小学校社会 6学年 上巻

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歴史(れきし)を勉強していくと、いろいろな人物が出てきます。くわしく知りたいときは「小学校社会 6学年 歴史の人物事典」を参考(さんこう)に してください。

※ 編集者への注意 : 当ページを編集される方は、学習指導要領解説社会編を参考に人物を取り上げてください。また、小学生向けであることに留意してください。

「全部覚えないといけない」と身構えず(みがまえず)、興味(きょうみ)のあるところを追い求めて(おいもとめて)ください。そこから、あなたの知識(ちしき)や考え(かんがえ)が、広がります。


目次

大昔のくらし[編集]

縄文時代[編集]

(じょうもん じだい)

縄文時代のくらし[編集]

縄文土器(じょうもん どき)

いまから1万5000年ほど前になると、地球の気候があたたかくなりました。

そして、いまから1万2000年ほど前のころ、日本の人々は、海や川の近くに住んで、石や骨でつくった刃物や槍(やり)や矢をつかって、シカやイノシシなどの動物を、とらえて食料にしていました。


同じころ、日本列島に住んでいる人たちは、土器(どき)をつくるように、なりました。その土器に縄の模様がついているので、この土器は 縄文土器(じょうもん どき) と言います。

この土器は、食べ物を煮炊き(にたき)したりするための物です。(いまでいう、ナベのような物です。)

今から約1万200年前から約3,000年前までのあいだの時代のことを、縄文時代(じょうもん じだい)と言います。

なお、これらの土器は、肉を煮炊きしたり、木の実や三菜のアクをぬくために煮炊きしたのだろうと、考えられています。


弥生時代の竪穴住居(復元、吉野ヶ里遺跡)。

縄文時代の人の、家の建物(たてもの)は、 竪穴住居(たてあな じゅうきょ) といって、地面に穴をほりさげたあとに、柱を立てて、草ぶき(くさぶき)の屋根をかけただけの住居にすんでいました。

加曽利貝塚(かそり かいづか)、北貝層断面

縄文人の集落(しゅうらく)があったとおもわれる場所からは、貝がらが多い場所が、たくさんでてきます。

この貝がらが多くある場所を 貝塚(かいづか) と言います。貝塚からは、貝がら 以外にも、動物の骨や、魚の骨、などが出土することも、よくあります。

(※ なお、貝塚や石器などのかぎらず、古い時代の物が見つかる場所のことを、日本語では、 遺跡(いせき)と言います。)


遺跡などから出土する物によって、その時代の暮らしも、わかります。

魚釣りに必要な、釣り針(つりばり) と もり が、縄文時代の遺跡から出土することも多いので、この時代の人は、漁(りょう)もしていたことが、分かります。


なお、動物の骨(ほね)は、とがらせて使うことが多いので、骨角器(こっかくき)といいます。そのような、とがった骨も、出土することがあります。狩りなどで、槍の先の武器として使ったりすることが多かったと思われます。

土偶(どぐう)。亀ヶ岡遺跡で出土

縄文の遺跡(いせき)から、土偶(どぐう)という土を焼き固めた、女性のような形の、焼き(やき)かためた人形(にんぎょう)が見つかる場合があります。 土偶(どぐう)は、食料が増えることを祈ったり(いのったり)、女性の安産(あんざん)をいのったものだと考えられています。


貝塚(かいづか)には、たとえば大森貝塚(おおもり かいづか)があります。 ほかの貝塚には、福井県の鳥浜貝塚(とりはま かいづか)や、千葉県の加曽利貝塚(かそり かいづか)がある。

三内丸山遺跡(さんない まるやま いせき)[編集]

六本柱建物(復元)

青森県の 三内丸山遺跡(さんない まるやま いせき) からは、約5500年前から約1500年前のあいだに続いた集落だという事が、分かっています。

この三内丸山遺跡から、栗(くり)の木を、栽培(さいばい)した形跡(けいせき)が見つかっています。

つまり、すでに、この時代から農業をしていたことが、わかります。

また、多くの土器や石器のあとも、みつかっています。


大型の、掘立て柱(ほったてばしら)も、見つかっています。掘立て柱の用途は、まだ分かっていません。 ヒスイの玉や、黒曜石(こくようせき)で出来た刃物のようなものも、見つかっています。

ヒスイは、この地ではとれず、新潟県の糸魚川(いといがわ)などの他の土地で取れるので、他の地域と交易(こうえき)があったのだろう、ということが考えられています。

この三内丸山遺跡(さんない まるやま いせき)は、縄文時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。


縄文時代の次の時代は、弥生時代(やよい)です。

弥生時代[編集]

(やよい じだい)

米づくりがはじまる

弥生式土器(やよいしき どき)。
紀元1世紀から3世紀に製作されたもの。東京都 大田区 の 久が原 で出土。(東京国立博物館所蔵)

いまから2400年ぐらい前のころ、中国大陸(ちゅうごくたいりく)や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)あたりの人々から、米による稲作(いねさく)が、日本につたわりました。

米作りは、まず西日本につたわり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方まで広がりました。

この時代の農具(のうぐ)の多くは、まだ、木製(もくせい)です。ただし、米作りとともに鉄器(てっき)の技術(ぎじゅつ)も日本に伝わっているので、一部では鉄を用いた農具も見つかっています。

穂から米をとるのに、石包丁(いしぼうちょう)が、使われました。


  • 弥生式土器(やよいしき どき)

また、このころ、土器は、縄文土器よりも うすくて かたい 弥生土器(やよい どき) をつくるようになりました。「弥生」(やよい)とは、学者が発見した場所が、東京の弥生町(やよいちょう)で見つかったので、「弥生」「土器」と、よばれています。

縄文土器と弥生土器のちがいは、弥生時代のころには、土器をつくる技術が進歩したので、土器の形が かわったのだろう、と考えられています。

  • 高床倉庫(たかゆか そうこ)

米の保管(ほかん)には、高床倉庫(たかゆか そうこ)で保管されました。

高床倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくするため、が主な理由だろう、と考えられています。風通しをよくするため、という理由も、あるでしょう。ねずみの害をふせぐという理由の有力な根拠として、地面から床までの柱の、柱のてっぺんに、「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床式倉庫が見つかっています。

弥生時代の多くの住まいは、たて穴住居です。

  • 金属器(きんぞくき)
銅鐸(日本の青銅器)

大陸や朝鮮半島から米作りがつたわると共(とも)に、青銅器(せいどうき)や鉄器(てっき)などの金属器(きんぞくき)が、伝わります。そして、日本でも、弥生時代中に、金属器がつくられるように、なります。

青銅(せいどう)とは、銅(どう) と すず とを、とかして、まぜあわせた金属でつくられた、合金(ごうきん)です。

「すず」とは、金属の材質(ざいしつ)のうちの、ひとつです。

青銅器には、銅剣(どうけん)や、銅矛(どうほこ)、銅鐸(どうたく)、銅鏡(どうきょう)などが、あります。

青銅器は、おもに祭りに使われるようになります。 いっぽう、鉄器は、農具や武器などの実用品につかわれるようになります。


  • 登呂遺跡(とろ いせき)
登呂遺跡(とろ いせき)。復元、竪穴式住居。

登呂遺跡(とろ いせき)からは、たて穴式住居と、高床式倉庫(たかゆかしき そうこ)が見つかっています。水田の、あともあります。水路や、あぜ道は、矢板(やいた)という板で、仕切られています。


  • 吉野ケ里遺跡(よしのがり いせき)
吉野ケ里遺跡,遠景

佐賀県にある。

まわりを濠(ほり)でかこまれた 環壕集落(かんごう しゅうらく) である。

人骨からは矢尻が刺さっているものも見つかっている。これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが予想できる。

堀の内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。


おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、
それぞれの集落で、多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じて、
そのため、土地や水が必要になり、
なので、集落どうしで、土地や水をめぐっての争いが起きたのだろうと思われています。

このような争いの中が、身分の差を作っていった理由の一つだとも、思われています。

この吉野ケ里遺跡は、弥生時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。


日本統一へ[編集]

邪馬台国[編集]

(やまたいこく)
  • 魏志倭人伝(ぎし わじんでん)

中国大陸の3世紀ごろの歴史書の 『魏志』倭人伝(ぎし わじんでん) では、日本の3世紀ごろは、国の数が30あまりになっていることが分かります。東夷伝では100あまりの国が、魏志倭人伝では30ほどの国まで減っているので、このあいだの長い年月に、統一が進んでいったことが分かります。

そして、これら30あまりの国をしたがえた 邪馬台国(やまたいこく) が、日本に ありました。邪馬台国で、代表的な地位にあった人間がいます。名を 卑弥呼(ひみこ) という人物で、女の人物です。

倭人伝によると。倭(わ)の国では、もともとは男の王をたてていたようですが、戦争が続いたので、卑弥呼を女王にしたらしいです。


邪馬台国の場所は、まだ不明です。(2014年に記述。) もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南の太平洋の海の上に出てしまいますので、倭人伝の方向の記述が、あてになりません。

邪馬台国の場所の有力な説は、九州北部にあったという説と、奈良県の大和(やまと)にあったという説です。


邪馬台国は、魏(ぎ)に、外交の使いを送ります。

金印(きんいん)。 

卑弥呼は、魏の皇帝から、金印(きんいん)をもらいます。そのほか、銅鏡(どうきょう)を100枚と、絹の織物や、毛織物などを、日本は受け取ります。

倭人伝によると、卑弥呼の政治は、まじないや占いによるものだそうです。卑弥呼は、宮殿にこもりきりで、人々の前には、ほとんど姿を見せなかったらしいです。宮殿には、物見やぐら(ものみやぐら)や柵(さく)があり、兵士が守ってるそうです。


古墳時代[編集]

(こふん じだい)
前方後円墳(ぜんぽう こうえんふん) 。仁徳(にんとく)天皇陵(てんのうりょう)と思われている大仙(だいせん)古墳
大阪府堺市

3世紀から4世紀ごろになると、王や豪族(ごうぞく)の墓では、大きな墓が、つくられはじめます。 このような、大きな王などをほうむった大きな墓を 古墳(こふん) と言います。

特に、近畿地方から瀬戸内海(せとないかい)沿岸(えんがん)の地域に、見られます。

この、3世紀ごろの時代から、7世紀ごろまでの時代を 古墳時代(こふんじだい) と言います。

古墳時代の文化のことを 古墳文化(こふん ぶんか) と言います。

古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に盛り上がった古墳を円墳(えんふん)と言います。四角く盛り上がった古墳を方墳(ほうふん)と言います。円墳と方墳があわさったような、かぎ穴のような形の古墳を 前方後円墳(ぜんぽう こうえんふん) といいます。

他にも、双円墳とか上円下方墳とか、いろんな形があります。とりあえず円墳と方墳と前方後円墳を知っておいてください。

大阪府の堺市にある 大山古墳(だいせんこふん、大仙古墳) は、日本で最大の面積の古墳です。

大仙古墳は、まわりが3重の濠(ほり)で、かこまれています。

ほかの場所でも、古墳は、見つかっています。古墳の数が多いので、すべての書ききれないので、代表的なものを書きます。

稲荷山(いなりやま)古墳・・・埼玉県
五色塚(ごしきづか)古墳・・・兵庫県
高松塚(たかまつづか)古墳・・・奈良県、明日香村(あすかむら)
江田船山(えだ ふなやま)古墳・・・熊本県
  • 古墳の副葬品
はにわ。武装男子立像(群馬県太田市出土)東京国立博物館蔵、国宝
はにわ。馬形埴輪(東京国立博物館)

古墳からは、鏡や玉、剣などの副葬品が、発見されている。他にも、はにわ(埴輪)という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が、発見されている。

大和朝廷[編集]

(やまと ちょうてい)

奈良県の大和(やまと)地方には、大きな古墳が多い。このことから、この大和の地方に、有力な勢力があったと、考えられている。この奈良地方の有力な豪族たちの政治勢力を 大和政権(やまと せいけん) という。

この大和政権の政府を 大和朝廷(やまと ちょうてい) と言い、その最高権力者を 大王(おおきみ) と言う。 大王(おおきみ)の一族は、後の天皇(てんのう)とよばれる一族である。

小学校の段階(だんかい)では、とりあえず、この古墳時代に大和朝廷が出来た、ということと、くわえて、大和朝廷が最終的に日本を支配した、ということを知っておけば良い。


まんなかにある、たてに長い茶色いのが、発掘された鉄剣。金錯銘鉄剣(国宝、埼玉県立さきたま史跡の博物館)

埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル大王(ワカタケルだいおう、ワカタケルおおきみ)の名が刻まれた文が、刻まれてあります。文を読むと、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたらしいです。


熊本県の 江田船山(えだ ふなやま)古墳 にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀(てっとう)があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲(はんい)に、およんでいたことが、分かります。

正確に言うと、当時はまだ漢字しか文字がなかったので、稲荷山の鉄剣には115字の漢字が刻まれており、その漢字の中に「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)という名が、刻まれています。 (※ 「獲加多支鹵」の漢字は、小学生は、おぼえなくて良い。)

また江田船山の鉄刀には、刻まれた文が破損しており、「獲□□□鹵大王」(ワ???ル大王 ?)というふうに名前の一部が読めなくなっています。(□が破損部とする。)

後の日本の神話の書の『古事記』(こじき)や、後の歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)などから「ワカタケル」という人物の存在が知られているので、鉄剣などがワカタケルの存在をうらづける証拠になったのです。日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述があるのです。 ワカタケル大王とは、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)だということが分かっています。


ヤマトタケルの物語

皇子(おうじ)であるヤマトタケルノミコトは、武勇(ぶゆう)にすぐれていました。ヤマトタケルは父の命令で九州に行き、朝廷にしたがわない豪族であるクマソをたおしました。

それから関東に行き、ひろい野原で焼きうちにあったりしまいたが、きりぬけて、関東を征服(せいふく)しました。

しかし、タケルは帰る途中(とちゅう)で、病気で なくなった。そして、タケルは大きな白い鳥になって、大和(やまと)のほうへ飛んでいきました。


  • 渡来人(とらいじん)
須恵器。日下部遺跡(兵庫県・神戸市)から出土した飛鳥時代の甕(兵庫県立考古博物館)
須恵器。森ヶ沢遺跡(青森県・七戸町)から出土した5世紀の須恵器

5世紀ごろ、朝鮮半島や中国大陸から、多くの人が日本に渡ってきて、日本に移り住んだ。このように、古い時代に外国から日本に移り住んだ人たちを 渡来人(とらいじん) という。

この5世紀頃の渡来人により、外国の文化が日本に多く伝わった。

また、新しい土器の作り方が、日本に伝わります。(「須恵器」(すえき)といいます。 ※ 教育出版の小学校教科書で「須恵器」の名前を出しています。)

この須恵器は、弥生土器よりも、さらに製法の進んだ、かたい土器です。その製法は、丘(おか)などの斜めになってる地面の斜面をくりぬいて穴窯(あながま)を作り、その穴窯の中で土器を焼き固めるという方法です。野焼きよりも高温に焼けるので、かたい土器が焼きあがるというわけです。 縄文土器や弥生土器は、野焼きの土器でした。


  • 仏教(ぶっきょう)の伝来

また、仏教(ぶっきょう)も、外国から伝わります。538年に、朝鮮半島の百済(くだら)という国の王から、仏像や経典が、日本の天皇に送られます。

仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで始まった宗教です。

飛鳥時代[編集]

聖徳太子の登場

(あすかじだい)
(しょうとくたいし の とうじょう)
聖徳太子のころ
年令 太子の行ったこと 社会のできごと
6世紀
豪族どうしが争う
574 1才 聖徳太子が生まれる
蘇我氏が権力をにぎる
589 隋が中国を統一する
593 20才 聖徳太子が摂政になる。
7世紀
603 30才 冠位十二階を定める
604 31才 十七条の憲法を定める
607 34才 小野妹子を遣隋使として送る
618 隋がほろんで唐になる
622 49年 聖徳太子がなくなる
645 大化の改新

日本では、6世紀ごろから、豪族(ごうぞく)の影響力(えいきょうりょく)が強まってくる。豪族の反乱や、豪族どうしの争い(あらそい)が出てくる。

この、豪族どうしの あらそい で、最終的に587年ごろに、蘇我馬子(そがの うまこ)が、勝ちます。 そして、女性である推古天皇(すいこてんのう)による政治が行われてた時代も、蘇我氏の影響下にあった。

聖徳太子が描かれた肖像画。まんなかの、一番、背の高い人物が聖徳太子。

推古天皇は、


聖徳太子(しょうとく たいし)は、おばの推古天皇の政治をたすける摂政(せっしょう)という位につきました。

摂政とは、天皇のかわりに、政治の実務を行なうものです。天皇がなんらかの理由で政治の実務が行えない時に、摂政が、たてられます。歴史的には、天皇が幼い場合や、天皇が女性の場合に、摂政がたてられることが多いです。

聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの改革(かいかく)をすすめる。

※ 改革と言っても、聖徳太子の改革は、あくまで天皇の権力を強めるための改革であり、けっして現代で言うような民主主義(みんしゅしゅぎ)をもとめての改革ではないので、混同しないようにしよう。
聖徳太子の改革は、けっして、蘇我氏を権力から退ける(しりぞける)ためでも、ありません。そもそも、聖徳太子自身が、蘇我氏の親戚(しんせき)です。(※ 教育出版の小学校教科書にも書いてあります。)


聖徳太子らによる改革のひとつに、十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)があります。

  • 十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)

役人の心がまえを、記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。

内容を現代風に言いかえると、およそ、次のようなことが書かれています。

1条 :争い(あらそい)をやめ、なかよくしなさい。
2条 :仏教(ぶっきょう)を保護しなさい。
3条 :天皇の命令には、したがいなさい。
12条 :農民(のうみん)などの民(たみ)から、かってに税(ぜい)や貢物(みつぎもの)をとっては、いけません。
17条 :重要なことを決める(きめる)ときには、話し合いで決めなさい。

その他にも、いろんなことが書かれていて、全部で17条あるので、十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)と言います。 もともとの文は漢文(かんぶん)で書かれています。この聖徳太子の時代には、まだ、ひらがなが、ありません。のちの歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)に、十七条の憲法の原文があります。

原文は、けっこう長いです。

(小学生は、原文をおぼえなくてもいいです。)

原文に、読みやすいように送り仮名をつけ、記述の一部を抜粋(ばっすい)すると、

一(いち)に曰く(いわく)、和(わ)を以て貴し(とうとし)と為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。(後略)
二に曰く、篤く(あつく)三宝(さんぽう)を敬へ(うやまえ)。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。(後略)
三に曰く、詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。(略)

(中略)

十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に斂る(おさめる)ことなかれ。国に二君(ふたりのきみ)非(な)く、民に両主(ふたりのあるじ)無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)をもって主となす。(略)

(中略)

十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(後略)

といったふうに、書かれています。

※ 十七条の憲法は、「憲法」と言っても、現代の日本の「日本国憲法」(にほんこく けんぽう)のような、他の法律の基本となる民主主義(みんしゅしゅぎ)の理念(りねん)や、日本国の国家理念(こっかりねん)がふくまれたものとは、ちがうので、混同しないでください。


「和をもって尊しとなす」と、「篤く三宝を敬え」は、有名な言葉なので、知っておいてください。

「詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め」も、けっこう有名です。意味は「天皇からの命令には、かならず、したがいなさい。」という意味です。


聖徳太子らの行った重要(じゅうよう)な政策(せいさく)には、外交政策(がいこうせいさく)も、あります。中国大陸を支配していた(ずい)という帝国(ていこく)との外交(がいこう)です。ある国と、別の国とが、政治の取り引きをすることを外交(がいこう)と言います。

607年に、外交の使者として 小野妹子(おのの いもこ)たちを 隋(ずい)に送ります。遣隋使(けんずいし)の派遣(はけん)です。


なお、小野妹子(おのの いもこ)は男です。小野妹子は女では ありません。小野妹子は妹(いもうと)でも ありません。

隋(ずい)に外交の使者(ししゃ)を派遣(はけん)するので「遣隋使」(けんずいし)と言います。

外交の結果、日本は隋と国交(こっこう)を結びます。国交とは、それまで、つきあいのなかった2つの国どうしが、平和(へいわ)に、かかわりを持ち始めることです。 また、隋(ずい)の文化や制度は日本よりも進んでいたので、多くの文化や制度を、日本は取り入れます。

隋と国交をむすぶとき、日本は、隋と日本とを対等(たいとう)の立場で、国交を結ぼうとします。そして、対等の立場で国交をむすぶことに、日本は成功します。

それ以前の外交では、中国大陸の帝国には、周辺国が貢物(みつぎもの)を持ってきて、中国の帝国の属国として外交をむすぶことが、ふつうでした。

当時の隋は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)と敵対(てきたい)していたので、高句麗と日本が協力することを恐れた(おそれた)のだろう、と言われています。


隋の歴史書である『隋書』(ずいしょ)に、この妹子との外交に関する記述があります。

(小学生は原文を覚えなくてもいいです。)
隋の皇帝。真ん中の人物が皇帝。

隋の皇帝へと、小野妹子が差し出した国書(こくしょ)には、

「日出ずる処(ひ いずるところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日(ひ)没する処(ぼっするところ)の天子に致す(いたす)。恙無きや(つつがなきや)」 ※おぼえなくて良い

(原文 :日出處天子致書日沒處天子無恙) ※おぼえなくて良い

とあります。両国とも「天子」(てんし)という表現を用いていることに注目してください。つまり、日本の天皇と、中国大陸の皇帝を、同じ地位(ちい)と見ているわけです。

ほかにも、日本のことを「日出ずる処」と書いて、隋(ずい)を「日没する処」と書いてあります。

当初、この日本からの国書を読んだ隋の皇帝は、日本を無礼(ぶれい)な国と思い怒った(おこった)といいます。

『隋書』には、漢文で書かれています。これを日本語に読み下すと

読み下し文 (※おぼえなくて良い) :帝、これを覧て(みて)悦ばず(よろこばず)。鴻臚卿(こうろけい)に謂いて(いいて)曰く(いわく)、「蛮夷の書(ばんいのしょ)、無礼なる者(ぶれいなるもの)有り(あり)。復た(また)以って(もって)聞(ぶん)するなかれ
訳 :帝は国書を読んだが、不満であった。部下の外交官に言うには「日本からの書は、無礼である。二度と私に日本からの国書を見せるでない。」
( 原文 :「帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」) ※おぼえなくて良い

と、なります。

ですが、隋の皇帝は高句麗との戦争を有利にすすめるため、隋は日本に良い待遇(たいぐう)をしたわけです。

日本の側も、隋と高句麗都との敵対した情勢(じょうせい)に関する情報(じょうほう)をつかんでおり、その情勢を利用して外交での交渉(こうしょう)に利用したわけです。


なお、「日出ずる処」とありますが、地球上では、中国大陸の東側に日本があるので、日本のほうが、夜明けが早いです。隋から見ると、日本のある方角から太陽が登ってきます。

そのほかの改革[編集]

  • 冠位十二階の制(かんいじゅうにかい の せい)

聖徳太子らによる改革には、冠位十二階の制(かんいじゅうにかい の せい)というのもあります。家柄に関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手柄(てがら)によって、役人に位(くらい)が与えられます。位は、一代かぎりです。 役人の位を12段階に分けたので、このような名前で呼ばれます。これ以前は、家柄によって位が与えられたのが、あらためられました。

(※ 光村図書の小学校教科書で、冠位十二階を紹介している。)


  • 法隆寺
法隆寺。金堂と五重塔
法隆寺の釈迦三尊像(金堂)

聖徳太子は、法隆寺を、607年に、建て(たて)させます。法隆寺の場所は、今でいう奈良県にあります。法隆寺は、現存する木造建築の中で、世界最古の木造建築です。法隆寺は、世界文化遺産に1993年に登録されました。


聖徳太子の死後[編集]

622年に、聖徳太子が、死にます。 聖徳太子の死後は、蘇我氏が権力が強まります。 蘇我馬子(そがのうまこ)も、626年に、なくなります。

まず、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(そがの えみし)の権力が、強まります。さらに、馬子の孫であり、蝦夷の子である蘇我入鹿(そがのいるか)の権力が強まります。

645年に、ついに、皇族の中大兄皇子(なかのおおえの おうじ)と、豪族の中臣鎌足(なかとみの かまたり)との協力により、蘇我入鹿は殺害されます。蝦夷は、この事件を知り、自殺します。


  • 大化の改新(たいか の かいしん)

このあと、中大兄皇子らが権力を取り、政治改革を色々と行なう。この皇子らの改革を 大化の改新(たいか の かいしん) という。645年に年号(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたので、この一連の改革は大化の改新と呼ばれています。 「大化」という年号により、日本では、はじめて年号が定められます。年号をさだめることは、中国大陸の帝国を参考にしたのです。

645年の覚え方には、「虫殺し」(むしごろし、645ろし)と覚える語呂合わせ(ごろあわせ)が、あります。

645年 :大化の改新 虫殺し(645ろし)

645年の一連の事件により、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は退位して、皇極元・天皇の弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)が645年に天皇になります。

改新の詔[編集]

(かいしん の みことのり)

中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要があった。

さて、改革の内容はと言うと・・・

646年に改新の詔(かいしん の みことのり)が出されます。これは改革内容の方針や目標を表したものです。この詔の発見は『日本書紀』で発見されています。

改革の内容は、以下の、公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)、国司(こくし)の設置(せっち)、です。


  • 公地公民(こうちこうみん)

これまでは豪族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のものになります。豪族や皇族が持っていた人民も、朝廷が持つことになります。この命令が公地公民(こうちこうみん)です。朝廷が管理できない土地の存在を禁止します。同様に、朝廷が管理できない住民の存在も禁止します。


  • 戸籍(こせき)をつくる

人民の戸籍(こせき)を作り、それにもとづいて国が人々に土地を与え、仕事をさせます。

この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。

この飛鳥時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。

このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。

※ 現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。


(税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。)
(また、この時代は、女にも田が与えられました。女にも仕事をさせたいわけですから、女にも土地が与えるというワケです。)

なお、死んだ人の分の田は、国に返されます。


  • 租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)
一般の人々の負担
 種類 内容
 税  収穫(しゅうかく)の約3%の稲(いね)
調 地方の特産物(糸、きぬ、わた、塩、
魚、海そう、鉄、・・・)などを納める。
麻の布を納める。(労役の代わり。)

 兵 
 役 
防人 九州北部で兵士を3年。

税(ぜい)の種類です。

祖(そ)とは、田の収穫量の、およそ3%を、国に納めよ(おさめよ)、という税です。 調(ちょう)とは、絹(きぬ)や、地方の特産物を、国に納めよ、という税です。

庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。

租庸調(そようちょう)を都に運ぶ負担も、他の農民たちの負担でした。


この他、防人(さきもり)という、九州で警備(けいび)の兵士をする、兵役(へいえき)の仕事がありました。

この防人のつらさを歌った歌として、つぎのような歌が、残っています。

 さきもりの歌  ( 『万葉集』(まんようしゅう)より )

 唐衣(からころも) 裾(すそ)に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母(おも)なしにして


(現代語訳) 唐衣の 裾(すそ)に、すがって 泣きつく子どもたちを (防人に出るため)置いてきてしまったなあ、 (あの子たちには)母もいないのに

大宝律令[編集]

(たいほう りつりょう)

701年に、 大宝律令(たいほうりつりょう) という法律が完成する。

※ 日本文教出版の教科書で、「大宝律令」という言葉が紹介される。

奈良時代[編集]

(なら じだい)
平城京 条坊図

710年に、都が奈良の 平城京(へいじょうきょう) へと移る。(藤原京から平安京に移る。)

780年ごろまでの約70年のあいだ、平城京を都としていたので、この70年間を「奈良時代」(ならじだい)といいます。

(※ 大人の執筆者へ : のちの794年に平安京に移る前に、長岡京に移っています。)

年号をおぼえる語呂合わせは「なんと(7、10)、うつくしい平城京」。

794年に平安京(へいあんきょう)に都が移るまで、この平城京が都である。

平城京は、道の通りが碁盤目(ごばんめ)のように、区画(くかく)が整理されています。このような、碁盤目のような区画のつくりを 条坊制(じょうぼうせい) と言います。

和同開珎

奈良時代の都では、和同開珎(わどうかいちん)というお金が708年に発行され、つかわれていました。

※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』で、和同開珎が紹介されている。
  • 古事記、日本書紀

712年に『古事記』(こじき)という天皇家や貴族などにつたわる神話の時代をまとめた書が、できます。この『古事記』は、天武天皇により編纂が命じられ、712年に完成しました。

※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』で、古事記、日本書紀 が紹介されている。

神話の時代から推古天皇にいたるまでの出来事が古事記に書かれています。

また、日本の歴史書の『日本書紀』が720年に完成します。神話の時代の伝説から、7世紀末ごろの持統天皇にいたるまでの国家と天皇の歴史を書いた、歴史書のような書です。

大仏づくり[編集]

東大寺の大仏

8世紀のなかごろ、都では病気が流行り(はやり)、多くの死者が出ました。 さらに、貴族の反乱が起きました。

このように、世の中が、混乱(こんらん)してきました。


仏教を信じた聖武天皇(しょうむ てんのう)は、仏教の力をかりて、人々の不安をしずめ、社会を安定させようとします。

まず741年に国ごとに 国分寺 (こくぶんじ)を建てさせました。

都には 東大寺 (とうだいじ)を建てさせた。また、東大寺のなかに大仏を作らせました。


このころ、行基(ぎょうき)という僧(そう)がいました。彼は、渡来人(とらいじん)の子孫で、民衆のために用水の池(いけ)や橋(はし)をつくったりしながら、諸国をまわって教えをといていたので、多くの人々に、したわれていました。

しかし、朝廷は、はじめは、行基の行動をとりしまります。当時は、民衆への仏教の布教が禁止されていたし、寺の外での活動も禁止されています。 朝廷からは、おそらく行基は、民衆をそそのかす危険人物(きけんじんぶつ)だろう、と思われていたのです。


さて、大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、人々の支持が必要でした。このため、民衆に慕われていた僧の行基(ぎょうき)の活動を認めます。

大陸との交流[編集]

遣唐使と鑑真[編集]

(けんとうし と がんじん)

中国大陸の帝国が唐にかわっても、かつての遣隋使(けんずいし)と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の (けんとうし)遣唐使 を送ります。

遣唐使は、奈良時代のあいだは、おこなわれています。

(のちの時代の平安時代に遣唐使は廃止されます。奈良時代には、まだ遣唐使は廃止されません。)

717年に唐にわたった 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) や、仲麻呂と供に唐にわたったこともある 吉備真備(きびのまきび) が遣唐使として有名です。

※ 安倍仲麻呂は、教育出版の教科書で、章末のコラムで名前を紹介している。また、日本文教出版の教科書で、阿倍仲麻呂や吉備真備の名前を紹介している。


なお、最初の遣唐使として630年に唐に派遣された犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)は、最後の遣隋使でも、あります。

阿倍仲麻呂は、日本に帰ろうとして乗った船が難破(なんぱ)し、日本に帰れず、最終的に唐の皇帝に仕えることになります。

吉備真備は日本に帰れます。吉備真備は2回も唐にわたり、日本に帰れます。


  • 鑑真(がんじん)
鑑真和尚像

日本の朝廷らは、唐の有名な僧の 鑑真(がんじん) に、日本でも仏教をひろめてほしいと、鑑真を日本へ招き(まねき)ます。この招きを受け、鑑真は日本への渡航をおこないますが、5回も失敗し、6回目で日本に着きます。6回目で日本についたころには、鑑真は失明しています。海の水しぶきをあびつづけることは、目に悪いのです。

鑑真は、奈良に 唐招提寺(とうしょうだいじ) を開きました。

  • 正倉院(しょうそういん)

奈良時代の文化は、仏教の影響と、唐との交流の影響が、特徴(とくちょう)です。 とくに、聖武天皇の治めた 天平(てんぴょう) の年号の時代に、この傾向が強いので、この奈良時代の文化を 天平文化(てんぴょうぶんか) と言います。

正倉院正倉
校倉造(あぜくらつくり)。正倉院の宝物庫は、三角形の断面の木を組み合わせたつくりの校倉造で、つくられている。

東大寺にある 正倉院(しょうそういん) には、奈良時代の美術品や、聖武天皇が日用した道具などが収められています。

※ 有名な宝物で「螺鈿紫檀五絃琵琶」(らでんしたんごげんのびわ、図参照)や「瑠璃杯」(るりのつき)が保存されているのですが、ウィキペディアに画像がありません。外部サイトや参考書で、画像をお探しください。


宝物には、ギリシャやペルシャ、インドなどから運ばれてきたものもある。シルクロードという中国大陸からヨーロッパまでの貿易の通路を通ってきた宝物である。後世の言い方だが正倉院のことを「シルクロードの終着駅」とも例える。

(※ 赤漆文欟木御厨子 〜 蘇芳地金銀絵箱蓋は、おぼえなくて良い。)


万葉集[編集]

和歌(わか)をまとめた万葉集(まんようしゅう)が759年ごろから編纂(へんさん)されます。

さきほど紹介した「さきもりの歌」も、万葉集におさめられてる歌のひとつです。


貴族の作った和歌だけでなく、農民や防人などの様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。

合計で4500首の歌が収録されています。

平安時代[編集]

貴族がさかえた時代
桓武天皇(かんむてんのう)は794年に都を京都の 平安京(へいあんきょう) にうつす。

HeiankyouMapJapanese.svg 奈良から平安京への寺院の移転は禁止されます。


他にも、社会の変化で、もはや、公地公民による昔(むかし)の政治が上手くいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだろう。

平安京に都を移してから約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を 平安時代(へいあんじだい) という。

くわしくいうと、後に1190年ごろに武士である源頼朝が権力をにぎる鎌倉幕府(かまくら ばくふ)ができますが、794年から1180年ごろまでを平安時代と言うことが多い。


  • 摂関政治(せっかんせいじ)

9世紀の中頃になると藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣鎌足のこと。)の子孫の一族の藤原氏(ふじわらし) が、権力を強めます。

藤原氏の一族は、代々、娘を天皇の きさき(妃) にしています。 すると、藤原氏は天皇の母方(ははかた)の親戚(しんせき)ということになるので、藤原家の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。

藤原道長(ふじわらの みちなが)


藤原氏(ふじわら し)は、天皇が幼いときは、藤原氏の者が摂政になり政治の実権(じっけん)を握り、天皇が成人しても藤原氏は関白(かんぱく)という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。(※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』で、藤原の一族について「関白」という言葉が紹介される。)


(※ 範囲外 : )このような摂政や関白として政治を行なうという政治の方法を 摂関政治(せっかん せいじ) といいます。(※ 小学校では、「摂関政治」という用語は習わないようだ。)


道長の読んだ歌で、つぎの歌があります。

「この世(よ)をば わが世(よ)とぞ思ふ(おもう) 望月(もちづき)の 欠けたる(かけたる)ことも なしと思へば(おもえば)」

意味は、「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(=満月)のように 何も足りないものはない」という意味です。

藤原実資(ふじわら さねすけ)の日記。
寛永2年(1018年)、今日は道長さまの娘さまの威子(いし)さまが、中宮(ちゅうぐう)になられる日である。道長さまが私(=日記の作者。実資)を呼んで、こう、いわれた。
「和歌をよもうと思う。君もかならず歌をかえしたまえ。」と言われた。
私は返事をして「きっと歌をかえしましょう。」と答えた。
つづけて、道長さまはこう言われた。「自慢(じまん)の歌なのだよ。べつにあらかじめ作っておいた歌では無いがね。」と。
そして、歌をよまれた。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思わば。」と。
私は答えた。「とても、すばらしい歌です。かえす歌も作れません。(道長いがいの)みんなで、このお歌を唱和(しょうわ)するのがよろしいでしょう。」ともうしあげた。みんなも、私の言葉におうじ、この歌を唱和した。道長さまは、たいそう気をよくして、歌をかえさなかった私をせめなかった。
(『小右記』(しょうゆうき)より。藤原実資(さねすけ)の日記。一部分。)


平等院 鳳凰堂

道長の子である藤原頼通(ふじわらの よりみち) は、平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を、たてさせています。十円玉に描かれている、あの建物(たてもの)は、平等院鳳凰堂の絵です。

10円

平安時代の文化[編集]

  • 遣唐使の廃止と、国風文化

まず、894年に、遣唐使が廃止されます。

:語呂合わせ:白紙(はくし、894)に戻そう(もどそう) 遣唐使
菅原道真(すがわらの みちざね)

菅原道真(すがわらの みちざね)の進言によります。

遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、中国大陸で内乱が多く唐が弱っていること、船の遭難(そうなん)など死の危険が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、経済的(けいざいてき)な負担(ふたん)が大きい、などです。

この遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだん、中国大陸の文化の影響(えいきょう)が、うすれていきます。

かわりに日本独自の貴族文化が発展していきます。この平安時代に発展した日本独自の貴族文化を国風文化(こくふうぶんか) と言います。


漢字からひらがなへの変化
  • かな文字の発明

ひらがな や カタカナ などの かな文字(かなもじ) が、平安時代に発明されます。 ひらがなは、漢字の形をくずして、発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。

カタカナの由来

この時代、ひらがなやカタカナは、女が用いる字であった。貴族の紀貫之(きの つらゆき)は男だが、名を隠し、女を名乗り『土佐日記』(とさにっき)を描いた。 紀貫之が、国司(こくし)として、四国の土佐(とさ)に派遣されていたので、土佐から京にかえるまでの様子をしるした日記です。


ほかにも、古今和歌集(こきんわかしゅう、紀貫之の編集) や竹取物語(たけとりものがたり) などが、かな文字を用いた作品です。

古今和歌集は、紀貫之(きのつらゆき)という人物による編集です。醍醐天皇(だいごてんのう)の命令により、紀貫之らが編集しました。

  • その他の文化
典型的な寝殿造である東三条殿の復元模型(京都文化博物館)
1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 中門廊(ちゅうもんろう)、9. 釣殿(つりどの)
江戸時代の束帯(阿部正弘)
五衣唐衣裳(俗称 十二単)(京都御所にて)

平安時代には、貴族の衣服の正装(せいそう・・・正式な服のこと)が変わります。

男の貴族の服は 束帯(そくたい) になり、女の貴族の服は 十二単(じゅうにひとえ) になります。

※ 光村図書の教科書が、束帯(そくたい)および十二単(じゅうにひとえ)について紹介している。


貴族の住居の形が 寝殿造(しんでんづくり) になる。

※ どの教科書でも「寝殿づくり」は紹介しており、重要な単語。


大和絵(やまとえ)『源氏物語絵巻』(げんじものがたり えまき)
源氏物語は人気作となり、絵巻物まで作られるほどになりました。この絵は、源氏物語の作品のなかの場面をえがいたものです。

文学の物語では『源氏物語』(げんじものがたり)という創作(そうさく)の物語が、貴族の紫式部(むらさきしきぶ)によって描かれました。この源氏物語は、主人公は貴族の「光源氏」(ひかるげんじ)という人物を中心にして貴族の恋愛などを書いています。

なお、名前が後の鎌倉(かまくら)幕府の源氏(げんじ)と似ていますが、べつに光源氏は武士ではありません。源氏物語が出来た1007年ごろは、まだ鎌倉幕府はありません。紫式部は女です。藤原為時(ためとき)の娘です。

大和絵にも、「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)が、描かれました。絵画を使って、物語を絵で表したものを絵巻物(えまきもの)といいます。

随筆では、貴族の清少納言(せい しょうなごん)が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。 清少納言は女です。

※ どの教科書でも『源氏物語』『枕草子』紫式部、は紹介しており、重要な単語。

絵画には、日本の風景などを書いた 大和絵(やまとえ) が出てくる。寝殿造りの屋敷の屏風(びょうぶ)や ふすま などに大和絵が描かれた。絵巻物などにも大和絵は描かれた。さきほど紹介した源氏物語絵巻も、大和絵です。

※ 「大和絵」は、教育出版と光村図書が紹介している。

武士の世の中へ[編集]

平安時代の武士たち[編集]

平安時代には、地方の豪族たちは私有地を広げていったのであった。

9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力(へいりょく)をたくわえていった。一族の者や、手下の農民たちに武装させるようになった。

このようにして、武士(ぶし)が、できていった。武士たちは、一族の かしら をリーダーとして、それぞれの一族ごとに武士団(ぶしだん)を結成(けっせい)していった。

平氏[編集]

平清盛(たいらの きよもり)。

この時代に、天皇の座をめぐって皇族(こうぞく)どうしで権力あらそいが起きると、武士たちは、これらの戦いに加わりました。

その結果、平清盛(たいらの きよもり)の加わっていた側が、勝ったので、清盛が権力をにぎっていきました。

そして1167年には、平清盛(たいらの きよもり)は、武士としては初めて(はじめて)の太政大臣(だいじょう だいじん)になりました。

平清盛は、清盛のむすめを、天皇の后(きさき)にさせました。

このようにして、平氏の一族が、朝廷での重要な役職を得ていき、権力をつよめます。

厳島神社(いつくしま じんじゃ)。広島県。 平氏の一族は、一族の繁栄を厳島神社に願った。 国宝。世界遺産。

清盛は 海の神をまつっている厳島神社(いつくしまじんじゃ) を敬った(うやまった)。厳島神社は、今でいう広島県の瀬戸内海の側にある。 そして厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神(うじがみ)とした。

厳島神社には、『平家納経』(へいけのうきょう)という、平家が一族の繁栄(はんえい)を願って納めた(おさめた)書が、納められている。

しかし、平氏の独裁(どくさい)的な政治に、ほかの貴族やほかの武士などからの不満が高まっていく。 それらが、のちに、平氏の打倒へと、つながる。

源氏と平氏がたたかう[編集]

ついに1180年、皇族の 以仁王(もちひとおう) は、平氏を滅ぼすように命令を下す。以仁王は後白河法皇の子である。

以仁王の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげた。

鎌倉時代[編集]

以仁王(もちひとおう)の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげた。

源頼朝(みなもとの よりとも)
頼朝は、平治の乱(へいじのらん)で頼朝(よりとも)の父の義朝(よしとも)が平氏と戦って負けたので、小さいころに源頼朝は、伊豆(いず)に流されていた。(伊豆の場所は今でいう静岡県のあたり。) やがて成人して大人になった頼朝が、平氏への反乱をした。
源氏と平氏のたたかい
おもなできごと
1180  源頼朝が伊豆で挙兵するが、石橋山(いしばしやま)の戦い で平氏にやぶれる
 源頼朝が富士川の戦いで平氏をやぶる
1181  平清盛がなくなる
1183  源義仲(みなもとのよしなか)が、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平氏をやぶる
1184  源義経(みなもとの よしつね)が 一の谷(いちのたに)の戦い で平氏をやぶる
1185  源義経が八島(やしま)の戦いで平氏をやぶる
 源義経が壇ノ浦(だんのうら)の戦いで平氏をやぶる
 平氏がほろびる
  • 源平(げんぺい)の戦い

源頼朝(みなもとの よりとも) は、関東で兵をあげた。富士川の戦いで平氏をやぶったあと、頼朝は関東の鎌倉(かまくら)に、とどまって、勢力の基盤(きばん)をかためた。

そして頼朝は、平氏に不満をもっている武士の北条氏(ほうじょうし)など関東の武士とも協力して、勢力をのばしていった。

頼朝は、自らは鎌倉にとどまり、かわりに弟の 源義経(みなもとの よしつね) の兵をつかって、平氏を西へと追いつめていった。

義経(よしつね)らは義仲(よしなか)を打ちとったあと、平氏の打倒のために兵をうごかし、1184年には 一ノ谷の戦い(いちのたに の たたかい) で平氏をやぶり(一ノ谷は神戸市にある。)、つづいて1185年には 屋島の戦い(やしまのたたかい) でもヨシツネらは平氏に勝って(屋島は香川県にある)、ついに平氏を壇ノ浦においつめ(場所は本州の西の端の山口県の下関「しものせき」)、1185年には壇ノ浦の戦い(だんのうら の たたかい)でヨシツネらは平氏に勝ち、ついに平氏をほろぼす。

これらの源氏と平氏との一連の戦いを「源平の戦い」(げんぺいのたたかい)とか「源平合戦」(げんぺいがっせん)とかという。

源義経(みなもとのよしつね) ヨシツネは、小さいころは「牛若丸」(うしわかまる)と言われました。平氏との戦いで多くの手柄(てがら)をたてましたが、兄の頼朝と対立し、東北に追われて、平泉(ひらいずみ)で なくなりました。

義経(よしつね)は頼朝(よりとも)と対立します。 義経らは東北地方である奥州にいる奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)をたよって東北に逃げていたので、奥州藤原氏も頼朝により滅ぼされます。


いっぽう、平氏の滅亡後、頼朝(よりとも)が朝廷に要求(ようきゅう)したことより、新しい制度として、国ごとに守護(しゅご)が一人ずつを置かれ、荘園(しょうえん)や公領(こうりょう)には地頭(じとう)が置かれた。

守護の仕事は、現代風(げんだいふう)にいうなら、その国での軍(ぐん)や警察(けいさつ)の管理者である。 地頭の仕事は、荘園および公領の管理や、税である年貢(ねんぐ)の取り立てである。

頼朝は1192年に朝廷から征夷大将軍(せいい たいしょうぐん) に任命(にんめい)されます。

頼朝は鎌倉に(今でいう神奈川県の鎌倉市のあたり)、武家による政治の拠点である幕府(ばくふ) を開きました。この鎌倉にある幕府を 鎌倉幕府(かまくら ばくふ)と言い、鎌倉に幕府があったころの時代を鎌倉時代(かまくらじだい) と言います。

つまり、鎌倉時代は、1190年ごろから、始まります。

(※ じつは当時、武士による全国支配の政権という意味での「幕府」という言葉は無かったので、歴史学では、鎌倉時代の最初の年を細かくは特定することができない。もともと「幕府」とは、武士の館(やかた)をあらわす意味の言葉だった。)

征夷大将軍という言葉の意味は、頼朝の時代からは武士たちの中での最高権力者(さいこうけんりょくしゃ)というような意味になってきます。

もともとの意味は、平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のように東北地方の蝦夷(えみし)と戦う軍での将軍(しょうぐん)という意味でした。


この鎌倉時代から、政治の権力が朝廷から幕府へと移っていき、武家政治の時代になっていきます。

幕府の行政の仕組みは、朝廷による律令制とは ちがっています。

将軍の家来の武士のことを 御家人(ごけにん) という。

将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する政策をとるかわりに、御家人たちは将軍のために警備をしたり戦争の時には戦うという主従関係(しゅじゅうかんけい)が、この時代の将軍と手下たちとの主従関係である。

ご恩と奉公

御恩(ごおん)と奉公(ほうこう) という主従関係です。

御恩(ごおん)とは、将軍が御家人の土地の権利を認め保証したり、手柄のあった御家人には新しく領地を与えることです。

奉公(ほうこう)とは、将軍や幕府のために仕事をすることで、具体的には、戦争の時には将軍のために戦うことです。「いざ鎌倉」(いざ かまくら)と言って、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました。

この主従関係は土地を仲立ち(なかだち)としています。このように土地を仲立ちとした主従関係を 封建制(ほうけんせい) あるいは封建制度(ほうけんせいど) と言います。

御家人たちの屋敷(やしき)は、武家造(ぶけづくり)という作りで、屋敷のまわりに堀(ほり)があったり、塀(へい)で囲まれてたりと、戦いにそなえたつくりになっています。

「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である。


北条政子(菊池容斎 画、江戸時代)

頼朝の死後は、頼朝の子の頼家(よりいえ)が次の将軍になり、さらに次の将軍位は頼朝の子の実朝(さねとも)がついたが、政治の実権は、有力な御家人である北条氏の一族にありました。頼朝の妻は北条政子(ほうじょう まさこ)という女で、その政子の父である北条時政(ほうじょう ときまさ)が執権(しっけん)という役職につき、北条時政らが幕府の実権をにぎりました。


北条氏のように執権として政治の実権をにぎる政治のやりかたを 執権政治(しっけん せいじ) といいます。

(なお、3代目将軍の実朝(さねとも)は、1219年に頼家の子である公暁(くぎょう)によって実朝は殺されます。こうして源氏の直系の将軍は3代で絶えます(たえます)。)


  • 承久(じょうきゅう)の乱

頼朝の死後、1221年に朝廷は、政治の実権を武士から取りかえそうとして、幕府を倒せとの命令を出しました。

このとき、政子は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえた ご恩(ごおん)は、山よりも高く、海よりも深いものです。その恩にむくようとするものは、力をあわせて敵軍をうちとり、幕府をまもるでしょう。」と、武士たちによびかけ、武士たちをまとめた。

この結果、北条氏の幕府軍と、朝廷の軍との戦争になり、北条氏の側が勝ちます。

そして、幕府の権力は、朝廷をしのぐほどになります。

また、幕府は、武士のための法律をととのえます。

(※ 幕府にとっては御家人からの信頼(しんらい)が、幕府の権力の基盤(きばん)なので、御家人から信頼されるために公平な法律をつくる必要があったのだろう。)
  • 武士のくらし
やぶさめ

武士は、日ごろから武芸(ぶげい)に、はげんでいた。「やぶさめ」などの武芸に、はげんでいた。

「やぶさめ」では、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに射る。


モンゴルとの戦い[編集]

(モンゴルとの たたかい)
  • モンゴル帝国の元(げん)

13世紀、中国大陸と 中国をふくむユーラシア大陸の広い地域では モンゴル民族が モンゴル帝国を築いていた。

モンゴル帝国は中国大陸を征服すると、モンゴルの国号を元(げん)に変えました。


  • 元寇(げんこう)

モンゴルは、まず朝鮮(ちょうせん)をしたがえました。つづいて、日本にも、モンゴルにしたがえと、元(げん)は使者を日本に よこしました。

しかし、ときの執権(しっけん) 北条時宗(ほうじょう ときむね)は、これを断ります。

そして、元は、1274年と1281年の二度にわたって、軍隊とともに日本に攻めこみます(せめこみます)。

最終的には暴風雨の影響により元軍が引き上げたので日本が勝ちますが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と呼ばれた)や、毒矢(どくや)、元軍の集団戦に苦戦しました。

それまでの日本では、武士どうしの戦いでは一騎打ち(いっきうち)が主流でしたが、外国の軍隊が相手では、日本の慣習は通用しません。


文永の役において、矢が飛び交い、てつはうが炸裂する中を、モンゴル帝国連合軍へ斬り込んでいく御家人の 竹崎季長(たけさき すえなが) と、応戦・逃亡するモンゴル兵

画像の合戦の絵は、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)という絵巻物の一部の絵です。

蒙古(もうこ)とはモンゴルのことです。

1度目の戦いのあと、幕府は次の元軍(げんぐん)の侵攻(しんこう)に備え、九州の博多湾の沿岸(えんがん)に石塁(せきるい)を築かせます。(石塁(せきるい)とは、防御のための石垣(いしがき)です。)

(※ 検定教科書でも、光村図書の教科書が「石るい」という表記をつかってます。)

1281年に、元(げん)の軍勢(ぐんぜい)は、ふたたび日本に おそいかかります。今度の元(げん)軍は14万人もの大軍(たいぐん)です。 二度目のたたかいでも、日本が勝ちます。

この2度の元軍の襲来をあわせて、元(げん) 対 日本の戦争のことを 元寇(げんこう) という。

(※ 「元寇」という呼称は、のちの江戸時代に徳川光圀(とくがわみつくに)の編纂した『大日本史』に出てくる。)


3度目の襲来はなかった。


御家人は元寇で多くの費用を使ったが、幕府は 御恩(ごおん) としての褒美(ほうび)の土地を、じゅうぶんには用意できなかった。元寇は日本国内での防衛戦なので、新たに日本が獲得した領土は無いのである。

このため、御家人は幕府に不満を持つようになった。

『蒙古襲来絵詞』(もうこ しゅうらい えことば)より鎌倉の安達泰盛邸で先駆けの功を訴える季長(右)

さきほど紹介した竹崎季長(たけさき すえなが)も、恩賞(おんしょう)の少なさに不満をもった御家人(ごけにん)の一人で、そのため幕府に自分の功績(こうせき)をうったえでるために、彼の元寇での活躍を記した絵巻物(えまきもの)を手下のものにつくらせた結果、さきほどの蒙古襲来絵詞(もうこ しゅうらい えことば)が出来たと言われています。


  • その他

鎌倉時代には、彫刻(ちょうこく)で、金剛力士像(こんごうりきしぞう)が、つくられました。(※ 教育出版の小学教科書で紹介している。)

※ ウィキペディアに金剛力士像の見やすい画像が無いので、画像を省略。

金剛力士像がある場所は、奈良の東大寺の南大門にあります。


室町時代[編集]

(むろまち じだい)

鎌倉幕府がほろんで、室町幕府(むろまち ばくふ)ができました。

14世紀に入ると、室町幕府の3代将軍である足利義満(あしかが よしみつ)は彼の住居を京都の 室町(むろまち) につくらせ、その室町の住居が 花の御所(はなのごしょ) といわれて、ここが幕府の拠点になった。この「室町」の名が、この「室町時代」や「室町幕府」の名前の由来である。

金閣。

義満は 金閣(きんかく) という建物(たてもの)を、京都の北山(きたやま)に建てさせます。

金閣は、金箔(きんぱく)が貼られた豪華な建物です。

銀閣(東正面)

このあと、8代将軍の足利義政(あしかが よしまさ)が京都の東山に銀閣(ぎんかく)という別の建物をたてます。 銀閣には、べつに、銀箔(ぎんぱく)は、はられていない。


産業[編集]

室町時代の田植えの様子。 『月次風俗図屏風』(つきなみ ふうぞく ずびょうぶ)より。
(さんぎょう)

二毛作が各地に広まった。西日本だけでなく東日本にも二毛作が伝わっていきます。


色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるようにするなど、農民どうしの集まりが開かれるようになります。

一揆(いっき)[編集]

室町時代には、農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。 年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という強訴(ごうそ)をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう逃散(ちょうさん)などで、対抗しました。


室町文化[編集]

  • 書院造(しょいんづくり)
書院造(しょいんづくり)
※ 書院造の見やすい画像が無いので、ウィキペディア日本語版や外部サイトなどで書院造りの画像を見て下さい。

書院造(しょいんづくり)という、建築様式の室内の様式が出てくる。 特徴は、

違い棚(ちがいだな)という、棚が段差になった棚がある。
障子や、ふすま、がある。
畳(たたみ)の床(ゆか)

など。

これが、今日の和室(わしつ)の様式に、つながっていく。

代表的な例として東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)の部屋が、書院造の部屋で有名である。


  • 水墨画
水墨画。秋冬山水図のうち秋景(東京国立博物館)
雪舟自画像(模本) 、重要文化財、藤田美術館
雪舟は、40才後半くらいのときに中国大陸に渡って水墨画を学び、帰国後に、多くの作品をのこしました。

鎌倉時代に、中国大陸から 水墨画(すいぼくが)の技法が日本に伝わりました。

はじめ日本では、水墨画は、仏教の世界をえがくためにえがかえた。

しかし、室町時代になり、雪舟(せっしゅう)は、水墨画と仏教をわけて考え、仏教にとらわれずに、自然の風景などの水墨画をえがいた。

(なお、雪舟が日本でさいしょの水墨画をえがいたわけではない。お寺の僧侶(そうりょ)などが、仏教の教えを伝えるための水墨画をえがいていた。)

雪舟の水墨画の書き方は、その時代の中国の形式をまねたのでは、ありません。

雪舟の水墨画、『天橋立図』(あまのはしだてず)。


  • 茶の湯

書院造の部屋で、おちついた作法にしたがって茶を飲む、茶の湯(ちゃのゆ)が始まる。茶の湯は、今(2014年に執筆。)でも茶道(さどう)として、受け継がれている。


  • 能(のう)


戦国時代[編集]

(せんごく じだい)

鉄砲とキリスト教の伝来[編集]

  • 長篠の戦い
長篠の戦い。(『長篠合戦図屏風』)
左側が織田・徳川の連合軍。なお、織田軍の上のほうに、秀吉の軍も、かかれている。
右側が武田軍。


この絵は、「 長篠の戦い」(ながしの の たたかい)をえがいたものである。


1575年、織田・徳川の連合軍と、対する敵は、甲斐(かい)の武田軍との戦いが、愛知県の長篠(ながしの)で起きたときの様子を、この絵はえがいてます。

(なお、武田の指揮官は、武田勝頼(たけだ かつより)である。このころ、武田信玄はすでに死んでいます。)

織田信長は、鉄砲隊を1000人もそろえました(3000人とも言われる)。

そして、武田の騎馬隊(きばたい)にそなえて、木の柵(さく)をつくってあります。


戦いがはじまると、織田・徳川軍の鉄砲隊は、武田の騎馬隊を、どんどんと、うちたおしました。


「長篠の戦い」で勝利したのは、織田・徳川の連合軍です。武田は負けました。

武田の戦法は、むかしながらの騎馬隊による戦法でした。この戦いまでは、武田軍の騎馬隊は、とても強い軍隊だと思われてました。なのに、織田の鉄砲隊によって、あっけなく、負けてしまったのです。


なお、当時の鉄砲は、弾(たま)をこめてから、うつまでに、30秒ほど、かかります。(木の柵(さく)があるのは、その30秒のあいだに織田軍が殺されないようにするための、時間かせぎのためでもあります。)


  • 鉄砲(てっぽう)
愛知万博のポルトガル館展示物)
当時の鉄砲は、つつ先から火薬(かやく)と弾(たま)をいれます。弾がとどく距離は、100mほどだと言われています。

鉄砲は戦国時代の16世紀の1543年に、九州の今でいう鹿児島県の島である種子島(たねがしま)に、ポルトガル人を乘せた中国大陸の船が流れ着く。

このとき、ポルトガル人から鉄砲(てっぽう)が日本に伝わる。当時の鉄砲の仕組みは、火縄銃(ひなわじゅう)という仕組みである。それまでの日本には鉄砲は知られていなく、日本にとっては鉄砲は新兵器であった。

(※ 範囲外: ) 種子島(たねがしま)の領主の 種子島時尭(たねがしま ときたか)は、ポルトガル人から大金を払って鉄砲を買い入れ、部下にその仕組みと製造法を学ばせた。時尭はヨーロッパ人の鉄砲の威力を見て感心し、即座に2000両の大金を支払い2丁の鉄砲を購入したという。)

やがて日本の各地に鉄砲の情報が広がります。堺(さかい、大阪府にある)や国友(くにとも、滋賀県にある)で、大量に鉄砲が作られるようになった。


鉄砲が日本に伝わってから、少しあとのころ、キリスト教が日本に伝わりました。

フランシスコ・ザビエル。

1549年にはスペイン人の宣教師(せんきょうし)であるフランシスコ=ザビエルが日本の鹿児島に来て、キリスト教を伝えたのが、きっかけです。

そのあと、他の宣教師も、次々と日本にやってきた。(たとえばルイス・フロイスなどの宣教師も、日本にきました。織田信長に出あった宣教師は、このルイス・フロイスです。ザビエルは、織田信長とは、出会ってないと思われます。)

宣教師は、日本とヨーロッパとのあいだの貿易の世話もしたので、大名たちの中にはキリスト教を保護する者も、いました。とくに西日本に、キリスト教を保護する大名が、多くいました。

ヨーロッパ諸国との貿易[編集]

このようなことをきっかけに、日本は、ポルトガルやスペインとの貿易を始めました。ポルトガル人・スペイン人の商船が、九州の長崎や平戸(ひらど)や、大阪の堺(さかい)の港などを訪れ、貿易をするようになった。

(※ 範囲外 : )なお、そのころ、ポルトガルやスペインの拠点が、東南アジアにありました。多くのヨーロッパ人の商人は、東南アジアを経由して、日本に来ました。

日本への輸入品は、中国の生糸や絹織物など、中国産の物品が中心だった。ヨーロッパの鉄砲、火薬、毛織物、時計、ガラス製品、南方の香料なども、日本に輸入され、伝えられていった。日本からの輸出品は、銀や刀剣だった。当時の日本では銀山の開発が進んでいたのでおり、世界市場に影響を与えるほどの産出量・輸出量だった。


天下統一へ[編集]

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

(おだのぶなが・とよとみひでよし・とくがわいえやす)

多くの大名がおり、各地で争いがおきているので、その全てを解説する時間はない。なので、代表的な人物を中心に取り上げる。

織田信長[編集]

  • 桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)
織田信長(おだ のぶなが)
1565年
※ 教育出版や光村の教科書に書いてあります。小学校の範囲内です。

戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年以降から、まず、尾張(おわり、愛知県にある)の 織田信長(おだ のぶなが) が勢力を伸ばし始める。

きっかけは、1560年に、愛知県にいる織田の領地に、となりの静岡県の今川義元(いまがわ よしもと)が攻め込んだことです。(この戦いは、愛知県の桶狭間(おけはざま)で起きたので「桶狭間の戦い」といいます。)

この戦いで、今川義元(軍勢ではなく本人)を織田らの軍が討ち取り、今川義元は死亡しました。このため、今川軍は命令の系統(けいとう)がくずれてしまい、負けました。

(なお、今川の討ち死にのいきさつは、信長軍の兵が少数の軍勢で今川の本陣を奇襲し、今川義元を討ち取ったことです。)



(※ 範囲外 : ) 豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、桶狭間の当時は織田信長の家臣でした。当時の名は「木下 藤吉郎」(きのした とうきちろう) と名乗っていました。のちの1570年のころに名を変え、木下藤吉郎から「羽柴 秀吉」(はしば ひでよし)に名前を変えています。


桶狭間の戦い以降、信長は西へと勢力を伸ばしていく。1568年には、室町幕府の足利氏の一族である足利義昭(あしかが よしあき)を支援して京都に入った。義昭が、室町幕府の第15代将軍になる。

1569年、信長は、キリスト教の宣教師(ルイス・フロイス)と初めて出会い、彼にキリスト教の布教を許可します。信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長の狙いは宣教師のもたらす情報などが狙いだとか、あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと、一般に言われています。


1571年には(仏教勢力の延暦寺が浅井・朝倉に味方してことなどから、)織田信長は、比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)を焼き討ちにします。(いわゆる「延暦寺の焼き打ち」。)

このほか、信長は、仏教勢力による一向一揆(いっこういっき)とたたかいました。


※ 日本文教出版の教科書『日本のあゆみ』で、延暦寺の焼き討ちなどを紹介しています。


そして、1573年ごろ、織田信長は、室町幕府の将軍(足利義昭(あしかが よしあき))を京都から追放しました。こうして、室町幕府は、ほろんだ。

(※ 足利義昭の名前は、小学校の教科書では出てこない。)


  • 長篠の戦い
長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。

1575年に織田・徳川の同盟と、対する敵は、甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である 長篠の戦い(ながしののたたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは、織田・徳川らの鉄砲隊の活躍により、織田が勝ち、武田は負ける。 武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。


  • 堺(さかい)

大阪の堺(さかい)は、さいしょは、港町として、栄えていました。戦国時代の堺(さかい)は、さいしょ、商人たちが自治(じち)をしていました。

しかし、織田信長は、武力で、堺(さかい)も支配します。

  • 安土城(あづちじょう)

(※ 小学の範囲内です。検定教科書に想像図や復元図などで書いてあります。)

1576年、琵琶湖(びわこ)のちかくの近江(おうみ、滋賀県)にある、小高い山の上に城を築かせ(きずかせ)、天守閣(てんしゅかく)を持つ 安土城(あづちじょう) を築かせました。

安土城の城下町では、自由に商売をできるようにしましたので、とても、もうかりました。

また、安土の城下町には、キリスト教の学校や教会も建てられました。

このように、信長はいろいろと新しいことを、やりました。

  • 楽市楽座(らくいち らくざ)

(※ 「楽市楽座」の用語は範囲外。内容は小学教科書でも紹介している。)

商業をさかんにするため、関所(せきしょ)で通行税(つうこうぜい)をとることを廃止(はいし)した。 一般に商人は、利益をだすために、費用をあまり払いたくないので、そのため税のひくい場所で商売をしたがります。

また、各産業の同業者組合である座(ざ)の独占権を廃止し、だれでも商売が始められるようにします。このように座の独占権を廃止したことを 「楽座」(らくざ) と言います。

そして、商業を活発にするための信長による一連の規制(きせい)の撤廃(てっぱい)などの商業の振興策(しんこうさく)を、楽市楽座(らくいち らくざ)といいます。

※ 「座」とは何かを小学校では紹介してないので、「楽市楽座」という用語も小学校では紹介してないようだ。


本能寺の変[編集]

1582年

(※ 「本能寺の変」の用語は範囲外。内容は小学教科書でも紹介している。)

1582年、中国地方へと勢力をひろめるため、織田軍は秀吉(ひでよし)などに命じて、中国地方の大名の毛利(もうり)と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中、信長は京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。

このとき、家臣の明智光秀(あけち みつひで)が裏切り(うらぎり)、明智の軍が信長におそいかかり、この本能寺で信長および信長の子の織田信忠(おだ のぶただ)たちは死亡します。

この1582年の本能寺での一連の事件が本能寺の変(ほんのうじのへん) です。


信長は、天下統一をしていません。 天下統一ならず、信長は死亡します。 のちに、戦国時代の天下統一をした人は、羽柴秀吉(はしば ひでよし)です。


羽柴秀吉の台頭(たいとう)[編集]

豊臣秀吉。秀吉は、もともと農民でしたが、村をでて、武士になりました。そして、信長に認められて、信長の部下(ぶか)になりました。
大阪城

信長の死を聞いた羽柴秀吉は、ただちに毛利との停戦をし、そして京都・大阪に向かい、明智光秀を倒します。

その後、秀吉にさからう大名をつぎつぎと倒し、支配をかためていきます。

このようにして、しだいに秀吉の地位は高まっていき、信長の領地を受け継いでいきます。


1583年に秀吉は、大阪に大阪城(おおさかじょう)を築かせ、この大阪城を本拠地(ほんきょち)にした。

そのあと、秀吉は各地の大名たちを平定して従えて(したがえて)いきます。

1685年、羽柴秀吉は朝廷から 関白(かんぱく) の称号を、もらいます。

藤原氏以外で関白になったのは、秀吉が、はじめてです。

1586年、羽柴秀吉は朝廷から豊臣(とよとみ)の姓(せい)をもらい、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と名乗る許可を得ます。


そして1590年には、秀吉に従わなかった北条(ほうじょう)氏の治める関東の小田原(おだわら)を攻め、北条氏政(ほうじょううじまさ)を滅ぼします。

同1590年、秀吉に従っていなかった東北の伊達(だて)氏など東北の大名は、秀吉にしたがい、これで秀吉が天下統一をなした。

秀吉の政策[編集]

  • 太閤検地(たいこうけんち)

農民から年貢を取るための土地の調査を検地(けんち)という。

検地は信長の時代からも行われていたが、秀吉は各地でちがっていた長さや面積などの単位を全国で統一させた。年貢をおさめる枡(ます)も全国で統一させた。マスの基準(きじゅん)は、京都で使われていた京枡(きょうます)が全国の基準の枡になった。

そして記録によって、田畑の面積や、田の収穫高である石高(こくだか)、その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳(けんちちょう) が作られた。

検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。 また、これで、かつての荘園のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなった。


  • 刀狩(かたながり)

1588年に農民から刀や鉄砲などの武器を没収する命令の刀狩令(かたながりれい)をだします。

おもてむきの理由は、大仏を京都の方広寺(ほうこうじ)に作るので材料の鉄が必要なため、という理由です。秀吉の狙いは、一揆(いっき)を防ぐため、というのが現代(2014年に記述)での一般的な考えです。

刀狩令
百姓(ひゃくしょう)が刀・やり・鉄砲などの武器をもつことを禁止する。年貢を出ししぶり、一揆(いっき)をおこすものは、きびしく罰する。
とりあげた刀は、大仏をつくるためのクギなどにするから、百姓は仏のめぐみで、この世だけでなく、あの世でも救われるだろう。


なお、「百姓」(ひゃくしょう)とは、農民(のうみん)や漁民(ぎょみん)などのことです。


朝鮮出兵[編集]

日本を統一した秀吉は、つぎに、外国を征服(せいふく)しようとした。そのため、中国大陸、当時は明(みん)という国を征服しようとした。このための足がかりとして、まず朝鮮(ちょうせん)に通行の許可(きょか)や協力などをもとめたが、朝鮮に断られたため、朝鮮との戦争になり、2度にわたって朝鮮に兵をおくって戦争をした。

この戦争を日本の呼び方で、朝鮮出兵(ちょうせん しゅっぺい) とか 朝鮮侵略(ちょうせん しんりゃく)と いいます。

ここで気をつけてほしいのは、朝鮮の最初の目的は、けっして朝鮮半島への征服ではなく、中国大陸への征服です。名前が「朝鮮出兵」とか「朝鮮」侵略なので、てっきり朝鮮の領土だけをねらった戦争だろうとマチガイやすいので、気をつけてください。

(※ なお、20世紀の後の時代の戦争で朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)という戦争がありますが、朝鮮出兵とは別の戦争です。朝鮮戦争は北朝鮮と韓国との戦争です。名前が似ていますが、まちがえないでください。)

秀吉の朝鮮出兵は2度、あります。

最終的に日本は朝鮮・明の連合軍に負けます。

『行録』などの記述をそのまま絵にしたもので、亀甲船の想像図。少なくとも18世紀以後に描かれたものであり、史料価値はほとんどない。

1回目の朝鮮出兵である文禄の役 では、朝鮮の各地や海上で日本軍は朝鮮軍と戦いましたが、朝鮮の水軍(すいぐん)の軍人である李舜臣(日本語よみ :り しゅんしん、  韓国語よみ :イ スンシン)がひきいる亀甲船(きっこうせん)に、日本は苦戦した、といわれています。また明からの援軍が朝鮮に協力したので、日本の戦況は不利になっていきました。

朝鮮の民衆も朝鮮軍に協力したが、このため、朝鮮軍だけでなく朝鮮の民衆も戦争に巻き込まれた。

戦国時代では、手柄をしめすために敵の将の首を切り取り送るのが一般だったのです。階級の低い敵兵の場合には首ではなく鼻などを切り取っていました。


1598年に日本国内で秀吉が病死し、日本軍は日本にひきあげ、朝鮮出兵は終わります。


  • 朝鮮出兵の結果:
・日本の諸大名などからの豊臣氏への信用が弱まり、のちに、豊臣氏が没落していくキッカケの一つになる。
・朝鮮に、大きな被害を与えた。
・戦争で消耗した明(みん)の力も弱まる。
・朝鮮の陶器(とうき)の文化が日本に伝わる。朝鮮人の捕虜が日本に連行されたり、物品の略奪などを通して。佐賀県の有田焼(ありたやき)、鹿児島県の薩摩焼(さつまやき)、山口県の萩焼(はぎやき)など。今では、その地方の特産品の一つになっている。


徳川家康[編集]

徳川家康

1590年、秀吉の命令によって、家康の領地が関東に移される。そして、江戸城(えどじょう)が家康の拠点になる。(※ 江戸城は、室町時代から存在していた。 )(※ 検定教科書を見ると、あたかも家康が、お城のなかった場所に江戸城をつくらせたように見えるが、しかし、それはマチガイである。)

家康が、江戸に移る前は、もとは三河(みかわ、今でいう愛知県)地方の大名だった。

朝鮮出兵では、家康は兵をおくる義務はなく、家康は兵力をたくわえることが出来ました。

豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康のいきおいが強まりました。

  • 関ヶ原(せきがはら)の戦い
関ヶ原(せきがはら)の戦い
絵の右側にいるのが東軍(徳川方)。絵の左側にいるのが西軍(豊臣方)。

1600年の 関ヶ原の戦い(せきがはら の たたかい)で、家康がひきいる東軍(とうぐん)と、豊臣のひきいる西軍(せいぐん)とが関ヶ原(せきがはら、岐阜県)で戦いました。

戦争の結果は、家康軍の勝利。

戦後は、豊臣氏は、まだ、ほろんでいない。豊臣氏は大阪城を拠点に、のこっている。秀吉の子が生きている。

関ヶ原の戦いでの各軍の兵数は、東軍が10万人ほど、西軍が8万人ほどの戦争であった。


  • 江戸幕府(えど ばくふ)
1603年、朝廷から家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命された。
家康は江戸(えど、今でいう東京)に幕府を開く。これが江戸幕府(えど ばくふ)であり、この時から江戸時代(えど じだい)が始まる。江戸時代は260年ほど、つづく。
1605年 家康は、将軍の職を、息子の徳川秀忠(とくがわ ひでただ)にゆずる。このことによって、将軍職が、徳川家の世襲(せしゅう)であることを諸国にしめした。


  • 大阪城を攻める(せめる)
1614年  家康により、豊臣氏をほろぼすための戦争を始めます。

そして、この戦争で豊臣氏が負けたので、豊臣氏は、ほろぼされます。


  • 江戸の工事
江戸城

江戸のまちは、江戸幕府より前は、政治の中心地になったことがなかったので、やや不便だった。

なので家康は、日本全国の大名に資金(しきん)や人手を出させて、江戸の町を広げる工事をさせた。江戸城を広げる工事も、行われました。(江戸城そのものは、室町時代から、あった。)


  • 1616年 徳川家康が死亡。

(死因は、まだ、解明されていない。家康が食べた天ぷらによる食中毒が一般的に定説だが、その証拠がない。)


まとめ : 信長・秀吉・家康[編集]

信長・秀吉・家康の時代
織田信長
織田信長の顔。
豊臣秀吉
豊臣秀吉の顔。
徳川家康
徳川家康の顔。
1534 尾張の大名の子として生まれる 1537 尾張に農民の子として生まれる 1542 三河の大名の子として生まれる
1560 今川氏を破る
1562 家康と連合する 1562 信長と連合する
1573年 足利氏を京都から追い出す
(室町幕府をほろぼす)
1575 長篠の戦い (信長と家康の連合軍が、武田の軍をたおす)
1576 安土城を築く
1580 石山本願寺を倒し、
一向一揆に勝利する
1582 本能寺の変で明智光秀におそわれ、
信長は自害する

1582 秀吉が光秀をたおす
1583 大阪城を築く
1585 関白になる
1588 刀狩りを命じる
1590 日本を統一する 1590 秀吉の命令で、関東に領地をうつす
1592 朝鮮をせめる
1597 ふたたび朝鮮をせめる
1598 病死する
1600 関ヶ原の戦いで勝つ
1603 征夷大将軍になり、江戸幕府をひらく
1615 豊臣氏をほろぼす
1618 病死する

つぎのような うた があります。

織田がつき   羽柴がこねし   天下もち
    すわりしままに    食うは徳川
(おだがつき はしばがこねし てんかもち すわりしままに くうはとくがわ)

「羽柴」(はしば)とは、秀吉のことです。秀吉は、「豊臣秀吉」と名乗るまえには、「羽柴秀吉」(はしば ひでよし)と長く名乗っていました。

「織田」とは、織田信長のことです。

「徳川」とは、徳川家康のことです。

※ この うた(「織田がつき」・・・)を暗記しようとするのではなく、私たちが勉強した3人の人生をふりかえって、「なぜ、このような うた で説明されるようになったのか」を、自分の言葉で説明してみよう。


3人の武将について、かれらの性格をあらわした、つぎのような句があります。

織田信長
織田信長の顔。
豊臣秀吉
豊臣秀吉の顔。
徳川家康
徳川家康の顔。
鳴かぬなら
 殺してしまえ
  ホトトギス
鳴かぬなら
 鳴かせてみせよう
  ホトトギス
鳴かぬなら
 鳴くまで待とう
  ホトトギス


ヨーロッパから伝わってきた言葉[編集]

範囲外: ヨーロッパから伝わってきた言葉

戦国時代のころ、ヨーロッパとの貿易により、ヨーロッパの商品や科学技術が日本に伝わりました。

食べ物のパン(pão、パアオ)やカステラ(pão de castela)、カボチャ、また、衣服のカッパやボタン、カードのカルタ(cartas、カールタス)、食べ物のテンプラも、日本に伝わる。 (※ 外国語での表記は、おぼえなくてよい。つまり「pão」や「carta」などは、おぼえなくてよい。)

コップもポルトガル語の copo コッポが由来。

お菓子の金平糖(こんぺいとう)の語源も、ポルトガル語のコンフェイト(confeito )という外国語です。

※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』や、教育出版の教科書で、カステラなどについて紹介されている。

服の上から着る「マント」とその言葉も、この時代に、つたわってきました。(なお、マントの語源はフランス語です。) おそらく、宣教師などが、マントをまとってたのでしょう。

図形を書くのに使う「コンパス」とその言葉も、この時代に、つたわってきました。(なお、コンパスはオランダ語です。)

※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』で、マントやコンパスなどについて紹介されている。また、国語の教科書で、外来語として紹介される場合もある。


( ※「国語」教科の範囲 : )なお、このように、ヨーロッパなどの、日本から遠く離れた外国からつたわってきた言葉のことを「外来語」(がいらいご)といいます。(中国やインドだって外国ですから、本来なら、中国やインドから伝わってきた言葉も「外来語」というべきかもしれませんが・・・。)


なお、いくつかの日本語や中国語もヨーロッパに伝わっていきました。

「茶」(ちゃ)が、cha シャーと、ポルトガル語になりました。(※ 中国語の発音もチャーなので、日本から伝わったとは、かぎらない。)

「坊主」(ぼうず)が、bonzo ボンゾーと、ポルトガル語になりました。


当時の日本人がヨーロッパ人を「南蛮人」(なんばんじん)と読んだので、日本によるヨーロッパとの貿易を南蛮貿易(なんばん ぼうえき)という。

(※ 小学教科書の章末コラムなどで、「南蛮」の用語がある。日本文教出版、教育出版など。)
南蛮屏風(なんばん びょうぶ) (※ 一部分)
南蛮貿易のようすが、かかれています。日本人がえがいた絵です。


江戸時代[編集]

江戸時代初期の政治[編集]

江戸時代のはじめごろ、江戸幕府は、日本全国に200人ほどいた大名を、親藩(しんぱん、※ 徳川家の親類)・譜代(ふだい、昔からの仲間)・外様(とざま、関が原の戦いのころから従った(したがった)大名)の3種類にわけました。

※ 「親藩」・「譜代」・「外様」は、小学校の範囲です。光村図書や日本文教出版の教科書などで、普通に書いてあります。

また、それぞれの大名を、幕府に都合のいい地域に、配置しました。このため、戦国時代のころとは別の地域へと、領地が変わることになった大名もいます。


なお、江戸時代に大名の支配する領地のことを(はん)と言います。

徳川家の親族の大名や、関ヶ原の戦いよりも前に古くから徳川に仕えていた大名は、重要な地域や江戸の近くへと配置されます。

いっぽう、関ヶ原の戦いのあとに徳川に仕えた大名(だいみょう)は、江戸から遠いところに配置されました。

親藩(しんぱん) :徳川家の親族の大名(だいみょう)を親藩(しんぱん)と言います。親藩は、江戸の近くや重要地点に配置されました。江戸のほかで親藩になった地域は、水戸(みと)と尾張(きい、いまの名古屋)と紀伊(きい、いまの和歌山県)です。
(※ いわゆる「徳川御三家」(とくがわ ごさんけ)とは、この3地域(水戸・尾張・紀伊)のことです。)

(※ 発展的内容: )このほか、四国の北側の地域にも、親藩の大名があてられました。(いっぽう、中国地方は、外様大名の多い地域です。おそらく、四国の北の親藩大名は、瀬戸内海の外様大名を、見張っています。)

譜代(ふだい) :関ヶ原の戦いよりも前の古くから徳川に仕えていた家来(けらい)の大名を譜代(ふだい)といいます。譜代は、江戸の近くや重要地点に配置されました。譜代大名の領地の多くは、関東地方と愛知県・静岡県および、その周辺にあります。
外様(とざま) :関ヶ原の戦いのあとに徳川に仕えた家来の大名のことを、外様(とざま)とか外様大名(とざまだいみょう)と言います。外様は、江戸から遠いところに配置されます。外様大名の領地の多くは、西日本と東北にあります。九州の島津(しまづ)氏や、中国の毛利(もうり)氏、東北の伊達(だて)氏、加賀の前田(まえだ)氏などが、外様(とざま)です。


江戸幕府での「大名」(だいみょう)とは、領地の石高(こくだか)が一万石(いちまんごく)以上の武士のことです。

※ なお、「石高」とは、その土地の米の収穫量のことです。人間が1年間に食べる米の量を基準にしています。1石は約80リットルです。なので、20万石あれば、20万人が1年間、お米を食べられる量です。

日光東照宮(にっこう とうしょうぐう)。(栃木県)
日光東照宮は、徳川家康をまつっている神社です。3代将軍家光(いえみつ)によって建造が命令されました。世界文化遺産、および、国宝。

これとは別に、幕府が直接 治めた地域もあります。江戸はもちろん、幕府が直接、治めました。また、大阪と奈良と京都も、幕府が直接、治めました。

長崎と日光も、幕府が直接、治めました。

北陸にある佐渡島(さどがしま)も、幕府が直接、管理しました。この佐渡島には、金山(きんざん)もあります。


※ 丸暗記しようとするのではなく、なぜ、この地域を直接、おさめる必要があったのか、考えよう。


幕府の直接おさめた地域の広さは、日本全国の4分の1 ~ 5文の1ほどです。(日本全国の 23% ~ 26% ほど の領土である。)


一番、石高(こくだか)が多かった藩(はん)は、金沢(かなざわ)にある加賀藩(かがはん)です。加賀藩の領地は、103万石です。前田家が、加賀藩の大名です。

加賀の前田は、外様大名です。


  • 武家諸法度(ぶけしょはっと)

幕府により、大名を取り締まるために法律が作られ、この法は武家諸法度(ぶけしょはっと)と言い、1615年の徳川秀忠の時代に作られた。この法度に違反すると、領地の没収などの厳しい処分が、された。

以降、将軍が代わるごとに修正されて出されます。


武家諸法度
一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら専念すること。
一. 新しく城を築く(きづく)ことは、かたく禁止する。修理する場合であっても、必ず幕府に申し出ること。
一. 大名は、毎年、きめられた月に江戸に参勤(さんきん)すること。 (※ 3代将軍 家光が加えた)
一. 大きな船を作ってはならない。(※ 3代将軍 家光が加えた)
一. 大名は、幕府の許可なしに、勝手に結婚をしてはならない。
  • 参勤交代(さんきんこうたい)
徳川家光(いえみつ)

3代将軍の家光(いえみつ)のとき、1635年に付け加えられ、大名には一年ごとに江戸と領地に半数ずつ住まわせるという参勤交代(さんきんこうたい)という決まりが武家諸法度に付け加えられました。

また、江戸に、大名の妻や子が、人質(ひとじち)として住まわせられました。

参勤交代に必要な費用は、それぞれの藩の負担となった。

大勢の家来を江戸と領地に往復させるので、大名に多くの費用がかかって、大名の経済力を弱められました。


参勤交代のときの大名の一行は長い行列(ぎょうれつ)ができるので、大名行列(だいみょうぎょうれつ)と言います。

園部藩参勤交代行列図 (1) (南丹市文化博物館蔵)
園部藩参勤交代行列図 (2) (南丹市文化博物館蔵)
園部藩参勤交代行列図 (3) (南丹市文化博物館蔵)

幕府の目的は、大名の経済力を弱めることと、大名の妻や子を人質に取ることだろう、と今では言われてます。


参勤交代によって、道路などの設備(せつび)が整います。また宿場町(しゅくばまち)も出来ていきました。

家光は、「生まれながらの将軍」と言われており、つぎのような話が残っています。

家光は、諸国の大名を江戸城にあつめて、つぎのように宣言しました。
家光「わたしの祖父の家康や父の秀忠は、もともとは、お前たちと同じ大名で、ともに戦った仲間だったから、お前たちへの遠慮(えんりょ)があった。だが、私は、生まれながらの将軍だ。だから、お前たちを家来として、あつかう。これに不満のある者は、領地に帰って戦いの準備をするがよい。戦いの相手をしてやろう。」

キリスト教の禁止と貿易[編集]

鎖国への歩み
おもなできごと
1613  幕府がキリスト教の禁止令を出す
1616  外国船との貿易を長崎と平戸(ひらど)に制限する
1624  スペイン人の来日を禁止する
1635  日本人の海外渡航の禁止。海外にいる日本人の帰国の禁止する
1637  島原の乱(しまばらのらん)が起きる
1639  ポルトガル船の来航を禁止する
1641  平戸(ひらど、長崎県)にあったオランダ人の商館を、長崎の出島(でじま)に移す
(鎖国の完成)

徳川家康は、はじめ、外国との貿易を許可していました。

そのため、貿易船の多くは、東南アジアまで出かけることも、多くありました。

また、東南アジアの各地に、日本人が住みつく日本町(にほんまち)も、できました。

しかし、キリスト教の信者が団結して幕府の命令を聞かなくなることを幕府はおそれて、幕府はキリスト教を禁止しました。


キリストの踏み絵

さらに、3代将軍の家光のころに、日本人が海外に行くことを禁止し、外国にいる日本人が日本に帰国することも、禁止しました。

このころ(3代将軍の家光のころ)、九州の島原半島(しまばらはんとう、長崎県)や天草島(あまくさじま、熊本県)で、キリスト教の信者の農民3万人あまりによる、大きな一揆(いっき)が起きました。

この島原・天草の一揆の理由は、禁教によるキリシタンへの弾圧、および、領主による重い年貢などへの反乱です。

反乱軍の中心人物は、16才の天草四郎(あまくさ しろう)とも言われる益田時貞(ますだ ときさだ)という少年です。

幕府は兵数 12万人 ほどの大軍をおくって、4ヶ月ほどかかって、戦い、一揆をしずめました。

この出来事を島原の乱(しまばら の らん)と言う。島原・天草の一揆(しまばら・あまくさ の いっき)とも言う。

※ 光村図書の教科書で「島原の乱」という表記が使われています。他社の教科書では、「島原・天草の一揆」という表記が多い。


この戦いのあと、キリスト教への取りしまりは、いっそう厳しくなりました。

キリスト教を発見するためには、踏み絵(ふみえ)を用いた絵踏み(えふみ)が行われました。

踏み絵(ふみえ)による絵踏み(えふみ)

この時代、キリスト教は禁止されていたが、かくれてキリスト教を信じる人達がいた。このような隠れキリスト教徒を取り締まるため、幕府は人々にキリストが描かれた(えがかれた)銅板の踏み絵(ふみえ)を踏ませるという、絵踏み(えふみ)をさせて、絵踏みをしないものはキリスト教徒であるとして処罰した。

1824年、もしくは1825年に描かれた出島の鳥瞰図。扇形をしている。

そして幕府は、貿易の相手を、キリスト教を広めるおそれのないオランダと中国(ちゅうごく、※ チャイナのこと)だけにかぎり、長崎で貿易することにしました。

長崎には、オランダとの貿易のために人工の島がつくられました。長崎のその人工の島は、その出島(でじま)といいます。

オランダとの貿易は、この出島のなかでだけ行われました。また、オランダ人は、この出島にしか住めませんでした。

幕府は、普通の日本人を、この出島に入れさせませんでした。出島に入れる日本人は、幕府の役人や、許可を得た日本人だけでした。

(このような、江戸幕府による、外国人と日本人との交流を減らして(へらして)いった対外政策は、のちに江戸時代の1800年ごろから鎖国(さこく)と言われはじめ、明治時代から「鎖国」という用語が広がります。)

江戸幕府は長崎のオランダ商館長(オランダしょうかんちょう)に、外国のようすを幕府に報告(ほうこく)させるための報告書(ほうこくしょ)の提出を義務づけました。

このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、いったん、日本では、江戸幕府が西洋についての情報を独占しました。

こうして、貿易の利益と、外国についての情報は、幕府が独占(どくせん)しました。


  • 朝鮮との貿易
朝鮮通信使 江戸の町を朝鮮通信使の一行がおとずれた様子です。

徳川家康の時代に、対馬藩(つしまはん)を通して朝鮮(ちょうせん)との貿易が行われます。秀吉の時代には朝鮮出兵により貿易が中断(ちゅうだん)しましたが、江戸時代に入り日本と朝鮮との国交が回復し貿易が再開します。鎖国のあいだも朝鮮との貿易は幕府に許され、貿易が続き(つづき)ます。

3代将軍の家光の時代からは、日本で将軍がかわるたびに、朝鮮からの通信使(つうしんし)が訪れるようになります。朝鮮からの通信使を 朝鮮通信使(ちょうせん つうしんし) と言います。

このころ、朝鮮とは、豊臣秀吉のころの朝鮮出兵のせいで、日本と朝鮮と貿易が、とだえていましたが、対馬藩(つしまはん)の努力によって、貿易が再開しました。


  • 発展的な内容

オランダとの貿易での輸入品のほとんどは、生糸(きいと)・砂糖(さとう)・毛織物です。ときどき、ガラスや望遠鏡や時計などの、めずらしいものの輸入されました。

日本からの輸出品は、金・銀・銅や陶磁器(とうじき)などです。


江戸時代の北海道と沖縄[編集]

  • 北海道

江戸時代、北海道は「えぞ」とよばれており、アイヌ民族が住んでいました。

現代では、この北海道のいくつかの民族をまとめて、アイヌ民族と呼んでいます。

アイヌは、松前藩(まつまえはん)と貿易をさせられていました。 アイヌの人が持ってくるサケやコンブを、わずかな米などと交換していたといいます。

このような不公平な貿易におこったアイヌの人たちが、17世紀の中ごろ、反乱を起こしました。シャクシャインという人物を中心に反乱を起こしました。

※ シャクシャインは小学校でも習う。教育出版や光村図書の教科書で、章末コラムに書いてある。琉球も同様に習う。
  • 琉球王国(りゅうきゅう おうこく)

江戸時代、沖縄は「琉球」(りゅうきゅう)という王国でした。

江戸時代の初めごろ、17世紀に、琉球王国は薩摩藩によって支配されました。そして、薩摩藩によって、琉球は年貢を取られるようになりました。

薩摩藩は、以前から琉球が行っていた中国との貿易をつづけさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。


身分による支配[編集]

豊臣秀吉の時代に、刀狩りなどによって、農民や武士とのあいだの身分の区別が決まっていきました。江戸幕府も、身分の区別を受けつぎます。

武士は、城のまわりに住んで、役人として仕事をすることが、普通(ふつう)でした。

武士には、刀を持ち歩いてもいいとか、名字(みょうじ)をなのってもいい、などの特権がありました。

※ なお、刀を、さや におさめたまま持ち歩くことを、「刀を差す」(かたな を さす)といいます。「刺す」ではありません。武士といえども、なにも犯罪などの事件が起きてないのに、刀を抜き出して持ち歩いてたら、さすがに処罰(しょばつ)されるでしょう。

江戸時代は、武士の身分が、一番、高いです。武士が、他の身分の農民や町民などを支配します。

江戸時代の身分別の人口割合。
なお、「公家」(くげ)とは、朝廷の関係者のこと。

農民の身分が2番目に高い、とされました。


江戸時代、農民は毎年、年貢を取られます。

なお、農地で働いてる農民が払う年貢が、何をおさめるのかというと、ふつうは、お米ですが、地域によっては、ほかの農作物をそだてて、それをおさめる場合もあります。

また、漁民などは、海産物を、年貢のようなものとして、おさめる場合もあります。

農民や漁民をまとめて、百姓(ひゃくしょう)といいます。


いっぽう、職人や商人など、町人の多くは城下町(じょうかまち)などの都市(とし)に住んでいました。

このような、職人や商人のことを、町民(ちょうみん)といいます。

町民は、年貢のかわりに、町づくりのための費用などを、おさめる必要がありました。


これとはべつに、えた および ひにん と言われる、農民よりも身分が低くされ、条件のわるい土地にすまわされたり、祭りへの参加を禁じられるなど、差別をされた人々がいました。(※ 小学校の検定教科書では、「えた」「ひにん」の言葉は無い。中学では習う。)


江戸時代の日本の人口における武士の割合(わりあい)は人口の7%ほどです。なお江戸時代の人口の数は 約3000万人 です。

江戸時代の日本の農民の人口の割合は、人口の84%です。 (※ こまかな数字は、おぼえなくて良い。「国民のほとんどが農民」とえも覚えれば、じゅうぶんである。)

また、職業(しょくぎょう)を勝手(かって)に変える(かえる)ことは、ゆるされませんでした。

また、女性の地位は、男性よりも低いとされました。

農民など[編集]

  • 農民への おふれ書き(おふれがき)

農民のくらしは、贅沢(ぜいたく)をしないように、きびしく管理されました。

「慶安の おふれ書き」(けいあんの おふれがき)によって、農民の生活のきまりが、幕府によって定められました。(※ 検定教科書では「慶安」の名前は出ないが、wikibooksではネットで調べやすくするため、紹介する。) おふれ書きの内容は、現代風に訳すと次のような内容です。

 農民への おふれ書き(おふれがき)

一. 朝は早起きをして草を刈り、昼には田畑の耕作をして、夜には縄(なわ)をつくって俵(たわら)を編む(あむ)など、それぞれの仕事をしっかりと行うこと。
一. 幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えず、また名主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。
一. 酒や茶を飲まないこと。
一. 農民は麦・ひえ・あわ などの雑穀(ざっこく)などを食べ、なるべく米を食べないこと。
一. 農民の服は、麻(あさ)と木綿(もめん)だけであり、ほかの服は着てはいけない、裏地(うらじ)にも他の布を使ってはならない。

以上の内容が おふれ書き の内容として有名ですが、他にもつぎのような内容も御触書にあります。 (※ おぼえなくても、大丈夫だろう。)

一. タバコは、吸うな(すうな)。
一. 名主(なぬし、村長のこと)は親のように敬え(うやまえ)。


  • 五人組(ごにんぐみ)

ほかにも、農民の年貢や犯罪などに、共同で責任を負わせるため、五人組(ごにんぐみ)という集団を、村で5件ごとにつくらせた。

産業[編集]

農業[編集]

幕府や藩は、新田の開発に力を入れた。

その結果、開墾(かいこん)が進み、江戸時代の中ごろには、日本全国の田畑の耕地面積は、秀吉のころと比べて、ほぼ2倍 に広がった。

幕府や藩の財政は百姓からの年貢にたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要があった。

江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って貨幣(かへい)に現金化していました。


年貢米は江戸や大阪にある蔵屋敷(くらやしき)に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。(※ 教育出版の教科書で、「蔵屋敷」を紹介。)

全国各地の海産物や、各地の特産物も、ほとんどは大阪にあつめられました。

そして、大阪から、あつめられた産物が、全国各地に売り飛ばされました。


このように、大阪は、各地の産物があつめられたので、大阪は「天下の台所」(てんか の だいどころ)であると言われました。


なお、江戸は「将軍の おひざもと」だと言われました。江戸時代の中ごろには、人口が100万人をこえる大都市になった。


このほか、全国各地で、用水(ようすい)や洪水対策などのための土木工事も進んだ。

農地に水を引く灌漑(かんがい)のための用水路(ようすいろ)が、全国各地にできた。

(※ おぼえなくていい : )箱根上水(はこね じょうすい) や 玉川上水(たまがわ じょうすい) は江戸時代に出来た。


備中ぐわ
千歯こき
  • 農具の発達

備中ぐわ(びっちゅうぐわ)・千歯こき(せんばこき)・千石どおし(せんごくどおし)などが開発された。

備中ぐわ(びっちゅうぐわ) ・・・ 耕すための農具で、深く耕せる。。
千歯こき(せんばこき ・・・ 稲(いね)の穂(ほ)から米つぶを脱穀するための道具。くし状の部分が鉄製で、何本もの、くし状の「こき」があるので、一度に多くの穂(ほ)を脱穀(だっこく)できる。
千石どおし(せんごくどおし)、とおみ ・・・ もみを、ふるい分ける。
水車(みずぐるま)、踏み車(香取市)
  • (※ 範囲外: ) 踏み車(ふみぐるま) ・・・ 灌漑(かんがい)用の水車である踏車(ふみぐるま)なども開発された。

踏車は、人間が(自転車のペダルみたいに)踏んで回す水車なので、重力に逆らって水を高いところにあげられるという仕組みである。

竜骨車(りゅうこつしゃ)という、かんがい用の農具もあります。形は踏車とちがいますが、竜骨車も、農民が足で踏んで(ふんで)動かすことで、水がくみあがる仕組みです。


  • 肥料

なたね油やごま油の しぼりかす が、肥料として使われた。農家が金(かね)を出して買う。

魚の いわし は、干して(ほして)、肥料として使われた。イワシによる肥料のことを「ほしか」という。(※ 日本文教出版の教科書で「ほしか」の名前を紹介。)


  • 商品作物
(※ 教育出版や日本文教出版「日本の歩み」の教科書で紹介。)

農民が、売ることを目的に、綿・なたね・茶・麻・あい、などの、今で言うところの商品作物(しょうひんさくもつ)が作られるようになった。 農村でも貨幣(かへい)が使われるようになっていた。

  • その他、

(範囲外 :) 江戸時代の中ごろから、外国から伝わった作物も、つくられるようになった。さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ・とうもろこし、などである。


陸路の交通[編集]

全国を道でつなぐため、街道(がいどう)が出来た。

江戸の日本橋の、ようす。五街道は日本橋が起点。画:歌川広重『東海道五十三次』より。
歌川広重(うたがわ ひろしげ)

江戸の日本橋(にほんばし)を起点とする幹線道路(かんせんどうろ)としての街道が5本あるが、これを五街道(ごかいどう)という。読みは「ごいどう」ではなく「ごいどう」なので、まちがえないように注意。

五街道(ごかいどう) と、そのほかの道である 脇街道(わきかいどう) などによって、東北から山陰・山陽地方までが道でつながった。

九州や四国も、それぞれの島の内部が、道で、つながった。


五街道は、東北地方の南部の今でいう福島県から京都までしか、つながっていない。

日光へと向かう 五街道のうちの街道が日光街道(にっこうかいどう)である。


日光街道は、北関東の宇都宮(うつのみや)のあたりで、ふたまたに分かれていて、宇都宮から福島の白河(しらかわ)へと向かう奥州街道(おうしゅうかいどう)に分岐(ぶんき)している。 (※ 宇都宮・白河など、細かな地名は、おそらく教科書の範囲外なので、学校対策では、おぼえなくてよい。)

以上の二本の街道が、五街道への北への方面である。


次に京都方面について、説明する。

京都の方面へと江戸から向かう街道は3本あるが、そのうちの2本は、じつは、途中(とちゅう)で合流(ごうりゅう)する。

五街道のうちの一つである甲州道中(こうしゅうどうちゅう)は、長野県の信濃(しなの)の諏訪(すわ)のあたりで、五街道のうちの別の一つである中山道(ちゅうさんどう)と合流する。 甲州道中の名前は「甲州」道中だし甲府(こうふ)を通るが、じつは長野県の信濃まで、つながっている。

五街道のうちの一つである東海道は、太平洋ぞいの街道であり、京都まで他の街道とは、つながっていない。東海道の経路は、今でいう神奈川県 → 静岡県 → 愛知県 → 京都 の経路である。 当時の用語で言えば、小田原(おだわら、神奈川) → 駿府(すんぷ、静岡) → 名古屋(なごや、愛知) → 京都 である。

東海道は、もっとも人々の行き来が、さかんだった。


  • 宿場(しゅくば)

街道には、旅行者が寝泊まり(ねとまり)するための宿場(しゅくば)が、もうけられた。

東海道には53の宿場があり、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)と言われた。


街道には、通行者が場所をわかりやすいように、並木(なみき) や 道しるべ が、もうけられた。また街道の道のりの約4キロメートルごとに塚(つか)がもうけられ一里塚(いちりづか) が、もうけられた。一里(いちり)とは、長さの単位(たんい)であり、今でいう約4キロメートル。


  • 通信の発達。飛脚(ひきゃく)

郵便物をとどけるため、人が走ったり馬をつかって運ぶ飛脚(ひきゃく)の仕事が発達した。

幕府が管理する飛脚を 継飛脚(つぎひきゃく) という。町人のあいだでは 町飛脚(まちひきゃく) が利用された。


  • 関所(せきしょ)
関所の様式の門。観光テーマパークでの復元。
※ 検定教科書には「関所」は無い。

警備(けいび)上の理由から、街道には、通行者の取り調べるため通行を制限(せいげん)する関所(せきしょ)が、おかれた。 関所では、通行者は、関所の役人に、通行許可証である手形(てがた)を見せる必要があった。

関所では、とくに江戸に入る鉄砲(てっぽう)と、江戸から出る女は、きびしく調べられた。鉄砲の取り調べは、反乱を恐れて(おそれて)、のことである。江戸から出る女は、参勤交代で人質として江戸に住まわせた女である、大名の妻が、こっそり江戸から故郷(こきょう)へ帰国(きこく)することを恐れて、である。

「入り鉄砲に出女」(いりでっぽうに、でおんな)と言われ、これら2つは、きびしく調べられた。

海上交通の発達[編集]

船は、大量の荷物を、少ない人物で運べます。しかも、一度、船に積めば、目的地までは途中で積み替えをする必要がありません。

このため、大量の商品を運ぶには、海上交通をつかうと、時間はかかるが安く運びやすい。このような理由で、海運(かいうん)が発達した。 また、船も改良され発達した。

江戸時代のころの船の復元
  • 航路

東まわり航路

東北地方の太平洋側から、太平洋側を通り、江戸までをむすぶ航路。


西まわり航路

日本海側の東北地方から、瀬戸内海を通り、大阪までをむすぶ航路。


江戸時代の学問[編集]

  • 儒学(じゅがく)

徳川家康をはじめとして幕府は、幕府を保ちつづけるには儒学(じゅがく)などの道徳的な学問が必要だと考え、武士に儒学を学ばせた。

儒学では、平和に必要なのは、忠義の大切さや、子の親への忠孝の大切さなど、上下関係にもとづく忠孝や礼儀が、社会の平和に必要だと考えられていた。

このように上下関係にもとづき平和を求めるという儒学の内容が、幕府の士農工商などの身分差別の制度にも都合が良かったので、儒学が武士に学ぶべきとされる学問になった。


  • 教育
寺子屋の、ようす。

百姓や町民などの庶民は、「読み」(日本語の読み)、「書き」(日本語の習字)、「そろばん」(算数のこと)などを寺子屋(てらこや)で学んだ。

当時の外国では、読み書きの出来る庶民は少なく、世界各国の中でも、日本は文字を読める人が多い国であった。

また、貸本屋(かしほんや)などの書店も、増えていった。

  • 儒学以外の学問

いっぽう、ヨーロッパの政治や道徳や宗教などに関する学問は、日本の社会をまどわし日本を混乱におとしいれる危険な学問であるだろう、というふうなことが江戸幕府に考えられており、西洋の政治に関する学問の多くは禁止をされ、西洋道徳を学ぶことも禁止された。

日本の古典や歴史を学ぶことは幕府は認めていた。なので、たとえば万葉集(まんようしゅう)などの古典や、古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)などの歴史を学んだり研究する者もあらわれた。


  • 蘭学(らんがく)

ヨーロッパの医学や農学や科学技術など、キリスト教や政治道徳に関係の無い学問を学ぶことは、江戸時代のなかばの18世紀はじめごろ、8代将軍・徳川吉宗の改革などにより、西洋の科学技術などの研究が認められていった。 当時はオランダ語を通して西洋の科学を学んでいたので、ヨーロッパから取り入れた学問のことを蘭学(らんがく)と言った。蘭とはオランダのことです。 吉宗は青木昆陽(あおき こんよう)にオランダ語の研究をさせた。青木昆陽はサツマイモの栽培を広めた。


  • 医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳(ほんやく)
『解体新書』。扉絵は底本『ターヘル・アナトミア』の扉絵とはまったく異なっている。
『ターヘル・アナトミア』(複製)。

18世紀のおわりごろ、オランダの医学書が日本語へと訳(やく)された。翻訳書(ほんやくしょ)を出したのは、小浜藩(おばまはん、今でいう福井県)の医者の杉田玄白(すぎた げんぱく)と、中津藩(なかつはん、今でいう大分県)の医者の前野良沢(まえの りょうたく)の二人がかりである。

杉田たちは、オランダの医学書を見て、人体の内蔵(ないぞう)の解剖図(かいぼうず)が、とても正確に書かれていることに、おどろいた、と言われています。そして、日本の医学が、ヨーロッパよりも遅れている(おくれている)ことに、杉田たちは気づき、ヨーロッパの医学書の翻訳を決意しました。

杉田と前野の協力により、オランダ語で書かれた医学書の『ターヘル・アナトミア』(オランダ語:Ontleedkundige tafelen「オントレートクンディヘ・ターフェレン」)が日本語に訳され、翻訳版(ほんやくばん)が『解体新書』(かいたいしんしょ)として出されたのである。

杉田玄白(すぎたげんぱく

これが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書になった。


翻訳の当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書は無くて、たいへんに時間がかかり、オランダ医学書の「ウェインブラーウ(まゆ)は、目の上に生えている毛である。」というような一文でさえ、翻訳するのに1日かかったといいます。翻訳本の出来上がるまでには4年ほどの年月がかかった。

まだオランダ語に対応する日本語が無い言葉もあって、「神経」(しんけい)・「軟骨」(なんこつ)・「動脈」(どうみゃく)・「盲腸」(もうちょう)・「十二指腸」(じゅうにしちょう)などの言葉は、この翻訳のときに前野と杉田が考えた言葉である。

※ 光村図書の教科書で「動脈」「神経」などが杉田たち由来のことを紹介してある。


ついでに杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを書いた本である『蘭学事始』(らんがくことはじめ)という本を記した。

杉田玄白らの翻訳(ほんやく)のときの苦労話が、『蘭学事始』(らんがく ことはじめ)という本に書かれている。


  • 国学(こくがく)

江戸時代のなかばごろから、儒教や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきて、このような学問を 国学(こくがく) という。

本居宣長

本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の研究を行い、本居宣長(もとおり のりなが)は『古事記伝』(こじきでん)を記し、国学を高めた。 宣長の研究は『古事記』のほかにもあって、平安時代の紫式部の『源氏物語』についても研究している。

伊能忠敬を描いている切手、1995年発行の切手
  • 測量(そくりょう)
江戸時代の測量(そくりょう)のようす

伊能忠敬(いのう ただたか)は、日本全国を地図をつくるために細かく調べる測量(そくりょう)する旅をして、正確な日本地図である『大日本沿海輿地全図』(だいにほんえんかい よちぜんず)を作った。

伊能忠敬

伊能忠敬は、50才のときに、天文学や測量のための勉強をはじめました。そして、55才のときに、自費で北海道の南岸の測量を行いました。56才のとき、地図づくりのための測量を、幕府に願いでました。幕府は、忠敬の地図づくりの才能をみとめ、忠敬に地図づくりの許可を出しました。

それから17年間、忠敬は、地図づくりのため、日本の全国各地を歩きました。忠敬が歩いた距離は3万km以上に なります。

地図の完成のまえに、71才で忠敬はなくなってしまいますが、弟子たちが、日本全国の地図を完成させました。

そして、忠敬の弟子たちにより、とても正確な日本地図が、できあがりました。


最初に北海道に行った理由

伊能忠敬が、地図づくりで最初に行ったのが北海道の方面だったことには、科学的な理由もあります。

(※ 国語の教科書で、この科学的理由を習う場合があります。伝記(でんき)として、伊能忠敬の地図づくりについて習う場合があります。)

それは、日本の国内では、北極星(ほっきょくせい)に、いちばん近い場所は、緯度のたかい北海道の方面だからです。

読者の小学生が理科でもならうように、地球は、北極と南極とをむすんだ軸(じく)を中心に、自転しています。

このことから、北極星に近い場所と、いっぽう北極星に遠い場所では、夜空で北極星を見たときに、見える高さの角度が変わってきます。


だったら、べつに北極星に近づかなくても、逆に北極星から遠ざかるために九州や沖縄のほうに行ってもいいわけですが、たぶん他にもいろいろな理由があって、北海道のほうを優先して地図をつくったのでしょう。


江戸時代の文化[編集]

  • 絵画
『見返り美人図』 菱川師宣の筆。

絵画では、描かれる対象が町人や女性などのようすになり、それらの絵を版画(はんが)を利用して印刷する浮世絵(うきよえ)が、絵描きの菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)によって広まりました。

鈴木晴信が版画の多色刷りの方法である 錦絵(にしきえ) を開発し、そのため、化生文化では浮世絵が大流行して、多くの絵描き(えかき)が出た。

喜多川歌麿(きたがわ うたまろ) :美人画(びじんが)で有名。

安藤広重(あんどう ひろしげ) :風景画で有名。

葛飾北斎(かつしか ほくさい) :風景画で有名。作品に『富嶽三十六景』(ふがく さんじゅうろっけい)など。

『富嶽三十六景』より、一部を紹介。

役者絵。東洲斎写楽の筆。

東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく) :役者絵(やくしゃえ)で有名で歌舞伎(かぶきやくしゃ)役者などを描いた。


浮世絵は、貿易をとおして外国にも紹介され、ゴッホなどの西洋の画家にも影響をあたえた。


  • 人形浄瑠璃

物語を、三味線などを伴奏にしてリズミカルに節をつけて、あやつり人形をうごかしながら語るという人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)が元禄期の大阪や京都で、はやりました。

近松門左衛門

人形浄瑠璃の脚本家である近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)が有名で、近松の作品には『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)や『国性爺合戦』(こくせんや かっせん)などがあります。

  • 俳句

5・7・5の口調で季節の様子を句にする俳句(はいく)は、松尾芭蕉(まつお ばしょう)によって生み出さえた。俳句は連歌が、もとになっている。

芭蕉は、

「古池(ふるいけ)や 蛙(かわず)飛びこむ 水(みず)の音(おと)」

など多くの句を作りました。


また芭蕉は諸国を旅して、その観察した諸国の様子を『奥の細道』(おくの ほそみち)にまとめた。


  • 小説

作家の十辺舎一九(じゅぺんしゃ いっく)が東海道の旅行のようすを、おもしろおかしく書いて『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅう ひざくりげ)を書いた。

滝沢馬琴(たきざわばきん)が『南総里見八犬伝』(なんそうさとみ はっけんでん)を書いた。

俳句は、与謝蕪村(よさ ぶそん)や小林一茶(こばやし いっさ)が発展させた。

「雀の子(すずえのこ) そこのこ そこのけ お馬(おうま)が通る(とおる)」(小林一茶の句)

そのほかの江戸の文化[編集]

相撲(すもう)も、江戸時代には、ありました。ただし、江戸時代よりも前から、相撲(すもう)はありました。

江戸時代の相撲(すもう)では、寺や神社の修理の費用をあつめるために、料金をとって相撲をみせる、勧進相撲(かんじん ずもう)が流行しました。


うちあげ花火(はなび)が、江戸時代から、はじまりました。もともと、戦国時代に、鉄砲などの火薬をつくっていた職人(しょくにん)たちが、江戸時代に花火の職人になったようです。

隅田川(すみだがわ)などの川ぞいで、打ち上げ花火が行われたようです。


「なかぬなら、なくまでまとう、ホトトギス」のように、5・7・5でうたうけど、季語の入ってない うた を、川柳(せんりゅう)といいます。

この川柳も、江戸時代に柄井川柳(からい せんりゅう)という人が広めました。


食事では、1日3食がふつうになりました。また、江戸では、屋台(やたい)が流行し、そば・うどん・すし・てんぷら などの屋台が人気でした。


天保(てんぽう)のききん[編集]

将軍・家斉(いえなり)のとき。

全国的なききん。ききんで死者の大きい地域は東北や北陸だけでなく、関東や、大阪などの西日本をふくむ。 大阪は、この時代の商業の中心地である。その大阪で被害が出てるのだから、すごい飢饉(ききん)なわけである。

幕府や藩には、まずしい人を救うだけの財政的なゆとりがなかった。関東も、ききんの被害が大きく、幕府には、財政的な余裕(よゆう)がない。

幕府が、江戸での打ち壊しをふせぐため、江戸に米をあつめるため、大阪町奉行などに米を買い占めさせた。

このようなことから、幕府に対して反乱が起きる。

大阪の町奉行所の元・役人の大石平八郎(おおしお へいはちろう)が、町奉行に貧民の救済を申し出たが、町奉行に聞き入れられず、その上、大阪で買い占めた米を江戸に送っているという有様(ありさま)だった。

1837年 大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろう の らん)

ついに1837年に反乱を起こしたのが、大塩平八郎だ。商人の家を大砲でおそったりした。

乱は一日ほどで、しずめられた。


しかし、大塩の乱が世間の人々の心に与えた影響は大きい。


これから、各地で、一揆や打ち壊しが、ふえてきた。


開国(かいこく)と戊辰戦争(ぼしんせんそう)[編集]

黒船の来航[編集]

黒船来航
ペリー
日本の浮世絵に描かれたペリー。 嘉永7年(1854年)頃

1853年にアメリカ合衆国の4隻(よんせき)の軍艦(ぐんかん)が日本の浦賀(うらが、神奈川県の港)にあらわれ、4隻の軍艦をひきいたアメリカ人のペリー(Perry)が開国を日本に求め、アメリカ大統領からの国書を幕府に、わたしました。

当時、日本に来た4隻のアメリカの船は、色が黒かったので、黒船(くろふね)と日本の人から言われました。

アメリカの軍艦は、蒸気船(じょうきせん)と言われるもので、石炭などを燃料とした蒸気機関によって動く最新式の船であり、船の煙突からは煙がもうもうとあがっていました。この蒸気船は、それまでのオランダの船でよく見られた帆船(ほせん)とは違い、蒸気船は最新式の船でした。

ペリーは日本について事前にオランダの本などから研究していたので、日本人は権力者の命令に弱いということを知っており、わざと幕府のある江戸に近い関東の浦賀に黒船で、やってきたのです。当時の日本では、長崎が外国との外交の窓口でしたが、ペリー達はまったく長崎に行こうとはせず、幕府と直接に交渉をしようとする態度(たいど)です。


このようなアメリカの船と、ペリーの態度を見て、日本人はおどろきました。とりあえずペリーに、返事を出すまで時間がかかるので、一年後に、もう一度、日本に来てもらうように、たのみました。


幕府は、事態(じたい)を重く考え、朝廷にも報告をして、諸国の大名にも相談をしました。相談のあいては、外様大名もふくみます。


いっぽう、アメリカが日本に開国をせまった目的は、燃料や水の補給(ほきゅう)を日本でおこなうために立ち寄りたいよいう理由が、主な目的でした。当時のアメリカは、中国大陸の清(しん)と貿易をおこなっていたり、太平洋で捕鯨(読み:「ほげい」・・・、意味:「クジラとり」のこと)を行っていたので、日本で補給が出来ると都合が良かったのです。

そして1年後の1854年に、ペリーがふたたび、日本に来ました。1854年の交渉では、もはや幕府はアメリカの開国要求をことわりきれず、ついに日本は開国をします。 日本とアメリカとの間で条約がむすばれ、日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)が結ばれ(むすばれ)ました。

「条約」とは、国とほかの国とのあいだの、国どうしの約束のことです。日本とアメリカ(米国、べいこく)とのあいだの条約なので、「日米和親条約」という名前になっているわけです。

この日米和親条約により、下田(しもだ、静岡県にある)と函館(はこだて、北海道)が開港され、アメリカ船に燃料や水・食料などを補給することが決まりました。また、下田にアメリカの領事館(りょうじかん)がおかれました。


ハリス
井伊直弼(いい なおすけ)


さらに1858年に、アメリカと日米修好通商条約(にちべい しゅうこう つうしょう じょうやく)を幕府の大老の井伊直弼(いい なおすけ)は結びました。しかし、この条約は朝廷の許可をとらないまま、結ばれた条約でした。


さて、また幕府は、イギリス・オランダ・ロシア・フランスとも、同様の貿易の条約を、結びました。これを、安政の五カ国条約(あんせいの ごかこくじょうやく)と言います。

幕府の井伊直弼による条約締結は、日本を欧米の侵略から守ろうとする考えのものでしたが、当時の庶民の多くは、まだ、欧米の強大な軍事力を知らず、幕府の態度は、臆病者(おくびょうもの)だと思われていました。

また、開国に反対の主張をしていた諸藩の武士たちを、幕府は弾圧していき捕らえて処刑などの処罰をしていきます。この鎖国派への弾圧を「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と言います。

桜田門。

のちの1860年、直弼は江戸城の桜田門(さくらだもん)の近くを通っていたときに、「安政の大獄」による弾圧に反対をしていた浪士(ろうし)によって、暗殺されてしまいます。この、井伊直弼が死んだ暗殺事件を「桜田門外の変」(さくらだもんがいの へん)と言います。


  • 不平等条約(ふびょうどう じょうやく)

日米修好通商条約の内容は、日本にとって不利な内容で、不平等な条約でした。

アメリカ人の治外法権(ちがい ほうけん)
日本国内で外国人が犯罪をおかしても、日本の法律では処罰(しょばつ)できませんでした。

この、アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを治外法権(ちがい ほうけん、英語:Extraterritoriality)と言います。領事裁判権(りょうじ さいばんけん)とも言います。

日本に関税自主権(かんぜい じしゅけん)が無い。
日本への輸入品に、税をかける権利が、日本には、ありませんでした。輸入品にかける税を関税(かんぜい)と言い、国が関税を自由に決まる権利を関税自主権(かんぜい じしゅけん)と言います。日本には、関税自主権がありませんでした。


  • 開国による経済の変化
輸出品として、生糸(きいと)や茶が輸出されたので、それらの産業が発展しました。
国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出し過ぎたり、買い占めなどが起こったからです。貿易をしていない米や麦の値段も上がりました。
貿易によって、日本の金が流出しました。このため、幕府は金貨の質を下げたので、ますます物価は上がりました。

このような品不足や物価の上昇などにより、庶民のくらしは苦しくなっていきました。そのため 一揆(いっき) や 打ち壊し が起きました。


庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきます。


日本の世間から、欧米の国をやっつけてしまえとする考えが出てき始めます。このような、欧米の国をやっつけてしまえといいます。このような考えを攘夷(じょうい)と言います。(※ 「攘夷」の用語は範囲外)

攘夷論(じょういろん)だけでなく、さらに世間では、国学などの影響(えいきょう)もあって、朝廷や天皇を盛り上げて、敬おう(うやまおう)という、尊王論(そんのうろん)という考えが出てきます。(※ 範囲外)

尊王論と攘夷論が加わり、尊皇攘夷論(そんのうじょういろん)という、組み合わせた考えが出てきました。(のちに、尊皇攘夷論は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への批判にかわり、やがて幕府を倒そうという運動へと変わっていきます。)


薩摩藩と長州藩は攘夷の実力行使に出ましたが、外国に負けました。

幕末の偉人たち[編集]

※ 光村図書と教育出版と日本文教出版の教科書で、坂本龍馬(さかもと りょうま)、西郷隆盛(さいごう たかもり)、勝海舟(かつ かいしゅう)、大久保利通(おおくぼ としみち)の紹介あり。
※ 光村図書の教科書で、幕府の井伊直弼(いいなおすけ)とか勝海舟(かつかいしゅう)の紹介あり。
※ 教育出版の教科書に、桂小五郎(かつら こごろう)、高杉晋作(たかすぎ しんさく)、後藤象二郎(ごとう しょうじろう)の紹介あり。
※ 日本文教出版の教科書に、岩倉具視(いわくら ともみ)の紹介あり。


・薩英戦争(さつえい せんそう) (※ 範囲外)

1862年に関東の生麦(なまむぎ、神奈川県にある)で、薩摩藩の大名行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が斬り殺すという生麦事件(なまむぎ じけん)が起こりました。イギリスからの犯人の処罰要求を薩摩藩が受け入れなかったので、翌年の1863年にイギリスは薩摩藩と戦争をしました。これが薩英戦争(さつえい せんそう)です。この戦争で薩摩は負け、大きな被害を受け、薩摩はイギリスの実力を知ることになり、薩摩は攘夷論をあきらめることになりました。

戦後、薩摩では政治の方針を攘夷から切り替え、イギリスなどから制度を学んだりして、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。


・長州藩(ちょうしゅうはん)の下関戦争(しものせきせんそう))    (※ 範囲外)

欧米の連合艦隊の兵隊に占拠された下関の砲台
1863年に、下関海峡を通る外国船に、長州藩が、いきなり砲撃を始めました。翌年、外国の連合艦隊(れんごうかんたい)、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ国からなる連合軍により反撃を受け、下関の砲台を占拠され、長州は負けました。

長州は、攘夷論のマチガイに気づき、改革を進めていきます。下級武士であった高杉晋作や木戸孝允・伊藤博文らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていきます。


このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な尊皇攘夷運動はマチガイだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府を倒す必要があるという考えが高まりました。幕府を倒す、つまり、倒幕(とうばく)をする必要がある、という気運が薩摩や長州を中心に高まってきました。


  • 薩長同盟(さっちょう どうめい)
坂本竜馬(さかもと りょうま)

薩摩と長州は、過去の歴史的な関係から、両者は対立をしていました。薩摩藩も長州藩も、どちらとも近代的な軍隊を持ち幕府を倒そうとする改革を目指していたのに、両者は対立していました。 しかし、1866年に、土佐藩の坂本竜馬(さかもと りょうま)が両藩の仲立ちをして同盟を結ばせ、薩摩藩と長州藩との同名である薩長同盟(さっちょう どうめい)が1866年に結ばれました。

幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府の征伐は失敗に終わりました。

イギリスが薩摩や長州の支援をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の改革をしていました。

  • 大政奉還(たいせいほうかん)
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)

幕府の15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、1867年に政権を朝廷にかえしました。土佐の藩主の山内豊信(やまのうち とよしげ)などが慶喜に朝廷に政権を返すことを助言しました。

この出来事のことを、つまり徳川幕府が朝廷に政権を返したことを大政奉還(たいせい ほうかん)と言います。

こうして、江戸幕府の約260年の時代は終わりました。

また、鎌倉時代から約700年間つづいた武士の支配は、こうして終わりました。



明治維新と自由民権運動[編集]

西洋に学べ

明治天皇(めいじ てんのう)

1868年(明治元年)、新政府は大名などに対して政治の方針をしめすため、五箇条の御誓文(ごかじょう の ごせいもん)を、明治天皇(めいじてんのう)より出させた。

内容は、現代風に訳すと・・・

・政治は、会議で広く意見を聞いて政治を行う。
原文 :広く(ひろく)会議(かいぎ)を興し(おこし)、万機公論(ばんき こうろん)に決す(けっす)べし。
・身分の上下によらず、みんなで心を合わせて、政治や仕事を行っていく。
原文 :上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
・みんなの願いを実現するようにしよう。
原文 :官武(かんぶ)一途(いっと)庶民にいたるまで、おのおのその志(こころざし)を遂げ(とげ)、人心(じんしん)をして倦(う)まざらしめんことを要す。
・昔からの、わるいしきたりは、やめよう。
原文 :旧来(きゅうらい)の陋習(ろうしゅう)を破り、天地(てんち)の公道(こうどう)に基づく(もとづく)べし。
・知識を外国からも学んでいって、日本国を発展させていこう。
原文 :智識(ちしき)を世界に求め、大いに(おおいに)皇基(こうき)を振起(しんき)すべし。

このように、あたらしい日本の政治では、なるべく日本国民みんなで政治を行おう、という政治を行う方針であることを、大名などに示した(しめした)。

また、1868年、元号を明治に変更した。


1868年、新政府は「江戸」(えど)の地名を「東京」(とうきょう)に改めた。1869年に、新政府は東京を首都にした。明治天皇は京都から東京にうつった。

年号が明治の時代を明治時代(めいじ じだい)という。


1871年には、明治政府は、藩(はん)をやめさせて、かわりに県・府をおきました。そして、それらの県や府の地方政治では、政府の任命した役人を知事(ちじ)として送りました。

これを廃藩置県(はいはん ちけん)と言います。


このような、幕末から明治時代はじめごろに行われる一連の改革を明治維新(めいじ いしん)という。(次にしめす改革も、明治維新に含まれる場合もあります。)

江戸時代の身分制度はなくなり、農民や町民は平民になりました(「解放令」(かいほうれい))(四民平等)。 平民は、江戸時代とは違い、職業や住む場所は変われるようになりました。名字を、平民も持てるようになりました。

武士は士族(しぞく)と変わりました。士族は、刀を差すことを禁じられました。武士は、働かなくても貰えてた(もらえてた)国からの給料も、江戸時代とはちがって、明治時代になってからは、しだいに、もらえなくなりました。

公家と大名は華族(かぞく)となりました。

天皇の一族は、皇族(こうぞく)とされました。

また、えた・ひにんなどの差別をされていた人たちも平民としてあつかう、解放令(かいほうれい)が出された。


武士は、江戸時代に持っていた特権を失いました。


岩倉具視(いわくら ともみ)らの視察団
使節団の人々
左から木戸孝允(きど たかよし)、山口尚芳(やまぐち なおよし)、岩倉具視、伊藤博文(いとう ひろぶみ)、大久保利通(おおくぼ としみち)

1871年に、明治政府は、欧米諸国の政治のしくみや産業のしくみを勉強するために、岩倉具視(いわくら ともみ)など50人の日本人による使節団を欧米諸国に送りました。

そして、使節団は、じっさいに欧米に行き、そこで欧米のことを色々と勉強してきました。

帰国後、使節団にいた人たちは、欧米の政治の知識など、国づくりの知識を、日本に持ちかえりました。


また、この使節団といっしょに、60人の留学生(りゅうがくせい)も同行して、欧米のようすを学びました。

同行した女子留学生

この留学生のなかには、女子留学生も5人いました。女子留学生のなかには、当時7才だった、津田梅子(つだ うめこ)という小さい女の子もいました。

女子留学生は帰国後、女子のための学校をつくったりなど、女子のための教育などの分野で活躍したりしました。


富国強兵(ふこくきょうへい)[編集]

軍制の改革[編集]

政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年に徴兵令(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年の間、兵士になる兵役(へいえき)の義務を課した。この徴兵制は、江戸時代の武士だけに軍事が独占されていた時代とちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされた。

江戸時代は、武器を持てるのは武士だけの特権だった。このため、徴兵制によって軍事の特権のなくなった士族からは不満があった。また、農村などの平民からも、労働力をうばわれるので、農村からの不満があった。

政府の徴兵制を主導者は、江戸時代の武士のような個人的な武芸にたよる戦闘では、近代的な兵器をあやつる戦闘では勝てないことを知っていて、このため徴兵制を導入した。

※ ただし、徴兵制には、当初は免除規定がいくつかあって、一家の主(あるじ)や、長男や、徴兵のかわりに代金を払った者などは徴兵を免除された。だが、のちに免除規定は廃止され1889年には、ほぼ全ての20才以上男子が徴兵された。


地租(ちそ)[編集]

江戸時代の税は米など農産物であり、農作物の不作・凶作などによって税の収入がへるので、政府にとっては不安定な制度であった。

このため、政府は税の制度をあらため、土地をもつことにかかる税金がかかるようにしました。

これを「地租」(ちそ)といいます。


義務教育(ぎむきょういく)[編集]

1872年に、日本全国の子どもに義務教育(ぎむきょういく)を受けさせるため、学制(がくせい)を出した。学制の内容は、6才以上の男女に義務教育を受けさせるという内容です。

しかし、学校の建設費の負担や授業料の負担が大きいので反発があり、また当時の子供は働き手であったので労働力を取られることからも反発があった。 このような理由で就学率(しゅうがくりつ)は低く、実際に学校に通ったのは、一部の子であった。 (就学率とは、学校に通っている者の割合のこと。)

しかし、日本のしょうらいを考えて、学校の建設に必要なお金を寄付(きふ)をしてあげる人なども、そのころは、いました。


さて、明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%の就学率になっていった。

義務教育の制度は、欧米を手本にした制度です。


明治の学校の教科

学校の教科に関して言えば、明治時代になってから、理科も教えられるようになった。(江戸時代の子供への教育は「読み・書き・そろばん」だった。)

また、算数の教育が始まり、漢数字をもちいていた江戸時代の和算(わさん)にかわり、明治時代からは、いまの小学校の算数でならうようなアラビア数字をもちいた洋算(ようさん)が始まった。

外国の歴史や地理についても教えられるようになり、ヨーロッパの歴史や地理についても教え始めた。

図画などの美術などの教育も始まった。

体育や家庭科などの教科も作られ、それらの教科書が作られた。


  • 『学問のすすめ』
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)。明治20年(1887年)頃の肖像
福沢は、江戸時代は下級武士の家の生まれだったが、蘭学を学んでいた。福沢は西洋の知識が深かったので、明治政府の使節団に参加されてもらい、ますます西洋の知識が深くなった。

西洋の学問を学習する熱が高まっていき、それに応ずる思想も現れた。

国を発展させるには、国民の一人ひとりが自分の頭で物事の善悪などを考えられるようになる必要があり、

「一身(いっしん)独立(どくりつ)して、一国(いっこく)独立(どくりつ)する」

と、福沢は『学問のすヽめ』(がくもんのすすめ)という本を書いて主張した。

また、物事をきちんと考えられるようになるためには、きちんとした内容の本などを読み、学問をするのが良いことを述べた。

福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は『学問のすすめ』を出版し、勉強をしないと、単純な仕事しかできないので地位のひくい仕事にしかつけずに貧しい生活しか出来なくなる、というふうなことを福沢は説いた。

※ 『学問のすすめ』は、民衆の平等の理想をもとめた本では、ありません。
『学問のすすめ』は、勉強をしないと安い賃金(ちんぎん)の仕事にしかつけないので、貧しく(まずしく)なり不平等な目にあう、と説いた本です。もし「民主主義」という言葉をつかって本の内容を説明するならば、民主主義では学問をしないと貧しくなる、と説いた本です。


まず、福沢は『学問のすすめ』の出だし(でだし)の冒頭(ぼうとう)の文では、

「天(てん)は 人(ひと)の上(うえ)に 人を造らず(つくらず) 人の下(した)に 人を造らず と いへり」

という文があり、 人は生まれながらにして平等である、という内容である、アメリカ合衆国の建国(けんこく)した当時の独立宣言(どくりつせんげん)の内容を紹介した。


文明開化(ぶんめい かいか)[編集]
文明開化
おもなできごと
1869
(明治2)
 電信が開通する(東京-横浜 間)
1870  人力車が始まる
 日刊新聞(『横浜毎日新聞』)の創刊
1871  郵便制度が始まる
1872  学校が始まる
 鉄道が開通(新橋(しんばし)-横浜 間)
 ガス灯がつく(横浜)
太陽暦の採用
1874  東京・銀座がレンガ街になる
1890  電話の開通(東京-横浜 間)

明治のはじめごろ、政府はちょんまげをやめてもよいという許可を人々に出した。:「ざんぎり頭を たたいてみれば 文明開化の音がする」などと、ちまたで言われていた。洋服やクツなども、着てよいようになった。

また、1876年には、刀を持ち歩くのをやめさせるように廃刀令(はいとうれい)が出された。


東京や横浜、大阪などの大きな町には、ガス灯がつきはじめた。牛肉や豚肉などをたべる習慣がでてきて、牛肉屋や洋食屋が出てきた。(江戸時代は、仏教の関係で牛や豚などの4本足の動物の肉を食べるのが禁止されていた。)

牛乳やパンなども、しだいに食べるようになった。


  • 郵便(ゆうびん)

飛脚(ひきゃく)に変わり、1871年に郵便制度が出来た。数年後には、全国一律の料金制度ができた。


  • 鉄道

1872年には、新橋(しんばし)・横浜(よこはま)間に、日本で最初の鉄道が開通した。


  • 新聞・雑誌の発行

活版印刷の技術は幕末の頃より輸入されていた。明治になって、出版活動がさかんになった。 1870年には、日本で新聞(しんぶん)が最初に出始め、日刊(にっかん)の「横浜毎日新聞」(よこはままいにちしんぶん)が発行された。そのあと、次々とあたらしい新聞が発行されていった。


  • 暦(こよみ)

暦(こよみ)では、江戸までの太陰暦(たいいんれき)をやめて、明治からは太陽暦(たいようれき)に切りかわった。 一週間を7日にすることが決まり、一日が24時間と決まり、日曜日が休日と決まりました。


  • 官営工場(かんえい こうじょう)
当時の富岡製糸場(とみおか せいしじょう)

工業の近代化も必要であった。 政府みずから経営する官営(かんえい)の工場を建てた。機械は外国から買った。工場労働者を育成する技師は、外国から、よんできた。 群馬県の富岡製糸場(とみおか せいしじょう)が、官営の工場として有名。富岡製糸場では、フランスから技師を、まねいた。富岡製糸場の働き手には、女性が全国から、あつめられた。


このような政府の経営する工場を、官営工場(かんえい こうじょう)と言う。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させたので、官営模範工場(かんえい もはんこうじょう)とも言う。「模範」(もはん)とは手本という言う意味。

富岡製紙場で生産された絹は、欧米にも輸出され、「トミオカ=シルク」(Tomioka Silk)などとよばれた。



西南戦争[編集]

西郷隆盛は、もとは新政府の中心的な人物のひとりだったが、政治のすすめかたをめぐって、新政府をさった。

1874年ごろから九州の各地で、士族による反乱が起きた。1874年に江藤心平(えとう しんぺい)らが佐賀で反乱をおこしたが、政府軍によって、鎮圧(ちんあつ)された。江藤は死刑になった。

西南戦争のようす。左が官軍、右が西郷軍(「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯(こばやし えいたく)画、明治10年3月)。

ほかにも、反乱がおき、このような不平士族たちの指導者として、西郷隆盛がかつぎだされた。西郷も、その不平士族とともに、1877年に大規模な反乱が鹿児島で起きた。この鹿児島での西郷ひきいる反乱が西南戦争(せいなんせんそう)である。

だが、政府軍が勝ち、西郷たち反乱軍は負けた。

西南戦争の以降、士族の反乱は、なくなった。

国会をひらこう[編集]

板垣退助の演説。それをとりしまる警官。
板垣退助(いたがき たいすけ)。1880年ごろ(44才ごろ)

いっぽう、政治のすすめかたをめぐって政府をやめていた板垣退助(いたがき たいすけ)は、西南戦争の前から、言論活動によって、政府への批判を主張した。

1874年に、板垣は、政府に対しての求めで、選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう国会を、すぐに設立するように求めました。

じつは当時の日本の政治は、まだ選挙の制度が無かったので、薩摩藩や長州藩の出身者など明治維新に影響力のあった藩の出身者たちから成りたつ(なりたつ)、少数の政治家によって政治が決まっていた藩閥政治(はんばつ せいじ)だったのです。

この国会設立の要求のように、国民が政治に参加できる社会をもとめる運動を自由民権運動(じゆう みんけんうんどう)と言います。

つまり、板垣は、自由民権運動を行いました。

自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動だったが、しだいに農民や商工業者などにも支持をされていきます。

しかし、1881年のときには、まだ、国会をひらくために必要になる、憲法(けんぽう)などの法律がありませんでした。憲法とは、その国の法律をつくるさいの基本となる考え方を定めたり、法律をつくるときの決まりごとや、国会の決まりごとなどを定めた法律です。

国会の決まり事をきめた法律すら、まだ出来てないので、まだ国会をひらくことが出来ません。

このような理由もあり、政府は、すぐには国会を開かず、10年以内に国会(こっかい)を開くことを国民に約束しました。


大隈重信(おおくま しげのぶ)。

国会が開かれるのにそなえて、板垣や、大隈重信(おおくま しげのぶ)は、それぞれ政党(せいとう)をつくりました。


伊藤博文(いとう ひろぶみ)

明治政府は、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らをヨーロッパに送り、ヨーロッパ各国の憲法や政治のしくみを調べさせました。

そして、伊藤は、日本に帰国してから、皇帝の権力のつよいドイツ憲法を手本にして、大日本帝国憲法の案(あん)をつくりました。

そして1889年、明治天皇が国民にあたえるという形で大日本帝国憲法(だい にほん(にっぽん) ていこく けんぽう)が発布(はっぷ)されました。

 大日本帝国憲法の主な内容 (現代語訳)

第1条 大日本帝国は、永久につづく同じ家系の天皇が治める。
第3条 天皇は神のように尊い(とうとい)。
第5条 天皇は議会の協力で法律をつくる。
第11条 天皇が陸海軍を統率(とうそつ)する。
第29条 国民は、法律の範囲(はんい)内で、言論・集会および結社(けっしゃ)の自由を持つ。


  • 憲法の内容 (※ 範囲外)

大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。 つまり、日本を統治するのは、藩(はん)や幕府ではなく、華族(かぞく)でもなく、天皇である、ということである。

また、憲法では、軍隊は天皇(てんのう)が統率(とうそつ)するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。 つまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。

外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。


国民の権利は、法律の範囲内での自由や権利が、保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利とくらべたら、当時の権利は国民にとっては制限の多いものであった。


国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。


紹介した条文には書かれてないが、日本の帝国議会の議院(ぎいん)は衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)との2つの議院からなる二院制(にいんせい)であると、憲法で決められている。


  • 議会

憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための選挙が行われた。つづいて国会である帝国議会(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。

議会の議院(ぎいん)は衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)との2つの議院からなる二院制(にいんせい)であった。選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。いっぽうの貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。

衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税(15円以上。)が必要で、実際に選挙が出来たのは人口の1%ほどに過ぎなかった。

また、満25才以上の男子に選挙権が限られた。

(※ 範囲外: )現在(西暦2014年に記述)の日本のような20才以上の日本人なら誰でも選挙権のある普通選挙(ふつうせんきょ)とはちがい、この明治時代の選挙のような制限事項の多い選挙のしかたを「制限選挙」(せいげんせんきょ)と言います。

このようにして、日本は、アジアで初めて、憲法にもとづいて議会政治を行う近代国家となった。


  • 教育勅語(きょういく ちょくご)

議会(ぎかい)のしくみとは関係ないのですが、ちょうど同じ1890年、学校で日本は天皇中心の国であると教えるように『教育勅語』(きょういくちょくご)が出されました。

お雇い(おやとい)外国人[編集]

明治時代のはじめごろ、外国人の学者などに、日本政府は高い給料をはらって、日本に来てもらいました。

このような外国人のことを、お雇い外国人(おやとい がいこくじん) といいます。


明治の初めごろは、大学の先生は、お雇い外国人がほとんどでした。また、大学の授業も、英語(またはドイツ語)など欧米の言語で行われました。


明治時代に、日本の大学などで動物学を教えていたアメリカ人のモースは、日本で、大森貝塚を発見しました。この大森貝塚の発見が、きっかけとなり、日本各地で貝塚の調査や発掘が、始まりました。


モースのほかにも、東京駅の赤レンガの建物の設計をしたコンドル(人名)、など多数のお雇い外国人がいます。

※ おやとい外国人はたくさんいるので、小学校では、すべては紹介しきれない。


日清戦争と日露戦争[編集]

日清戦争[編集]

日清戦争[編集]
日清戦争のころの風刺画(ふうしが)。フランス人のビゴー筆。「魚釣り遊び」(Une partie de pêche
魚(=朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア

1894年、朝鮮半島で、朝鮮国内の改革をもとめる内乱が起きました。

清(シン)が、朝鮮国のもとめに応じて援軍をおくると、日本もこれに対抗して、軍隊を送りました。

そして、日本軍と清国軍との戦争が起こりました。これが日清戦争(にっしん せんそう)です。

朝鮮軍とは、戦争していません。

日清戦争は、日本と清とが戦った戦争です。

翌年(よくねん)、日本が戦争に勝ち、多額の賠償金(ばいしょうきん)をもらったほか、台湾(たいわん)を領土にしました。


※「日清戦争」の名前が、「日清」戦争なので、よく、まちがわれやすいのですが、べつに清を侵略しようとした戦争ではありません。
そもそも戦争前の清国は軍事力がとても強い国である、と世界から思われていました。なので、日本は簡単には清を侵略できません。
また、欧米が清での利権をあらそっており、日本は簡単には清を侵略できません。


遼東半島の位置
下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権

1895年、日清戦争の講和条約として、日本は、つぎのものを獲得した。

・ 清は、朝鮮の独立を認めること。
・ リャオトン半島(遼東半島)を日本にゆずる。
・ 台湾(たいわん)を日本にゆずる。
・ 清は、賠償金の3億円を払う。(当時の日本の財政収入の約3倍の金額であった。)


以上が、日清戦争の講和(こうわ)条約の主な内容である。


朝鮮が独立国となったことにより、朝鮮が清の属国でなくなったので、朝鮮は国名を「大韓帝国」(だいかん ていこく)に1897年に変更しました。(※ さいきんの小学校教科書には、「大韓帝国」の国名も書いてある。教育出版や日本文教出版『日本の歩み』など。)

「大韓帝国」の3文字目が「帝」であることに注意してください。

また、台湾が日本領になった。(第二次大戦で日本が戦争に負ける1945年(昭和20年)まで、台湾は日本領である。)


三国干渉(さんごく かんしょう)[編集]

ロシアは、日本の勢力が中国にのびることで、ロシアに日本の勢力が近づくことをおそれました。 ロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本に遼東半島を清に返させる要求を出すように、日本に要求をだします。

※ 光村図書の教科書で、傍注で、三国干渉について書いてあります。

この、ロシア・ドイツ・フランスによる、リャオトン半島を清国へと返させる要求を、三国干渉(さんごく かんしょう、英:Triple Intervention)と言います。

日本は、三国干渉の要求にしたがい、しかたなく清国にリャオトン半島を返します。


さて、清が戦争に負けたことで、清が弱いことがヨーロッパに知られると、ヨーロッパは清に対して強気の交渉に出て、清から多くの利権を手に入れます。

やがて、ロシアがリャオトン半島を借りる権利を清から手に入れ、ロシア風の建物が立ち並んでいったりと、まるでリャオトン半島がロシアの領土のようになっていきます。

イギリスやドイツ・フランスも、清から土地の権利などの利権を手に入れていきます。


  • 義和団の乱(ぎわだん の らん)
※ 義和団の乱は、小学の範囲外。でも、wikibooksでは書く。 コレを知らないと、のちの日露戦争の開戦の背景が分からないので。

このようなことから、清の民衆のあいだに、ヨーロッパに対して反発する感情が高まっていきます。 1899年には、義和団(ぎわだん)という宗教団体が欧米の勢力をしりぞけようとする暴動(ぼうどう)を起こします。この暴動を 義和団の乱(ぎわだん の らん) と言います。義和団は、「扶清滅洋」(ふしん めつよう)という言葉を、運動の標語にしていました。「扶清滅洋」の 意味は、「清朝をたすけて、西洋をほろぼせ」という意味です。

清の政府は、この乱を支援します。清国政府は、欧米に対して宣戦布告(せんせん ふこく)をします。

連合軍の兵士。左から、イギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本。イギリス領インドがふくまれてるので9人いる。

欧米は、日本をふくむ8カ国からなる連合軍を派遣し、義和団と清国軍と戦い、乱をしずめます。

なお、連合軍は、イギリス・ドイツ・ロシア・日本・アメリカ・フランス・イタリア・オーストリアの8カ国の軍隊からなります。「オーストリア」は、南半球に有る「オーストラリア」ではなく、ヨーロッパに有る「オーストリア」ですので、まちがえないようにしてください。


日露戦争[編集]

日露戦争[編集]
  • 日英同盟(にちえい どうめい)

(※ 範囲外 :)義和団の事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にいつづけました。

そして、朝鮮半島や清に勢力をひろげようとする南下政策(なんか せいさく)をロシアは目指しました。

ロシアは、冬でも凍らない港が、軍事上の理由で必要なのです。このような冬でも凍らない港のことを、不凍港(ふとうこう)と言います。 なので、ロシアは、領土を南方に拡大したいので、ロシアは南下したいのです。

いっぽう、中国大陸に利権を持つイギリスにとっては、ロシアの南下政策が不都合です。 さらに当時のロシアは、ロシア国内で東西に長いシベリア鉄道(シベリアてつどう)を建設していました。もしシベリア鉄道が完成すると、軍隊の兵士や軍事物資も、すばやく送れるようになるので、イギリスにとっては、ロシアはとても危険な国でした。

そこでイギリスは、ロシアの南下政策に対抗するため、日本とイギリスとのあいだでの同盟を1902年に結びます。この日本とイギリスの同盟を、日英同盟(にちえい どうめい、英語: Anglo-Japanese Alliance アングロ-ジャパニーズ・アライアンス)と言います。


ロシアの勢力の拡大を恐れ、日本の政府は戦争を決意していった。いっぽうのロシアの政府も、大国であるロシアとすれば小国にすぎない日本を恐れる必要はなく、なので日本との戦争もかまわないという強硬な姿勢をロシアは強めていった。

  • 日露戦争(にちろ せんそう)

1904年、日本は開戦にふみきった。

戦場になった場所は、朝鮮半島の周辺の海域と、満州の陸上および海域であった。

陸地での戦場では、旅順(りょじゅん)や奉天(ほうてん)での戦いで、日本は苦戦のすえ、ロシアに勝った。

ロシア艦隊は対馬近海で連合艦隊と遭遇し、日本海南西部で撃破された。

日本海海戦では、海軍の東郷平八郎(とうごう へいはちろう)ひきいる連合艦隊が、ロシアの艦隊をやぶった。

勝敗の結果だけを見ると日本の大勝のように見えるが、日本は大きく戦力を消耗しており、また、軍事費を使いきっていた。日本は、戦争の続行がむずかしかった。

いっぽうのロシアでも政府に反対する革命の動きがおきはじめ、ロシア政府は戦争をつづけることが、むずかしくなった。


そこで日本は状況が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカに仲立ちをしてもらって、ポーツマス(アメリカの地名)で日本とロシアは講和条約をむすびました。こうして、日露戦争は終わった。

小村寿太郎(こむら じゅたろう)

アメリカ大統領のルーズベルト(Roosevelt)が仲立ちになり、日本の代表は外相(がいしょう、意味:外交の大臣のこと)の小村寿太郎(こむら じゅたろう)であった。ロシアの代表はヴィッテ(Витте)である。

※ 日本文教出版の教科書で、ルーズベルトやヴィッテの名前を紹介しています。

条約の結果、日本は朝鮮での優越権を認められた。

日本は、南満州の鉄道の権利を、えた。 日本は、ロシアから樺太の南半分の領土を日本へゆずらせた。 日本は、ロシアから、旅順・大連をふくむリャオトン半島南端部の租借権(そしゃくけん)を、日本へ譲らせた。


日本は講和を急いだため、賠償金(ばいしょうきん)をとらなかった。このことが国民の反発を呼び、東京の日比谷(ひびや)では焼き討ち事件が起きた。国民からすれば、戦争で多くの負担をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのであった。


日露戦争の前、開戦を、多くの国民が支持した。だが、開戦に反対する意見もあった。

与謝野晶子(よさの あきこ)

歌人の与謝野晶子(よさの あきこ)は、戦場にいる弟を思いやる詩を書き、「君(きみ) 死(し)にたまふ(たもう)こと なかれ」という詩を書いた。

   あゝ をとうとよ 君を泣く 
   君 死にたもふこと なかれ 
   末(すえ)に 生まれし 君なれば 
   親の なさけは まさりしも 
   親は 刃(やいば)を にぎらせて 
   人を 殺せと をしえしや 
   人を 殺して 死ねよとて 
   二十四までを そだてしや 」
(つづきがあるが、長くなるので省略。)

雑誌『明星』(みょうじょう)、明治37年(1904年)9月号『恋衣』(晶子第四歌集)所収。

与謝野晶子の詩は、当時の日本国民の多くから、反戦の気持ちを遠回しにうたった詩として、うけとめられた。

条約改正[編集]
条約改正への流れ
おもなできごと
1858  江戸幕府が不平等な条約を結んだ
1868  (明治維新)
1871  日本の使節団が欧米を視察する
視察のさい、条約改正を訴えたが、改正してもらえなかった
1883  鹿鳴館を開き、舞踏会を行う
1886  ノルマントン号事件が起こる
1889  (大日本帝国憲法が発布される)
1894  イギリスとの間で治外法権が撤廃される
日清戦争が起こる(〜1895)
1904  日露戦争が起こる(〜1905)
1911  小村寿太郎が関税自主権の回復を達成する



岩倉具視(いわくら ともみ)らの視察団
使節団の人々
左から木戸孝允(きど たかよし)、山口尚芳(やまぐち なおよし)、岩倉具視、伊藤博文(いとう ひろぶみ)、大久保利通(おおくぼ としみち)

1871年には、欧米諸国に視察(しさつ)のため送られた岩倉具視(いわくら ともみ)らの視察団が条約を改正してほしいと交渉したが、欧米は、日本の法律が近代化されていないことなどを理由にして、条約の改正をことわった。

(※ 検定教科書では、傍注などで使節団について紹介されている。結局、使節団は条約改正には失敗するので、紹介の優先順位が低いのだろう。)


鹿鳴館(ろくめいかん)
鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵

1883年には、東京に、洋風の建物の鹿鳴館(ろくめいかん)を建て、欧米人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなども、日々(ひび)、ひらいてみたが、まったく条約改正は進まず、失敗した。

(※ 日本文教出版の教科書に、章末コラムで、鹿鳴館のダンスパーティーの紹介あり。)


  • ノルマントン号事件(ノルマントンごう じけん)
ノルマントン号事件の絵。ジョルジュ・ビゴー作「メンザレ号の救助」(『トバエ』9号、1887年6月)

1886年には、和歌山県の沖合い(おきあい)の海上で、イギリス船のノルマントン号(ごう)が沈没する事件が起きた。このとき、イギリス人船長らイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けなかった。日本人の乗客は、全員、死亡した。 この事件の裁判は、イギリス人の領事によって、日本国内で、おこなわれた。治外法権による領事裁判権にもとづき、イギリス人領事による裁判が、おこなわれたのである。

船長は軽い罪に問われただけで、日本人の多くは、これ日本への差別的な判決として、感じた。なお、船長は禁錮刑(きんこけい)3ヶ月になった。

この一連の事件をノルマントン号事件(ノルマントンごう じけん 、英語:Normanton Incident ノーマントン・インシデント)という。

※ 日本文教出版と教育出版の教科書に、ノルマントン号事件の紹介あり。

この事件をきっかけに、国民のあいだで、条約改正をのぞむ声が、大きくなりました。


  • 関税自主権の回復
陸奥宗光(むつ むねみつ)
小村寿太郎(こむら じゅたろう)

日清戦争の直前の1894年に、外務大臣の陸奥宗光(むつ むねみつ)が、イギリスとのあいだで条約の一部改正に成功し、日本での治外法権(ちがいほうけん)をなくすことに成功した。つまり、日清戦争の直前の1894年に、日本で罪をおかした外国人を、日本の法律で裁判(さいばん)できるようになった。


そのあと、日清戦争で日本が勝利すると、ロシア・フランスなども治外法権をなくすことに同意したが、日本の関税(かんぜい)自主権(じしゅけん)は、みとめなかった。

そのあと、日露戦争で日本が勝利したことにより日本の国際的な地位が高まると、各国は、関税自主権の改正にも応じるようになり、外務大臣の小村寿太郎(こむら じゅたろう)の各国との交渉により、1911年に日本の関税自主権は回復した。

つまり、日本政府は、すべての輸入品に自由に関税をかけられるようになりました。


韓国併合[編集]

日露戦争のあと、韓国では、日本の支配が強まりました。

そのころ、日本政府の中では、日露戦争後のこれからの韓国(「大韓帝国」)とのつきあいかたをめぐって、日本の政府内では、いろいろな意見があった。

韓国を日本国の一部にしようとか、あるいは、韓国は日本にとって外国のままとして韓国の支配をしようとか、いろいろな意見があった。


伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、日本の財政難(ざいせいなん)などを理由に、韓国を日本国の一部にするのは、反対でした。

しかし、仕事で韓国を訪問していた伊藤博文を、韓国の青年が、伊藤博文は韓国を侵略しようとしているにちがいないと考え、この青年が伊藤博文を暗殺してしまいました。

その後、日本政府内では、韓国を日本の領土にしようという意見が強まりました。

そして、1910年に、韓国は日本に併合(へいごう)されました。

これによって、「韓国」(かんこく)という国はなくなったので、日本は、朝鮮半島の地域を「朝鮮」(ちょうせん)と呼ぶ(よぶ)ようになりました。

(※ 韓国の併合時、日本は、韓国とは、戦争をしていません。)

この韓国併合は、もし本当に「併合」(へいごう)ならば、日本と韓国とが対等なハズなのですが、しかし実際には、併合後は、日本が韓国の政治のありかたを支配するようになりました。

なので、韓国では、日本の支配への反発も高まり、1919年には韓国で、日本の支配に反対する独立運動も起こりましたが、しかし、この独立運動は失敗しました。


明治期の経済の変化[編集]

明治のはじめごろ、国は工業をさかんにするため、官営の工場を経営していた。しかし、政府にとっては財政の負担だった。また、政府が工場の経営をすると、民間の工場の仕事をうばっていることにも、なってしまう。 なので、政府は官営工場の民間への払い下げを1880年代に行った。

この払い下げをうけた会社が、三井(みつい)・三菱(みつびし)・古河(ふるかわ)などの大会社であった。

イギリスから輸入した紡績機(ぼうせきき)をもとに、生糸を生産。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機だった。日本でも、紡績機を改良していった。

原料の綿などは、併合した朝鮮や、獲得した満州などから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けた。

生糸(きいと)や綿(めん)製品は、日本の輸出品になっていった。 繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していった。


八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の創業が1901年に北九州で始まった。

この八幡製鉄所が、日本での重工業の発展の、きっかけになった。八幡製鉄所は、日清戦争の賠償金をもとに、たてられた。


こうして日本の製鉄業が発達したので、日露戦争のあとには、日本でも 大型の機械を作れるようになった。大型の船も、つくれるようになった。

このため、軍艦(ぐんかん)や大砲(たいほう)なども、日本でつくれるようになった。


農業では、小作人が増えた。 理由はいくつかあるが、よくある説は・・・

1:税が地租改正によって、現金で払う税金になり、現金収入が少ない農民が借金などで土地を手放さざるをえなくなっていった。
2:1880年代ごろ、農作物の値段が急落して、土地を手放さざるをえない農民が増えた。
3:朝鮮や清国との貿易で、安い農産物が日本に入ってきて、日本の農家は競争にさらされ経営が苦しくなった。

など。

農村で収入が少ない農民は、都市に出稼ぎにいったりした。 貧しい農家の娘などは、紡績工場などの工場などで女工(じょこう)としてはたらくこともあった。

女工は、長時間労働で、安い賃金(ちんぎん)で、はたらかされた。それでも、その娘には、ほかに仕事先がないので、その仕事先で、はたらかざるをえなかったのだろう。

日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていたのである。

1925年の『女工哀史』(じょこう あいし)という細井和喜蔵(ほそいわきぞう)という機械工(きかいこう)の労働者が自らの体験をもとに書いた本に、1925年と時代は少しあとの時代だが、このような女工たちのつらい状況が書かれている。


足尾銅山(あしお どうざん)の鉱毒(こうどく)事件[編集]

1895年頃の足尾鉱山

栃木県にある足尾銅山では、明治時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していた。 ここで公害事件がおき、鉱石の処理の安全対策が不十分なまま、工場からの排水(はいすい)中に有毒物質の「鉱毒」(こうどく)が周辺の渡良瀬川(わたらせがわ)に流れ込み、川の魚が死に、農作物などは枯れて(かれて)いった。

作物だけでなく、人間も病気になっていった。死者もふえていった。目(め)の病気にかかったり、胃(い)などの内臓の病気にかかっていった人がふえてきた。

田中 正造(たなか しょうぞう)

衆議院議員の田中 正造(たなか しょうぞう)は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえた。だが、政府は対策をとられなかった。

田中正造は、世論にうったえるため、天皇に直訴(じきそ)しようとした。そのため、議員をやめて、それから天皇に直訴しにいったが、天皇の近くで警官に取り押さえられた。

だが、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られた。


明治の学問や文化の変化[編集]

医学[編集]

北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)

北里柴三郎は、ドイツに留学し、そこでドイツの医学者コッホといっしょに研究し、破傷風(はしょうふう)という伝染病の治療法(ちりょうほう)の発見しました。そして北里の名前は世界に広まり、また、日本の医学も世界に認められていきました。

北里は帰国したあと、北里は研究所(いわゆる「北里研究所」)をつくりました。この研究所から、赤痢菌(せきり きん)を発見した志賀潔(しが きよし)や、へび毒などの研究で活躍した野口英世(のぐち ひでよ)など多くの医学者が育ちました。


野口 英世(のぐち ひでよ)
野口 英世(のぐち ひでよ)

野口は、北里の研究所で学んだのち、アメリカに渡り、ヘビ毒(へびどく)の研究で、大きな成果をあげた。その後、アフリカのガーナにわたり、医療活動および、黄熱病(おうねつびょう)などの感染病の感染経路を研究した。しかし、野口みずからが黄熱病に感染してしまい、1928(昭和3)年に野口英世はなくなりました。

ガーナ


文学[編集]

明治時代になると、小説が流行ってきた(はやってきた)。

そして、明治時代に、夏目漱石(なつめ そうせき)や樋口一葉(ひぐち いちよう)などの小説家が登場した。

夏目 漱石(なつめ そうせき)は、小説家である。もともとは教員の仕事についていて、主に英語を教えていた。なので、彼の作品も、教員としての経験や英文学の知識をもとにした手法の作品が多い。漱石の作品としては、『吾輩は猫である』(わがはいは ねこで ある)、『坊っちゃん』(ぼっちゃん)などの作品が有名。

樋口 一葉(ひぐち いちよう)や与謝野 晶子(よさの あきこ)など、女の作家も、この明治時代に出てきた。

樋口 一葉(ひぐち いちよう)は小説家であり、代表作は、『たけくらべ』、『にごりえ』などである。 与謝野 晶子(よさの あきこ)は短歌の作家であり、代表作は、『みだれ髪』、『君死にたまふことなかれ』などである。

大正(たいしょう)時代[編集]

第一次世界大戦[編集]

1914年(大正3年)、ヨーロッパで第一次世界大戦が、おきました。

日本も、日英同盟を理由に、この戦いに参加して、イギリスを助けました。

この戦いでは、日本は、直接の被害(ひがい)を受けませんでした。

この第一次世界大戦で、イギリスの陣営(じんえい)が勝ったので、日本も戦勝国(せんしょうこく)のひとつになりました。


戦争のあいだ、日本は、外国への輸出が増えましました。ヨーロッパが戦争してたので、ヨーロッパの輸出が減ったからです。

このため、この戦争のあいだ、日本は好景気でした。

しかし、米をはじめとして物価の値段があがり、暮らしが苦しくなりました。

このため、米騒動(こめそうどう)と言われる騒動が、日本の各地で起きました。


さて、戦争が終わると、ヨーロッパの経済が復活(ふっかつ)してきたので、日本の輸出は減ってしまい、日本は不景気になりました。

その後、日本は好景気や不景気をくりかえしながら、大正時代のあいだの日本は、戦争にならずに、平和にすごしていきました。


なお、1922年、ロシアで革命が起き、ソビエト連邦(ソビエトれんぽう)が成立しました。

(※ 正式には、「ソビエト社会主義共和国連邦」だし、日本文教出版の検定教科書でも正式名称を紹介してる。だが、小学生は、ソビエト連邦で覚えてよい。現代語でも、この時代のロシアについて説明するときに「ソ連」(それん)または「ソビエト連邦」などと、よく省略される。)


平等な社会をめざす運動[編集]

  • 平塚らいてう(ひらつか らいちょう)
平塚らいてう(ひらつか らいちょう)
らいちょうは「もともと、女性は太陽であった。しかし今、女性は月である。ほかの光によって かがやく、病人のような青白い月である。私たちは、かくれてしまった私たちの太陽をさがさなければならない」というようなことを述べました。
(※ wikibooksでは検定教科書と同様に、らいてうの言い回しを現代風に変えています。)

女性の地位の向上や、女子の選挙権の獲得を目指す女性解放運動(じょせい かいほううんどう)が、平塚らいてう(ひらつか らいちょう)などにより主張された。

平塚らいてうは市川房江(いちかわ ふさえ)と協力して、新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。


  • 全国水平社

1922年に、明治時代に四民平等となってからも差別をされつづけてきた地域の人たちが、差別のなくす運動をするために全国水平社(ぜんこく すいへいしゃ)をつくりました。

山田 孝野次郎(やまだ このじろう)が京都で全国水平社を結成したのが、はじまりです。


  • 選挙権

1925年(大正14年)、選挙制度が改正され、25歳以上のすべての男子が、衆議院に投票できる選挙権を手に入れました。

しかし、女性には、選挙権はありませんでした。

また、同じ1925年、政府は 治安維持法(ちあんいじほう) を制定して、政治や社会のしくみを変えてしまおうとする運動を取り締まりました。


大正のころの暮らし[編集]

大正時代の終わりまでには、東京や大阪など大都市では、バスやデパートなどが、日本に、すでに登場していました。

とくに、大きな駅のちかくに、デパートや劇場などが、ありました。

バスでは、女性がバスの乗務員(いわゆる「バスガール」)として働いていました。


(※ 光村図書や教育出版の教科書で、バスガールなど習う。)

1925年(大正14年)には、日本でラジオ放送が開始しました。(※ 光村図書や教育出版の教科書で、ラジオ放送など習う。)

  • 関東大震災

1923年、関東地方で大きな地震(じしん)が、ありました。 死者・行方不明者は14万人以上であった。この地震を 関東大震災(かんとう だいしんさい) と言う。(※ 光村図書や日本文教出版の教科書で、関東大震災など習う。)

なお、この地震で、「朝鮮人が反乱を、くわだてている」という内容のデマ(「デマ」とは、かんちがいした連絡や伝言などのこと。)が飛びかい(とびかい)、多くの朝鮮人が殺される事件が起きた。

東京に朝鮮人がいた理由については、当時は韓国併合後の時代だったので、仕事などで日本に働きにきていた朝鮮人がいたのです。


昭和[編集]

世界恐慌[編集]

(※ 小学校の範囲です。検定教科書では、満州事変といっしょに、語られることが多いです。)

大正時代には、日本は、そこそこ豊かになりました。

しかし、このような繁栄(はんえい)は、長続きしませんでした。


昭和に入ると、1929年にアメリカで、とても大きな不景気が発生しました。

そして、その不景気が世界中におよんで、世界中が不景気になりました。

日本も、大きな不景気になりました。そして日本では、多くの会社や工場が、つぶれました。


満州事変[編集]

満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。

中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に満州国(まんしゅうこく)が建国されます。

満州事変[編集]

(※ 範囲外: ) 昭和時代に入ると、不景気がひどくなったので、まずしい人々は、政治家や大企業に失望して、かわりに、軍人などの、政治家でもない大企業でもない人々に期待するようになりました。


この少し前のころ、中国大陸では、清(シン)が革命でほろんで、あたらしく中華民国(ちゅうかみんこく)が出来ていました。


(いろいろな事情があって、)日本の一部の軍人は、中国北部の満州(まんしゅう)に出張していた日本軍を指揮して、中国の満州を占領しようと、たくらみました。

(※ どういう事情で、こういう たくらみ になったかは、小学校のレベルをこえるので、wikibooksでは説明を省略する。)

そして日本軍は1931年に、満州を占領する口実をもうけようとして、自作自演(じさくじえん)の事件を起こしました。

どういう事件かというと、南満州鉄道(みなみ まんしゅう てつどう)の線路を爆破したのです。

日本軍である関東軍は、この鉄道爆破(ばくは)事件を中国側のしわざだと断定し、日本軍は、奉天(ほうてん)など中国の都市を占領しました。

そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。


これを、 満州事変(まんしゅう じへん)という。

当時の日本政府には、満州の日本軍を止める力がなく、日本政府は満州国の建国を認めてしまいました。

「満州国」は、表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。

※ このことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを傀儡(かいらい)政権とか傀儡国家などと言われることが多い。傀儡(かいらい)とは、操り人形(あやつりにんぎょう)のことである。
鉄道の爆破の現場を調査している国際連盟の調査団。

中国(中華民国)は、日本のこの行動を、侵略だとして、国際連盟(こくさい れんめい)に うったえました。

そして、国際連盟は、調査団を送って調べた結果、「満州国」の建国を認めないと決議しました。

この決議に、ただ1国だけ反対した日本は、国際連盟に反発して、国際連盟を脱退しました。


中国との戦争中のできごと
おもなできごと
1931  満州事変
1932  満州国が成立
同じ年に、日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(五・一五事件)が起きる
1933  国際連盟、満州国の独立を認めないと決議する
日本は国際連盟を脱退する
1934  日本、満州国に皇帝・溥儀(ふぎ)を就任させる
1936  日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(二・二六事件)が起きる
1937  日中戦争が始まる
日本軍はペキンやナンキンなどを占領する
1941  日本が、アメリカ・イギリスなどを相手に戦争(太平洋戦争)を始める
1944  空襲(くうしゅう)がはげしくなり、集団疎開(しゅうだん そかい)が始まる
1945  広島と長崎に原爆が投下される
日本が敗戦(はいせん)をみとめ、戦争が終わる



  • 五・一五事件(ご・いちご じけん)
五・一五事件を報じる新聞

このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。しかし1932年の5月15日、日本軍の一部の軍人らが総理官邸に乱入して、総理たちを殺す事件を起こした。この一部の軍人が総理を殺害した殺人事件を 五・一五事件(ご・いちご じけん) と言う。

(※ 「五・一五事件」の名称は検定教科書の範囲内。日本文教出版の教科書に記載あり。)
(※ 範囲外 :)犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。
だが、当時の一般の人々は、ひどい不景気のため、政治家に絶望していた。なので、犯行におよんだ軍人を、一般の人々は支持してしまう。だから、多くの人々は、軍人の刑を軽くするべきだという意見だった。このため、政府は世間の声におされて、犯人の軍人への刑罰を軽くしてしまった。(このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになる。)


また、このため日本は、まるで軍人が政治を支配しているかのような状況になってしまった。

  • 二・二六事件(ににろく じけん)

1936年の2月26日にも、軍人が大臣たちを殺害する事件が起きた。


日中戦争[編集]

日中戦争の開戦[編集]

1937年7月7日と8日に、ペキン(北京)の近くで、訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった。

(※ 範囲外: )これを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃した。
はたして誰が発砲したかについては、いまだに不明(2014年の今でも。)である。
じつは現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦(ていせん)の約束が結ばれた。
だが、25日にも、中国軍が日本軍を攻撃する事件が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する事件起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。
この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。


このようにして、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まった。


※ なぜ北京の近くに日本軍がいたかというと、「義和団の乱」という事後の処理について1901年に世界各国と中国が結んだ議定書(ぎていしょ)にもとづいて、日本軍などの外国軍が中国に駐留(ちゅうりゅう)していたからである。(べつに、「日本軍が侵略したから北京にいた」ってワケではない。)


シャンハイ戦[編集]

シャンハイ市街に攻めこむ(せめこむ)日本軍

べつの事件があって、その事件では、1937年にシャンハイに滞在していた日本の軍人が、殺害された。

日本軍は、これを中国軍のしわざだと考え、日本軍は1937年8月に中国のシャンハイ(上海)を占領した。

(※ 検定教科書にも、シャンハイが占領地だという図表を載せている。ただし、経緯は書いてない。)

この戦いは、シャンハイの市街地で行われたので、多くの住民も、巻きぞえ(まきぞえ)になった。

シャンハイの住宅も、砲撃などで、破壊された。

ナンキン戦[編集]

1940年の日中戦争での戦場。 (赤いところが日本が占領した場所。)

シャンハイ戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都のナンキン(南京)を攻撃(こうげき)した。

(※ おそらく日本は、首都の南京をおとせば中華民国が降伏(こうふく)するだろう、と考えたのだろう。)

そして、日本軍が、ナンキンを防衛していた中国軍をたおし、日本軍がナンキンを占領する。

このとき、中国は、日本軍が、中国の子供や女性などの、軍人でない中国人をたくさん殺したと、国際社会に発表した。

この、日本軍が、捕虜や軍人でない中国人をたくさん殺したとされる事件のことを、ナンキン事件(南京事件)という。

この情報は、欧米などで新聞にもなったが、日本では隠された。日本人が、ナンキン事件のことをしったのは、終戦後である。

なお、ナンキン事件では、中国の発表によると、日本軍は捕虜(ほりょ)も殺した、と言われています。(降伏した兵士のことを捕虜(ほりょ)といいます。この場合、降伏した中国兵が殺された、とのことです。)


この日中戦争では、中国は、アメリカやイギリスからの物資(ぶっし)の援助(えんじょ)を受けて、ねばりづよく抵抗しました。

※ 日本がイギリスと日露戦争のころから結んでた日英同盟については、日中戦争のころには、その後の国際社会でのさまざまな変化によって、日英同盟は、しだいに消滅(しぜん しょうめつ)した。

※ この段階(ナンキン戦)では、まだ、アメリカと日本との戦争は起きていない。イギリスと日本も、まだ戦争をしてない。

アメリカやイギリスによる中国への援助は、物資や資金などの援助にとどまり、まだ、戦闘には参加していない。

広がる戦場[編集]

日中戦争は長引きました。

1939年にヨーロッパで、ドイツがポーランドに攻めこんで、第二次世界大戦が始まりました。

ポーランドの西半分は占領されてしまいましたが、イギリスとフランスが、ドイツを相手に戦いました。(このころソビエト連邦は、ポーランドの東半分を占領した。なお1941年からソ連はドイツを相手に戦います。)

このころ日本は、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいました。

その後、ドイツ軍がフランスに攻めこみ、フランス軍は負けてしまいました。ドイツ軍はフランスを占領しました。

フランスがドイツに降伏(こうふく)したので、ドイツの同盟国の日本は、東南アジアでフランスの植民地にされていたベトナムを占領しました。

日本にとっても、中国を支援してる(と思われる)フランスの拠点を占領できるし、東南アジアの資源も手に入るので、ベトナム占領には好都合な面もありました。

しかし、日本がベトナムを占領すると、アメリカは、日本に対して、(アメリカからの)石油や鉄の輸出を禁止しました。

イギリスも、アメリカの動きと同じように、日本との貿易を制限しました。


これによって、日本とアメリカとの対立は、ますます深まりました。

日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)
※ 英語で読みづらいので、読者はイメージをつかんだけにしてください。
真珠湾攻撃で燃え上がるアメリカ軍の軍艦。


その直後のころ、日本は、アメリカとの戦争をおそれ、アメリカとの戦争にならないように交渉しますが、アメリカから厳しい(きびしい)条件を出され、満州事変よりも前の状態に日本の海外領土をもどすようにと、日本は要求されました。


日本は、アメリカの要求を飲まなかったので、日米の交渉はまとまりませんでした。


そして、石油が無いと、軍艦も兵器も動かせませんので、日本が危機におちいることを恐れた日本政府は、1941年12月にハワイの真珠湾(しんじゅわん)にあるアメリカ軍基地を攻撃し、同じ時期に日本軍は東南アジアのイギリス領マレー半島も攻撃して、日本とアメリカ・イギリスとの戦争が始まりました。

こうして戦場は、中国だけでなく、東南アジアや太平洋にも広がっていきました。

なお、これらの周辺地域での戦争のことを、太平洋戦争(たいへいようせんそう)といいます。

※ 最近では「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ提案もされているし、そういう検定教科書(日本文教出版)もある。しかし、「太平洋戦争」という表記も、ひきつづき光村図書などの検定教科書で使われている。


日本軍は、太平洋戦争のはじめごろは、東南アジア各地をどんどんと占領して、勢力を広げていきました。

(※ 範囲外 :) 東南アジアで、日本軍が戦った相手は、イギリス軍やオランダ軍などです。インドネシア軍やミャンマー軍などとは、日本は戦ってません。当時、東南アジアは、ヨーロッパ諸国の植民地でした。)
(※ 範囲外 :) ハッキリというと、日本が東南アジアを占領するよりも何百年か前から、ヨーロッパ諸国が、すでに東南アジアを侵略していたのである。

しかし、日本軍による東南アジアの占領地では、現地の住民を強制的に重労働させたりしたので、いくつかの地域では日本に対する反対運動も高まりました。

また、日本軍は物資の補給(ほきゅう)に苦労したので、占領した場所で、食料や資源などを取り立てました。


初めのうちは勝利していた日本軍も、アメリカが体勢をたてなおして反撃に出てくると、日本軍は各地で負けはじめました。

そして、多数の日本兵が死にました。また、日本軍は補給(ほきゅう)にますます苦労するようになり、戦うまえに餓死(がし)や病死などで死んでしまう日本兵も、東南アジアの各地で出てきました。

日本の新聞やラジオなどでは、日本が負けていることは、かくされました。


戦時中の暮らし[編集]

朝鮮や台湾などの人々[編集]

第二次世界大戦が始まって、朝鮮では、朝鮮の人々の名前を、日本風の名前に改める政策が行われました。この政策を創始改名(そうし かいめい)といいます。

また、日本国内で、徴兵(ちょうへい)のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者が足りなくなったので、朝鮮半島や台湾から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで働かせました。きびしい労働だったと言われています。

朝鮮や台湾でも徴兵を行い、朝鮮や台湾の人々は、日本軍の兵士として、戦場に送られました。

また、日本風の神社が、朝鮮や台湾にかぎらず、東南アジアや太平洋の島々の占領地などでも、各地でつくられました。


日本列島[編集]

中国との戦争中のできごと
おもなできごと
1938年
昭和13年
 国家総動員法ができる
 ガソリンの使用が制限される
1939年  (第二次世界大戦が始まる)
 ネオンサインやパーマネントが禁止
1940年  さとう・塩・しょうゆ・マッチなどが切符制になる
 国民服が制定される
1941年  米が配給制になる
1942年  衣類が切符制になる
1944年  学童疎開(がくどう そかい)が始まる

戦争が長びき、日本では物資が不足したので、日本では米(こめ)や日用品などは配給制(はいきゅうせい)になった。

さとう(砂糖)など、その他の食料品も、配給制または切符制(きっぷせい)になりました。

切符制というのは、切符をもってないと、その物を買えない仕組みです。買うたびに、切符は減っていきます。


鉄(てつ)などの金属も、使用が制限されました。

このため、アイロンは陶器(とうき)製になりました。また、ランドセルは、竹製になりました。

このように、物(もの)は、使用できる量が、制限されました。

そして、配給される量も、しだいに減っていき、生活は苦しくなっていきました。


日本では、「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とかの標語(ひょうご)が言われました。



一定の年齢に達した男は、軍隊に兵士としてとられたり、工場などで働かされました。

学徒出陣(1943年(昭和18年)10月21日)

大学生(男子)も、「学徒出陣」といって、兵士にとられました。

女学生や女性も、工場や農場などで働いたり、しました。

中学生も、工場や農場などで、働かされました。


小学校でも、軍事教練(ぐんじきょうれん)が行われるようになりました。


国民服。

衣類などが不足してきたことや、ぜいたくを取りしまる意味もあり、男子の服装として国民服が定められるなど、服装にたいする制限も、きびしくなりました。

日本の敗戦へ[編集]

空襲(くうしゅう)と疎開(そかい)[編集]

1943年ごろからアメリカ軍は、太平洋で日本の海軍をどんどんと倒し(たおし)、アメリカ軍は太平洋の島々を占領していきました。 そして、1944年から、アメリカ軍による空襲(くうしゅう)が、はげしくなりました。

空襲では、とくに、東京や大阪などの都市が攻撃対象にされることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、親元からはなれて地方へと移り住む(うつりすむ)、集団疎開(しゅうだん そかい)を させられました。

※ 子供たちの集団疎開のことを「学童疎開」(がくどうそかい)とも言います。

東京大空襲で焼け野原となった東京。

そして1945年3月10日、東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう、英:Bombing of Tokyo)では、数万人もの人が なくなりました。

その後も、全国各地に空襲はおこなわれ、日本全国で20万人ものひとが空襲で なくなりました。(30万人がなくなった、ともいわれる。)


沖縄(おきなわ)[編集]

1945年4月には、アメリカ軍が沖縄(おきなわ)島に上陸し、3か月ちかくもの地上戦になり、住民もまきこまえ、多くの人が なくなりました。

沖縄では日本軍は、アメリカによる占領を1日でも遅らせるために、ガマとよばれる自然にできた洞窟にこもって、戦闘をつづけました。

沖縄の学生は、男子学生は、中学生でも、日本軍として、いっしょに戦いました。

女子学生は、看護師(かんごし)として、負傷兵の看護(かんご)などの仕事に当たりました。「ひめゆり部隊」などの女学生による看護部隊がありました。

この沖縄での戦闘により、沖縄県民の10万人ちかくが、なくなりました。なお、それまでの沖縄県民の人口は約60万人です。


そして、沖縄はアメリカ軍によって占領されました。

原爆投下と日本の敗戦[編集]

ヨーロッパでは、日本と同盟を結んでいたドイツとイタリアが、アメリカやイギリスなどの連合国に反撃されました。そして、イタリアは1943年に連合国に降伏(こうふく)し、ドイツは1945年5月に連合国に降伏しました。

こうして、ヨーロッパでの戦争は終わりました。

長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲
1945年8月9日
原爆投下後の広島のようす。


そして1945年7月、連合国は、日本に降伏するように宣言を出しました。

しかし、日本は、降伏の決断をできず、そのまま戦争中の状態をつづけました。

すると、1945年の8月6日に、アメリカが、広島に原子爆弾(げんし ばくだん)を おとした。広島の街は一瞬で焼きつくされて破壊され、広島で10万人をこえる一般市民がなくなりました。また8月9日には長崎に原子爆弾がおとされ、8万人ほどがなくなりました。

(広島・長崎をあわせて、20万人ほどの人がなくなった、と考えられています。30万人という説もある。)

※ 原子爆弾のことを略して「原爆」(げんばく)とも言う。


8月8日、ソビエトは日ソ中立条約をやぶって満州や樺太(からふと)に攻めこみました。

こうした中、日本は降伏の決断をし、アメリカ・イギリス・ソビエトの代表が決めた日本の降伏の条件である ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英語: The Potsdam Declaration) を受け入れ、1945年の8月14日に日本は降伏した。

そして1945年(昭和20年)の8月15日には、ラジオ放送で昭和天皇が国民に、日本の降伏を発表した。

こうして日中戦争や太平洋戦闘をふくむ第二次世界大戦は、おわった。


  • 朝鮮や台湾

日本の敗戦により、朝鮮や台湾の人々は、日本の支配から解放されたので、よろこんだ、と言われています。

戦争が終わったけれど・・・[編集]

  • 満州国の消滅

満洲は、いったんソ連軍の占領下に入り、そのあと中華民国に渡されました。

そして、国家としての「満州国」は、消滅しました。

満州の地に取り残された日本人は、戦争がおわっても、日本にもどれなかった人もいました。(中国残留(ちゅうごく ざんりゅう) )

中国大陸で、なんらかの事情で肉親と分かれることになってしまった子供は、中国人の大人に引き取られて育てられました。(中国残留孤児(ちゅうごく ざんりゅう こじ))


  • シベリア抑留(よくりゅう)問題

ソ連の占領地では、シベリアに連れていかれた日本人もいました。


  • 各国の第2次世界大戦での犠牲者(ぎせいしゃ)
(※ 数字は覚えなくもいいだろう。)
中国 - 約1000万人
朝鮮 - 約20万人
ソ連 - 約2000万人
日本 - 約310万人、そのうち軍人が約230万人、民間人が約80万人、

その他、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、東南アジアなどで犠牲者が多数

第2次世界大戦の全体の死者は6000万人にのぼると言われています。

  • 原爆の後遺症(こういしょう)

広島や長崎の地域では、なんとか原爆投下生きのびても、原爆の放射線(ほうしゃせん)による被害によって、後遺症に苦しむ人が、でてきました。

原爆の後遺症によって死ぬ人も、たくさん出てきました。

アメリカ占領下の日本[編集]

あたらしい国づくり[編集]

1945年8月に日本が降伏し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に占領されました。

そして連合国軍は、日本政府に民主化のための指令を出し、日本政府は民主化のための改革を次々と実行していきます。

また、日本軍は解散させられました。


1945年の終戦によって憲法をつくり変えることが決まったのですが、内容を考えるのに時間が掛かるので、すぐには作れませんでした。

憲法の改正よりも先に、選挙法の改正が行われました。

民主化のための改革では、選挙制度の改革や、農業の制度の改革がありました。

1945年の選挙制度の改革では、女性にも選挙権が与えられました。また、選挙に投票できる年齢が男女とも20歳以上になりました。


また農業の改革では、それまで大きな農地をもっていて他人を働かせてた地主からは、政府はいったん農地をとりあげ、それらを実際にその農地を耕していた人たちに安い値段で与えました。(農地改革)


そして、1946年4月に、衆議院選挙が行われ、女性も選挙に投票と立候補ができるようになりました。そして、数十人ほどの女性議員が当選しました。


そして1946年(昭和21年)11月には日本国憲法(にほんこく けんぽう)が制定され、翌年の5月3日に交付された。日本国憲法では、言論の自由が保障され、また、男女平等が原則になりました。

いろいろな改革[編集]

また、戦時中には政党をつくることが禁止・制限されていましたが、戦後になって、ふたたび、政治家は政党をつくれるようになりました。

学校での教育内容も、平和や民主主義を大切にする内容にされました。でも、教科書をあたらしく作るのが間に合わなかったので、戦前の教科書のうちの軍国的な記述を すみ で、黒く塗り(ぬり)隠した(かくした)教科書を、しばらくは使いました。(「すみぬり教科書」)


また、民主化とはあまり関係のないことですが、学校での教育期間の制度が、小学校を6年間、中学校を3年間、高校を3年間、など現在に近い制度になりました。

戦後の義務教育は、小学校6年間と中学校3年間の合計9年間です。(なお、戦前の義務教育は6年間でした。)


また、それまで学校では男女別々の教室で学んでいましたが、戦後は、男女とも同じ教室で学ぶようになりました。

また、民主化とは あまり関係ないですが、学校給食の制度が始まりました。


そのほか、いろいろな改革により、経済(けいざい)では、労働者は労働組合を結成できるようになりました。

このほか、それまでの大企業が、独占的であるとみなされ、いくつかの複数の企業として分割(ぶんかつ)されました。


戦後のくらし[編集]

  • 買い物

当時、食料は国から配られていましたが、量が足りず、ほとんどの人は、食べものに困っていました。なので、都市の人は、鉄道にのって、遠くの農家などに、食べ物を買いにいきました。

また、違法な「やみ市」(やみいち)が出来て、公定価格の数十倍もの値段で食料や日用品などを売っていましたが、それでも買う人がたくさん、いました。

やけあと などの野原で、野菜をつくる人などもいました。


  • 海外からの引き上げ

日本兵として外国に行ってた人や、戦時中に仕事などとして外国に行ってた人たちが、しだいに日本に引き上げてきました。


日本国憲法[編集]

当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での日本国憲法の三原則を表した挿し絵。
当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での戦争放棄の原則を表した挿し絵。

この新憲法である日本国憲法では、 

国民が主権者とされ (国民主権(こくみんしゅけん) )
軍隊をもたずに永久に戦争をしないこと (戦争放棄(せんそう ほうき) )、
すべての日本国民は人間としての基本的な権利をもっている (基本的人権(きほんてきじんけん)の尊重(そんちょう))、 

の3つの原則が決められました。

さいほどの3つの原則のことを、「日本国憲法の三大原則」といいます。

なお天皇については、天皇は日本のまとまりの象徴(しょうちょう)とされました。

このほか、男女平等になったので、家庭の制度では、父親と長男を特別に尊重する制度が、なくなりました。

都道府県の知事も、(日本人の)住民が直接に選挙で選ぶ制度になりました。

戦後の学校[編集]

  • 青空教室

空襲などで、学校の校舎(こうしゃ)が焼けてしまったので、終戦後には、授業を校庭などで行うことが多かった。このような、戦後の、外での授業のことを青空教室(あおぞら きょうしつ)という。

  • すみぬり教科書

戦後になり、戦前の教科書の記述の一部は軍国主義的であるとして、戦後の教育には不適切だと考えられたので、新しい教科書ができるまでの間、それまでの教科書の記述の一部に、墨ぬりが行われた。これを すみぬり教科書(すみぬりきょうかしょ) という。


戦後の国際社会[編集]

第二次世界大戦後、戦前まで国際社会の平和をめざすための話し合いの場所であった国際連盟(こくさいれんめい)が、戦後は、戦時中の連合国を中心とする国際連合(こくさいれんごう)として作りかえられました。(日本では、国際連合のことを「国連」(こくれん)と略すことも多い。)

第二次大戦後、植民地とされていたアジアやアフリカで、多くの国が独立しました。

(※ 範囲外 : )アフリカは、戦前・戦時中までは、ヨーロッパの国々の植民地でした。東南アジアのほとんどは、戦時中に日本が占領するまでは、ヨーロッパの国々の植民地でした。
日本の植民地は、朝鮮半島と、満州(中国の東北部)と、台湾、です。解釈によっては、戦時中の東南アジアや、一時的に占領した太平洋のいくつかの島も、植民地といえるかもしれません。
戦時中、日本はアフリカを占領してない。そもそも、戦時中の日本軍の勢力は、アジア方面では、せいぜいインドあたりの地域までしか、日本軍は進出できてない。

第二次大戦後は、国際社会のありかた などをめぐって、ソビエト連邦(そびえとれんぽう)とアメリカが、激しく(はげしく)対立しました。

そして世界各国は、アメリカを中心とする陣営(じんえい)と、ソ連を中心とする陣営(じんえい)とに、わかれました。


第二次世界大戦後、日本の支配から独立していた朝鮮では、朝鮮半島の南北で、北はソビエト連邦が占領し、南はアメリカが占領しました。

朝鮮半島の北には「朝鮮民主主義人民共和国」(いわゆる、北朝鮮)という国がつくられ、南には大韓民国(いわゆる、 韓国)という国がつくられ、こうして朝鮮半島では2つの国家が出きました。

そして朝鮮半島では1950年に、北朝鮮と韓国とのあいだで、朝鮮戦争(ちょうせん せんそう、英:Korean War) が起きました。

この戦争のとき、アメリカ軍を主力とする国連軍(こくれんぐん)が、韓国をたすけて、北朝鮮軍と戦闘しました。

ソ連は、北朝鮮を、援助(えんじょ)しました。

中国は、北朝鮮をたすけて、中国は「義勇軍」(ぎゆうぐん)という形式で、正体は中国軍である部隊を送って、中国軍と国連軍とが戦闘した。


警察予備隊
警察予備隊でのバズーカの訓練

朝鮮戦争により、アメリカ軍が苦しくなると、アメリカは、日本を自分たちの陣営にくわえようとしたので、日本の占領政策を変えました。

アメリカは日本に軍隊をつくらせようとしましたが、日本国憲法のしばりがあって軍隊をつくれないので、かわりに「警察予備隊」(けいさつ よびたい)という組織を日本につくらせました。

警察予備隊の装備は、そのころの時代の軍隊の歩兵に近い銃火器を装備したり、また、警察予備隊の訓練はアメリカ軍の指導のもとにおこなわれたりなど、どう見ても軍隊としか思えない「警察予備隊」でした。

この警察予備隊は、のちの自衛隊のもとになった組織です。

サンフランシスコ平和条約での調印


朝鮮戦争によるアメリカの苦戦によって、アメリカは日本を西側の陣営に加えようと考えました。そのためアメリカは、日本にあるアメリカ軍基地の存続を条件として、日本の独立を早めようとしました。

いっぽう、1951年(昭和26年)、国際社会では、日本の国際社会への復帰についての講和会議が、アメリカのサンフランシスコで開かれて、日本も講和会議に出席し、日本は、アメリカ・イギリスなどの48か国と平和条約(へいわじょうやく)を結びました。


 平和条約の主な内容
・日本は、朝鮮(ちょうせん)の独立を認める。
・台湾(たいわん)、千島列島(ちしまれっとう)、樺太(からふと)の南半分を、放棄する。
・沖縄(おきなわ)、奄美諸島(あまみしょとう)、小笠原諸島(おがさわらしょとう)については、アメリカが治めることに同意する。
(※ wikibooksでは小学生むけに、条約の一部をやさしく書きかえています。)

( 中国(中華民国・中華人民共和国)は、この会議にまねかれませんでした。なので、1951年では、まだ、日本と中国とのあいだの国交は回復していません。)

また、サンフランシスコでの平和条約といっしょに、日本国内のアメリカ軍基地に、ひきつづきアメリカ軍がとどまるための条約である 日米安全保障条約(にちべい あんぜん ほしょう じょうやく) が日本とアメリカとのあいだで結ばれました。(略して「安保」(あんぽ)とか、「安保条約」(あんぽじょうやく)とか、「日米安保」(にちべいあんぽ)などと言う場合もあります。)


なお、朝鮮戦争のころ、経済的には、日本はアメリカ軍から大量の物資の注文をうけたので、日本は好景気になり、日本の産業が復活するきっかけになった。


そして翌年の1952年には、日本は独立を回復し、主権を回復した。

しかし沖縄は、ひきつづきアメリカの統治下におかれることになった。

なお、ソ連とは、サンフランシスコの平和条約では、講和していない。ソ連は日本の北方領土の国後島などを不法に占拠しているので、講和を見送ったのです。(※ ソ連と日本の国交回復は、1956年に行われます。)


  • 国際連合への日本の加盟

日本は、独立後も、しばらくは国際連合に加盟できなかった。なぜなら、ソ連が日本の加盟に反対していたからである。

※ 小学校の歴史の範囲外ですが、国際連合に加盟したい場合の決まり事として、アメリカ・ソ連・中華人民共和国・イギリス・フランスの5つの国のうち、どれか1か国からでも、加盟を反対されると、加盟できないという決まりがあるのです。
たぶん、小学校6年社会科の後半で習う「公民」(こうみん)の分野で、国際連合の決まりごとについて、習います。

しかし。1956年に、日本とソ連との国交が回復したこともあり、ソ連も日本の国連加盟に反対をしなくなり、1956年に日本は国際連合の加入を認められた。

日本では、この1956年の国連加盟をもって「国際社会へと復帰した。」という意見が多い。

(※ ちなみに、スイスは2002年まで国際連合には加盟していない。)

戦後の復興[編集]

第二次世界大戦のあと、日本の産業は、工業を中心に成長してきた。

朝鮮戦争による特需による好景気もあり、日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまで、もどった。

戦後の日本経済の発展[編集]

1950年代のなかごろから日本では、鉄鋼や自動車などの重化学工業が発達していった。

また、エネルギー源が石炭から石油に変わった。

その他、プラスチック製品などの石油化学製品もつくられるようになっていった。


このため、石油化学工場も、瀬戸内海の海岸部などに、ふえていった。

1960年代には、白黒テレビや電気式洗濯機、電気式の冷蔵庫などの製品も普及していった。(当時は、この3つの製品が「三種の神器」と呼ばれた。) しかも、それらの工業製品を、日本国内で生産できた。

また、新幹線(しんかんせん)や高速道路も建設された。

1960年代になると、クーラーやカラーテレビも、普及してきました。

また、自動車も、一般の家庭にも、1960年代の後半ごろから普及してきました。

東京オリンピック。10,000メートルで優勝したミルズ(アメリカ)
  • 東京オリンピックと万国博覧会

アジアで最初のオリンピック(Olympic)が、1964年に東京で開かれた。(東京オリンピック)

この東京オリンピックのころ、東海道新幹線(とうかいどう しんかんせん)が開通した。

  • 農村から都市への移住

地方の農村で生まれ育った若者が、仕事などをもとめて、都市部に移住するようになりました。

地方からやってきた若者は、男の若者なら、都会の工場などで働くことが、多かったです。

当時は、中学校か高校を卒業したら、すぐに就職して働くのが普通でした。


やがて、東京や大坂の都市部は、人が多すぎて住む場所が足りなくなり、周辺の地域へも、農村から来た人たちが移住するようになりました。


  • 公害や自然破壊

いっぽう、この1950〜60年代のころから、日本では、公害が、めだってきた。

都市部を中心として、大気や水がよごれてきて、被害をうけた人もでてきた。

三重県の四日市(よっかいち)市では、工場のけむりが多すぎて、すでに1965年には、ぜんそく などの被害が出てきた。

また、各地で、自然破壊も、された。


このため、環境の改善や自然保護などを求める運動が、起こるようになった。

外交[編集]

  • 朝鮮半島

日本は韓国と、1965年に国交を回復しました。

北朝鮮とは、まだ国交はありません。

2002年に日本と北朝鮮の首脳どうしで会議(「日朝首脳会談」)をしましたが、国交回復はしてません。

なお、この会議で、北朝鮮の首脳は、北朝鮮が日本人を拉致(らち)したことを公式に認めました。

拉致(らち)とは、むりやり連れていってしまう事です。


  • アメリカ

アメリカとは、1972年に沖縄は日本に返還されました。そして沖縄は、日本の沖縄県になりました。沖縄には今も、アメリカ軍基地があります。


  • ロシア

ロシアとは、ソ連時代の1956年に国交を回復しました。

しかし、北方領土の問題は、まだ残っています。

北方領土問題の場所は、歯舞(はぼまい)島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島です。


  • 中国

1972年に、日本と中国との国交が正常化しました。

1978年には、日中平和友好条約を結びました。


おわり[編集]

下巻を読んでください(『小学校社会 6学年 下巻』)。