寄りたいよいう理由が、主な目的でした。当時のアメリカは、中国大陸の清(しん)と貿易をおこなっていたり、太平洋で捕鯨(読み:「ほげい」・・・、意味:「クジラとり」のこと)を行っていたので、日本で補給が出来ると都合が良かったのです。

そして1年後の1854年に、ペリーがふたたび、日本に来ました。1854年の交渉では、もはや幕府はアメリカの開国要求をことわりきれず、ついに日本は開国をします。 日本とアメリカとの間で条約がむすばれ、日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)が結ばれ(むすばれ)ました。

「条約」とは、国とほかの国とのあいだの、国どうしの約束のことです。日本とアメリカ(米国、べいこく)とのあいだの条約なので、「日米和親条約」という名前になっているわけです。

この日米和親条約により、下田(しもだ、静岡県にある)と函館(はこだて、北海道)が開港され、アメリカ船に燃料や水・食料などを補給することが決まりました。また、下田にアメリカの領事館(りょうじかん)がおかれました。


ハリス
井伊直弼(いい なおすけ)

アメリカの総領事(そうりょうじ)のハリス(Harris)は、幕府に対して、日本とアメリカとの貿易を求めた。

この日米和親条約を結ぶ前のときに、ハリスが交渉相手の日本にした説得(せっとく)の内容(ないよう)は、次のような内容です。ハリス本人の日記によると、「イギリスなどの戦争をためらわない外国から、不利な開国の要求を日本がおしつけらて、戦争をしかけられる前に、アメリカと開国の条約を結んだほうが安全である」とハリス本人の日記には書かれています。この時代、アメリカだけでなくイギリスなどのヨーロッパ諸国も蒸気機関によって、強力な海軍力を手にしていたのです。

ハリスは、次のように幕府の人を説得したと言っています。「もしヨーロッパの国が日本に戦争をしかけたら、日本は負けることになる。運よく、戦争にならなくても、ヨーロッパ諸国は軍事力でおどして、日本に不利な条約をおしつけるだろう。そうなれば、日本の民衆は、あなたたち幕府を見はなし、日本の力は弱まるだろう。しかし、わたしたちアメリカは、平和に日本と貿易しようとしている。ヨーロッパ諸国から不利な条約をおしつけられる前に、先にアメリカと日本とアメリカがおたがいに有利な条約をむすんでしまえば、ヨーロッパも日本に文句をつけられなくなる。交渉によって結ぶ条約と、戦争に負けておしつけられる条約とでは、その内容に大きな違い(ちがい)がある。どのみち、いつかは日本も開国をしないといけない。ならば、今こそ、その開国のときであろう。」というような説得を日本にしたとハリスは言っています。

すでに幕府は、オランダなどからの情報で、「清(しん)がアヘン戦争に負けて、イギリスから不利な条約を清はおしつけられている」という国際情勢を幕府も知っていました。幕府は、日本が欧米との戦争になり、日本が侵略されることを恐れていました。そのアヘン戦争のことを、ハリスも日本に言ってるわけです。

ヨーロッパの国によってアヘン戦争のような戦争を日本がしかけられてしまい、日本が不利な条約をおしつけられるよりも前に、さきにアメリカと日本とのあいだで平和な条約をむすんでしまいましょう、・・・という事です。


さらに、アメリカとの条約を1858年に幕府の大老の井伊直弼(いい なおすけ)は結びました。こうして、日米修好通商条約(にちべい しゅうこう つうしょう じょうやく)が結ばれます。しかし、この条約は朝廷の許可をとらないまま、結ばれた条約でした。


さて、また幕府は、イギリス・オランダ・ロシア・フランスとも、同様の貿易の条約を、結びました。これを、安政の五カ国条約(あんせいの ごかこくじょうやく)と言います。

幕府の井伊直弼による条約締結は、日本を欧米の侵略から守ろうとする考えのものでしたが、当時の庶民の多くは、まだ、欧米の強大な軍事力を知らず、幕府の態度は、臆病者(おくびょうもの)だと思われていました。

また、開国に反対の主張をしていた諸藩の武士たちを、幕府は弾圧していき捕らえて処刑などの処罰をしていきます。この鎖国派への弾圧を「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と言います。

桜田門。

のちの1860年、直弼は江戸城の桜田門(さくらだもん)の近くを通っていたときに、「安政の大獄」による弾圧に反対をしていた浪士(ろうし)によって、暗殺されてしまいます。この、井伊直弼が死んだ暗殺事件を「桜田門外の変」(さくらだもんがいの へん)と言います。


  • 不平等条約(ふびょうどう じょうやく)

日米修好通商条約の内容は、日本にとって不利な内容で、不平等な条約でした。

アメリカ人の治外法権(ちがい ほうけん)
日本国内で外国人が犯罪をおかしても、日本の法律では処罰(しょばつ)できませんでした。

この、アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを治外法権(ちがい ほうけん、英語:Extraterritoriality)と言います。領事裁判権(りょうじ さいばんけん)とも言います。

日本に関税自主権(かんぜい じしゅけん)が無い。
日本への輸入品に、税をかける権利が、日本には、ありませんでした。輸入品にかける税を関税(かんぜい)と言い、国が関税を自由に決まる権利を関税自主権(かんぜい じしゅけん)と言います。日本には、関税自主権がありませんでした。


  • 開国による経済の変化
輸出品として、生糸(きいと)や茶が輸出されたので、それらの産業が発展しました。
国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出し過ぎたり、買い占めなどが起こったからです。貿易をしていない米や麦の値段も上がりました。
貿易によって、日本の金が流出しました。このため、幕府は金貨の質を下げたので、ますます物価は上がりました。

このような品不足や物価の上昇などにより、庶民のくらしは苦しくなっていきました。そのため 一揆(いっき) や 打ち壊し が起きました。


庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきます。


世間から、外国を打ちはらおうとする考えが出てき始めます。このような、外国を打払いしようという考えを攘夷(じょうい)と言い、攘夷の主張を攘夷論(じょういろん)と言います。

攘夷論にくわわり、世間では、国学などの影響(えいきょう)もあって、朝廷や天皇を盛り上げて、敬おう(うやまおう)という、尊王論(そんのうろん)が出てきます。

尊王論と攘夷論が加わり、尊皇攘夷論(そんのうじょういろん)という、組み合わせた考えが出てきました。(のちに、尊皇攘夷論は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への批判にかわり、やがて幕府を倒そうという運動へと変わっていきます。)


薩摩藩と長州藩は攘夷の実力行使に出ましたが、外国に負けました。

・薩英戦争(さつえい せんそう)

1862年に関東の生麦(なまむぎ、神奈川県にある)で、薩摩藩の大名行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が斬り殺すという生麦事件(なまむぎ じけん)が起こりました。イギリスからの犯人の処罰要求を薩摩藩が受け入れなかったので、翌年の1863年にイギリスは薩摩藩と戦争をしました。これが薩英戦争(さつえい せんそう)です。この戦争で薩摩は負け、大きな被害を受け、薩摩はイギリスの実力を知ることになり、薩摩は攘夷論をあきらめることになりました。

戦後、薩摩では政治の方針を攘夷から切り替え、イギリスなどから制度を学んだりして、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。


・長州藩(ちょうしゅうはん)の下関戦争(しものせきせんそう)

欧米の連合艦隊の兵隊に占拠された下関の砲台
1863年に、下関海峡を通る外国船に、長州藩が、いきなり砲撃を始めました。翌年、外国の連合艦隊(れんごうかんたい)、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ国からなる連合軍により反撃を受け、下関の砲台を占拠され、長州は負けました。

長州は、攘夷論のマチガイに気づき、改革を進めていきます。下級武士であった高杉晋作や木戸孝允・伊藤博文らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていきます。


このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な尊皇攘夷運動はマチガイだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府を倒す必要があるという考えが高まりました。幕府を倒す、つまり、倒幕(とうばく)をする必要がある、という気運が薩摩や長州を中心に高まってきました。


  • 薩長同盟(さっちょう どうめい)
坂本竜馬(さかもと りょうま)

薩摩と長州は、過去の歴史的な関係から、両者は対立をしていました。薩摩藩も長州藩も、どちらとも近代的な軍隊を持ち幕府を倒そうとする改革を目指していたのに、両者は対立していました。 しかし、1866年に、土佐藩の坂本竜馬(さかもと りょうま)が両藩の仲立ちをして同盟を結ばせ、薩摩藩と長州藩との同名である薩長同盟(さっちょう どうめい)が1866年に結ばれました。

幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府の征伐は失敗に終わりました。


イギリスが薩摩や長州の支援をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の改革をしていました。

  • 大政奉還(たいせいほうかん)
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)

幕府の15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、1867年に政権を朝廷にかえしました。土佐の藩主の山内豊信(やまのうち とよしげ)などが慶喜に朝廷に政権を返すことを助言しました。

この出来事のことを、つまり徳川幕府が朝廷に政権を返したことを大政奉還(たいせい ほうかん)と言います。

こうして、江戸幕府の約260年の時代は終わりました。

倒幕派は、幕府の再興をきらったので、政治を古来の天皇中心の政治にもどそうとして、王政復古の大号令(おうせいふっこの だいごうれい)を出した。

戊辰戦争(ぼしん せんそう)[編集]

戊辰戦争(ぼしん せんそう)
  • 鳥羽伏見の戦い(とばふしみ の たたかい)

慶喜は、新政府から領地の一部を国に返すように命じら、また慶喜は政治への参加が認められなかった。旧幕府はこれに反発し、京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で戦い1868年に起こし、旧幕府軍と新政府軍との戦いになった。この戦いを、鳥羽・伏見の戦い(とばふしみ の たたかい)と言う。この鳥羽伏見の戦いで幕府軍はやぶれた。

  • 江戸城の無血開城(むけつ かいじょう)
西郷隆盛(さいごう たかもり)の想像図。エドアルド・キヨッソーネ作の版画(西郷の親戚を参考に想像で描写)
勝海舟(かつ かいしゅう)

新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍をやぶり、西郷隆盛ひきいる新政府軍は江戸へと進み、江戸城を戦わずにして開城(かいじょう)させた。無血開城(むけつかいじょう)という。江戸城の開城の交渉では、倒幕派の西郷隆盛(さいごう たかもり)が、幕府の勝海舟(かつ かいしゅう)とが話し合った。


  • 東北の平定と、北海道の平定

会津藩(あいづはん、今でいう福島県)は、江戸城の開城を不服とし、新政府軍とは対立した。また、東北の諸藩も、会津を支援した。江戸をおさえた新政府軍は北上し、会津藩の城を次々と落としていき平定していった。

五稜郭(ごりょうかく)の空中写真(1976年、国土航空写真)
五稜郭(ごりょうかく)

旧幕府軍は、会津の他にもいたので、新政府軍は、さらに北上し、新政府軍は1869年に北海道の函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)にたてこもった幕府軍をやぶり、榎本武明(えのもと たけあき)らのひきいる旧幕府軍は負けをみとめ降伏(こうふく)した。この江戸の北上から五稜郭までの一連の戦争を戊辰戦争(ぼしんせんそう)という。

戊辰戦争が終わり、新政府軍は日本国内を平定した。

明治維新と自由民権運動[編集]

西洋に学べ

明治天皇(めいじ てんのう)

いっぽう、戊辰戦争のころ、新政府は大名などに対して政治の方針をしめすため、五箇条の御誓文(ごかじょう の ごせいもん)を、明治天皇(めいじてんのう)より出させた。

内容は、現代風に訳すと・・・

・政治は、会議で広く意見を聞いて政治を行う。
原文 :広く(ひろく)会議(かいぎ)を興し(おこし)、万機公論(ばんき こうろん)に決す(けっす)べし。
・身分の上下によらず、みんなで心を合わせて、政治や仕事を行っていく。
原文 :上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
・みんなの願いを実現するようにしよう。
原文 :官武(かんぶ)一途(いっと)庶民にいたるまで、おのおのその志(こころざし)を遂げ(とげ)、人心(じんしん)をして倦(う)まざらしめんことを要す。
・昔からの、わるいしきたりは、やめよう。
原文 :旧来(きゅうらい)の陋習(ろうしゅう)を破り、天地(てんち)の公道(こうどう)に基づく(もとづく)べし。
・知識を外国からも学んでいって、日本国を発展させていこう。
原文 :智識(ちしき)を世界に求め、大いに(おおいに)皇基(こうき)を振起(しんき)すべし。

このように、あたらしい日本の政治では、なるべく日本国民みんなで政治を行おう、という政治を行う方針であることを、大名などに示した(しめした)。


庶民に向けては五榜の掲示(ごぼうのけいじ)を出したが、内容はキリスト教を禁止したり、一揆を禁止したりと、江戸時代と変わらない内容であった。キリスト教の禁止については、外国からの反発により、1873年には解禁になった。

五榜の掲示の原文は、長いので原文紹介は省略する。


1868年、新政府は「江戸」(えど)の地名を「東京」(とうきょう)に改めた。年号を「明治」(めいじ)に、あらためた。1869年に、新政府は東京を首都にした。明治天皇は京都から東京にうつった。

年号が明治の時代を明治時代(めいじ じだい)という。 幕末から明治時代はじめごろに行われる一連の改革を明治維新(めいじ いしん)という。


江戸幕府が無くなったあとも、藩の領地は大名がおさめつづけていた。新政府は1869年に、大名のおさめていた藩の領地を国にかえさせました。これを版籍奉還(はんせきほうかん)という。

1871年には、明治政府は、藩をやめさせて、かわりに県・府をおきました。府知事(ふちじ)や県令(けんれい)には政府の任命した人間がつきました。

これを廃藩置県(はいはん ちけん)と言います。


江戸時代の身分制度はなくなり、農民や町民は平民になりました。平民は、江戸時代とは違い、職業や済む場所は変われるようになりました。苗字を平民も持てるようになりました。

武士は士族(しぞく)と変わりました。公家と大名は華族(かぞく)となりました。

また、えた・ひにんなどの差別をされていた人たちも平民としてあつかう、解放令(かいほうれい)が出された。


武士は、江戸時代に持っていた特権を失いました。


富国強兵(ふこくきょうへい)[編集]

軍制の改革[編集]

政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年に徴兵令(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年の間、兵士になる兵役(へいえき)の義務を課した。この徴兵制は、江戸時代の武士だけに軍事が独占されていた時代とちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされた。

江戸時代は、武器を持てるのは武士だけの特権だった。このため、徴兵制によって軍事の特権のなくなった士族からは不満があった。また、農村などの平民からも、労働力をうばわれるので、農村からの不満があった。

政府の徴兵制を主導者は、江戸時代の武士のような個人的な武芸にたよる戦闘では、近代的な兵器をあやつる戦闘では勝てないことを知っていて、このため徴兵制を導入した。

ただし、徴兵制には、当初は免除規定がいくつかあって、一家の主(あるじ)や、長男や、徴兵のかわりに代金を払った者などは徴兵を免除された。だが、のちに免除規定は廃止され1889年には、ほぼ全ての20才以上男子が徴兵された。


地租改正(ちそかいせい)[編集]

江戸時代の税は米など農産物であり、農作物の不作・凶作などによって税の収入がへるので、政府にとっては不安定な制度であった。 このため、政府は税の制度をあらため、地主に現金で税をおさめさせるようにしました。土地にかかる税の金額は、土地の値段の3%と決められ、この地価の3%を土地の税である「地租」(ちそ)として地主が現金ではらう制度になりました。土地の値段を「地価」(ちか)と言います。つまり、地主のおさめる地租(ちそ)の金額は、地価(ちか)の3%の金額になりました。

この制度の前提として、土地を個人が所有できるように、土地の制度が、すでに改正されていました。また、農地に、何を作付けするかは、農地の所有者の自由になっていました。

この改正の結果、地域によっては税の負担が増えた地域もあり、一揆が起きた地域もあった。のちの1877年には地租の税率(ぜいりつ)が引き下げられ、3%から2.5%へと税率が引き下げられました。


国家の近代化や、軍隊の近代化には、これまでに説明した改革の他にも改革が必要であり、多くの改革がなされた。

  • 官営工場(かんえい こうじょう)
当時の富岡製糸場(とみおか せいしじょう)

工業の近代化も必要であった。 政府みずから経営する官営(かんえい)の工場を建てた。機械は外国から買った。工場労働者を育成する技師は、外国から、よんできた。 群馬県の富岡製糸場(とみおか せいしじょう)が、官営の工場として有名。富岡製糸場では、フランスから技師を、まねいた。富岡製糸場の働き手には、女性が全国から、あつめられた。


このような政府の経営する工場を、官営工場(かんえい こうじょう)と言う。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させたので、官営模範工場(かんえい もはんこうじょう)とも言う。「模範」(もはん)とは手本という言う意味。

富岡製紙場で生産された絹は、欧米にも輸出され、「トミオカ=シルク」(Tomioka Silk)などとよばれた。


  • 義務教育(ぎむきょういく)

1872年に、義務教育を国民に受けさせるため、学制(がくせい)を出した。学制の内容は、6才以上の男女に義務教育を受けさせるという内容であった。 しかし、学校の建設費の負担や授業料の負担が大きいので反発があり、また当時の子供は働き手であったので労働力を取られることからも反発があった。 このような理由で就学率(しゅうがくりつ)は低く、実際に学校に通ったのは、一部の子であった。 (就学率とは、学校に通っている者の割合のこと。)

明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%の就学率になっていった。


義務教育の制度は、欧米を手本にした制度であり、主にフランスを手本にしている。フランスの制度が、日本にあわない部分もあったので、のちにアメリカの教育制度を取り入れた教育令(きょういくれい)を1879年に出した。


フランスでの義務教育の始めの歴史について言えば、フランスでの民主主義を目指す革命が1789年に起きたきっかけであった。革命によって民主化したフランスは、周辺国の民主化していない国からは危険な国と思われており対立していた。フランスはドイツなどの周辺国と戦うために、軍を発展させる必要があり、そのためには工業の発展や、国民の教育が必要であった。

工業を発展させるにも教育を受けた学力の高い労働者が多く必要である。また、軍隊を近代化させるにも、もしも兵士が読み書きをできないと、軍の近代化が出来ない。

このようにして教育を受けたフランスの軍はとても強く、また国家に対する忠誠心も高かった。周辺の国の兵士は領主や国王のための戦争をさせられていたが、いっぽうのフランス兵は自らの国の民主主義を守るために戦争にいった。フランスと戦争をした周辺国のドイツなどは、勇敢(ゆうかん)なフランス軍に苦戦をした。

フランス以外の国にも以前から教育制度はあったが、戦争でのフランスの強さを知り、ヨーロッパ諸国はフランスを手本に教育を改革していった。

明治政府の指導者たちは、このような教育の歴史を知っており、日本の近代化のため、フランスを手本にしたのであろう。


学校の教科に関して言えば、理科が教えられるようになった。『小学人身窮理』(しょうがく じんしん きゅうり)などの教科書が使われた。(江戸時代の子供への教育は「読み・書き・そろばん」だった。)「窮理」(きゅうり)とは自然法則を学ぼう、という意味である。

また、算数の教育が始まり、漢数字をもちいていた和算にかわり、現在の小学校の算数でならうようなアラビア数字をもちいた洋算(ようさん)が始まった。『筆算題叢』(ひっさんだいそう)などの教科書が使われた。

外国の歴史や地理についても教えられるようになり、ヨーロッパの歴史や地理についても教え始め、教科書として『万国地誌略』(ばんこくちしりゃく)や『万国史略』(ばんこくしりゃく)などの教科書が作られ始めた。

図画などの美術などの教育も始まり、『小学普通画学本』(しょうがっこう つうがどくほん)が使われた。

体育や家庭科などの教科も作られ、それらの教科書が作られた。



  • 『学問のすすめ』
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)。明治20年(1887年)頃の肖像

西洋の学問を学習する熱が高まっていき、それに応ずる思想も現れた。

国を発展させるには、国民の一人ひとりが自分の頭で物事の善悪などを考えられるようになる必要があり、

「一身(いっしん)独立(どくりつ)して、一国(いっこく)独立(どくりつ)する」

と、福沢は『学問のすヽめ』(がくもんのすすめ)という本を書いて主張した。

また、物事をきちんと考えられるようになるためには、きちんとした内容の本などを読み、学問をするのが良いことを述べた。

福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は『学問のすすめ』を出版し、勉強をしないと、単純な仕事しかできないので地位のひくい仕事にしかつけずに貧しい生活しか出来なくなる、というふうなことを福沢は説いた。

※ 『学問のすすめ』は、民衆の平等の理想をもとめた本では、ありません。
『学問のすすめ』は、勉強をしないと安い賃金(ちんぎん)の仕事にしかつけないので、貧しく(まずしく)なり不平等な目にあう、と説いた本です。もし「民主主義」という言葉をつかって本の内容を説明するならば、民主主義では学問をしないと貧しくなる、と説いた本です。


まず、福沢は『学問のすすめ』の出だし(でだし)の冒頭(ぼうとう)の文では、

「天(てん)は 人(ひと)の上(うえ)に 人を造らず(つくらず) 人の下(した)に 人を造らず と いへり」

という文があり、 人は生まれながらにして平等である、という内容である、アメリカ合衆国の建国(けんこく)した当時の独立宣言(どくりつせんげん)の内容を紹介した。


そのうえで、現実の社会は、理想とはちがって不平等であることを福沢は説明した。

冒頭文のしばらくあとには、きびしい現実を紹介した説明が続いている。現代語に訳して紹介すると、

「けれども世の中を見渡すと、かしこい人と愚かな人、貧しい人と金持ちの人、身分の高い人と低い人とがある。
その原因は何だろう?
原因は明らかだ。
学問を勉強したかどうかの差だ。

かしこい人と愚かな人との差は、学ぶと学ばざるとによって出来る。」


福沢は民主主義(みんしゅしゅぎ)を紹介し、そのゆえ、政府の能力の高さは国民の能力の高さによって決まると説き、そのため国民は学問を学んで自らの知識を高めなければならない、と説いた。 もし、国民が馬鹿だったら、民主主義の国では政府も馬鹿になってしまう、と福沢は説き、これからの時代は、政治が悪くなっても政治家だけの無能(むのう)ではなく、国民にも学問をしなかったという無能の責任がある、と注意をした。


そして福沢は、『学問のすすめ』や、他の本などで、実学や、算数や理科や地理学などの大切さをとなえた。 いっぽうで古文や漢文などの文学だけを学問とみなそうとする態度の学者を、福沢は批判した。 学問は、なるべく世の中の役に立てるべきである、というふうなことを、福沢は説いた。

学校教科書には、福沢は「人は生まれながら平等である」と主張したなどと書かれているが[1]、これまでの説明を読めば分かるように、学校教科書の説明は、正確には、まちがいである。 (※ 教科書をかばうなら、教科書には字数の制限があるので、説明しきれないことが多いのである。)

このように、与えられた学校教科書だけしか勉強しようとしない者とか、受験参考書だけしか勉強しようとしない者は、文部省や学校などに都合がいい、うその情報を与えられることになる。

だから、現在の世の中でも、自分から学問をするべきなのだろう。

文明開化(ぶんめい かいか)[編集]

明治のはじめごろ、政府はちょんまげをやめてもよいという許可を人々に出し、散髪脱刀例(さんぱつだっとう)を1871年に出した。:「ざんぎり頭を たたいてみれば 文明開化の音がする」などと、ちまたで言われていた。

また、1876年には、刀を持ち歩くのをやめさせるように廃刀令(はいとうれい)が出された。


東京や横浜、大阪などの大きな町には、ガス灯がつきはじめた。牛肉や豚肉などをたべる習慣がでてきて、牛肉屋や洋食屋が出てきた。江戸時代は、仏教の関係で牛や豚などの4本足の動物の肉を食べるのが禁止されていた。

いっぽう、地方の村のようすは、江戸時代と、さほど変わらない様子だった。


  • 郵便(ゆうびん)

飛脚に変わり、1871年に郵便制度が出来た。前島密(まえじまひそか)らによって、郵便の制度が、ととのえられた。数年後には、全国一律の料金制度ができた。


  • 鉄道

1872年には、新橋(しんばし)・横浜(よこはま)間に、日本で最初の鉄道が開通した。


  • 新聞・雑誌の発行

活版印刷の技術は幕末の頃より輸入されていた。明治になって、出版活動がさかんになった。 1870年には、日本で新聞(しんぶん)が最初に出始め、日刊(にっかん)の「横浜毎日新聞」(よこはままいにちしんぶん)が発行された。そのあと、次々とあたらしい新聞が発行されていった。


  • 暦(こよみ)

暦(こよみ)では、江戸までの太陰暦(たいいんれき)をやめて、明治からは太陽暦(たいようれき)に切りかわった。 一週間を7日にすることが決まり、一日が24時間と決まり、日曜日が休日と決まりました。


征韓論(せいかんろん)[編集]

日本は開国したが、隣国の朝鮮は開国した日本を、欧米の圧力(あつりょく)に負けた格下(かくした)の国の日本とみなし、日本との国交を朝鮮は中止した。

日本の政府の中には、アジアの近代化のためには、日本の軍事力を背景にして強引(ごういん)にでも朝鮮を開国させるべき、という征韓論(せいかんろん)という考えがあり、板垣退助(いたがき たいすけ)や江藤心平(えとう しんぺい)が主張していた。

また西郷隆盛(さいごう たかもり)が、みずからが交渉役となって、朝鮮と平和に交渉をすることを西郷は提案していた。

欧米の視察から帰国した大久保利通は、朝鮮の早急な開国には反対し、交渉が失敗した場合の日本の安全を考え、早急な朝鮮の開国を目指している西郷や板垣の提案に、大久保利通など政府メンバーの多くは反対した。 大久保の考えは、対外政策をいそぐよりも、まずは国内の近代化をすすめ国力をたくわえるべき、というような考えであった。


このような経緯から、板垣と西郷と江藤は、政府を去った。


いっぽう、西郷が政府をさったのと同じころ、士族の間では政府の対して不満が高まっていた。さまざまな改革により武士の特権が剥奪されていったからである。 1874年ごろから九州の各地で、士族による反乱が起きた。1874年に江藤心平らが佐賀で反乱をおこしたが、政府軍によって、鎮圧(ちんあつ)された。江藤は死刑になった。

西南戦争での、田原坂(たばるざか)の戦い。左が官軍、右が西郷軍(「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯(こばやし えいたく)画、明治10年3月)。

ほかにも、反乱がおき、このような不平士族たちの指導者として、西郷隆盛がかつぎだされた。西郷も、その不平士族とともに、1877年に大規模な反乱が鹿児島で起きた。この鹿児島での西郷ひきいる反乱が西南戦争(せいなんせんそう)である。

だが、政府軍が勝ち、西郷たち反乱軍は負けた。

西南戦争の以降、士族の反乱は、なくなった。

日本の初めての軍歌である『抜刀隊』(ばっとうたい)の歌詞は、この西南戦争の様子をうたったものであり、西郷軍による切り込み攻撃と、対する警視隊の抜刀隊との戦いを歌ったものであり、その歌詞に、お雇い外国人であるフランス人作曲家のシャルル・ルルーが曲をつけた歌である。


板垣退助(いたがき たいすけ)。1880年ごろ(44才ごろ)

いっぽう、征韓論にやぶれて政府を去っていた板垣退助(いたがき たいすけ)らは、西南戦争の前から、言論活動によって、政府への批判を主張した。

1874年に、板垣は、政府に対しての求めで、選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう民選議院(みんせんぎいん)を、すぐに設立するように求め、民選議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつ の けんぱくしょ)を政府に提出しました。 当時の日本の政治には、まだ選挙の制度が無かったので、薩摩藩や長州藩の出身者など明治維新に影響力のあった藩の出身者たちから成りたつ(なりたつ)、少数の政治家によって政治が決まっていた藩閥政治(はんばつ せいじ)だったのです。

この民選議院の設立の要求のように、国民が政治に参加できる社会をもとめる運動を自由民権運動(じゆう みんけんうんどう)と言います。自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動だったが、しだいに農民や商工業者などにも支持をされていきます。

しかし、1881年のときには、まだ、国会をひらくために必要になる、憲法(けんぽう)などの法律がありませんでした。憲法とは、その国の法律をつくるさいの基本となる考え方を定めたり、法律をつくるときの決まりごとや、国会の決まりごとなどを定めた法律です。

国会の決まり事をきめた法律すら、まだ出来てないので、まだ民撰議院をひらくことが出来ません。

このような理由もあり、政府は、すぐには民選議院を開かず、10年以内に国会(こっかい)を開くことを国民に約束した 国会設立の詔(こっかいせつりつ の みことのり) を1881年にだしました。そして、10年後の1890年に、ついに国会が開かれました。

この1890年の国会の開設にそなえて、政府は、議会制度に必要になる憲法(けんぽう、英語:Constitution コンスティチューション)を作りました。


明治時代の日本国の憲法を、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこく けんぽう)と言います。現代(2014年に本文を記述)の「日本国憲法」とは、べつの法律です。また、この憲法のあとのころから日本の国名の言いかたで「日本」のほかに「大日本帝国」(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく)という言いかたも、されるようになりました。

伊藤博文(いとう ひろぶみ)
ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein)

明治政府は、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らを、ヨーロッパの憲法を調べさせるためヨーロッパに送り、イギリスの法学者スペンサーや伊藤はドイツの有名な法律学者のグナイストから学び、またオーストリアの法律学者のシュタインから憲法学のほか軍事学や教育学などさまざまな学問を学びました。

※ かつて昭和のころ、「伊藤博文はドイツ憲法を手本にした」という学説が主流だったが、どうも、その学説は、やや事実(じじつ)と、ちがうらしい。最新の歴史研究によると、伊藤が学んだスペンサー(イギリスの法学者)が、伊藤に「日本が憲法をつくるなら、日本の伝統にもとづいたものにするのがよい」などというような内容のアドバイスをしており、べつに伊藤は手本をドイツだけにかぎったのではないようである事などが、現代では分かってる。(※ 参考文献: 山川出版社『大学の日本史 教養から考える日本史へ 4近代』 、2016年第1版)

スペンサー(イギリスの法学者のひとり)などは、もし日本が憲法をつくるなら、欧米の憲法の文章をまねるだけではダメであり、日本の国の歴史や文化にあっている憲法を考えて作るべき必要があるということを教えました。また、伊藤は、シュタインから、憲法をまなんだほか、さらにシュタインから軍事学や教育学、はたまた統計学や衛生学など、さまざまな学問を伊藤博文は学びました。

そして、伊藤は帰国後、ドイツの憲法やアメリカ憲法など、欧米のさまざまな国の憲法を手本にして、 大日本帝国憲法を作りました。

 大日本帝国憲法の主な内容 (現代語訳)

第1条 大日本帝国は、永久につづく同じ家系の天皇が治める。
第3条 天皇は神のように尊い(とうとい)。
第5条 天皇は議会の協力で法律をつくる。
第11条 天皇が陸海軍を統率(とうそつ)する。
第29条 国民は、法律の範囲(はんい)内で、言論・集会および結社(けっしゃ)の自由を持つ。

伊藤は、日本の憲法の、天皇についての条文は、ドイツが日本と同じように皇帝をもっているので、ドイツの憲法を手本にするのが良いだろう、と考えたようです。

なお、イギリスには、じつは、文章でかかれた憲法典がありません。


大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。 つまり、日本を統治するのは、藩閥ではなく、華族でもなく、天皇である、ということである。


また、憲法では、軍隊は天皇(てんのう)が統率(とうそつ)するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。 つまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。 このように軍隊を統率する権限を 統帥権(とうすいけん) と言います。天皇が統帥権(とうすいけん)を持っています。

外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。


国民の権利は、法律の範囲内での自由や権利が、保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利とくらべたら、当時の権利は国民にとっては制限の多いものであった。


国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。

大日本帝国憲法は1889年に、明治天皇から国民に発布(はっぷ)されます。「発布」とは、法律などを人々に広く知らせる、という意味です。

国民にとっては制限の有る項目が多いものの、大日本帝国憲法は、アジアの国では初めての憲法となった。 そして、日本は憲法を持ち憲法にもとづいた政治を行う立憲国家(りっけんこっか)となった。

新憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。 イギリスのある新聞では新憲法は高く評価され、「東洋の地で、周到な準備の末に議会制の憲法が成立したのは何か夢のような話だ。これは偉大な試みだ」と報じられた。


  • 議会

憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための選挙が行われた。つづいて国会である帝国議会(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。

議会の議院(ぎいん)は衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)との2つの議院からなる二院制(にいんせい)であった。選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。いっぽうの貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。

衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税(15円以上。)が必要で、実際に選挙が出来たのは人口の1%ほどに過ぎなかった。

また、満25才以上の男子に選挙権が限られた。


現在(西暦2014年に記述)の日本のような20才以上の日本人なら誰でも選挙権のある普通選挙(ふつうせんきょ)とはちがい、この明治時代の選挙のような制限事項の多い選挙のしかたを「制限選挙」(せいげんせんきょ)と言います。


ドイツ有名な法律学者のイェーリングは日本の憲法や議会制度を高く評価しました。とくに、議会を両院に分けたことを高く評価した。


  • 発展的事項:大津事件(おおつ じけん)
ニコライ皇太子。1891年、長崎に訪問時のニコライ皇太子(左の車上の人物がニコライ。)

1891年、ロシアの皇太子のニコライ2世(ロシア語: Николай II, ラテン文字表記: Nicholai II)が日本を訪問し、日本政府はニコライを接待していた。当時の日本は近代化したばかりの小国であり、いっぽう、ロシアは大国であった。

皇太子ニコライが滋賀県の大津町(おおつちょう、現在:大津市)を訪問中に、警備の仕事だったはずの日本人の巡査の一人にサーベルで切りつけられるという事件が、起きた。

犯人は、その場で取り押さえられ、捕まった。

事件の、あまりの重大さに、明治天皇が緊急にニコライ皇太子を見舞う事態となった。


この事件で、日本の政府はロシアの報復(ほうふく)をおそれて、犯人を死刑にするように要求した。

児島惟謙(こじま これかた)

しかし、当時の最高裁判所である大審院(だいしんいん)の院長である児島惟謙(こじま これかた)は、日本の刑法の法律にもとづくと、この場合は死刑は不可能であると主張し、無期懲役(むきちょうえき)にするべきと主張とした。


政府は、なやんだ。法律をまもるべきなのか? それともロシアに報復されないようにして国の安全をまもるべきなのか?

国の安全も大事だが、かと言って、もし法律にしたがわずに死刑にしたら、欧米は、それを理由にして、「日本は法律を守れない国だ」として、欧米が日本を侵略するさいの口実をあたえてしまい、かえって国の安全を、危険(きけん)にしてしまう。

日本の政府にとって、なやましい事件であった。

日本の新聞などの世論は、これに注目した。日本だけでなく、欧米も、この事件の判決に関心をもった。


結局、日本の裁判所は、法律にしたがって、犯人を無期懲役にすることに決まった。

日本の法律にもとづいた判決は、当時の欧米からも日本の近代化の進展ぶりを示すもの、というふうに高く評価をされた。

朝鮮との国交[編集]

1871年に日本は清国と条約を結び、日清修好条規(にっしん しゅうこうじょうき)がむすばれた。 5年後の1876年には朝鮮との国交の条約である日朝修好条規(にっちょう しゅうこうじょうき)がむすばれた。 この条約によって、日本と朝鮮との貿易も始まった。

日本の軍事力を背景に不平等な条約を朝鮮におしつけた条約であった。また、この条約で、日本は朝鮮を独立国として見なすことになった。当時の朝鮮は、清国に朝貢をしていた清の属国であったが、日本は今後は朝鮮を清の属国としてではなく、朝鮮を独立国としてみなして、朝鮮と交渉していくことになった。 このため、朝鮮を属国とみなしていた清国とは、しだいに日本は対立をしていった。

この条約の前年1875年に、日本の軍艦が朝鮮から砲撃を受けた事件である江華島事件(こうかとう じけん)があり、この事件の原因は朝鮮の近くで無断で測量を行った日本に落ち度があったが、日本はこの事件の被害をもとに交渉を有利にすすめた。


発展的事項 朝鮮の改革の失敗

(覚えなくてもいい。) 日本との条約が不平等であったものの、朝鮮も改革の必要性はみとめており、朝鮮の軍の改革のため、日本からの支援を受けた。

だが朝鮮の改革は軍事の改革にとどまり、朝鮮政府は議会など民主的な改革はしなかった。


それから、朝鮮の政府では、日本を手本にして朝鮮も民主的な改革をしていこうという派閥の独立党(どくりつとう)と、清との関係を維持するために改革に反対する事大党(じだいとう)とが、対立しました。


1882年には改革に反対する守旧派の軍人らによる暴動がおきました。

金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)
閔妃(びんひ)とされた写真

1884年には改革派の政治家である金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)によって、改革をすすめようとしない王妃(おうひ)である閔氏(びんし)から政権をうばおうとする事件の甲申事変(こうしんじへん)がおきましたが、失敗しました。清の軍隊により鎮圧されました。


当時の清の軍の兵器は、ヨーロッパから銃器などの兵器を買っており、清は軍事力の強い国だった。日本政府は清との戦争をおそれ、金玉均をあまり支援しなかった。

いずれの事件とも、清の軍隊により鎮圧されたことで、朝鮮での日本の影響力は弱まりました。


甲申事変に失敗した金玉均は、日本に逃げ、福沢諭吉などから支援を受けます。

日本では、民主化をしようとしない朝鮮や、その朝鮮を支援しようとする清に対して、民主化をしようとしない周辺国を見捨てるべきという考えが日本で広まり、新聞に書かれた論説の『脱亜論』(だつあろん)が広まった。


金玉均は、のちに政治活動のため清の上海(シャンハイ)に出かけたときに、朝鮮政府から送られた暗殺者の洪鐘宇(ホン・ジョンウ)の撃ったピストルで金玉均は暗殺された。


金玉均の死体は、朝鮮の漢城(かんじょう)でさらしものにされ、日本人の民衆の怒りをかった。

日清戦争と日露戦争[編集]

日清戦争[編集]

東学党の乱(とうがくとう の らん)[編集]

朝鮮では、改革の負担や開国の負担は、農民にまわされた。税は重税になり、農民は貧困になった。このような状況によって、朝鮮の政権や開国への不満が農民たちに高まり、大規模な反乱が1894年に起きた。

減税や、腐敗した役人の追放や、日本をふくむ外国の排除を求める反乱である、甲午農民戦争(こうご のうみん せんそう)が1894年に起きたのである。

この反乱を起こした農民たちの多くが、「東学」という宗教団体を信じていたので、この反乱を、東学党の乱(とうがくとうの らん)とも言う。キリスト教を「西学」(せいがく)としており、その西学に関して、東洋の伝統的な価値観を「東学」と、いっていた。


反乱は大規模であり、いっぽう朝鮮政府はわずかな兵力しか持っていなかったので、清に鎮圧のための軍の派遣をたのんだ。

日本も、事前の天津条約(てんしん じょうやく)による清との取り決めにしたがって、朝鮮半島に反乱鎮圧や居留民(きょりゅうみん)の保護などのための日本軍を出兵した。

やがて反乱がおさまったが、日本・清の両国とも兵をひかなかった。 日本・清の両国とも、朝鮮での自国の影響力が弱まることをおそれたのである。 やがて両国は対立が深まっていき、ついに日本と清との戦争が起きた。


日清戦争のころの風刺画(ふうしが)。フランス人のビゴー筆。「魚釣り遊び」(Une partie de pêche
魚(=朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア

これが日清戦争(にっしんせんそう)が1894年に始まる、きっかけである。 戦争は、日本の勝利で翌年1895年に終わった。

清は軍事力の高い強国だと思われていたのですが、戦争が始まってみると、陸戦でも海戦でも日本の勝利でした。 日進戦争の前の清は「眠れる獅子」(ねむれる しし)と諸外国から恐れられていました。獅子とはライオンのことです。


清もヨーロッパから優れた兵器を買っていました。けっして武器が劣っていたわけだけではありません。とくに清の海軍の持つ軍艦である「定遠」(ていえん)と「鎮遠」(ちんえん)の2つの船は、ドイツのフルカン造船所に注文して作ってもらった最新式の軍艦でしたが、清の海軍は日本の海軍に負けてしまいました。(兵器の生産国については覚えなくてもいいです。)清国の政府では、欧米の兵器の技術などをとりいれる運動をおこなっていました。この運動を「洋務運動」(ようむ うんどう)と言います。しかし、欧米の議会制度などは取り入れませんでした。「中体西用」(ちゅうたい せいよう)と言って、技術だけを西洋から取り入れ、政治のしくみは、昔からの中国のやり方をつづけようとしました。


なお、日本の兵器に関しては、日本はイギリスやフランスから軍艦を買っていました。 イギリスのアームストロング社に注文して作ってもらった「浪速」(なにわ)や「高千穂」(たかちほ)などを日本は持っていました。(兵器の生産国については覚えなくてもいい。)

イギリスは、ロシアの東アジアでの勢力が強まることをおそれ、日本に協力的だったのです。


「日清戦争」の名前が、「日清」戦争なので、よく、まちがわれやすいのですが、べつに清を侵略しようとした戦争ではありません。 そもそも戦争前の清国は軍事力がとても強い国である、と世界から思われていました。なので、日本は簡単には清を侵略できません。 また、欧米が清での利権をあらそっており、日本は簡単には清を侵略できません。


清国も、日本と同様に兵器の技術を欧米から取り入れていた。にもかかわらず、日清戦争では、日本が大きく勝利した。

辮髪(べんぱつ)

この日清戦争のあと、中国大陸では、清の民族(みんぞく)である満州族(まんしゅうぞく)に対する反発が、だんだんと強まっていきます。じつは、もともと、中国では満州族に対する不満が大きかったのです。清の王朝は、満州族の王朝でした。満州族が、漢民族(かんみんぞく)などのおさめていた中国を侵略してつくった王朝が清(しん)です。満州族は、漢民族を支配しました。

漢民族たちは、満州族の支配を、不満に感じていました。 満州族は、自分たちの風習を漢民族にも、むりやり、やらせました。たとえば満州族の男は、髪型が辮髪(べんぱつ)という、髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編み(みつあみ)にし、後ろにたらした髪型なのですが、漢民族の男にも、これをやらせました。ほかにも、いろんなことで、漢民族は、満州族のやりかたに、したがわせられました。


なので、日清戦争は、民族で見れば、日本人と満州族との戦争です。漢民族との戦争では、ありません。

下関条約[編集]
遼東半島の位置
下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権

1895年、日清戦争の講和条約として、首相の伊藤博文や外務大臣の陸奥宗光を代表者として、下関条約(しものせきじょうやく)が日本と清とで結ばれた。内容は、以下の通り。

・ 清は、朝鮮の独立を認めること。
・ リャオトン半島(遼東半島)を日本にゆずる。
・ 台湾(たいわん)を日本にゆずる。
・ 清は、賠償金の3億円を払う。(当時の日本の財政収入の約3倍の金額であった。)

以上が、下関条約の主な内容である。

朝鮮が清の属国でなくなり、朝鮮が独立国となったことにより、朝鮮は国名を「大韓帝国」(だいかん ていこく)に1897年に変更しました。(「大韓帝国」の国名については、小学生では、おぼえなくてもいい。) 「大韓帝国」の3文字目が「帝」であることに注意してください。

これによって、古代から東アジアでつづいていた、中国を諸国の最高権力として周辺国を属国と見る冊封体制(さくほうたいせい)は、完全(かんぜん)に、くずれました。

また、台湾が日本領になった。第二次大戦で日本が戦争に負ける1945年(昭和20年)まで、台湾は日本領である。

日清戦争後の台湾の領有によって、日本が台湾の統治を行い、日本の投資や開発によって台湾の近代化は行われていく。

三国干渉(さんごく かんしょう)[編集]

ロシアは、日本の勢力が中国にのびることで、ロシアに日本の勢力が近づくことをおそれました。 ロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本に遼東半島を清に返させる要求を出すように、日本に要求をだします。

(この時代のドイツは、清国の軍艦がドイツ製であったことからも分かるように、ドイツは清に協力的でした。)

この、ロシア・ドイツ・フランスによる、リャオトン半島を清国へと返させる要求を、三国干渉(さんごく かんしょう、 英:Triple Intervention)と言います。

日本は、三国干渉の要求にしたがい、しかたなく清国にリャオトン半島を返します。


この三国干渉にかんして、日本国内ではロシアに対する反発から、「臥薪嘗胆」(がしん しょうたん)という言葉が流行した。「臥薪嘗胆」の意味は、復讐(ふくしゅう)のために、がまんすること、と言う意味である。
臥薪嘗胆とは、中国の古い故事(こじ)に由来する熟語(じゅくご)で、漢字の意味は、
薪(たきぎ)の上で寝ることの痛みで屈辱(くつじょく)を思い出し、(= 臥薪)
にがい胆(きも)を嘗(な)めることで、屈辱を忘れないようにする(嘗胆)、ということである。


さて、清が戦争に負けたことで、清が弱いことがヨーロッパに知られると、ヨーロッパは清に対して強気の交渉に出て、清から多くの利権を手に入れます。

やがて、ロシアがリャオトン半島を借りる権利を清から手に入れ、ロシア風の建物が立ち並んでいったりと、まるでリャオトン半島がロシアの領土のようになっていきます。

イギリスやドイツ・フランスも、清から土地の権利などの利権を手に入れていきます。


  • 義和団の乱(ぎわだん の らん)

このようなことから、清の民衆のあいだに、ヨーロッパに対して反発する感情が高まっていきます。 1899年には、義和団(ぎわだん)という宗教団体が欧米の勢力をしりぞけようとする暴動(ぼうどう)を起こします。この暴動を 義和団の乱(ぎわだん の らん) と言います。義和団は、「扶清滅洋」(ふしん めつよう)という言葉を、運動の標語にしていました。「扶清滅洋」の 意味は、「清朝をたすけて、西洋をほろぼせ」という意味です。

清の政府は、この乱を支援します。清国政府は、欧米に対して宣戦布告(せんせん ふこく)をします。

連合軍の兵士。左から、イギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本。イギリス領インドがふくまれてるので9人いる。

欧米は、日本をふくむ8カ国からなる連合軍を派遣し、義和団と清国軍と戦い、乱をしずめます。

なお、連合軍は、イギリス・ドイツ・ロシア・日本・アメリカ・フランス・イタリア・オーストリアの8カ国の軍隊からなります。「オーストリア」は、南半球に有る「オーストラリア」ではなく、ヨーロッパに有る「オーストリア」ですので、まちがえないようにしてください。


日露戦争[編集]

  • 日英同盟(にちえい どうめい)

義和団の事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にいつづけました。そして、朝鮮半島や清に勢力をひろげようとする南下政策(なんか せいさく)をロシアは目指しました。

ロシアは、冬でも凍らない港が、軍事上の理由で必要なのです。このような冬でも凍らない港のことを、不凍港(ふとうこう)と言います。 なので、ロシアは、領土を南方に拡大したいので、ロシアは南下したいのです。

いっぽう、中国大陸に利権を持つイギリスにとっては、ロシアの南下政策が不都合です。 さらに当時のロシアは、ロシア国内で東西に長いシベリア鉄道(シベリアてつどう)を建設していました。もしシベリア鉄道が完成すると、軍隊の兵士や軍事物資も、すばやく送れるようになるので、イギリスにとっては、ロシアはとても危険な国でした。

そこでイギリスは、ロシアの南下政策に対抗するため、日本とイギリスとのあいだでの同盟を1902年に結びます。この日本とイギリスの同盟を、日英同盟(にちえい どうめい、英語: Anglo-Japanese Alliance アングロ-ジャパニーズ・アライアンス)と言います。


遼東半島にあった旅順(りょじゅん)では、ロシアが軍艦の基地を増設していた。

義和団の乱の地陰圧の名目でロシアは満洲へ、満州を占領した。 義和団の乱の収束後も、ロシアは満州から撤兵しなかった。

日本・イギリス・アメリカの3カ国がロシアに抗議(こうぎ)して、ロシアは兵を引くことを約束した。だが、じっさいにはロシアは兵をひかずにいつづけた。それどころか、ロシアは占領軍の増強をした。

ロシアの強硬な方針に、イギリスは危機感を感じた。そして、イギリスは、日本と同盟をした。これが日英同盟である。

ロシアの勢力の拡大を恐れ、日本の政府は戦争を決意していった。いっぽうのロシアの政府も、大国であるロシアとすれば小国にすぎない日本を恐れる必要はなく、なので日本との戦争もかまわないという強硬な姿勢をロシアは強めていった。

  • 日露戦争(にちろ せんそう)

1904年、日本は開戦にふみきった。

戦場になった場所は、朝鮮半島の周辺の海域と、満州の陸上および海域であった。

陸地での戦場では、旅順や奉天(ほうてん)での戦いで、日本は苦戦のすえ、ロシアに勝った。 旅順の攻略では乃木希典(のぎ まれすけ)が日本軍をひきいた。奉天の戦いでは大山巌(おおやま いわお)が日本軍をひきいた。

ロシア艦隊は対馬近海で連合艦隊と遭遇し、日本海南西部で撃破された。

日本海海戦では、海軍中将(ちゅうじょう)の東郷平八郎(とうごう へいはちろう)ひきいる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊をやぶった。

勝敗の結果だけを見ると日本の大勝のように見えるが、日本は大きく戦力を消耗しており、また、軍事費を使いきっていた。日本は、戦争の続行がむずかしかった。


いっぽうのロシアでも政府に反対する革命の動きがおきはじめ、ロシア政府は戦争をつづけることが、むずかしくなった。


そこで日本は状況が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカにロシアとの講和の仲立ちをしてもらって、講和条約であるポーツマス条約(英語: Portsmouth Treaty)がむすばれ、日本とロシアは講話して戦争は終わった。

小村寿太郎(こむら じゅたろう)

アメリカ大統領のルーズベルト(Roosevelt)が仲立ちになり、日本の代表は外相(がいしょう、意味:外交の大臣のこと)の小村寿太郎(こむら じゅたろう)であった。ロシアの代表はヴィッテ(Витте)である。

条約の結果、日本は朝鮮での優越権を認められた。

日本は、南満州の鉄道の権利を、えた。 日本は、ロシアから樺太の南半分の領土を日本へゆずらせた。 日本は、ロシアから、旅順・大連をふくむリャオトン半島南端部の租借権(そしゃくけん)を、日本へ譲らせた。


日本は講和を急いだため、賠償金(ばいしょうきん)をとらなかった。このことが国民の反発を呼び、東京の日比谷(ひびや)では焼き討ち事件が起きた。国民からすれば、戦争で多くの負担をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのであった。


日露戦争の前、開戦を、多くの国民が支持した。だが、開戦に反対する意見もあった。 非戦論(ひせんろん)をとなえた人をあげれば、キリスト教徒の内村鑑三(うちむら かんぞう)や、社会主義者の幸徳秋水(こうとく しゅうすい)が有名である。

与謝野晶子(よさの あきこ)

また、歌人の与謝野晶子(よさの あきこ)は、戦場にいる弟を思いやる詩を書き、「君(きみ) 死(し)にたまふ(たもう)こと なかれ」という詩を書いた。

「 あゝ をとうとよ 君を泣く
君 死にたもふこと なかれ
末(すえ)に 生まれし 君なれば
親の なさけは まさりしも
親は 刃(やいば)を にぎらせて
人を 殺せと をしえしや
人を 殺して 死ねよとて
二十四までを そだてしや 」

(つづきがあるが、長くなるので省略。)

雑誌『明星』(みょうじょう)、明治37年(1904年)9月号『恋衣』(晶子第四歌集)所収。


与謝野晶子の詩は、当時の日本国民の多くから、反戦の気持ちを遠回しにうたった詩として、うけとめられた。

なお、現代では、与謝野晶子を反戦詩人としてあつかう説をとなえる学者や評論家がいるが、のちの第一次世界大戦や第二次世界大戦のころには、日本および戦争を支持する詩も書いていることもあり、はたして与謝野晶子が日露戦争に反戦であったかどうかについては、はっきりとした証拠がない。


韓国併合[編集]

日露戦争の勝利によって、大韓帝国でのロシアでの影響力が無くなり、韓国での日本の影響力や支配が強まる。

日本は韓国を保護国としてあつかい、朝鮮の内政や外交を指揮するため 統監府(とうかんふ) を置いた。 初代統監には伊藤博文(いとう ひろぶみ)がついた。

日本による韓国の保護国化にともない、さまざまな国家主権を韓国から接収したので、韓国の民族運動家からは日本はうらまれることになった。

そして、満州に滞在中の伊藤博文が暗殺される事件が1909年に起きる。 射殺事件の事件は、起きた年は1909年で、場所は満州のハルビンで、犯人は韓国人の民族運動家である 安重根(あんじゅうこん、朝鮮語読み:アン・ジュングン) であった。伊藤は統監として、韓国人の運動家からは恨まれる(うらまれる)立場にあった。

伊藤が死んだこともあり、日本の世論は強行になった。 そして、1910年、日本は韓国の併合を強行し、こうして大韓帝国は無くなり、朝鮮は日本領になった。 この、日本が大韓帝国を併合したことを 韓国併合(かんこくへいごう) と言う。


韓国の併合時、日本は、韓国とは、戦争を、していません。

当時の国際社会では、国力の弱い国を、周辺の強い国が保護の目的で取り込み、国どうしが併合(へいごう)することが、けっこう、あった。

この併合は対等な合併(がっぺい)ではなく、日本政府の意向に朝鮮の政治がしたがうようになった、不平等な併合であった。

現在の韓国では、この合併(がっぺい)は、日本が朝鮮を植民地(しょくみんち)にしたことだ、と主張している。

なお、殺された伊藤(いとう)は、生きてたときの考えでは、朝鮮半島を植民地にするのは反対だったという意見だったらしい、という事が、最近は有力な説である。なぜ反対だったかというと、朝鮮を日本領にすることで、韓国内の財政(ざいせい)問題など、さまざまな問題を日本がかかえこみ、日本にとって負担になるだろう、という意見だったらしい。わざわざ併合(へいごう)しなくても、韓国を保護国(ほごこく)としたままでも、日本にとって有利な政策や貿易などを行えるだろう、という感じの意見だったらしい。

伊藤は、死の直前(ちょくぜん)、自分を射撃(しゃげき)した男が朝鮮人らしいということを聞くと、「おれを撃ったり(うったり)して、馬鹿(ばか)なやつだ」と、死のまぎわに、つぶやいたという。


さて、併合により、韓国の国名は、大韓帝国が消滅したことにより、名が「朝鮮」(ちょうせん)に変わった。


なお、韓国統監府の名は、 「朝鮮総督府」(ちょうせんそうとくふ) にかわった。


朝鮮の民主化への政治改革は、日本によって断行されることとなった。たとえば、身分差別の廃止による解放は大韓帝国時代の1909年に統監府の指導のもとに行われた。

イザベラ・バード

たとえばイギリスの女性旅行家で作家のイザベラ・バード(Isabella Bird)が書いた文『朝鮮紀行』(ちょうせん きこう、Korea and Her Neighbours)には、朝鮮での日本の改革について書かれており、 「堕落(だらく)しきった朝鮮の官僚(かんりょう)制度(せいど)の浄化(じょうか)に日本は着手した」などと書かれている

その他の改革は、日本での改革を手本に、改革が行われた。

たとえば朝鮮の学校教育に関して言えば、朝鮮の学校では、日本語と朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史などが教えられるようになった。1911年には、朝鮮の学校の必修科目として朝鮮文字であるハングルが教えられるようになった。

また、工業化のための開発や投資が朝鮮に対して行われていった。 鉄道をひくなどの開発が、おこなわれた。土地調査と、土地の権利の整理も、された。

なお、この土地の権利整理のときに、一説では、朝鮮人の土地の多くが日本人にうばわれた、と主張する韓国人の学者に多い説もあるが、反対の説もあり、朝鮮人貴族などが所有していた広大な貴族の土地が庶民に与えられたという説もある。


朝鮮の工業や商業は、日本との貿易や、日本からの投資によって、近代化していった。

朝鮮の政治を改革したところで、日本は、韓国の主権をうばったことにかわりないので、じきに、朝鮮の独立運動が起こっていく。


だが、日本が独立を自主的にみとめることはなく、朝鮮が独立したのは,第二次世界大戦で日本がアメリカに1945年に負けて朝鮮半島の支配を日本うしない、アメリカおよびソビエト(現:ロシア)に朝鮮半島の支配がうつったあとであった。 なお、1948年にアメリカの支援を受けた朝鮮半島南側の大韓民国(だいかん みんこく)およびソビエト(ソビエトとは、今で言うロシアのこと)の支援を受けた朝鮮半島喜多川の北朝鮮(きたちょうせん)が、べつべつに独立することになる。


日本の占領による政策として有名な政策で、創氏改名(そうし かいめい)という、朝鮮人に日本風の名前を名乗らせた政策が有名ですが、じつは、併合直後は、まだこの政策を、おこなっていません。 創氏改名を行った年は1939年(昭和14年)であり、ずいぶんとあとの時代のことです。なので、この節では創氏改名 を解説しません。


なお、併合前の韓国が欧米と結んでいた不平等条約は、日本との併合にともない、ほとんどが消えた。 日本と韓国とのあいだにあった不平等条約も、併合にともない、ほとんどが消えた。


この韓国併合を、「植民地」政策だと批判する意見が韓国などで多いが、この韓国併合は形式的には正確に言うと、たとえば沖縄県や北海道を日本に併合した時と同じように朝鮮半島を日本に併合したという領土の拡大政策である。

たとえば長崎県に住んでいる長崎県民が日本国民であり、福岡県に住んでいる福岡県民が日本人なのと同様に、当時は朝鮮半島に住んでいる朝鮮人は併合によって日本国民になったのである。

つまり、併合後は、朝鮮半島の朝鮮人も日本人であり、朝鮮人は日本国民なのだ。 けっして、朝鮮人は「日本人ではなく朝鮮人。」ではなく,朝鮮人は「日本人であり朝鮮人である」という状態だったのだ。

琉球王国を併合して沖縄県になったからと言って、沖縄県を「植民地」という人は日本には少ないだろう。( ← 2014年に本文を記述。)

現在(2014年に本文を記述)のわれわれ人類は、韓国と北朝鮮とが第二次大戦後に日本から独立したことを知っている。北海道や沖縄が日本の国土だということも、現在の日本人は知っている。だが、当時の昔の人は、その後の未来の歴史など、知りようが無いのだ。


「植民地」という言葉じたいには、実は「開拓地」(かいたくち)とか「移住地」(いじゅうち)などと同じような意味しかない。なので、その土地の先住民が他の民族に支配されているかどうかという意味は、実は「植民地」という言葉のもともとの意味には無い。

ただし、当時の時代的に、ヨーロッパなどによるアジアやアフリカなどへの植民地があった時代なので、それと同一視したほうが説明がわかりやすいので、朝鮮を日本の植民地として分類することも日本では多い。

このヨーロッパによる「植民地」政策の、「植民地」という言葉の意味すら、じつは「植民地」と言う言葉には元々は「開拓地」(かいたくち)とか「移住地」(いじゅうち)などと同じような意味しかない。

もし併合の道義性について議論をするなら(小学校では、そこまで議論しないだろうが・・・)、意味のはっきりしない「植民地」という言葉について、朝鮮が「植民地」かどうかという議論をするよりも、併合が道義的に適切なのかどうかとか、あるいは併合後に独立運動を弾圧・規制したことが適切かどうか、などを議論したほうが具体的だろう。

併合により韓国の国家主権をうばっているので、韓国併合は韓国への主権の「侵略」である、という韓国の日本への批判はなりたつかもしれない。


なお、朝鮮の王朝の一族である李氏(りし)の一族は( 旧・大韓帝国の皇族は・・・、とも言える )、併合後も、日本の皇族に近いあつかいを受けることになった。また、朝鮮の貴族(きぞく)階級( 両班(ヤンパン)と言う。 )は、高位の貴族は「朝鮮貴族」(ちょうせんきぞく)という貴族になって日本の華族に近い扱いをうけたが、ほとんどの元・貴族は平民になった。

条約改正[編集]
陸奥宗光(むつ むねみつ)
小村寿太郎(こむら じゅたろう)
条約改正への流れ
おもなできごと
1858  江戸幕府が不平等な条約を結んだ
1868  (明治維新)
1871  日本の使節団が欧米を視察する
視察のさい、条約改正を訴えたが、改正してもらえなかった
1883  鹿鳴館を開き、舞踏会を行う
1886  ノルマントン号事件が起こる
1889  (大日本帝国憲法が発布される)
1894  イギリスとの間で治外法権が撤廃される
日清戦争が起こる(〜1895)
1904  日露戦争が起こる(〜1905)
1911  小村寿太郎が関税自主権の回復を達成する

日清戦争の直前の1894年に、イギリスとのあいだで、外務大臣の陸奥宗光(むつ むねみつ)の交渉により、治外法権をなくすことに成功した。この治外法権の廃止(はいし)は、日本がイギリスと結んだ、 日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく) による。


日新戦争で日本が勝利すると、ロシア・フランスなども治外法権をなくすことに同意したが、日本の関税(かんぜい)自主権(じしゅけん)は、みとめなかった。

日露戦争で日本が勝利したことにより日本の国際的な地位が高まると、各国は、関税自主権の改正にも応じるようになり、外務大臣の小村寿太郎(こむら じゅたろう)の各国との交渉により、1911年に日本の関税自主権は回復した。

1870年代から条約改正のための交渉はしていたが、そのころは、欧米は理由をつけて、受け入れなかった。

  • 岩倉具視(いわくら ともみ)らの視察団

1871年には、欧米諸国に視察(しさつ)のため送られた岩倉具視(いわくら ともみ)らの視察団が交渉したが、欧米は、日本の法律が近代化されていないことなどを理由にして、条約の改正をことわった。

  • 鹿鳴館(ろくめいかん)
鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵

1883年には、東京に、洋風の建物の鹿鳴館(ろくめいかん)を建て、欧米人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなども、日々(ひび)、ひらいてみたが、まったく条約改正は進まず、失敗した。


  • ノルマントン号事件(ノルマントンごう じけん)
ノルマントン号事件の絵。ジョルジュ・ビゴー作「メンザレ号の救助」(『トバエ』9号、1887年6月)

1886年には、和歌山県の沖合い(おきあい)の海上で、イギリス船のノルマントン号(ごう)が沈没する事件が起きた。このとき、イギリス人船長らイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けなかった。日本人の乗客は、全員、死亡した。 この事件の裁判は、イギリス人の領事によって、日本国内で、おこなわれた。治外法権による領事裁判権にもとづき、イギリス人領事による裁判が、おこなわれたのである。

船長は軽い罪に問われただけで、日本人の多くは、これ日本への差別的な判決として、感じた。なお、船長は禁錮刑(きんこけい)3ヶ月になった。

この一連の事件をノルマントン号事件(ノルマントンごう じけん 、英語:Normanton Incident ノーマントン・インシデント)という。

この事件の判決をきっかけに、日本では、条約改正をしようという運動が強まっていったのであった。


そして、そのあと、1894年に、イギリスとの間で条約を改正し、1911年には外務大臣の小村寿太郎の交渉によりアメリカとのあいだで日本が関税自主権を回復したのをきっかけに、アメリカ以外の各国もそれにならい、1911年に各国とのあいだの日本の関税自主権の回復に成功したのである。

明治期の経済の変化[編集]

明治のはじめごろ、国は工業をさかんにするため、官営の工場を経営していた。しかし、政府にとっては財政の負担だった。また、政府が工場の経営をすると、民間の工場の仕事をうばっていることにも、なってしまう。 なので、政府は官営工場の民間への払い下げを1880年代に行った。

この払い下げをうけた会社が、三井(みつい)・三菱(みつびし)・古河(ふるかわ)などの大会社であった。

イギリスから輸入した紡績機(ぼうせきき)をもとに、生糸を生産。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機だった。日本でも、紡績機を改良していった。

原料の綿などは、併合した朝鮮や、獲得した満州などから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けた。

生糸(きいと)や綿(めん)製品は、日本の輸出品になっていった。 繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していった。


八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の創業が1901年に北九州で始まった。

この八幡製鉄所が、日本での重工業の発展の、きっかけになった。八幡製鉄所は、日清戦争の賠償金をもとに、たてられた。


小作人が増えた。 理由はいくつかあるが、よくある説は・・・

1:税が地租改正によって、現金で払う税金になり、現金収入が少ない農民が借金などで土地を手放さざるをえなくなっていった。
2:1880年代ごろ、農作物の値段が急落して、土地を手放さざるをえない農民が増えた。
3:朝鮮や清国との貿易で、安い農産物が日本に入ってきて、日本の農家は競争にさらされ経営が苦しくなった。

など。

農村で収入が少ない農民は、都市に出稼ぎにいったりした。 貧しい農家の娘などは、紡績工場などの工場などで女工(じょこう)としてはたらくこともあった。

女工は、長時間労働で、安い賃金(ちんぎん)で、はたらかされた。それでも、その娘には、ほかに仕事先がないので、その仕事先で、はたらかざるをえなかったのだろう。

日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていたのである。

1925年の『女工哀史』(じょこう あいし)という細井和喜蔵(ほそいわきぞう)という機械工(きかいこう)の労働者が自らの体験をもとに書いた本に、1925年と時代は少しあとの時代だが、このような女工たちのつらい状況が書かれている。


足尾銅山(あしお どうざん)の鉱毒(こうどく)事件[編集]

1895年頃の足尾鉱山

栃木県にある足尾銅山では、明治時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していた。 ここで公害事件がおき、鉱石の処理の安全対策が不十分なまま、工場からの排水(はいすい)中に有毒物質の「鉱毒」(こうどく)が周辺の渡良瀬川(わたらせがわ)に流れ込み、川の魚が死に、農作物などは枯れて(かれて)いった。

ほかにも、工場の排煙から排出される亜硫酸ガスによって、周辺の山の木や草は枯れていき、はげ山(はげやま)になった。はげ山 になると、洪水がおきやすくなるので、鉱毒でよごれた川の水が広がっていき、ますます被害は拡大した。 作物だけでなく、人間も病気になっていった。死者もふえていった。眼病にかかったり、胃などの内臓の病気にかかっていった人がふえてきた。

田中 正造(たなか しょうぞう)

衆議院議員の田中 正造(たなか しょうぞう)は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえた。だが、政府は対策をとられなかった。

田中正造は、世論にうったえるため、天皇に直訴しようとした。そのため、議員をやめて、それから天皇に直訴しにいったが、天皇の近くで警官に取り押さえられた。

だが、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られた。

鉱石は、ほりだしたままでは、さまざまな不純物をふくんでいるので、使えないのである。なので、不純物をとりのぞくため、さまざまな薬品の液体を鉱石にくわえていく。 このため、排水が出てくる。 この排水の安全化の処理が不十分なままであった。

なお、1892年の古在 由直(こざい よしなお)らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸である。

なお、昭和時代や平成時代の調査では、周辺からカドミウムや鉛(なまり)などの毒性の高い物質も、検出(けんしゅつ)されているので、これらの物質も鉱毒にふくまれていた可能性がある。

明治の学問や文化の変化[編集]

理科などの自然科学[編集]

  • 医学
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)・・・ ペスト菌(きん)の発見。破傷風(はしょうふう)の血清(けっせい)療法(りょうほう)の発見。
志賀 潔(しが きよし) ・・・ 赤痢菌(せきり きん)の発見。
野口 英世(のぐち ひでよ) ・・・ 蛇毒(じゃどく)の研究、アフリカでの医療活動および感染病の感染経路の研究。しかし、黄熱病(おうねつびょう)の治療法研究では、成果なし。研究中に本人が黄熱病にかかり死去。
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)

北里柴三郎は、破傷風(はしょうふう)という病気の治療法(ちりょうほう)を開発し、そして北里の名前は世界に広まり、また、日本の医学も世界に認められていきました。

(※ 治療法につかわれる「血清」(けっせい)という医学技術は、小学校の範囲外だが、学習マンガとか見れば書いてあると思うから、読者の小学生はそういう本で勉強してください。)

また、北里は、日本で伝染病の研究所(北里研究所)をつくりました。

志賀潔は、北里のもとで研究をし、赤痢菌を発見しました。


野口 英世(のぐち ひでよ)

野口英世は、1876(明治9)年、福島県の農村に生まれた。幼いころ、左手にやけどをし、左手が不自由になった。しかし15才とき、の手術により左手が治り、そして野口は医者を目指すようになった。そして野口は、医師になる試験に合格して、野口は医者になった。やがて野口は、北里研究所に入り、医学の研究をかさねた。1900年、野口はアメリカに渡り、そしてヘビ毒の研究で有名になった。そして野口は、当時の世界の最先端の医学を研究しているロックフェラー研究所の所員になり、梅毒(ばいどく)などの研究をし、活躍した。

その後、野口は原因不明の黄熱病(おうねつびょう)の研究のため、その病気の発生地帯の南米のエクアドルやガーナなどに渡り、現地で研究をつづけていたが、野口みずからが黄熱病に感染してしまい、そして1928(昭和3)年に野口英世はなくなりました。

  • 文学

明治時代になると、小説が流行ってきた(はやってきた)。

そして、明治時代に、夏目漱石(なつめ そうせき)や樋口一葉(ひぐち いちよう)などの小説家が登場した。

夏目 漱石(なつめ そうせき)は、小説家である。もともとは教員の仕事についていて、主に英語を教えていた。なので、彼の作品も、教員としての経験や英文学の知識をもとにした手法の作品が多い。漱石の作品としては、『吾輩は猫である』(わがはいは ねこで ある)、『坊っちゃん』(ぼっちゃん)などの作品が有名。

樋口 一葉(ひぐち いちよう)や与謝野 晶子(よさの あきこ)など、女の作家も、この明治時代に出てきた。

樋口 一葉(ひぐち いちよう)は小説家であり、代表作は、『たけくらべ』、『にごりえ』などである。 与謝野 晶子(よさの あきこ)は短歌の作家であり、代表作は、『みだれ髪』、『君死にたまふことなかれ』などである。

俳句(はいく)では、正岡子規(まさおか しき)が活やく(かつやく)した。

中国大陸での辛亥(しんがい)革命[編集]

1911年、四川省での鉄道の国有化および、その鉄道の外国への借款に対する反対の暴動が起きた。(鉄道借款が国権を売り渡す行為と批判された。)

そして各地で反乱が起こり、独立宣言が起きた。 これが辛亥革命(しんがい かくめい)である。

孫文(そんぶん)

当時、中国人の革命運動家として有名であった孫文(そんぶん)は、この辛亥革命を起こしてない。革命当時、孫分はアメリカに滞在しており、アメリカで革命の知らせを聞いた。孫文は、アメリカのほかにも、日本に滞在していて中国での革命のための運動をしていた時期もある。中国大陸では、清国の王朝を倒そうとする革命運動は、当然、取り締まりを受けていたので、なので日本やアメリカで孫文は中国での革命のための運動を行っていたのであった。孫文が日本にいたころは、日本の国粋主義の思想家の頭山満(とうやま みつる)などから支援を受けていた。


さて、辛亥革命は、「革命」といっても、実質的には各地の軍隊が反乱をおこして満州族の支配する清王朝から独立しただけであり、政治理念の一致した運動ではなかった。


革命後、孫文は中国大陸に帰国した。


そして、革命運動の代表者が決まっていなかったので、臨時政府の代表者として孫文が 大総統(だいそうとう) に選ばれた。

孫文の主張は、民族の独立をかかげる「民族」主義、そして「民権」主義、庶民の生活の向上である「民生」の安定をかかげた、3つの民に関する考えからなる 三民主義(さんみん しゅぎ) を唱えていた。


そして孫文たちは、中華民国(ちゅうか みんこく)の建国を宣言した。中華民国の首都は南京(ナンキン)に決まった。

まだ、清の皇帝は生きのこっている。清の宮殿なども、残っている。

しかも孫文は、臨時の代表者にすぎない。

袁世凱(えん せいがい)

実際に中華民国で権力をにぎったのは、かつて清国の政治家であり、軍を掌握していた袁世凱(えん せいがい)だった。孫文には軍隊を管理する能力がなく、孫文に大した実権はなかった。

袁世凱は、清の皇帝を退位させ、そして袁世凱が最高権力者の大総統になった。皇帝が退位したことにより、清の王朝は終了した。

辛亥革命は、「革命」とはいうものの、はやい話が、権力が皇帝から袁世凱へと移動したというだけであった。

袁世凱は、独裁政治を始めた。

けっきょく、孫文は日本に亡命することになった。

1915年に、袁世凱は病死した。

第一次世界大戦[編集]

ヨーロッパの参戦国 同盟国(赤紫)、連合国(薄緑)、中立国(黄)。

第一次大戦では、ドイツ・オーストリア・トルコなどの陣営と、イギリス・フランス・ロシアなどによる陣営とが戦争をしていました。

ドイツ・オーストリア・イタリアの三国は三国同盟(さんごくどうめい)を結び、同盟国(どうめいこく)と言われます。対してロシア・フランス・イギリスは三国協商(さんごくきょうしょう)を結び、連合国(れんごうこく)と言われています。つまり同盟国と連合国が、あらそった。三国同盟と三国協商が、あらそった。


戦争は長期化した。また、毒ガス(どくガス)が新兵器として登場し、被害が大きかった。潜水艦(せんすいかん)も、新兵器として、つかわれた。 なお、戦車(せんしゃ)や飛行機も新兵器として使われたが、この時代の戦車や飛行機は、まだ性能がひくかった。


このころの日本は、大正時代であった。明治天皇は、すでに死んでおり、大正天皇が日本の天皇だった。

日本はイギリスと日英同盟をむすんでいたままなので、イギリス側である連合国(れんごうこく)の側に立って参戦した。

ドイツの基地が、中国大陸の青島(チンタオ)にあったので、日本は、青島のドイツ基地を占領した。


なぜ第一次世界大戦が起きたのか[編集]

ヨーロッパ南東部の、ルーマニアやギリシャなどのあるバルカン半島(Balkan)の支配をめぐって、オーストリアとロシアが対立をしていた。

(※ 南半球のオースト「ラ」リアでなく、北半球にあるオーストリアなので、間違えないように。)

第一次大戦の前からバルカン半島では多くの戦争や紛争があり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」(かやくこ)と言われていた。 なぜ、紛争が多いかというと、バルカン半島には多くの国や民族があるのであった。ルーマニアやブルガリアやセルビアやアルバニアやギリシアなどが、バルカン半島に、あった。 1912年や1913年には、バルカン戦争が起きていた。

そしてセルビアではロシア系の民族であるスラブ人が多かった。(ヨーロッパ各地のロシア系の民族をスラブ人という。ロシア人もスラブ人である。)

1914年に、オーストリアの皇太子の夫妻がボスニアの首都のサラエボをおとずれていたときに、皇太子夫妻が暗殺される事件が起きた。この暗殺事件を サラエボ事件(サラエボじけん) という。この事件の犯人が、セルビア人の青年であった。

この事件に対する報復で、オーストリアが1914年にセルビアに宣戦布告したのが、のちの第一次世界大戦のきっかけであった。そしてオーストリアの同盟国のドイツはオーストリアを支持した。

いっぽう、セルビアの支持国については、ロシアはセルビアの支持をした。ロシアと協力関係にあったフランスやイギリスも、ロシアの支持を通して、セルビアを支持した。

オーストリアの支持の側であるドイツは、セルビアを支持しているロシアやフランスやイギリスに対して宣戦布告した。

では、なぜセルビアとオーストリアが対立していたのかというと・・・
オーストリアは1908年にボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアに併合したのだが、セルビアも、このボスニア・ヘルツェゴビナを併合しようとしていたので、このボスニア・ヘルツェゴビナをめぐってオーストリアとセルビアと対立していたのである。

では、なぜ1908年に急にオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのかというと、中東のアラブ地方にあるトルコで、青年トルコ革命(せいねんトルコのかくめい)という出来事があり、この革命の混乱に乗じて、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのである。

青年トルコ革命については、説明しない。小学生だったら、ここまで知っていれば、十分である。(青年トルコの革命は、小学校や中学入試ではテストに出ないだろう。)

つまり、・・・

青年トルコの革命 → オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合 → サラエボ事件 

という流れになってる。

ちなみに、日本が日露戦争でロシアに勝ったことが、日本人と同じく有色人種であるトルコ人に革命の気運をもたらしたのである、という見方をする説もある。


世界大戦のさなか、ロシアでは革命が1917年に起きる。

ロシアでは、日露戦争のころから、ロシア皇帝の圧政(あっせい)に反対する運動があったが、第一次世界大戦による物資の不足などで国民生活が苦しくなり、ますます皇帝政治に対する反対運動が強まっていた。

そして1917年に、労働者の抗議(こうぎ)などの運動が起こり、軍隊もこの運動に同調した。軍隊が、皇帝を裏切った以上、もはや皇帝を守るものはなく、ロシア皇帝のニコライ2世は退位するはめになった。そして、退位後、ニコライ2世とその一族は、革命政府により殺害された。こうしてロシアの帝政(ていせい)は終わり、ロマノフ王朝(ロマノフおうちょう、英表記:House of Romanov)は終わった。

帝政にかわる、革命運動による臨時の政府は、ソビエト連邦(ソビエトれんぽう、英語表記:Soviet)と呼ばれた。こうしてロシア政府にかわり、ソビエト政府が、ロシアの領土を支配することになった。日本語では、「ソビエト連邦」を略して「ソ連」(ソれん)とも言う。

ソビエト政府も、第一次世界大戦を、ロシア・フランス・イギリスの三国協商のまま、イギリスやフランスと協力したが、革命によるソビエト国内の混乱もあり、ソビエトは戦争から引いていった。

1918年に、ソビエトはドイツ側と講話して、ソビエトは連合国では無くなった。

ソビエトの政治の仕組みは社会主義(しゃかい しゅぎ)や共産主義(きょうさん しゅぎ)と言われる方式であり、当時としては新しい方式の政治の仕組みだった。社会主義や共産主義について説明すると長くなるので、この節では説明しない。

社会主義や共産主義を、かんたんに言うと、・・・

社会主義(しゃかい しゅぎ、英: socialism) ・・・ 大元(おおもと)の意味は、「社会のみんなで、政治をしよう」とか「社会を良くする政治をしよう」いう主義なので、社会主義と言う。日本では、社会主義が天皇制を打倒しようとする反乱の考えとも受け取られた。実際にロシアではロシア革命により皇帝が殺害されているので、無関係でも無い。たとえ日本人の社会主義者に天皇制を打倒しようとするものが少なくても、外国の社会主義者はちがうかもしれない。また、ロシアで革命が起きていることもあり、政府や警察からは、社会主義は「革命を起こして今の政府を変えよう」という革命主義かもしれないと受け取られる弾圧されていくことになる。
この時代と同じ頃、日本では労働運動で労働者の地位向上をうたてる運動がさかんであり、かれら労働運動家が「社会主義」をなのることが多かったので「労働運動によって労働環境を変えていこう」という運動とも社会主義が混同されることになった。
「社会主義」は、大元の意味が「社会のみんなで、政治をしよう」などといった、はっきりしない意味なので、いろんな意味に解釈されて、いろんな意味でこの「社会主義」という言葉が使われることになる。


共産主義(きょうさん しゅぎ、英: Communism) ・・・ 工場などの生産手段を、国などの公共機関が管理することで、地主や工場主などの資本家(しほんか)による労働者への不利なあつかいをふせごうとする経済に関する主義。生産手段を共有するので、共産主義と言う。したがって工場主や社長などは、会社や設備を私有(しゆう)できなくなるので、共産主義は私有財産(しゆうざいさん)の否定の思想でもある。
だが、ロシア革命などの歴史的な経緯から、社会主義と共産主義とが混同されることがある。社会主義と同様に、天皇制を打倒しようとする思想と混同された。
当時は革命思想と混同されたていたので、警察などから共産主義が強く取り締まられることになった。


ちなみにヨーロッパで共産主義の思想を初めて唱えたマルクスとエンゲルスの二人は、ドイツ人であり、べつにロシア人ではない。しかもエンゲルスにいたっては、工場主の経歴を持つ資本家の側の人間である。


だが、ロシア革命後、ソビエト連邦が社会主義運動や共産主義運動の中心地になったので、ソビエトに従おうとする政治思想と共産主義・社会主義とが混同されることになった。


アメリカの参戦[編集]

1917年、アメリカがイギリスの側として参戦する。アメリカから支援された大量の物資や武器などにより、イギリス側の連合国が有利になった。 連合国の側にアメリカと日本という、当時の強国が2つも加わったこともあり、戦争は連合国に有利に進んだ。

そして1918年、ドイツが負けを認めて降伏(こうふく)し、よってアメリカ・イギリス・フランスの連合国が勝利して、第一次世界大戦は終わった。ドイツとオーストリアは負けた。

イタリアは、戦争の途中で、連合国の側の支持へと変わった。

戦後処理[編集]

フランスの首都のパリで開かれた講和会議(こうわかいぎ)であるパリ講和会議で、ドイツとの間で戦後の処理のための条約として、ベルサイユ条約(フランス語:Traité de Versailles) がむすばれた。「ベルサイユ」とは、パリにあるベルサイユ宮殿(きゅうでん)で、この講和会議が行われたことによる。

ドイツは多くの賠償金をはらうことになった。

そしてドイツが各地に持っていた植民地は、放棄させられた。なお、イギリスなどの戦勝国は、べつに植民地を放棄していないので、植民地の解放運動とは無関係である。

対戦前にドイツが持っていた中国の山東省の権益や、太平洋の南洋諸島の権益は、日本が受け継ぐことになった。

  • 国際連盟の設立

アメリカ大統領ウィルソンの提案によって、平和を目的とした国際連盟(こくさい れんめい、英:League of Nations)の設立が決まった。そして1920年に、国際連盟が設立した。国際連盟の本部はスイスのジュネーブに置かれた。

スイスは、永世中立国(えいせい ちゅうりつこく)である。中立国とは、戦争の時に、どの外国にも協力しない、ということである。 (※ べつに、中立は、「戦争をしない」という意味ではないし、「軍隊を持たない」という意味でもない。スイスは軍隊を持っているし、もしスイスが攻め込まれたらスイス国民は自国を守るための戦争を行う。)

スイスは中立国なので、国際機関の本部の場所として良いだろうと考えられ、スイスが国際連盟の場所に選ばれたのである。

この国際連盟と、のちに作られる国際機関の国際連合(こくさい れんごう、英:United Nations、略称:UN ユー・エヌ )とは、べつの組織である。

国際連合が作られるのは第二次世界大戦のあとであり、第一次世界大戦のあとの時代には国際連合(UN)はまだない。


国際連盟を提案したアメリカは、国際連盟には加盟していない。アメリカ議会の反対により、アメリカは国際連盟には加盟していない。

新渡戸稲造(にとべ いなぞう)

日本人の新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)が、国際連盟の事務局の次長(じちょう)として選ばれた。「次長」というのは役職のひとつで、二番目ぐらいにえらい役職のことである。

今日(2014年に記述。)の一般の会社でも次長という役職があり、社長や部長などの次にえらいのが次長である。


なお、国際連盟の常任理事国に、日本が入っている。

  • ワシントン会議

各国が、おたがいに軍備の保有量を減らして少なくするという軍縮(ぐんしゅく、英:Disarmament)のための会議が、1911年、1912年にアメリカのワシントンで開かれた。この会議を ワシントン会議(Washington Naval Conference) という。

このワシントン会議によって、各国の海軍の軍事力を軍縮することが決まった。

イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの軍艦の主力艦(しゅりょくかん、英:Capital ship)の保有トン数の比が、

イギリス:アメリカ:日本:フランス:イタリア = 5 : 5 : 3 : 1.67 : 1.67

と、決まった。

主力艦以外の、補助艦については、まだ決まっていない。


また、日本・アメリカ・イギリス・フランスによる、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約(よんかこくじょうやく)が結ばれ、それにともなって日英同盟は廃止(はいし)された。

交渉の結果、日本は山東省を中国(中華民国)に返すことになったので、中国に山東省を返還した。

軍縮によって、軍事費の増大にこまっていた日本の政府は助かった。だが、日本国内の一部の強硬派には、軍縮に不満も多かった。

このようなワシントン会議によって決まった国際社会の体制を ワシントン体制(ワシントンたいせい、Washington Naval Treaty) と言う。


  • ロンドン会議

ワシントン会議では、補助艦の保有トン数の制限については、決まっていなかった。1930年のロンドン会議(英:London Naval Conference)では、補助艦の保有トン数の制限が決まった。

イギリス:アメリカ:日本 = 10 : 10 : 7

の比率である。

ロンドンはイギリスの首都で、ロンドンでロンドン会議が開かれた。


民族独立への運動[編集]

第一次世界大戦の戦後処理で、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」(みんぞく じけつ)という「どの民族も、他の民族から支配されるべきではない」という思想によって、オーストリアからはハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアが独立し、ロシアからもポーランドやフィンランドが独立した。

しかし、この民族自決の思想は、ヨーロッパの民族にだけしか適用されず、アジアやアフリカなどは、植民地のままであった。

世界大戦による日本の好景気[編集]

第一次世界大戦の被害を、日本とアメリカは、ほとんど受けなかった。またヨーロッパは戦争のため、中国などのアジア市場に手が回らず、そのため日本がアジア市場を、ほぼ独占できた。

さらに軍需や船などの需要が増え、日本の軍需産業や造船業が好景気になった。

このような要因があり、日本は好景気になった。この第一次世界大戦による日本の好景気のことを、「大戦景気」(たいせん けいき)という。

商人には、うまく商売に成功して、急に大金持ちになるものが出てきた。彼らは「成金」(なりきん)と呼ばれた。将棋で「歩」が「と金」になることに例えられたのである。

特に、船と鉄に関する商売が好景気だったので、船成金(ふねなりきん)などが出てきた。


  • 米騒動(こめそうどう)

好景気にともない、物価が上昇した。特に戦争により米の輸入が減ったこともあり、米の価格が上昇した。 米の価格が上昇すると、米の値上がりを期待して取引で儲け(もうけ)ようとする商人などがあらわれはじめ米の買い占めがおこり、ますます米が値上がりしていった。米が急に値上がりしたので、庶民は米が買えなくなり、また、かわりの穀物(こくもつ)も、すぐにはできないので、庶民は食べ物にこまることになった。

1918年には、富山県で主婦たちが米屋に安売りを要求して暴動がおきたことをきっかけに、全国で米の安売りをもとめる暴動が起きた。 これら一連の米に関する騒動(そうどう)を、米騒動(こめそうどう)と言う。

当時の内閣の寺内正毅(てらうち まさたけ)内閣は、この米騒動により議会で辞職に追い込まれた。

原敬(はら たかし)

そして1918年に新しい内閣総理大臣が決まり、立憲政友会の総裁の原敬(はら たかし)が、寺内の次の内閣総理大臣になった。


このように、好景気にかんして、いろんなことが日本で起きた。

しかし、ヨーロッパでの世界大戦が終わり、ヨーロッパの産業が回復してくるにつれて、日本は不景気になっていった。1920年には、日本は不景気になっており、多くの会社や工場が倒産(とうさん)した。

関東大震災[編集]

京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た東京日本橋および神田方面の、ひさんな状況(じょうきょう)

1923年に、関東地方で東京と横浜を中心に大地震(だいじしん)が起きた。死者・行方不明者は14万人以上であった。この地震を 関東大震災(かんとう だいしんさい) と言う。 また、地震による被害(ひがい)で、日本の不景気が、さらにひどくなった。

なお、この地震で、「朝鮮人が反乱を、くわだてている」という内容のデマ(「デマ」とは、かんちがいした連絡や伝言などのこと。)が飛び交い、不安にかられた民衆らが、朝鮮人や社会主義者らを殺害する事件が起きた。

東京に朝鮮人がいた理由については、当時は韓国併合後の時代だったので、仕事などで日本に働きにきていた朝鮮人がいたのです。


大正デモクラシー[編集]

  • 護憲運動(ごけん うんどう)

藩閥政治(はんばつ せいじ)を批判し、政党による政治を主張する 護憲運動(ごけん うんどう) が政党から主張された。。

立憲政友会の尾崎行雄(おざき ゆきお)や、立憲国民党の犬養毅(いぬかい つよし)などが護憲運動の中心になった。


  • 政党内閣

1925年の加藤高明(かとう たかあき)内閣で、普通選挙法が成立。満25才以上のすべての男子に選挙権が与えられた。納税額は、選挙権には関係なくなった。まだ、女子には選挙権は無い。

1928年には、第一回の普通選挙が行われた。

  • 治安維持法(ちあん いじほう)

また、暴力的な革命運動を取り締まる目的で治安維持法(ちあん いじほう)が1925年に成立した。治安維持法を制定した背景には、ソビエトなどから革命思想が日本に入ってくることを恐れたのだろう、という説が有名である。

だが、この治安維持法は、本来の目的とはちがい革命とは結びつかない労働運動をも取り締まる目的で悪用されることになり、さらに、のちの時代には政府に反対する者を弾圧するために悪用されることになる。

政府は、普通選挙法との引きかえに、治安維持法を成立させた、という考えが強い。


  • 平塚らいてう(ひらつか らいちょう)
平塚らいてう(ひらつか らいちょう)

女性の地位の向上や、女子の選挙権の獲得を目指す女性解放運動(じょせい かいほううんどう)が、平塚らいてう(ひらつか らいちょう)などにより主張された。

平塚らいてうは市川房江(いちかわ ふさえ)と協力して、新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。

国際社会[編集]

  • アメリカ

第一次世界大戦の前からアメリカは生産力がとても高かった。さらに、戦争によりヨーロッパが弱体化したので、戦後はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になった。


  • 世界恐慌(せかい きょうこう)
アメリカの金融取引所のウォール街(ウォールがい、場所はニューヨークにある)で、騒然(そうぜん)とするアメリカ人たち。

1929年に、アメリカで株価が大きく下がった。株価などが大きくさがることを「暴落」(ぼうらく、英:Crash)あるいは「大暴落」(だいぼうらく、英:Great Crash)などという。この株価の大暴落(だいぼうらく)をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えた。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を世界恐慌(せかい きょうこう、英:world economic crisis ワールド・エコノミック・クライシス)という。

このアメリカでの暴落が起きた日の曜日が木曜日だったので、「暗黒の木曜日」つまり英語に直すと「ブラック・サーズデイ」(black Thursday)とも、言うようになった。アメリカでは、労働者の4人につき1人が失業した。(失業率25%)


  • 日本の状況

日本は、アメリカ向けの生糸などの輸出でもうけていたので、日本も世界恐慌の影響を強く受け、日本も不景気になった。日本では世界恐慌の前から、すでに大戦景気の終わりによって不景気になっていた。その上、さらに世界恐慌がやってきて、日本はとてつもなく不景気になった。

多くの会社が倒産した。このため、三菱や三井・住友などの財閥が倒産した会社の事業を吸収した。だが、このことによって、財閥が大もうけしていると庶民から見られるようになり、財閥が敵視されるようになっていった。

同じころ、第一次大戦後の軍縮のながれがあったので、各国の政府は不景気もあり軍事費をへらすため、軍縮に同意した。

だが、日本では、軍部から政党を敵視する意見が強くなった。 そして、政党も財閥の見方をしていると考える勢力がおおくなり、軍部からは政党を敵視する意見が強くなった。


日本では、農業が混乱していた。まず1930年では、豊作で米の価格が暴落し、農家の収入がへり、農家がくるしくなった。そして翌年の1931年には、こんどは凶作で、東北地方を中心に、農村が不況になった。欠食児童(けっしょくじどう)がでたり、娘(むすめ)を身売りさせる家も出てきた。

  • ドイツの状況

ドイツでは第一次大戦の賠償で国家財政が苦しくなっているのに加えて、そこに大恐慌がやってきたので、貨幣のマルクの信用が落ち、物価がものすごく上がった。このように物価が上がることを インフレ(英:inflation インフレーション) と言う。ものすごく物価が上がることを ハイパー・インフレ(英:Hyperinflation) という。

パンなどの食料品を買うのにすら、手押し車に札束をたくさんつめて買い物をする、という状況であった。 このような状況のため、ドイツ経済は大混乱になり、失業者があふれた。


  • ブロック経済(ブロックけいざい)

欧米などの各国は、世界恐慌の負担を、植民地におしつけた。そのため、イギリスとフランスは、本国と植民地とのあいだだけで自給自足をしようとして、外国からの輸入品には高い税金をかけて、追いだそうとした。(このような、外国の商品にかける税金を関税(かんぜい)と言う。つまりイギリスやフランスなどは、輸入品に高い関税をかけた。)

このようにして植民地と本国だけからなるブロック内で自給自足する ブロック経済(ブロックけいざい、英:bloc economy) をつくっていった。そのため、今までの自由貿易主義を、イギリスやフランスは、やめていった。

こうなると、日本やドイツなどの、あまり大きな植民地をもたずに、貿易による輸出でかせいでいた国は、とても経済が苦しくなることになる。実際に、日本の経済は苦しくなっていった。

イギリスほどの植民地ではないが、日本もまた満州に権益をもっていたので、満州の権益の保護を強めようとした。

蒋介石(しょう かいせき)

同じ頃、中華民国では、孫文の亡くなったあと、国民党で権力闘争が起き、その闘争に勝った蒋介石(しょう かいせき)が支配していた。蒋介石は、もとは軍学校の中国軍の幹部を養成する黄埔軍官学校(こうほ ぐんかんがっこう)の校長をしており、そのため、蒋介石は軍事力をにぎっている立場にあり、政敵との権力闘争で有利だった。蒋介石によって国民党が支配された後、国民党による中国大陸の統一を目指した武力行動によって中華民国内での国民党の勢力が広まっていき、この国民党と日本とのあいだで、満州の権益をあらそうことになっていった。

ちなみに蒋介石は日本に留学していた経験を持ち、日本の軍学校の東京振武学校(とうきょう しんぶがっこう)で軍事学をまなび、軍事訓練を受けていた経験も持つ。


いっぽう、蒋介石の権力に不満のある軍閥は、共産党(きょうさんとう)という、国民党とはべつの勢力に加わっていくことになる。

いっぽう、ヨーロッパでは、第一次大戦で植民地および領土を失ったドイツと、もとから植民地の少ないイタリアを中心に、イギリスやフランスなどを敵視する勢力が強くなった。

ヒトラー

とくにドイツでは、第一次大戦による賠償金などもあり経済が苦しかった上に、世界恐慌により、ドイツの貨幣の価値が暴落した。このような状況により、ベルサイユ条約への不満が高まり、このベルサイユ条約への批判をかかげる政党であるナチス(ドイツ語:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)ひきいる政治家のヒトラー(Adolf Hitler アドルフ=ヒトラー)が、ドイツ国民の支持をあつめて、1932年の選挙では、ヒトラーひきいるナチスが政権を手にした。1934年にはドイツの憲法を無視して独裁体制をつくり、そして1935年にはベルサイユ条約からドイツは抜けた。ドイツの国民はヒトラーの、このような政策を支持した。ベルサイユ条約ではドイツの軍備が規制されていたが、条約をやめたのでドイツは再軍備(さいぐんび)をしていった。

  • 世界的な傾向

ソビエト連邦は、経済が、もとから共産主義であり、欧米型の資本主義ではなかったので、あまりソビエトは世界恐慌の影響をうけなかった。

このようなこともあり、世界恐慌にくるしむ各国では、ソビエトのように経済における統制をしようとする意見が強まっていく。

そして、経済だけでなく、政治全体においても統制を強めようとする全体主義(ぜんたいしゅぎ)の意見が、日本でも軍部などを中心に強まっていく。

こうして、世界恐慌により、全体主義の国が増えていく。 もとから全体主義であるソビエトや中華民国にくわえて、さらにドイツやイタリアや日本が、全体主義になっていった。


  • 民主主義について

現在(2014年に記述)の日本では、民主主義および平和主義を、政治の根本にしているので、これら2つの主義を混同しがちですが、そもそも民主主義と平和主義とは別の主義です。 民主主義とは、単に、「政治の主権者が国民であるべきだ。」という思想のことです。したがって、国民が戦争を支持すれば、民主主義国では戦争は支持されます。

ソビエト連邦の独裁者である、スターリン。

ソビエトや中華民国は、けっして民主主義では、ありません。ソビエトや中華民国には、普通選挙などの一般の国民による選挙制度が、ありません。当時のソビエトはスターリンの独裁する独裁国家です。中華民国も、蒋介石の独裁する国家です。(当時の中華民国に、選挙制度なんてありません。)

もしソビエトや中華民国を「民主主義の国」という学校教員がいれば、単なる不勉強の教員です。

日本は、中華民国と満州の利権などをめぐって争いますが、これは全体主義国どうしの争いです。全体主義国・日本の敵国だからと言って、けっして相手国が民主主義であるだなんて論法は成り立ちません。

この「ソビエトと中国は、民主主義では無い。」というような主張は、べつに日本人の一部の評論家だけがいってるのではなくて、世界的にも、第二次世界大戦後から、アメリカやイギリス・フランスなどを始めとして世界の多くの国で、ずっと言われてることです。

なんで、わざわざ、こんな当然のことをクドクドと指摘(してき)するのかというと、こういった当然の基礎知識(きそ ちしき)すら知らない不勉強な大人が、日本には、いるからです。

日本では、1930年ごろの日本の全体主義的な行動を批判するあまりに、まるで当時の日本の敵国がすべて民主主義国であったかのような勘違いをする大人がいるのですが、そういう不勉強な大人はあまり信用しないほうが良いでしょう。

そもそも独裁かどうかということと、その国の行為に道義性(どうぎせい)があるかということとは、まったくの別問題です。 そもそも民主的であるかということと、その国の行為性に同義性があるかということも、まったくの別問題です。 もし「民主的な手続きさえあれば、その国の政策は正義(せいぎ)だ」と言うならば、たとえばイギリスがインドや中国を植民地にした時代にもイギリス本国では民主主義の選挙制度があったのだから、したがって「イギリスは民主主義なので、インド侵略は正義」という結論になってしまいますよ?

イギリスの例からも分かるように、民主主義とは、べつに平和主義のことでは、ありません。イギリスは戦争によって、インドや中国を植民地にしたのです。


  • ファシズム

ドイツおよび日本の全体主義的で軍国主義的な思想や傾向は、ファシズムと言われた。元々の意味は、イタリアの政党の「国家ファシスト党」(こっかファシストとう、イタリア語: Partito Nazionale Fascista、PNF))の政治思想が言葉の由来である。このイタリアのファシスト党の政治思想が全体主義的で軍国主義的な思想だったので、このような全体主義的で侵略的な思想をファシズム(fascism)というようになった。そして、このような軍国主義的な傾向をかかげるドイツや日本の政治家を、アメリカやイギリスなどが「ファシスト」(fascist)と批判するようになった。「ファシズム」という用語は、アメリカなどがドイツを批判するためにもちいたのであり、ドイツのナチス党自身はナチス自身の政策のことを「国家社会主義」(こっか しゃかいしゅぎ,ドイツ語: Nationalsozialismus、英語: national socialism)と言っていた。

しかし、ソビエトと中国での軍国主義はファシズムとは呼ばれない。 ソビエトや中国の思想も、ドイツなどと似たような軍国主義的な思想だったが、のちにドイツとソビエトが対立し、また日本と中国とが対立したこともあり、またアメリカやイギリスがソビエトおよび中国と協力したので、ソビエトと中国での軍国主義はファシズムとは呼ばれないことになっていった。

このように、「ファシズム」や「ファシスト」という言葉は、アメリカやイギリスなどの都合でドイツや日本の政治を批判した言葉に過ぎず、あまり正確な意味をもたない。

スペインや東ヨーロッパの諸国の政治でも、軍国主義的な勢力が強くなっていった。

だが歴史学では、「ファシズム」という用語は国際的にも学術用語・歴史用語として定着している。 この国際的な意味での歴史用語・学術用語として「ファシズム」の意味は、単にドイツとイタリアと日本の、世界恐慌後から第二次大戦終了までの政治の、強権的な政策や、軍備拡張的な政策、対外侵略的な政策のことを言ってるだけです。

日本国の中学や高校の学校教育での教科書も、国際的な「ファシズム」の意味と同じように、単にドイツ・イタリア・日本に限定して「ファシズム」という用語が使われている。

満州事変[編集]

満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。

中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に満州国(まんしゅうこく)が建国されます。

満州事変にいたるまでの、いきさつ[編集]

殺された、張作霖(ちょう さくりん)

中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」と主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた。

孫文のつくった国民党と、そのあとをついで国民党の支配者になった蒋介石も、当時は、そのような軍閥の一つにすぎない。中国の国民は、だれも選挙で蒋介石をえらんではいない。当時の中国に選挙の制度なんて無い。

満州を支配していた中国人は、張作霖(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。

満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。


いっぽう、中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。

蒋介石は、中国の統一を目指し、張作霖ひきる北京政府を倒す戦いを始めた。この蒋介石のたたかいを 北伐(ほくばつ) と言う。

蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は日本の一部の軍人の陰謀により爆殺される。張作霖が、日本のいうことを聞かなくなってきたので、かれを殺害しようとする陰謀だった。

この爆殺事件を「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりん ばくさつじけん)などと言う。


だが結果的に、陰謀は裏目にでる。張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本に反発し、蒋介石ひきいる国民党に合流することになる。

当時の首相の田中義一らは、この爆殺事件の犯人の日本軍人たちをきびしく処罰しようとした。 だが政府は、陸軍などの反対にあい、犯人の軍人たちを、きびしく罰することができなかった。そのせいで、のちに軍人たちが政府や議会のいうことを聞かなくなっていく。


そもそも北京から北の地方の土地である満州地方などは、歴史的には、中国の土地ではない時代が多い。中華民国の前の清の時代には、たまたま満州が清を支配していた満州族の出身地だったので、清では満州は清の領土だった。また、中華民国ができた後も、中華民国が清の領土を引きつぐことになったので、国際社会からは満州は中華民国の領土だと見なされていた。

このような背景があるので、日本は直接は満州を支配せず、張作霖などを通して満州への影響力をもっていた。

満州の実効的な支配をめぐって、日本の軍部と蒋介石と張一族などの軍閥とが、あらそった。

満州の住民は、だれも支配者を選挙で選んでいない。日本の進出が満州住民からは選挙で選ばれてない。また蒋介石の満州進出の方針も、べつに満州住民から選挙で選ばれたわけではないし、張一族も満州住民から選挙されてはいない。


日本は、はじめは、まだ満州を占領していない。そもそも満州に日本軍をおくようになったキッカケは、日露戦争の勝利によって、鉄道などの権益をロシアから日本がゆずりうけ、その権益をまもるために満州に日本の軍隊がおかれたのであった。

よって、そもそも日本政府は満州の領有をめざしていなかった。このため、満州事変をおこしたのは、けっして日本政府の命令ではなく、現地の日本軍の軍人が勝手に満州事変を行ったのである。


満州事変[編集]

満州現地の日本軍の関東軍(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。

石原莞爾(いしはら かんじ)
溥儀(ふぎ)

陸軍課長であった石原莞爾(いしはら かんじ)は、満州を占領する口実をもうけようとして、満州の日本軍は自作自演(じさくじえん)の事件を起こさせた。

どういう事件かというと、南満州鉄道(みなみ まんしゅう てつどう)の線路を爆破した事件である。この自作自演の事件を 柳条湖事件(りょうじょうこ じけん) と言う。

日本軍である関東軍は、この柳条湖事件を中国側のしわざだと断定し、奉天などの都市を占領し支配下においた。 そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。

日本の新聞(たとえば朝日新聞など)や世論は、満州国の建国を支持した。


しかし、満州は表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。 このことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを傀儡(かいらい)政権とか傀儡国家などと言われることが多い。傀儡(かいらい)とは、操り人形(あやつりにんぎょう)のことである。


中国との戦争中のできごと
おもなできごと
1931  満州事変
1932  満州国が成立
同じ年に、日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(五・一五事件)が起きる
1933  国際連盟、満州国の独立を認めないと決議する
日本は国際連盟を脱退する
1934  日本、満州国に皇帝・溥儀(ふぎ)を就任させる
1936  日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(二・二六事件)が起きる
1937  日中戦争が始まる
日本軍はペキンやナンキンなどを占領する
1941  日本が、アメリカ・イギリスなどを相手に戦争(太平洋戦争)を始める
1944  空襲(くうしゅう)がはげしくなり、集団疎開(しゅうだん そかい)が始まる
1945  広島と長崎に原爆が投下される
日本が敗戦(はいせん)をみとめ、戦争が終わる

このとき日本本土(ほんど・・・満州や朝鮮などの「外地」に対し、本州などを「本土」と言う。)の政府は、中国とは戦争をしない方針だった。なぜかというと、イギリスが中国を支持していたため、イギリスと戦争したくない日本政府も中国とは戦争しない方針だった。

しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった 溥儀(ふぎ) を、満州国の元首(げんしゅ)にさせた。

この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を 満州事変(まんしゅう じへん) という。


満州事変では、宣戦布告(せんせん ふこく)が無いので、「戦争」とは言わずに「事変」(じへん)と言います。


  • 五・一五事件(ご・いちご じけん)
五・一五事件を報じる朝日新聞

このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の犬養毅(いぬかい つよし)を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が首相を殺害した殺人事件を 五・一五事件(ご・いちご じけん) と言う。 (※ 「五・一五事件」の名称は検定教科書の範囲内。日本文教出版の教科書に記載あり。)

犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強かったので、犯人の軍人への刑罰を軽くした。(このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになる。)


首相だった犬養毅が死んでしまったので、つぎの首相を決めることになり、そして次の首相は齊藤実(さいとう まこと)に決まった。斉藤は海軍出身だが、穏健派であった。

また、犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在(2014年)の学校教科書などでは、このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わった、と言われることが多い。

リットン調査団[編集]

中華民国の上海に到着(とうちゃく)したリットン調査団
柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。
リットン。第2代リットン伯爵(リットンはくしゃく)、ヴィクター・ブルワー=リットン Victor Bulwer-Lytton

中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになったので、イギリス人の リットン を委員長とする調査団の リットン調査団(リットンちょうさだん、英:Lytton Commission) が満州におくられた。


調査の結果、リットン調査団は、日本と中国の双方の主張を、みとめなかった。

調査団の報告と分析は、つぎのようなものであった。

・ 調査の結果、満州族の住民による自発的(じはつてき)な独立運動では、無い。
・ よって、満州の独立は、みとめないべきである。
・ 日本は、事変以後の占領地からは、兵を引きあげるべきである。
・ しかし、日本の(鉄道権益などの)事変前からの権益は正当なものであり、保護されるべきである。
・ 日中の両国とも、国際連盟の加盟国であり、したがって両国の権利は公平に尊重されるべきである。

リットン調査団の決定は、日本の権益をまもるための通常の警備行動の正当性を、みとめたのであった。 そもそも調査団の活動内容は、満州事変の調査と混乱の解決のための提案にすぎない。なので、事変が起こる前の日中両国の行動の正当性については、リットン調査団は疑問を主張する立場にはない。

そして、日本の権益が認められたということは、うらをかえせば、中国の蒋介石による日本に対する抗日運動(こうにち うんどう)などの戦闘をしかけていたという事実には不利な内容であり、日本に有利な内容であった。


そして、リットン調査団は、日本と中国の両国がうけいれられるようにと、日本の権益をまもるための警備行動をみとめつつ、中国の領土として満州を自治共和国にするという、日中両国に気を使った提案(ていあん)をした。


しかし、日本の世論および政府の斉藤首相および内田(うちだ)外務大臣などは、リットン報告書(リットンほうこくしょ、英:Lytton Report)の日本に有利である意図を理解せず、報告書が満州国の建国をみとめるべきでないと主張してることからリットン報告を日本に不利な内容とおもい、報告書の提案に反発した。


日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。

しかし、この間にも、満州では陸軍が占領地を拡大していき(熱河作戦、ねっかさくせん)、こうして日本は国際的な信用をうしなってしまい、日本は国際的に孤立していき、ついに日本は1933年(昭和8年)3月に国際連盟から脱退した。


国際連盟では満州国建国の自発性が否定されたとは言っても、満洲国は日本以外にも、いくつかの国家から国家として承認を受け、外交関係が結ばれた。

のちにドイツやイタリアが満州国を承認(しょうにん)したほか、フィンランドやタイやクロアチア、スペインやバチカン、デンマークをはじめ20か国が満州国を承認した。

また、日本と中国とのあいだで、1933年5月には停戦協定がむすばれ、満州事変は、ひとまずは、おわった。


現代の評論家の一部には、1931年の満州事変から、1945年の第二次世界大戦の終わりまでの15年間を、「15年戦争」(じゅうごねん せんそう)などと言う評論家もいるが、実際にはこの15年間には停戦期間などもあるので、歴史学的には「15年戦争」という解釈は、あまり受け入れられていない。また、学校教育では「15年戦争」の語は用いられない。


さて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。


  • 蒋介石の外交宣伝
宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)

日本の外交は、この時期に、国際的に孤立していく。いっぽう、裏をかえせば、中華民国の国際社会での発言力が強まっていくということでもある。中華民国の外交が、たくみだったということである。たとえば蒋介石は、1928年には、キリスト教徒としての洗礼を受けている。もちろん、外交を有利に進めるためにキリスト教の洗礼をうけたにすぎない。アメリカやイギリスなど欧米の、おもな宗教はキリスト教だから、とうぜん欧米のキリスト教徒は、蒋介石への親近感が、わくことになる。しかも、蒋介石の妻(つま)の宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)は、おさないころからアメリカに留学しており、彼女はアメリカの名門女子大を卒業しているキリスト教徒であった。この宋美齢が、アメリカの教会で、けなげに中華民国をかばい、日本を批判する主張などをしていた。とうぜん、アメリカのキリスト教徒は中華民国に親近感が、わいていく。

中国の外交における宣伝(せんでん)は大胆(だいたん)であり、日本の役人的な文化交流や宣伝などとは、中国は大違いであった。日本は外交宣伝の分野では、おくれをとっていた。

日中戦争[編集]

盧溝橋事件[編集]

1937年7月7日と8日に、北京(ペキン)にある盧溝橋(ろこうきょう)という地区で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった。

この発砲の事件を盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)と言う。

これを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃したので、日本軍と中国軍とが戦闘した事件。この戦闘を 北支事変(ほくしじへん) と言う。

はたして誰が発砲したかについては、いまだに不明(2014年の今でも。)である。

現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦協定が結ばれた。


だが、25日には中国軍が日本軍を攻撃する廊坊事件(ろうぼう じけん)が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する広安門事件(こうあんもん じけん)が起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。

この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。


もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。中国側も同様の理由で「事変」という語を用いなかった。

事変とはいうものの、北支事変は事実上の戦争なので、この北支事変の戦闘をもって、日中戦争(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もある。

なぜ盧溝橋に日本軍がいたかというと、義和団の乱の事後処理について1901年にむすばれた北京議定書に基づいて、日本軍などの外国軍が、この盧溝橋の周辺に駐留(ちゅうりゅう)していた。


  • 最初に誰が発砲したか?

盧溝橋事件で、最初に誰が発砲したかの説には、多くの説がある。

中国の国民党軍による警備上の発砲を日本側が攻撃と勘違いしたという説もあれば、中国軍が意図的に日本軍をねらって挑発(ちょうはつ)したという説もあるし、日本軍の自作自演説もある。

他の説には、中国には国民党と対立していた共産党という軍閥勢力があるのだが、その共産党の陰謀(いんぼう)による、日本軍と国民党軍との戦争をねらった発砲だという説もある。ほかにも、ソビエト連邦のソ連共産党のスパイによる陰謀説もある。

真相は不明である。真相を調べるのは大人の歴史研究者の仕事であり、小学生には無理なので、真相については気にしないほうが良い。


とりあえず、小学生がおぼえておくべきことは、

盧溝橋事件で日本軍へ向けて発泡が起きたこと。
日本軍は、これを中国軍による攻撃と考え、兵を動かした。
結果、結果的には、日本軍と中国軍との戦闘がおきたこと。

これをおぼえておけば、よいであろう。

小学校の段階では、「盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が起きた」とおぼえておけば、じゅうぶんだろう。

第二次上海事変[編集]

  • 通州事件(つうしゅう じけん)
(※ 通州事件は、ふつうテストには出ません。)

盧溝橋事件の三週間後の1937年7月29日に起きた事件。 北京(ペキン)の東側にある通州(つうしゅう)で、中国人の保安隊による、日本人の居留民(きょりゅうみん)や日本人の守備隊など日本人 約260名への虐殺事件があった。

この事件もあって、日本の世論は中国にたいして、かなり強硬的になっていく。

7月25日の廊坊事件(ろうぼう じけん)や、26日の広安門事件(こうあんもん じけん)は、日本の軍隊に対しての攻撃事件である。だが、この通州事件は、民間人への攻撃事件であった。


  • 大山大尉殺害事件(おおやまたいい さつがいじけん)
(※ 大山大尉殺害事件は、ふつうテストには出ません。)

1937年の8月には、上海(シャンハイ)で大山勇夫(おおやま いさお)海軍中尉が殺害される事件が起きた。この事件を大山大尉殺害事件(おおやまたいい さつがいじけん)などと言う(死後、海軍大尉に特進。)


日本はこの大山事件を中国軍のしわざだと考え(真相は不明)、日本軍は1937年の8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。

宣戦布告をしてないので「事変」というが、じっさいには、戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まったと考える学説もある。いっぽう盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。

※ 「日中戦争のはじまりの時期を、いつと考えるか?」には、盧溝橋事件と考えるか上海戦と考えるか、その間の事件に対する報復攻撃の時期と考えるか、多くの説がある。このような事情があるので、日中戦争の開始の時期には、あまり、こだわる必要がない。もしテストに細かく日中戦争の開始時期を問う教育者がいれば、その教員の知識がうたがわれるだろう。

もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。


勘違い(かんちがい)されやすいが、上海事変は、てっきり盧溝橋事件の報復攻撃で、陸軍が南京まで攻め落としたのだろ、と勘違いされやすい。だが、じつは、上海戦は、海軍が事件の報復として、おこなった戦争である。


南京攻略戦[編集]

1940年の日中戦争での戦場。 (赤いところが日本が占領した場所。)

上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。) 国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。 首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を重慶(じゅうけい)などにうつし、日中戦争はつづいた。

南京攻略のとき、一説では、日本軍が中国の非戦闘員の民間人を殺害したという学説があり、この 1937年12月から1938年はじめの殺害事件を 南京事件(ナンキンじけん) と言う。なお、同名の「南京事件」が1913年や1927年にもあるが、この1913年や1927年の南京事件とは別の事件である。

1937年12月の南京事件については、いろんな説がある。

とえばたち、殺害された中国人については一般住民が殺されたとする意見がある。(現代(2014年)の中国政府の主張)
ほかの説では住民の服を着た中国軍の便衣兵(べんいへい)とよばれるゲリラ部隊が掃討(そうとう)されただけであるという意見もある。ほかにも、いろんな説があり、真相は不明である。

一般住民が殺されたという意見では、30万人が殺されたという説もあるが、日本の学者に多い意見では30万人という数字は大げさであり、たとえ住民虐殺があったとしても、もっと少ない人数だろう、という意見が強い。 住民が殺害されたという人数には、数百人から30万人まで、いろんな説がある。

南京戦の陥落直後の南京での人口が、国際委員会による南京の住民の人口の推計で、およそ20万人だろう、という発表があり、さらに陥落から1ヶ月後に安全委員会が南京の人口を計ったところ25万人にふえている。

なので、30万人の住民殺害は原理的に不可能なので誇張であり、たとえ住民殺害の事件があっても、数百名〜数千名ぐらいか、多く見つもっても中国軍人と中国住民の死者数を合わせても数万人の人数だろう、という説が日本では強い。

なお、ゲリラ部隊については、ゲリラ部隊があると、ゲリラとまちがえられた民間人に危害がくわわるという観点から、国際法ではゲリラは保護されないということが、1899年に国際的に決まったハーグ陸戦条約(ハーグ りくせん じょうやく)に明記されている。なので、戦争時にゲリラを殺害するのは正当な戦闘行為である。

(※ ハーグ陸戦条約は、ふつうテストには出ません。)

ただしゲリラと間違えられた住民にも、公正な裁判を受けることで無実をうったえる権利がある。

ゲリラ戦は、民間人をまきこんでしまうという危険があるので、ハーグ条約で禁止されているのである。


このような、いろんな事情があるので、くわしい被害者の人数については、テストでは出題されないだろう。もし、「南京事件でころされた人数を書け」という問題を出題する教員がいれば、教員の見識が、うたがわれるだろう。


この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。 この段階では、まだ、アメリカ兵と日本兵との戦争は起きていない。

アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。アメリカは援助にとどまり、まだ、戦闘には参加していない。 いっぽう、ソビエトは、おもに中国の共産党を援助した。


南京攻略後には、日中のあいだでドイツを仲介(ちゅうかい)にした和平のための和平工作もあったが(「トラウトマン工作」という)、日中両国の両国内での強硬派の意見もあり和平はまもまらずに、日中戦争はつづいていく。

日本の戦時体制[編集]

日本政府は、1938年には、国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人が動かせるように、国家総動員法(こっか そうどういんほう)を定めた。

戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは配給制(はいきゅうせい)になった。

「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とか「石油の一滴、血の一滴」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とかの標語が、戦時下の日本では言われた。

第二次世界大戦と太平洋戦争[編集]

第二次世界大戦[編集]

ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)
青いところがドイツ。
緑色が、ソビエトの勢力。
赤いところがイギリスやフランスの勢力。
ドイツのフランス占領(1940年)
青いところがドイツ。水色のところが、最終的にドイツに占領された場所。
緑色が、ソビエトの勢力。
赤いところがイギリスの勢力。

中国で日中戦争が行われているころ、ヨーロッパでは、ドイツ・イタリアと、イギリス・フランスとの間に1939年に戦争が起きた。この1939年のドイツとイギリス・フランスとの戦争に、アジア地域で行われていた日中戦争をくわえて、第二次世界大戦(だいにじ せかいたいせん,英語: World War II)と言う。

アメリカはイギリスの援助にとどまり、まだ、この1939年のときには、アメリカは戦闘には参加していない。

きっかけは、ドイツが1939年9月にポーランドに侵攻したことで、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスが、ドイツに宣戦布告した。 こうして第二次世界大戦(だいにじ せかいたいせん)が始まった。

いっぽう、ソビエトは事前の1939年8月にドイツと独ソ不可侵条約(どくソ ふかしん じょうやく)をむすんでいた。ソ連はポーランドの東部を占領し、ドイツとソビエトでポーランドの東西を分割した。またソ連はフィンランドを侵略した。

そのあと、ドイツは、デンマークやノルウェーなどを侵略し、ヨーロッパの多くの地域を占領した。 そして、1940年にはドイツはフランスを占領した。


いっぽう、中国大陸では、日中戦争がつづいていた。

日本は、ドイツが勝利をつづけていることから、1940年にドイツとイタリアと同盟を結んだ。

すでにドイツとイタリアが同盟をむすんでいたので、これに日本も加わった日独伊三国軍事同盟(にちどくい さんごく ぐんじどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)が1940年に結ばれたのである。日独伊三国同盟(にちどくい さんごく どうめい)とも言う。

(※ 小中高の教科書を確認したところ、「日独伊三国軍事同盟」と「日独伊三国同盟」のどちらとも用いられる。)

この日独伊三国同盟によって、イギリスは、日本の敵側になった。(フランスは、この時点ではドイツに占領されているので、はぶいた。)

また、アメリカはイギリスを支持していたので、日本とアメリカとの関係は悪くなった。


すでに1936年に、共産主義国であるソビエトに対抗するための、日独防共協定(にちどく ぼうきょうきょうてい、ドイツ語: Antikominternpakt)が日本とドイツとの間に、むすばれていた。また1937年11月にはイタリアが加入した日独伊防共協定(にちどくい ぼうきょうきょうてい)が結ばれていた。

しかし1939年にはドイツとソビエトとの間で、独ソ不可侵条約(どくソふかしん じょうやく、英: German-Soviet Nonaggression Pact)が、むすばれた。これによって、防共協定は、いったん、実効性(じっこうせい)が、なくなった。

しかし、日本とドイツはふたたび協力しあうことになり、1940年に日独伊三国軍事同盟が、むすばれたのである。

太平洋戦争[編集]

日本は、石油を輸入にたよっていた。石油がないと、軍艦などが動かせません。

しかし、日本は、油田を持つインドネシアを植民地に持つオランダとの交渉に失敗し、石油をアメリカからの輸入にたよっていた。 この当時、まだインドネシアは独立していなくて、「オランダ領東インド」(オランダ語:Nederlands-Indië、英語:Dutch East Indies)というオランダの植民地であった。

石油などの資源を確保するため、日本は東南アジアに進出しようと考え、今のベトナムやラオスやカンボジアのあたりの地である、フランス領インドシナに日本は軍をすすめました。(当時、まだベトナムやラオスやカンボジアは独立していなくて、フランスの植民地であった。)


これに対して、アメリカは、日本への石油の輸出禁止にふみきった。

アメリカにくわえ、オランダやイギリスや中国も、同様に日本への輸出を制限していたので、日本はこれを「ABCD包囲網」(エービーシーディー ほういもう)と読んだ。ABCDとはアメリカ(America)、イギリス(Britain ブリテン)、中国(China チャイナ)、オランダ(Dutch ダッチ)の4カ国のことである。

現代(2014年に記述。)では「ABCD包囲陣」(エービーシーディー ほういじん)とも言う。(英語表記は、ABCD line、または ABCD encirclement)


まだ、アメリカとは戦闘は始まってません。

日本は、アメリカと交渉をしました。しかし、アメリカからきびしい要求をつきつけられました。このときのアメリカからの要求を「ハル・ノート」(英:Hull note)と言う。アメリカの国務長官のコーデル・ハル(Cordell Hull)の名が由来。


ついに日本はアメリカとの戦争に、ふみきりました。

真珠湾攻撃で炎上中のアメリカ海軍の軍艦。戦艦(せんかん)ウェストバージニア。

日米戦争の開戦のときの日本の首相は、東条英機(とうじょう ひでき)です。

東条英機(とうじょう ひでき)
日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)

1941年の12月8日に、日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾(しんじゅわん、 英:Pearl Harbor パールハーバー )にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃したことで、 太平洋戦争 (たいへいよう せんそう)が始まります。真珠湾攻撃(しんじゅわん こうげき、英語:Attack on Pearl Harbor)などの、日本を中心とした太平洋方面の戦争を、太平洋戦争(たいへいよう せんそう,英語:Pacific War または Asia-Pacific War)と言う。

この真珠湾攻撃では、航空機を利用したアメリカ軍基地やアメリカ軍艦への爆撃が、大きな戦果をあげました。なので、真珠湾攻撃の以降、日米の海軍では、航空機が重視されるようになります。なお、戦争用の航空機を運ぶための軍艦のことを、空母(くうぼ、英:carrier)と言います。


この奇襲攻撃のあと、アメリカ政府は日本の外交官から日本の宣戦布告の知らせを聞いた。このため、アメリカ国内では、日本の奇襲攻撃は、だましうちだとして、アメリカで反日的な意見が強まっていった。


  • 「大東亜戦争」という、よびかたについて

当時、日本では、この太平洋方面の戦争のことを「大東亜戦争」(だいとうあ せんそう)と言ってたが、戦後になり戦勝国のアメリカが「大東亜戦争」の用語は軍国主義であると考え使用が禁止されたので、それからは太平洋戦争という表現がつかわれるようになった。

歴史学者の中には、「アジア・太平洋戦争」という用語を用いる人もいる。だが、べつに「アジア・太平洋戦争」という用語を学校の歴史の授業で用いるべきと決めたような日本国民の合意も法律も無い。

小学校のテストでは、この太平洋方面の戦争についての名前のことは「太平洋戦争」という表記を書いておけば、とくに問題はないだろう。

(※ 小中高の検定教科書を確認したところ、「太平洋戦争」(The Pacific War)と「大東亜戦争」(Great East Asia War)と「アジア太平洋戦争」のどちらとも用いられることを確認してある。2014年に記述。
第二次大戦後は「太平洋戦争」という呼びかたが一般化したので、本書では、とくに断らないかぎり「太平洋戦争」という呼びかたという呼びかたを用いる。)


  • 枢軸国(すうじくこく)と連合国(れんごうこく)

日本とドイツとイタリアの3カ国のことを枢軸国(すうじくこく、英語: Axis Powers、ドイツ語: Achsenmächte)という。いっぽうアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト、中国の陣営を連合国(れんごうこく)と言う。

第二次世界大戦は、ドイツとイタリアと日本との枢軸国(すうじくこく)という陣営(じんえい)が、イギリスとフランスとソビエトとアメリカと中国という連合国(れんごうこく)という陣営とたたかう、戦争になった。

第二次世界大戦で、日本と戦った相手の国について、よく勘違いされやすいことがあるので、注意点をいくつか書きます。

・ 日本は、韓国とは戦争をしていません。そもそも朝鮮は日本に併合されていたので、韓国という国は当時は、ありません。朝鮮は日本の側である枢軸国の側です。戦後、韓国が日本から独立したこともあって、まぎらわしいですが、少なくとも太平洋戦争では日本と韓国とは戦争していません。
・ 日本は、台湾(タイワン)とは戦争をしていません。当時、台湾島は日本国の一部です。
・ 現代のインドネシアやベトナムやタイやミャンマーなどの、東南アジアの国は、当時はありません。当時、東南アジアは、オランダやフランスなどのヨーロッパの国の植民地でした。東南アジアの地域の先住民たちは独立を望んでいたので、植民地政策を行って先住民を支配しているオランダなどの国は、先住民たちの敵でした。
先住民と日本は、オランダやフランスなどを敵と考え利害が一致したので、先住民たちの多くは日本の側に協力しました。このことが、戦後の東南アジア各国の独立に、つながっていきます。


日米戦争の開戦のはじめごろは日本が有利だった。だが、1942年にミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)で、日本はアメリカに負けます。このミッドウェー海戦の以降、アメリカに有利になり、日本は不利になります。

なお、日本政府では、戦局(せんきょく)の悪化にともない、首相の東条英機の指導力をうたがう意見が強くなり、マリアナ沖海戦での敗退やサイパンの敗退などがつづき、東条は議会の政治家からの支持も失い、東条内閣は総辞職に追い込まれる。 そして東条内閣のつぎには、1944年(昭和19年)7月22日から小磯國昭(こいそ くにあき)を首相とする小磯内閣(こいそないかく)が誕生し、1945年(昭和20年)4月7日まで小磯内閣がつづいた。

大東亜共栄圏[編集]

大東亜会議の出席者

日本は、資源がすくなかったので、資源を確保するために、東南アジアに日本軍が進出しました。日本軍は、東南アジア現地のオランダ軍やイギリス軍などと戦いました。

このとき、日本は、表向きの戦争の正当化の理由として、ヨーロッパ諸国による東南アジアでの植民地支配の打倒と、現地住民の支配からの解放の理念をかかげて、戦争をしました。

日本は占領した土地には、きびしい統治をした。だが、現地の独立運動の指導者たちはヨーロッパの支配からの独立を目指していたので、きびしい日本の統治にもたえぬき、日本に協力をした。

(のちに、第二次大戦では日本が負けますが、するとイギリス軍やフランス軍やオランダ軍は、ふたたび東南アジアを支配しようと、もどってきました。だが、現地の先住民たちはヨーロッパ人の軍とたたかい、次々と東南アジアで国が独立していきます。)

二次大戦中の話にもどる。

1943年には、東京で大東亜会議(だいとうあ かいぎ)をひらき、タイ、満州、ビルマ、フィリピン、インドなどの代表をあつめ、欧米からの植民地支配の解放などを宣言した大東亜共同宣言(だいとうあ きょうどうせんげん)をしました。 (「大東亜戦争」という呼び名は、この宣言よりも1941年に前に決まっている。)

そして、東南アジアを欧米の支配から解放し、東南アジアにアジア諸民族たち自身の勢力地である 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん) を設立するという目的が、戦争の表向きの目的として、かかげられました。

第二次大戦のあと、最終的に、東南アジアは欧米の植民地支配から独立するので、東南アジアの解放については目的を達成したことになる。


  • 朝鮮半島や台湾などでは

いっぽう、第二次世界大戦が始まって、朝鮮では、朝鮮の人々の名前を、日本風の名前に改める政策が行われました。この政策を創始改名(そうし かいめい)といいます。

また、日本国内で、徴兵のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者が足りなくなったので、朝鮮半島や台湾から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで働かせました。きびしい労働だったと言われています。

朝鮮や台湾でも徴兵を行い、朝鮮や台湾の人々は、日本軍の兵士として、戦場に送られました。


日本の敗戦へ[編集]

第二次大戦の戦況は連合国に有利にすすみ、枢軸国のドイツ・イタリア・日本は不利になっていった。まず、1943年にはイタリアが降伏した。 そして、1945年5月にはドイツが降伏(こうふく)した。

  • 学徒出陣
学徒出陣(1943年(昭和18年)10月21日)

戦争で日本が不利になるにつれて、兵士が足りなくなっていった。そして1943年には、それまで徴兵(ちょうへい・・・兵士として、動員すること。)をされていなかった文科系(ぶんかけい)の大学生も、兵士として動員された。これを学徒出陣(がくと しゅつじん)という。(理科系の大学生は、徴兵されなかった。)

大阪高等商業学校(現・大阪市立大学)での軍事教練

また、学生を兵士として育てるため、小学校から中学・高校・大学まで、日本中の学校で、軍事教練(ぐんじ きょうれん)が行われました。


  • 勤労動員(きんろう どういん)


  • 空襲(くうしゅう)と疎開(そかい)

ミッドウェー海戦で日本が敗れると、戦争はアメリカに有利に進んでいきます。そしてアメリカ軍がサイパン島を占領すると、このサイパン島から飛び立ったアメリカ軍の爆撃機(ばくげきき)のB29によって、日本の各地が空襲で攻撃されるようになります。

とくに、都市が空襲の目標になることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、空襲の危険からのがれるため、両親からはなれて地方へと移り住む(うつりすむ)、集団疎開(しゅうだん そかい)を させられました。


  • 東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう)
東京大空襲で焼け野原となった東京。

1945年3月10日の東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう、英:Bombing of Tokyo)では、約10万人の人が亡くなった。

民間人への爆撃である無差別爆撃(むさべつ ばくげき)は、戦時国際法(せんじ こくさいほう、英: Law of War)に違反している。

  • 沖縄戦(おきなわせん)

1945年4月1日には、アメリカ軍が沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)に上陸し、地上戦になった。 沖縄県民の10万人以上が亡くなりました。アメリカ軍は沖縄を侵略(しんりゃく)した。

  • 原子爆弾(げんしばくだん)
長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲
1945年8月9日
原爆投下後の広島のようす。

アメリカは1945年の8月6日に広島に原子爆弾(げんし ばくだん、 略して原爆(げんばく)とも言う。 )を おとした。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる一般市民が亡くなった。また9日には長崎に原子爆弾がおとされた。長崎では8万人ほどが亡くなった。

  • ソ連の参戦

8月8日、ソビエトは日ソ中立条約をやぶって満州に攻め込んだ。

  • ポツダム宣言

日本は、アメリカ・イギリス・ソビエトの代表が決めた日本の降伏の条件である ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英語: The Potsdam Declaration) を受け入れ、1945年の8月14日に、日本は降伏した。

ポツダム宣言では、日本軍の無条件降伏(むじょうけん こうふく)、という条件を定めている。くわしく言うと、ポツダム宣言で無条件降伏をさせられたのは、日本軍であって、日本政府ではない。

1945年(昭和20年)の8月15日には、ラジオ放送で昭和天皇が国民に、日本の降伏を発表した。このときのラジオ放送を玉音放送(ぎょくおん ほうそう)と言う。


こうして日中戦争や太平洋戦闘をふくむ第二次世界大戦は、おわった。

  • 韓国の独立

いっぽう、かつて日本に併合されていた朝鮮半島では、1945年9月2日に、北緯(ほくい)38度線をさかいに、線の北にはソ連軍が進出してソ連に占領され、また朝鮮半島の南半分にはアメリカ軍が進出してきた。1948年に朝鮮半島で半島の南側には大韓民国(だいかん みんこく)が独立し、同じ年に半島の北側では北朝鮮(「きたちょうせん」、正式名称は朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせん みんしゅしゅぎ じんみん きょうわこく) )が独立する。

  • 満州国の消滅

満洲はソ連軍の軍政下に入り、そのあと中華民国に渡された。

  • シベリア抑留(よくりゅう)問題

日本がポツダム宣言を受諾したにもかかわらず、ソビエトは1945年の8月8日に満州に侵攻し、ソ連軍は攻撃や略奪(りゃくだつ)をおこなった。ソビエト軍につかまった日本人は、軍人や民間人をとわず、満州にいた日本人はシベリアなどのソ連領に連行されて、奴隷(どれい)のような労働力として日本人が酷使(こくし)された。( シベリア抑留(よくりゅう)問題 )

このため、6万人以上の日本人が死亡しました。

このソ連によるシベリア抑留は、ポツダム宣言に違反した行為である。ポツダム宣言の条件文は、日本への条件だけでなく、戦勝国どうしにも条件をつけている宣言であり、その約束にソ連は違反しているのである。ポツダム宣言の第9項目では、武装解除した日本兵は日本に送りかえすことを、連合国どうしで約束しているのである。


  • 台湾

台湾は、中華民国に編入された。


  • 各国の第二次世界大戦での犠牲者(ぎせいしゃ)
中国 - 約1000万人
朝鮮 - 約20万人
ソ連 - 約2000万人
日本 - 約310万人、そのうち軍人が約230万人、民間人が約80万人、

その他、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、東南アジアなどで犠牲者が多数

アメリカ占領下の日本[編集]

アメリカ大使館でのマッカーサー(左側の人物)と昭和天皇(右側)(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)

1945年8月に日本が降伏し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に占領されます。 アメリカの占領目的は、日本がアメリカの脅威にならないように、日本の体制を作りかえることだったが、表向きの目的として、日本の「民主化」(みんしゅか)をかかげた。

日本政府は、終戦しても、のこったが、その上にアメリカ軍の 連合国軍総司令部(れんごうこくぐん そうしれいぶ)であるGHQジー・エイチ・キュー、General Headquarters ゼネラル・ヘッドクォーターズ の略)が日本政府に命令するという、政治のしくみになった。

ただし、沖縄や奄美(あまみ)や小笠原諸島(おがさわら しょとう)では、アメリカが直接、統治するしくみになった。


GHQの最高司令官はマッカッサーというアメリカ軍人であった。

占領政策は、まずポツダム宣言にもとづき、日本軍を解散させた。

  • 東京裁判(とうきょう さいばん)
パール判事の肖像画(靖国神社内、顕彰碑)

戦争を指導した人間は、戦争犯罪人(せんそうはんざいにん)として、「裁判」にかけられて、東条英機など7名が死刑になった。

この戦争指導者をさばいた裁判を東京裁判(とうきょうさいばん)あるいは極東国際軍事裁判(きょくとう こくさい ぐんじさいばん)と言う。

だが、東京裁判は「裁判」とは言うものの、裁かれたのは敗戦国がおこなった行為だけであり、アメリカやソビエトなどの戦勝国のおこなった民間人殺害などの戦争犯罪については裁かれなかった。アメリカ軍による東京大空襲などの空襲や、原爆投下などは、東京裁判では、まったく、裁かれなかった。 ソ連の満州侵攻による民間人への攻撃なども、まったく東京裁判では裁かれなかった。

また、「戦争犯罪人」とさせられた日本人は、じゅうぶんな弁護を受けられず死刑にされ、実際には裁判とは名ばかりの戦勝国による敗戦国指導者の処刑のための手続きであった。


東京裁判の判事は、連合国を中心としたいくつかの国から出された。裁判とは名ばかりの東京裁判の方針を批判する判事もいた。インド連邦のパール判事は「この裁判は、国際法から見ると問題がある。」というような内容の少数意見書を出し、パール判事は被告人を無罪とする意見をのべた。だが、東京裁判の法定では、パール判事の意見が読み上げられることはなかった。

パールは『パール判決書』の中で、

   「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」

と記述している、また

  『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう。』

と記述している。


パールは、連合国を批判するいっぽうで、日本の戦争犯罪も批判した。南京事件については「この物語のすべてを受け入れる事は困難である」と、検察の提示した十数万から数十万もの証言や証拠に強い疑問を言った。ただし、パールは「宣伝(せんでん)と誇張(こちょう)をできるかぎり斟酌(しんしゃく、 意味:意図をくみとること。 )しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜(ふりょ)に対し犯したものであるという証拠は、圧倒的である」と、日本軍による犯罪行為その物は存在したと判断している。

連合国の判事の中にも、少数だがパール判事の見解に賛成する者がいた。オランダのベルト・レーリンク判事も、パール判事を支持した。


戦後の改革と日本国憲法[編集]

当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での日本国憲法の三原則を表した挿し絵。
当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での戦争放棄の原則を表した挿し絵。
  • 日本国憲法(にほんこく けんぽう)

1946年には、あたらしい憲法の日本国憲法(にほんこく けんぽう)が交付された。 この日本国憲法はGHQがつくった憲法案を、ほとんどそのまま議会が採択したものである。

この新憲法の日本国憲法では、 国民主権(こくみんしゅけん) ・ 基本的人権(きほんてきじんけん)の尊重(そんちょう) ・ 平和主義(へいわしゅぎ) の3つの原則が掲げられた。


戦時中に政治犯として捕まっていた人などは釈放されるなどして、表向きは、アメリカの占領による言論の自由が、かかげられた。だが一方で、アメリカに不都合な主張は検閲(けんえつ)され、また戦時中の戦争指導者を擁護(ようご)するような主張も検閲(けんえつ)された。

つまり、言論の自由や出版の自由などは表向きには保証されたが、実際はアメリカなど連合国に不都合な言論については弾圧された。


戦前や戦争中の日本の外国への軍事行動を「侵略」と批判する主張は許可されても、いっぽうでイギリスやフランスなどの東南アジアやアフリカなどでの植民地支配を批判するような主張はほとんど許可されなかった。

このような占領の方針により、「戦前の日本は、まったく民主的では、なかった」というようなまちがった主張が、第二次大戦後の日本では、強まることになる。 (実際には、明治憲法は、当時としては民主的な憲法であった。また、戦前にも普通選挙はあった。戦前から選挙制度があったにも関わらず、日本国民の多くは、戦争の道義的な責任を、指導者に、なすりつけた。)

また、戦前の日本の立場について、少しでも擁護したり、戦勝国の言い分に反論を述べると、まわりの日本人から「軍国主義者」などと批判されるような時代が、戦争が終わっても40年くらい、つづいた。


もっとも、実際に、民主的な政策も、占領下の改革では行われた。 たとえば、以下のような改革が行われた。

・ 治安維持法の廃止。
・ 選挙権を拡大し、女性もふくむ、20才以上の男女に選挙権を与えた。
・ 家族における、家父長制(かふちょうせい)の廃止。それまでは、父親や長男が特別に強い権限を持っていた。しかし、家父長制を廃止する改革により、戦後は、夫婦の権利は平等になり、また兄弟の権利は平等になった。

他にも、占領軍が、この政策は民主化である、と考えた政策が実行された。 たとえば、

・ 農地改革 
「農地解放」(のうちかいほう)と称して、農業の地主から土地の多くを取り上げ、その土地を小作人に与えられた。占領軍は、農業の地主と小作人の関係を封建的な関係と思ったようで、その封建的な関係が、軍国主義を助長した、と考えたようである。この農地解放は、政治的には、日本国民からの人気の多い政策だった。
だが、皮肉なことに、その後の時代の農業では機械化が進んでいったこともあり、大きな農地のほうが生産が有利になっていく。いっぽう、農地解放で小さな土地しかもたない農民がふえたことで、農業の生産性が低下した。
また、じつは、農地改革は戦前から日本政府が考えていた政策であった。真相は、日本政府が占領軍の権威をもちいて農地改革を実行しただけだった。
・ 国会では貴族院が廃止され、国会議員はすべて国民からの選挙で選ばれるようになり、また議院は衆議院(しゅうぎいん)と参議院(さんぎいん)の二院制になった。


  • 「経済の民主化」
・ 財閥解体(ざいばつ かいたい)
占領軍は、日本の財閥について、戦前に財閥が経済を支配しており、そして財閥による経済支配で戦争の総動員体制に協力したと考えた。なので、「経済の民主化」などと称して、財閥が複数の会社に分割させられた。

なお、実際の戦前の昭和期には、財閥を敵視する軍国主義者などの勢力が政権をにぎっていったので、「財閥が経済を支配したから、戦争になった」というような考えは、どうなんでしょうか? 明治期の日本は輸出品として生糸などを欧米に輸出していたが、アメリカは、どこの国から生糸を輸入したんでしょうか?

・ 労働組合が認められるようになった。


  • 「教育の民主化」
・ 軍国主義的と思われる教育が禁止された。一般の学校での軍事教練なども禁止された。
・ 教育勅語(きょういく ちょくご)の廃止により、教育の反・国家主義化が行われた。

ちなみに、教育勅語の内容は、以下の通り。

ちんおもうに、  皇祖皇宗こうそこうそう くにはじむること宏遠こうえんに、 

とくつること深厚しんこうなり。   臣民しんみん) ちゅうよくこうに、 

億兆おくちょうこころいつにして 世々よよせるは、 

国体こくたい精華せいかにして、 

教育きょういく淵源えんげんまたじつここそんす。


なんじ臣民しんみん)  父母ふぼこうに、 

兄弟けいていゆうに、

夫婦ふうふ相和あいわし、朋友ほうゆう相信あいしんじ、 恭倹きょうけんおのれをし、

博愛はくあいしゅうおよぼし、

がくおさめ、

ぎょうならい、

もっ智能ちのう啓発けいはつし、

徳器とくき成就じょうじゅし、 すすん公益こうえきひろめ、

世務せいむひらき、

つね国憲こっけんおもんじ、国法こくほうしたがい、

一旦いったん緩急かんきゅうあれば義勇ぎゆうこうほうじ、

もっ天壌無窮てんじょうむきゅう皇運こううん扶翼ふよくすべし。

かくごときはひとちん忠良ちゅうりょう臣民しんみんたるのみならず、

またもっなんじ祖先そせん遺風いふう顕彰けんしょうするにらん。

みちじつ皇祖皇宗こうそこうそう遺訓いくんにして、

子孫しそん臣民しんみんとも遵守じゅんしゅすべきところ

これ古今ここんつうじてあやまらず、これ中外ちゅうがいほどこしてもとらず、

ちんなんじ臣民しんみんとも拳々服膺けんけんふくようして、

みなそのとくいつにせんことを 庶幾こいねがう。


明治めいじ二十三ねんがつ三十にち

(※ 以上が、教育勅語。)

内容の一部を現代語に訳すと、

  1. 父母ニ孝ニ → (親に孝行(こうこう)をしましょう)
  2. 兄弟ニ友ニ → (兄弟・姉妹は、なかよくしましょう)
  3. 夫婦相和シ → (夫婦は、おたがいに、協力しあいましょう)
  4. 朋友相信シ → (友だちは、おたがいに、信じ合いましょう)
  5. 恭儉己レヲ持シ → (うぬぼれすぎず、いばりすぎないように、自分を引きしめましょう(ひきしめましょう)。)
  6. 博愛衆ニ及ホシ → (広く全ての人に、やさしくして、博愛(はくあい)の手を、差し出しましょう)
  7. 學ヲ修メ業ヲ習ヒ → (勉学に、はげんで、職業(しょくぎょう)を身につけましょう)
  8. 以テ智能ヲ啓發シ → (知識をつけて、才能も伸ばしましょう(のばしましょう) )
  9. 德器ヲ成就シ → (人格も、立派(りっぱ)な心をめざして、向上(こうじょう)させましょう)
  10. 進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ → (世のため人のためになる仕事もしましょう)
  11. 常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ → (日本の憲法(けんぽう)を守り、日本の法律(ほうりつ)を守りましょう)
  12. 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ → もしも国などに危機があったなら、自発的に国などのために協力(きょうりょく)して、それにより永遠の皇国(こうこく、意味:日本のこと)を支えましょう(ささえましょう)

と、いうふうになる。(※ 教育勅語の現代語訳は、現代語訳をする人ごとに、それぞれ現代語訳がちがうことも多い。なので、暗記しなくていい。)

そのほか、教育に関しては、義務教育が小学校6年・中学校3年の、9年間の義務教育になった。 また、教育基本法や学校教育法が定められた。

戦後の学校[編集]

  • 青空教室

空襲などで、学校の校舎(こうしゃ)が焼けてしまったので、終戦後には、授業を校庭などで行うことが多かった。このような、戦後の、外での授業のことを青空教室(あおぞら きょうしつ)という。

  • 墨ぬり教科書

戦後になり、戦前の教科書の記述の一部は軍国主義的であるとして、戦後の教育には不適切だと考えられたので、新しい教科書ができるまでの間、それまでの教科書の記述の一部に、墨ぬりが行われた。これを 墨ぬり教科書(すみぬりきょうかしょ) という。

戦後の生活[編集]

(未記述)


戦後の国際社会[編集]

  • 国際連合

第二次大戦のときにあった連合国(United Nations ユナイテッド・ネイションズ)は、第二次大戦の戦後には、あらたな戦争をふせぐために国際政治を話しあう国際機関として1945年に作りかえられた。


この連合国の国際機関としての変化はアメリカのルーズベルト大統領の提案による。


その国際政治を話しあう場所に変化した連合国の機構が、現在(西暦2014年に本文を記述)の国際連合(こくさいれんごう、英:United Nations ユナイテッド・ネイションズ)である。

日本では、国際連合のことを、国連(こくれん)と略すことも多い。

国連の本部は、アメリカのニューヨークにある。


この国際連合(こくさいれんごう)は、戦前にあった国際連盟(こくさいれんめい、League of Nations)とは、べつの組織である。(たとえば、国際連盟League of Nations の本部はスイスのジュネーブにあった。)


英語では、戦時中の連合国と、戦後の国際連合は、同じ United Nations ユナイテッド・ネイションズ である。 たとえば中国語では、「联合国」と言う。日本語の「連合国」と、同じ由来の字である。


戦争中の連合国の同盟を元に国際連合をつくったのではなく、そもそも同じ組織である。 同じ組織なので、英語では同じ United Nations ユナイテッド・ネイションズ である。

「連合国」と「国際連合」というように名前を変えているのは、日本国が勝手に名前を変えて呼んでいるだけにすぎない。

また、主要国が国際政治をはなし合う場所を国際連合にかえたことで、前にあった国際連盟は、自然に消えた。


国際連盟の常任理事国は、第二次大戦の連合国の主要国である。国際連合の常任理事国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国の5か国である。

国際連合は、平和をまもるために話し合いをする機関ということになったが、その「平和」とは、戦勝国にとって都合の良い平和にすぎなかった。

また、戦時中の連合国が元になってるので、日本やドイツを「敵国」として認定する旧敵国条項(きゅうてきこくじょうこう)が、今(本文を2014年に記述)でも残っている。

なので、中立国であるスイスは2002年まで国際連合には加盟しなかった。


現在の学校の社会科の教育は、この占領の時期につくられた教育内容が手本になってるので、学校教科書や参考書には、占領軍の言い分を無批判に採用している教科書も多い。

そのようなことが教育問題にもなっており、1990年代には、社会科の教科書を改革するために社会科の学校教科書をつくろうという運動もおこされるようになった。


日本では、軍隊の買いたいと同じころに、民主化をすすめるための改革が行われたので、民主主義と非武装を混同する意見が日本では強まった。 「軍隊があると、民主的でない」、「徴兵制は民主的でない」というような混同が、日本国内では強まった。

もちろん、この混同は、あやまった発想である。

なぜなら、世界には、徴兵制のある国も存在する。たとえば大韓民国には徴兵制がある。 イスラエルにも徴兵制がある。 そして、大韓民国もイスラエルも、アメリカの同盟国である。 アメリカは民主主義の国である。そもそも戦後の日本の占領時期の「民主化」が、アメリカによって命令されたものである。

もし徴兵制が民主主義でないならば、アメリカは民主主義でない韓国やイスラエルと同盟を結んでいることになる。

なお、スイスにも徴兵制がある。徴兵制が民主的でないならば、国際連盟の本部のあるスイスは民主的でないことになるから、国際連盟の本部は民主的でないことになる。


  • 冷戦(れいせん)

第二次大戦後、世界の国々は、アメリカやイギリスを中心とする「西側」の陣営と、ソビエトを中心とする「東側」の陣営にわかれました。「西側」とか「東側」とは、ヨーロッパを中心とした地図での話だからです。ソビエト連邦のあったロシアはヨーロッパの東側にあるし、またヨーロッパ東部にはロシアに占領された地域が多かったので、このような呼び名になりました。

いっぽう、アメリカは、ヨーロッパから見れば大西洋をはさんで、西側にアメリカがあります。

この米英の西側陣営と、ソビエトの東側陣営との対立を「冷たい戦争」(つめたい せんそう)あるいは「冷戦」(れいせん、英:Cold War)と言います。じっさいには、アメリカとソ連とは、直接は戦争をしていません。ですが、まるで戦争中であるかのように対立しています。なので、熱戦ではなく、冷戦と言われてるわけです。

ソ連の経済の体制が、共産主義という、私有財産や私企業を認めない制度であったので、

冷戦は米英のような資本主義の陣営と、ソ連を中心とした共産主義の陣営との対立であるだろう、

というような見方をされることもあります。

1989年にソビエト連邦が崩壊してロシアなどのいくつかの国にわかれるまで、冷戦が続きました。

ソ連が崩壊したので、冷戦ではソ連が負け、アメリカが勝ちました。


  • アジアとアフリカの独立

欧米の植民地となっていた国々では、第二次大戦後に、次々と独立運動がおこり、独立していった。 とくに東南アジアや南アジアでは、第二次大戦中に日本の支援した独立運動が戦後もつづいており、インドネシアやベトナミやインドなどの国々が独立していった。


  • 中国の政変

ソビエトの支援を受けた中国共産党が、国民党と戦闘し、中国は内戦になった。そして共産党が勝利し、中国は、1949年に 中華人民共和国(ちゅうか じんみん きょうわこく) という国になった。 共産党の支配者は毛沢東(もう・たくとう)という人物であるので、毛沢東が中国大陸の支配者になった。

いっぽう、負けた蒋介石ひきいる国民党は台湾に、のがれた。

このため、台湾は中華民国になった。このころの中国は、「中華人民共和国」と「中華民国」との2つの中国が存在する状況になった。


  • 朝鮮戦争(ちょうせん せんそう)

朝鮮半島では、1951年に北朝鮮が韓国に攻め込んで朝鮮戦争(ちょうせん せんそう、英:Korean War) がおきた。


アメリカ軍を主力とする国連軍(こくれんぐん、United Nations Force ユナイテッド・ネイションズ・フォース)が、韓国をたすけて、北朝鮮軍と戦闘。 中国は、北朝鮮をたすけて、中国は「義勇軍」(ぎゆうぐん)という名目で、じっさいには正規の部隊である中国軍をおくり、中国軍と国連軍とが戦闘した。

この国連軍と中国・北朝鮮軍との戦闘は、休戦協定が1953年にむすばれるまで、つづく。


  • 日本の再軍備
警察予備隊でのバズーカの訓練

朝鮮戦争により、アメリカ軍が苦しくなると、アメリカは、日本を西側の陣営にくわえようとしたので、日本の占領政策を変えました。

アメリカは日本に軍隊をつくらせようとしましたが、日本国憲法のしばりがあって軍隊をつくれないので、かわりに「警察予備隊」(けいさつ よびたい)という組織を日本につくらせました。

おそらく、「軍隊」とは呼べないので、かわりに「警察」と呼びたい、というわけなのでしょう。

警察予備隊の装備は、そのころの時代の軍隊の歩兵に近い銃火器を装備したり、また、警察予備隊の訓練はアメリカ軍の指導のもとにおこなわれたりなど、どう見ても軍隊としか思えない「警察予備隊」でした。

そのあと、警察予備隊は1952年に「保安隊」(ほあんたい)に発展し、さらに保安隊から1954年には「自衛隊」になりました。


日本国内では、憲法の建前上、自衛隊は軍隊ではない、ということになっていますが、外国は、そうは見てくれません。

たとえば、自衛隊の英訳は Self-Defense Forces セルフ・ディフェンス・フォース となってますが、Force フォース とは「軍隊」という意味です。


また、経済的には、日本はアメリカ軍から大量の物資の注文をうけたので、日本は好景気になった。この朝鮮戦争のときの好景気は、「特需」(とくじゅ)と言われた。


朝鮮戦争によって、アメリカは日本を西側の陣営に加えようとした。そのためアメリカは、米軍基地の存続を条件に、日本の独立をはやめようとした。

サンフランシスコ平和条約での署名式
吉田茂(よしだ しげる)

そのため講和会議がひらかれることになり、1951年9月にアメリカのサンフランシスコで講和会議がひらかれた。そして日本国は、西側陣営である自由主義諸国などの48カ国とのあいだに サンフランシスコ平和条約(英:Treaty of Peace with Japan) をむすんだ。 こうしてアメリカ・フランス・カナダ・オランダ・ベルギー・オーストラリアなどをふくむ48カ国と平和条約が、むすばれた。

このころの日本の首相は、吉田茂(よしだ しげる)である。日本国は吉田茂首相を全権にして、サンフランシスコ平和条約に調印した。

そして翌年の1952年には、日本は独立を回復し、主権を回復した。 この条約によって、GHQは廃止された。

しかし沖縄は、ひきつづきアメリカの統治下におかれることになった。


なお、ソ連とは、サンフランシスコ平和条約では、講和していない。ソ連は日本の北方領土の国後島などを不法に占拠しているので、講和を見送ったのです。ソ連と日本の国交回復は、1956年の日ソ共同宣言(にっそ きょうどうせんげん)で行われます。


また、サンフランシスコ平和条約といっしょに、日本国内のアメリカ軍基地に、ひきつづきアメリカ軍がとどまるための条約である 日米安全保障条約(にちべい あんぜん ほしょう じょうやく、英:Security Treaty Between the United States and Japan) が日本とアメリカとのあいだで、むすばれた。 略して「安保」(あんぽ)とか、「安保条約」(あんぽじょうやく)とか、「日米安保」(にちべいあんぽ)などと言う場合もあります。


  • 国際連合への日本の加盟

日本は、独立後も、しばらくは国際連合の加盟は出来ずなかった。なぜなら、常任理事国であるソ連が日本の加盟に反対していたからである。

しかし。1956年に日ソ共同宣言がむすばれて日本とソ連との国交が回復したこともあり、ソ連も日本の国連解明に反対をしなくなり、1956年に国際連合の加入を認められた。 日本では、この1956年の国連加盟をもって「国際社会へと復帰した。」という意見が多い。

ちなみに、スイスは2002年まで国際連合には加盟していない。

戦後の復興[編集]

高度経済成長と東京オリンピック[編集]

  • 高度経済成長(こうど けいざいせいちょう)

朝鮮戦争による特需による好景気もあり、日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまで、もどった。 1956年に政府が出した経済白書では「もはや戦後ではない。」とまで書かれている。

1950年代のなかごろから重化学工業が発達していった。

池田勇人(いけだ はやと)

1960年に、内閣の池田勇人(いけだ はやと)首相は、「所得倍増計画」(しょとくばいぞう)を目標にかかげた。 好景気により、日本人の所得は増え、1968年には所得が倍増し、目標が達成された。 この好景気は1970年代の前半まで、つづく。

「三種の神器」(さんしゅのじんぎ) 白黒テレビ・電気式洗濯機・電気式冷蔵庫の3つの製品が普及し、「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が「三種の神器」と言われた。

この1960年〜1970年代ころの好景気による日本の経済力の成長のことを、高度経済成長(こうど けいざいせいちょう)と言う。


東京オリンピック。10,000メートルで優勝したミルズ(アメリカ)
  • 東京オリンピックと万国博覧会

アジアで最初のオリンピック(Olympic)が、1964年に東京で開かれた。(東京オリンピック)

また、東京オリンピックに合わせて新幹線(しんかんせん)もつくられ、東海道新幹線(とうかいどう しんかんせん)が開通した。

大阪での万国博覧会。

1970年には、大阪で万国博覧会(ばんこくはくらんかい、英: Universal Exposition, 仏: Exposition universelle)が、ひらかれた。

  • 沖縄返還

1972年に沖縄は日本に返還された。


  • 日中共同声明(にっちゅう きょうどう せいめい)

アメリカはソ連との冷戦を有利にすすめるため、中国大陸を支配している共産党の政府である中華人民共和国の政府と、1960年代ごろからアメリカは友好をむすんだ。

アメリカに軍事的に守られている日本も、このような国際的な流れに乗り、1972年の田中角栄(たなか かくえい)内閣のときに、日本は、それまで承認していた台湾の中華民国にかえて、中国大陸の中華人民共和国の政府を承認した。これにともない、日本は一方的に台湾の中華民国政府との国交を断絶した。

1952年に日本と国民党の中華民国とのあいだにむすばれていた日華平和条約(にっか へいわじょうやく)があったのだが、日本は一方的に、この日華平和条約を破棄(はき)したのである。

なお、2013年では、中華民国を国家承認している国家は22カ国である。

さて、1970年代の話に、もどる。 日本は台湾を無視し、人民共和国と日本とのあいだで、一方的に「日中共同声明」(にっちゅうきょうどうせいめい)を1972年に発表した。また1978年には、やはり台湾との友好を無視し、日本と中華人民共和国とは一方的に「日中平和友好条約」(にっちゅう こっこうゆうこうじょうやく)を結んだ。

日本では、これら一連の人民共和国との友好化のために台湾を見捨てた政策は、一方的に「日中国交正常化」(にっちゅう こっこう せいじょうか)とか「日中国交回復」(にっちゅう こっこう かいふく)などとして正当化された。


2014年の時点では、台湾の中華民国は、日本政府は承認していない国である。


  • 韓国との国交

朝鮮半島の大韓民国とは、1965年に日韓基本条約(にっかん きほんじょうやく) により、日本と韓国との国交が回復した。 なお、北朝鮮とは、2014年の時点では、まだ日本との国交は、むすばれていない。


中東戦争とオイルショック[編集]

1973年の第四次中東戦争により、原油の価格が値上がりした。これによって世界的な不景気になった。日本では、連鎖的に物価もあがっていった。このころの石油価格の上昇による不景気をオイルショック(オイルショックは和製英語、英語では石油危機 oil crisis オイル・クライシス)という。日本では、オイルショックにより、高度経済成長による好景気が終わった。

日本の製造業では、オイルショックに耐えるための省エネルギーの技術開発が進んでいった。

バブル経済[編集]

1980年代には、日本は世界の中でも経済大国になっていた。

1980年代の終わり頃には、土地の地下や株の株価の値上がりを期待して、取引が活発になっていった。やがて、地価や株価が値上がりがしすぎて、1991年ごろから地価や株価が下がり始めた。

株価などが下がり始めると、多くの証券会社が経営難におちいっていった。経営破綻した証券会社もある。また、銀行も株価や地価の値上がりを前提に融資の貸し出しをしていたので、株価が下がりはじめると、銀行の経営も苦しくなっていった。大手の銀行どうしは、合併などをしていって、この危機をのりきっていった。


直接は株取引をしていない企業も、株価や地価が高い好景気を前提にした事業計画を立てていたりしていたので、いったん株価が大きく下がり始めると、経営がくるしくなっていき、多くの会社が経営難におちいり、多くの会社が倒産していった。また倒産していない企業でも、従業員の解雇もふえていったり、事業の見直しによる事業の縮小や事業撤退や事業転換などが行われた。


こうして「平成不況」(へいせい ふきょう)と言われるになっていった。 「平成不況」といっても、けっして1991年以降は株価が下がりっぱなしだったわけではなくて、コンピューター業界の好景気によるITバブル(アイティーバブル)と言われる部分的な好景気も1990年代後半から2000年代前半あった。


日本の機械工業などの製造業は、この「平成不況」を技術開発によって乗り切ろうとしたので、すでにバブル崩壊の時点でも技術力の高かった日本の工業は、ますます技術力が上がっていき、現在(2014年に記述。)の日本は世界の中でも高度な技術を持った工業大国になっていった。 (バブルの前から、中国や韓国などの低価格な輸出品に対抗するため、日本の製造業は技術開発を重視していた。)


しかし、日本は技術力の高さが製造業などの一部の業界だけにとどまり、コンピュータ業界などの技術力はアメリカにおくれをとっているなどの問題もある。また電子工業では、日本企業は技術力は高いものの、その能力を商品販売にうまく結びつけられず、よって韓国や台湾などの新興国との競争に苦しめられ、日本の電子工業業界などの企業は経営が苦しくなっていってるという問題点もある。


冷戦の終了[編集]

1970年代ころから、冷戦では、ソビエトの工業がおくれはじめ、ソビエトは経済でも行きづまっていった。 1979年のソビエトによる アフガニスタン侵攻(Soviet war in Afghanistan) もあり、米ソでは軍事費が増大した。 アメリカはミサイル防衛計画などを発表し、巨額の軍事費を軍事の技術開発に投資した。ソビエトは経済がくるしいにもかかわらず、ソビエトも、アメリカに軍事的に対抗するため、ソビエトは予算を軍事費につぎこんだので、ソビエトの経済はますます苦しくなっていった。そして、ついに共産主義経済が、行きづまりそうになった。

そのため、ソビエトは改革をおこなって、経済を活性化することを考えた。

1985年にはソ連で当時の最高指導者のゴルバチョフ(ロシア語:Горбачёв、ラテン文字:Gorbachev) によるゴルバチョフ政権が出来て、そしてゴルバチョフは共産主義的な経済手法をあきらめ、市場経済の導入や、情報公開などの改革をおこなった。このゴルバチョフの改革を ペレストロイカ(ロシア語:перестройка、ラテン文字表記:Perestroika) と言う。ペレ・ストロイカとは、ロシア語で「再建」という意味である。

しかし、この改革により、ソ連の国内では自由化をもとめる声がつよまっていった。また、東欧ではソ連からの独立をもとめる声がつよまっていった。

そして、1989年に、ゴルバチョフとアメリカのブッシュ大統領とが地中海のマルタで会談し、ついに冷戦の終了を宣言した。 それからソ連は解体されていった。

1990年には、東西に分裂していたドイツが統一した。当税ドイツの行き来をさまたげていた ベルリンの壁(ベルリンのかべ、ドイツ語: Berliner Mauer) は、民衆たちによって壊された。

そして、1991年にはロシアやウクライナなどのソ連を構成していた国々が分離して独立した。ソ連にかわって、ロシアやウクライナなどのかつての構成国により、独立国家共同体(どくりつこっか きょうどうたい)が結成された。


湾岸戦争[編集]

中東では、1990年に、イラク共和国(Iraq)がクウェート国(Kuwait)に侵攻したことがきっかけで、湾岸危機(わんがん きき、Gulf Crisis)がおこり、その後、アメリカが報復のために1991年にイラクに攻め込んだ。この戦争を 湾岸戦争(わんがん せんそう、Gulf War) と言う。アメリカは外国にも参戦を呼びかけたので、アメリカを中心とする多国籍軍(たこくせきぐん、Coalition forces)が結成され、多国籍軍とイラクとの戦争になった。 アメリカをはじめとする国際社会は日本にも参戦をよびかけたが、日本は自国の憲法を理由に参戦せずに、かわりに財政援助によって多国籍軍を援助した。

勝利したのはアメリカ側である。イラクは敗北した。イラクの独裁者のサダム=フセインの政権は、戦後も続いた。

日本は、財政援助をしたにもかかわらず、国際社会からは、参戦しなかったことを理由にした低い評価がされた。

中国[編集]

中国大陸の中華人民共和国では、第二次大戦後に共産党が国民党から政権をうばってから、ずっと共産党による独裁がつづいている。

(※ この節では、たんに「中国」といったら、中華人民共和国のこととする。台湾の中華民国政権のことを言う場合には、この節では「台湾」や「中華民国」などと区別することにする。

1989年には、天安門で民主化をもとめる学生の抗議運動がおきたが、この運動は弾圧された。

この天安門での抗議運動に関する事件を 天安門事件(てんあんもん じけん) と言う。

中国は、経済を活性化するために、市場経済の導入をおこなった。そして中国は経済大国に成長していった。

こうして、中国は、経済の規模がアメリカや日本につぐ、経済大国になった。


しかし、中国では、あいかわらず民主化がなされずに共産党による独裁がつづいている。


また、中国は周辺国と領土問題で、もめている。

日本とは日本の尖閣諸島(せんかく しょとう)の領有に、中国は反対をしている。

2010年には、中国の漁船が、日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きた。


また、中国と東南アジア諸国とのあいだでは、スプラトリー諸島(Spratly Islands、 中国名:南沙(ナンシャー)諸島 )をめぐって、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイと領土問題がある。


  • 少数民族の人権問題
ダライ・ラマ14世(14th Dalai Lama)と会談するアメリカのジョージ・ブッシュ(George W. Bush)大統領(2001年)

中国は、第二次大戦後、1950年にチベットを侵攻し、また1949年に中国はウイグルに侵攻し、そのまま中国がチベットやウイグルを領有する状態が、つづいている。

このため、中国ではチベット人やウイグル人などに対する少数民族への人権問題が生じている。


チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世(14th Dalai Lama)は、1959年にインドに亡命した。


アメリカ同時多発テロ[編集]

ハイジャックされた航空機の衝突で炎上する世界貿易センタービル

2001年、アメリカのニューヨークで、何者かによる航空旅客機のハイジャックによるテロ事件が起こり、多くの乗客が死んだ。その後すぐに、このハイジャック犯の正体は、アルカイダ(英語: Al-Qaeda)というイスラム系の過激派組織の一味だということが分かった。 このアメリカでの2001年のテロ事件を アメリカ同時多発テロ などと言う。

アメリカは、このアルカイダをかくまっていたアフガニスタンのタリバン政権を攻撃し、戦争になった。


  •  イラク戦争

アフガニスタン攻撃の後のころ、イラクには大量破壊兵器を開発しているという疑惑があった。国連はこの疑惑を調べようとしたが、イラクは国連の調査に協力的でなかった。

アメリカはイラクが大量破壊兵器を開発していると判断し、2003年にアメリカはイラクを攻撃した。 これを イラク戦争(イラクせんそう、英:Iraq War) と言う。

イラク戦争ではアメリカが勝利した。

ドイツやフランスなどは、イラク攻撃の理由が不十分だとして、アメリカの戦争には参加しなかった。


イラク戦争によってサダム・フセイン政権は崩壊した。しかし、イラクではフセインの独裁がなくなったことにより、それまでフセイン政権の軍事力をおそれていたテロ組織がイラクで活動するようになった。そして、イラク戦争後にイラクを占領していたアメリカ軍やアメリカ軍の協力者には、テロによる多くの死者が出た。


しかし、イラクは実は大量破壊兵器を開発しておらず、国連の調査に協力しなかったのは、イラクが大量破壊兵器を開発しているように見せかけることで、イラクの国際社会への影響力を強めようとしたフセインのウソであることが判明した。


イラク戦争が、フランスやドイツなどの大国を無視して行われたので、国際社会でのアメリカの影響力が落ちていった。

日本は2004年に、イラクの復興支援のため、自衛隊をイラクに派遣した。(※ 検定教科書の範囲内です。東京書籍の教科書の、巻末の年表にある。)

  1. ^ 『小学社会 6年 上』、日本文教出版、検定年:平成22年、p.95